共生の先生

かねてより念願だった北海道旭川の斉藤牧場を見学するご縁をいただきました。台風の後の牧場は日差しが強く、牛たちが木蔭でゆったりと涼んでいる様子、またのびのびと草を食べる様子に懐かしさを感じ有り難い気持ちになりました。

ここ斉藤牧場は、世界でもまれな独特の飼育方法「蹄耕法」という牛が自ら牧草地を切り拓いていくという仕組みを実践されている牧場です。通常は重機を使い牧場をつくりますがここではほとんど牛に任せて場を見守り整えていきます。

山には牛だけではなく、様々な野生動物や虫たち、多様な植物たちが存在しながら牛もまたその中の循環の一つとして生活を一緒に営んでいます。牛舎の中で牛乳を搾取するためだけに用いられる牛ではなく、いっしょに生きる仲間として生活し牛乳を分けてもらうのではその根本の考え方が異なります。これは自然農や自然養鶏でも感じましたが、人間の都合で生き物を単なる使用品の一つにしてしまうではそのもののいのちは喜ぶことはありません。

なぜ使用品になるのかは、結果だけを求めてプロセスを蔑ろにし効率優先、合理化優先、手間暇を悪かのように排除してきているうちにこのような結果主義になっていくのでしょう。現在、私たちが飲む牛乳は水よりも安くスーパーなどに提供されていますがその陰には、大量の飼料や牛の改造、もっと牛乳を出させるためにとあらゆる方法で牛に負担をかけているのがわかります。

何をもって「おいしい」というのか、そこには意味があります。舌先三寸を誤魔化した味付けの美味しいは脳だけ喜べばいいのでしょうが自然の理に適っている「おいしい」は、手間暇や素材、そのプロセスそのものを五感で美味しいと感じるのです。

斉藤牧場でいただいた搾りたての牛乳は、飲んでみるとすぐに見学した牧場の様子が感じられその美味しさに自然の恵みが入っていることを感じます。そう考えてみるとすべていただいている食べ物は、自然の中でいのちを輝かせ活き活きと伸び伸びと仕合わせであればあるほどにその生き物から発せられる生命力もまた同じようにいのちが育っています。

私達が本当に食べているものは単に胃袋を満たすためのものではなく、いのちそのものを分けてもらっているのかもしれません。だからこそわけてもらっている仲間やパートナーである生き物たちを大切に見守りフォローしていくことでそのいのちを分け合っていきていくのです。

かつての共生には常に分け合うという思いやりがありましたが、今は人間世、人間界のみのために地球が使われてきているように思います。「いのち」は決して人間のためだけにあるものではないのだからもっと経済効率だけに縛られないような生き方をみんなが決めてそういう生き方にお金を払うような時代にしていく必要があるように思います。

自然は共生の先生ですから自然に寄り添う仕組みを実践する先人たちから自分の生き方を見つめ見直し、未来の子ども達のためにも自然のいのちの本当の豊かさを遺し譲れるように自らも実践を積んでいきたいと思います。

神への祈り~カムイノミ~

昨日は、アイヌの祭りのカムイノミ(神への祈り)に参加してきました。あいにくの台風で拝見することができませんでしたが、その尊さと場の雰囲気を感じることができました。

この祭祀は、人々が暮らしていく上で大切なことを一週間をかけて準備して執り行われる儀礼でもあります。男性は家を守る神様としてのイナウという道具を木を削り準備していきます。女性は御酒造りをして捧げるものを用意していきます。今回は最終日のみの参加になりましたが、本来は一週間前から丁寧に真心を籠めて準備をすることが祭りそのものでもあり、御祭りとはこの神様や自然に対しての自分の心を澄ませていくための大切な期間であるのです。

アイヌではこの世にあるすべてのものは魂が宿っているとして「カムイ」(神様)であると定義しています。これは日本の神道にもある八百万の神々と同一のものです。いつも身近にはカムイが存在していて、そのカムイと相談しながら、信頼しながら、語り合い折り合いをつけながら生きてきたのです。

このカムイノミの儀式では、祭祀がまず「火のカムイ」に祈ります。アイヌにとっての火のカムイは、とても大切なカムイとされます。この火はぬくもりやあかりでいのちをあたためるだけでなく、日々の食事を手伝ってくれます。さらに人間の願い、訴えを聞いて、他のカムイへ伝えてくれると考えられているともいいます。人間の祈り言葉に足りないところがあればそれをうまく補ってくれるとも言われます。常日頃から火のカムイは私たち人間を支えてフォローしてくれている老父老母のような存在として崇め奉っているそうです。

私も囲炉裏や炭火を実践する中で、火の中の在る「ぬくもり」が心に伝承することを繋いでくれる役割を果たすような気がしていました。夜の暗闇の中に和蝋燭をつければ言葉が少なくても伝わることが感じられるのです。御互いの自然の感性に触れるためにも闇と明りをつなぐ「火のカムイ」の存在はとても大切なもののように思います。

今は電気ばかり電灯ばかりをつけていますが、いちどその電気電灯を消してみて時代を見直す必要を感じます。火の神様に見守られていることを忘れないことこそ自然と共に生きて来た先祖の真心を感じることではないかと私は思います。

最後にこのカムイノミでは祈り言葉として、人類の平和と自然への感謝、言い換えるのなら「地球にすまうあらゆるカムイ」に向けて祈りの「言葉=カムイ」が捧げられます。まるで八百万の神々に向けての自分も一体になったいのりのように私は感じます。

今回の祭りに参加してもっとも印象に遺ったのは、この祭りを主催しているアイヌの活動家、伝承者であるアシリ・レラさんの言葉です。

「アイヌは地球をカムイにしている。だから戦かう必要もなく争う必要もない。みんなそうやって仲良くしていけるといい」

何のために活動しているか、何のために伝承するのか、その真心を御縁をいただき深く感じました。

地球に生き残ってきた先住民の方々の思想は、時代の篩にかけられて永く生き遺った智慧の結晶です。この文明がたった数千年で終わったとしても、これらの先人たちが築き上げた文化は数億年の歴史をもっているかもしれません。私たちは今の文明が最先端だと視野を狭くしていますが今一度何がもっとも大切なことかを見直す必要がある様に思います。

人類が存続する鍵は、このようなもう数少ないが力強い生き方の中に遺っています。お祭りを深める最初の祭りがアイヌであったことに深く感謝しています。引き続き子ども達の未来のためにも祭りを通して大切なことを学び直し伝えていきたいと思います。

自然住

昨日はアイヌの古来からある住居「チセ」を見学する機会がありました。このチセは、北海道の厳しい冬を乗り越えるために編み出されたアイヌの伝統の智慧でもあります。かつての人間は自然の仕組みに精通していて、今のように全部人間のエネルギーだけで解決しようとは思っていませんでした。

現代は石油や電気などの燃料を消費して熱を出して暖めますが、かつては自然の仕組みを最大限活用して厳しい寒さを凌ぎ、高温多湿の夏を乗り切ったとも言えます。

この古民家の持つ不思議と魅力を少し整理してみます。

本来、私たちの住まいは生きていくための最低限を保障するものでした。それは言い換えるのなら、いのちのための最大限の環境を創るということです。

このチセは日本の古来の縄文時代の住居と同じように土間の上に木組みで組まれた建物にワラや笹を用いて断熱したシンプルなものです。その中心には囲炉裏があり、一年中火を熾し生活をしていました。

そこでの暮らしはとても合理的であり、囲炉裏の火を熾すことで夏は湿気を飛ばし室内を乾いた空間に換え、冬は床暖房のように蓄熱し室内を温かく維持する空間にします。

この仕組みの凄いのは、自然のサイクルに沿っていることです。夏は冬の寒さを土が貯めて半年間ほど土を冷やします。よく今の季節でも自宅の犬が土を掘って真夏の灼熱の暑さをしのいでいるのを見かけます。ためしにその掘った土に触れてみるとヒンヤリと冷たく天然の冷房が機能しているのが分かります。いくら表面が光で熱せられても土の方は逆転して冷たいのです。

そして今度は冬になると、地下深くは夏の間に蓄熱した熱がそのまま土に保持されています。クマや野生動物が土の奥深くで冬眠するのも、土の中の温度が暖かく過ごしやすいからです。いくら表面が凍って雪が降り積もろうが、地中深くは暖かいままの温度があります。

この自然の仕組みを先祖は家づくりに取り容れているとも言えます。そしてその調整役を担うのが「囲炉裏の火」の役目であったように思います。私たちは保存食をつくるにも燻製やカビを撃退するのも炭火や煙を用いて来ました。日々の食卓は、この囲炉裏の火で賄われてきました。年中この火を絶やすことがなかったからこそ、室内環境は快適に過ごせたとも言えます。

暮らしというものは、食べる寝る着るといった衣食住が中心に行われます。その中心には自然との共生があり、自然の仕組みを活かしたもので私たちは無駄なエネルギーや無理な活動をわざわざ使うことがありませんでした。

それが永い時間をかけて生き延びてきた智慧であり、自然と一体になって生きていけば安心して生きていけるという自然界の生き物たちの智慧を活かしているともいえます。

確かに今の時代は、裕福に物に溢れエネルギーも無尽蔵にあるようにみえます。しかしこれは一時的に燃料を掘り出したり、資源を食いつぶしているから豊かに見えるだけで資源がなくなればかつてなかったほどの悲惨な状態になっていきます。

以前、ある生き物で溢れた豊かな小さな島で、人間が木材は金になるからと競ってみんなが森の木を切って売り払ったらその島は生き物が絶滅し人間もまた最後に絶滅したという話を聴いたことがあります。

これと同じような未来を見据えているのか、かつての古来の先人たちは何を知っていて自然に寄り添ったか、その住まいや佇まいから私たちは大切なメッセージを受け取る必要があるように思います。

もしくは今の文明はたった数千年ですが、もっと以前、何億年も前には似たようなことが何回もあったのかもしれません。今の生き残りの先祖たちというのは、生き延びてきた先祖たちであることを改めて私たちは意識する必要があるように思います。

だからこそ畏敬の念をはらい、尊敬の念をもってその智慧を学び直す必要があるのです。子ども達のためにも、博物館化してしまう死んだ知識になるものではなく生々しく呼吸する智慧のままで歴史を伝承をしていきたいと思います。

土着の民

古来より文化には「土着」というものがあります。この土着とは、その土地で生まれたもの、その土の中から出て来たものという意味です。この土着というものは自然発生的に風土が顕現した存在のものです。そして土着の文化とは、その土地にずっと根づいた存在があったということです。

先住民や未開拓の土地には、土着というものがあります。長い年月、ずっと自然に任せて自然と暮らした人々の持つ風習も残っています。それを外からやってきた人たちが入ることでその土地は開拓されたとされそれまでの土着が消えていきます。

この土というものは、その土の固有の魂が残存します。土には根を掴む効果があり、根は土の掴む性質を知ることでその土地に根をはります。この土が掴むものは単なる根だけではなく、その土地の文化をも掴んでいるとも言えます。多様性というものは、この自然界の中にある土着のことでありその土が化けた存在がどのように折り合い折り重なることでどのような文化が出来上がったかということにもなります。

日本という国はそういう意味では土地に多様性があります。つまりこの多様な姿そのものは自然があらゆる顔を持っていてその顔に合わせて土地が出ているとも言えます。そのバラエティの数々こそが日本の土着の現れであり、土着こそが多様であることを証明しているとも言えるのです。

日本の文化というのは決して一つではなく、その土着の文化の数々の集積によって仕上がっています。それが為し得たのは、それぞれの違いを認めるといった思想が根底にあったからです。

そしてこれこそが日本の土着の文化ではないかと私は思います。

自然すべてを八百万の神々とし畏敬の念をもって精霊などと話をしてきた民族、まさにその生き方の中に文化もいきづいています。日本らしさは、全国あちこちを旅する中で感じる土着の民の暮らしの魅力に感じます。

今日から北海道ですが、二風谷の場を感じて土着の魅力を味わいたいと思います。

自分の寿命よりも長い存在

古くなったものを新しくするのに、一度かつての古民家をその時代のものに戻しています。そもそもこの家はどのようなものだったのか、その時代はどのような道具に囲まれていたのかを知ることは原点を確認するのに必要です。

人は原点回帰をしていく中で、本質を学び直してそのものの真価を確認することが出来ます。歴史とは単に過ぎ去った過去ではなく、今を知るうえで重要な「つながり」を感じるものです。

100年以上の古いものを集めて磨き直して古民家に置いてみると御互いが関係し合うことで空間が新たに活かされていきます。近代化して大量生産されたものではなく、職人が一つ一つ目的にあわせて自然物を活かして作られたものは作り手や私たちの寿命よりもずっと長く用いられていきます。

例えば、江戸時代の骨董品であったとしても丁寧に磨き直し正しいところに配置し直してみるとそれが如何にシンプルに機能しているかわかります。つまりいつまでも主人を換えてはそのものは甦生し続けるのです。

歴史というものやつながりというものが切れてしまうと人間は自分の寿命の範囲でしか物事を判断しなくなっていきます。しかし実際に自分よりも寿命の長いものに囲まれていきていると如何にいのちが連綿と繋がって紡がれて今の自分が存在しているかが自覚できます。

自分の寿命よりも長いものに包まれているからこそ、もったくなく感じられそのもののいのちはまだまだ大切に活かせばずっと先の先祖からずっと後の子孫まで私の代わりになっていのちのつながりを見届けてくださっているという安心感を感じるのです。

昔の祖父母がもったいないと常に言ってものを大切にしたのは、これらの寿命よりも長く生きている存在をいつも身近に感じるような場の中に暮らしがあったからなのでしょう。だからものを粗末にしなかったのです。

そう考えてみれば、地球や太陽をはじめこのすべての身の回りにある生きとし生けるもの、またそれは無機物であろうが風であろうが波であろうが自分よりもずっと永く遠くから存在して私を見守ってくださっているものです。

そういうものを感じる感性をいかに磨いていくかが、人類がこの先、寿命を延ばし永くこの地上で生きていくための智慧になっていくように私は思います。今一度、温故知新の大切さを学び直し子ども達に「自分の寿命よりも長い存在」を身近に感じられるような場を用意していきたいと思います。

左官と土

昨日、伝統文化財なども修理できる有名な左官の親方と聴福庵の蔵の修理の件で打ち合わせをする機会がありました。古来より、日本家屋は木と紙と土など自然物を調和させこの日本の風土に適ったものを使ってきました。

特に土については高温多湿のこの日本の風土では調湿効果が高く、夏場はとても重宝します。いよいよ土を使った古民家の再生に入りますが、新たな物語が増えてくる予感にこれをどのように子どもに伝承していくかを楽しみにしています。

土壁というものは、土を壁に塗っていき独特の風情を醸し出すものです。昔の人は、季節の廻りにあわせて農繁期を終えてすぐに藁をつかい土と混ぜ発酵したもので土壁の補修を行い乾燥させて翌年にまた補正するとうように家の手入れを怠らずに大切に利用してきました。

この土というものは、空気のように当たり前すぎて気付かなくなっていますが本来私たちのカラダやいのちはすべて土から生まれて土に帰る理の中にあるものです。つまり土は万物生命の源であり、土がある御蔭でわたしたちは生きていくことができています。生き物は土から遠ざかるほどに心身が健康でいられなくなるとも言います。私たちのカラダは言い換えれば土が化けたものです。これは植物でも同じですが、土に種を蒔けばカタチになりますから土が化けているのです。その土を通して私たちがいのちに活力を与えているのは何か、それが地球の生命とつながる場所とも言えます。土から離れて生きていけるいのちはこの世には存在しないのです。

最近では西洋からの歪んだ価値観が入ってきては土を汚いと勘違いしている人が増えてきています。これこそ土に触れないことによる大弊害であり、自然農を実践すればすぐにわかりますが土の持ついのちの循環と純化、そして浄化作用というのは自然界では最上のものです。

この土を使った土壁塗りというものは、まさに日本文化の結晶であり土を何度も何度も塗りあげていくなかで私たちはその大切な日本の精神を学び直すことができるように思います。

引き続き日本の伝統的な職人の智慧に習い、暮らしの復古創新を学び直していきたいと思います。

心に寄り添う

昨日、ある方の理念取材をするなかで「心に寄り添う」ということについて話をお聴きする機会がありました。これは昔は当たり前だったかもしれませんが、今ではなくてはならないとても大切なことであることを感じます。

この心に寄り添うということが一体何か、それを少し深めてみたいと思います。

他人の気持ちが分かる人という人がいます。それは他人を単に頭で理解するのではなく、その人の思いやりやその人の心に共感し、その人がどんな気持ちでいるのかを心で理解していくことが出来る人のことです。

この心で理解するというのは、自分の中にある共感力が必要です。そしてこの共感力は単に知識で得られるものではなく、心の経験と体験の集積によって次第に理解が深まっていくものです。

齢を経ていけば、昔祖父母にしていただいたことや両親にしていただいたこと、周りの方々の見守りや先輩、先人からの御恩を感じて次第に心が育ち、他人の気持ちが分かる人に成るからです。

この他人の気持ちがわかるようになるということは、他人の心に寄り添うことができるようになってきたともいえます。

例えば、今では心で思っていなくても頭でこうすればいいのだろうと常識的に対応したりする人も増えています。子どもに対しても子どもの気持ちを心で理解しようとするのではなく、頭で思い込んで対応しても子どもは心が充たされるわけではありません。

これは動植物も同じで、すべてのいのちには心があり、その心に寄り添うことではじめて対話が成り立つからです。これは無機物のものであったとしても、使われる側の立場になって心を寄せながら使っていけばそのものと心が通じ合い満たされています。

共感というものは、人類をはじめすべての生き物たちがいのちのままに生きていくために必要な大切な能力です。これは「思いやり」のことです。人は心を寄せていく実践をすることで思いやりが育ちます。思いやりが育つ人は、次第に他人の気持ちが分かるようになってきます。自分がどんなに他人の気持ちが分からないと悩んでみても、もしも相手が自分だったらと自分の体験が増えれば増えるほどにその苦しみや歓びを分かち合うことが出来るようになります。

人は思いやりがあるから信じ合うことができ、思いやりがあるからいのちを感じることが出来ます。いのちと接している自覚をどれだけ大切にするかというのは、他人の気持ちが分かる人になることにおいては何よりも重要なことです。

昨日は「いのちに関わる大切な仕事」をしているのだから「子どもの心に寄り添う」と仰るその言葉に大切なことを学び直した気がします。どんなこともいのちに関わるからこそ思いやりの心を育てて自らが他人の気持ちがわかる人に近づいていきたいと思います。

ありがとうございました。

喜ばせる実践

古民家の再生をはじめている中である方から「家に喜んでもらえるような使い方をすること」と教えていただいたことがあります。この「喜ぶ」というのは、そのものが活き活きと仕合わせになっていくということです。

この「喜ぶ」とは何か、少し深めてみたいと思います。

もともとこの字の成り立ちは、打楽器を打って神様を祭り、神様を楽しませるという象形文字でできています。芽出度いとき、楽しいとき、仕合わせを感じるときに使われる言葉です。この喜ばせようとする心、おもてなしとも言いますが素直に感謝を伝えるときの姿であるとも言えます。

そもそも私たちは天からの授かりものであり、自分たちのすべてのものは預かりものでもあります。そうやって活かされている自分たちが天からお土産をいただき、その御礼として感謝を祭るのは自然の行いです。こういう感謝の姿の中に、生き活かされる不思議な喜びを感じているとも言えます。生活の中に存在する暮らしが楽しいのは、いただいているたくさんのものに対する感謝の心の現れだとも言えます。

家が喜んでもらえるような使い方とは、これを主語を変えれば道具が喜んでもらえるような使い方、または相手が喜んでもらえるような使い方、自分に置きかえれば自分が喜んでもらえるような使い方をするかということになります。

道具を飾るのも、または大切に扱うのも、もしくは綺麗に手入れして磨いていくことも、それはその対象に喜んでもらおうとする自分の感謝の心が投映するからです。そしてこの状態こそ、「喜び」そのものであり、仕合わせを味わっているのです。

どんな気持ちで日々を過ごすのかは、周りに対する感情の影響をあたえます。周りやみんなにいつも喜んでもらいたいと自分を使う人はみんなに喜ばれる存在になります。逆に、自分のことばかりを思い悩んでは周りに文句をいい自分を嘆きかなしみ、過去や未来を憂いてばかりいては周りに心配をかけるばかりで喜ばれません。

この「喜ぶ」という姿は、いつも感謝している状態のままでいるということです。言い換えるのなら、いつも楽しそうにしている人や、いつも喜んでいる人、いつも幸せそうに振る舞う人は、周りに対して素直に感謝の心を忘れない実践をしている人ということになります。

子ども達が楽しそうにはしゃぎ、喜ぶ姿には神様に対して素直にしあわせの心を示す感謝のカタチがあります。「うれしい、たのしい、しあわせ、ありがたい」などの感謝を顕す言葉は相手を喜ばせたいという気持ちに満ちています。

もっともっと喜ばせたいと思う心が相手を自然に尊重し、相手をおもてなしもったいなくその価値やいのちを活かそうとする心がけになるものです。喜ばせているのは何か、喜んでいるのは何かを忘れずに「喜ばせる実践」を愉しんでいきたいと思います。

 

自然調和~自分を弁えること~

自然には調和という言葉があります。調和しているのが自然であり、自然は調和している状態のことを言います。この調和とは何か、これは人間も自然の一部ですから調和していることで自分の存在が成り立ちます。改めて調和というものの大切さを深めてみようと思います。

そもそも自然というものは、それぞれの分を弁えて存在しています。二宮尊徳は「分度」と言いましたが、自分の分を弁えることでそれぞれの存在を活かし合います。

生き物たちは、食料を獲りすぎることはなく、度を超えてやりすぎることはありません。よく何らかの生き物だけが増えすぎることはありますが、それはその前に分を超えた何かを誰かが行ったことで調和が乱れるから発生するのです。

例えば、ある農園に害虫がいるからと農薬ですべての虫たちが死んでしまうとします。それまでみんなで分を守っていた生き物たちが死に、外から新しい生物は入ってきます。するとその生き物が急激に増えてしまいその農園はまた分を超えて調和を失います。そしてまた農園に農薬をまいてその虫を殺してしまえば今度はまた別の虫が外からやってくる。何も虫がいない状態になるまで農薬を使った頃にはそこの草花や木々にいたるまですべてが枯れ果てているということです。これが不調和と言います。

そもそも調和する状態とは何か、それは持ち味が活かし合っている状態のことです。持ち味が活かせないから不調和が発生し、そのこから不自然の悪循環に入ります。それぞれの生き物たちが分を弁えて、それぞれの場所で自分の分を守ることができるのなら自然は自ずから調和にハタラキます。

このようなハタラキを知る者たちは、余計なことをしなくなります。先ほどの農薬こそを仕事だと勘違いし業務ばかりを増やしては不調和をくりかえすのは、分を超えてしまっている自分に気づかないからです。言い換えるのなら、不自然であることにきづかなくなっているくらいに自分の能力にばかり頼っているのです。

本来、自然は周りを信頼し合って存在します。自分は自然から分かれている存在とは思っておらず、自分自身は自然の一部であることを自覚しています。つまりは自然と一体であるということです。

その自然から離れているから心が不安になり、余計なことを繰り返しているうちに分を超えて不調和を続けてしまうのです。それでは持ち味は出す暇もなく、ひたすらに忙しい日々の業務で忙殺されているうちに豊かさもまた消失してしまいます。

改めて自然から調和を学び直し、それぞれの人々が協働でチームになって仲良く働くことを実践していかなければならないと私は思います。自然の中で分を弁えることは周りと一体になって一緒に仲良く生きていくことです。この調和は、それぞれの持ち味の集積によって成り立っています。

引き続き、持ち味の本質を見極めつつ自然の法理を仕組みとして子ども達に伝承していきたいと思います。

子どもはカムイ

アイヌ文化のことを深めていると、子どもに対する人類のかかわり方に普遍性を感じます。本来、人類は子どものことをどのように思っていたか。いや、すべての生き物は産まれたてのこどものいのちをどのように考えていたか、根源に思いを馳せればある共通のものが観えてきます。

日本には古来から「三つ子の魂百まで」という諺があります。三歳までは魂のままであり、魂がそのまま百まで生きるということです。西洋にもThe child is father of the manという諺があります。これは子どもは人類の親であるということです。

アイヌの長老は、「アイヌでは赤子はカムイなのだ」と語るそうです。

「よく赤子を観察してみなさい。赤子というのは、泣けばおっぱいがもらえる、泣けば寝かせてもらえる、泣けば抱っこしてもらえる。自分が何かして欲しいときには、言葉で意志を伝えるのではなく泣くことによって叶えてしまう。言葉がいらない存在。泣けば用が足りる存在なのは、神様以外には有り得ないのだ」(秋辺得平さんより)

その赤ちゃんは誰のものか、それは単に親のものではなく神様から預かった神様なのだからみんなのものであるとし、アイヌでは子どもはコタン(村)みんなで育てるとしました。これはすべての人類、先住民たちの共通の理念で常に共同体社會の中で子育てをし、子どもをみんなで見守ることで人類はいままで子孫を繋いできました。

今の時代のように、歪んだ個人主義が蔓延し子どもを自分のものだと勘違いし親だけに子どもを押し付けたり、誰かにお金を払って育ててもらったりなどはなく子どもは「人類みんなのもの」だったのだから社會で育てたのです。そして、他の生き物たちと同様に自然の中でいのち(子ども)は自然に育つものです。自然に育つのだから、自然に育つように見守り環境をととのえていくことで私たちはおもいやりの社會を築いてきたとも言えます。今はその自然が不自然になっているから、教育方法論ばかりが横行し古来からあった当たり前の普遍的な在り方が崩れてしまっているのです。

アイヌ民族の伝承のように赤子はカムイとして考えること、赤ちゃんこそ天から神様が私たちに与えてくださった至高至大の贈り物であり偉大な財産であるという認識があったからこそ私たちはみんなのものとして見守ろうとしたのかもしれません。

子どもが単に経済の道具や大人の都合で、少子化対策などと対処療法ばかりで乗り切ろうとしたらどうなるのか。人類は今まで大切に紡いできた先祖代々からの仕組みそのものを手放すことになります。子育ては社會を換える教育の初心を持っていますから、その初心に何を据え置くか、人類の先祖から学び直す必要性を感じています。もう一度、根元のところから私たちは社會の在り方を観直す時代に入っています。

引き続き、アイヌの口伝から永遠に生きのこる智慧を学び直したいと思います。