居場所

場の共有を考えていると、まず最初に意識するのは「居場所」です。自分が何処にいて何をしているのか、どのようなコミュニティを築いているのか、自分というものを認識するのにもまずはその居場所を確認するものです。

自分の居場所は、単なる物理的な場だけではなく意識の中の場というものもあります。家庭での居場所、会社での居場所、社會でも居場所、世界での居場所、あらゆる居場所から自分の布置を見つめていきます。

自分の居心地の善い場所を見つけるために、人は場を求めていくものです。そしてその求めている場を求めている人たちと共有するとき、居場所が創造できるように思います。

そして居場所を創造するには、まず自己との対話が必要であり、自分が自分のままでいい、自分のままで愛されているといった状態、その上で、他人にも同様にその意識を持つことで居場所は顕現されていくようにも思います。

居場所の顕現するとき、人は心の安心を得られます。自分という存在をどのように認め合うか、これは居場所づくりにおいてとても重要であると思うのです。

だからこそ、場の共有とは自分という人間を丸ごと認めること、そして一緒に生きていく人たちのことも丸ごと認めること。自分にとって都合が悪いからと全部排除したり、その人のダメなところは一切認めないという心の態度では居場所が創造することはできないようにも思うのです。

人間は、長いこと評価に晒されてくると自分のダメな一面を認めようとはしなくなります。そうなると同様に他人のダメなところも認めることができません。丸ごと認めるという場が共有されるとき、人間は安心して自己を表現し自己を発揮していくことができるように思います。

自分の個性を理解してくれる存在や、自分の持ち味を分かち合ってくれる存在、そして自分というもののマイナスなところも含めて許しあえる存在、そんな存在に出会うことで人は居心地の善い場にたどり着くことができるように思います。

自分を受け容れることは場の共有において大切な実践項目です。

子どもたちが安心して場に自己を発揮していけるように、場の共有を深めていきたいと思います。

場の共有

人間は、「場を共有」することで共存共栄してきた生きものです。ここでの場とは、同じ空間と時間を一緒にするという意味です。同じ空間と時間をというのは、人生は生まれてきた中で色々な人たちとご縁があります。その一度きりのわずかな時間に、誰と一緒に生きていくか、誰と時間と空間をシェアしていくかということでその人生の質は決まります。

つまり人生は、場によって創造され場によって演出され場によって顕現するということです。だからこそ、場の共有は同じ時代、同じ場所、同じ空間を共にする仲間との大切な分かち合う時間だとも言えます。

人生は、色々な目的がありそれぞれに志があります。これだけ多くの人間がいても、一生のうちで関わるのはわずかな数です。そのわずかな数によって人生は彩られ、その奇跡とも言えるような組み合わせによって体験する内容が異なっていきます。

あの時、出会うことがなければ、あるいは、あの時一緒の場に遭遇しなければと、一期一会に人は場によってあらゆるご縁を導きだしていきます。

そしてどのような場を体験したいかという、それぞれの目的に合わせた夢や理想に向けて人は場を重なり合わせていくように思います。それがまさに「場の共有」の実践なのです。

それは家庭でも然り、職場でも然り、ライフワークでも然り、どのような人と、どのような場にしていくかは人生にとって大変重要なテーマであることは間違いない事実です。

だからこそ「場の共有」と正対し、どのような場を創造していくかは一人一人の主体性と責任が関わるものです。場を整わすことも、その場を活かそうとするからであり、場を清めるのも、場の目的を明確にして場を高めるためでもあります。

私の主催する場の道場は、場にこそいのちの原点があり、場にこそご縁の真髄があると確信しているものです。場によって人が変わり、場によって世界が換わる。これからの時代、新しい場の共有が人類の進む道に大きな影響を与えるはずです。

子どもたちのためにも、場を深め、場を譲り、場を遺していきたいと思います。

場の重要性

世界では古来から「場」には健康や幸福に大きな影響があることが信じられてきましたが現代は、都会を中心に空きさえあれば無理やりに場所を削ってはそこに人間都合で様々な建物を建てていきます。特に日本では、もともと墓地だったところや伝統的に大切にしてきた場所でさえ経済的な都合で自分勝手に移動させていきます。

本来、その場所には特別な力があって敢えてその場所を神社にしたり、墓地にしたり、石碑を建てたりして触らないようにしていたものにまで勝手に触っては壊していきます。

そのことから、原因不明の病気が流行ったり、疫病が増えたり、事故や怪我、事件が発生したりすることが増えています。科学では証明されないからと好き勝手に先人たちの体験や経験からの知恵を粗末にすればそのしっぺ返しが子孫たちに及んでしまいます。

現代人の問題は、とにかく視野が狭いということです。そして短期的であり、視座が高くないというところにあります。目が届く範囲の物事にばかり執着し、目には観えないものを軽んじているというところです。

目に見えないものはすべてオカルトであるとは限りません。目に見えないからこそ、心の目で捉える必要があるのです。心の目は、目には見えないものを観ることができます。心は、深く広い視野と高い視座、そして先人たちへの畏敬の念がなければ働かないのです。

しかし世界では、場が影響をすることを調査研究している事例もたくさん出てきています。例えば、ドイツで発表された「オパシック・ストレス」は、1920年代に、ドイツの特定の地域で、ガンの発症率が、他の地域に比べて非常に高いことから、原因を調査し発見された現象です。この「ジオ(Geo)」はギリシャ語で「地球の」、「パシック(pathic)」は同じくギリシャ語で「苦痛」地下からの有害エネルギーを、意味します。現代では、地上の、高圧電線や電波、電磁波、放射線などの、人口周波数も含めて、ジオパシック・ストレスと呼んでいます。

これは場が非常に乱れた磁場になっていてそのことで木にコブができていたり、ダウジングで反応が出たりもします。それを人体も、長期にわたり影響を受け続けることで徐々に体力や免疫力を弱め、様々な慢性的な症状を引き起こすといわれます。

地場や地磁気が乱れるというのは、目には見えないし感じにくいものですが確かに自然界で存在しているものです。野生の鳥たちはその地磁気を感じますし、虫たちや植物たちも地場の良しあしでその棲む場所を換えていきます。

それくらい私たちのいのちは、存在する場所が重要な要になってくるのです。その存在の場を軽んじていたら、知らず知らずに人生に多大な影響を受けてしまいます。子孫のためにも、場を譲りの残していくことは先祖になる自分たちの大切な使命であり責任です。

子どもたちのためにも、場の重要性を世界に示していきたいと思います。

自然の薬

昨日は、郷里で有名な漢方の先生のご紹介で諫早にある御湯神指しでよもぎ蒸しを体験してきました。ここは、韓国の「汗蒸幕」(ハンジュンマク)を改良したサウナがあります。松の木をドーム型の石室の中心で燃やし、麻布をかぶって入るという約600年の韓国式伝統サウナもあります。

昨年末より胃腸の具合がわるく、疲労の蓄積があると漢方の先生にいわれて漢方治療と湯治を優先しつつ回復につとめています。ちょうど、BAでの復古創新している日本古来のサウナも出来上がったことから敢えて色々と対比しながら学ぶためにも体験してみました。

サウナの方の火は、私の備長炭のサウナと異なり陽の火が強く感じられ長く入っていることはできませんでした。その分、短時間で体内に熱を貯めつつそれを外に排出する作用があり短い時間でも充分な効果があるようにも感じました。難病の方や、重度の病気を持った方が来られることが多いとお聞きし、いのちの燃焼を手助けして寿命を延ばす効果があるようにも感じました。

私は火には、陽の火と陰の火があるように直観しています。陽の火は、キャンプファイヤーの火で明るく燃え盛り爆発するようなエネルギーを周囲に散らしていくような興奮の火です。特徴は瞬間的に、一気に燃え盛るものというイメージです。
もう一つの陰の火は、火鉢の中の備長炭の火で穏やかにしんしんと静かに消えていきながら遠赤外線を放射していく癒し回復を助ける火です。陽の火はアドレナリンが出て、陰の火はドーパミンが出てきます。

つまり火は二つの性質が一体化したもので、火は最初から二つで一つであるということです。陰陽の原理は、いのちの原理であり、最初から水も火も、木も土もすべて二つの別々のものが合わさってできています。これは人という字にもあるように、人間も肉体と魂が融合して存在するように二つが一つになっているのです。

話をよもぎ蒸しに戻せば、このよもぎ蒸し(よもぎむし)は、よもぎを煎じた蒸気を下半身を中心に体全体に浴び吸収させる民間療法で韓国では600年から700年ほど前から、産後ケアとして愛用されているといいます。

よもぎといえば、私も幼いころから怪我をしたり虫に刺されたりしたときの応急処置で使っていました。不思議と、よもぎをすりつぶしたものを塗り込むと皮膚炎が収まったり擦り傷の回復が早かった記憶があります。

漢方でこのよもぎは、浄血、造血、末梢血管の拡張作用、新陳代謝促進、抗アレルギー作用、殺菌・制菌、などの働きがあるといいます。実際に入ってみると、独特な香りがして体の毒素を中和しているような感覚がありました。

そもそもお灸で使うもぐさもよもぎからつくられます。特にお灸に使うもぐさは春、草餅やよもぎ団子になっているあのよもぎを使います。よもぎは春に芽を出す生命力旺盛なもので、街中の道端の隙間や土手などにたくさん生えてきます。生命力旺盛な植物です。そして乾燥したよもぎは艾葉(がいよう)と呼ばれ、生薬としてカラダを温め、腹痛、胸やけ、下痢、便秘など、さまざまな症状に効果があります。

このよもぎのもぐさは、梅雨が終り花の咲く前によもぎを刈り取り乾燥させ臼でくだいたあと葉や茎を取り去るという作業をくり返しくり返しつづけやがてほんの少しのフカフカの綿毛だけになります。この綿毛がもぐさなのです。

乾燥したよもぎからたった200分の1しか取れない貴重なものです。このもぐさにはよもぎに含まれる精油成分があるためか、火つきがよく、熱さ少なく火持ちもよいのでお灸に最適です。

先人の知恵というか叡智には頭が下がります。中国では2000年以上前からこのように民間療法がお灸という形で伝承されてきました。時代が変わっても歴史が過ぎ去っても、効果があったものだけは自然の篩にかけられて今でも残っているのです。西洋からやってきた科学的な薬も短期的には効果がありますが、本来の自然治癒や人間の叡智から編み出された自然の薬はなによりも人々の身体だけではなく心も同時に癒します。

BAの浄化場で自然治癒をさらに究め、人々の心身を癒し自然との共生を回復させていきたいと思います。

日本サウナの誕生

昨年の夏ころから準備してきた備長炭を使った日本古来の伝統サウナが無事に復古創新されました。昨日はその最初に火入れをした記念すべき日で感動も一入でした。

思い返せば、フィンランドのキングオブサウナを訪ねて、トナカイが道を歩いているような田舎までいきその仕組みや原理を学び、その空間や場から本質を洞察しました。また現地のスタッフの方から考え方や生き方、そしてそのおもてなしの在り方までご指導いただき世界標準の水準を設定しました。

そして帰国してからは、日本古来の石風呂をはじめ全国各地にあるサウナ石を研究し収集し、実証実験を何度も繰り返しました。また現代のサウナの聖地と呼ばれるサウナを渡り歩き、日本人にとっての好ましい水風呂の質を研究しました。

同時に医療の事を学び、自律神経を整える仕組みや、漢方を学び、サウナにもっとも相応しい生薬が何であるかなど一つ一つ整理していきました。

また外気浴のために、如何に善い風が吹いてくるか、どの場所に何を配置するともっとも穏やかな感覚になれるかを図面で何度も検証して現在の配置にしています。

日没の夕陽が鳥羽公園に反射してキラキラと幻想的な風景を演出できるように庭も改造しています。

そして用いる炭は、最高級の備長炭をつかい6時間から8時間ほど火を見守り、石に火のいのちを転換させ波動を発生させていきます。

私は正月から体調を崩し、ずっと不調のままでこの日を迎えましたが昨日甦生させた日本古来のサウナによって体調が回復する奇跡を得ました。身をもってまさにその効果を体験でき、これからこの浄化場が人々の心身を救っていくことを道具たちと共に誓い、新しい場が誕生したことをお祝いしました、

この地に、新たな聖地が生まれたことを仕合せに思います。

子どもたちが、安心してこの先も日本の伝統文化を温故知新していくモデルが残していけるように私の生き様から世界へ表現していきたいと思います。すべてのご縁と出会いに感謝しています。

触媒

世界には直接的に影響を与えるものと、間接的に影響を与えるものがあります。直接的なものは効果や効能がはっきりしやすく、科学で分析すればある程度の事実は証明できたりします。

しかし間接的なものは、触媒のように影響が別のところに作用していきますから効果も効能もはっきりと謳えず、科学で証明することが難しいものばかりです。

この直接的というのは、短期的に観れば効果があり、間接的というのは長期的に観れば効果があるというとわかりやすいように思うのです。

現代は、スピード優先の世の中ですから短期的に直接的に効果がある方ばかりが信用され取り入れられます。目の前に見えるものだけを信じて判断しているうちに、短期的な手ばかりを打つ癖のようなものが拡がってきました。

それが食生活をはじめ、様々な暮らしを塗り替えていき対処療法的なものばかりが評価されて根源療法的なものが排除されてきたようにも思います。

本来は、基本として長期的なものが主軸になるなかでその時々だけ対処するというのは暮らしの在り方でした。暮らしが変わってきた理由の一つは、すべて短期的に直接的になることでその根底が揺らいできたことが原因としてあるように私は思います。

私は「触媒」という概念がこれからは主役になっていくと私は確信しています。この触媒とは、自身は反応の前後で変化しないけれど周囲に偉大な影響を与えるというものです。

これは「場」も同様に、自分自身の在り方に触媒が大きな影響を与えるということです。私が取り組む、炭を使った場づくりもまた触媒としての炭がハタラキ、人々の暮らしに偉大な効果を発揮させていきます。

直接的には意味がないと思われていても、その効果は暮らしをするものでしたら確実に理解するものです。現代は、奇人や変人、宗教などと言われますが先人たちの文化が昇華していくなかでできてきた知恵をもう一度見直す必要があると思います。

引き続き、子どもたちのためにも日本人の文化を伝承していきたいと思います。

共存共栄の知恵 ぬか漬け

暮らしフルネスの一環でぬか漬けを新たに始めています。このぬか漬けの乳酸発酵はとても複雑で、様々な酵母菌たちが働いて美味しい漬物が出来上がります。すでに高菜漬けは10年目に入っていますが、高菜の方も仕組みは同じですが青高菜と同様に時間の経過で発酵が異なりますから絶妙な時間を逆算して漬物の状態と塩梅を観ながら調整していく必要があります。

日々の暮らしの中で、質素で豊かな食生活が続いていかなければなかなか手入れしにくいものです。現代では、飽食なほどに様々なおかずがスーパーで購入することができます。よほど漬物を毎日食べたいという人でなければ、このぬか漬けの手入れは難しいようにも思います。質素とは、単に食べ物が少ないのではなくシンプルな食生活の中にある深い味わいを楽しむということもでもあります。

新型コロナウイルスでこれぞ好機と暮らしフルネスに取り組んでいますが、かえって今回のウイルスの御蔭で本来の人間の健康的で自然な暮らしが取り組めると考え方も共生していこうとチャレンジする機会にしています。

ぬか床の原型をさかのぼれば2000年ほど前の大和朝廷時代の塩漬けをした野菜を保存するものだったといわれます。それが奈良時代になり「須須保利(すずほり)」という漬物が出てきます。これは今では存在していない漬物で、穀物や大豆を臼で挽き、それに塩を加えて漬け床を作り、カブや葉菜類を漬けたものだそうです。これが「ぬか漬け」になったといわれています。

正確にはいつからぬか漬けがどこで始まったのかというのは不明だそうですが沢庵漬けで有名な沢庵和尚の時代には米糠はつけ床になっていたと記されているそうです。そしてぬか漬けの発祥の地といわれる北九州は、小倉城藩主である細川忠興が城下の庶民にもぬか漬けとして広めたといわれます。その頃、白米の普及で米糠が大量に出回りました。白米になったことによるビタミンB1が不足し江戸時代では脚気が流行り病となりました。しかしぬか漬けを食べれば、それが補えるとしてぬか漬けブームになったとあります。

小倉城の近くの八坂神社には、400年のぬか床があるといいます。私が譲っていただいたものは250年前のものですが、その菌達の歴史を味わいながらそのいのちと共生し暮らしを紡いでいます。

日本人の先人たちは、何度も菌やウイルスによって大変な思いをしてきました。しかしウイルスにも菌にも一長一短あり、全部を否定することは存在そのものを否定することのように思います。

そうではなく先人に倣い、お互いの持つ特性を活かしあいながら共に生き、共に発展していく関係を結んでいきたいと思います。

徳は得なり 損も徳なり

安岡正篤の一日一言(致知出版)に「徳は得なり」のことが紹介されています。

【徳は得なり】

「徳」というのを平たく初歩的に言うと、
人間が自然から与えられているもの、
即(すなわ)ち得たるところのもの、
みな「徳」だ。

だから「徳は得なり」
という文字の註釈がある。

天から、自然から、
親から生んでもらって
与えられたものは
みな「徳」である。

しかしその与えられたものの内容はいろいろで、
その中の特に根本的なものを
他のものに対して「徳」という。

どのようなものを得てきたか、どのようなものを得ているか。それは私たちが自然に得ているものです。その得ているものを改めて考えてみると色々と観えてくるものがあります。

例えば、生まれながらにこの身体を得て、この地球で生きていくための機能を得ています。そして自分にしかない個性や特性を得ていて、その得たものによって自分らしい人生を得ていきます。他にも、美しいと感じる心や豊かな精神、志や魂なども先祖からの遺伝や経験、思想などを得ています。

そう考えてみると、すべて得ているものばかりで成り立っているのが私たちの存在です。この最初から得ているものこそ徳の元であり、私たちの徳とは即ち得によって知ることができるということです。

そしてまたそれを反転させてみると、損もまた徳であることに気づきます。得ていたものを取捨選択して他のものに与えていくこと。つまり得ているものを与えていくのが損とも言えます。

「損もまた徳なり」であるのです。

私は徳積財団を設立しましたが、それはみんなで徳を与え合う仕合せを創るためでもあります。徳が育てば、社會はさらに豊かになり幸せも循環していきます。資本主義経済が限界値に入り、もはや人類はここで方向を転換しなければ子孫の仕合せは保障できません。今こそ、徳に舵を切るときで大切な時代の分水嶺です。

壮大で遠望な挑戦もまた、徳を信じるからです。

引き続き、子どもたちのために徳に報いる生き方を優先していきたいと思います。

ご縁をもてなす

ホスピタリティという言葉があります。これは日本では「おもてなし」と呼ばれますが、文化が異なりますが実際の定義も歴史も異なります。私は、場を創造する仕事をしていますからこの場の定義においてホスピタリティやおもてなしの定義を明確にすることは重要なことです。

まずはこの英語の「hospitality」の語源は「hospice(ホスピス)」ですがラテン語の「hospes(ホスペス)」と「hospitium(ホスピティウ)」からできた言葉です。この「ホスペス」は「客の両者」を意味し「ホスピティウム」ラテン語で「客を厚遇すること」という意味になります。

実際に「ホスピタリティ」の歴史を遡ってみるとホスピタリティhospitalityの基礎用語はhospitalであり、このhospital は第一義に「病院」と訳されていますが歴史ではキリスト教の慈善施設のことでした。そこには老人、孤児、貧者などを収容する施設として人々の救済を担っていた場所だったといいます。

つまり巡礼者を歓待し、保護し、厚遇して家族のように迎い入れていた場所ということになります。日本にも、伊勢神宮の伊勢講のようにみんなで旅をして巡礼をしていたころはそれぞれに宿場町がありそこで旅の疲れを癒しました。むかし、四国でお遍路の体験をしたことがありましたがその巡礼中に地域の方々が大切に巡礼者をおもてなしすることに感動したことを覚えています。

知らない土地で、他人に対してまるで身内のように接してお世話をしてくださる存在にとても感謝したものです。

そして日本のおもてなしは、茶道が源流ともいわれますがこれは「一期一会」と用いられます。これは千利休の高弟・山川宗二が「たとえ同じ顔ぶれで何回も茶会を開いたとしても、今日ただ今のこの茶会は決して繰り返すことのない茶会だと思えば、それはわが一生に一度の会である。そう思うと互いに粗略に扱うこともない。真剣な気持ちで、何事もなおざりにすることなく一服の茶をいただくことになる。 」(WEBサイト「井伊直弼と開国150年祭」より)とあります。

その場は、一度きり、二度とないからこそその瞬間の出会いを大切に心を盡すことをいいます。他人を歓待するだけではなく、出会いを大切にするという意味が籠められています。

つまり日本のホスピタリティマインドには、「ご縁をもてなす」という意味があるように私は思うのです。私の場づくりもまた、一期一会。その場に来た出会いを大切に味わい、二度とない今を大切に感じ切る。その上で、その瞬間の自然の一部として共にあり、共に暮らし、共に生きる仕合せを尊重し合う出会いの哲学があります。

暮らしフルネスは、とてもシンプルですが何よりも奥深いものです。

この地この場のご縁を如何にもてなすか、新しい挑戦ははじまっています。引き続き、九州のご縁をもてなす首都にこの地を換えて出会いの場を高めて磨いていきたいと思います。

働く仕合せ

人生を振り返ってみると、人は役に立つことで仕事は発展してきたように思います。自分がやりたいかやりたくないかというよりも、自分が役に立つことが喜びで仕事は増えていきさらに働き甲斐が出てくるのです。

仕事がないというのは、単なるお金が貰えないという意味ではありません。仕事がないというのは役立つことがなくなったということです。これはとても辛いことで不幸せなことです。

私が以前お会いして感動した方に、日本理化学工業の大山泰弘さんがこのような言葉を遺しています。

「工場見学に来る小学生や中学生に『働くって、どういうこと?』と投げかけると
『おカネをもらうことです』って。大人たちがそう言っているんですね。でも僕は、働くとは、人に必要とされ、人の役に立つことだと思います。」

そして会社とは本来、社員に「働く幸せ」をもたらす場であると定義します。

働けることとは、役に立てるということ。人間は誰かの役に立っていると感じられるとき仕合せを感じ、その人が役に立つときまた仕合せを味わえるように思うのです。なぜそうならなくなってきたのか、そこには利己主義や利益第一主義、自分さえよければいいという資本主義経済の社会の影響を受けているように私は感じます。

誰かにとって必要と不必要が無理やりにわけられ、利益に役に立たないものは不必要として捨てようとする。いわゆるゴミのように扱い、ゴミのように接することはその人の個性を尊重したものではありません。

人間にはそれぞれ一長一短があり、また能力の差もあります。利益を出せる能力が高い人間だけを評価し、そうではない人間を粗末にするというのは皆が働く幸せを感じられる場にはなりません。

みんなが働く幸せを感じられる場というのは、能力で誰か特定の人が評価して仕分けるのではなくみんなが必要になる場を創造していく必要があります。

みんなが必要な場とは、シンプルにいえば「助け合いの場」を創造することです。社會は信頼し助け合うための場であると考えるのなら、自ずから仕事の定義が変わります。そして働く意味が変わります。そうやって、人間は社會をどのように創造するかで幸不幸に分かれていくのです。

お金をたくさん貰える仕事が価値があり、そうではない仕事は価値がないかというとそうではありません。みんなその仕事は必要で、時にはお金と関係しないような芸術や文化、伝統などもまたみんなが仕合せになる社會のためには必要な仕事とみなしみんなで助け合うべきなのです。

今回の新型コロナウイルスでも、ドイツなどはアーティストやフリーランスの仕事を国家において必要な存在であるとし大きな支援をしています。これは文化を守ることであり、民度が試されることなのです。

現在の政府の対策は、残念ながら視座が低く国民の幸福を優先しているものではなくその場しのぎである感じがします。緊急事態でもあり、きっとトップの方をはじめ周囲も不眠不休で対応されているとは思いますがこういう時こそ少しだけでも立ち止まってみて何が国家の本質的な成長につながり、何が国民の本当の仕合せになるのかと原点に立ち返ってみるといいように私は思います。

世界人類は、みんなでどう幸福な社會を創るか。

どこかの国だけが搾取し富み栄え、ある国だけが只管に貧困で苦しむ、これが幸福な社會なのかと向き合う必要があるのです。この社会を反対に読むと会社ともなります。

現在、発生している世界を巻き込んだ有事においてどれだけの人がこの出来事と本気で正対し、原点に回帰しこれからの社會をどうしていくかに気づけるか。そこに私は人類の未来が決まるように思います。

世界は一つなのだから、せっかく生まれてきたのだからみんなで働く幸せを味わい、誰もが助け合いによって必要な社會を創ろうと生き方や働き方を改革していくチャンスにしていくといいように思います。

子どもたちの未来のために、働く仕合せを追求していきたいと思います。