目的と天命

人は生まれてきた環境で目的を命じられることがあります。それは時代の命令であったり、大切な死別であったり、あるいは身体的な問題であったりと理由は様々です。しかし、その時その場所でその人が何かに目覚め、目的を持ち使命を生きます。するとそこに偉大な何か、普遍的なものを遺します。それは生き方であり、その伝承によって後世の人たちはその道を学び何かを感じることができます。

しかし、それが何かの教義になりさらに正解や不正解をつくり頭でっかちに組織的に理解をしては資格を得られるようなものにするとき、その目的が答えになりそれ以外は間違いとなっていきます。そこに生き方のことはなく、ただ教えというものに対してどれだけ正確無比かが競われるだけのものになります。

学問の恐ろしさというのは、それ自体が目的になってしまうことかもしれません。本来は、それぞれに人は生を受け、命があり、目的を与えられていますからそれを達するために生き方を知り、道を歩むというのが学問の有難さのように思います。

それぞれの役割ではありますが、どの時代も真摯な求道者たちによって道は伝承されていくように思います。厳しい修行がいいのでもなく、膨大な知識がいいのでもなく、かといって感覚だけでいいのでもなく、無為自然だけでいいのでもない。目的に対してどれだけ本気かどうかというのがこの世で道を往くものたちの本義だと私は思います。

不思議なことですが、これだけの情報が氾濫し、なんでも知識が手に入る世の中になったのに目的についてはほとんど聴かれることがありません。私も、色々なところで話を聞かれますが目的を聞いてくる人はほとんどおられません。何をしている人かというのは関心があっても、あなたの目的は何かということは尋ねられません。

しかし二宮尊徳、空海、法然、道元、あるいは三浦梅園、それぞれに生き方を遺した人たちはみんな目的に対して真摯だったことは明らかです。その目的は、今も達成されていないから我々子孫が伝承するのです。

如何に争いがない世の中にしていくか、深い悲しみや苦しみを癒せる世の中にしていくか、誰もが不平等ではなくいのちが尊重される世の中にしていくか、などの目的から結ばれて今に至るのです。

目的が定まらないままに、目標だけを追いかけていたら何のためにこれをやるのかという生き方が遠ざかってしまいます。気が付くと、教義や一般的な価値観や形式や作法という便利なものに呑まれて本来の目的を見失うこともあります。

だからこそ、目的を見失わないために初心があり、実践を続けていくのでしょう。私も子ども第一義という理念があり、子どもが憧れた世の中を実現するために道を磨いています。

大切な節目に、先人や先達の方々の背中を今一度見直し、目的を定めて取り組んでいきたいと思います。

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