生き残る知恵

これだけの激しい気候変動が世界中で発生していると、その災害に直面した人々なら必ず何かに気づくものです。偶然にたまたま仕方がないと思うのか、それとも何か私たち人類は間違っていないかと思うのかではそのあとの行動が変わってきます。

謙虚さというものは、気づきからはじまるものです。何か間違っていないか、自分たちはこれでいいのかと反省するときに自然からのメッセージを受け取れるように思うのです。

現在、また大型の強い台風がこちらに向かっています。先月、英彦山では観測史上最大の雨量を体験して水がかつていないほど膨大に空に集まっているのを感じました。道はほとんど土砂崩れでまだ復旧していませんし、宿坊への道もところどころ陥没して今それを修復している最中です。

この水の量が増えた理由は、色々と科学者は理由を並べますが直感的には北極や南極の氷が溶けたことが発端ではないかと私は感じます。あれだけの氷が海や空に流れ込んだのだからその分、激しい水害が各地で発生するはずです。

地球はバランスを取りますから、熱くなれば冷えて、冷えればまた熱くなります。同時に、水の量が換わればそれにあわせて自転するリズムも循環する時間も変わってきます。

海流は変化し、風の流れも変わります。そうすれば地中の脈動やマグマなどの配置も変わっていきます。人間の身体のように、絶妙なバランスで健康を保っていますから変化するのは当たり前です。

人間はだからといって自然の前では無力ですから、謙虚にみんなで知恵を絞って対応していくしかありません。あまり自然を刺激しないように、自然の絶妙なバランスを壊さないようにと、本来は自然の一部として自然からいただける恩恵をみんなで分け合って永遠に生きる道を選択してきました。

今では、もっともっとと足りない方ばかりを追いかけて地球の資源を奪い合うなかでついに自然が黙っていない状態に入ってきたということでしょう。生き残りをかけて、地球のいのちたちもこれから真摯に適応していきます。どのような生き物たちが篩にかけられて生き残るのか。それは生き残るものたちから学ぶことが大切です。

何億年と続いてきた気候変動のなかで、生き残れているのは運のよさです。今も運のよい生き物たちが一緒に生き残っている存在ともいえます。では彼らは何が運がよいのか、もう一度よく観察していく必要を感じます。

引き続き自然も喜び、自他も喜び、先祖や子孫が喜ぶ生き方とは何か、その徳を学び直していきたいと思います。

気候変動と謙虚さ

先日、世界気象機関(WMO)などが今年7月が観測史上最も暑い月となるとの見通しを示し「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来した」と警告されました。

世界ではこの観測史上最大のあらゆる気候変動が発生していて、特に今夏においては生活するのに限界を感じるほどの猛暑日や熱波が続いています。落雷も過去にないほどの巨大で地響きがあり、水害も雨の量をみてもかつてないほどです。台風をはじめこれにもし火山の噴火や地震が加わったらと思ったらぞっとします。

そう思うと、私たちの住む地球はこの気候変動に対してどのように対応しようとしているのか。この気候変動には、太陽をはじめ銀河系、宇宙との関係もあります。ある一定の周期で、気候変動は常に発生してきています。同時に、人災ともいえる温室効果ガスによる環境破壊。これはガスだけの問題ではなく、あらゆる場所を人工物にし生態系が失われたことによる悪循環による地球のゆるやかな自浄効果の遮断でもあります。

自然に対する謙虚さを失うことによる気候変動は恐ろしいものです。

もともと人類は、気候変動ということにとても敏感でした。自然との共生の中で、雨が降らないことへの恐怖や逆に太陽が現れない恐怖、長雨による問題や熱波による問題で何度も食糧危機を体験してその怖さを身をもって実感してきました。

ここ数十年の間、私たちは気候の変動には対応できるほどに科学の力で一時的に乗り越えたようにふるまってきましたが実際には自然の猛威の前にはなすすべもありません。

以前、東日本大震災の津波によって目覚めた人たちがたくさんいました。そこから自然への畏敬を思い出し生き方を換えた人たちです。私もその一人ですが、今もあの時の自然のメッセージを忘れることはありません。

人間は環境に適応する存在ですが、もっとも忘れてはならないのは初心でありいつまでもその時のメッセージを持ち続けて油断なく実践を続けていくことだと思います。暮らしフルネスも、今では一つの幸福論のようにしていますが本来は子孫のために如何に知恵を伝承して継承していくかを実践によって取り組むものです。

自然の前では私たちはとても小さな存在です。私たちにできることは、小手先の科学に胡坐をかくことではなく運を高めるために謙虚さを磨くことだと感じます。

子孫のためにも、日々に気候変動のメッセージを真摯に受け止めながら感謝で歩んでいきたいと思います。

自己の変化

時は変化し続けて変わり続けます。むかしの地理や今の地理を比べてみてもわかるように、自然も変わり続けます。よく考えてみると、太陽系も移動し宇宙の配置も変わり続けているのだから変わらないものなどありません。

変わらないはずはないのですが人間は、目先の変化にばかり囚われてしまうものです。この数十年でも科学が進歩してあらゆるものが変わりました。その中には、生活習慣というものの変化もあります。

自分が子どものころは、まだコンビニもなく携帯もパソコンもインターネットもありませんでした。こんなに車もなく、ほとんどバスや自転車での移動でした。道も舗装されていない場所だらけでしたし、電気や水道、ガスもまだあまり通っていませんでした。今では各家庭に何台も車があり、空調も各部屋にあり便利さという意味ではほぼ完璧です。

世界は人口が80億人に達したともいわれます。人間の寿命ものび、病気も感染症などもほとんど解消していきました。食料も産業革命以降は、大量生産し大量消費することで解決していきました。物流も整備され、衣食住あらゆるものは豊富になりました。これ以上、便利にしようとするとどうなるのか。人間が仕事をしなくても、AIがすべて代わりにやってくれて人間はただ遊んで暮らしていけるような状況になっていくのでしょうか。

追い求めていた欲望の果てが今の世の中です。そしてもっともっとと、さらに人間は進歩を続けます。今度は宇宙を開発して、さらなる富や財産を増やしていこうとします。寿命もさらに追い求めて不老不死を目指すでしょうし、病気は根絶を求めるのでしょう。追い求めていく先には、常に争奪戦が繰り広げられていきます。無限の資源はこの世にはなく、すべて限られた中で分け合う仕組みになっているものです。分け合うよりも奪い合えば、奪った方は裕福になりますが奪われた方は滅亡していきます。

宇宙は絶対的な法則のようなものがあり、陰陽に因果応報、絶妙にいのちのバランスを保ち続けています。片方がそのいのちを奪取すれば、そのうちその反対の方も奪取されます。奪い合えば奪われ、与えれば与えられるというのは循環をするこの世の揺るがない法則です。

近代の文明は、なくなったらもっと多くを持つ方へと侵略することで富を保ち続けてきました。最初は小さな村だったものが、それがやがて集合し国になり連合しさらに大きな国家共同体になりさらに別の国を奪取しては拡大を続けます。拡大を続けていく国はそのうち限界がきて最後の奪い合いをして滅びます。

便利さというものは、さらなる欲望を駆り立てていきます。奪った分だけ便利になっていくからです。自然から奪ってきたものは何だったでしょうか。人間から奪ってきたものは何だったでしょうか。時間から奪ってきたものは何だったでしょうか。奪われたものたちの仕合せはどこにいったでしょうか。

虫や草、木々など人間以外のものにも仕合せはあります。地球にも宇宙にもあります。本来はみんなが与えあい共生しあえば、永続する未来はあるものです。奪い続けてまだあるはずとここ100年間、みんなで国力をあげるために争奪してきましたがそろそろ枯渇してきました。ここから100年どうするのか。さらに地球の隅々まで探しては奪い合うのか、あるいは宇宙に探しにいくのか。心配なのは、便利な生活に慣れた人々が生活を落とせないと持っている人たちのものを奪うために暴力を過激化していくことです。

この先、100年、300年、500年がどうなっていくのか。

子孫のために自己を磨いていきたいと思います。

心の鍛錬

人はリラックスして安心しているときにしか観えない景色というものがあります。逆に追い込まれて追い詰められて余裕がない時の景色というものもあります。誰もが経験したことがあると思いますが、いくら自然が美して奇跡のような景色と出会っても心が忙しかったり余裕がなかったり、あるいは不安や心配、病気でつらいときなどはなかなかそれを美しいと感じることができないものです。

反対に心がゆとりと余裕があれば、どんな些細な景色にも感動して感謝し美しいと感じるものです。それだけ人は心の状態で観える世界が変わっているということでもあります。

たとえば、実際には現象や事実は変わることはありません。今日も太陽が出て、猛暑になるようにこれは事実であり現象です。それをどう心が抵抗しても事実も現象も変わらないのだからどうしようもありません。しかし心の持ち方をそういう時に転換して、ゆとりや余裕があればこの猛暑を楽しもう、あるいは対策を立てて活かそうと思うものです。

同じ事情や現象があったにせよ、心の状態で追い込まれる人とそれを楽しむ人がいるというのが存在します。大変な時に、それを楽しもうとする人、それを活かそうとする人、あるいは絶望する人、追い詰める人がいるだけです。

人は忙しくなったり、余裕がなくなると心が追い込まれます。そうならないようにするには、ゆとりを持ち、安心することが大事になります。ではどうやってその環境や状況をつくるのか、それは心の持ち方を換えることです。簡単ではないですが、人間万事塞翁が馬ということわざを感じたり、足るを知りある方を観たり、あるは拠り所をするものをご縁であったり繋がりであったり、天であったりすることです。

どうしようもないものはどうしようもなく、できることはできるものです。なんとかなってなんとかできるときもあれば、なんともできなくてなんとかならないものもあります。

できていない方ばかりをみて悲嘆にくれるのか、あるいはできている方をみて感謝して歩んでいくのか。それは自分の意志で決められることです。時間をかけて取り組んできたことは、自分への信頼になりますし自信にもなります。

挑戦してきたこと、頑張って精進してきたことは力になります。真心を使って一つ一つを誠実に取り組んでいくことに間違いなどはありません。他人軸での評価や評論よりも、自分が経験して学んだことの方が価値があるものです。

子どもたちや子孫のためにも、その生き方、そして死に方を実践していきたいと思います。

弱さを力に

弱さというものがあります。現代では弱さをどこか悪いことのように差別的に使うことがあります。弱者救済も本来は、当たり前のことですがそれが特別なことをしているかのような表現をしたりします。弱さを否定する世の中になればなるほどに、助け合いや見守り合いという関係は失われていくものです。

本来、弱さというものは思いやりの力を引き出すものです。そして力の本質とは何か、それは守ることであり思いやりを発揮することのことです。腕力などの力というものは、力の本質ではないように思います。弱さをどう補完し合うか、そこに本来の力の意味があるのです。

私たちは幼いころから強くなるように刷り込まれてきました。その強くなるということは、力を持てともいえます。よく見かける力は、お金を持ったり、権力を持ったり、喧嘩や暴力であったり、独裁者にみられるあの力です。しかしその力は、本当に強い力があるのかというと怖さや不安や欲望からくるものでありそれもまた弱さの一つではないかと思うのです。

核戦争なども同様に、なぜ力を求め続けて最後に戦争になるのか。本来は、弱いからこそ助け合おうとしているのなら核戦争にはならないはずです。どこで話がズレているのか、そこには国家というもの、強い国家にするという政治的な営みが関係していることに気づきます。

人類は国というものを形成する段階で、強い国になることがいいと教育されます。一昔前は強い軍隊や兵器でしたが、今は経済力になっています。強弱という意味も、権力や暴力の強弱ではなく思いやりというものの強弱があると私は思います。強くても弱くても思いやりを持っていること。つまり信頼しあうという力を発揮するとき人は人間力が磨かれ徳によっていい世の中を実現していくということです。

歴史は何度も繰り返して悲惨な戦争を続けます。しかしその傍らに、仁や思いやり、そして徳治政治を行った君子たちも存在したこともわかっています。いつの時代にも戦争はなくなりませんが、今の戦争は地球規模での損害を与えてしまいます。

人類は意識をアップデートして、みんなで自立していく必要を感じます。まだできることはそれぞれにたくさんあります。今いるところから弱さを力にしてみんなで相互扶助の世界をつくっていきたいと思います。

徳とは何か。

徳に関することわざの一つに「陰徳あれば陽報あり」という言葉があります。中国の思想書『淮南子(えなんじ)』に由来する「陰徳有る者は、必ず陽報有り。陰行有る者は、必ず昭名有り」から抜粋された言葉です。

そもそも徳とは何か。

言葉で語られる徳というものは、形があるようでなくなんとなく一般的に人間では善行のことを指すように言われます。しかし実際には、自然界で行われているような当たり前のことを実践することをいうように私は思います。

それが徳の本体です。

この当たり前に行われているというものは、この淮南子の文中においては山が雲を集めるように、水が深くなると龍を生むように、君子が道をつくるようにと書かれます。つまりは、自然にその徳が循環することをいいます。

そもそも相互扶助という助け合いや思いやりは、弱者のためだけに存在しているものではありません。これは本来、徳を積むものたちで自然に発生してきたものです。この自然に発生するということは何か。それは本能によって行われてきた自然的なものです。別の言い方では、野生的なものです。

私たちの所属している宇宙や地球は徳が循環することでいのちを分け合うシステムが働ています。これは身体の中を分析してもわかるように、全体が一つになって助け合うことで身体を維持しています。現代の医療は、分類わけして臓器を一つずつみたり、専門分野にわけてそれぞれの部位や病気などを診断する仕組みですが臓器が一つ壊れたら他の臓器との連携ができませんから体も壊れます。これは身体の話ですが、自然というものは本来そういうものです。

もともと何がいのちの正体で、どこからきてどこにいくのか。そういうものは哲学のようにいわれますが私からすればそれは徳の話です。本当の幸福や喜び、そして安心や永続はこの徳を拠り所とすることで得られるように私は思います。

歴史上、今の時代こそ、徳が必要な時代はありません。

同じ思いの人たちをどう集めていくか、試行錯誤の連続ですが目覚めて活動する人が増えるように道を丁寧に切り拓いていきたいと思います。

意識の世界

人間の意識というものは、変わっていくものです。例えば、資源豊富なジャングルの中や海のそばで生活すると意識が変わっていきます。あるいは、大都市や人工的につくられた場所で生活しても意識が変わります。

この意識というものは、また無意識というものがあります。一般的に、起きているときに持っている感覚が意識で、眠っているというか潜在的に深いところに存在しているものを無意識ともいいます。自律神経や副交感神経のようなもので、意識もまたその深浅や広狭もあるのでしょう。

ただ、どのような意識で日常を過ごすかというのはその人が決められるものです。

昨年、ある呼吸法を深めている方が来られてある体験をしたときに自律神経はコントロールできるというお話をお聴きしました。その方は、真冬でも裸で高山に登頂することができる仕組みを体得されています。

その仕組みを体験すると、無意識と呼ばれるようなものを呼び覚ましてそれを意識の場所で維持することができるというものです。

人間の身体というのは、100パーセントで使うことはできません。脳も10パーセントくらいしか使っていないといいます。身体も制限しながら壊れないように使っています。

私たちは何を削り何をしないか、そしてどこを用いてどう活かすかということをつねに調整しています。まさに意識の世界です。どんな意識で生きていくかというのは、どのような暮らしをしていくかということを似ています。意識を変えるには、暮らしを変えていくのが一番の近道です。

何を優先してどれを大事にし、どういう生き方を実践するかというのはその人の覚悟が必要ですがその覚悟は意識の継続ができるかどうかです。継続は力ありといいますが、継続できることこそ意識を変えることと同じだと私は思います。

時代が変わっても、意識というものは変わりません。戦争がなくならないように、意識はいつまでも継続してそれが存在しています。反対に縄文時代のように、そもそも争いという意識がなかった時代もあります。

今はそんな時代ではありませんが、意識は変えることはできますからここから子孫のためにも意識を醸成して伝道していきたいと思います。

特別な存在と特別な感情

昆虫や植物をよく観察しているとその造りや個性、そのいのちの絶妙さに感動します。小さな蟻や、一凛の花にもまるで神が宿っているような美しさがあります。意図的に特別な存在だと思わなくても、それぞれが特別な存在です。

人間社会は、承認欲求ばかりを競うようになってきて自分は特別だという発信ばかりがあらゆるところで広がっているように思います。そして何か特別なものになったかのような錯覚や、特別なものであることの優越感なども流行っています。SNSや動画をみてもそういうものばかりです。

自然界の中に入ると、特別が当たり前に感じるようになってきます。どのいのちも美しく唯一無二です。人工的なものがないところにいけばいくほどに、見事に調和している世界を感じます。

人間は画一的になるように意識し、権力や権威、欲望などを増大させてきました。差別なども増え、さらに競争は過熱していきました。国という概念を中心に、組織を運営するためにあらゆる特別を設けては人を管理してきました。その構造は、今でも変わりません。

特にお金や情報、権威や権力は形を変えて人々の心を管理するようになってきました。人はみんな自分が特別だと思いたいものです。そしてそれを周囲に承認されたいと思っています。

私はよく変人とか言われます。自分らしく自分の追及をしているからそういわれるのですが、それがいいのかわるいのかもわからず自分では普通だと思っています。あるがままでみんながあることは普通ですし、そして特別だとも感じます。

運よく生き残るもの、そうではないもの、でも人間万事塞翁が馬です。目に見えないご縁があることはすべて特別であり普遍という意味で普通です。

私達、すべてのいのちは特別な存在です。そして自分があるがままでいることが何よりも特別な感情です。みんながあるがままであることほど特別なことはありません。子孫のためにもあるがままの今を味わいながら、一期一会の有難い時間を大切に過ごしていきたいと思います。

 

鷹のような生き方

英彦山のことを深めていると、鷹に纏わる伝承がすべてを結んでいることに気づきます。周囲の筑豊、筑後、豊前、豊後、日田、耶馬渓、宇佐、国東、他にもあらゆるところに鷹がキーワードになって結ばれています。

アニメのワンピースではないですが、一つのことで繋がっていてそれが時代を超えても今でも存在しています。さらに深めていけば、ユダヤとのつながりや檀君神話など世界とも結ばれていきます。

もともと古代の信仰はいつはじまり、そのルーツにはどのような歴史があったのか。もう数千年も前のことは記録には残っていません。しかしよく観察すると地理の中や、文化や伝承などを辿るとその遺り香のようなものを感じることができます。

そしてキーワードを見つけることができたなら、そのキーワードを辿ることで全容が次第に明るみになってくるものです。

もともと先人や先祖は、この土地で何をしていたのか。どのような暮らしをしていたのか、それを知りたいと思うがゆえにその土地に出向きそして暮らしを見つめます。

私も英彦山の暮らしが増えていけばいくほどに、鷹の存在を強く感じるようになります。この鷹は、鷹羽、鷹巣、日鷹、鷹住、大鷹、鷹木、猿鷹日子、鷹天原など鷹の一族の存在が地名に顕れます。そしてそこには伝説や神話がたくさん残されており、今でも鷹を信仰しています。

この先、どのような鷹結びが発生してくるのか。とても楽しみにしています。

自分の直感で気づいたものを辿り、深く洞察して鷹のような生き方を実践してみたいと思います。

 

場を磨く

自分らしさというものがあります。その人の持ち味ともいえるものです。その人の持ち味とは何か、それはその人にしかない味わいのことです。

例えば、私たちが飲んだり食べたりする素材があります。これはその素材の持つものを味わってみようと試みれば色々な味わいがあることがわかります。その味わい方は、いくつも方法があります。料理の方法やその飾り方、環境、あらゆる要素が味わいを深くしていきます。

その他にも味わい深さは、その素材が誕生してたどり着いたプロセスのようなものもあります。滋味あふれる深い味わいは、その素材の真の持ち味ともいえます。つまり、この真の持ち味こそ自分らしさの源泉というものです。

自分らしさを磨いていくには、天命を知る必要があります。他人軸ではなく、自分軸で生ききり、自分に与えられた唯一の道、つまり天命を生きるときその人にしかない深い味わいがにじみ出てきます。

これはその人にしかできないというもの、まさに天から与えられた唯一無二の人生を歩んでいるときその人らしさの持ち味が発揮されるものです。

そして本来、これは特別な人にしかないものではありません。誰もが持っているものです。これを私は徳とも呼びます。徳を磨いていくことで、その持ち味は発揮されます。そしてその徳が集合し、調和していのちが循環するところを私は「場」とも呼びます。

私は場道家を名乗り、場づくりを専門にしています。

持ち味を活かすための仕組み、自分らしくいられる環境づくり、それを頭でっかちに理解してお金にすることを仕事にするのではなく、まさに暮らしの中でそれを体得するという生き方を伝承しているのです。

暮らしフルネスの場に来る人たちはそれを感じることができます。

これから少しずつ、仲間を増やしていきますが気づいた人は訪れてほしいと思います。先祖に報いて子孫に徳をそのままに伝承していけるように場づくりを深く磨いていきたいと思います。