いのちの知恵

私は循環という言葉をよく使います。この循環には様々な意味があります。例えば、めぐるという意味、あるいは全体調和という意味、他にも様々なところで用いられます。

私の場合は徳が循環する経済という言い方をして表現しますが、これは現代の価値観の中で表現するギリギリのところです。そもそも徳というものが何か、そして循環とは何か、経済とは何かということがあっての組み合わせの言葉です。

そもそも言葉は組み合わせでできています。私たちが何かを理解するとき、基本的には全体を理解して一部を切り分けてそこから全体の何がそれなのかという理解をします。

地球を理解するには、宇宙の中の地球になりますし日本になれば世界の中の日本となります。常に全体を広げて相対的に理解するとき私たちはその意味を自分の知りうる認識の海の中で全体のどこに配置するかを定めることで知識を得ます。

しかし古代、古来、本来は知識というものになる前はどうだったでしょうか。言語がなかった時といっていいかもしれません。それは知恵があったということです。知恵とは、言語ではないもの、相対的でも全体でもないもの。存在そのもののいのちのようなものが知恵です。私はこの知恵を表現するのに徳といい循環といい経済といいます。そもそも徳は循環のことです、切り分けられることのないいのちすべてのこと。その姿そのものは循環しています。循環の中にあるから知恵です。これは水の中に流れているものこそ水としていのちとし循環と観るのと似ています。また経済は経世済民のことです。社会のことであり共生や貢献しあう相互扶助の関係のことです。これは体の内臓がすべて循環して助け合い体を維持するようにすべてが繋がり結ばれ調和するから経済になっているということです。

現代の経済は、経世済民の徳治の経済ではなく単なる手段としての経済になっています。それは今の医学のように、内臓のその部分だけをみてそれをよくすればいいという短絡的に切り取られた知識としての経済のことです。

知恵というものは、私たちの伝承の文化の中にこそ生き続けているものです。その知恵こそ野生であり本能であり、偉大な知識の集大成であり結晶です。先人たち、あるいはその知恵を持ち続けていきている先住民族たちはみんな当たり前に徳も循環も経世済民も知恵で一体となって調和し続けています。

言語が増え続けてさらに知識は細分化されて増大していますが、そろそろこの過渡期に終止符を打ってもいいのではないかと私は思います。AIはますます知識の切り分けによっていのちから遠ざかります。

遠い昔、先人たちが実現させた知恵を今一度、子孫たちもバランスよく得られるような環境を甦生していく必要を感じます。日々の暮らしフルネスを通して、いのちの知恵を伝承していきたいと思います。

欲と不安と暮らしの知恵

欲と不安というのは、火と薪のような関係を持っているように感じることがあります。火が穏やかでおさまっているときはいいのですが、そこに薪をくべて火が燃えていくとさらに欲は増大して不安も同時に増大します。その逆に、火が小さく穏やかでいるだめにはあまり火を大きくしないようにすればいいのですがいつか消えるのではないかと不安になっています。

最初から火があることで安心していますが、火がなくなることで不安になるのです。人間というものは、便利なものをたくさん所有すれば所有するほどに所有欲が増大ししていきます。その所有欲はさらに不安を増大させ、さらなる所有をしようとするのです。

私のところによく来て一緒に過ごしている禅僧は、所有欲がほとんどありません。あればいいし、なければなくてもいい。いただけるものはすべて有難いと受け取り、なくなればそれでおしまいという具合です。火がいつも調っているようなまるで炭のような存在です。

私は炭を深く尊敬していますが、炭は一度火が入れば、静かに灰になるまで燃えていきます。もちろん炭をくべればその炭はさらに燃えるのですが、それでも激しくなることはあまりありません。しかしその炭は、もともと薪だったものです。その薪を丁寧に炭にすると火との関係性も変わっていきます。

火の扱い方になれるというは、ある意味で欲の扱い方になれるというということに似ています。そして不安というものもまた、静かに調えていくと身の回りを自然の知恵と共に暮らしていけば安心できることもわかります。

先人たちは、暮らしの知恵をたくさん持っていました。これは欲と不安と上手に向き合うコツを伝承していたのかもしれません。自然と共に暮らし、そして自然の持つ偉大さをいただきながら永続する今を味わう。

自己との向き合い方もまた、この欲と不安が深く関与しますから日々の暮らしを調えていくことが自己を磨き高めることになります。

引き続き、暮らしフルネスの実践を充実していきたいと思います。

暮らしフルネス~もてなし~

もてなすの語源は、「以って為す」が由来といいます。何を以って何を為すのかは、その人が感応して決めるものです。例えば、聖徳太子は和を以って尊しと為すといいました。和こそ、何よりも尊いとみんなで取り組んでいこうとしました。

そしてある人は、真心を以って商いを為すといいました。何を以って何を為すか。これこそが、ここに道徳の極みがあるように私は思います。つまり、徳を以って道を為すということです。

漢字というものは、二つのものが一つになることでその意味を反復するものです。つまり同じ意味を成すことがあります。本来は反観合一であり、すべてのものは一つになりバランスを保ちます。一つに統合するには、何を以って何を為すかを覚悟して実践していくことで実現するように思うのです。

おもてなしというのは、本来は生き方のことです。その人がどのような生き方をしているか、そこに裏も表もなくその人が正直に自分を生ききることでその姿に人々が感銘をうけてその生きざまに感謝しているように思います。

生き方というのは、別に誰かに認められたいというものや見返りがあるものでもなく、効率も効果も意味も必要がなく、その純粋な純度の高い精神と実践で行われているものです。

つまり生き方を以って、人生を為すということでしょう。生き方が尊いからこそ、その生き方を優先してその人らしく人生を盡していくなかで心を味わうのです。決して、消費者に媚びたり、過剰なサービスをしたり、他人軸にあわせてやることを決めたりなどはしていないものです。現代のおもてなしも意味が変わってきているかもしれません。形だけが模倣され、中身がなくなったものが海外に文化として輸出されるもの残念なことと思います。

私はこの場所で、日々に暮らしフルネスを実践しながらご縁のある方々を自然体でもてなしています。いつも行っている実践を一緒に味わう。それだけですが、これが私のもてなしです。そして人生だけでなく仕事もまた、自分がこれが道だと感じることを愚直にやり続けます。評価もされず批判をされることもありますが、これが私のおもてなしであり生き方ですから徳を以って己を磨くことを為すものです。

子どもたちが日本人の生き方を伝承し未来に誇りをもって生きていけるように、丁寧に暮らしを紡いで背中で伝えていきたいと思います。

視野を広げる

塩野七生さんという歴史作家がいます。「ローマ人の物語」というローマの1300年の興亡を描き切った方です。私も読めていないのですが、文章のところどころに視野の広さや戦略のこと、政治と軍事のこと、本当に深く洞察されております。

歴史は、よく見直し洞察すると現代でも起きている戦争や政治の混迷などほとんど似ていることが発生します。似ているということは、過去から深く洞察し歴史から学べるということです。

「戦略は、現状を正確に把握していさえすれば 立てられるというものではない。 過去、現在、未来を視野に入れたうえで、 それらを統合して立てるものである。そうでないと、たとえ勝利しても それを有機的に活用することができない。 活用できないと、戦闘には勝ったが戦争には負けたということになってしまいがちだ。 「自覚」が重要なのは、これこそが一貫した戦略の支柱になるからで、 それが確立していないと、 戦争の長期化につながりやすい。戦争は、攻められる側だけでなく、 攻める側にとっても悪である。 「悪」なのだから、早く終わらせることが何よりもの「善」になるのだった。」

本来の戦略とは統合されているものということ。統合できる視野があることを洞察されています。今のウクライナやロシアの戦争もまた、どのように終わらせればいいか、どの視野でこれをリーダーたちが理解できるかどうかによります。

「兵士を率いて敵陣に突撃する一個中隊の隊長ならば、 政治とは何たるかを知らなくても 立派に職務を果せる。 しかし、軍務とは何たるかを知らないでは、政治は絶対に行えない。 軍人は政治を理解していなくもかまわないが、 政治家は軍事を理解しないでは政治を行えない。人間性のこの現実を知っていたローマ人は、 昔から、軍務と政務の間に境界をつくらず、この間の往来が自由であるからこそ生れる、 現実的で広い視野をもつ 人材の育成のほうを重視したのであった。」

政務と軍務も本来は統合されたものです。それを分業することで視野が狭くなります。広い視野とは、分けないということ。それは一体であるという認識を持つことです。違いを認め合い、お互いの持ち味を活かすことこそ視野の広さを醸成していきます。

組織を含め、分けていくのは簡単ですが分けることで視野はどんどん狭くなるものです。どうやって共生するか、そして統合し思いやりのあるいい状態を創造するかに視野は育つように思います。

他にも塩野七生さんの遺した言葉があります。共感するものばかりです。

「危機を打開するには、何をどうやるか、よりも、何をどう一貫してやりつづけるか、のほうが重要です。」

「戦争は、死ぬためにやるのではなく、生きるためにやるのである。戦争が死ぬためにやるものに変わりはじめると、醒めた理性も居場所を失ってくるから、すべてが狂ってくる。」

「 100%の満足を持つなんて、自然ではない。天地創造主の神様だって幾分かの不満足は持ったに違いない。本当の仕事とは、こんな具合で少々の不満足を内包してこそ、実のあるものになるのだと思う。」
「危機の時代は、指導者が頻繁に変わる。首をすげ代えれば、危機も打開できるかと、人々は夢見るのであろうか。だがこれは、夢であって現実ではない。」
どれも高い視野で語られている言葉です。ローマという国がどのように興亡したのか。そこには歴史の深い教訓があります。人類は今こそ、歴史に学び直す必要性を感じています。
身近な実践から見つめていきたいと思います。

ビジョンを楽しむ

世の中は変化していきます。変化というのは、人々の意識の変化です。変化があるから進歩もありますが、その変化にはビジョンというものもあります。そのビジョンは、リーダーが描きます。例えば、世界をどのように変化させていくことが最善かというのをそれぞれに描きます。それが人々の心をつかむようなものであれば、そのビジョンに向かって人類は進みます。

歴史を顧みると、それぞれの時代にそれぞれのビジョンがありました。これはその時代のリーダーが描いた世界の姿です。特に強烈なビジョンを描いているリーダーに、人は着いていきました。その世界を誰もが信じて取り組むことでその世界のためにいのちを懸けました。自分が世界の役に立てる喜び、そして仕合せのためにいのちを投入していきました。その結果、世界は変わります。しかしそこがゴールならそれで終了ですが実際には続きがあります。世界が変わった後、また続くのです。

すると世界にはまた新たなビジョンが出てきます。そのビジョンに向かってまた人類は世界を変えようとするのです。このビジョンこそ、世界の中心を司っているというものになります。

世界には多数の国が誕生し、それぞれにリーダーが出てきました。そのリーダーが好き勝手にそれぞれに描いたビジョンがありますからその摩擦が発生します。それを戦争ともいいます。ビジョンを維持するためにも、他国と争うのです。これはビジョン次第で正義も変わりますからそれぞれの正義がぶつかることで他者をねじ伏せて正義を保つというのはいつの時代も変わりません。

太古の時代には、仏陀や孔子、他にもアリストテレスなどがすでにビジョンを示しました。そのビジョンはとても偉大なものです。時代が変わっても、諦めずにそのビジョンを追い求めている人々が世界には多数います。

世界はどのようになっていくのか、この時代の変化を味わい新たなビジョンを楽しんでいきたいと思います。

不動の徳

英彦山をはじめ私の郷里には巨石の岩や巨大な岩窟、そして滝などがあります。先人たちはこの場所で修業をして悟りを開き、人々の幸福のために徳を積まれました。修行は様々にあり、決して山中の修行だけではないですがなぜこれらの場所で修行をしたかということです。

岩は簡単には動かすことができません。あまりにも巨大で重機をもってしても山のような大きさがある岩が動きません。動かないもの、動かせないもの、ここには普遍的なものが具わっています。英彦山にいると岩と石ばかりですが石もまた大きなものばかりで簡単に動かすことができません。

その巨大な岩や石の隙間には水が流れています。最近の大雨で、大きな石も流されますが岩はびくともしません。岩の上をすべるように流れる水もまた、岩を動かすことはありません。まさに不動の徳です。

人間は立ち止まることで、自分と向き合い本来の姿を見つめることができます。立ち止まるというのは、動かないということです。動かない存在になってみてはじめて、動いているものの正体などに気づくことができます。動いているもの、それは水です。水が流れるように、滝に打たれているとその水が強く体に沁みてきます。しかしその水は巨大な岩に囲まれ、岩のなかで水を感じると自分が置かれている境地に気づくものです。

岩と水、この二つが和合することで私たちはいのちや徳のもつ不思議な感覚を味わえます。畏敬の念もこみあげてきます。何百年も前からなぜ人々は、磐に坐り、滝に打たれるのか、不思議ですが俗世のあらゆる煩悩を見つめるのに動かないことが徳に昇華されたのかもしれません。

引き続き、子どもたちに不動の徳を伝承していきたいと思います。

今と暮らしフルネス

現代は、過剰な経済競争と都市化によって様々な心身の病気が増えています。また将来のためにとこうすれば幸福になれるという方法論や動機を増すことを教育やメディアによって日々に発信されています。先日、友人の送料がDOINGとBEINGの違いを説明していましたが、まさにどうすれば幸福になれるかといったDOINGばかりを躍起になっている世の中ともいえます。

そんな中、マインドフルネスをはじめ未病のために色々と工夫する方法なども増えてきています。おかしな話ですが、大金をはたいてマインドフルネスの体験をしてまわっているビジネスマンもいます。経済効率をあげ、さらに能力を発揮するためにマインドフルネスを活用するという具合です。それもまた先ほどのDOINGと同じではないかと思うのですが、今の世の中ではなんでも経済、なんでもお金にしないと評価されず、そして認められません。

そういう時代背景こそが病んでいるのではないかと思うのですが、現代は病気も個人の問題として社会や時代のことは他人事のようになっていますから結局はあまり改善することはありません。

私は暮らしフルネスという仕組みを考えて、日々に実践していますがそれは今に集中することができるからです。そもそもこの今に集中するというのは、日々の暮らしを調えていくということです。頭で考えていても、実際には日本古来からの暮らしを丁寧に取り組んでいたらあまり頭で考えるだけで時間を使うことはできません。

朝起床してから夜就寝するまで、実践することが多すぎて考えるだけの時間がありません。なので五感を用いて体を使って暮らしを実践していると気が付くと今に集中しているということになっています。

今から離れることで、人は不安になり体調が崩れます。生きているのが今ですから、今しかないのです。今ではないことを考えるのは、今から切り離されるからです。今に居続けるというのは、今を味わうということです。

頭でわからないことは実践することで身についていきます。引き続き、子どもたちのためにも今と暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

徳の伝承者

私は伝統在来種の高菜を育てて食べていますが、これは伝承のために行っている実践の一つでもあります。伝統古民家や宿坊の甦生もすべて同じところからの実践です。

もともと短期的に自分の世代のことだけを考えて生きていたら、今までいただいてきた恩徳や先人たちの知恵と実践への感謝などを感じにくくなってきます。今の私たちがあるのも、今の仕合せがあるのもそのすべては先人たちが私たちに繋いできてくださった徳があるからです。その徳は、つながっている中ではじめて享受され感じられるものです。

先ほどの伝統在来種の野菜であれば育て続けて種を守り続けていただけなければもうそこで途絶えてしまい食べることはできません。それまで数百年から千年以上、その土地で大切にいのちのめぐりを一緒にしながら美味しく元氣に育ってくれたいのちがなくなるのです。

現代では、種も遠くのものを買えますし、野菜も自分の地域ではないところから送られてきたものを食べています。しかし本来は、食文化というように私たちのいのちそのものこそが文化です。つまり、その場所この今はいのちの文化の延長上に存在しているとも言えます。

いのちの文化は、長い時間、何世代もかけて繰り返し守り続けてきた中に存在します。だからこそその一員になることが今の仕合せを守っていくことになるのです。人は永遠に仕合せでありたいと願うものです。その永遠は、どうやって守っていくのか。それはいのちの文化を守り続けることで得られると先人たちは生き方で伝承してくださってきました。

自分のことだけを考えていたらその仕合せが長続きしないことを歴史や経験から学んだ先祖たちがみんなで徳の伝承者になる道を選んでくださったからこそ今があるのです。

時代が変わっても、普遍的な道は変わることはありません。それが自然であり自然の道だからです。不自然な道は長続きしないのです。子どもたちのためにも徳の伝承者としての実践を続けていきたいと思います。

生き方を見守る教育

先日、国東半島で重光葵という人物のことを知りました。この方は日本の外交官で政治家の方ですが、戦後にこの人物がいなければ日本は公用語は英語になり通貨もドルを使うということになっていたともいいます。そう思うとぞっとします。

敗戦国として状況が悪い中でも、諦めずに日本の未来のためにと尽力された方です。本来、仕事だからや公務だからとかいわゆる職業的な政治家ではなく志を持ってその職に当たる人物が歴史を変えてきました。

そういう人物は生き方が徹底していて、常に覚悟を持って歩んでこられました。日本は運がいいことに、大事な局面でこういう人物がいた御蔭で今まで残ってきたともいえます。

そしてその人物たちに共通するのは、それぞれに素晴らしい教育を受けて育っているということです。その教育は、父母の生き方、天命を全うし徳を生ききることの大切さを説き、信じ切る教育です。そして子もまた、その親に孝行したいと願いながらも感謝を忘れずに自分の与えられた役割、志を貫遂させているということです。この重光葵さんの外交回想録には、父は大分の三浦梅園『贅語』と帆足万里を好んだ漢学の徒であったが「大いに英語を勉強するがよろしい」と言い聞かせていた。母は子どもの教育を片時も忘れる人ではなかった。「御用とあらば会わなくても心残りはない」が母の最期の言葉だった。重光は中国への赴任時に、「汝らの芝居は世界が舞台ぞと 老いたる父も笑みて送りぬ」という歌を詠んでいるとあります。両親の死に目にあえなくても、使命を全うするよう信じ切った親子の深い絆があります。

そして重光葵さんの別荘には「志四海」(向陽)という額が飾ってあったといいます。これは四海を志す。志が全世界を覆う。志を全世界に及ぼすという意味だそうです。

吉田松陰も同じような父母との話がありますし、立派な教育者の陰には常に立派な両親がいます。日本の教育の真の素晴らしさは、この「生き方」を優先し、それをどう成就させるかという見守りによります。つまり「生き方を見守る教育」ということです。

私は今、カグヤという会社を経営し、生き方と働き方を一致させ、生き方を優先しあい尊重しあう社会を目指し試行錯誤しています。時折、現代の価値観との相違から迷うこともありますがしかし子どもや子孫のことを思うとやはり日本のなつかしい教育をいつまでも伝承していきたいと思うのです。

引き続き、先人の生き方に倣い、徳に報いて今の自分を磨き上げていきたいと思います。

徳を引き出す

場所には、目的というものが具わっているものです。何のためにその場所があるのかということを守り続けることができたのならその本質は守られます。しかしその場所の目的が変わってしまったら、その場所そのものが変化してしまいます。

例えば、何百年も人が修行をして大切に磨いてきた場所が単なる消費者のための観光施設や歓楽街などになったらその場所は元の場所ではありません。目的に対して、目的ではないものがあるから穢れがはじまりその場が澱み濁ります。そもそも澱みや濁りというものは何か、それは目的が変わってしまうということです。

これは経営でも同じことが言えるように思います。理念や初心、目的がありはじめた事業もそれを忘れたり変わってしまえば目的が失われます。そうなることで、その場所そのものが磨かれなくなり変わってしまうのです。

私はお手入れやお掃除などをよくあらゆる場所でしますが、その理由はその場所が本来どのようであったのかという目的を探るためです。それを探すには、長い時間をかけて磨いてきた人々の真心や実践をなぞっていきます。

そうやって見つけることができたのなら、そこからまた新たにその場所を本来の場所へと目的を磨き直します。磨き直していくなかで、目的を甦生させそこに関わる人たちに場所の持つ力や意味を伝承していくのです。

歴史というものは、目的がセットです。目的のために命を懸けて人生を賭して取り組まれたものがあります。その尊さを知り、そして敬い、それを伝承していくことは、先人への御恩を忘れず、子孫へとその徳を譲り渡していくことになります。

自分の世代のことだけ、自分のことだけ、その時だけその場限りという生き方では、目的など感じられなくなってしまいます。もっと長い目でみて、何のためにそれをやったのかとみんなが感じていけばその目的の尊さに触れて人と場は磨かれていくのです。

引き続き、私は私なりの徳積を実践していきたいと思います。