似て非なるもの

昨日、自然農の田んぼの草刈りを行いました。この時期は初期の見守りの大切な時機で、1週間田から離れただけであっという間に稲だけではなく周りの雑草も勢いよく伸びてきます。肥料も農薬も使わない農法というものは、見守ることによって育つのを支えていく農法です。だからこそ、田んぼの中に入り自分の手と眼で触りながら稲の様子を一つ一つ確認していくことが自然農をするうえで何よりも大切なことです。

草刈りにおいていつも気づくことがあります。それは稲の周りにとても稲によく似た草が沢山集まってくることです。例えばイネ科のノビエ(イヌビエ)などは酷似しており、慣れていないと間違って稲の方を刈ってしまうこともあります。この稗(ビエ)は田植え前後に芽生えたらほとんど稲と同じサイクルで育ちます。さらに稲が刈り取られる前にすべて種を散らしますから毎年かなりの量の稗がまた翌年出てくるのです。初年度の取り組みのときはこれにかなり苦戦したものです。今では、苗の時にしっかりと関係性を築いてから本田に入れますから自ずから稲の気配のようなものも感じ間違えることが少なくなってきました。

しかしこの「似て非なるもの」が如何にこの自然界の摂理であるのかをこの時期はいつも痛感するのです。ほとんど見分けがつかないこの稲と稗ですが、実際は収穫においてとても大きな差が出て来ます。

この「似て非なり」という諺は孟子の言葉です。孟子は「似て非なる者を悪む。ゆうを悪むは其の苗を乱るを恐るればなり」といい、これを徳の賊であり道の人ではないと言います。似非(えせ)ものという言い方もここから来ています。

この孟子を引用し、佐藤一斎の「言志四緑」ではこう言います。

「匿情は慎密に似たり。柔媚は恭順に似たり。剛腹は自信に似たり。故に君子は似て非なる者を悪む」

つまり感情を表に出さない匿情は、慎み深い親密な様子に似ている。物腰柔らかく媚びる柔媚は、うやうやしく従う恭順の様子に似ている。剛情でいじっぱりの剛腹は、自分の力を信じて疑わない自信のある人の様子に似ている。それで孟子に、「孔子曰わく、似て非なる者を悪む」とあるのは、このことを言っているのであるといいます。

見た目がいくら君子に似せていても、当然その本質や中身は本物の修養と人格によって異なります。見た目君子や見た目良い人は今の時代、見分けがつきません。それだけスピード社会で情報化が進んで、時間をかけずに世間の評価や見た目で誤魔化しさも本物のように振るまいそれが本物に取って代わったような時代になっているとも言えます。先日からブログで書いている「家」のことでは、ハウスとホームの異なり、リフォームとリメイクも異なりと同じくそれが混同されて間違って使われているのと同じです。本や知識が横行し、頭でっかちになればなるほどに本能が減退してくるのでしょう。

だからこそ常に本質は何か、本物とは何か、そういうものを見極める目は自然の中に入ってこの「似て非なるもの」に気づく感性を磨くしかないと私は思っています。

 
また森信三先生はこう言います。「すべて物事は、平生無事の際には、ホンモノとニセモノも、偉いのも偉くないのも、さほど際立っては分からぬものです。ちょうどそれは、安普請の借家も本づくりの居宅も、平生はそれほど違うとも見えませんが、ひとたび地震が揺れるとか、あるいは大風でも吹いたが最期、そこに歴然として、よきはよく悪しきはあしく、それぞれの正味が現れるのです。」

古民家再生を深めていく中で、如何に近代建築が永くもたないことに気づきます。見た目の強度ばかりを誇り、実際に天災がくれば天災が大きかったからという。しかし何百年も今でも顕在する古民家のことは議論にもしようとしない。こういう浅はかな考え方が偽物をこの世にたくさん生み出していきます。偽物とは、歴史や自然の篩にかけられればすぐにバレます。こういうものを付け焼刃の刀とも言い、必ずメッキは剥がれるように思います。

後世の人たちにわらわれないように常に「似て非なるもの」を自戒し、本来の姿に立ち返り実践により本物になることを目指したいものです。子ども達は本物を直感的に察知しますから、その子どもたちに恥じないように着実に成長していきたいと思います。

 

教養とは何か

「教養」というものがあります。

これは、イギリスでは「Culture」と呼び、ドイツでは「Bildung」と言います。辞書によればこれは単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術などを持つ人のことを言います。その他、社会人として必要な広い文化的な知識であってそれによって養われた品位であるとも書かれます。社會をつくる人間を教育する理由、その教育の本質は「教養」を身に着けることにあります。

これは単なる知識を持っている人を教養とは訳さないことが分かります。教養があるかどうかはグローバル社會において何よりも大切です。単に学校などで知識を得た人が世界に出てもそれは今の時代ではパソコンをもってインターネットがあれば膨大な知識は瞬時に使えますからそれでいいとも言えます。では世界で活躍するためには何が必要か、そこには必ず「教養」が要るのです。

有名なジャーナリストに池上彰さんがいます。この方が教養のことをこう言います。

『たくさん本を読んで、知識が豊富になれば、それで「教養がついた」ことになるかというと、ちょっと違うような気がします。自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができて初めて「教養」が身についた、と言えるのだと思うのです。』

自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができるか、それが教養が身に着いてきたという一つのモノサシです。ではなぜ伝えられないかということです。知識をものにするにはやってみなければ本当の意味で分かったことにはなりません。さらにその知識を深めて追及し、自分の中で咀嚼し自分のものになってはじめて伝えることができます。そしてちゃんと伝えるためには、その知識を語るための膨大な経験や暗黙知、そして理論や形式知が必要です。そのためには徹底して取り組んで深めていかなければ伝えることが出来ないのです。

また最近、古民家再生で知ったアメリカ出身の東洋文化研究者のアレックス・カー氏が教養について同じように話しています。

『知識が豊富なだけでは、教養とは言えません。いろいろ知っていたとしても、「その知識のどの部分をどう伝えれば人の心を動かせるか」が分からなければ意味がない。』

そしてこうも言います。

『残念ながら今の日本からは、世界中の人の心をつかむような商品やサービスが登場していない。これはビジネスパーソンの多くが、すぐに通用する仕事のスキルを身につけることばかりに熱心で、真の教養を身につける努力を怠ってきたからではないでしょうか。』

真の教養とは何か、本当の教養とは何か、それを身に着けない限り世界に出たとしてもその人は世界で通用する人物にはなりません。世界で活躍しようと大志を抱くのなら、まずは自分の根元を深掘ることが大切です。その上で、世界共通の物差しを自分の中に確固として持つ必要があります。それは単なる自分の価値観ではなく、普遍的なものを自分に持つということです。言い換えるのなら、真理に精通するといってもいいかもしれませんし、文化そのものになるといってもいいかもしれません。そういう本物の自然体の人物こそが世界でははじめて価値観を超えて話し合いができる人に成り、世界の中で自分を活かし世界について語り合えるリーダーになるのです。

そしてアレックス・カー氏はこう言います。

『教科書に書いてあったり、一般的に言われたりしていることをそのまま鵜呑みにし、お行儀よく「枠」に収まっている限りは、自分の血肉にはなりません。疑問を持って調べ、「枠」から出る。筋力トレーニングと同じで、その繰り返しが教養を高めてくれるはずです。』

自分の手で触り、自分の眼で見て、自分の耳で聴き、自分の声で伝える、そういう全身全霊の感覚をもって直感しコツを身に着けていきつつ、それを言語化して伝達できてこそはじめて本当の教養の入口に入るのでしょう。

そして教養は真に日本人になったとき、はじめて身に着いたといっていいのかもしれません。時代は変化していきますが、子ども達のために本来の姿、本来の生き方、死生観、歴史観、大局観、等々、それに和魂洋才、和魂円満、学び直すのにキリがないですが自然と子どもをお手本にして理念を明るく取り組んで味わっていこうと思います。

誠の成長~いにしえのいま~

現在、古民家を復古創新に取り組んでいく中で日本文化について観直しています。今の時代は、どこか西洋が新しく日本が古いという考え方があるように思います。古いか新しいかという二者択一の分別されたものは所詮は新古です。温故知新というものの語るのはその新古の違いではなく、その中心にある繋がりやむすびのところです。

明治維新以降、日本はそれまでの日本文化の中に西洋の文化を取り容れるという時間をかけた進化を手放し、一気に西洋化するというように日本文化から西洋文化への入れ替えをしました。その際、今まで大切に紡がれ大事に守られてきた精神性やその生き方なども排除し、まったくもって西洋の考え方や精神性が優れているとし、無理やり総入れ替えを行いました。

それは今まで時間をかけてじっくりと日本の文化の中に取り込んでいくということで行われる温故知新の発達と発展を否定したものでした。そして今ではもっと早くもっと便利にと手っ取り早く手に入るスキル的なものばかりが価値があると思い込み、より一層、かつての日本の文化を否定するようになっているともいえます。日本文化は今、まさに消失の危機に瀕しています。

これは私たちの生き方や暮らしが変わってきたともいえ、それは学び方も変わったということです。例えば武士道といっても、今ではほとんどがそれが日常で語られることもなく、日本人が古来から大切にしてきた美意識や美学というものも今ではほとんど身近に感じません。

しかし古民家再生をしていく中で、いにしえの先祖たちと対話を続けているとそこに暮らしてきた人々の持つ高い精神性に触れる機会が多く出てくるのです。そこには何でも時間をかけてじっくりと取り入れて成長させていくこと、真の意味での成長と発展があり、まるで木々が年輪を経て大樹になるように確実に進化しているのを感じます。

本来の進化というものは、とってつけたような付け焼刃でするものではなく永い時間をかけて何度も振り返り自らを修養していきながら行われるものです。すぐにスキルに頼り、すぐに便利なものや楽なものばかりを探そうとするのはとても温故知新しているとは言えません。

温故知新の古さと新しさは、単なる古い新しいではなく古来の真心を持った人物が今の時代の成長に合致して自然に理に適ったものを創造するということでしょう。普遍的なものや本質的なものは、自然美が観えなければ知り得ることはありません。

自然の持つ変化と成長は、便利に楽にその場しのぎで行われるものではなく永い歴史と循環、そして順応と発達、発展により地道に行われるものです。それは私たちの行う理念の実践に酷似しています。

ちょっとずつ成長していくことは決して遅くてダサい古いことではありません。むしろその中で着実に成長するのならそれは温故知新しているということです。そういう観点は自然の中に入ることで気づいていきます。古民家や町家の中にある自然を感じる暮らしは、私たちに変化の大切さを教えてくれます。何でもスピードを出せばいいのではなく、自然循環の速度と合致することが「はじまりを知る」、いにしえのいまに触れることなのです。そういう日本古来の生き方や暮らしを繋ぐ存在によって子ども達にいにしえの初心は伝承されていきます。

もう一度、日本人の暮らしとは何か、与えられた機会に感謝して学び直していきたいと思います。

道と家と暮らし

家のことを深めていると、家には暮らしがあってはじめて家であることが分かります。以前、ホームレスとハウスレスということをブログで書いたことがあったと思います。現在は都会で野宿していても愉しそうに集まって賑やかに生活している人もいれば、高級マンションに住んでいても孤独に一人ぼっちで仲間がいない人もいます。家がないはホームレスの人ではなくハウスレスであるということ、ホームというのは単なる建築物ではなくそこには温もりのある家族や仲間があって家があるのです。

そしてこの家というものは、自分が暮らしてはじめて家になります。一家の一員としてどのように生活をするのか、家族や仲間を大切に思いやり温かい関係を築いていく中で家は次第に住み心地がよくなり居心地が善い安心基地になっていきます。それをホームだと思っている人は多いと思います。

スイス生まれの建築家ル・コルビュジェの言葉に「家は生活の宝箱でなくてはならない」という言葉があります。言い換えるのなら、生活が宝だから家が輝くとも言えます。つまりそこでの美しい楽しい味わい深い一家の家族や仲間との暮らしが宝と感じられることこそが家の定義であるのです。その宝を日々に発見していく場が家ですから、その家の雰囲気や風格、家風といってもいいかもしれませんがそれが暮らしを彩っていくのです。

一家があれば野宿であってもそれは単なるハウスレスなだけで其処にホームはあります。いくら家が豪華絢爛で豪邸であったとしてもそこに家族がなければ単なるそれは建築物です。家は家族や仲間があってこそ家になりますから、家を与えられたことが嬉しいのではなく家に一緒に暮らす仲間があることが何よりも嬉しく有り難いのです。

古民家の再生というものは、建物の再生と暮らしの再生があります。私がやりたいのは建物の再生ではなく、暮らしの再生なのです。暮らしこそが仕合わせで、暮らしの中の美しさも豊かさもまた歓びもある。そういうものを子ども達に伝承していくために家が必要なのです。一家の伝承をするにおいて当主として何をなすべきか、それを辿っていると自ずから自分の役割と環境に感謝の気持ちが湧いてきます。古民家再生をするという意味を正しく伝承していきたいと切に思うばかりです。

最後に、もう一人、日本を代表する建築家、安藤忠雄さんの言葉です。

「環境とは、与え、与えられるものではない、育ち、育てるものである。」

これは家人としての心得だと私は思います。家を建てる人だからこそ家の本質を語っている言葉です。つまり環境は自ら創造するものであって、与えられたからそれでいいわけではない。それは自ずから育つことと自らが感化して育てていくことなのです。自らが主体的に暮らしてこそ家ができ、その家を大切に守るからこそ暮らしは継承されていくのです。そしてこれが家なのです。

世阿弥が、「家、家にあらず。継ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもって人とす。」と言いました。つまり「道の家とは、血筋で繋がるものではない、その道を伝えてこそ家といえるものである。その家に生まれただけでは、道を継ぐ者とはいえない。道を知ってこそ、その道を継ぐ資格がある人ということである。」という意味です。

神家本家のカグヤ道は、道を実践することで「暮らす家」にすることなのです。今の時代に、先人たちの生き方や先祖たちが大切に譲っていただいたことを遺し譲ることこそが子ども達のためにその真心を勿体なくしていくことです。引き続き、種徳を立て、眼花の花にならないように子ども第一義の理念を優先していきたいと思います。

 

 

 

 

歴史を学ぶとは何か

昨日、福岡県八女市で有名な町家再生の設計士の方とお会いしてお話をお伺いするご縁を頂きました。その方は、もうすでに八十以上の古民家の再生を手がけており町並み保存や文化財の調査、人財育成等々にいたるまでありとあらゆる活動を志で取り組まれている方です。

古民家の修景ではなく修理をすることを本筋とし、如何に後世に「本物を遺すか」ということを重んじられていました。現在は、ほとんどが予算の関係から町の景観だけをよくするために外見の見た目はそれ風にしますが本質的に古いものを修理修繕するわけではありません。そうではなく、丸ごと直すという観点で人、場、ものにいたるまでに全てに総合的に修理を手掛けておられました。

昨日は福岡の聴福庵を見ていただき、傾きをどのように修理すればいいかだけではなくまたこの古民家がかつてどのように使われていたか、そしてどのような修理を今まで行ってきたか、その歴史について色々と教えていただきました。

お話の中でもっとも印象に残ったのは、阪神淡路震災の御話でした。実際に文化財や古民家など震災後に壊れてしまい実際に調査をしたそうです。すると9割が壊されいたそうです。その実態を調べると、古いものには価値がないと業者が新築を勧めて壊していったものがほとんどだったそうです。古いものの修理修繕は無理だからと、文化財や古民家への理解がない人たちがそれまで大切にされてきた歴史を考えずに安易に取り壊してなくなってしまったそうです。

その方の『これは古いものを単に捨てて新しいものにしたのではなく、それは歴史を捨てたのだということに気づいていない』という言葉がとても深く心に印象に残りました。

よくよく考えてみると、家が何百年も続くというのはそれまでの先祖たちの暮らしや生き方、生き様、そういうもの遺っているということです。家では柱の傷などもそうですが、かつて子ども達がせいくらべした傷や落書きの傷、その他大切されてきたさまざまなものが「思い出」として間に宿っています。そういう観点で見れば文化財とは何か、それは歴史の宝そのものなのです。

そういう歴史を安易に捨てるということは、思い出を安易に捨てるということです。本来人は何のためにこの世に生まれてきたか、それは思い出を残すためではないかと私は思います。生き様を遺すと言い換えてもいかもしれません。一生一度、一期一会にこの地上の楽園に生まれ出てきたいのちに神様が平等に与えてくださっているものは「思い出」をつくれるということです。

このことから洞察すると今の時代は決して新しいものばかりが価値があると人々が信じている時代というわけではなく、歴史を大切にしなくなった人々が増えている時代に入っているということです。歴史というのは、先祖との対話です。先祖の生き方との対話を歴史を通して学ぶのです。古民家を通してその方がじっくりと先祖と対話しているのをみて、私は魂が揺さぶられました。

私自身、もっと先祖たちを尊敬し先祖たちの偉業と真摯に対話ができるよう歴史と正対していこうと改めて決心する有り難い機会になりました。新しい御縁はすべて学び直し、生き直しの大切な時機、このまま古民家から色々と教えていただけることに感謝して自他一体の自己修理を進めていきたいと思います。

自然の学問~大局観~

現在、知識という便利なものを使ってから体験をすることよりも知識を持つことが価値があるかのような世の中になっています。大学をはじめ研究というものも本来は実践があっての研究であるのに、研究のために実践になっているのなら何の意味もありません。

本来は研究すること目的ではなく、現場が困っているから具体的な解決方法を研究する必要があるのです。そして本来の研究とは、実践ののちの研究のことであり体験したことが何だったか、そこから何に気づき直していけばいいかの改善の集積なのです。

そしてこの改善には、知識ではなく「感覚」を用います。感覚というものを身に着けるには失敗が要ります、失敗を通して様々なものを学び感覚を研ぎ澄ませていくのです。知識が多い人は失敗を過度に怖がります、それは知識は失敗では研ぎ澄ませず修正するだけだからです。習得するのなら、本来の学び方である失敗を通して感覚を身に着ける、古来の言い方では「コツを掴む」ことで学習は成立していきます。

民藝という言葉を起こした思想家に、柳宗悦がいます。その遺した有名な言葉に『見て知りそ 知りてな見そ』があります。これは「なんでも見てから知れ、知ってから見るんじゃない。」ということです。

言い換えれば知識から入ってものを知ってはならぬ、分かった気になってはならぬ、まずは見てから、やってみてからのちに知ればいいし分かればいいと言うことでしょう。

知識を持ったからといってその本質が理解できるわけではありません、具体的な実践を通して本質を知り本物になります。つまり体験の質量こそが、その人の感覚を研ぎ澄まし本来のその人の持つ全身全霊の力を引き出していくということなのです。

現在はすぐに何かをやろうとすると知識から入るものです。私の場合は知識がないけれど好奇心があるからすぐにそのものに触れます。自然農をすればすぐに虫刺されや怪我をします、古民家を再生しようとすればすぐに弱いものを毀してしまいます。痛い思いをして失敗ばかりをしては、なぜこうなったのだろうと反省内省してそこからもう一度すぐにやり直してみます。

その繰り返しを何度も何度もしているうちに、自分のカラダの中にある「感覚」が呼応してきます。そうしているうちに身に着けたのは「大局観」です。つまり事物の大局を理解するチカラ、そのものに触れるチカラ、邂逅の力のことです。

人は触れていくことで次第にそのものが”自分に馴染んで”きます。この馴染んでくるというのは場数とフィードバックが欠かせません。そうやって何度も失敗して経験して学び直していくことが成長することであり、成功よりも大切な学問の醍醐味、そして連綿と続いてから太古からの道と大義が感じられるものです。

どんなことも「見て知りそ、知りてな見そ」で、接していく姿勢こそが自然の学問ということでしょう。引き続き、挑戦を愉しみ与えていただいている失敗に感謝して歩んでいきたいと思います。

 

自然への畏敬~弱弱しさ~

昔の日本の家屋のつくりは今の時代の家屋と違って弱弱しくできています。障子やふすま、土壁にいたるまでありとあらゆるものが寄りかかっただけで壊れたり破れたりするものばかりです。

しかしそういう弱さの中で、ものを大切にする生き方が自然に身に着いてきたように思います。これは私も思い出せば虫で遊んでいるときに虫を不意に傷つけてしまったときの感覚に似ています。弱弱しさというのは、いのちに触れることであり自然はすべて大切に扱うということがどういうことかを学んだように思います。

日本のかつての家屋は、自然と一体になってつくられていました。何かの非日常の大きな災害があればすぐに被害を受けていたともいえます。しかし自然を畏れ、災害に備えるからこそいのちを存えてきたとも言えます。

自然を敵対し、自然に一時的に勝ったと思ってもそれはあくまで一時的であり大きな災害が緩やかな浸食には誰も勝つことができないのです。世界にあるものが必ず年月を経て風化していくことをみれば必ず壊れていくのは自明の理です。そうやって世界は循環を已みませんからこれは自然の姿だとも言えます。

その自然に逆らうのではなく、自然と一体になって生きようとするのが先人達の智慧でありそれが昔の家屋にはふんだんに取り入れられています。例えば、弱いといったさきほどの家具類は敢えて弱くつくることで手入れをするようにつくります。障子なども破れれば張替、傷めば取り換え、その都度手入れをすれば数十年、いや数百年でも持つのです。

今の時代の家屋は、手入れをしないでどこまで持つのかという基準でものづくりがされています。そして壊れれば捨てるのです。「捨てる」ことが前提でものづくりをしますから、壊れないもの強いものに固執するのです。

しかし本来、永く使えて丈夫なものと考えれば本質は弱いもののほうが強いし長持ちするのです。ただ前提が「捨てない」ということが基準になっています。そしてそれが「もったいない」という精神と密接につながっているとも言えます。

この前提をひっくり返さなければ強いものが弱いことに気づかず、弱いものが強いということにも気づかないのです。先人たちは、ものを粗末にはしませんでした。それだけものの価値に気づいていたとも言えます。また長い目でものを探していたからこそ、永い時間耐えることができる弱いものの扱いに慣れていたとも言えます。今の時代は短い目でしかものを探しませんから見た目ばかりにこだわり強度を強くしていますからものの扱いなど気にしなくなっています。

昔の家屋や道具、骨董と呼ばれるものは扱い方を間違えばすぐに壊れます。自分たちが扱い安いものを増やして道具を変えるのではなく、道具にあわせて自分たちが変わる方がいいと謙虚な生き方をしていたのが観えます。

自然を畏れる生き方とは、自分の方をサラリと変えてしまう生き方です。引き続き、復古創新を味わって学び直していきたいと思います。

 

直観力とは何か

古いものに触れていると様々な価値観に出会い、そして新しい直感が滾々と湧いてきます。一昨年より磨くことを深めていると、磨くというのは直感と似ていることに気づきます。ひょっとするとこれは「直感を磨く」という言い方をしてもいいのかもしれませんが、磨くから直観が冴え、直感が冴えるから磨かれるのです。つまり直感は本質が磨かれていくということなのでしょう。

例えば、冒頭の古いものでいえば古いもの、経年変化したものに触れて手入れをして磨いていると磨いているうちに次第にそのものの持っている本当の価値に出会います。その価値を知り自分がもう一度再定義し直し、それを今の時代に活かしたならそこに直感的に色々な感性に出会います。それが作り手の思想であったり、またその素材の持つ特性であったり、経年変化して生き残ってきた徳性であったりと様々です。これも一つの多様な価値に触れて自分の価値を磨くことになり直観を育てていくのです。

将棋の羽生善治さんの「直観力」(PHP)に直感に関することが書かれています。その帯には、「自分を信じる力。無理をしない、囚われない、自己否定しない。経験を積むほど直観力は磨かれていく」とあります。

そして『直感を磨くということは、日々の生活のうちにさまざまのことを経験しながら、多様な価値観をもち、幅広い選択を現実的に可能にするということ』といいます。そのためには『考えや価値観の幅が狭いと、直感の判断根拠が乏しいかもしれません。普段から「こうに決まってる」「ふつうこうだ」などと考えていては、鋭い直感は得られない』といいます。

自分の中の小さな常識に縛られきっとこうであるはずだと思い込むことやふつうはこうだなどと囚われることで直感は失われていくということです。マジメで常識的であればあるほどに発想を転換することができないように思います。私はこの発想の転換こそが直観力の醍醐味だと思っています。ではこの直観力をどのように磨くのか、羽生善治さんはそのために気を付けていることがあると言います。

『いつも、「自分の得意な形に逃げない」ことを心がけている。戦型や定跡の重んじられる将棋という勝負の世界。自分の得意な形にもっていけば当然ラクであるし、私にもラクをしたいという気持ちはある。しかし、それを続けてばかりいると飽きがきて、息苦しくなってしまう。アイデアも限られ、世界が狭くなってしまうのだ。人は慣性の法則に従いやすい。新しいことなどしないでいたほうがラクだから、放っておくと、ついそのまま何もしないほうへと流れてしまう。意識的に、新しいことを試みていかないといけないと思う。』

人は誰しも自分の価値観のメガネをかけてこの世の中をみています。その人の価値観が狭ければそれ相応の狭い世界、その人の価値観が融通無碍であり無限で自由あればあるほどに観えている世界は多様で広大です。私があらゆることに興味を持ち深めるのも、自分の価値観を常に壊して常識に縛られないように工夫するためでもあります。新しい世界、たとえば今までかかわることがないような文化に触れることもまた挑戦ですし、今までにやったことがない方を選んだり苦しい方を選ぶこともまた新しい試みなのです。アイデアが停滞するとき、私は敢えてやってみたことがない世界に入っていきます。回り道や寄り道をしているように見えてかえってそのことで直感が磨かれ本業の志を助けてくれるのです。

そして直感を磨くには、日頃から「アウトプット(捨てる)」する必要を説いています。そこにはこうあります。

『過去の知識や情報は、すべて素材だ。それらは、次の新しいものを想像する素材として利用されるためにある。過去の素材であっても、適切に組み合わせれば、新しい料理をつくることができるのだ。しかし、情報をいくら分類、整理しても、どこが問題かをしっかり捉えないと正しく分析できない。さらにいうなら、山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」、そして「出すか」のほうが重要なのである。情報メタボにならないためにも、意識的に出力の割合を上げていくことが重要になる。』

直観力というのは集中力ですから、ひとたび信じて動きだせばすぐに膨大な情報を取り込んでいきます。そして直感のアンテナが立ったなら世界のあらゆるところから情報が集まってきます。それを取捨選択するチカラ、つまりは捨てるチカラが求められます。言い換えるのなら、思い込みを捨てるチカラです。そのために自分の中にある常識を一つずつ壊していく、そういう日々の研磨と練磨、「磨きあげる」ことが何よりも必要だと私は思うのです。

磨きあげるのは、単に掃除や手入れをすればいいのではなく本質的な試練や苦難といった自らを研鑽する機会と経験という砥石によって自らを磨かなければなりません。そのために志を高く持ち、そこから訪れるその一つひとつの御縁を選ばずに引き受けていく人生、もしくは来たものをすべて受け取りそれを福に転じていく人生、それが直観を磨き本来の生きるチカラを高めていくように私は思います。

何をしていてもすべては本懐を遂げる一点に集中する。

直観はいつも陰ひなたから自分を助けてくれる大切なパートナーです。自分の思い込みを信じず、自分を信じて引き続き様々な実践を愉しみ味わっていこうと思います。

 

 

 

 

子どもの志事

今の時代は、短期的に物事を考えて正解を出すあまり長期的に考えることを否定しているようにも思います。物事というのはどんな物事であれ、短い目でいくら正解だと思っていてもそれが長い目で見た時に正解になっているとは限らないのです。いや、ほとんどすべてが長い目で観た時には間違っていると言っていいかもしれません。

例えば、環境問題もそうですが子どもの少子化対策のことや待機児童のこともそうです。今さえ何とか乗り切ればいいという政策や、そこに纏わりついてしまうビジネスは時流などと言い方をしますが長期的にみて方向性が間違っているものばかりのように思います。

「子はくにの宝」といい、昔は子孫のことを考えて今の時代を生きる人たちはその責任を果たしていました。しかし今は、目先の問題に対処するばかりで根源的な改善を怠り対処療法ばかりでやり過ごすうちに長期的に観て実践をすることよりも短期的に方法論ばかりを試すような浪費ばかりを重ねていきます。

これでは日増しに体力は消耗していき、何代か先の子孫にとても大きな負債を遺すことになるかもしれません。本来、私たち今の世代は子子孫孫を子どもだと定義し、その子ども達にどういう恩恵を譲っていけるかをみんなで考えて行動していなかなければなりません。それが子どもを思う親心ですが、子どもをあてにして経済ばかりを追い求めて疲弊していたら本末転倒するようにも思います。

アメリカにネイティブインディアンの古老の教えと掟というものがあります。ここには「どんなことについても何かを決めるときは、そのことの影響を七代先まで考えなくてはいけない」とあります。具体的にはこう書かれます。

「あなたが重大な決断をし、行動を起こす前には、あなたの親、祖父母、そして先祖を7代に渡って遡り思い返します。そして同時に自分の子供、孫、曾孫と7代先の将来の子孫のことを考えます。あなたの行動と決断が過去と現在を尊重していると確信できるとき、そして未来を7代に渡って守っていると確信できるとき、あなたは良心にしたがって前進することができるのです」

今のことばかりを考えて判断するのではなく、その判断は果たして7代先に渡って守っていけるものかを確信できるかという問いを持って判断せよということです。その時のみ、はじめて今の世代の判断が間違わないということです。

何代も先のことを考えて木を植えたり、何代も先のことを考えて大切なものを遺すようにと陰ながら活動している人たちが世の中にはいます。そういう人たちはみんな今の資源がかつての先祖たちが私たちに遺して譲ってくれたことを知っています。その恩送りをするために、今の自分にはすぐに利益がかえってこなくても先々の子孫のためにと活動を已めないのです。

こういう人は長い目で物事をみて、根本的に考え、本質から外れることがありません。ネイティブインディアンの「良心」という言葉は、「本質」とも言い換えれます。

物事はすべてにおいてどれだけ長い目で観ているかということが視座を高めるのです。それは保身ではなく、保育の生き方、この仕事は本当に歴史を考える志事であると感じます。

引き続き、今の実践が将来の子ども達にどんな影響を与えていくかしっかりと見通して丁寧に取り組んでいきたいと思います。

価値の再発見と再定義

人は価値観というものを持っています。それはそれまでに育ってきた自分の境遇や環境によって左右されてきますが、価値があるかないかを決めるのもその人だとも言えます。

その価値観は時代によって左右され、ある時代では価値があったものがある時代ではまるでゴミやガラクタのような価値になっていくことがあります。人が生きていくということは価値観によってですがその自分の価値観がどうなっているのか時折確かめていかなければ時代の価値観だけに流されてしまうのかもしれません。

如何にどのものに対しても自分が新たな価値を見出すか、そしてその価値を自分が再定義するか、そこに時代時代の本質を守る鍵があるように私は思います。

例えば、田舎と都会ということがあります。田舎にも様々な楽しみがありますが、都会にも様々な楽しみがあります。しかし実際は田舎の価値は田舎の人の方が気づいていなかったり、都会の価値も都会の人が気づいていなかったりします。そこでの生活が当たり前になってしまえば価値があるかどうかも分からなくなっていくのです。

これと同様に価値というのは、当たり前になることで価値が失われていきます。如何に当たり前ではないことを自覚し、その当たり前ではないことを活かすかが価値の発見であり価値の再定義になるのです。当然、その当たり前を見破るその根本には感謝が基礎や基本になっています。

温故知新なども同じく、その当たり前であったことをもう一度確認してその上でそれが当たり前ではなかったことを知る。そのことで物事の本質に気づき、価値が新たに生み出されていくのです。ファッションの世界なども、同じく昔のものが時代を経て入れ替わりまたデザインされて順繰りと回転し続けているだけとも言えます。

時代時代で本質をちゃんと維持していく人は、その時代の価値を正しく見極め、そしてその価値を刷新して原点回帰をしてもう一度世の中にその価値を弘げていくことができます。

この「価値に気づかせる」という言葉は、「刷り込みを取り払う」ということと私は同じ意味だと信じています。それまでに当たり前だと思った常識を目から鱗がとれるように取り払ってみる。そして常識を壊して自分の発想を転換して新しい世界に気づかせる。そういうことこそが価値を発見し価値を再定義することだと私は思います。

人間は時代が変わっても実際にやっていくことは同じことですが、本質を維持する人と本質を忘れる人がいるだけの話のようにも思います。本質は考えるだけではなく、自然に触れて自然の本能を同時に磨く必要があるように思います。そしてそれができる人だけが、田舎であろうが都会であろうがどちらでも楽しむことができるのです。

伝統か革新かではなく、常に本質は価値の再発見と再定義です。古来からの魂を維持しながら今に柔軟に合わせていく、いにしえの道具を用いながら、最先端の道具も活かしていく、本当の革新が本来の伝統であるのだからその両輪の一致するところにこそ私は本質があると感じます。

引き続き、理念を優先しつつ実践を愉しんでいきたいと思います。