自然への畏敬

自然農の畑で高菜の間引き作業をしていると、根元にテントウムシたちが越冬のために隠れています。よく木の皮に隠れている様子をみたことがありますが、高菜の根本にも何匹も隠れている様子に同じように越冬しやすい環境があるのだろうと驚きました。

何でも手作業をしていると、今まで見えなかったものが観えてくるものです。

今は何でも簡単便利に機械やお金で解決する方法で楽をして一気に効率よく進めることが良しとされる価値観があります。手間暇かかることを避け、出来る限り面倒なことは避けたいとエスカレーター式に進んでいくことを望んでいる人も増えました。

今では田んぼや畑に入っても土を触らないで稲を育てられる時代になっているとも言えます。しかし実際は、自分の手で土を触り、自分のカラダで感じなければいのちの様子は感じることはありません。肥料も農薬も使わないというのは、不便で手間暇かかりますがその豊かさというのは自然に触れることができるということです。

先ほどのテントウムシも、その他の虫たちもみんな其処に暮らしています。冬に血液を凍らせないでじっと越冬する様子に、今まで厳しい自然の中で生き延びてきたのだと感じると尊敬の念が湧いてきます。

かつて地球は何度も寒冷期があり、太陽が隠れて厳しい時代があったといいます。その中でどうすれば生き延びれるかを考えて、またその時代が来てもいい様にと敢えて厳しい自然に身を置き続けています。自然はいつまた変化するかわかりませんから、「危機に備える」チカラを捨てることはありません。

私たち人間は、あまりにも豊かであまりにも贅沢な暮らしが続くと危機感というものが喪失していきます。そして変化が来た時、気が付くと自然に順応できずに滅んでいきます。

よく自然を観察しては、どのように生き延びてきたかを学ぶのは変化を学び直すことでもあります。変化できなくなるとき、人類は危機が訪れますから自然をお手本に学び直しを続けていきたいものです。

子ども達に大事なことを伝承するためにも、自然に正対して畏敬をもって語り継いでいきたいと思います。

ほのぼの

先日、「ほのぼの」(仄仄)という言霊に気づかせていただく機会がありました。私たちがおもてなしで心を籠めて取り組んでいる実践を「ほのぼのする」と表現してくださった方がいたからです。

この「ほのぼの」というのは、心を顕す言葉であり「心暖まる」「心和らぐ」、他には「心が癒される」という意味になります。人には心がありますから、心がいつも豊かで仕合わせであるというのはこのような心の通じ合いがあって感じるものです。

今の時代は、日々にやることに追われ急ぎ焦り心を籠めるということもなくなってきました。心を亡くしていてまるで人形やマシーンのようになってしまえばそのうち心の在り処がなくなり心は疲れ切ってしまうかもしれません。

もしも自分の心を亡くしたままに歩んでしまったら本心がどこにあるのかもわからなくなってしまっているかもしれません。現代の社会問題の中に、根強く残る自分らしさの消失はこの真心を見失うことからはじまっているように思います。自他を尊重することや、自分自身が調和することもすべてはこの心の在り方に懸っています。

人は、心の在り方次第では観えている世界は異なっていきます。同じこと同じ現象、同じ環境が合ってもある人には天国、ある人には地獄であることがあります。いくら世間で幸せだと評されようとその人の心次第では不幸であり、いくら世間でかわいそうだと同情されてもその人の心次第では幸せなのです。

人生はその人の心次第ですから、人生をより善くするのは心がけです。心がけが歪んでいたらその心もまた歪みます。心がけが澄んでいるのならその人の心もまた素直になっていきます。

どう生きるのかは自分にしか左右できず、それは全てにおいて心がけが決めます。

その方から「心の田に日々に種を蒔くこと」を教えていただきました。これは心がけのことです。どんな心がけで日々に生きるかはその人次第、悪因悪果、善因善果、それはもう随分前に自分が蒔いた種が芽を出して今に現れただけのことです。誰のせいでもありません、すべては自分のせいですから言い訳はできません。

如何に日々に福行の種子を蒔くかが、福世かな世界を信じて見守るための要諦です。活かされているいのちを輝かすためにも、子ども達の未来が明るく仕合わせになるためにも、自分自身の心がけがすべてを決めてしまいます。

心を亡くしている人が多いからこそ、私たちは「ほのぼのと働いて」いきたいと思います。教えていただいたことを実践し、また御恩返しに生きていきたいと思います。ありがとうございます

経営ではなく理念

人はその時々の決断で何を優先するのかをはっきりさせていきます。人生は選択の連続ですが、その時々の選択に何をもってくるかでその後の方向性が決まっていくものです。

つまり優先順位があるということです。

世の中には無数の答えが存在します。それはその時々の優先順位があるという意味と同じです。そして優先順位とはその目的に対して行われるものですから、優先順位を決めた時はその目的を自分はもとより周りも確認するということです。

その人が何をもっとも大切にしたいかという方向性、何を大事に生きるかという初心を自他へ表明することになります。これが組織においては多大な影響が出てくるのです。

よく経営か理念かと組織論では語られることがあります。理念経営をしていますとかいう声も聞きますが実際は経営理念になっているだけで経営の中に理念を付け足しただけにすぎません。経営するための方法論として理念を置いているだけになっているところが多い様に思います。

理念とは目的です、経営は目標です。目的がなくなれば目標しかありませんから、目標を達することが正解になります。しかし目標だけをやっていて正解になってしまえば、目的は忘れてしまうものです。本来、目的があれば目標はなくても問題がない様に思います。目的意識がある人は自ずから必ずその目的に近づいていきます。目的に合わせて自分の方を変え続けていく人は、理念を実践する人とも言えます。経営は実践とは言いません。

本来、目的(理念)をはっきりさせておかなければ人は何のためにやっているのかがわからなくなります。そうなると目標に囚われ、目標ばかりを優先するようになります。目標は達成すれば充実感が得られますが、目的は心の充足感が得られるように思います。人間は心があるから人間ですから、充足感というものは心の状態ですから人間が心を失わないためにも必要だと思います。

シンプルに言えば「目的を忘れずに実践することが理念を優先する」ということです。その目的がもしもズレているのなら、すぐに自分の方を修正しなければなりません。この「何のために」を明確にすることが本来のリーダーの役割であり、一人ひとりがリーダーシップを発揮するにはこの目的を理解し合わせなければできません。

目指す目的を一緒に観て、それぞれが自分に打ち克って実践していくからこそ御互いのことを尊重し楽しく豊かに働くことが出来るようになります。何のためにというのは、初心の自分を取り戻すための大切な鏡です。

その鏡に映るものがもしも目的や理念でないのなら、鏡には初心とは別のものがいつも映り込むことになるでしょう。目的を忘れて日々の些事や雑事ばかりを優先していたらそのうち些事や雑事の方が大事なことのように勘違いしていくのが人間です。そうならないようにしていくための環境づくりこそがリーダーの真の役割かもしれません。そして目的があるからこそ、理念と経営が一致していき本物になっていくように思います。本物であるということの定義は、そこに嘘偽りのない本質そのもの、”理念が経営になっている”ということ、つまりは古語に言う「中庸であり至誠の存在になった」ということです。

日々に関わる人たちと皆で一緒に優先している目的を忘れない克己の工夫を用意していきたいものです。理念を実践するということの本来の意味を、自分たちの姿によって伝承していきたいと思います。

人生の王道~自分の根を掘り下げること~

私たちは自分のルーツを知ることで、それまでどのように生きてきたかといった歴史が辿ってきた道のりを学ぶことができます。自分の世代だけを謳歌しようといった風潮の中、本来の教育が失われてきているのではないかと思います。

日本の心や日本人の精神、それらのことを伝承されている文化や道具に触れていると本来、先祖たちがどのような生き方をしてきたかを学び直すことができます。自分の根っこを知ることは、自分がどこに根を据えていけばいいのかを学ぶことです。教育の醍醐味とは、自分が何ものなのかを知ることでもあります。そしてこれからどのように生きていけばいいのかを示す入口でもあります。

技術や能力ばかりを教え、道徳も単なる正しいことばかりを並べては良いことだと大人が子どもに一方的に押し付けてもそれで道徳観を身に付けることはないように思います。大人たちの人生観をはじめ、生き方や働き方の背中を通して子ども達は直感していきますから、自分がまず日本人になっているかということが肝要だと思います。

稲盛和夫さんの著書に「人生の王道」(日経BP社)があります。その中の教育の項目にこのように書かれます。

「一国の宰相だけでなく、私たちにもやらなければならないことがあります。「日本を知る」ということです。この国がどのようにして成り立った国なのか、我々の祖先がどういう生き様で国をつくってきたのか、素晴らしいことも過ちも自分たちの国が歩んできた道のりを知ることです。
今の教育現場は、日本という国について教えることにあまりにも腰が引けています。グローバルに生きる時代だからこそ軸足をしっかりと据えなければ、日本人は世界の中で「根なし草」になってしまいます。日本の成り立ち、特に近代になってからの世界の中における日本の位置づけを教育の現場できちんと子供たちに教えるべきです。そのうえでこれからの日本がどういう道を歩んでいったらよいのか考えるべきではないでしょうか。」

世界が一つになってきているからこそ、自分の根がどうなっているのかを知り、それぞれの民族がその風土の中でどのように生きてきたのかが重要になるのです。地球の中には、それぞれに国土というものがあります。気候や風習、そして全ての生き物がその場所に順応し、自然に沿った生き方をして個性を磨いてきました。

十羽一絡げのように、同じものが世界に溢れてもそれは多様性を発揮しているわけではありません。多様性を発揮するには、それぞれの風土で育まれた伝統と伝承、その生き方をしてきた人物が自然の智慧を存分に発揮して、他の風土と一緒一体になって新しい地球上での住み分けを考えていかなければなりません。

世界が一つになるとき、御互いを思いやり持続可能な社會を維持できるのは軸足がしっかりと日本人として根をはっているものだけが可能です。世界に出て真に活躍できうる本物の国際人物とは、単に経営が上手だから認められるのではなく、その人が日本人の心と魂を存分に発揮することができてはじめて世界から認められます。

人生の王道というものは、自分の根を掘り下げていくことだと私は思います。

掘り下げることがない人生は、まるで浮草のように流れてはどこかに消えていきます。せっかく生まれてきて一期一会の人生をいただいたのならば、自分の根を深めて自分の根からの養分で一生の花を咲かせて実をつけ種を遺していきたいものです。

日々の実践が根を深めることを助けます。

引き続き、日本の心、日本人としての生き方を学び直していきたいと思います。

大和魂と大和心~人であるために~

日本刀は武士の魂と言われます。また世界で唯一、魂が宿る刀であると評する外国の人もいます。それくらい日本刀というものは、特別視されるものです。それはなぜかということです。他にも魂が宿るという道具がこの世の中にはたくさんあります。手間暇と丹精、真心を籠めて造られたものにはすべて魂が宿るといいます。

この「魂が宿る」ということを少し深めてみたいと思います。

そもそも魂とは何かということになります。ものづくりでいえば、心を籠めることにあります。つまりは、心が入っているということです。この逆を言えば、心がないもの、心が入っていない魂の抜け殻というものになります。心が入っているものは、それを使う人の心をまた同時に使う必要があります。なぜならそれだけ丁寧な使い方をしなければ壊れてしまうからです。しかし今の時代のように簡単便利に、大量生産できるものは壊れても買い換えていいものをつくったり、もしくは壊れないために加工されたものをつくります。ここには心のあるなしは必要はなく、技術があれば成り立ちます。

この技術があればというのは、先ほどの武士であれば殺戮能力さえあれば武士になれるという意味になります。しかし本来の武士は、技術があったから武士だとは言いません。武士は無用な殺生はしないと言います、刀は滅多なことでは抜かないといいます。それは殺生するということが、人を殺めるということを自覚しているからです。つまりは心があるからです。心を亡くしてしまえば、ただの殺戮マシーンになります。武士はそんなことはしませんでした、だからこそその殺戮の道具である日本刀には心がなくならないようにと念じて鍛冶師が打ち、その心がなくならないように武士は日々に手入れをして心を研ぎ澄まし心を失わないように精進をしたように思います。

かつての戦争においてでも、日本刀を帯刀した日本兵は最期まで心を失わないようにと戦いました。機関銃で乱暴に殺戮したり、ミサイルで大量に無札別で殺傷していても、日本人は日本刀を帯刀し単に殺戮マシーンになりさがることを自ら戒めました。そこには「どんな時も心を失わない」という決心と初心があったからです。そこに魂が入っていたのです。

つまり「魂が宿る」というのは、人としての心を失わないということです。

心が籠らない仕事は、魂が宿っていない仕事です。そんなことをしては、「人」ではありません。だからこそ最期の最期まで「心(魂)を持っている人」でいようと「人」でいることにこだわったのです。

人が心を失うということがどれだけ悲劇であるか、日本人の先祖たちはそれを知っていました。どんなに時代に翻弄されても、その心の在り処、つまりは魂の宿る場だけは失わないぞという覚悟を日本刀に託したのではないかと私は思うのです。

今の日本社會は残念なことに、忙しさに追われてそして心を入れることを忘れては「人」ではなくなって傷つけあって苦しんでいる人たちを沢山見ます。それは大量生産大量消費、経済優先、そのような使い捨ての文化の中で本来の「心」を見失ってしまったかもしれません。

本来の心を取り戻すために、先人たちの生き方やその道具から何を日本人がもっとも大切にしてきたかを再度考え直すべきであろうと私は思います。大和魂とは「大和心」のことです。大和魂を持つ人があって、はじめて日本刀に魂が宿りました。同じく、日本刀に魂が宿るのは大和心を失わなかった人があってはじめて両者成り立ちます。

先祖たちに恥じないように、今の時代でもどんなときも「心」を優先し、人格を高めて人格を磨き続け、こどもたちに先人たちの心を伝承できるように精進していきたいと思います。

志実践

人間というものは、全てに「忘れる」という事実があります。この忘れるという状態がどういうことか、それは字に現れています。「忘」の字は、心を亡くすと書きます。「忙しい」という字と同じで、心を亡くしてしまっているということです。

この心が死んでいるという状態が、「忘れる」であり「忙しい」ということです。

昔から修身を実践する人は、如何に日々に自分が初心を忘れないでいられるか、忙しくしないでいられるかということを工夫してきました。どんな状況のときでも、心が死んでいるのでは意味がないとし、必死に自分の心を亡くさないで暮らしてきました。

江戸しぐさの中に、その工夫の一つがあります。

「江戸時代では、「心こそが人間として最も大事な宝ととらえ、忙しさは「心」を「亡」くすこと、心をなくしたら人間ではないただのでくの坊になってしまうと考えました。忙しいときは、「いま書き入れ時で」「ご多用なところをようこそ」など言い換えたようです。」(「暮らしうるおう江戸のしぐさ」朝日新聞社)

常に自分が忙しいと言わないように別の言葉で言い換えていたようです。

これは日常の中でのコミュニケーションの工夫ですが、能の大家、世阿弥の風姿花伝のように「初心忘れるべからず」というように、「初心を死なせてはならぬ」という言い方で自戒をし、常に自分の心を確かめる習慣を持つことを家訓にして芸道を遺すということもありました。

人は事があるたびに「忘れ」「忙しい」と心が死んでしまうのは、それだけ心は目的に生きているからです。何のために生まれてきたのかという理由を知っているからこそ、それだけしか観えていないのです。だからこそ日常の目先のことは頭が処理をしていきますが、そのうちに手段が目的にすげ換わったりしてまた忘れ忙しくなってしまうという悪循環です。

そうならないように工夫をしていくことで、この課題とは対峙していくしかりません。心が常に着いてくる実践を増やしていくことが、感謝でありおもてなしであり、御蔭様であり、もったいないであり、見守ることです。

人間は油断するとすぐに「忘れ」ます。忙しいは気を付けられても、忘れるは気を付けない人が多いように思います。忘れないために日々にどれだけ苦心して精進するかが、一生涯を通してみた時にどれだけ価値があることかが分かります。

一生涯というと、徳川家康の有名な遺訓を思い出します。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。」

そしてもう一つ、とても感銘を受けたものがありましたので紹介します。

「われ志を得ざるとき 忍耐この二字を守れり。われ志を得んとするとき 大胆不敵この四字を守れり。われ志を得てのち 油断大敵この四字を守れり。」

志を守ることが忙しさと忘れることに処する克己の工夫かもしれません。我を増長させ、油断し、分を弁えず、驕り高ぶり慢心するのは志が試されているとも言えます。試練や逆境の中で人は志を育て、志を果たす時、その人の人生の目的が叶います。

心に志の刃を突き刺すことを「忍」と書きます。

忘れないで忙しくしないためには忍耐力が必要なのかもしれません。子ども達のお手本になるように、日々に自戒して志実践を高めていきたいと思います。

全体最適~自然の理に適う生き方~

人は自分中心の視野と自然中心の視野では、全体の見え方が異なるものです。自分の視野でみて自分にとってメリットがあっても、それは全体から見たらデメリットであることがほとんどです。

例えば、自然農などは手作業で一つ一つ地味に取り組んでいく農法ですが現在の慣行農法と比べればとても時間も労力もかかっているように見えます。しかしよくみると、慣行農法は機械や道具で一気に簡単便利にスピーディに農作業は終わりますがその機械や道具、ガソリンやその他の運搬、エネルギーを考えると全体ではとても多大な労力と時間がかかっています。

自分にとっては機械や道具で簡単に済むことは、果たして全体にとっては善いとは限りません。先ほどの例では、その簡単便利にスピーディにできるもののために膨大なお金を使い、大変なゴミ屑を生み出し、環境にダメージを与えてしまうような状況を与えてしまいます。自然は浄化しますが、浄化の速度を超えてしまえば農地や環境にだけではなく人体にまで害が発生し病気になることで余計に時間と労力を使います。

自分にだけメリットがあると行動することができるのは、それをささえる周りがあるからだと言えます。どれだけ自分が行動するときに、「これは周りにどんな影響を与えるだろうか」と、全体をトータルに考えて行動することで視野は広がるものです。

これをメンターは「全体最適」を目指すと言います。

この全体最適とは、自分にとっては都合がわるいことであったにせよそれが全体を幸せにするのなら全体を優先できるということです。しかし実際は、全体が幸せになった後で自分が幸せになれば丸ごと幸せでみんなにも善くて自分も善い状況になったとも言えます。

すぐに人間は、「自分さえよければ」と考えますがこれが全体最適を破壊し部分最適にしてしまう原因になってしまいます。

運が善い人というのは、自然の理に叶っていますから常に全体最適に合わせて自分を活かしていきます。つまりは全体によって善い実践や行動ができているということです。自分が愉しく仕合わせにみんなが明るくなるように、また先延ばしなどせず、すぐに反省し行動する。教訓を活かし、周りのお手本になり、素直に謙虚に学び直しを続けつつ他人から沢山のことを頼まれる人になる。こういう人はいつも全体最適で生きているのが分かります。この逆を考えれば、部分最適がどうなるかは自明の理です。

そして運の善さというものも、自然の理ですから全体最適である人であればあるほど運は高まりその運に由って物事は自然の見守りと御力添えにより仕上がっていきます。これが運も実力のうちということです。

この自然農の田畑も同じく、全体最適で観ることができなければこの農法の真の善さを自覚することはありません。農薬を使わないから健康だとか、いのちと向き合え心が穏やかになるからだとか、もちろん理由はいくつもあります。

しかし最も大事なのは、自分の生き方や実践がどれだけ全体に善い影響を与えるかということを自覚することが何よりなのです。生き方が変わるというのは、それだけで全体最適に影響を与えます。なぜなら徳の実践も同じく、自然の理に適うことを行い続ければ自然の循環や浄化のサイクルにスパンとはまります。

実際に人間か自然かではないですが、人間都合はやはり部分最適であり自然都合にすることは全体最適です。無理に自分の思いどおりにならないからと、怒り焦りジタバタするよりも自然の流れに従い応じて任せつつ、その中で最善を盡して精進を続ける方が全体最適になっているものです。

そして常に全体を観ることができるというのは「余裕がある」ということです。

余裕とは、自分の生き方が決めます。

そして余裕を持つために理念や初心があるのであり、自分が目的と手段を自分さえよければという我欲で好き勝手に入れ替えたりしないように理念や初心を意識する実践が自分の我を抑え全体最適を優先する己自運転になっていきます。

常に子ども達のために何がもっとも全体最適かを見極めつつ、自然の理に適った実践を増やしていきたいと思います。

自然の和

自然農の畑に出ると猪があちらこちらと土を掘り返していました。柵を設けていたのですが、植物が巻き込み柵を押し倒してそこから侵入したようです。猪とも5年の付き合いですから、大事な場所だけは掘り起こさず手入れをしていない場所を中心に掘り起こしていました。

不思議ですが自然農の畑にあるものたちに敵意は一切感じず、最初に周りの農家さんから聞いていた鳥害も虫害も獣害も多い場所だと言われていたはずがほとんどその害を感じず、むしろ食べるものは足りているだろうか、こちらが遣り過ぎてはないだろうかと心配するばかりで一緒に暮らしている仲間という感じがしています。

生きているのは私たち人間だけではなく、すべての生き物たちは食べ物を食べなければ生きてはいけません。人間は自分たちのことばかりを心配しますが、山に食べ物がなくなってきて下山してきている動物たちの状況を少し慮る気持ちをもってあげたいと感じます。

山の食べ物がなくなってきたのは、動物たちの生息地域が人間により減らされているからです。それに酸性雨が降ることで、土壌が悪化し森の状態も貧しくなってきています。酸性雨が降れば、化学反応を起こし土中のアルミニウムが溶け出します。すると根が弱り樹勢も衰えるという悪循環です。

動物たちが山奥の自分たちの生息領域を超えて出てくるのはそれなりに理由があるからであり、その意味から自分たちの不自然な暮らしを見つめ直す機会にしていけばいいのでしょうが世界的に森林は伐採されこのままでは地球のほとんどが人間だけで埋め尽くされていくのでしょう。

地上には人間以外の生き物たちが棲んでいますから、本来の豊かな生活を取り戻していくことができればきっとそういう生き物たちと穏やかに暮らせる時代がまたくると思います。

そして今は人間が最強のようになっていますが、植物たちはとてもすごいチカラを持っています。今回の柵も植物たちが覆いかぶさり重さで押し倒しました。少しずつのチカラ、広がるチカラ、伸びるチカラ、繁るチカラ、引き出すチカラ、呼び起こすチカラ、縮むチカラ、他にもありますがそのチカラは膨大で無限です。

この生命力溢れる植物たちに私たちは敵うことはありません。

結局は、抑え込んで我が物顔で好き勝手なことをしたとしても永くは続かず必ず共生して折り合いをつける日が訪れます。そうなることを分かっているのなら、生き方と働き方を考え自然に沿った暮らしをしつつ、人間社會も豊かにしていく道を探っていった方がいいように思います。

聖徳太子が目指した政治のように、「和をもって貴しとなす」という穏かに一緒に暮らしていく世の中は普遍的な自然の摂理を語っているように思います。

自然に近づけば近づくほどに、自然の持つ共生の醍醐味を感じます。

今回のことからも、学び直し、尊敬の心を大切に「自然の和」を実践していきたいと思います。

心のふるさと~御縁の暮らし~

年末の「復古創新」の理念研修を迎えるにあたり、温故知新の妙を深めています。古いものを新生し、新たな役割を担っていただきます。永く誰かの御役にたったものや、ずっと誰かに愛されてきたものを感じると心が安らぎます。

先日、十日市町の100年古民家を訪問したときに「思い出」について考える機会がありました。それは古民家再生を手がけるドイツ人建築家カールベンクスさんのHPを知り、そのプロフィールに共感することが記されていたからです。

「『古い家のない町は、思い出のない人と同じです』とは、東山魁夷がわたしにくれた言葉。古い=価値がないのではありません。古いものは、歴史や思いがつまった、単なる”モノ”以上のものなのです。使い捨て、大量消費の文化とともに、日本人はモノを大切にすることを忘れつつあるのかもしれません。この世界に誇れる文化の現状は私にとって残念で悲しいものです。」

今は、大量消費の使い捨て文化の中で新しいものがさも価値があるように宣伝して古いものを捨てていきます。しかし実際は古いものの中には思い出がたくさん詰まっています。物だけではなく人も同じく、「一緒に生きた仲間たち」があって「暮らし」は成り立っているからです。それを何を間違ったか、自分のことだけを心配し、自分の利益ばかりを優先し、自分勝手に我儘ばかりが使い捨て文化の中で助長していくと古いものは邪魔だとさえ考えるようになるようです。

本来、古いものというのは利他に生きた生き方が沢山そのものに詰まっています。それは徳とも言ってもいいかもしれません。物は単なる具ではないからこそ、日本人は具に道をあてて「道具」と呼びました。

物を大切にする「もったいない」という文化は、そこに一緒にお役立ちした仲間たちとの暮らしを何よりも重んじていたから発生した文化ではないでしょうか。

永いもの、古いものは其処にあるだけで心が安心します。

心が安心に落ち着く場所こそ、「思い出の場所」なのです。

大量消費、使い捨てで「思い出」までも捨てていくというのはいかがなものかと思います。それだけ情報化社会の中で、スピードばかりが重視されていますが新しいものばかりに囲まれた生活は果たして仕合わせだと言えるでしょうか。

時間をかけて味わっていく仕合わせというものが「御縁」というものです。

御縁をどのように活かしていくかは、その人の生き方ですから天から頂いたもの、我が家に来ていただいたもの、自分を探し当ててくださったもの、一緒にいたいと思ったもの、そういう一つ一つを大切にする生き方が人間を孤独から遠ざけ、「豊かな暮らし」を与えてくれるのではないかと直感します。心のふるさとは、もったいない暮らしの中に存在するものかもしれません。

まだ実践して間もないのですが、この「心落ち着く」古き善きものに囲まれる暮らしは穏やかな気持ちを与えてくれます。現代に失っていく心を、もう一度暮らしの民具を含め、様々な道具から学び直し、子ども達に伝承していきたいと思います。

 

サムライスピリット

小野田寛郎という人がいます。この方は太平洋戦争終結後も含めてフィリピンのルバング島で約30年間戦い抜きその後帰国した方です。他にも横井庄一さんといってグアムで約28年間ジャングルの中で生活した残留兵の方がいます。

この方々は、戦争が終わったことが知らされずその後、その場に留まり任務を貫徹されていた方々です。すごい精神力と体力、そして覚悟で生き抜いてこられた方だと思います。

その方々の遺した言葉や、その人生の自立した歩み方をみると私たちが今忘れてしまっている大切なことを思い出されます。

戦時中は、常に死が隣り合わせにありました。死を意識しない人などおらず、常に死を考えてはどう生きるかを考え抜いて生きておられた方々ばかりだったといいます。今は、平和ボケしてしまいむしろ死を思うことなどはほどんとありません。そんな状態の人たちがもしも小野田さんや横井さんのような状況下に置かれたら何十年も生きていくということはできないと思います。

日本人の精神に「覚悟」というものがありました。世界ではサムライスピリットとか言われ「侍魂」のことをいうと思います。この侍魂の定義はどうなっているかというと「高潔で誇り高く、何者にも屈しない強い意志と、穢れることのない心とを併せ持つ、極めて純粋な想いを根源とした、自己犠牲的精神」であると言います。

シンプルに言えば「高潔で正直、真心の義徳人」というのでしょうか。私はお二人の残留兵であった小野田さんと横井さんにその心を感じました。

戦争云々の話ではなく、兵隊がどうかでの話でもなく、どのような生き方をなさった方々かをみるとき、日本人の精神を持っている人とはこういう人なのだろうと感じるのです。

そのお二人の言葉には色々と印象に残るものがあります。

「死というものを考えたうえで、毎日毎日を自分らしく力いっぱい生きていくということで、自分が思っている以上の大きな力が出るものです。そうすれば、自分でも納得できる生涯が送れるのではないでしょうか」(小野田寛郎)

「人間ジャングルと申しましたのは、戦後、人間の心が変わってしまったと感じるからでございます。、、私はこれから、失われた日本人の心を探し求めたいと思います。、、勤勉な心を失った国民が本当に繫栄したためしはありません。、、食糧の大半を輸入に頼っているようでは独立国家と申せません。、、、子が親を大切にしないような教育、生徒が先生を尊敬しないような教育などあってたまるもんですか。そんなものがあれば、それは教育と言えません。」(横井庄一)

「遊んでいるように見える小鳥だって、天敵から逃げたり戦ったり、食べるために必死で餌を探して営々と努力しながら生きてきているのです。人間も同じことだと思います。のほほんとしてはいれられないと思うのです。」(小野田寛郎)

「不要なものは食うな 着るな 使うな。物質的にはケチケチ作戦を実行しながら、なにかひとつ精神的になにもかも忘れて打ち込める趣味を持つことです。」(横井庄一)

「生きることは夢や希望や目的を持つこと。それらは教えられたり強制されたりしても、湧くものではない。自分で創り出すしかない。甘えてはいけません。」(小野田寛郎)

直接お会いすることはできませんでしたが、その「日本人らしい」とは何かをお二人の姿から深く考えさせられました。今、中国と米国が緊張状態に入り、いつ戦争がおきてもおかしくないような緊迫した世相になってきました。小野田さんもインタビューの中で、戦争はある日突然起きると仰っていました。それまでの生活が一変すると仰っていました。

国際社会の情報戦の中で、本当のことが国民には見えなくなっていますが世界は今大きな岐路に立っています。人間は太古の昔から何度も何度も同じ過ちをおかしてしまうものです。

だからこそどう生きるかというのは、それぞれに与えられた命題でもあります。私たち一人一人が変革できるのは、どれだけ「日本人らしく」なっていかのようにも思います。一つのお手本があれば、世界はそのお手本を通じて学び直していきます。

グローバリゼーションの中で、自立する心を失ってしまっては言い訳ばかりを上塗りするような生き方をしてしまうものです。そうならないように、お二人の示した姿から日本人とは何かを今一度見つめ直したいと思います。

歪んだ勤勉、歪んだ努力、歪んだ高潔ではなく、正直で真心、高邁な精神と高潔な志に生きた侍魂を持っていた先人たちをお手本に精進を続けていきたいと思います。