尊重~世界共通の法理~

昨日はプノンペン郊外にあるNGOが支援する保育園と草木染の作業場を視察することができました。保育園では寄付やボランティアの力をかりて、様々な遊具や本、または資金を集め共働きの村の子ども達を集めて保育を行っていました。また草木染では、藍染めを中心に現地の伝統工芸に新しい技術を加味して高品質で高級な反物をつくり都会で外国の人たちに直接販売をしていました。

NGOの役目も、段階段階で変わっていくように思いますしまた現地の人たちの生き方もまた自分たちで選んでいくように思います。権力やお金が生み出すあらゆる差別と画一というものは、グローバリゼーションと共に世界に拡散しています。その中で人は人間本来の自由を急速に失っていきますから、世界の在り様を直視していかなければなりません。今回はそういう意味でも国を問わず場所も問わず、改めて人間教育の本質とその意義を考え直す善い機会になりました。

どちらにしても激動の経済変化の波の中で、少し都会から外れただけでかつての懐かしい田舎の暮らしがそこにあります。面白いことに激動の変化のスピード感溢れる都市部に比べ、まるで穏かで平和な農村部のスローな暮らしがありました。

都会では道路が拡張し建物も増え、車やバイク、あらゆる店が新装開店中です。同時に田舎ではハンモックに揺られ、木蔭で孫たちの世話をするお年寄りが楽しそうに家事を勤しんでいます。周りには鶏やアヒル、犬や猫、牛やヤギなど家畜も放し飼いです。

そういえば、昔は貝を拾いその貝を装飾し御守りにして大切な人に贈り合い、それを大事に身に着けていた時代があるといいます。

時代が変わって捨てるものもあれば、拾うものもある。

人々が捨てていくものを敢えて拾っていく人がいるからこそこの世の中は面白いように思うのです。多様性や柔軟性というものは、自然が平等に生き物たちに自由を与えてくださっていることを証明しているように思います。

人間のように一つの基準だけで他を差別し評価し裁くのではなく、あらゆる生き物たちの生き方を尊重して自由に選択することが許されています。

何が自然で何が不自然かは一目瞭然なはずですが、新しい都市化する生き方もまた排除されるものではないと私は思います。だからこそ自分自身がどのような教育を行うか、そしてどのような生き方のモデルを示すのか、子ども達の未来のことを憂慮すれば自ずから本来の在り方に回帰します。

まだ視察ははじまったばかりですが、とても印象に残った風景で締めたいと思います。

カンボジアの農村部では雨期に甕に一年中の雨水を貯めてそれを上手に活用します。甕の中には身体を洗う水や、飲用に使うもの、様々ありますがその中に一匹の蟹が入っていました。

この蟹は何のための蟹なのかと質問すると甕の中に発生するボウフラ(蚊の幼虫)を食べてくれるからだとありました。なるほどと手を打つとともに自然に精通しているその人たちの智慧を感じて何を共通して尊重したのかを気づくに至りました。

今日はアンコールワットとアンコールトムを視察します。

この地の感性に触れてみたいと思います。

まさかの坂道~御蔭様で歩む~

生きていると様々なことが発生します。以前、人生には三つの坂があるという話を聴いたことがあります。一つ目は登り坂、二つ目は下り坂、そして三つ目がまさかの坂という坂があるそうです。人生は登り下りだけではなく、まさかといった予想していなかった出来事に遭遇するという話です。

よくよく振り返ってみると、計画通りにいくことなどはほとんどなく、いつもまさかこんなことがという出来事に出会います。それは人の出会いでも、学びの出会いでも、仕合せとの出会いなどもそうです。

私たちは気づいていないだけで、人知れず多くの御蔭様の助けによって日々を生き抜いていくことができます。御蔭様御蔭様でと御蔭様を唱えて生きる人には、どんな時も見守ってくださっている存在に気づき自然とそのまさかの有難さに気づけて感謝を忘れません。しかし自分の思い通りに行くことばかりをのぞんで得手勝手にふるまってしまう人にはそのまさかは予想外の出来事に映るのかもしれません。

そもそも当たり前ですが坂道というものを登ることも下ることができるのも自分の”からだ”があってのことです。その”からだ”は、数々の恩恵をもって与えてくださった唯一無二のものです。その自分が恩恵に活かされているからこそ体験もでき、死んでしまってはその体験すらもできません。この生きている、活かされているという存在そのものへの感謝があってこの世で様々な体験をさせていただけることが御蔭様のちからの一つであろうと思います。

そして人はその体験をしたいからこそ坂道を歩みます。いくら大切な人であっても、その人が体験したいものを代わってあげられることもなく、その人が乗り越えようと必死にしているものをやってあげられることもなく、ただ自分にできるのはその人のことを丸ごと信じて見守ることだけです。

この「見守ることだけ」という心境は、御蔭様の存在の心に似ている気がするのです。

私たちはこの世で好きな体験を自由にさせていただけます。その自由にさせていただける私たちは地球にとっては子どもたちのようなものです。その子どもたちはいかに生きて体験していくのかは母なる地球が見守ってくださっています。地球がなくなれば私たちも好きなことができず、父なる宇宙の見守りがなければ私たちは存在すらできません。まさに「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」です。

如何なる坂道であったとしても、天から与えていただいている尊い坂道。御蔭様御蔭様と唱えながら歩んでいきたいと思います。当たり前ではない環境があって、悩むこともできるという有難さ、思い通りではない有難い御蔭様に感謝してもったいない学びを味わっていきたいと思います。

全ての出来事には確かな意味がありますから、その御蔭様と人と人との出会いと別れにある御互い様を忘れずに初心を守っていきたいと思います。

自立の発露

先日、カムイロケットの植松努さんの講演を拝聴する機会がありました。北海道に訪問してからもう4年の歳月が流れ、あの頃と変わらずに直向きに子どもたちのために「どうせ無理」という言葉をなくそうと行動している様子に勇気を頂きました。

私たちの会社も「とはいえ」をなくそうと、大人の都合をどれだけ外せるかと様々な実践を積み上げていっていますがその道は険しくまた遠大です。しかし、子どもや未来を信じるのは今の自分の実践次第ですから怠らず努めていくしかありません。

世の中の閉塞感、いじめも虐待、そして自殺の問題も本来は一人一人が自分らしく他を邪魔しなくなれば自ずからそれらは次第に消失していくものだと私は思います。数々の刷り込みがこの世の中には蔓延りますから自らで考えて日々に入ってくる刷り込みを自らの実践でかき消していくしかないようにも思います。

人間には自我がありますから、気が付けば自我にとってかわられていることにも気づかないものです。素直な心で物事を省察しては、全てから学ぶ謙虚な心で感謝のままに生きるという自然な生き方ができるには数々の問題を一つ一つ片づけていくしかないようにも思います。

自分のやりたいことをやるといっても、そのやりたいに翻弄して迷っている人もいますが本来は初心です。初心に対して迷わないというのは、楽をせずに苦しくても愉しい方を選んでいく小さな勇気なのかもしれません。

印象深かった言葉は、「夢は大好きなこと、仕事は社會の役に立つこと」という言葉です。大好きなことをやっていると次第に経験や仲間が増えてきて、それが仕事になるかもしれないとありました。思い返せば、どちらが先かは思い出しもしませんが世の中を憂いつつ自分の持ち味と得意分野を伸ばしていたら今の自分に出会っていました。

誰かの評価を求めずに、ただ自分が信じたものを遣り続けるから今に出会っています。数々の貴重な経験は楽しいだけではなくほとんどが辛酸をなめるような苦しいものもありました。仲間にも同志にも出会い、自分がもっとも理想としていた仕事もさせていただけるようになりました。それまでの道のりはただ必死なだけでしたが、今思い返せば大好きなことを社會の役に立つようにしただけです。

言い換えれば、自分にしかできないことで誰かの役に立とうとしたということです。自分らしさというものは、その心の発露から始まるのかもしれません。小さな自己満足で仕事をしては一生を終えるような雇われるための生き方ではなく、自分の一生を如何に何のために創造するかという生き方、つまりは自分の初心や信念を貫く生き方を選択するかどうかということを常に試練にして自らを磨こうとする人生を歩もうということです。

人は初心や信念があるから自分を磨いていくことができます。自分の目指した生き方に沿って行こうとする分、日々はその姿勢を試してきます。本当に出し切ったのか、本当に遣りきったのかと、常に当たり前ではない日々は語り掛けてきます。その時、本気であること決心があること、覚悟をしているかが自問されます。

夢を得るには楽はなく、楽をしないから夢は逃げない。

苦中楽有の心境とは、夢の中という意味でしょう。すると、苦こそが夢であり、その苦に挑む好奇心が愉しんでいるということかもしれません。

ものわかりのいい人間になりロボットにされてしまっては、安定や成功ばかりと求めては失敗や罰を恐れてか弱い心ばかりが育ってしまうかもしれません。逞しい自然の姿、強くて優しい心はやったことがないことに挑戦していくことで育っていくように思います。

世界は今、やったことがないことを遣りたがる人、最後まで諦めない人、創意工夫ができる人がどの国でも求められています。それが希望を与えてくれる人だからです。夢を持つというのは、そういう自分らしく持ち味を発揮して存分に自分を遣りきっていく人になるということです。

子ども達が自分自身であることが肯定され、自分らしくいきていくことが如何に将来の愉しさや倖せにつながっているのかを実践の背中で見守ることができるなら未来は開けていくように思います。刷り込みの毒など気にしないくらいに、自分自身を発掘し、発明し、発達し、発展し、そして発揮していきたいと思います。

試行錯誤~楽しみを湧き出す~

自然農の田んぼではありとあらゆるものを毎年チャレンジしています。作物も毎年同じものを同じ場所でやることもあれば、異なる環境でやってみることもあります。水はけや日当たり、また他の草草や虫たちの繁殖の状況、今年の天候の様子や土のかおりや植え方、育て方など毎回少しずつ試行錯誤しています。そうして試行錯誤した後は、振り返り内省するのです。このやってみては振り返り、観察しては改善できる、この面白さは遊びそのものです。これは別に田んぼや畑だけをやっているのではなく、仕事でも同じように私は試行錯誤と内省をするのでよく周りから”楽しそう”と言われることが多くあります。

しかしその分、試行錯誤をしている最中は他人から誤解されることも多くあります。目標はどこにあるのかや、ポリシーがないのではないかや、ふざけ過ぎではないかなどです。その時は、周りも心配してくれてそのままではダメだと私に修正を求めてきます。もちろんダメなのかもしれないけれど試行錯誤したいのだと説明しては放り投げたりせず必ず実現させるからと伝え時間が解決するのを待っています。

この試行錯誤とは何かということです。

試行錯誤を辞書で調べると(新しい物事をするとき、試みと失敗を繰り返しながら次第に見通しを立てて、解決策や適切な方法を見いだしていくこと。)とあります。しかし私にはもっと本質的な意味が試行錯誤そのものに隠れているように思います。

それは子どもの時の可能性、つまりはアイデアや発明につながっている遊び心や余裕、好奇心を発揮させるものがあるということです。

例えば、仕事でも目標や計画通りに進めようとする人がいます。もちろん、結果と目標があってその通りにいけば自ずから求めたものは手に入ります、つまり正解を求めて正解したのです。しかしそのやり方が果たして面白いかといえば私には面白く感じず敢えて様々なことに挑戦しながら辿りつく方が楽しいと感じるのです。教科書通りに教科書をなぞって出す答えではなく、試行錯誤こそが答えだという信念通りに進む答えです。

実際の人生も同じように、計画通りではないけれどいつも計画以上のことが発生するのは様々なことを試行錯誤しているのを已まないからです。この試行錯誤という考え方は、「この方法もやってみよう、この方法も試してみよう、あの方法ではどうだろう」といつも心が夢中にワクワクドキドキとそのものへの取り組みを心底楽しんでいる状態です。もはや四六時中同じことを考えては、もっとああしてみたらどうか、もっとこうしてみたらどうかと試したいことてんこ盛りです。

実際に先ほどの自然農でも実際は苦労の方が多く、肉体的にも精神的にも過剰なエネルギーを使っています。しかし、それをもし結果のためにただ決められた通りにやるだけならこれは続かないように思います。自然農を楽しめるのは、自然から学び観察をし、それを実践する中で上手くいかないことが多いからこそ面白いのです。

他人からは趣味だから楽しいと言われることがありますがこれは趣味だから楽しいはずはありません。何を取り組むことでさえ、試行錯誤できるから楽しくなっていくのです。つまりは趣味にしてしまうほど試行錯誤をしたのです。特にきつい仕事や大変だと思えるからこそ、自分の好奇心が枯れないように様々なことを試してみてはちょっとずつ変えてみて挑戦しているうちに次第に楽しい心が湧きでてきて趣味になるのです。

試行錯誤というのは、子どもの遊びに似ています。目標ばかりを押し付けられ、計画通りにいくことがもっとも正しいと刷り込まれると「もっとこうしてみよう」という楽しむ発想が消えていくように思います。厳しいプレッシャーの中で、正確無比にやっていこうとし過ぎては楽しくない日々でも無理に納得している人もいます。しかしそれがかえって生産性が落ちてアイデアが失われ、無機質に作業に没頭しているではかえって効率も効果も下がるかもしれません。

同じ遣るのなら、同じやらないといけないことなら、どうせなら思い切って試行錯誤を楽しもうと転換して取り組むことで子どものように遊び心や余裕、試行錯誤を味わえるように思います。

子どもは夢中で遊びこむ中で人生の大切な智慧を自分で会得していきます。人生は常に子どもから学び方を学び直す必要を感じる日々です。そして子どもが憧れる大人とは、子どものそういう試行錯誤を失っていないユニークな大人ではないかと私は思います。

試行錯誤できる有難さを感謝のままに、常に日々新たに楽しみを湧き出す実践をしていきたいと思います。

時間をかける営み~善きこと~

自然の中で様々な作物を育てているとじっくりとゆっくりと物音が動くことの真価に気づくものです。先日も「ちょっとずつ」こそ智慧であると書きましたが、この時間をかけてじっくりと行われることについて物事が成就することの本質を感じます。

インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンジーに下記の名言があります。

「善きことはカタツムリの速さで進む」

この善きこととは、自然の悠久の流れのことをいうように私には思います。自然の浄化力というものは、とても偉大であり壮大な時間をかけて自然は元に回帰します。それはまるで宇宙の銀河が無に回帰するように、星々の存在が無限であるかのように私たちの想像をはるかに超える営みによって改善され続けます。

地球の悠久の営みの前では、私たち人間が何かの人工物をいくら創ったとしても、そのうちすべて土の中に戻っていき何事もなかったかのようにしていきます。どれだけ人間が眼前の変化に焦ってみても、長い時間をかければ必ず自然に戻るという安心感こそが自然の醍醐味であろうとも思います。

世間にはこのままでは地球は滅ぶと危惧する人もいますが、実際は人類が亡びそうなだけで地球の営みはまた悠久の時間をかけて回帰していきます。「時間をかける」ということは、その心に自然の営みに逆らわない本質のままの実践をするということです。周りから見れば変な実践に見えるようなつまらないことであっても、その決心が自然に照らしたものならばそれは時間をかける営みになります。

今の時代、あまりにもスピード重視、効率重視、結果重視で、不安をあおり焦りを与える競争原理が空気のように社会を包みますが、その心に理念や初心が根付いているのなら本質からブレずにじっくりと実践し歩むことを忘れないでいられるように思います。

ガンジーがいう人類に対してのもう一つの言葉です。

「人生は速度を上げるだけが能ではない。」

魂を生きたガンジーだからこそ、速度というものについて普遍の考えを持っていたのかもしれません。終わりもない始まりもないところにもしも自分を置くとしたら、速度というものは関係がないものであることに気づきます。

「重要なのは行為そのものであって結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、自分ではどうなるものではなく生きているうちにわかるとも限らない。だが、正しいと信じることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ。」

これもまた「善きこと」そのものの言葉です。

この重苦しい社会の雰囲気を、一つひとつの実践で取り払っていきたいと思います。

自分を変える~刷り込みを取り払うこと~

人間は動機の目的を常に初心や理念で腹に据え、自ら掃除をするかのように我欲や私心を取り払わずに何かに執らわれてしまうと本質を見失ってしまうものです。そもそも何のためにやっているのかを自分自身が忘れてしまい、自分がこうしたいやああしたいといった執着に囚われてしまえばありのままに視野を広げて素直に物事を観ることができなくなるものです。

以前、小林正観さんの「MUST」くんと、「としこ」さんという話を知ったことがあります。このMUSTくんというのは、「ねばならない」という状況になっている人で、もう一人のとしこさんは「とらわれない・しばられない・こだわらない」の頭文字の略で、「融通無碍」の状況になっていると言います。

このねばならないというものがあればあるほど刷り込みが深くなっているのではないかと私は思うのです。例えば「親子はこうあらねばならない」「会社はこうあらねばならない」「私はこうあらねばならない」「社長はこうあらねばならない」「部下はこうあらねばならない」「世の中はこうあらねばならない」など、これらも全て自分の刷り込みに縛られている元凶でありそれをどう断念し手放すかということが肝心なのです。これらの「ねば」ならない人を総称して冗談でしょうが「ねばねばした人」と呼ぶそうです。

またとしこさん「とらわれない・こだわらない・しばられない」の方は、「それもいいね」「そうなったら嬉しいね」「だったらこうできるね」「転じてみてら面白いかも」というように、視野も広く心も寛く、あっという間に「物の視方」を変えて自分の方を変化することができます。こういう状態を素直というもので、それは単にその人がポリシーがないからそうなっているのではなく、確かな理念や初心を忘れずに揺らぐことがない信念があるから変化を楽しんでいくことができるのです。

私もよく「なんでもいい人」と勘違いされることがありますが、実際は理念や初心、本質には徹底的にこだわります。なぜならそれが全ての動機の理由であり、それがやりたいから自分を変化させていきたいからです。相手を変えようと思えば思うほどに執らわれは深くなりますし面白くなくなってきます。しかし自分の方が変わればいいと、物事の観方を変えてしまえば嬉しい楽しい仕合せと感じることが増えるのです。

しかし人はいくらこれらの理論を頭で理解しても実際にはそれはできないものです。現実は頭で考えたようにはラクにはいかず、常に現実を変えるには「現」場+「実」践という現=実の方を変えなければ信が身につかないものだからです。物事を観方を変えるということであったにせよ、それは実際に自分の方を変える実践を日々に積み重ねて年数を経ていかないとできるようにはなりません。簡単に分かったからと現実が変わるわけではなく、それ相応の実践と体験を経て本質から外れにくくなってくるのです。

だからこそ何よりも「信じること」と「実践すること」が大切なのです。

相手と自分との執着で「こうあらねば、あああらねば」と投げつけ合ってはねばねば粘着して身動き取れない人間関係を続けていても御互いに苦しいだけです。せっかくのご縁なのだからと思い切って一緒に新しいことにチャレンジしようとか、新しい自分に出会えるかもとか、新しい発見があるかもとか心を気楽に笑って取り組むことでねばねばもまた解きほぐされていくように思います。

人間は誰しも剣豪宮本武蔵のように「無の境地へ」とはなかなかいきませんが、しかし本質や理念を少し自分よりも優先し自分の執らわれに気づくようには努力していきたいものです。自分がどうしても行き詰り生きづらいのは我執がこびりついているからでそれを理念の実践によって仲間たちと一緒に一つ一つ取り除いていけばそのうち心もまた楽になっていくように思います。

私たちの仕事は「子ども第一義」、子どもが憧れる生き方を譲ることを優先するのだから今の社会や今までの過去の柵から沁み付いた自分の刷り込みや執らわれを一つ一つ丁寧に向き合い実践により取り除いていきたいと思います。

自分が変わる機会というのは人生では何度でも出会えます。そのつど、感謝の心で変わらせていただける仕合せに出会った御縁を大切にして無二の一期一会を味わっていきたいと思います。

ありがとうございます。

力の出し入れ~生き方を省みる~

昨日、力を抜くことについて深めてみました。力が抜けているというのは、自分らしくいること、つまりは自分がどうありたいかという自分の生き方の方を優先する自分でいられる状態になっていれば力もまた抜けるということです。

そもそも力というのは何のためにあるのかということです。

力もまたお金と同じように使い道の問題のように私は思います。その力を何のために使うかでその力の価値が発生していくように思います。その力をいつも自分のためだけに使う人、その力をいつも誰かのために使う人ではその力のつき方もまた変わっていくように思えるからです。

私はどんな時に力が出るかと自分を省みると、いつも誰かを思いやって使うときにこそ最大限に発揮されるように感じています。逆に自分のためにやるときは、余計な力が入るだけであまり力が存分に出ている感じにはなりません。この力はお金にも似ていて、貧乏神が自分のためだけにお金を使っているのに対して、福の神はいつも誰かのためにとお金を使っているのと同じように思います。つまり何のために使うのかということがはっきりしているかどうかです。

そして力の使い方とは、常に自分自身の執着が関係しているように思うのです。

私が思う力が出るという、この「出す」技術というものは、思いやりに出すことや、誰かのためにと感謝で出すことではじめてなんでも出てくるように思います。言葉もそうです、よくよく自分や他人の言葉を聴いて観ていたら何の言葉が出ているかでその人の思いが出てきます。「ありがとう」や「おかげさまで」、「たすかったよ」とか「すばらしい」とか、「すごいじゃないか」なとといつも人を励まし信じるような言葉が出ている人はその心は「思いやり」が出ているのです。

逆に余計な力が入っている人は、これらの言葉が出てきません。黙っていたり、文句を貯めこんだり感情をイライラしたり、もしくは周りに矢印を向けていたりと、なかなか言葉に出すこともなくそれが出たときには先ほどの言葉と反対のような不平不満不足不信が出てくるものです。

この「出す」ということをどう出すかでその人の生き方が出てきます。思いやりのために出そうとするか、自分のためだけに出そうとするかはその人の生き方次第です。

力の出し入れ具合にはその人の生き方を省みるキッカケになります。力を入れるときは自分を信じること、力を出す時は人を思いやることと、力を大切に使わせていただける自分でいたいと思います。

 

自他一体のフィードバック~おもてなし~

人は相手の立場に立つことで相手のことを深く理解できます。

以前、ホスピタリティについてあるニューヨークで大変有名なレストラン経営者ダニーマイヤーさんの話を聴いたことがあります。

その際に「ホスピタリティを高めるには、相手の『ありがとう』に対して『それはなぜですか?』を集めていけばいいだけです」とありました。お客様へのおもてなしは、相手が嬉しいと思うこと、有難いと思うことを集めていけばいいとありました。

実際は簡単なことですがそれを継続して実践していくには仕組みが要ります。

人間は放っておけばいつも自分本位でばかり物事を考えます。自分の興味関心のみに追われ忙しくしては自己保守に終始してしまうものです。そうやっていつも自分の事ばかり考えて自分の感情でばかり事実を見ていたら、相手の気持ちに共感することを忘れてしまうのでしょう。

ホスピタリティとはいつもどんな時でも相手の心に寄り添っているものです。心を寄り添うことも怠り、自分のやりたいことばかりを周りに押し付け、心を合わせもしない、それを決してコミュニケーションとは呼ばないように思います。対話というのは自分の要求を押し付けるのではなく、どれだけ心を寄せることができたかということです。そして心を寄せるものだけが真の行動と真のアイデアをカタチにしていくことができるように思います。

思いやりや真の優しさというものは、一事でいえば”心を寄せ続けてそれをかたちにしていく”ことであり、それを毎日小さなことを積み重ねることで自他一体の場所に表裏なしの人格が磨かれるようにも思います。自分を心配しすぎて心を寄せないから心を亡くし頭で考えて何かを急にやろうとしても、付け焼刃では付け焼刃の結果しか訪れません。相手を自分そのものになるくらい、相手の心に寄り添うことが相手に安心され信頼される人になっていきます。コミュニケーションの本質は人は相手を通じて自分を見つめ、そして自分の心を見つめて大切にすることで相手の心を見つめ大切にするのです。

相手ばかりをみては矢印を相手に向けるだけになったり、自分だけを見ては自分にだけ矢印を向けるのではなく、相手は自分かもしれない、自分が相手だったかもしれないといつも思いやることではじめて仕事も本物になっていくのでしょう。そういう人がご縁を感じ、御蔭様が観得て、感謝のままでいられるのです。

すぐになんでも自分で一杯にする前に、もっと相手を喜ばせたいや有難うと言われたいと心楽しく身近でできる小さなおもてなしに取り組んでいくことでおもてなしのできる素直な心もまた育っていくのかもしれません。

お客様からのありがとうを自他一体のフィードバックを通して一つ一つカタチにしていきたいと思います。

逞しさ~ワイルドハート~

今の時代は自然の環境の中いるよりも、人工的な環境の中にいることの方が圧倒的に増えていることが多い時代です。都会に住めばあらゆるところにまで人工物が張り巡らされています。言い換えれば人間が頭で考えたものに囲まれた中で生きているということです。

いのちには本来、「逞しさ」というものがあります。自然界では逞しくないと生きていくことができません。それを生きる力と私は定義しています。しかし都市化人工飼育の中でその逞しさは次第に失われていくように思います。隅々まで人工的に操作したお金や物に頼る安心と安全こそがそういう人間本来の生きる力を奪うのかもしれません。

自然界というものは、数々の困難が待ち受けます。身近な植物をみていても、天候の急変にさらされ、動物や虫に食べられ、鳥についばまれ、あらゆる災難の中で自らの一生をいのちを燃焼させることで生き切ります。そこには野生があり、温室栽培のものとは明らかに逞しさが異なります。

本来、見守るということを感じる力や御蔭様と感謝する心は苦労する中で育まれていく感性のように思います。自分の思い通りや都合よくいかないと思って不平不満ばかりを並べては解決ばかりに固執しマジメになっていても嫌な思いをするだけで苦労をしているわけではありません。

人生は一度きり、一日一生と、今日ある当たり前ではない日々に感謝し、その日を精一杯生き切る中に真の苦労はあるように思います。如何に自分が活かされているか、如何に自分が生きていることが有難いか、平和ボケせずに生きる幸せを深く味わい盡すのです。

それは自然から離れないという意味と同じ意味になるかもしれません。

生きる力が発揮されるということは、野生を生きるということです。それは自然をエコなどと呼ぶのではなく、自然はワイルドであるという本来の意味を間違えないということです。自然の厳しさと慈しみ、それを存分に感じながら自分らしく生きていくことは、この自分のいのちを自ら主体として磨き光り輝かせていこうとする生きる力です。

物の視方を転じて観れば、自然の生き物たちはみんな一緒に逞しく生きています。自分だけで生きているなどという傲慢な気持ちこそがその人を孤独にしているのかもしれません。様々な生き物を育てたり一緒に暮らしたりする中で自然を取り戻していくことが孤独を取り払うことかもしれません。

子ども達には、この先の未来で何が起きても逞しく生きていってほしいと思います。私たちが大人として何を譲れるか、真摯に正対していきたいと思います。

永遠の余韻~魂の航海~

人生は人それぞれで違うように人の夢もまた人それぞれで異なります。みんな誰にしろやりたいことがあり、そのやりたいことを成し遂げようと人はみんな産まれてきます。

しかし実際の社會に出て見渡せば、そんな我儘は許されないと厳格なルールと秩序によって特別な人や特殊な人を認めようとはせずに十羽一絡げにしてはその価値をなくしてしまおうとします。本来の価値はダイバーシティ(多様性)であり、それぞれが異なるからこそ持ち味を活かせ本来の人間としての歓びや倖せにつながる役割に気づくことができると私は思います。

そういう意味では人生は誰にしろ冒険であると言えます。

私が小さい頃から大好きだった冒険家に植村直己がいます。今になってなぜあんなに大好きだったのかを自明してきました。夢をあきらめず、好奇心いっぱいに子ども心のように生きて働いた生き様、そしてその心の大きさに惹かれたからです。

今になって齢を経れば経るほどに、同じように生きているだろうかと自分の冒険心を内省します。枠があっても枠を超えていく、前人未到の境界線を引き直していく、常識にとらわれず真実や本質を実践によって子どもたちに伝えていく、その生き方に感動するのです。

植村直己は下記のような言霊を遺します。

「大切なのは夢の大小ではなく、その夢に向かってどれだけ心をかける事が出来たか。心の大小が大切なのだ。」

心の大小といいました。まさに心をどれだけかけるか、そこに夢の価値があるのです。人からなんと言われても、自分の真心がそう思うのなら至誠天に通じるとして人事を盡すのが夢ということです。

「人の生きる本当の価値は、お金や肩書きなどではなく、夢を追い求め一瞬一瞬を精一杯生きることにあります」

そして心が決めたなら二度とない今を真摯に生き切ることが生きている喜びであり、産まれてきた充実であると自身の体験と実感から語り掛けます。さらに事に正対しては下記のように言います。

「あきらめないこと、どんな事態に直面してもあきらめないこと。結局、私のしたことは、それだけのことだったのかもしれない。」

希望を失わなかった、好奇心を忘れなかったというように私は解釈しています。しかし最後は冬のマッキンリーの登頂で山頂に国旗を遺し同時にいのちを失ってしまいます。その植村直己は私たちにこう伝えます。

「冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である。冒険とは生きて帰ることなんです」

吉田松陰も植村直己も、至誠を貫き最期は非業の死を遂げましたがその魂は燦然と光り続けて子どもの心に燃え続けています。人がなんといおうが、その人が遣りきった人生というものは永遠の余韻が遺るように思います。魂はまるで死んでおらずいつまでも後に続くものたちへ受け継がれていくかのようです。

過去の偉人はみんなすごいことを成し遂げているから蛮勇だと思われがちですが、実際は大変な臆病者であったといいます。植村直己も冒険家の資質とは臆病であることと言い切っています。負けない戦いができるもの、謙虚に己に打ち克つものだけが到達できる境地こそ真の臆病者=達人ということなのでしょう。

最後にこの言葉で締めくくります。

「始まるのを待ってはいけない。自分で何かやるからこそ何かが起こるのだ。」

自分で何かやるからこそ何かが起こるというのが世の中の事実です。誰かが何とかしてもらうのを待つような自分の一生ではなく、自分が何とかしようと自らの実践を積み重ねることで世界を丸ごとを素晴らしく変化させていくことに生きるのです。

人類が目指す理想に向かって、冒険家たちを集めて無二の航海を楽しんでいきたいと思います。