私たちの実践~守りたいもの~

今の時代は経済優先の競争社会が当たり前の環境の中に蔓延っています。豊かさの定義は経済力でありその経済力というパワーを持っている人ほど豊かであると周りも羨ましがるものです。

実際に世界では経済力を持たなくても仕合せに暮らす人々もいます。それはかつての先住民族や農耕民族、今の西洋文明が入り込んでいないところで何千年も前から同じ暮らしをする民族たちです。

以前、ブータン王国のことを調べたことがありますがその発展の度合いを測るのにGDP(Gross Domestic Product/国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness/国民総幸福量)を使っているとありました。

つまりは幸福の定義をお金ではなく、仕合せかで量ろうというものです。簡単に言えば、どれだけ今の自分が豊かであるか貧しいかを量るブータン独自のモノサシを持とうというものです。

グローバリゼーションが広がると、そこには今までの豊かさを経済の持つ豊かさに変えてしまいます。今までの「ゆったり生きること、手間暇をかけること、一緒にやること、楽しく面白く過ごすこと」を優先してきた先祖たちの生き方を、「早く効率よく済ませること、便利であること、一人でもできること、勤勉にやること」を優先する生き方に変えてしまい、その分だけお金(豊か)が得られるという謳い文句で人々の生き方を操作していくのです。

人間の慾を優先するか、それとも自然の道理に沿う命を優先するか、それを決めるのは自分自身なのです。

敢えて今の時代に刷り込みを取り除こうとするのであれば、心を強くしていくしかありません。心が本来の目指す生き方を選ぶなら環境に左右されない真の強さを育てあげていけるからです。本来の生き方を守りながら文明と上手に付き合っていける国際世界人に近づいていくからです。

今まで人間は何度も文明の崩壊を繰り返してきました。それは歴史を観れば一目瞭然です。あれだけ繁栄発展した古代文明も等しく滅んでいます。しかしその中でも滅ばずに生き残っている先住民族たちがいるのを忘れてはなりません。その先住民族たちがなぜ今も生き残り今でもこの世に存在するか、そこに共通するものが悠久を生きる鍵なのです。

私にはそれは自然に沿って暮らし、人との結びつき大切にし絆を守った人たちに観えます。

果たしてこのままどこまで人間の慾が金融を操り臨界期まで突入するか、原発の事故のようななれの果てまでいくのはそう時間がかからないようにも思えます。だからこそ、その警告を真摯に受け止め、世界に生き方と働き方を示していきたいと思うのです。

文化と文明は、自然と人間のかかわりのように一体になって時代に息づいています。子ども第一主義の理念に従い、地道にコツコツと根強く耐えて実践を続けながら天機を待ちたいと思います。

自然循環と人間社會~天命畏、徳性尊~

以前、「なぜ新宿で自然に沿った生き方をするのか」とある人に聴かれたことがあります。里山か田舎にいけば、田もあり土もあり、自然はあるのに東京都庁の隣の大都会でなぜかとありました。

そのことを少しここで書いてみます。

そもそも都会というものは、人間が生み出した社會のことです。この社會とは人間だけを中心にどのような暮らしをその中で行うかを考えて人工的に創りだされたものです。私たちは集団をつくりその集団の中でお互いが生き残るために力を合わせて生きていく仕組みを開発してきました。

その社會の中には、思いやりが中心に据えられ人のぬくもりを感じながら安心して暮らし続けてきました。人間社會という言葉にある通り、人間が社會であり、社會が人間ということです。

また同時に地球の中に住まう私たちは地球の一部です。地球の一部であるというのは地球のリズムに沿って生きているとも言えます。四季があるように、昼と夜があるように自然は一定のリズムを持ちます。その自然のリズムに沿って生きるというのは、人間社會とは別に存在している自然循環です。先ほどの人間社會に対し、自然循環というのも自然は循環であり、循環が自然のことです。

人はこの自然循環を優先し、そのあとに人間社會を実践することが調和を創ります。里山の原理も同じく、問題は自然に沿っているかどうかということが問われているのです。

都会の中にいても自然に沿っているならば、私たちは自然の浄化を邪魔することもなく持続可能で豊かな生き方をしていくことができます。人間社會のみの発展だけに特化し経済競争だけを中心にしていけば勤勉であることが美徳のように語られます。

しかし本来は勤勉とは、その背景に楽しさがあってのことです。日本人が勤勉だから美徳ではなく、日本人は働くことが大好きな民族なのです。つまりは道楽者が多いということ、働ける仕合せを実感して生きる御蔭様や感謝の真心のままに素直に生きてきた民族であったのです。

世界からは勤勉だから経済大国になったと目標にされますが本来、自然に沿って暮らしていつつも感謝を忘れないで生きてきた私たちは働く仕合せがあったから結果として経済も発展したのです。

豊かさについては色々という人もいますが、私が思う真の豊かさというものは自然に沿った生き方をし人間を大切に思いやり正直に明るく楽しく暮らしていくことです。

私が新宿で子ども第一主義の理念を掲げ実践を増やし続けているのも、そういう本来の生き方を環境や状況に左右されずに成し遂げていこうとする初心を忘れないためでもあります。

子どもたちはこの加速した都市化していく暮らしの中で希望や夢を失うことがないように、私たち今の大人が天命を畏れ徳性を尊び、御蔭様に感謝しぬくもりや思いやり大切にして実績を遺してあげることだと思います。

自らが挑戦してモデルになることで必ず子どもたちの勇気になっていくと思います。

忙しさに負けない心の強さとやさしさ、真の豊かさを味わえる高い心を道を共にする仲間たちとともに大事に育てていきたと思います。

 

観通し力~いのちのままに~

人は経験してくることで伸びてくる本当の力というものがあります。

それは「観通し力」です。

この観通し力とは何か、深めてみたいと思います。

そもそも経験や体験というものは、その人の求める質量によって変化します。日々を過ごすのに、もし今日が人生最期の日だと思って過ごしている人と、いつも通りに過ぎていく消化試合のように過ごす人では同じ一日でも全く異なる一日を過ごします。

つまり体験や経験というものは単に「すればいい」のではなく、「実践すればいい」のです。言い換えれば、流されている場合ではなく自分から主体的に覚悟を決めて義務を甘受すればいいのです。

自分に与えれた天命を畏れ、徳性を尊び、道を真摯に切り拓いていくのが本当の人生の意味だからです。

しかし実際は、せっかく与えてくださった機会や環境に気づかずに不平不満やすぐに他人に矢印を向けては何かにつけて誰かのせいにして自分の問題だと気付かずに感情に呑みこまれたもったいない日々を悶々と過ごしていることが多いのです。

同じ一日にしても「実践しよう」と決心している日々は確かに積み上がっていくものです。しかし決めていない日々はいつまでもすることばかりに追われる忙しさに己自身が負けてしまうのです。自分に打ち克っていくというのは、一日一日、一瞬一瞬の過ごし方であるのです。

そしてその積み上げた先につく力こそ「観通し力」であると思います。

これは信じて実践してきてはじめて備わる力です。自分が信じているからこそ目先に囚われない、自分の小我に翻弄されない、焦らない、惑わない、悩まない、いつも明るく健やかに逞しく日々に笑顔で正対していくことができるのです。

観通すということは、それだけ長い目で偉大な視野で今此処が何に繋がっているのかの御縁を感じているということでもあります。今の自分をどれだけ真摯に生き切るか、それは日々を如何に出し切るか、言い換えれば「天命に任せ人事を盡してきたか」という自戒自省への問いを持ち続けているということです。

本気で生きた人生だけが真実であり、産まれてきた以上いかに自分の志を高め魂を磨くかはその人に与えられた日々の過ごし方で決まります。正解のない人生にもしも正解を求めるとすればそれは生き様ということでしょう。

そしてリーダーと呼ばれる人たちが自然に観通しがついてくるのはその生き方が「真摯」であるからでしょう。何を真似し何を見習うかは、目には観えないところのその人の「覚悟力」かもしれません。

どんな尊敬する先師、先覚者も先達者も皆等しく苦労して努力して精進しその日々の積み重ねではじめて偉大なことを成し得ています。本来の学び方というのはその生き方生き様に自分の生死間を照らしていくことなのです。因果応報が観えるのもまたその真摯に生きる人だからこそ実感できるのでしょう。

まだまだもったいない日々を過ごしていないか、今一度自分に問い直し、かけがえのない環境に感謝していのちのままにかんながらの道を創造していきたいと思います。

日々は常に貴重な学びの愉しさに満ちています、好奇心全開で楽問していきたいと思います。

いのちの徳性~万物の霊長~

「万物の霊長」という言葉があります。これは孔子の編纂した書経(秦誓上)の中に人類というものを解釈して書き記されたものです。実際に何を目指して人類は万物の霊長たれと孔子は言ったのか、それを理解している人が少ないように思います。

自分たちが動物たちや食物連鎖のトップだから霊長というわけでもなく、他の動物よりも寿命が長いから霊長であるというわけでもありません。その本質について深めてみようと思います。

そもそも私たちをはじめすべての生き物は、何を伸ばしていきたいかというものがあります。それは進化でも証明されています。生き物にはそれぞれに特有の固有の能力があります。

鳥であれば空を自由に飛び回りますし、魚は自由に泳げます。地上を走る動物たちもいます。そしてそれはさらに分化し飛び方から泳ぎ方、走り方に至るまで、あらゆる自分たちの特性を活かして進化成長を続けるのです。それは私たちが真似と道具を使う能力があるように、他の生き物たちもまたそれぞれに自分たちの得意分野で能力を伸ばします。

それでは孔子はこの能力がどんな動物よりも高く優れているから万物の霊長といったのか、私はそうではないと思います。

動物だけではなく樹木までありとあらゆる生き物には心があります。その心とは人間にわかるように話せば他を思いやる心があるということです。これは能力の特性ではなく「いのちの徳性」と名付けてもいいかもしれません。活かされている存在だからこそ備わっている唯一無二の徳性です。

このいのちの徳性を伸ばしていくことでどんな生き物よりも思いやりが長けている存在、それこそが万物の霊長であると孔子は定義したのではないかと私には直感するのです。なぜならそれが孔子が目指した理想でもあり、私たちをはじめ地球に生きているすべてのいのちを奥深く見つめ感謝し哲学する生き物たちが目指すところだからです。

例えばあのクジラやゾウなど、脳にシワが沢山刻まれている生き物たちのシワは私たち人間のように余分な知識を詰め込んでシワが多いのではありません。非科学的だと笑われるかもしれませんが、あのシワは思いやりや真心を伸ばしてきてついたシワです。樹木であればあの年輪こそがシワなのです。そしてあのシワはいのちの徳性を伸ばした生き方や哲学によって深く思いやりを学んでいる証拠だと私には思えます。

家族を大切にしたり、他の生き物たちを大切にする、その思いやりの心がまるで太陽や月、地球のような偉大な慈愛慈悲を持てるようになってはじめて「万物の霊長」、つまりは「いのちの徳性」を伸ばしたものというのでしょう。

私たちが本来、磨かないといけないものは単なる能力ではないように思います。それはあくまで付属的要素であり本質ではありません。私たちがこれだけ自由に地球の中で生きることができることに感謝するなら私たちに与えられている大きな使命をも同時に感じなければなりません。

能力ばかりで他を裁き押さえつけ排除するのではなく、思いやりの心で他と共生し他を活かすことを本懐や使命にすることのように私は思います。

孔子の言う、「万物の霊長」として恥じないように他の偉大な生き物たちの思いやりを尊敬し自らの真心、「いのちの徳性」をかんながらの道の中で磨いていきたいと思います。

助け合い育ち合う~御縁~

先日、ある法人で理念研修を行いました。もう随分長い間、一緒に取り組んできましたが理念に沿って明らかに善くなって理想に近づいていく姿に感慨深いものを感じています。

御縁は不思議で、思い返せば色々なことがありそれを一つ一つ乗り越えて積み重ねていく中で本物のチームや、本物のオープン、つまりは絆や結束力が高まってきました。わかりやすい安易なところからではなく、違いを受け容れ信じ合うというような難しいところから真摯に時間をかけて取り組んできた人たちを今では誇りに思います。

純粋な人たちが理想を前に純粋にかかわることは時には傷つき、時には痛み、涙するような出来事にも出会いました。しかしそれでも諦めずに根気強く信じて待つことで今の姿になりました。

変化というものをじっくりとゆっくりと味わっていると、不思議な計らいや絶妙なご縁の組み合わせを感じずにはおれません。何か偉大なものの慈愛や慈悲のようなものを感じることができます。考えるよりも感じていく人生を歩むなら、いつもそういう見守られている感覚に包まれるのが人間なのかもしれません。

その中でまた新たな気づきがあります。

経営者が社員を教えて育てるのではなく、社員によって経営者も育つということです。これは育てるという行為が2者関係や相対関係だけで行われているわけではないということです。お互いが育ちあい育てているという事実、これこそが共生と貢献なのではないかと確信したのです。

どちらかだけで育つことはありません。これは親子の関係然り、上司部下の関係然り、大人と子どもの関係然りです。つまりは立場などは超えて、同じ理想や理念のために共に学び合いながらお互いに成長する。

真の教育とは、偉大な見守りの中で同時に育て合うということでしょう。これは地球が自然の中で様々な生き物たちを活かすように、宇宙が銀河の中でお互いの星々を活かすように、すべての道理はこの「お互いに助け合う中」にこそ真実があります。

お互いに助け合うとき、お互いに育ちあい、お互いに見守り合うのです。

この時、自我や自分というものを大きく超えて包まれている中にいのちがあることを実感するのでしょう。そしてそのいのちを活かしあう関係をつくるとき、共に成長するといういのちの姿を実感できるのです。

育てているはずの自分が育てられている、育てられているはずの自分が誰かを育てている、素直に謙虚になっていれば育ち合う風土の中に自分が活かされていることに気づきます。

まさにこの真実に頭が下がり、心から有難く感謝できるのです。
そしてそれもご縁に由るものです。

御縁を深めていけば、お互いが助け合い育ち合った余韻が丸ごと響き香ります。

日々に精進していく中で、愉快な仲間たちと学び合い助け合えた背中を子どもたちに遺し譲っていきたいと思います。

謹厳実直

先日、映画俳優の高倉健さんがお亡くなりになりました。筑豊の中間出身で、以前取引があった保育園で園長から保育園に通っていた小さいころのことなどをお聴きしたことがあります。その園には高倉健さんからの色紙がありそれが玄関に大切に飾ってあったのが印象的でした。

座右の言葉が「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」というものだったそうです。この言葉は天台宗・比叡山延暦寺の大阿闍梨、酒井雄哉氏から贈られたもので一生大切にしたそうです。

この言葉は『大無量寿経』の中に記された阿弥陀仏の言葉の引用とあります。それは「假令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」という言葉です。(たとえどんな苦毒の中にあっても、すべての人を救い切る「南無阿弥陀仏」を実践しそれが成就するまではどんなことがあっても決して精進をやめない、そしてどんなに苦労しようと私は悔いはない」という意味になります。

とても素敵な言葉です。

そしてこの言葉を実践して生き切った余韻や香りが、故人の生き方から観えてきます。人はどのようなことをしたかではなく、どのように生きたかが亡くなってみてはじめて観えてくるように思います。

人が偉大だと実感するのは、どうしたかではなくどうあったかということです。

自分の信念を掲げ、一生精進して歩んだ人の道や背中には何を大切にしていくべきかという偉大なメッセージが入っているように思います。常に後を続く者たちの模範であること、常に後に続いてくる者たちのために生きること。

道を続いてくる後人のために自分の生を譲り生き切るという生き方は、今の時代のように自分の人生のことだけに囚われてあるものを使い尽くそうという中で、高倉健さんの生涯は不器用ですが実直で正直な生き方ではないかと改めて感じ入るものがありました。

まさに「謹厳実直」という生き方を教えていただいた気がします。

同じ時代に生きている方の御縁を大切にしていきたいと思います。

刷り込みを取り除く目~本質を味わう~

人は目を用いて物事を見ようとします、人は情報の80パーセントを目だけで得ているともいわれます。しかし実際の現実はとても目だけではすべてを見ることはできません。その目には観えないものは他の感覚で掴んでいきますが、今の時代は目だけを集中して酷使し目で何でもすべて理解しようとしているように思います。

科学的にも目と脳の神経の距離が近いため一番脳に影響を与えているともいいます。つまりは目は脳そのものとも言えます。たとえば、食べ物を食べる際にも好き嫌いとかもありますがだいたい思い込みで食べていることがあります。きっとこんな味だろうと思い込んでは、その味を脳で想像しながら食べるのです。

特に今の時代は、ファーストフードが流行っていますから見た目の味と同じ味であることを重んじます。毎回、新しい味を食べるのではなくきっとこんな味だろうと思っていることに安心するのです。もしも食べてまったく思い込んでいるものと違うのなら不安で食べないかもしれません。

以前、暗闇の中で食べるレストランの話を聴きましたが目が使えない状況になると何を食べているのかが最初はわからないのです。時間がたつと味覚が戻ってきて味が分かるようになります。他にも見た目はトマトのように赤く色を付けたスープを出しても、中身の味はキューリにしたりと変えると最初はトマトと思い込んでしまっているからキューリだとはすぐに気付けなくなります。

これなども一種の思い込みで食べているということです。言い換えれば見た目のところで判断してそのものの本質を味わおうとはしていないということです。

こういうことは日常的に行われていると思います。相手を思い込みで判断したり、他人の話をちゃんと聞かず自分の刷り込みで聴いていなかったり、見た目のところで理解しては本質を掘り下げず深めなかったりと、結局は目と脳しか使っていないのです。

本来、そのものの中にはすべてにおいて本質というものがあります。これは一体何なのか?本当は何か?といった、そのものの本質を聴きもらさず味わい盡そうといった求道精神のような学問の姿勢というものがあります。

何を学ぶのかの定義が、知識であれば本質までは必要ないのかもしれませんがもしも学びの定義が思いやりや真心を学ぶのであれば本質でなければ意味がありません。

如何にそのものの本質を見抜く力をつけるかは、見た目や思い込みといった刷り込みを自分自身が常に取り除く精進をしてこそできるように私は思います。刷り込みがあることも忘れ、思い込みで見ていることも思い出さず、自分の価値観にも捉われているようであれば、見ても観えず、聞いても聴こえず、食べても味わうことなく、触れても感じない、臭っても嗅ごうともしないことと同じなのです。

自分自身が本質である理由は、外界からの歪んだ洗脳に負けないように真実を知る覚悟と真実でいる勇気があってはじめてできるのかもしれません。そしてそれは世界の問題を自分の問題だと捉える大きな観点があってできるようにも思います。

日々に本質の中にある味を見極められるように、騙されてしまっている脳を騙しつつ体験を味わい盡していきたいと思います。

 

 

循環の価値観

日本には七福神という神様がいます。恵比寿様を中心に、周りには外国から来た神様たちが総勢七人で宝船に乗って並んでいる姿です。不思議な光景ですが、なんだか見ているだけで仕合せな気持ちになります。七難七福、どんなものも一切が福に転じれば宝になるという教えです。

私たち日本人というのは、「もったいない」という言葉が世界で有名になりましたが本来、無駄やゴミという発想がありません。神話に登場するすべての物事一つ一つに神様の名前がついていて、この世にあるすべてのものは丸ごと神様です。それを八百万の神々と呼んで、祖神はいつもどの神様も大切に尊びます。

西洋では、必要不必要というのを自分を中心に仕分けていきます。人間(自我)を中心にして考えていきますから、価値は人間が決めてしまいます。東洋は自然(無我)の中で一体になって暮らすことを大切にしてきましたから無駄という概念があまりないように思います。簡単にいえば無駄やゴミと思っていること自体が価値を自分が決めてしまっているということです。

どの価値も本来の価値が観えれば一切の無駄は消えてしまいます。そしてその無駄が一切ないという価値観とは何か、それは循環の価値観です。一見、要らないと自分が思っていても”必ず何かの役に立つ”のが自然です。自然は無駄が一切なく、この世の中には不必要なものは一切ありません。その価値が感じられなくなった人間’(自我)があるだけで、どんなもの一つにも価値があるのです。

世の中はつながっていて全体であり、丸ごとで一体だからです。

これが西洋と東洋のチーム観にもあるように私は思います。西洋のチーム観は能力の組み合わせです。能力をどう組み合わせて良いチームにするか、つまりは目的を達成するためのチームです。しかし東洋は能力の組み合わせではなく家族の結束力を重んじます、皆で結束することで困難を乗り越えようとする、要る要らないではなく全部役に立つという発想です。

ここに私は何よりも大切な思想や姿勢、「日本人としての生き方」があるように思うのです。

私たちはどんな神様も大切にするのは、一緒にいることで何かの役に立つことを自覚しているからです。その時にすぐに能力を発揮しなくても、一緒にいれば必ず何かのお役に立ちます。

今の時代は、能力主義ですから能力がなくなることを過度に怖がっている人たちがいます。能力だけ磨いて、一人で仕事をする方が効率がよく重宝されるとさえ思っていますがその人たちはどこか孤独を感じているように思うのです。それは役に立つかどうかを誰かのの価値観で決めるからです。

チームとは何かという前に、自分の価値をどのように認識しているかが何よりも大切なのです。自分の価値は能力があるから必要なのか、それとも自分の本当の価値は一体何か、そして周りの人たちの真価は何かを実感できているかということです。役に立つということの考え方を自分自身がまず観直さなければ本当のチームにはなりません。

そう考えると人は一人一人が自分自身の本当の価値を正しく認識できてはじめて「結束」になれるのかもしれません。一見、価値がなさそうなものであっても一緒にいれば何かの役に立つことを知っている心こそ「もったいない」に通じる心です。

最初の七福神のように相手の持っている宝を見出す力がある人というのは、自分の中にある宝も見いだせる人です。それはどんなものにも神様が宿っている、八百万の神々とともに暮らす人たちになっているということです。

「一緒にいれば必ず何かの役に立つ」と本当に信じ切れるかが仕合せの感度を高め、真のチームを実現する源になるように私は思います。そのために数々の刷り込みを取り除く工夫が必要ですが、実践により気づきを喚起していきたいと思います。

結束力~一緒に生きる幸せ~

先日、自然養鶏の烏骨鶏を観ていて気付いたことがありました。烏骨鶏や生き物たちは一緒に生活をします。餌を食べるのも、移動するのも眠るのも、そして卵も交代で協力をして温めます。一緒にいることを大事にして、離れることを嫌います。それは一緒にいる方が生き残れるからです。しかしそこにもう一つの大切な目的が潜んでいることに気づくのです。

それは何か、生きるという意味です。

本来生きるというのは苦しいものです、だからこそ楽しいことがでてきます。生と死というものは、死があるから生を知り、生があるから死を知ります。もしも世の中にどちらかしかないのならそこに真の生を知ることもありません。

これと同じように、苦楽というものも両方あるから真の楽を知るのです。そして苦楽を共にすることができたことで真楽も一緒にすることができる、それはつまり人生を実感することができるのです。

一緒に生きるということは、人生を生きている実感が持てたということです。如何に家族や仲間の存在が大切かというのは、一緒であることが何よりも幸福感に満たされるからです。

どんな生き物も一緒に暮らしていきます。それは自然がともにあるように、地球とともににともにあるように、太陽や月とともにあるように、一緒にいるときに実感するのがしあわせです。

もしも能力や効率だけを優先するとどうでしょうか、先ほどの烏骨鶏では養鶏場で狭い柵の中で何羽も詰め込まれ卵を産ませるだけの存在に変わってしまいます。もしも機械のように生き物を扱えば大量生産大量消費が優先され効率を重視し、生きるとは単にものをつくればいいということになってしまいます。

しかしそこに仕合せがないのなら何のために産まれてきたのかになるのです。極端な言い方をすれば製造できないのならば要らないとなるのではないかと思うのです。本来、人間は憲法にも保障されているように幸せになる権利があります。

しかし実際はその幸せよりも経済を優先し、人をまるで何かのものや道具のように扱ってはいないでしょうか。一緒に繋がり結ばれていた絆を分断し、孤立させ製造マシーンのように変えていく教育が果たして一人一人の幸せを保障しているようには私には感じられないのです。

自然と名のつくものは、常に一緒にいることを尊びます。言い換えれば結束力です。結ばれて束になればどんなものに克てる力があるという意味です。どのような社會を子どもの遺していきたいか、それは大人の生き方にかかっています。

自分自身の意識を変革し、一緒にいる仕合せ、一緒である豊かさ、つまり生きる楽しさを味わってこそ人生を生き切ったと実感できる子どもが憧れるような大人ではないでしょうか。

今一度、自分の働き方から見直していき、助け合いの真心を育てたいと思います。

主体性~活かされている実感~

自然界の生き物たちは主体性があります。それは私たち人間も含めて主体性を発揮している存在です。道が已まないのも、私たちは生き活かされる存在そのものだからです。

これを深めてみます。

そもそも私たちは地球の一部としての自分です。オゾン層の膜の中で空気に守られ、水の循環に守られ、太陽の光を受けて私たちは暮らしています。これは地球そのものが主体として生きているからです。その中で私たちも一緒に生きています。

もしもこの地球の活動がなくなったなら必然的に私たちもいなくなります。地球の歩みと一緒になり私たちも歩んでいるのです。地球が冷えれば氷河期になり、地球が温められれば灼熱期もあるのです。

どうしたって私たちは地球の影響を受けるのは、地球の主体とともに主体であるからです。老子に「道は常に無為にして、而も為さざる無し」がありますが地球に生きている以上、活かされている存在として自分も活動の中に一体となっているからまた道も自然に行われているのでしょう。

そう考えてみると、活かされている実感こそが主体性であるのです。活かされている自分に気づくことが自分が生きているという実感にもなります。人間はどう死んでいこうかと思いを定めるとき、どう生きていくかに出会うものです。自己中心になると観えなくなるのが「すでに活かされている存在」ということですが、敢えて生死に正対するとき、生死を超えたところに活かされている自分に気づくのです。

自然界の生き物たちが美しく感じるのは、自分たちが活かされているからです。生きるとか死ぬとかを超えたところで地球に活かされているから美しいと感じるのです。いのちというのは、活かされていると実感するときはじめて直感するものかもしれません。

人間は自分たちが生きているとか死んでいるとか、主体だとか受け身だとかいいますが本来、大前提として活かされているということにそろそろ気づき覚醒する必要があるように思います。

だからこそ一緒に活かされていることに仕合せを感じて地球に感謝できるような暮らしを考え直せばいいのです。つまり諦観としてどうせ活かされるのだからこそ御蔭様に生きようという意味です。

当たり前の中にある感謝に気づくことこそが感謝の本質だからこそ、自我私欲の傲慢に気付き、地球に活かされている今を大切に活かしていきたいと思います。