変化の源泉

物の観方というのは、変化するためには大切であるように思います。事実に対しての観方は人それぞれで異なりますが、そのどちらも有難いと感じる人は物事の見方を転じて自分の方を変化させようとします。

反対に、物事の見方が自分の思い込みからこうするのは当たり前だというように正解や自分を正当化した物の見方をする人は周りを変化させようとします。

同じ変化といっても、自分の物の見方を柔軟に変えていくという意味での変化と、見方は変えずに自分の状況の方を変えるという変化があります。言い換えれば、心の変化と環境の変化といってもいいかもしれません。

環境が変わることで心が変化することもあります。しかし、天候が毎日変わるように日々は毎日変化していきます。その中で自分の思い通りにならないこと、思った通りになっていくこと、日々の変化は続きます。自分の願望や欲望が強ければ強いほどに、自分の思い通りではなかったこと、自分の思った通りになったことに一喜一憂していては疲れてしまいます。

以前、取引先の経営者の方から「雨が降ったらアーメン、晴れればハレルヤ」という言葉を聴いたことがあります。すべてのことは神の御心のままにという意味ですから、あらゆることを感謝で受け取るということが大切ですと教えられました。

あらゆることを不平不満ではなく、感謝で受け取れる人間になっていこうというお話でしたがこれこそ変化の源泉であると私は思います。変わらない人と変わる人、その差は一体どこあるのか。それは物事の受け止め方、物事の見方が感謝が土台になっているか、それとも不満が土台になっているかのように思えます。

満たされない人はいつまでも外的変化を望みます。反対に満たされている人は、自分の心の方の変化を望みます。前者は常に不安が原動力になり、後者は安心が原動力になっているようにも思います。どちらも原動力が働くという意味ではいいのですが、大前提にすべてを感謝で受け取ることができるかどうかがその人の豊かさや幸せと関係するように思えます。

心の持ち方を教えるというのは、万物の教えを活かす方法を身に着けてもらうということです。宗教かどうかではなく、生き方を学ぶということでしょう。どのような生き方をするかは、その人の物事の見方がどうかということを聴けば自明するように思います。

引き続き、全てを転じて福にする聴福人を精進していきたいと思います。

自分の心に寄り添う訓練

よく相談を受けるものに「自分のことがわからない」というものがあります。自分探しなどもそうですが、何が自分であるのかを探しているうちにより一層自分のことが分からなくなるという状態のことをいいます。

本当の自分の声を受け入れず、そして自分のことを丸ごと認めることもなく、こうでなければならないとか、こうあるべきだとか自分のことを否定しているところが素直になれない理由のように思います。

実際には外側から見た自分のことを自分だと思い込み、内側から出てくる自分を抑え込んでしまえば自分と調和できずに自分が分からなくなってしまうのです。

少し深く考えてみたら、人は感謝の心を忘れたときに自分が分からなくなるように思います。無理やり外側から有難いと思わなければならないと言い聞かせてもそれは決して感謝ではありません。自然に内側からにじみ出てくるように勿体なく有難いと感謝の気持ちが湧いてくるとき本当の自分に出会うように思います。

自分がどう思っているかばかりに関心を持ち、自分のことばかりを考えてしまえばしまうほどに自分はきっと正しいと思い込むようになります。自分を絶対視し、それを貫くことが自分だと思うのは自分に正直なのではありません。

自分に正直というのは、素直になること、感謝すること、それを外側から素直であろうとか感謝であろうとか思うことではなく、自然に心が素直になること、自然に心が感謝になることのように思います。

言い聞かせようとするのは、自然の状態ではありません。心が自然に感じるままに今の自分の心を認め、受け容れることで本当の自分に出会えます。いくら感情の自分が出てきて感情をコントロールしようとするもう一つの感情が出てきたとしても、それは決して本当の自分ではありません。そこで自暴自棄になりそうなその時こそ、芯の強さ、心の強さが必要になります。つまり日ごろの心との対話、内省が重要になってきます。

経験をしている大事な場面、その時々の自分の心は本当はどう思っているのか、自分の心は何を感じているのかと、自分自身を深く見つめて心に耳を傾けてみてはじめて自分を知るのです。それを怠れば感情に流される日々を送り日々は忙しく過ぎ去っていくのです。

自分探しをはじめるのは心ではなく感情に呑まれるからです。正直さとは感情の掛け合いの中にはなく、自分の心は本当はどう感じたのかと自己との素直な対話ができるとき自分に正直になったと言えるように私は思います。

理想の自分になることが幸せだと思う考え方を手放してみれば、今の幸せに気づけるものです。自分の今の幸せに感謝する心が自分を誤魔化さないでいられる方法になります。内側から出てくる素直な声はすべて感謝と紐づいているからです。私たちはつながりの中で幸せを感じ、その時に本当の自分に出会うからです。

心に嘘をつかないというのは、自分の心を丸ごと認めるということです。

子どもの心を守ることは、本心を内省によって磨くことです。引き続き、自分の心に寄り添う訓練を積み重ねていきたいと思います。

誠の道

自然農の高菜を無事に収穫することができました。全体的に小ぶりですが、生命力に溢れ芯のあるしっかりしたものに育ってくれました。今年は虫や猪のおかげで三回ほどやり直して種蒔きをすることになりましたが、諦めずに何度も何度も訪問しては祈るように育てた期間が今は懐かしく思います。

特に今年は、古民家甦生や地域への恩返しもはじまり、また本業の方も新しい展開が増えたりと体力も時間も精神力も根気もすべて注ぎこむほどのことばかりでその中でも余裕を持つことができていただろうかと振り返ると、長い目でみたらよくやったとほめてあげたいことばかりです。

物事には短期的な目線と長期的な目線があります。長い目でみている人は、今やっていることをお座なりにすることはありません。そして短い目で見ている人は、今やるべきことに全力を注力します。結局は、今というものをやり遂げるには遠大な展望を抱きつつ脚下の実践を怠らないということのように私は思います。

収穫した高菜は、天日干しをし一つ一つを丁寧に洗い塩をまぶして仮漬けをしました。これから数日経ってのち、ウコンと塩で本漬けを行います。昔は、商品価値があるかどうかではなく食べ繋いでいけるかどうかが大切でした。

今回、育った高菜はほとんど商品価値がありません。もっと大きく形がいいものでなければ売り物にはなりません。先日、椎茸栽培している農家さんと話したときも美味しいけれど椎茸が開いたら商品価値がなくなると嘆いていました。高菜も薹が立つと売り物になりませんが、漬物にするとこの薹が立っているほうが美味しいものです。

お金を優先してつくられた商品価値と、私が自然農に取り組んでつくられる価値はどれだけその価値が異なるのでしょうか。

今回の体験の価値は決して値がつけられるものではなく、唯一無二の掛け替えのない価値が光り輝いています。誰かによって価値を定められることに準じるのではなく、自分がどれだけそのものの価値を感じているか。そしてその価値のために命がけで挑戦するか、人生とはその連続のように私は思います。

時折、短期的に遣り切ったとき振り返るとなんでこんなことをやっているのだろうかと自問自答するときもあります。しかしそんな時こそ長期的に遣り切ってきた歴史を鑑みて自分の信念や魂の導きを省みます。

そうすれば、私の場合はすべて「子ども第一義」の理念や初心に適ったことを実践して経験を積み、それを先祖子孫への伝承だけではなく民族の魂として一緒に働く人たちに還元できているのが分かります。

「そんなことをして一体何になるのか」「それをやってこれから一体どうするのか」、そんなことばかりを聴かれる私の滑稽な人生ですが、これを思う時、吉田松陰の『世の人は よしあしごとも いわばいえ 賤(しず)が誠(まこと)は神ぞ知るらん』の句が心に響いてきます。

やろうとした動機が心に浮かんでそれが誠であると信じるのなら、やると決めたら遣り切るのが誠の道です。引き続き、自然に教えられ家に教えられ、そして体験に教えられる人生を歩んでいきたいと思います。

 

家に祈る

昨日、聴福庵の家祈祷を郷里の神社の宮司様に行っていただきました。古民家甦生をはじめてから一年、ようやく神様が入れるほどに清浄な場が整ったようにも思え有難い気持ちになりました。

思い返せば、家は傾き、庭は鬱蒼と蔓や雑草で廃墟のようで家の中はあちこちクモの巣や蝙蝠の死骸などが散乱していました。民家が店舗になりあちこち乱暴に壊され、穴や傷、汚れがとても目立ちました。幽霊屋敷などとも呼ばれ、誰も近づいて来ませんでした。

それをこの一年でいろいろな人たちの協力や支援、また仲間の真心の手伝いを経て甦生しはじめ今ではとても家が悦んでいるように思えます。

家祈祷を通して、改めて氏神様が守ってくださっていることに感謝し、かつての民家の暮らしが充実していく御蔭様を実感しました。

清浄な場に魂は宿り、暮らしの道具たちは活き活きしてきます。

一家安泰、一家平安になるのは、家運を高めようと祈る当主の心がけ次第かもしれません。私自身、会社で一家宣言をしてから「家とは何か」「当主とは何か」について学ぶ機会と実践の場をこの聴福庵によって得られました。

また仲間たちもここでの暮らしを通して、それぞれが生き方と働き方を学びこの一年でとても成長してくれました。昔からあるものを大切に守り今に活かす、その勿体ないものの存在も身近に感じ、また伝統という先人の智慧や子孫への思いやりなどを身近に感じるご縁もたくさんいただきました。

家に祈るのは、いつも見守ってくださっている風土、歴史や時間の中でいつまでも変わらずに連綿と繋がっている今に感謝することです。

郷里の恩返しもはじまったばかりです。

この120年の古民家が残りあと数百年生き続けられるように、永い目で観て循環の調和した暮らしを温故知新できるように祈り続ける実践を高めていきたいと思います。

決断するという才能

人生は挑戦の連続です。なぜなら前進することで進歩があり、人は成長するために変化に邁進していくものです。その挑戦には決断力が必要です。自分で決めるという行為自体が尊く、結果は気にせずその決断したことがその後の人生の自信と誇りになってくるからです。

決断力といえば、将棋の羽生善治氏に「決断力」という著書があります。羽生名人は、ただ強いだけではなくその向き合う姿勢が美しく、言葉の一つ一つに深い思想や哲学があります。何のために将棋をするのか、それを追求し道を歩む方の生きざまの中で語られる決断へのプロセスは私たちが新たな道に向かっていくときの勇気になるように思います。

『勢いはいつまでも続かない。どこかで止まる。一方、経験は、積めば積むほどいいものだと思っている。どんなに机上で勉強、分析しても、実戦でやってみて「失敗した」「成功した」経験をしないと、理解の度合いが深まらない。たとえば、一つの場面についての知識や情報をたくさん持っていたとしても、アプローチの仕方とか、理解の仕方とかは深まらない。理解度が深まらないと、そこから新しい発想やアイデアも思い浮かばない。いろいろ試したり、実践してみたことこそが、次のステップにつながっていくのである。』

本当の意味で理解するというのは、成功と失敗を経験することです。そして理解を深める過程で発想の転換ができるようになります。いくら禍転じて福になるといっても、それは自分の人生体験ではじめて理解するものであり頭でわかるようなものではないのです。試行錯誤こそが理解の王道なのでしょう。

『決断は自分の中にある 。現状に満足してしまうと、進歩はない。物事を進めようとするときに、「まだその時期じゃない」「環境が整っていない」とリスクばかりを強調する人がいるが、環境が整っていないことは、逆説的にいえば、非常にいい環境だといえる。リスクを強調すると、新しいことに挑戦することに尻込みしてしまう。
リスクの大きさはその価値を表しているのだと思えば、それだけやりがいが大きい。
そちらに目を向ければ、挑戦してみようという気持ちも起きてくるのではないだろうか。』

周りの環境が整っているかどうか時期かどうかではなく、自分で決めているかということの確認がやりがいと生きがいをもたらすように私も思います。初心を決めて日々に取り組む人は、毎日リスクと向き合い挑戦することになるからです。

最後に羽生名人はこう言います。

『何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。』

これをやって報われるかどうかではなく、やると決めたことを遣り切ることこそが決断力だと私は思います。

今、取り組んでいる古民家甦生においても自然農でも子ども第一義でもどれも長い時間がかかるものであり、私の一生ではその結果が見られないものばかりです。しかし、それでも報われなくても自分が決めた生き方だからそれを貫くというところに自分を活かすという才能が秘められるように思うのです。

自分の決めた生き方を遣り切るというのは、相手や環境に左右されることもありません。引き続き、機会とご縁を活かして才能を磨き直していきたいと思います。

いのちの心

変化というのを考えるとき、人は新旧や古今という比較によって理解するものです。時代は常に変わり続け、諸行無常、この世には変わらないということがないのだから変わっていくものに柔軟に対応していかなければ時代に取り残されてしまうものです。

この変化とは、自然の摂理でもあります。例えば、太陽も地球も、そして自然も古くなることはありません。常に新しい状態を維持していくために、常に変化し続けます。

昨年咲いた桜の花が今年咲いたからといって古いとは誰もいいません。桜の花は毎年春に咲いていますがその花は新しく入れ替わっていくからです。つまりは同じ花ではありますが同じ花ではないということです。

これは組織においても言えるし、自分自身の価値観においても言えることのように私は思います。

かつての時代は、ある花が咲いたのですがその花は今咲いている花と同じではありません。今の花は今の環境にあわせて咲き始めなければなりません。毎回、新しい花を咲き続けるからこそ花は古くなりません。同じ場所で同じ土地で同じ種でといったとしても、毎年自然の変化は微細に壮大に繰り広げられますから私たちはその都度、生死を繰り返し新しくなり続けていくのです。

おかしな言い方ですが、新しいままでいるというのは生き続けることではなく死を繰り返していくということです。

何をもって死とするか、それは今に合わせてやり直すことです。やり直すというのは、もう一度今なら何が本質を維持できるかを考え抜き柔軟に変え続けいくことです。

自分を守り周りを変えようとするのをやめ、本質を守り自分を柔軟に変化させ続けるということです。自分が正しいということに固執して頑なに自分を守っていたら不自然なになります。それは桜が花を一年中咲き続けているようなものだし、冬に咲いたり夏に咲いたりしているようなものです。

そうではなくこれは本質であるか、本物のままかと常に問いを持ち続けてこれは自分が間違っているなと思ったらすぐにそれまでのものを手放して今まではとは異なるやり方でやり直していくことのように思います。

結局、変化にもしもコツがあるとするのなら今までとは違うパターンを試していくこと、試行錯誤して新しい方法に取り組んでいくこと。きっとまた同じだと思い込むのではなく、こういうパターンもあったのかと好奇心で楽しく変わっていくことのように思います。

自然に生きるあの植物たちや昆虫たち、すべてのものは周囲の環境に対して試行錯誤を繰り返しているから古びれません。みんな変わらないものはないと自覚しているから常に試行錯誤を楽しんでいるのです。それがすべてのいのちの心の姿かもしれません。

自分がせっかくこの世に生まれてきたのだからこの人生をどう楽しもうといった純粋な心、いつまでも面白いと感じる好奇心、そういうものを試行錯誤し磨き続けることが変化と一体になっていくことのように思います。

今度は何を試してみようかと、その実験の手を緩めず実践を楽しみたいと思います。

 

星は光る

私が尊敬している先人に東井義雄氏がいます。

「教え子に教えられる」という教育思想と実践にまさにこの道の源流や本流を感じます。子ども主体という見守る保育の先生もまた同様に子どもから学び子どもと共に育ちあい学び合い成長していく生き方をなさっています。どの時代も教育を考える前に人間とは何かと深めて道を往く人たちはいつも同じような境地を体得しているのかもしれません。

東井義雄氏の遺した言葉は、時代が経っても私たちの魂に語り掛けてくるものがあります。その眼差しや姿勢、真心の生き方は人間をそのまま丸ごと見よう、そのままであることを信じようといった人間そのものを見つめる純粋で包み込むような思いやりや慈愛を感じます。

『どの子も子どもは星』

みんなそれぞれがそれぞれの光をいただいて
まばたきしている
ぼくの光を見てくださいとまばたきしている
わたしの光も見てくださいとまばたきしている
光を見てやろう
まばたきに 応えてやろう
光を見てもらえないと子どもの星は光を消す
まばたきをやめる
まばたきをやめてしまおうとしはじめている星はないか
光を消してしまおうとしている星はないか
光を見てやろう
まばたきに応えてやろう
そして
やんちゃ者からはやんちゃ者の光
おとなしい子からはおとなしい子の光
気のはやい子からは気のはやい子の光
ゆっくりやさんからはゆっくりやさんの光
男の子からは男の子の光
女の子からは女の子の光
天いっぱいに
子どもの星を
かがやかせよう

私たち人間は簡単に言葉で表せるものではありません。複雑で不思議な存在だからこそ、前提にその存在を丸ごと認めてはじめて人間理解・人間教育の土俵に立つことができるのではないかと私は思います。

一方的な偏見で評価したり、常識や価値観で裁いたりする前に、そのものそのままあるがままを認めることを学ぶ・・本来の人間として生きるということです。そして東井義雄氏はこうもいいます。

「人間の目は不思議な目 見ようという心のスイッチがはいらないと 見ていても見えない 耳だって頭のはたらきだってみんなそう スイッチさえいれれば 誰だって必ずすばらしくなれる」

自分という人間を見ようというスイッチを入れることができるかどうかは、その一度きりの自分自身の人生において一生のテーマであるはずです。人間は内省をすることではじめて自分自身が観えてきます。人間は人間であることを自覚できるとき、その人格が磨かれるように思うからです。

一度きりの人生で「人間とは何かをつかむ」というのは自身の成長を確かめることにおいて何よりも大事なことのように思えます。二度とない人生は道場、人生は修行三昧だからこそその価値を感じずにおれません。

しかし人生は言葉で書けるほど簡単ではなく、文字で言えるほど平易でもありません。艱難辛苦を味わい苦労してみてはじめて理解できるものばかりです。そういう人生の苦しい時に寄り添ってくれる存在は、有難く人生の恩人とも言えます。

「雨がふった日には 雨のふった日の生き方がある」

「一番よりも尊いビリがある」

そのままでいいと認めてくれる存在に私自身も沢山の勇気をもらってきました。

最後に、人生の節目を迎える仲間に”はなむけ”の言霊を祈ります。

 

『自分は自分の主人公 世界でたったひとつの 自分をつくっていく責任者』

 

自分の星を光らせていくのは自分、みんなの人生が道の途中でこれからどんな光を放つようになるかが楽しみでなりません。

いっしょに”これでいいのだ”と丸ごと認める人生を味わっていきましょう。

運命をひらく

人間には運命があります。その運命は閉じているとそれを歩めず、ひらくことで伸ばしていけるようにも思います。その運命とは成長のことで、人間は成長するからこそ成熟し人になるようにも思います。

そして運命をひらくのは、苦しみや葛藤、油汗が出て眠れない夜を過ごしていくなかで培われていくものでもあります。そのひらくには、苦しみの中で何を見出すか、起きている出来事をどのように解釈するかということでもあります。

例えば、出会いと別れは表裏一体です。愛別離苦ともいい、出会いがあって深く愛せば愛するほどに別れの時は苦しくつらいものがあります。しかしそこで苦しくつらいことばかりを見てしまえば、出会うこともまた苦しくつらいものになります。

なぜ人はそれでも出会おうとするのか、それは別れのつらさや苦しさ以上に出会いの素晴らしさが大きいからです。出会い別れで発生する歓びと苦しみ、それを苦しみ以上に歓びが大きかったと感じるとき人はないものねだりではなくあるものを数えるように思います。

私がアニメのワンピースの中で心に残っているシーンがあります。それは主人公のルフィが兄のエースを目の前で亡くしたときに自暴自棄になっている様子を見守る恩人ジンベイの言葉です。ジンベイはルフィの苦しみに寄り添い、こう問いかけます。

『もう何も見えんのか お前にはどんな壁も越えられると思うておった「自信」、疑う事もなかった己の「強さ」それらを無情に打ち砕く手も足も出ぬ敵の数々…

この海での道標じゃった「兄」、、無くした物は多かろう。

世界という巨大な壁を前に 次々と目の前を覆われておる。それでは一向に前は見えん 後悔と自責の闇に飲み込まれておる。

今は辛かろうがルフィー・・・それらを押し殺せ

失った物ばかり数えるな 無いものは無い

確認せい お前にまだ残っておるものは何じゃ』

そしてルフィは残ったものやあるものを数え始めます。するとそこには航海を共にしている仲間のこと、約束していることを思い出します。すると自分を責めて過去の後悔ばかりをしていたルフィの我執を壊していきます。そして我執を手放したルフィは泣きながらいいます。

『仲間がいるよ』

そして仲間に会いたいと心の声が出てきて本来の自分を取り戻しまた立ち上がり前に進み始めます。運命をひらくというと、このシーンを思い出します。

人は自分の自責や後悔に入ると、運命が狭くなっていくように思います。運命は本当は大河のように大らかで悠久の時を流れているように思います。その大河の中で浮かんでいる小舟を人生に見立てるとき、狭い心はありません。ないものばかりを求めては悔いる人生ではなく、自分がいただいたものやあるものを数える生き方をするとき心は広くなり運命はひらくのです。

同時に発生する出来事の中で、いただいているものを数える力、それが感謝かもしれませんが運命を一つ一つそうやって数えて味わうことが一度きりの運命を幸せにいきるということかもしれません。

恵まれすぎていると感謝を忘れるのは人間の常ですから、それを忘れないように敢えて禍の種を蒔きそれを味わいたいという心もあるのかもしれません。すべてのことは意義があるとして、一つひとつを私自身はどのように数えるか、その数える自分の心を深く見つめて精進していきたいと思います。

始まりが肝心

何事も物事のはじめというのが肝心です。なんでそれをやるのか、何のためにそれをやるのか、それを決めるとき、その目的や向かう方向性が決まります。動き始めてから考えていると、その起点は動き始めている中で右往左往してしまいます。しかし動く前に行き先を決め、初心を固め、そして方向性を確認し、最初の一歩を踏み出せればそれは半分は終わったようなものです。

諺にも「始めが肝心」「始めが半分」、「始めに二度なし」、「始めよければ終わりよし」、「始めよければ半ば勝ち」 とあります。

如何にはじまりが物事の取り組みにおいて大切かと、先人たちが経験から語ったのです。この「始め」とは何かということです。

これは日々の仕事でも同じで、いきなり作業に入る人と本当は何かと取り組む前に準備して着手する人がいます。前者はやることばかり増えては、忙しくなりやっている価値や意味を感じる余裕もなくしていきます。しかし後者はどんな状態でも大事なものを大事なままに維持し、その価値や意味を味わい質の高い仕事をしていきます。

始めが肝心というのは、「物事を始めるときに心を入れよ」ということなのでしょう。どんなことをやるのにも、その目的や意味を考えよということです。本質からブレルなとも言えます。

どうしても人間は感情がありますから、その時々の出来事でいっぱいいっぱいになるものです。しかし着手するときに、目的と向き合い自分が何のためにどうしたいのかを考え抜くことで、その取り組む道しるべが観え続けます。

心を入れるというのは、目的を常に忘れないということです。始まりとは目的なのです。

引き続き、その目的を見失わないように常に内省を怠らず寄り添い導けるように精進したいと思います。

器と道

人には様々な運命があるものです。生まれてきてはこの先どうなるのかが不安で自分探しばかりをする人もいれば、時の流れに身を任せて安心して我執を捨てている人もいます。
すべての生き物には天命がありますから、どうにもならないこともあります。その中でどうにかなるとしたら、自分というものに囚われないことかもしれません。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」これは和歌や川柳から出たことわざの一つです。そしてこれは平安時代の僧侶 空也上人(903~972)の作と伝えられています。
『山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ』「空也上人絵詞伝」

これは山あいの川を流れてきたトチの実は、自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、こうして広い下流に到達することができたのだと詠まれます。

自分を大事と思って、いつまでも我に執着していたらなかなか道が開けないという意味で用いられます。この身を捨てては、我執を捨ててということですがこれが覚悟の本質であろうと私は常に思います。

何を大事に守るかという問いは、道を歩むことにおいては何よりも重要なことのように思います。迷いはどこから来るものなのか、それをじっと見つめてみることです。
私たちはいわば「器」です。

その器を自分でいっぱいにしていたら、何もその器に入れることも載せることもできなくなります。器は空っぽであるからこそ、その器は無尽蔵に活かされていきます。

我で満たされた器にしないように私たちは初心や理念を持つ必要があります。
そうやって初心や理念によって本当に大事なものが大事なままで維持されていくのです。

先ほどの「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」は、自分を手放せば本当の自分が観えてくる、そして道が顕れるということを意味しているのでしょう。

何を優先して生きていくかは人生一生の課題です。

優先順位を間違わないように、常に大事なものを大切にした生き方を積み重ねていきたいと思います。