諦めない心

今年の自然農の高菜があと30日前後で収穫時期に入ります。今年は虫や猪に荒らされ種蒔きを3回やり直すということが起きました。収穫は無理でも種取りだけはできるだろうし、ここから必ず何か学ぶことがあるだろと色々と手を盡しているとまだ予断を許しませんがなんとか収穫もできそうです。

基本は自然農では、持ち込まない持ち出さない、草も虫も敵にしないという理念ですがその理念は維持しつつ、遅れた時機を取り戻すために高菜が育つような環境づくりは真摯にしていく必要がありました。慣行農法で用いられるような一般的な牛糞や鶏糞などの肥料は虫を大量に増やすことになるため一切用いず、今回、手入れに使用したのは日ごろ自宅の火鉢で使っている木灰と炭の木酢液、もみ殻燻炭、そして落ち葉、枯草などの腐葉土、さらには菌で発酵させたぼかしを使いました。

自然農の高菜をはじめて6年目まで順調にきたのが不思議なくらいで、これだけ毎年やっていたら色々な変化が発生します。特に昨年は個人的には古民家甦生も始まり、本業でも大切な友人が大事な局面を迎え一緒に経営改善を実践し、身体の具合もずっとよくなかったりと色々と身辺でも大変でした。

しかしいつも有難いと感じるのは、自分の諦めの悪さです。私は一度決めたことは何年も何十年も諦めないというしつこい性格のようで、心で決めたことはしぶとく取り組みます。結果が出るかどうかよりも、決めたことを取り組むということにしぶとさがあります。

自然農は東北の原発事故がきっかけではじめたもので今の人類の生き方では持続不可能であると気づき、人類の生き方の学び直しがいるということではじめたものです。ですから、単に農作物を育てているのではなく学び直しが本懐ですから諦めるということがあるはずがありません。今回の件も、自分の何が間違っているのか、何が一体謙虚でなかったのかと一連の意味付けを怠るわけにはいきません。また自然の変化に対して素直になっているか、学問は深まっているか、感謝の気持ちは失っていないかと常に内省が試されます。

初心のままに諦めずに取り組んでいくと失敗というものは一切なく、全ての出来事は大切な学び直しであることを実感し自分の生き方の改善に活かします。自然に沿って歩んでいけば、自然の方は変化を已みませんがその変化に対して創意工夫を怠るのは自分の姿勢に問題があるからです。常に改善を続けてどんなことからも学び直して工夫をしていく人は必ず最期には目的に辿り着きます。瞬間瞬間の変化に対してどれだけ学ぶかというのは、覚えるためにやるのではなく学ぶために行うからです。

よく仕事でも勉強でも学んでしまえば終わってしまう人がいます。これはとても残念なことでその時、その人は変化できなくなり学ぶことを止めてしまうことを意味します。どんな日々、どんな仕事であっても常に間違っていることはないか、もっと改善できるところがあったのではないかと終わることが目的ではなく学び直すことが目的の人にはいつまでも終わりはありません。

この終わりがないと思うところにこそ諦めない心があるように私は思います。

万物は変わり続けて流転するのが生命であり地球の真理です。変化は生きている証拠であり、学ぶのは成長しようとする本能の性です。だからこそ頭で考える暇はなく、体験したことをさらにもっと深めて掘り下げていく努力が必要です。その掘り下げていく中で気づくのは体験の尊さと御縁への感謝の両輪です。

生きるための学問から、楽をするための勉強になってしまってはなんのために学ぶのかということの意味が変わってしまいます。道は続き終わりはありません。

引き続き、子どもたちの憧れる生き方を実現するためにも初心は諦めず全ての変化は天にお任せして自分の使命を盡していきたいと思います。

不易流行の真髄

不易流行という言葉があります。これは変わらないものと変わっていくものです。別の言い方では、時中時流とも言えます。如何に時の流れの中でも本質や本物を維持し続けるかということでもあります。

時が経てばかつての本質や本物は次第に色あせていきます。それは時が流れていくからです。いくらある時それが本物であったとしても、時が経てば次第にそのものが本物ではなくなっていくのです。

例えばお茶を点てるとします。しかしお茶は時間の経過とともに酸化して味が変わっていきます。そしてそれを美味しいと思う人の心も変わっていきます。昔ある時に飲んだ美味しい一杯のお茶と同じ味を維持しようとしたら自分が時の流れ、環境の変化を感じて自分の方が変化してその時の味に近づけなければなりません。つまりそのままでは古くなるから新しく磨き直すのです。

いくら言葉で真理が語られていたとしても、その時代時代にその言葉の意味を磨き直す実践者が出てこなければその真理は本物ではなくなっているからです。それは仏陀であっても孔子であっても、それを今ならどう行うかというのはその時々の人たちがその本質を磨きかつてその言葉が語られた時と同じにする必要があるのです。

易経に、時に中ると書いて「時中」とありますがこの境地は本当に今、この時のままであろうかと変化の最中を確認するという意味であろうと私は解釈しています。

生命は不思議で、本来は老化しすり減って消滅していく身体を持っていますが何度も何度も使っている場所は逆にいつまでも皮膚も分厚くなり感覚もいつまでも鋭くなっていきます。経年劣化ではなく、磨き続ければ経年変化になるのです。

古民家甦生を通して私が学び直しているのはこの不易流行の真髄です。

変わるものと変わらないものを捉える心は中庸です。そして時機を逃さず最適なタイミングで直観したものを一つ一つ丹精を籠めて種を蒔くのは時中です。人間は徳が高まり、人格が磨かれれば自ずから不易流行の境地に入るのかもしれません。

徳を磨き続けることで本物は維持できます。本物か偽物か分からなくなっている今の世の中で、真に本物かどうかは徳が証明します。

学んだことをそのまま実生活に活かすためにも、学びに素直に、問いに謙虚に日々の体験一つひとつを今、此処の真心で真摯に磨いていきたいと思います。

力の本質

人間にはそれぞれに個性があります。そして個性と共に才能があります。その個性も才能も天から与えられたものです。例えば個性は、男性女性などの性も生まれながらに天が与えてくれます。そして才能もそれぞれの興味関心や体つき、また持って生まれた時から備わっています。

なぜそれが生まれながらあるのか、それは誰かのために役に立ちたいからとも言えます。全てのいのちは天から与えられるものですが、いのちは与えられた天分を活かそうとします。これは自分の意思に関わらず、自然の一部として存在する私たち生命の営みの根本原理であり生きている意味にもつながっています。

この世には無駄なものも意味のないものも一切がなく、どんなに自分が無意味だと思っていてもそれは大切なお役目を帯びています。だからこそそれぞれが自分らしく生きていくことは大切で、その存在により世の中は生き活かされていくように私は思います。

天分を活かすには、天分を活かしあう仲間が必要です。それを共生とも言います。人間は自分らしく生きていきながら仲間と共に生きていくことを使命にしています。そしてその場が生まれると安心し幸せな気持ちになるものです。

家族や一家を形成するのもまた、本来の人類の使命を本能で実感するからです。そして大切なことは、その天から与えられた才能を独り占めせずにみんなに活かすこと、みんなに使ってもらうこと、みんなのために磨いて役に立つようにしていくことです。

そのために教育や環境の場があるといっても過言ではありません。そういう場を醸成していくのが教育の本質だとしたら、私たちはそのいのちや才能がどのような状況の時に発揮できるのかを見極める必要があります。私はそれが協力や協働をする意味であると信じています。

協力というのは、当たり前過ぎてあまり議論もされることもありませんがこの字は分解するとわかりますがすべて「力」が合わさってできています。みんなが力を合わせれば天地のすべての御蔭様を得るということです。

これからの近い未来、また遠い未来において何をもっとも大切にしていけばいいか。人類の智慧はこの協力のこそあります。私は一円対話を通してこの智慧を伝承していきたいと思っているのです。

自分が天から頂いたものをそのままお返しする日が訪れるまで、子どもたちそれぞれが天分を活かし世の中を百花繚乱に多彩のまま輝かせていくためにも日々の御縁を大切に仲間を増やしていきたいと思います。

学びの鮮度~感動する心~

人は自分の間違いに気づくことで素直になるものです。どう考えてみても分からないものを「分かりません」と素直に言えるところに心の明るさがあるようにも思います。つまり素直さは、自分の心と向き合って分からないことが分かったといったありのままの姿を受け容れるということです。新しいことを学ぶときは、鮮度というか生々しさが必要でその生々しさを味わい感じることで新鮮な学びを持つことができます。

人は誰でも新しいことを学ぶとき、今まで使ったことがない筋肉、また脳の回線がつながっていないところで理解するしかありません。今までにないことを学ぶのは、今までにない自分の発見でもあります。発見というものは、今まで気づかなかったところが急につながるような感覚があります。「これはすごい!」という気づきや感動はそのまま感動のままに新しい回路につながり新しい筋肉を動かしていきます。

今までにないもの、分からなかったことに気づけた悦びは楽しみに変わります。人が変化するというのは、この学びの鮮度を高めていく必要があると私は思います。

できない理由ばかりを思ったり、分からないからよくないと思ったり、最初から無理だと諦めたりする前に、物事に対して出来事に対して素直に取り組んでいくという姿勢が学びの鮮度を保つ方法だとも私は思います。

学びの鮮度の高い人は、新しいことに挑戦して次々に自分を変化させていきます。それは生々しい体験とセットですが、この生生しさを全身全霊で感じながら味わいながら進んでいくのです。言い換えるのなら、感動しながら働き、感動しながら学ぶのです。

頭でっかちに考えてしまうとこの感動する気持ちが減退していきます。それはすでに鮮度が落ちている証拠です。同じ仕事などが発生することは一度としてなく、同じ出来事が起きることも一つとしていない。同じことだと思い違いをしてルーティンにしマンネリ化するのは自分自身の心です。

人間は同じことをしているうちに頭で処理できるようになりますが、無理やり自分の思い通りのものにすり替えてしまっているだけです。似ている事例を似ているようにやって学びの鮮度が落ちてしまえば新しいことに気づく感度は急激に減退します。

常に物事を究め上達し、変化し続ける人物は感動する心を持っています。感動する心があるから改善と工夫を怠りませんし、まただからこそ感動も続きます。つまり心の姿勢が素直で謙虚であるのです。

何が間違っているのか、その大前提を直すことは自分を変化させていくときの要諦です。新しいことに取り組んでいない日々は一日たりともないのだから、その変化を感動のままに楽しむ工夫を行うことです。それは気づいたらすぐ変わる、気づいたらその場で変わる、変化を迫られる前にサラリと自分の方が先に変わることです。

変化こそ、自然体であることを自覚し感動の心で新しいものを追求し道を深めていきたいと思います。

精進の本質

人格が高まるというのは、相反するものが中和し調和されるということでもあります。例えば、信念が強く頑固であるけれども人の話をよく聴く謙虚な人、または燃えるような情熱的な行動力を持ちつつも冷静でクールに物事を判断ができる人、というような相反するものを同時に持つといった具合です。他にもせっかちだけども焦らないや、慎重だけれど大胆にというように相反するものを如何に調和されているかで人物が練りあがっているかが観えてきます。

これは古来より陰陽調和や中庸というように、人間も同じく如何に全体の中で自分を保つことができているか、言い換えるのなら如何に自己中心的ではないかということが大事にされてきたとも言えます。

自己中心的で自我が強い人は、つい自分ばかりを心配し自分が正しいと思い込み次第にごう慢になってきます。そのうち謙虚さがなくなり、自分の間違いに気づかなくなることで失敗して痛い思いをします。それを何度も繰り返して反省しているうちに、自分のごう慢なパターンが観えてきます。それを早めに察知して修正することで次第にその人は調和がとれてくるのです。

人間は内省をすることで、自分の至らなさに気づきます。もしくはその内省によって何を努力して精進していけばいいかに気づきます。それを着々と場数を経て修養していくことで次第に人格が磨かれていくのです。

人格形成は環境によって出来上がるものもありますが、しかし環境のせいにしても仕方がなく、自ら環境に働きかけるというように主体的に自分の人格形成に責任を持つ必要もあります。実際に人間はどんな環境の中でも運命を嘆かずに自分を高めるために努力している人は大勢います。本来は環境に左右されずに自分自身を練り上げていくことが自己修養の要諦であろうと思います。

自己修養の要諦は自利よりも利他、つまり日々を自分の保身ばかりに終始する一日を過ごすのをやめ、他人のためにお役立ちできた一日だったか、思いやりに生き切った一日だったか、大切な理念を優先した一日であったかと振り返る中で利他に自分を位置づけていくことが大事だと私は思います。

利他が徳を積むからいいと当たり前のことを言っているのではなく、常に利他にしていた方が自己中心や自我、エゴに持っていかれにくくなり悩み苦しみが少なくなるからということです。執着を自分に持つ人は総じてごう慢になっていきます。自分の人生が誰かのお役に立っているのだからと真摯に自分と正対する人は、自ずから中庸に近づきます。その自己中心、自我、エゴを転じて善いものにするのが精進の本質だと私は思います。

引き続き、子どもたちに生き方を譲っていけるように精進の本質を大切に守り育てていきたいと思います。

バランスを保ついのち

この時期は三寒四温といって、季節の変わり目で寒くなったり暖かくなったりと気候が激しく移り変わります。自然は常にバランスを取ろうとして、暑くなり過ぎれば寒くなろうとし、寒くなりすぎれば暑くなろうとします。これは人間の体温も同じく、一定に保つために暑くなれば汗をかいて冷やし、寒くなれば震えて温めようとします。

温度を一定に保つために、絶えず休まずに自然も身体も働くことを已めません。

私たちはその時々を切り取って物事を判断しますが、自然や身体は常に動き続けて休まずに働いていますから切り取ったのはその状態を認識するために無理やり切り分けたことで実際は切り分けたその瞬間にもバランスをとるために全てのものが動き続けている真っ最中なのです。

バランスを取り続けているからこそ、常に動き続けて已まないままに物事を認識しなければ実際の現実とはかけ離れてしまうものです。変わり続けているからこそ、この先にどのように変わるのかは一緒一体になって変化している自分もその変化の中にある必要があります。

それを「今」とも言います。

この今は、常にバランスの中心になっています。今がどうであるのかを観て、今が変化の最中であると思い今に全身全霊で盡していけば自ずから変化の中をとることになります。

バランスを崩すというのは、今から離れては未来を思い悩み、過去を引きずり、様々な執着にとらわれるということです。変わり続けないものはこの世には一切ないと開き直れば、楽観的に信じて耐えて待つという心境もまた持てるように思います。

自然の生き物たちが信じて待てるのはこのバランスを保ついのちの働きを知り、そのいのちのままに自然と一体になって暮らしているからかもしれません。思い煩わずその時々の今を精一杯に生きる生き物たちの姿から慎み学び直したいと思います。

心のふるさと

先日、もう8年間一緒に理念の実践に取り組んでいる園で理念研修を行いました。ここは「心のふるさと」を子どもたちに持ってもらえることを目的にしておりそのために見守る保育を取り入れて実践しています。

私もこの心の故郷という言葉には、強く心が惹かれるものがあり懐かしく思います。この心の故郷とは何か、それを少し深めてみようと思います。

心の故郷を思う時、私は純粋な心を思います。純粋な心とは、子ども心のことです。子ども心は、あるがままの心、つまり心そのもののことです。これが歳を経ていくごとに次第に純粋さが日常の些事によって曇っていきます。曇ってしまえば、自分の純粋性も分からなくなり魂が何を望んでいたかもわからなくなります。

三つ子の魂百までという諺があります。私の解釈では、魂や心が望んでいることは誰にも変えようがない。つまりは普遍的に魂や心はこの世で何をしたいかを持っているという意味です。天命を与えられて生まれてきた存在は、そのまま死ぬまで天命がなくなることがないということです。

しかし実際は、その天命をやらせてもらえず教育によってやってはいけないことばかりを仕付けられてはそのものであることが否定されたりもします。純粋な心はそれによって曇り、自分自身が何をしたかったのかが観えなくなっていくのです。

その純粋な心、三つ子の魂の本来の心であり、その心のふるさとは魂の父母が住んでいるところ。それを心に持っている人はいつまでも自分の天命に回帰し、自分の使命に生きていく悦びを忘れないで魂と全うしていくことができます。生まれてきた意味を知るということは何物にも代えがたい安心感なのです。

そして子ども心が何かをしたいと思う時、如何に寛大に丸ごと受け止めてくれる存在があるか。そしてその子どものことを丸ごと見守ってくれる存在であるか。子どもを信じることで、その子どもは信じる道を歩むのです。

子どもが安心して生きていけるというのはこの心の中に懐かしい故郷、その心の父母の無償の愛を持っているということです。その無償の愛とは、言い換えれば自然慈愛の魂とも言えます。この自然慈愛の父母の魂が、子どもの魂に宿るれば人は死をも怖がらなくなります。

純粋さを貫くことができること、それを「至誠」といいます。純心を死ぬまで持ち続けられた人をみると私たち人間は魂が激しく揺さぶられます。それは魂が望む姿を魂が感化されるからです。理想の生き方、真実の生きざまを魂は心の奥深くで求め続けて已まないのです。

その至誠の魂が子どもの魂を見守ることで、魂の純粋さは永遠に保たれていきます。その魂の純粋さを守ることで、その人は一生涯自分の安心基地を自分の心の中に持つことができるようになります。人がこの世で信じられるものを持っているということは、一生を生きていく中でとても大切なことです。本当の仕合せは魂の邂逅を得ることだと私は思います。

それを子ども時代に与えていきたいと願うのは、真心がそうさせるからです。真心の生き方を貫く人はみんなこの心のふるさとが助けて見守ってくれることを自覚しているのです。私がそうであったように、子どもたちが心のふるさとを持って自分の随神の道を歩んでいけるように自分自身の純粋な魂や真心を盡して子どもたちの環境に貢献していきたいと思います。

遺言として心の故郷を見守ることは、何よりも優先される死生間の仕合せであると明記してこのブログを締めくくりたいと思います。

 

視野を高める

松下幸之助さんの言葉で「視野の狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける。」とあります。これは以前のブログでも書きましたが、視野が狭いというのは物事の見方が自分の視界でしか見えていないということもでもあります。先入観や思い込み、他人の話に耳を傾けず自分の価値観の正否のみで物事を解釈する傾向が強いということになります。

例えば、どう考えても全体が観えたり多面的に客観的に長期的に観ている人から見ればとても可笑しなことをしていると観えていても本人は気づかないものです。自分の中で行き来するだけで他人に意見を求めなくなると人は自分の中で出てくる正解がすべてだと妄信するものです。

他人の評価を気にする人ほど心を閉ざし、心を開かないから人の話を素直に聴くことができません。周りから自分がどう思われるかばかりを気にしていて周りに合わせて自分の本心がバレないようにと保身をしている人は視野が狭くなっていきます。

視野の狭さの理由として、自分がどう思われたいかという自分の理想像の価値観を周囲に押し付けようとしたり、もしくは自分がこうありたいと思っている姿で見られたいという自分の願望もまた視野の狭さの原因になっています。

自分の価値観の基準か、他人の評価の基準を気にして自分の心と向き合わないで生きていくとそのうち自分の心のことが分からなくなります。これもまた視野の狭さとも言えます。自分がどうしたいかがわからないのは、いつまでも他人を基準にして生きていくことが沁み付いているからです。これは過去の歪んだ個人主義の影響を受けていることも一因になっています。つまり、自立の定義が自分ひとりでなんでもできることだと思い込んでいるからです。そして自分ひとりでできるというのは、これもまた周りの評価を気にする原因にもなります。

そして周りからどう思われるかを過度に意識すると自分らしくいることができません。日ごろそうやって我慢をしていて突然思い切って本心を明かすと周りが過剰に反応して余計な問題が起きてしまいます。だからまた心を閉ざして隠すという悪循環を繰り返してしまうようにも思います。

それを好いことに転じるには、一つは自覚すること。もう一つは、協力することのように思います。自覚は、自分で自分を理解すると自分の特徴が素直に理解できていきます。あるがままの自分が認められると、無理を押し通すことも少なくなっていくからです。そして人間社會は決して一人で生きていくわけではないのだから協力すればその中で自分の持ち味を発見しそれを仲間の中で発揮することにもなったりするからです。

視野の狭さは転じれば天才的集中力であり、視野の寛さは天才的調整力になります。一人では完結できないのが人間ですから、自分にしかできないことを発見し、自分のあるがままでもみんなの力になれるように助け合い思いやることで視野を高めていくことができます。

視野を高めるにはまず自立の定義を換えてしまわなければなりません。自立とは一人でできることではなく、本来の自立とは周囲の人たちに感謝し御蔭様の心で常に助け合いいつも思いやることができることであるということに意識を換えるのです。

視野を高めるというのは、自他を認めそのままあるがままがいいとそのものの価値を丸ごと認識することです。そのまま活かそうとするところに人間の叡智があるように思います。

刷り込みで苦しんでいる大人たちが多いからこそ、子どもたちのためにも自らの視野を高めていきたいと思います。

本当の失敗とは何か

人は失敗をすることで成長していきます。成功か失敗かの二元論で育ってきてしまうと極度に失敗しないでいよう、優等生であろうとするものです。特に失敗をキャリアに傷がついたと思っている人は、結局は何もしようとはしなかった人ということになります。

失敗の御蔭で人は自分の間違いに気づけます。本来は失敗か成功かではなく、その後の方が大切だということです。ある人は失敗してもそこから学び、それを糧に次の挑戦に活かす人がいます。またある人は成功してもそこに奢らずに謙虚に成功が失敗ではなかったかと自分を戒め一つ一つを大切に積み上げていく人もいます。

また反対に、失敗をしなかったり、成功したらそれっきりになったり、それが本当の意味の失敗であることには気づかずにいつまでも変わらない人もいます。変化というものは、学び続ける姿勢であることでありそれは失敗か成功かに一喜一憂するようなことではないのです。

新しいことに挑戦するのは確かに不安ですし時折怪我をするものです。しかし何度か繰り返しているうちに「コツ」が次第に掴めてくるものです。それと同時に、自分の何が間違ったのかという自分自身にある癖に気づけるのです。例えば、事前準備をいい加減に済ませてあとからそれを修正するのに時間がかかる癖があるとか、集中力が途切れるとすぐに雑になってしまう癖とか、失敗を通して自分の至らなさに気づけるものです。また同時に失敗から立ち上がることで、自分の中にある信念や奥行きに気づき、自分にはこんなに諦めない癖があったのかと感心したりもします。

つまり人間はみんな、この失敗と成功の体験を通して学ぶのです。学ばないことがもっとも勿体ないことであり、それは失敗も成功もせずに無難に何もしないでいることのようにも思います。

考えて何もしないよりは、実行してみて考える方が学びが深くなりますしその方がワクワクドキドキと心が動き続けます。この逆にある格言に「失敗する人には二種類ある。考えたけれども実践しなかった人と、実践したけど考えなかった人だ」とあります。どちらも失敗なのは、学ばなかったということでしょう。

失敗は何か大きな出来事によって決まるのではなく、日々を学ぼうとしないことによってすり寄ってくるように思います。学ばない日はすでに失敗だとしたら、何もしない何も考えない日こそ失敗であったとも言えます。

成功や失敗の二元論ではない成功とは、日々に学び続ける積極的人生を送るということです。それは失敗を恐れずに挑戦するということです。そして挑戦とは失敗した後にやってくるものですから挑戦し続けるというのは失敗し続けるということです。

最後に本田宗一郎の言葉です。

「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そして、その実を結んだ1%の成功が現在の私である。私の現在が成功というのなら、私の過去はみんな失敗が土台作りをしていることになる。私の仕事は失敗の連続であった。」

「失敗もせず問題を解決した人と、十回失敗した人の時間が同じなら、十回失敗した人をとる。同じ時間なら、失敗した方が苦しんでいる。それが知らずして根性になり、人生の飛躍の土台になる。」

失敗の中に真の価値があると、この失敗しないことを畏れようとする心が人を積極的に甦らせ活きらせるように私は思います。子どもたちのためにも失敗から学ぶ姿を示していきたいと思います。

奥深さの感性

先日、ミマモリストのブログに「物事の深さ」に気づくことで未熟さが分かったとありました。人間が今に変化をし続けていくことは、この奥深さを知り続けるのようにも私は思います。

この奥深さについて少し深めてみようと思います。

「奥深い」を辞書でひくと「表から遠い。また、ずっと奥まで続いている。」「意味が深い。簡単には究めがたい。」とあります。言い換えるのなら、分かることがない世界とも言えます。知識では知りようがない場所、到底辿り着けようのない次元のようなものです。例えるのなら宇宙の果てのようなところが奥深いところというのでしょう。

この奥深さは知れば知るほどに自分の未熟さが分かります。この時の未熟さとは、自分が知らなかったことを知り、分かった気になっていたことが分かり、如何に自分は知った気になっていただけだったのかを自覚するのです。それにもう一つは、自然の畏敬を感じるかのように如何に自分がちっぽけな存在であったかということに気づくのです。奥深さに気づけるというのは、謙虚で素直な状態であるということでもあります。

また先に知っていれば不安も恐怖もないのでしょうが、知れば知るほどに好奇心の方は働かなくなってきます。不思議を思ったり、未知を感じようと思う感性は奥深さに近づきたいと思うところから出てくるものです。

学問の醍醐味もまたそこにあり、人は出来事や体験したことを振り返り内省することでその味わったことのない新しい価値に気づき、学び直すことができるように思います。

知りえない、分からないからこそそこに奥深さがある。奥深さとは感性なのです。そして人生の奥行きが深くなるのは、「その体験をどのように感じことができるようになったか」ということだと私は思います。

福に転じるチカラというのは、この奥深さのことを指します。

どんな出来事や物事であっても、それをどのように感じてどのように捉えるかはその奥深さの感性の中にあるものです。私たちの会社の戒訓の一つ、「分かった気にならない」は道を歩むものとしての大切な徳目です。

引き続き、子どもたちの歩んでくる道が未知の面白さ、好奇心に溢れる楽園になるように奥深さの感性を磨き上げていきたいと思います。