生きた歴史

昨日、地元の神社の大宮司様から郷里の歴史についてお聴きするご縁をいただきました。紙面上で記されている歴史とは異なり、生の声で体験から語られる歴史は重いものがあり、そして生きるための智慧に溢れていました。

大宮司様は鎌倉時代より代々この土地を見守る宮司家を継承し、不動のままに現代まで継続されておられました。激動の時代の影響を受けながらどのように郷里が変化し興亡を繰り返して発展してきたか、その歴史には本当に頭が下がる思いがしました。

お話の中身は現代までの90年間についての地域の変遷でしたがなぜ今がこうなっているのかをすべて心から納得できるものでした。お陰様でこの話の先にこれからどのような変化が起きるのかを客観的に判断していくことができます。

歴史の素晴らしさは、その歴史の経過から今までを知ることで感じます。人は今までの歴史を知ることで今に誇りが持てます。今が誇りが持てるのは、それだけ積み重ねた上に今の自分が立たせていただいていることを自覚するからです。

お話の中では戦前から戦中、戦後のお話は心が苦しくつらいものがあり、今では想像もつかないような戦禍を経て今の自分があることにも感謝の念がこみ上げてきます。今回は郷里の歴史をお聴きしましたが、実際には日本の歴史そのものを語っているかのようでした。地域の起きている課題は日本全土の課題そのものであり、地域の課題が解決するのなら日本全土の課題もまた解決するように感じました。

今までは当たり前だった風土と一体になった暮らしがなぜ地域から消え失せたのか、人々が大切に守ってきた伝統、信仰や御祭りがなぜ廃れてきたのか、そこには今まで必要とされてきたことが突如として欧米が入り解体させられ不必要になっていったという事実。大宮司様の経験からどのような方法でどのような経過によって今になったのかをつぶさに確認することができました。

まさかこの歳になり、はじめて私はちゃんと郷里の歴史と向き合ったように思います。思えばあれだけ子どものころから学校で教わった歴史は何だったのか・・・論語の「女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。是(これ)知るなり。」で私は何も知りませんでした。

郷里への恩返しの実践によってはじめて私はこの郷里の本物の歴史を学び直しています。歴史を生きたままにするのは歴史を語る人、その歴史を継ぐ人がいるからです。歴史を自覚するには、その根底に感謝や恩返しの実践が伴わなければ単なる知識になってしまうのです。

最後に私たちは生まれて育てていただいた土地、自分の身体を形成してくださった土地、空気や水やその他の環境全てはその風土が醸成してくださった風土の産物です。その風土の産物として風土に還元していこうとするのは、自然と共に暮らし循環を已まない有史以来の私たちの生き方です。

子どもたちのためにも、生きている歴史を常に学び直しながら、自分が生きたままの歴史そのものである自覚とその誇りを心に持ちながら暮らしの復古創新、本物の民家甦生を手掛けていきたいと思います。

歴史を紐解く

全てのものには歴史があります。ここでの歴史とは学校で習ったような単なる知識ではなく、本来の歴史、つまり「今」のことです。全てのものには今があるのだから、この歴史は今とは切り離して考えるものではないことはすぐにわかります。

例えば身近でいえば「あなたの今の生きざまが会社の歴史になる」という言葉があります。これはあなたが今、会社で取り組んでいることが子孫まで歴史として繋がっているということです。また今いるところにも過去には沢山の人たちの人生や生き方、生きざまが凝縮されておりその延線上に自分が立っているとうことです。

今の自分が生活できるのは、かつて会社の歴史の中で一生懸命に貢献してくださった方々の御蔭様で今の自分が仕事をさせていただけているとも言えます。それを忘れるのは歴史を忘れることでそんな根無し草では養分をいただくこともできなくなります。今に生き切ることができるのもまた、その歴史の重みを自覚するからです。

歴史の重みを知ることは、今の重みを知ることです。今がなぜこうなっているのかを知ることは、かつては何が起き、そしてどの道を選び、何が発生して今に至るのか。その今を理解するためには歴史が必要です。そしてその歴史とは単なる誰かの主観ではなく、今までどうしてきたかを知り何が本質であったのかを探る大切な手掛かりになるのです。自分が先人たちの命がけの経験を理解し、その経験を見せていただいた中で未来の子孫のために何を取捨選択し調整するのか、それは今を生きるものたちのお役目でもあります。

その時は時代の流れもあり、仕方がなかった対処もあったかもしれません。しかしそのまま繋がっているもので絡まりほつれた糸を結び直すのには、それを一度紐解いてみなければわかりません。歴史を紐解いてみてはじめてこれはそういうことだったのかということがわかってくるのです。その上でどのように結び直せばこれから簡単にほつれずに済むのかは、その時代時代に生きた人の責任で行われるものです。

地域甦生、日本甦生には歴史の存在が欠かせず、今に誇りを取り戻すためにもそれぞれが地域の中で歴史を結び直す必要があるように私は思います。時代時代に歴史はその時代の人たちによって結び直されていきます。その結びの心は、歴史によって語られ今の生き方に由って紡がれます。

今の自分に責任を持つというのは、今が未来になることを理解し今が歴史の上に立っていることを自覚するということです。

自分の生き方と生きざまが歴史になるのだから、一日一生、後の人たちに恥じないように徳を積んで徳を残し、徳を譲っていきたいと思います。

暗闇の色

先日、古民家甦生を実践する聴福庵の板を渋墨で仕上げていきました。この渋墨とは、柿渋(渋柿の未熟な果実を粉砕し圧搾して得られた汁液を発酵、熟成させたもの)と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたものです。古来からある伝統技術であり、防虫・防腐効果のある天然塗料として家屋のあらゆるところに使われてきたものです。

今は耐久性や作業性の良いペンキやラッカーなどの油性・化学塗料の普及で渋墨はほぼ消滅しているといいます。

この渋墨の上品な黒色は、化学合成のオイルステインで出てくる黒ではないことは一目瞭然でわかります。古民家甦生を通して暮らしも復古創新している最中ですが私が取り組んでいる炭とこの渋墨の相性はとてもよくあらゆる場所で重宝しています。

そもそも隙間の多い日本家屋は、外界の自然と離れずに一体につながったまま存在している家屋ですから防虫はとても重要です。さらに高温多湿で常に水気が多い部屋ですから防腐もまた重要です。

伝統の智慧は風土の影響を受けて発達しますからこの渋墨は日本の気候風土そのものが産んだ最高の技術の一つです。

柿渋は以前のブログで書きましたが、この渋墨はその柿渋に松煙といった煤を混ざるという発想。これは暮らしから出てきたのではないかと私は思うのです。囲炉裏で松を燃やせば煤が出ますが、その煤が壁につくと奥行のある深い黒が出てきます。そして煤がつけば虫が来ないというのを先祖は経験から知っていたのでしょう。それに発酵する清酒を入れることで、塗料として合成する。よくできた仕組みを感じながら塗るたびに出てくる色の深さにうっとりしてきます。

松煙の色は、炭の持つ色にとても似ています。

私はこの炭の色がとても好きで、夜の深い闇の色を観ているようで穏やかな気持ちになってきます。闇が失われてきた時代、どこでも電気が明々とつき都会は暗くなる時がありません。まるで闇を遠ざけているかのような現代です。

しかしこの闇は、心の時間を与えてくれるものであり休む時間を持たせてくれるものです。この闇の時間があるからこそ、いのちのエネルギーは甦生します。私が炭やこの闇の色にこだわるのはこの古民家が子どもたちの心を癒すように願うからです。

引き続き、渋墨を用いて深い奥行のある墨の色、暗闇を創出していきたいと思います。

自然の時流

世間には人間が言う時間というものと、自然の中にある時間というものがあるように思います。人間の時間は、グリニッジ標準時を基準に動ていますが自然の時間はそのままの存在が時間として動きます。

例えば、グリニッジ標準時は人間世界で時間を統一するための基準ですからスケジュールは人間の都合で動かしていきます。人間が誰かと共に行動するには、年間、月間、週間、また一日、午前午後、何時何分と細かくなっていきます。時間が合うとか合わないとはお互いにその時間帯が確保できる余裕があるか、他の予定が入っていないかということが問題になります。

結局は時間はその人たちの都合ですから、上手くお互いがその時間を合わせていくことがタイミングがあったということになります。

しかし自然の時間は、こういうものではなく過ぎ去っている瞬間瞬間、言い換えれば「今」だけが時間ということになります。自然農で例えればすぐにわかるのですが、種まきの時機や収穫の時機、そして今何をすべきかはすべて自然を観察することで行われます。自然は刻々と変化を已みませんから、その時々でやらなければ手遅れになります。そこには人間の都合などは関係なく、自然は絶妙にバランスの中で動いていますから自然に合わせて変化していくしかありません。

人間には時流というものがあります。これは人間の間で流行りすたりがあるということです。時流に乗って成功する人もいれば、時流で失敗する人もいます。これは人間社會の中での観察に由ります。

自然の時流とは、自然そのものの存在の流れ、それは運とも言います。中国の古書に易経という時の書というものがありそこに「時中」という言葉があります。これは自然の時を顕す言葉です。

時に流されながら時に流されない、つまりは流れるということを得ているということ。運に任せ人事を盡す、つまりは今から離れることなく今そのものに的中するということです。これを中庸とも言います。

如何に時に中るか、それを私は直観と呼びます。

直観を使うというのは単に博打をするというわけではありません、直観とは丸ごと全体そのものと一体になっている境地であり、今何をすべきかが素直に自明している状態であり正直にありのままの自然な流れに従うということです。

自然の経営の極意は、タイミングを外さないということです。自然な流れで自然に生きることは、如何に謙虚に真心のままでいるかということです。

引き続き、子どもたちに自然が譲れるように時を深めていきたいと思います。

自分らしさ

自分らしさという言葉があります。昨今はこの「自分らしく」という言葉をよく聞くようになりましたが、これは自分らしくいられない人が増えてきているということでもあります。

自分らしさとは何かということを少し深めてみようと思います。

そもそも自分らしさというのは、自然体の自分ということです。自分らしくいることを無理しない、つまり自分のままでいいという状態です。それは誰の評価や結果、期待や比較などで自分を作り上げようと無理し頑張ろうとしないということです。

現在は、無理をしてでも頑張っても自分の与えられた役割を果たそうとする人が増えています。本来の自分ではやらないようなことでも誰かから与えられた役割や立場を守るために頑張ろうとするのです。その役目がピタリと合う人はいいのでしょうが、実際は能力主義や結果主義、個人主義が背景にありますから、何とかできなければ無理をして頑張って頑張れなくなったらもう無理だと倒れてしまいます。その段階においては楽しいや面白いといった好奇心も枯渇していることもほとんどです。そして自分らしくいられないと別の自分らしくいられるところを求めてはさ迷うのです。

実際は自分には無理なことがあることを自覚し、無理なことを頑張ろうではなく得意なところを活かして苦手なところは周りに頼るというのが自分らしくいられるということです。認め合い、プロセスを大切にし、助け合い協力することが背景になっているところは安心して自然体でいられます。できるところをやればいい、無理をしなくてもいいという安心感はいつでも仲間が見守ってくれているという安心感に包まれます。

このように自分らしくというのは決して自分だけでできるものではなく、その周囲の環境や仲間の存在によって感じられるものということになります。信頼し合う関係は、認め合うことからはじまります。当然周囲にその環境があっても、自分のことを認めず他人のことも一切認めようとしない人は自分らしくいられなくなります。

自分らしくいるために、如何に自分から周囲を認め、周囲もその人を認めるか。その人らしさとはその人を丸ごと認めていくということです。

私たちが目指している人間社會は誰かだけが誰かによってつくられ、本来の自分になれず無理をして一人だけ苦しむようなものではありません。これまでもみんなで一緒に生きてきたのが人類の叡智だからこそ、感謝のままにみんなが一緒に楽しく仕合せに暮らせるように一人一人を尊重し思いやることが自分らしさであることを実践で示していく必要があると思います。

多様な異なりがあっても、認め合っていけばそこには自分らしくいられる人たちの個性が活きていきます。好奇心もまたそういうところで発揮されていきます。これだけの個性がある人間が増えていくことは、それだけ助け合える機会が増えていくとうことです。

人口80億人の時代が来ていますが、これだけの個性が増えたことが仕合せに思います。この人類が協力し合い生きていく社會を夢見て、今日も理念研修に臨みたいと思います。

本質的創造

人は正しい方を選ぶときマジメになります。正しいことばかりをやろうとする心は、本質から外れているとも言えます。何のためにと本質から考えれば自ずから正しいことよりも如何に楽しいことにしようかと転じられるものですがその本質を見失えば正しいことばかりを求めてしまうのです。

かつて学校で先生が言っていることをきいて正しいことばかりをやろうとした人は「マジメであることが優等生である」と教育を施されてきました。私も何も考えなかった頃は、先生の言われた通りにやっていることが正しいことで、さらには言われていない先生の意図を読み取ってそれを事前にやったらほめられると信じていたころもあります。なんでどうしてと聞きなおすと怒られたりもしました。何のためにそれをやるのかを教えず技能ばかり磨いていたら人間よりもロボットの方がずっと進歩してしまったというのが今の世の中の矛盾のようにも思います。

私は性分からか、何のためにこんなことをと考えてしまうためすぐにやる気をなくし正しいことをマジメにやることに興味がなくなってしまいます。しかしその御蔭でいまでは何が本質かと自問自答して突き詰める面白さを楽しめています。

本当は何かと考え抜くのは人間の遊び心でもあります。如何にそのものが楽しくなるかを考えるのは本質が観えているからなのでしょう。どうせやるのならとむしろこうやろうと創意工夫が高まっていくのです。

例えば、伝統でも守らなければならないと悲壮感を漂わせていたら正しいことをやるしかないとマジメにやるうちに楽しくなくなっていくものです。しかし、伝統を守るためではなく本来の初心や理念を今の時代ならどうやってやろうかと好奇心でやっていたら楽しくなってきます。

よく好きなことに一生打ち込んでいた人が大成するといいます。その逆に好きでもないことをただマジメにやっていても大成することはありません。マジメでは大成しないと言っているようなものです。好きなことを楽しむ境地は、マジメからは生まれず、本質から生まれるのです。

私はこれを本質的創造といいます。

この本質的創造とは常に何のためにやるのかを忘れず、そのために効果があるものを創意工夫しアイデアを出す営みです。周りからみれば突拍子もないように観えても、それは信じる世界で自らの人生の道を前のめりに楽しんでいるから湧いて出てきます。そういった目的意識や本質は世間の常識をすべて壊していきます。

常識に囚われることは面白くなくなってしまうし、ちゃんとやればうまくいくなどは過去の前例に縛られているだけです。新しい発想は、そのものを楽しみ味わい抜く中にこそ生まれてきます。

一期一会の人生を味わうのだから、真面目に生きなければもったいないと私は感じます。本質的創造は好奇心の賜物ですから、引き続き子ども心でワクワクドキドキしながら取り組んでいきたいと思います。

心の豊かさ

古民家甦生を通じて古いものを修繕していると誰もがその光景をみて「懐かしい」と感じます。その懐かしいと感じるものは何か、それは心の豊かさです。懐かしさとは人の心の中にあります。

今の時代は、過剰な貨幣経済が発達しお金の方が物よりも溢れかえっています。都会にいけば手に入らないものはほとんどありません。家電製品であったり生活用品であっても簡単に購入できます。

しかしちょっとしか使われずもっといいものがあれば購入して古いものは廃棄されます。本来、昔の先祖たちはものを大事に最後まで使い切りました。それを見立てるとも言います。

私が尊敬している鞍馬寺の貫主様も、壊れた茶碗を花瓶に見立ててお花を活けていました。こうやって使えなくなったものを別の形にして活かそうとする。その心の豊かさは私たち先祖たちがずっと大切にしてきた心です。

この心を知る時、私たちは豊かさとは何かの本質に出会えるのです。

心の豊かな人とは、もったいないそのいのちを使い切る人です。同様にもったいないその一期一会のご縁を活かす人です。

二度とないものをもっと大切に使い切ろうとする心は別にゴミを捨てないとか、節約しようとすればいいのではありません。今までお役にたってきたいのちを慈しみ愛おしむ心、いのちが宿っているものへの思いやりと感謝、それは自分がこの世で暮らしていける仕合せを味わっている人生の豊かさです。

心の豊かな人は、その存在が懐かしく感じます。こうやって先祖の心に触れて生きていけることは何もない中でも無尽蔵にある宝に出会っているようです。

子どもたちにも心の豊かさを譲っていけるように古民家甦生を楽しんで歩んでいきたいと思います。

言葉の原型

人間同士は言葉が使えますから言葉と単語を使ってコミュニケーションを取りますが古代は言葉がなかった時代があったといいます。それは今の動物や昆虫、そして植物と同様に単語以外の方法でコミュニケーションを取っていたそうです。

先日もある動物番組を見ていると、サバンナでライオンが空腹を感じて襲いはじめるとき周囲の動物はそれを事前に察知して逃げ始めます。しかし満腹で襲う気配がない時は、その真横で餌を食べるほど安心して素通りしていきます。この察知するや気配を感じるというのは、言葉以外のコミュニケーションとも言えます。

ある説に、人間は言葉を使うようになったのは心を隠すためというものがあります。自分の心が相手にわかってしまうと都合が悪いことで、人間の自我が自分を守り自分を隠すために言葉を使い始めたという説です。いちいち単語を並べては回りくどい言い方をすることで、自分の本心を隠し相手に読まれないようにと工夫するようになったといいます。そのことからコミュニケーションが次第に難しくなって発達して今にいたるというのです。

確かに人間関係での相談のほとんどが相手が何を考えているのかがわからないというものが多くあります。言葉の一端から相手が何を考えているのかを読み合おうとしては、お互いが疑心暗鬼になってしまうのです。心を開いていれば通じ合うものを、心を閉ざすことで読み合わなければならなくなるのです。

相手が何を考えているのかが分からなくなると人は不安になります。特に言葉を信じてもその行動が全く別であった場合、人は人を警戒するようになります。さらには不信になり、何も誰も信用しなくなるものです。

心を開いてくれたと思っても、それが本心ではない場合は後であれはなんだったのかと責め合うことにもなるのです。心を隠す技術として生まれたこの言葉は、人間の自我が創出したものかもしれません。そのことから生きづらくなって苦しくなったようにも思います。さらに今では、文字だけが独り歩きするような時代になっていますから言葉を操り民衆の感情を巧みに利用するようなことも増えてきています。広告や宣伝も言葉を使い過大に表現することで余計に言葉が歪んでいるようにも思います。

鳥や虫のように、そのままに発する言葉は言葉の原型でありその心のままに発する声が本当の声です。本当の声が聴けなくなったのは自分が心を閉ざしたからであり、心の中にある疑念が勝手に相手を歪める原因にもなっているのです。裏表なしの真心からの声が聴けるとき、人は自分が真心の声を発する人になっていることにも気づけます。

自分の心の声のままに従い生きている人はみんな正直です。正直とは素直であり、直は謙虚であるからさらに声なき声まで聴こえてきます。自分の心を開くというのは、声を聴く耳を持つということです。そして自分を守るのではなく、本心を守るという覚悟がいるのです。

人の話を素直に聴ける人は、自分の心の声も素直に聴けるようになります。そしていつも自分の本心と対話し続ける実践が必要です。

一人一人のその言葉の壁が取り払われるとき、安心した居場所ができます。それぞれが自分らしくいられて無理に感情を誤魔化さないでいられるような自然体で安心した居心地の善い場所を子どもたちに譲っていきたいと思います。

社會を創る

人は「できるできない」刷り込みがあると、できないことは悪いことでできることは良いことだと思いこみます。幼少時からできる人になるよう教育を受けていけば、皆と同じことができることが当たり前でできないことは悪いことだと思い込まされます。

しかし個人として一人で生きるのならばできることを目指すのでしょうが、社會全体で見た時はどうかということです。私は社會全体で観た時は、「できるできない」よりも「助け助けられる」関係を築くことの方が重要ではないかと思います。

本来人間は、できるかできないかで自立しているかどうかを評価する前に、助けてもらったり助けてあげたりといった相互扶助の心を持ち合うことができて自立した社會を築けるように思えます。もしも一人で生きていくのであればそういう社会を目指していくのでしょうが、一緒に生きるのであればまた別の社會を目指していくものです。将来、どのような社會を創造するかはその人たちの生き方や行動に懸っているとも言えます。

現在の社会では能力が低くできないことで病み、一人ぼっちになり鬱になっている人が増えています。できるようにならなければ生きられないと思い、能力が他と比べて低い場合はそれで絶望している人もいます。それは「合わない」と思って他の人に力を借りればいいのでしょうが実際は何とかできるまで無理にでも頑張ろうとします。またそういう無理強いしなければならないような空気も社会の中にあります。勝ち組負け組などもそういう空気間から出てきた言葉です。

無理をして頑張れないのは向いていない、合わないということですがそれではダメだと思い込むとさらに辛いことになります。それに人は弱さを出せず弱いことが悪だとし自分を傷めつけもっと強くなれと無理強いをさせていけば心に深い傷が残るものです。短期的には感情的に頑張れますが楽しくなければ長続きはしないものです。それにその傷がうずくたびにもっと強くならなければと発奮しもっと一人で頑張ろうとします。するとできるようにはなっても同じように周囲に無理強いをさせる社会の一員に自分がなってしまうかもしれません。

人は弱さを持てば周囲に助けてと頼めます。そして助けてと頼めることで周囲はその人を助けます。お互いにそうやって頼み頼める関係ができれば信頼関係が深まり、社會は安心した繋がりが生まれます。人間の赤ちゃんが最初は一人では生きていけないのは最初から周囲に助けてもらうことを優先して生まれるからです。

長い時間をかけて赤ちゃんのままでいるのは、それだけ助けてもらったり助け合ったりする力を身に着けるためです。逆に今では早期教育なども流行り、なんでも結果主義で速成ばかりを強いますがそれは個人ではできるようになっても社會がよりよくなるかどうかは別なのです。人間とは人の間と書きますが、これは人と人とが助け合い生きていく動物だという本性を記したものです。

どんな社會を築いていきたいか、それは今の大人たちが実感しているものの中で取捨選択して残したいもの譲りたいものをよく向き合って子孫へつないでいく必要があるように思います。

人間とは社會を創る生き物だからこそ、その社會に人間性は出てくるものです。

引き続き、子どもたちが自然に創る社會を見つめながら学び直しを進めていきたいと思います。

商人とは

今では商人とは何かということが曖昧になり、いわゆる商売をする人たちをみんな一括りに商人と呼びますがかつての商人とはどのようなものだったか近江商人の家訓や心得から深めてみようと思います。

近江商人は、鎌倉時代から昭和にかけて活躍した滋賀出身の商人集団のことを指しました。この商人の理念には「三方よし」という思想があります。これは「売り手よし、買い手よし、世間よし」というものです。

この三方よしの考え方は現在の日本的経営の一つにも例えられ、如何に世間の皆様によって最も善いことになるかを常に考え行動することが商人であると理念を定めています。また「利勤於真」(利ハ勤ルニ於イテ真ナリ)という実践徳目もあり、これは商人の利益はその任務に懸命に努力したことに対するおこぼれに過ぎないとし、勤労を優先し利益はその結果として出てきたものに過ぎないと真心を優先することを大事にしました。

近江商人には、商売十訓というものがあります。ここには近江商人の生き方の事例が紹介されています。

・商売は世のため、人のための奉仕にして、利益はその当然の報酬なり
・店の大小よりも場所の良否、場所の良否よりも品の如何
・売る前のお世辞より売った後の奉仕、これこそ永遠の客をつくる
・資金の少なきを憂うなかれ、信用の足らざるを憂うべし
・無理に売るな、客の好むものも売るな、客のためになるものを売れ
・良きものを売るは善なり、良き品を広告して多く売ることはさらに善なり
・紙一枚でも景品はお客を喜ばせばる
・つけてあげるもののないとき笑顔を景品にせよ
・正札を守れ、値引きは却って気持ちを悪くするくらいが落ちだ
・今日の損益を常に考えよ、今日の損益を明らかにしないでは、寝につかぬ習慣にせよ
・商売には好況、不況はない、いずれにしても儲けねばならぬ

ここに商人とはどういう生き方をすべきか、そして商人の志すものは何かが記されているように思います。特に近江商人は「陰徳善事」というものも掲げ、人知れず見返りを求めずに徳を積むことを重要視したといいます。

今ではすぐに職業や肩書、人気や流行から評価して人を観ますが、本来はその生き方をする人が何の職業をやっているかとその「人物の生き方」を観ることが本来の働き方の確認なのです。つまり古来の日本的精神、士魂を持った人が商才を使っただけでその風土の日本人の生き方がどうだったかということです。

世の中では働き方の改革と言われますが、その前に自分の生き方がどうなっているのかを見つめることが必要だと思います。単に会社の制度や取り組みを換えればいいのではなく、その根幹にある生き方を同時に換えることが働き方改革の本質だと私は思います。

商人として自分の生まれ落ちた天命の中で、しっかりと日本の心を持って働くということが商いを通して社會を善くしていくということです。その働き方は、常に自他も善く、そして世間も善く、それを喜びにして生きていくということです。

世の中の平和平安の祈りに生きたその生き方、働き方こそ商人の基本なのでしょう。日本の商人の道に私は誇りを思います。

引き続き社業を見つめながら日本的経営を学び直していきたいと思います。