自然のまま~本質かどうか~

今年は自然農の畑と両親の耕す畑で高菜を栽培してみて、色々な発見がありました。自然農の畑の高菜は、大きくなく小さいものばかりです。もう5年間、無肥料無施肥でやっているものといえば近場の雑草を刈って敷き詰めるくらいです。それに比べて両親の畑は、肥料が残っているので私の高菜の6倍くらいの大きさになっています。実際に農協や農産物直売所では両親の畑の高菜の方が評判がいいはずです。大きくて肉厚な野菜は高く売れます。

しかしよくよく観察してみると、どの辺が異なっているのかということにすぐに気付きます。まず自然農の野菜は、根がとても強く茎がしっかりと強くなかなか収穫するときに簡単に切れません。全体的に小ぶりですが、ほとんど虫がついてなく食べられている形跡もありません。色つやがとても野性的で、収穫してからもなかなか腐りはじめません。高菜などは天日干ししてもすぐには萎れず、元気なままです。売るには大きくて肉厚ではないので価値が低いのですが、食べるには最高です。両親の畑の方は大きさと肉厚さはすごいのですが虫が大量についています。その虫を洗い流すのが一苦労で、これだけの虫を防除しようとすれば農薬を使わないと成り立たないのがすぐにわかります。

実際に大きくしようとすればするほど、大量に肉厚なものを作ろうとすればするほどに肥料が増えていきます。そして肥料が増えていけば虫も増えていきます。虫が増えていくから農薬も増えていくのです。この「大きくする」ということが如何に別の手間を増やしているのかということなのです。しかし大きくする理由はお金になるからです。お金にするために育てるのだから大きくした方が消費は増えるということです。作るときから消費をするために作るのだからエネルギーも使う道具や中身も消費するものを沢山使うことで経済効果が上げているのです。

しかしここで大きくしないと決めるとどうなるか、すると売れなくなります。売れなくなるのを諦めてしまえば消費は落ちていきます。食べていくにもお金がなければ食べていけないのだから食べていくものを作っているのにそれを作ってもお金にならなければ生活していけないという矛盾が発生してしまうのです。私のように兼業農家で行う場合は、自然に食べるものを育ててもそれで収穫して食べて別のことでお金は稼げばいいのですが実際は専業になるとやはり食べるものではなく売れるものを中心につくりはじめるのです。

消費するものか食べるものか、今の時代は消費者が消費するものを求めていますから食べるよりも消費材の方が価値が高く売り買いされていくのです。道具ひとつでも今は修理するよりも買い換えた方が安い時代です。プラスチック製品などは、最初から使い捨てるために大量消費できるように作られています。そもそも道具も使うものではなく消費するもの、食べ物も食べるものではなく消費するものなのです。

自然農は食べるものを作ります。消費にはあまり役に立ちませんが、その分、自然循環する農の暮らしが行え、食べる営みや育てる営み、自然と寄り添い生きていく智慧を学び生き方の方を自然大道に沿っていくことができます。

食べ物をつくることが本来の農であり、消費することが農ではありませんから如何に農を実践するかが自然農の醍醐味になります。美味しい食べものを育て、美味しい食べ物を加工する、そして美味しく食べてもらうこと。

美味しいものを作ることは大きくすることでもなく肉厚にすることでもありません。かえって自然の大きさのままにそれが小さくても自然の姿のままで育てることが美味しいものを作ることです。

この自然のままがいいという価値観は、常に「一体何のためにやるのか」という本質を外すことがありません。本来、人が自然が分かるのはそもそも何のために作るのか、それと深く正対しているから自然のままの意味が自明するのです。

引き続き、本物の漬物作り通し本質的に育てる感性を磨きたいと思います。

 

漬かるということ

昨日、高菜の漬物を二樽分の塩漬けを行いました。この数日間、まず漬かるのを待ってから杉樽へ本漬けするという要領です。漬物の「漬かる」ということがどういうことか、改めて深めておこうと思います。

漬かるというのは、液体にひたるということでもあります。塩をまぶし、塩漬けすることで漬物の組織が浸透圧によって水が出て来ます。この時、塩によってカビや腐敗菌などは除菌されかわって塩に強い乳酸菌が発酵して漬物を円やかにしていくのです。

漬物は乳酸菌のお風呂に漬かることで、カビや腐敗の影響を受けなくなるのです。

言い換えれば漬物は、乳酸菌の餌であり住まいです。乳酸菌は私たちの腸内でも活発に活動しています、私たちの腸内も同じく餌があり住まいになっています。現在科学が進み、腸は第2の脳であるということまで言われています。それくらい腸内の状態は、感情を司り、免疫や生き方にまで影響を与えるという研究結果が出てきているからです。

その腸内のバランスを維持していくということが健康におおきな影響を与えます。漬物を実践してみてわかるのは、決して人間に有用なだけの微生物だけではなく同時に悪玉菌といった人間に都合が悪いのも同時に増えていきます。

漬物を漬ける人は、塩梅を確かめ発酵菌が優位になるように塩加減や漬かり加減を調整し続けなければなりません。ここに昔からの智慧があり、漬物を漬けるコツがあるのです。

おいしくて栄養価があり保存性がある漬物は、かつては縄文時代から海水に漬け込むことで発明されたのではないかとも言われます。その後は、ウリや青菜を塩漬けし大陸から味噌や酒が入り、室町には香の物と呼ばれあらゆる漬物が出て来ます。江戸時代には各家庭で様々な漬物をつくられました。

これらの漬物は、お米を主食に私たちにはとても重宝されお米で不足する栄養価はほとんど漬物で補ったほどです。保存が効き、栄養価があり、微生物を摂取でき、美味しくご飯が進む漬物は私たち日本人には切っても切れぬほどの関係です。

今のように食生活が西洋化していく中で、次第に漬物も遠ざかってきています。本来、先祖たちが何を食べてきたか、それを食歴といいますがそれが大きく変化して体調も変化してきていますが先祖代々自分たちのカラダを守ってきた漬物の智慧が失われていくのはとても残念に思います。

先祖たちの食歴、智慧を譲り遺していくためにもその風土にあった漬物を遺していきたいと思います。不思議ですが樽や甕に住み着いた微生物たちは先祖たちのカラダを潤した先祖たちそのものです。時代を超えても、漬かっているものは先祖の温かい見守りそのものかもしれません。

漬物から原点回帰し、もう一度先祖たちの真心に漬かってみたいと思います。

 

囲炉裏の場~火を守り続ける~

朝から炭を熾し、囲炉裏で鉄瓶の一杯の御茶を呑むのはとても仕合せな時間です。囲炉裏のある暮らしというのは、温もりのある生活です。この日本の囲炉裏にはとても不思議なチカラがあります。

縄文時代より家の中心には囲炉裏が設置され、暮らしの中心は火と共に行われました。囲炉裏が真ん中にあると、冬は暖かく夏はカラッとしたと言います。灰や炭が防虫効果や病気が入ってこないこともあり、火の神様は一家の守り神として大切に日々に接してきたと言います。

その後、日本家屋は「土間」、「居間」、「座敷」の3つの空間に分かれました。「土間」は出入り口とつながった空間で農作業をする場所、「座敷」は人を招きおもてなしをする場所、そして、寝起き、炊事、団欒などの生活の場所として「居間」と分かれます。

得に囲炉裏はは火の神の祭り場であり、火の神は家を守る神でしたから家の中では最も神聖な場所に設置されました。そしてそこに足を踏み入れたり、穢れたものをくべることは禁じられたほど神聖な場所でした。それだけ火は、私たちの先祖が大事に信仰してきた家の守り神であり、一年中、神棚に火を祭ることで暮らしが継続できたとも言えます。

以前、石川県で「火様」という風習が残っているのを聴いたことがあります。これは毎朝、小枝をくべ炎がおさまると灰をかぶせ手を合わせて祈る。これを300年も継承されていると言います。

これはまさに原始の心、火の神様を祀り奉るための神事であることが分かります。

今では当たり前になっていますが、この「火」が絶えないことが家が絶えないことであり、囲炉裏を中心に家族が団欒して集い暮らしが存続できたことの御蔭様が火の神様であったということでしょう。火の神様がいらっしゃる神聖な場所、そこが「囲炉裏」であったのです。

囲炉裏は家の魂とも言えます。

家の中に囲炉裏があるということは、そこに一家の魂が宿っているということです。その一家の魂が常に火がともし続けられ、その火を守り続けるということは家運を守り続けるという家主の実践の一つだったのです。

囲炉裏を大切にするということは、その家の暮らしを大切にするということですから温もりを絶やさずに神聖な場所を守り続けたことで囲炉裏と共に代々が続いていくのだという歴史の歩み方を伝承しています。

最後に「永遠の燈火」として800年間火を絶やしていない千葉家の家訓で締めくくります。「いろり火の焚火はな、先祖が焚きつけた火じゃで、消すことはならんぞよ。代々伝えてくりょ。なんとしてでも、山があるもんやで火を絶やさずやってくり」とあります。

そして火はこうやって残すのだという心得を続けて語ります。

「いろり火を絶やさないコツは、朝起きたら、夕べの火種を掘り起こして、火をおこし『おき火』をたくさん作っておくこと。昼間は灰をかけて、その上から十能一杯分の籾殻をふりかえておきます。そうすると夕方まで火が残る。十三時間くらいは大丈夫。夕方は、朝と同じように火をおこして同じことを繰り返します。かつては薪も山の木を割ってくべていました。今は、若い者の仕事が忙しいので、買った薪を使うこともあります。火を守り続けて感じるのは、昔は、簡単に火をつけることができなかったので、大切にしたんやないかということです。今は、火を守る必要がないと思われるかもしれませんが、先祖からの火なので尊く感じられて…。先祖あっての自分ですから。この家には家族五人が暮らしています。家のものは、先祖からの言い伝えをただ大切に守っています」

・・・先祖からの火なので尊く感じられて・・・。

火が絶えないということは、先祖からずっと火を守り続けてきたということです。囲炉裏は火が絶えない場所なのです。囲炉裏が今もあることで、私たちの暮らしは復活していきます。

引き続き、子どもたちに伝承したい暮らしを味わっていきたいと思います。

 

 

 

八十八

春が訪れ、いよいよこれからお米の苗作りの季節に入ります。毎年この時期がとても待ち遠しく、今年も一緒にお米と季節の廻りが学び合えること、見守りを味わえることに仕合せを感じます。

お米というものは八十八の手間暇がかかると書いて「米」と書きます。この手間暇は意識していなくても自然に手間暇をかけています。こういう時間が何よりの味わいであり、自然農はさらにその手間暇を手作業で味わい盡すことができる豊かな農です。

以前、熊本県人吉にある国宝青井阿蘇神社に参拝したことがあります。そこの大神宮拝殿の入口付近に下記のように書かれてあったのを覚えています。

「わたし達の主食であるお米は、天照大御神からいただいたものといわれています。その「米」という文字は、「八十八」、つまり88の手間をかけ大切に育てるという意味です。太陽・星・月の光を受け、大自然の恵みとしては雨水をいただき、風で害虫を防ぐ、稲妻の光で稲の実が膨らみ、わたし達の命の根(イのちのネ)、命の根源となります。お米は撒けば1粒が万倍にもなります。これは自分1人だけでなく、他人の分までも賄えるという神道における調和と共存共栄の思想です。平らかに【平】、禾(イネ)をを口にする【和】。神様からの賜りものを平均して皆がいただける状態を「平和」というのです。」

とても素晴らしい文章で、古来よりお米が神道の行事、また儀式や祭礼として私たちの生活に密接につながっているのを感じます。昨年は島根で注連縄づくりも実践するご縁をいただきましたが、お米の持つ神聖神秘的なもの、その稲神様が寄り添って暮らしてくださっていると実感することは私たち民族が何を初心に生きていけばいいかを忘れさせないための工夫にもなっています。

八十八の神様宿るお米だからこそ、八十八のお世話をつとめさせていただけるという仕合せ。御米作りの有難さというのは、いのちのねが育つ歓びでもあります。

すでに自然農園の山の湧き水のたまりに10日前に設置してきた昨年のお米の種籾から新芽が出てきていました。これから苗床を用意していよいよ6年目の実践がはじまります。さらに今年は、一昨年前に川口さんにいただいた古代米にも挑戦し、また苗場も使い分けて取り組みます。

子ども達のためにとはじめたものですが、田畑から数多くの見守りをいただき確実に八十八がしみ込み浸透してきています。また青井阿蘇神社にはこう書かれていました。

「お米を炊き食事をつくる場所を台所と言います。これは母親が幼い子どもの食べ物の有難さや、大切さ、事の善悪を教えるなど、人間の生き方の基礎となるべき土台を形成する場所だったからだとも言われます。全国の神社で五穀豊穣を「祈願」するのが2月17日の祈年祭で、「感謝」するときが11月23日の新嘗祭です」

愉しみはいつも道の中にあります、道縁無窮です。

今年も御米に携われることに深く感謝して、丹精を籠めて丁寧に学び直してしていきたいと思います。

 

 

 

 

忍耐力

ベランダに実生のクスノキとイチョウが育っています。ちょうど3年目に入りますが、また春に合わせてそれぞれ蕾をつけて準備をしています。クスノキについては、沢山の葉をつけたままに冬の寒さを耐えて乗り越えました。イチョウについては葉を落とし、枝だけになった姿で春の来るのを待っています。

同じ冬を乗り越えるといっても、木々によって乗り越えて方が異なります。常葉広葉樹であるクスノキは、常に光合成を維持するために葉を広げ続けます。光合成ができなくなった葉は落とし、まだできるものは残しています。常に光合成をし続けることで生き続ける太陽の光を一年中浴びて成長し続ける戦略とも言えます。

またイチョウは分類は針葉樹になるのですが落葉します。冬に一斉に葉を落とした後は、枝ぶりのままに今まで蓄えた養分をしっかりと守り春が来るのを待つ戦略です。

どちらの木々も冬を乗り越えるために智慧を働かせるのですが、タイプの異なる木々を一冬観察してみたらそれぞれの持ち味があり、それぞれの乗り越え方が合っていいと安心する気持ちになります。

冬はどんな生き物にも到来するものです。その冬の乗り越え方は、決して一つではなく有る生き物は土中に潜り冬眠し、有る生き物は木の皮に隠れて身を寄せ合ってじっと固まり、またある生き物は人間の住む屋内に入り込み春を待ちます。鳥などは街に降りてきて南天の実や庭のあちこちで越冬したり、渡り鳥になって暖かいところへと移動しているものもあります。

冬は私たちに忍耐を教えてくださいます。これはどの生き物たちも自然に忍耐を学んでいるのを感じるからそう覚えます。この忍耐というものが如何に人生において重要なものか、冬がなければ私たちは忍耐の妙味を味わうこともないのかもしれません。

二宮尊徳に「小にして忍耐せざる者、長じて速やかに亡ぶ。 桃李これなり。小にして忍耐する者、長じて久しく存す。楠樫これなり。人あるいは幼にして学を勉め、長じて身を立て、死して名を存す。またあるいは幼にして遊惰、長じて家を失い、死して名無し。これ忍耐と不忍耐とに由るなり。人よろしく桃李を見てもって戒慎し、楠樫を見てもって発憤すべし。」があります。

桃李や楠樫のようにしっかりと忍耐するもののみ長じてのちの大樹となり杜を形成し生き物たちの父母となる。もしも忍耐を怠り、怠惰に流されれば大成することがないということです。

焦らずじっくりという言葉は、自然界の持つ忍耐力の側面です。

理念や初心から決して目を反らさず今に戒慎し、今を発憤して実践を強めていきたいと思います。

 

バイオリズムと融通無碍

人間の体調にはバイオリズムというものがあると言います。これは20世紀のはじめにウィーン大学の心理学教授 H・スウォボタ博士とドイツ科学アカデミー会長 W・フリース医師が患者の容態の変化に周期性があることに気付き、23日周期の身体リズムと、28日周期の感情リズムを発見したことで見つけられました。

現在では主に、人間の場合は、身体(Physical)、感情(EmotionalまたSensitivity)、知性(Intellectual)の3種類の波を用いて説明されています。

生命はある周期で、波の満ち引きのように体調や感情、感覚などが上がったり下がったりしているということです。体調もずっと同じままではなく、知らず知らずのうちに下がっていたり上がっていたりしているということです。それらのバランスによって集中力が高まったり、もしくは感情が落ち着いたり、様々な変化があるということです。

確かに、天候が日々に変化するように私たちのカラダも変化します。それは外側の変化に対して順応しようとする自然の変化であり万物はバランスを取ろうとして変化を已みません。もしも外側が全く変化しないような世界であったなら、こちら側も全く変化しなくても済むのでしょうが実際は季節感、温度、時の流れ、場所の位置、老化に病気まで様々なストレスを抱えて変化は促され続けます。

こういう時には、バランスを整えて変化に適応していくしかありません。しかしバランスが崩れてしまい変化適応が上手くいかない場合が多いように思います。バイオリズムなど無視しては、思い通りにしようとする執着ゆえによりバランスは崩れていきます。

人がバランスを崩すのはどういう時か、それは崩したかどうかではなく崩した時に無理をするかどうかということです。昔、メンターの先生に「調子の悪いときに無理をしても効果がない、調子が悪いときはじっとして調子が上がったらまた動けばいい」とアドバイスをいただいたことがあります。

人は焦ると、かえって調子が悪いときに頑張ろうとするものです。バイオリズムがよくないときに何をやってもそれはもはや単なる執着いがいの何ものでもないのだから思い切って手放し諦めて開き直ることで調子が戻ってくるのが早くなるものです。

時の流れも同じく流れが悪いときはなるべくじっとして、流れがよくなってからまた動けばいい、融通無碍にいることがバイオリズムに逆らわないで生きるための妙法かもしれません。

動中の静も、静中の動もその時々として深い意味が潜んでいます。潜龍のように沼に潜んでは蒼く澄んだ水鏡の天を見据えて鋭気を養いたいと思います。

気力体力

人間には気力と体力というものがあります。この2つの力をもって活発的に活動しているのが人間だとも言えます。この気力と体力はどのような定義になっているのか、少し深めてみます。

まず気力とは辞書には「物事をなしとげようとする精神の力。また、元気。精力。困難や障害に負けずに物事をやり通す強い精神力。気持ちの張り。気合。」とあります。そして体力とは「ある仕事が行えるか否か、または病気に耐えるか否かという、身体の強さ。労働や運動に耐える身体の力。また、病気に対する抵抗力。」とあります。

気は気持ちの部分が強いのに対し、体は行動する部分が強いように思います。この2つがバランスよく働くとき、気力体力が充実して物事は成就していくように思います。私の場合は気力が強い方でそれに体力が着いてくる感じですが、体力がなくなってくるとどうしても気力が回復しなくなってきます。体力が気力を支えますから体調を崩し病気になるとどうしても気力が減退します。

こういう時は、体力の回復を優先しまた気力が充実してくるのを待つしかありません。体力の維持のためには、規則正しい生活や、規則正しい食事、適度な運動があります。日頃から下支えしてくださっている体力に対してどれだけ感謝し配慮していくかが体力維持には大切なことです。

病気になってしまったなら、静かに体力の回復に努めることです。体力が回復することで病気も平癒します。子ども達の為にも、日常の生活を観直していきたいと思います。

天災と人災

天災と人災というものは異なるものです。天災は地球規模の災害であり、大地震から大津波、大竜巻に大台風、大寒波に火山の大噴火、熱波から隕石の落下まで毎回、私たちの想定を確実に上回る災害が天災でもあります。

それに対して人災というのは、想定内で起きる人的災害のことです。原発事故や工場火災、水道管の破裂に地下鉄事故、交通事故や停電、風評などこれらは人災でありすべてそれは事前に備えることができるものばかりです。

この天災と人災と混同している人が増えてきているように思います。一般的にビル管理などで行う災害訓練は人災対策です。これは日頃から訓練しておかなければ「人災」が起きてしまうということから行われる訓練です。本来、運よく最初の天災から逃れられたとしてせっかく助かったいのちを人災によって失うのを未然に防ぐための訓練のことです。

人災とは人道のことで、人の道は日々の平常時の訓練を怠るなということで人災が発生しなくなるようにするのが人の道です。二宮尊徳が、「人道は一日怠ればたちまち廃れる」という言葉があります。そもそも一日怠ることが平気な人がいくら人災の訓練をしたとてそれはもう廃れているのだからひょっとしたらしない方が他に影響を与えない分ましかもしれません。日々に防災のチェックをしたり、日々に備品の管理をしたり、大事なのは人の道は「一日も怠らない」ということで人災は防げるのです。かつて二宮尊徳が何度も天災に対して人道を盡して飢饉や飢餓を救ったり、水害を防いだり、沢山の人命を救助できたのもまた二宮尊徳が「一日も怠らない実践者」であったからであり、その徳恵によって仲間や家族が救われたのです。その遺徳は今でも人災対策の鑑です。

それに対して天災はどうかということです。

天災は時の運です。この天運というのものは、不思議なもので例えばちょうど地震の時に出張で遠くにいたり、津波の時にそこに近づいてしまったりします。自然界に生きている生き物たちは台風が来る前にはみんな避難していると言います。メダカなども流されないように石を呑みこんで深く潜っているといいます。鳥や野生の動物は、事前に天災を察知して避難していのちを守ります。

これは野生の勘とも言えるものです。自然から離れず、自然により沿っていきている生き物たちは自然の観察に長けています。それは固定概念に縛られず、危機意識を怠らず、自分のいのちを最優先に守り、自然への畏敬を忘れず、ピンチの時こそ野生の勘が働いているから助かるのです。

これを運が善いとも言います。この運とは、天運に対して自分の運を合わせていくということです。日頃から自然を畏敬し運が悪くならないような生き方をすることで、救われます。たとえば謙虚さや素直さを持っている人は、なぜか人のアドバイスや周りの見守り、環境の組み合わせによっていのちが長らえます。

これは日々の生き方が天道に逆らわない、昔の言い方をするのなら「お天道さまに恥じない」生き方、つまり正直に謙虚に素直に己に打ち克って初心理念を優先して生きているからです。お天道さまがいつも守ってくださるのはその人が「正直」だからです。そして正直が守られるのは天運に沿っているからです。これは会社経営も然り、生き方も然り、本来の日本人は環境の変化、天災が世界一多い国だからこそ先祖代々、「正直こそ無敵」であると、お天道様を信じて取り組んできたのです。そしてこれらの努力こそが、人道の極みとも言えます。

いくら体調を崩してこのブログを已めないのは、それが人道であるからです。一日怠ればたちまち廃れるからこそ、天理に沿って人道を重んじるのです。人道を怠らないことが己に打ち克ち天道に従うことになります。

引き続き、子ども達のお手本になるように日々の生き方の方を平常心・平常時の方を大事に実践を積み重ねていきたいと思います。

緊急の常態化の怖さ

便利な社会の中で、今ではワンクリックでありとあらゆるものが手に入ります。また都会では何でも人間の思い通り、人間の都合通りになるように仕上がっています。24時間空いているお店、病院、タクシー、ありとあらゆるものがすべて整っています。都会に住むというのは、その便利な生活の中に入るということでもあります。

しかしこれをよく考えてみると、すべて緊急時の対応ができるということが便利さであるという事にも気づきます。わざわざ準備してなくても、日頃から備えがなくても、都会に住めばお金があればなんとかなるというものを便利だと定義しているのです。

本来は、お金があろうがなかろうが緊急時の対応ができないから日頃から備えをし準備をします。例えば、病院も近くにないから早めに診察にかかります。お店も早くに閉まりますからある程度必要なものはストックします。前もってちゃんと平常の方を大事に保つのです。しかし今は緊急の方があたりまえになっているので震災や災害、天災の時にまったく対応することができません。

いくら24時間対応のエレベーターですと謳われていても、都内の全部が停電したら対応できるはずがありません。ガス、水道、電気が止まることなど想定などしているはずがありません。それが緊急時が常態化しているという危険な状況なのです。

田舎では停電は当たり前、断水、ガスがこないなどよくあることです。そのために、もしもそうなったらということで日頃の備え、つまり平常時を油断なく準備しています。緊急時で乗り切れるのはたまたま運が善かっただけとし、緊急時を主をしておらず、あくまで平常が良くなかったと反省しすぐに改善をするのです。

それが自然の中で備わってきた智慧であり、人間の努力によって未然に災害を防ぐコツのように感じています。緊急時を当たり前にし、緊急の時にうまくいかなかったらクレームをつけてもっと緊急時に合わせようとさせる愚策、緊急でも何も気にすることがない生存本能の鈍さ、自然界では淘汰されるようなことを当たり前に行っているのです。

あの原発事故でいざあの事故が起きた時まったく政府も東電が緊急対応すらもできなかったことを思い出します。あの事態になって何かしてもどうしようもないのです。それが緊急が危険だということなのです。平常時に一体何をしていたのか、そして他の原発は今はどうなっているのか。緊急の対応すらできないものを平常などとあったものもありません。まだ緊急対応できるのなら平常の備えもできますが、現に対応できないことがわかったのならば平常を全部見直す必要があるのです。そのうちだれかが新しい技術を産み出して原発を管理してくれるだろうと問題を先送りしておいて、どうやって対応と対策を立てるのかと疑問に思います。

話を戻しますが緊急時になることを恥として、本来緊急時にならないように不測の事態に備えて平常を養うことが本来の人間に具わった生き残る力だと思います。一度緊急で乗り切ってうまくいったからとそれを基準にするのではなく、「備えあれば憂いなし」と平常の実践を確実に積み重ねたいと思います。

人間の傲慢さが目先の対応で済まそうとし、子孫へツケを遺すような生き方をしてしまいます。自分たちの生き様が、後輩をはじめ後人たちに受け継がれることを忘れないように実践していきたいと思います。

 

逞しい力

ここ数日、寒暖差が激しい日々が続いています。野生動物たちはとても厳しい自然の中で、この寒暖差に身を晒します。我が家のの犬や猫、鳥たちも春の陽気から一転急激に寒くなるとピクリとも動かずに丸まってじっとしています。私たち人間は、暖房などで室内を暖め洋服を着脱して体温調整をして寒暖差をコントロールしますが野生の生き物たちはコントロールできませんから自分が順応していくしかありません。

先日、地域で最近みかけた野良猫が鳥小屋の近くで亡くなっていました。よく見ると、どこかの猫と喧嘩したのか顔や首筋に傷があり怪我をしているようでした。数日の激しい寒暖差によって体力が弱り遂には凍死したのかもしれません。すぐに大き目な樹の下の土を掘って埋葬して念仏を唱えました。

一般的に室内飼い猫の平均寿命は18年~20年くらいだと言われます。それに対して、野良猫の平均寿命は5年~6年くらいと言います。環境が快適になればなるほどに寿命は延びていきます。今ですら病気をしても怪我をしてもすぐに死にはつながらなくなりましたが、本来の野生に生きる生き物たちは常に死と隣り合わせに生きています。野生がもつ逞しさというものは、本来の自然の中で必死に生きる中で培ってくるように思います。

私たちは寿命は長くなりましたが、その分、かつて持っているであろう逞しさを失ったのかもしれません。もしも自然界の永いスパンで物事を観れば、ひょっとすると寿命が短くても自然治癒力を持ち、自然の中で逞しく生きることの方が種を永く発展・維持させていくことができるのかもしれません。かつて様々な自然災害を乗り越えてきた生き物たちは今よりももっと激しい寒暖差の中で生き残ってきました。もしも天災が発生し、私たちの文明でも対処できないほどのことが発生したとき私たちは自力と智慧で乗り越える必要がでてきます。そうなると、今まで必要だった能力が一切機能せず、まったく別の能力が必要になるのです。

それを自然の持つ逞しさといってもいいのかもしれません。いつまでも生きるチカラを失わない、その逞しい心は自然を畏敬し、自然と暮らしていく中で育まれていくものです。自然と接すると謙虚になるのは、自分の方を変え続けていかなければ自然と共に生きていくことができなくなるからです。

文明が栄えたとしては如何に分度分限を守る生活をしていくか、それは子々孫々へと先祖たちの遺してくださった遺徳を譲り渡すために必要なことです。何でも新しいものがいい、人間の発明したものがいいとなってしまえばその反面に失われるのは先祖や自然が与えてくださった自然治癒の力、つまり逞しさなのかもしれません。

逞しさを遺すには、私たちが自然と共生する道を選んでいくしかありません。地球は滅亡しませんが、人間は脆くも早く滅亡してしまうかもしれません。一人の気づきが万人の気づきになりますから、いち早く気づいて自分自身がその生き方、暮らし方を伝承していきたいと思います。