意識レベル~理想と現実~

人間には「意識」というものがあります。その人の意識のレベルが問題意識ということはかつてブログで書きましたがそれを改めて整理してみます。

そもそも世の中ではレベルというのは何を指しているかというのがあります。心のレベルとか魂のレベルとか、レベルというのは段階のことでどの辺のところまで自分がるかという物差しということです。

そしてこのレベルを上げるというのは、簡単にいえば自分の中にある最低の最高を目指すのか、それとも理想の中にある最高の最幸を目指すのかという大きく2つの次元にわかれるように私は思うのです。

よくレベルを上げなければと言っている人がいますが、実際は自分の方の中での都合のよいレベルを設定して、あれよりはマシといった比較を使って最低を高めていこうとする方ばかりが世の中では用いられているように思います。自分の癖を直すことや自己改革する際に取り組みやすい方から選ぶときほとんどが自分を中心に決定しています。

しかし本来、下から上げてくるのではなくとても高いところから降ろしてくるという発想が別にあるのです。それが私の思う問題意識を高めるという意味になります。問題意識が高いというのは、理想の高さから自分のところに降ろしてくるような感覚です。それを世間では夢を追うとか、夢を見るとかいった言い方をしますが高い理想に向かって取り組むときはじめてレベルが上がると言えるのです。

魂レベルや心のレベルなどもそうですが、同じ次元で取り組むのならばまず自分の中のちょっと高いところに照準を合わせるのではなく、理想そのものに自分を合わせるという理念と勇気と行動が必要になるのです。

理想と現実という言葉がありますが、理想に合わせながら現実を変えていく人と、現実にあわせながら理想を変えていく人がいますが、やはり問題意識というものは理想から変えていくことで現実が理想に高まるということになっていくように思います。

問題を自分の都合ですり替えないよう、常に「本質」に合わせて理想を捉えて現実を実践していきたいと思います。

清潔の定義

今の時代は人間の世界にいるのと、自然の世界にいるのとでは様々な常識が異なります。例えば、泥浴びというものがあります。これは動物たちが寄生虫や体についた汚れを取り除くために泥を浴びて洗います。ここでは泥を浴びるということそのものが人間で言うところのお風呂に入って洗っているということなるのです。砂浴びなども同じですが、かえって綺麗に洗うと体毛が油で固まったり色々な寄生虫が近寄ってきやすくなることもありそれを防ぐために泥や砂を浴びるのです。その方が清潔に保つことができるのです。

この清潔という考え方は、今の人間ではまったく違った意味で使われます。今ではなんでも除菌し殺菌し、完全に微生物を滅菌してしまおうとします。手洗い用の洗剤から服用する抗生物質などもそうですが菌をすべて取り除こうとします。

清潔にしすぎることで、他の病気が増えてもいます。皮膚などは常在菌といった本来の皮膚についている菌を取り除くことで肌荒れをおこし、そこに黄色ブドウ球菌という外部の菌が付着し炎症を起こしたりします。洗えば洗うほどに悪玉菌が増えるという現象が起きています。

無菌=清潔という考え方はとても危険で、本来体に付着している善玉菌まで丸ごと取り除いてしまってそれを清潔というのはちょっと感覚が狂ってしまっていると思うのです。動物であれば絶対にしないようなことを今の人間はしますが、ほとんどすべての体が微生物によって活かされているのにそれを排除しようとするのが清潔なわけないのです。

先ほどの泥が汚いというのも砂が汚れているというのも固定概念がそうさせるのです。本来の泥も砂も発酵しているものは清潔なのですから発酵しているものまで汚いというのはどういうことかと思います。

以前、入社したあるクルーが漬物やパンの酵母を汚いといって触ろうともしませんでした。それに野生に生えているものは気持ち悪いから食べないといい、スーパーで売っているものしか信じられないとも言っていました、また手作りのものはちょっと嫌だとも言いました。これなど完全に固定概念で何らからの知識を刷り込まれ思い込んでしまっているのです。

何が本来の自然であったのか、今の不自然な生活が当たり前になっているからもはや自然というのは菌がいない世界であるとさえ思い込んでいるのかもしれません。

そんなことを言うと、世界にはさまざまな病原菌がいます。それは体内にもいます、免疫とは体内で微生物のハタラキにより左右されていますから自分の中でいつも発酵をしては体調を維持しているのです。それを汚いといって薬などで殺菌したり洗剤で洗いすぎたりするのは本末転倒だと思います。

泥が本当に汚れているのか、砂が本当に汚いのか、そこから見直す必要があると思います。知識によって得た泥や砂の一部しか理解していないのに、悪い菌が住んでいるからと決めつけては自分にとって都合が悪いものを不潔とし、自分にとって都合が良いものを清潔というのはあまりにも視野狭窄だと思います。

人間の持っている知識しか信じないという発想が固定概念ですが、知識を超えた「ハタラキ」があることを理解せず、人間に都合が悪いものは全部を取り除こうとする発想が根本の問題にあるように私は思います。

清潔と不潔の定義も、自然に照らして観直していく必要があるのでしょう。自分の固定概念を壊すには、もっと自然に触れていくことだと思います。薬漬けされて化学肥料をたっぷりかけている土が果たして清浄なのか、薬品漬けされて栄養剤ばかりを摂取する身体が果たして清浄なのか、どんな環境が本当の清浄で、どんな食べ物を食べ生活することが清浄か、実践していきたいと思います。

 

 

 

好循環の生き方

農作物を育てていると循環している世界の中に身を置くことができます。木と土、光と水、風と生き物、それらが関わり合いとても密接につながっています。循環とはあまりにも当たり前すぎて観えなくなっていますが、万物のいのちはめぐっているからお互いが必要としあい存在しあうのです。

万物が存在する理由も循環があるからです。地球が丸いのも、宇宙の銀河が渦巻なのもすべてはめぐるからです。めぐるために私たちも必要ということです。だから循環というのは邪魔をすることはあっても無駄というものは一切ありません。循環を邪魔する人間があるだけで、循環が無駄というものはないという意味です。

これはたとえば森で観ればすぐにわかるでしょうが、森は木が光と風と水を使って成長し、その成長した木から根が広がり葉が落ちることで足元の微生物たちを育て、その微生物たちの働きによって善い土が醸成され、その土によってまた木が育つというように、一切の無駄がないところにあるのが循環の定義です。

その循環を極力邪魔しないように手助けをして、その分だけいただくのが本来の自然の農の姿です。しかしそれを邪魔するというのは、人間が作物をすべて取り尽くしその循環を邪魔するからその分、肥料をたくさんやらなければならないし、それに虫の食べ食べられる関係が崩れるからその分農薬をたくさん使わなければらないとなるのです。結局、周りの生き物たちと生きようという思いやりのある心ではなく、自分さえよければいいという考え方が悪循環を引き起こすのです。

そうやって如何に循環を邪魔することが、結局は費用と労力をたくさん使っているのかを考えないといけません。長い目でみればとても大損をしているのに、目先(自分のこと)だけを皆が意識するから誰もそれを間違っているとは言わなくなりました。

昔の人たちは自然を観る力、自然に活かされる謙虚な心をもっていたから循環が素直に観えていたのでしょう。だからこそ祖神たちの智慧が自然の技術に裏付けされているのです。彼らが使う技術とはすべて循環技術(自然の智慧)だからです。

そして野菜づくりに限らず、余計な仕事を増やして費用と労力ばかりをかける人は自分が循環を邪魔しているのに文句ばかり言う人になっていきます。矢印を他人にばかり向けては不平不満を並べます。本来の自然な流れを自分から壊しておいて大変になっているくせに、それを誰かや何かのせいにします。

人間の育成も本来は循環があったのですがその循環を邪魔することで無駄という考え方を人間の中にも入ってきました。それは人間でいえば教育なども余計なことを教えれば教えるほどに都合よく育てられますがそれが後で大変な費用と労力をうんでしまうことに似ています。

如何にその人らしく社會の中で循環するのを邪魔しないか、そういう生き方をするのも本来の人間の循環の役割を果たすことです。その人がその人らしくあるがままでいられるようにするには、ちゃんとその人が循環するように信じて見守る社會があるということです。誰かの仕合せを奪ってまで幸せになろうという考え方がそのものが悪循環の社會を創造してしまうのでしょう。

長くなってしまいましたが、本来の循環は私たちが人為的に行うのではなく自然のいのちのめぐりの姿です。その自然のいのちのめぐりを邪魔しないように人間の知恵を使い手伝うことで好循環が生まれます。好循環が生まれればそこに発展と繁栄があり、万物のいのちを活かす偉大な力を享受することができます。

人間がいくら頑張っても、太陽をつくれませんし、空気も水もつくれません。なんとなく科学で作ったとか言っていても、それは少しそれっぽくしたものを自然の力を借りて道具にしただけです。そのものの本体など大きな循環が生み出したものですから人間がどうにもすることはできません。原子力などもそうですが太陽に敵わないものを似せてつくったって結局はその人為こそが無駄の証明になるのです。

如何に循環を邪魔しないか、そこに自然の叡智をお借りする人間の謙虚な生き方があります。大いなるお互い様の世界に生きることこそ好循環の生き方です。まだまだこの世界を自然から学び直していきたいと思います。

福祉企業~論語と算盤~

渋沢栄一(1840~1931)は、日本近代経済の父とも呼ばれ、社会福祉事業にとても熱心に取り組んだ方です。今では企業や福祉は別物とさえ思われている節がありますが、本来、これらの価値観が西洋から入ってきたときどのようなものだったのかを観直してみます。

その渋沢栄一の有名な言葉に「論語と算盤」というのがあります。道徳と経済という言い方をしてもいいのかもしれません。西洋から入ってきた福祉や企業という考え方をどのように解釈すればいいかを分かりやすくしたのがこの一文でもあります。

本来、今の時代は分かれてしまっているものをどのようにその人の腹で一つにするかがこの言うところを為すことであろうと思います。

本来、渋沢栄一は富を為す根源は仁義道徳のためであると言います。これは道徳上必要な経済を起こすのが実業道であると定義しています。その実業道とは「士魂商才」といい、その実践があってはじめて為ると言い切っています。

この士魂商才の意味はまず考え方として「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめることが、今日の緊要の務めと自分は考えているのである」と、その上で具体的にはこう言います。

「人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし、武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上から自滅を招くようになる。ゆえに士魂にして商才がなければならぬ。商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書たる論語によって養える訳である」ということです。

常に武士道精神があっての商才であること、言い換えれば正しい理念があっての技術ということであろうと思います。これは医は仁術に通じる話です。「思いやりを強く、世の中の得を思うことは宜しいが、おのれ自身の利慾によって働くは俗である」ともいいます。実業道である以上、道を踏み外してはならぬと諭したのでしょう。

そしてこう戒めます。

「われわれの職分として、極力仁義道徳によって利用厚生の道を進めて行くという方針を取り、義理合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ」、つまり「論語と算盤とは一致すべきものである」ということを言うのです。

そもそも分けて考えるのは、その間に自分を中心にした価値観のモノサシではかろうとするからそうなるのです。人間や自分という考え方を優先する個人主義の西洋の発想を、それまで全体の一部である自然を少しだけ優先する発想の日本に取り入れる際に人間の欲望が強まっていき次第に歪んでいったのだと思います。

分かれたもの、いわば矛盾したものを一つに調和するというものは本人の中で行うものですから、常に大切な優先しているものが何かを重んじて生きていくことが大切なことのように思います。私の言葉では論語が算盤よりも「少し優っている」くらいがちょうど善い(適善)ということでしょう。

経済が発展すればするほどに、如何に人格形成に力を入れていくか、教育の本義です。本来はこれは国家繁栄の仕組みなのだろうと思いますが、個人の慾が強すぎる昨今を眺めていると渋沢栄一が心配していた通りになってしまったと実感しています。

どのような生き方、どのような会社が本来の論語算盤、福祉企業なのか、適善社業をもってそれを今の時代に体現していこうと思います。

 

 

 

いのちのヒビキ~生態系の共振共鳴~

生態系を深めていると、確かにそこに自然の理を感じます。見えるものから見えないものまですべての生態系はある一定のリズムによって生き死にしますが、そこには自然の響き合い(共振共鳴)の音を感じ取っているように思うのです。

虫が鳴くのも鳥が鳴くのも、また木々や稲、野菜らが風に舞い揺れ動くのもそこには確かに「ヒビキ」があります。ヒビキとは共振共鳴であると定義していますが、それは自然の中にある音に合わせていのちや心を響かせています。そして万物は象容した音のつながりの中のご縁にゆられ響き合います。

自然に沿っていのちを育むということが音にゆられ愉しむということです、人生を謳歌するということです。どうしても抽象的な言葉になってしまいますが、理屈ではなく生態系というものがそのまま共生の響き合いだからです。

生き物たちはすべてそのいのちの音ともいうべきものを聴いています。私たちは耳を言葉を聞きわけるように発達させてきましたが、言葉がなく言霊であった原始の時代は私たちはいのちの音を聴き分けていたのです。

それは心の音色とも言います。

人が共感したり受容したりすれば認め合う世界が産まれます。その世界の音というのは心の通わせ合いにより産まれる仕合せの世界です。人は心が満たされることで平和になります。自然界というのはその平和の音を聴いているのです。お互いが認め合い育ちあう、それが共振共鳴共生ですがそれを私は「ヒビキ」であると確信します。

人は人工的に人間都合で塗り固められた世界に居すぎると心が疲れていくものです。それを癒し、本来の地球の一部、宇宙と一体になった人間であることを自覚することでバランスを取るように思うのです。

温故知新の比率は常に3対2、地球の海と陸の比率も3対2です。その3対2というのは、いのちや心の世界に生きながら、この時代の現実の中に生きるというバランス(調和)です。バランスこそが永続発展する自然の理であるのはいのちを深めれば必ず出会う智慧であり法理です。

バランスが崩れるとは何か、それをちゃんと自覚している人は少ないように思います。それは例えば、太陽が微妙なバランスで燃え続けるように、地球が微妙なバランスで呼吸するように、常に前向きに傾くのです。前向きとは先ほどの3対2なのです、七転び八起きがバランス感覚ということです。生生発展、永続繁栄、つまり七回転じれば八(無限)ということです。これは少し楽観的あることの方がいいということに似ています。楽観と悲観も3対2で少し楽観が優っている方が仕合せで愉しいのです。

豊かさもまた、心が3で物質が2の方が愉しくなるのです。私たちが如何に楽観的に生きていくのが仕合せかは、生態系そのもののいのちを眺めれば観えてきます。

子ども第一主義の学びは、突然にいつも自然に私の心にシンクロニシティを呼び覚まします。お仕事と使命とはいえ、有難いご縁に深く感謝します。

いのちの「ヒビキ」の中にある真理法理を一円観に照らして自然の摂理を現代の技術の最先端に温故知新し救命救済の道具を発掘して人々へ還元していきたいと思います。

育て方

野菜にも御米にも今の育て方とかつての育て方があります。今の時代は、一斉に成長させ一斉に収穫するという育て方が主流ですから、かつてのような固定種で骨が折れるような手間暇かかるものよりも品種改良と農薬と肥料で機械によって簡単に一気にできるものになりました。

何を優先するかで「育て方」というものは変わってきます。

食べ物も安全安心で美味しいものを作るときの育て方と、収入やお金を優先して美味しいものを作るときの育て方は全くというほど異なるのです。

例えば、かつては薬や肥料は木酢や堆肥でしたから虫たちを殺すというよりは忌避したり肥料も科学的な窒素やリンなどよりも人糞や鶏糞など身近な微生物の亡骸を利用しました。苗作りに時間をかけたり、蒔くタイミングを間違えなかったり、他の雑草や微生物との共生環境を維持育成したりと、薬や肥料を使わない分、自然を観察して自然に沿って取り組んでいかなければなりません。育て方も、自分都合で育ちませんからよく観察して接していかなければなりません。見た目のよさよりも食べる物なので安心で安全な自然のものを育てようとしました。

それに対し今の農業は、見た目の美しさで金額が変わるためにありとあらゆる虫たちが作物を食べないように薬を用います。また出荷する前にも、野菜や果物がくたびれないようにまた別の薬を散布します。とにかく作る前から作った後まで薬漬けである農法は今では当たり前なのです。そしてその種もまた、改良されたくさんの肥料が必要で薬にも強いものが作られて売られるのです。その種や苗で育てる場合は以上のことに合わせた育て方でなければうまく育ちません。マーケットに対して作物を育てますから如何にマーケットで沢山売れる商品を作るかに傾倒していくのです。

だからといって昔の農業に全部戻すというような乱暴な話をしているわけではなく、何を変えて何を変えないかを決めなければならないということなのです。

つまりは理念を定める必要があるということです。

本来、安心安全というのは食べるものですから当然それが優先されるべきです。そしてそのうえでマーケットに合わせられるところを合わせるという具合です。先日の藤崎農園さんは、「安心安全でお客様が喜ぶ美味しい御米」が理念でした。

変えないものと変えるものがはっきりしています、その育て方が不耕起栽培の自然耕ということです。

育て方に理念が出ますから、育て方を観ればその人の目指すところが分かるとも言います。育て方を直すというのは、理念を直すということです。自分がどのように育ってきかたも気付かなければなりませんし、これからどのような育ち方をするかも人間なら自分で選択しなけれなりません。

もしもこれが人間なら人間学を学び善良な人格を育て、そのうえで今の社會に必要な先端技術を身に着けることでしょう。そして本来、会社というのは生き方を集めた場所です、言い換えれば田んぼであり畑であるのです。その農地や畑をどうするか、そしてそこで育つものたちがどのような育ち方をするかでその会社の理念がはっきりするのです。

理念を優先するというのは、周りの環境に左右されずに自分が決めた信念を貫くということです。そしてそれは周りに反対するのではなく、周りの中でも自立して多様性を維持するということです。

謙虚で素直でなければ難しいことですが、敢えて子どもたちのために育て方の温故知新に挑戦していきたいと思います。

苗半作~厳父と慈母~

先日、百姓コーディネーターからの研修の中で「苗半作」のお話をお聴きしました。この苗半作とは「御米の出来は苗育てで半分が決まる」ということだそうです。

そしてこれは御米に限らずすべての野菜や植物がその苗の育ちの善し悪し によってその後の作物の生育に大きく影響するということです。

自然農で野菜を育てていると、最初の苗の環境がどのようであるか、その苗にどれくらい配慮したかでその後の主体としてのいのちの育ち方もまた変わってくるのははっきりしています。

たとえ大きな気候変動にも耐え忍ぶことができ、病気や虫がつきにくくなり、健康でたくさんの実と種をつけることができます。

言い換えれば、健やかで逞しい一生を送ることができるのです。

この苗半作の時期は人間でいえば幼児期であり、如何に幼少期に健全に健康な環境があったかがその後の人生に大きな影響を与えてしまうということです。

できるならばすべての親ならばみんな子どもたちには自然のままに健康に強く逞しく元気に育ってほしいと思います。色々な困難があっても、それを前向きに乗り越えて立派な実と種をつけてほしいと願うものです。だからこそ私もこの「苗半作」が何よりも重要ではないかと思います。

来年は百姓コーディネーターのご協力のもと、この智慧を学び直せるのが愉しみです。

またこの苗半作を改めて考えてみると、今取り組んでいる自然養鶏の烏骨鶏の育雛につながってきます。烏骨鶏も季節の変わり目、春先と秋先に卵を温めはじめるのですが産まれた雛は食べ物はまだありますが気候はとても寒暖差が激しい時期に育まれます。

寒暖差が激しいということは、それだけ環境の変化を受けているということです。その環境の変化の中で周りに関わる暖かい真心を受けているということです。厳父と慈母のもと、子どもは健全に育つといわれますが何が厳父で何が慈母だったのかというのを今回のことで悟った気がします。

自然の智慧というものは、本には書かれませんが確かに存在します。その知恵をどう継承するかというのは本能で行います。その本能を喪失するような知識は果たして世の中を救う本当の智慧なのかというと私には大変疑問に思います。本能が減退していない人が持つ知識というものが本物の洗練された知識なのかもしれません。

引き続き、自然をお手本に先人の智慧を継承しつつ洗練された知識を形にし世の中に還元できるよう日々の実践を深めていきたいと思います。

 

損得勘定

物事のとらえ方というのはそれぞれですが、お金を優先した物質経済の価値観が強すぎるとある一定の感情と判断が世間に蔓延してくるように思います。簡単に言えばそれは損得勘定というものです。それは利害を一つ指標として自分にとって損か得かのモノサシでばかり物事を考えるということです。

自分が損をしたくないからと、自分が得をする方へと判断することで損か得かを常に自分を中心にして考えていることほど本当の損なことはありません。自我が強くなりすぎる理由も世の中に損得という物差しがあまりにも目に入ってくるからかもしれません。

沢山のお店が並んでいる前を通ると、如何に安いか得をするかということばかりが宣伝されます。他にも広告なども見ようとしなくても目に入ってきます。情報量が多く比較するものもたくさんありますから、損したとか得したとか利用した後までそれを話し合う始末です。

確かに損得もありますが、同じ呼び名でもそこに「尊徳」という捉え方がありません。徳という考え方は、損か得かではなく善いことが循環するかどうかということです。自分の存在が周りを善きものへと循環するような体験をしているか、思いやりや有難い感謝に換えているかというものです。

物事は決して損得勘定だけでは裁けず、メリットデメリットだけではない中庸ともいえる本質があります。「何のために」となると、行動すべては意味があるものでありそこに真実もあるからです。

本来、人生は有難いものですから目先の損得では裁けないものばかりです。現代人は、その損得勘定の刷り込みにやられてしまい、苦しんでいる人たちをたくさん見かけます。本来の仕合せのモノサシを持てるようになるには、生活を正していくことしかないのかもしれません。

最後に先日のダライラマ14世の言葉で締めくくります。人間について何が驚きますかという問いに対する返答です。

「人間は自分の健康を害してまでもお金を稼ごうとします。そして今度は、その害した健康を取り戻すためにお金を使うのです。さらに人間は将来のことを憂うばかりで、今この時を楽しむことをしません。結果として、人は今も未来も生きられないのです。人は、あたかも死ぬことなどないかのごとく生き、そして一度も本当の意味で生きることなく死ぬのです。」

損得を超えたモノサシを持てることが本当の豊かさを持つことなのかもしれません。そして本当の豊かさというのは徳を尊ぶ中にあるのでしょう。損得ではなく、尊徳のモノサシを広げていきたいと思います。

 

 

遺徳遺産~生き方を守る~

世界遺産というものがあります。世界各地で世界遺産があり観光のメッカになっています。今年は国内の世界遺産をいくつか拝見する機会がありましたが、その都度その地の人の多さと雰囲気の荒廃ぶりに驚きました。

そもそも世界遺産とは何かといえば、1972年11月、第17回UNESCO総会で採択されました。条約の正式名は「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」といいこの条約のもと作成される「世界遺産リスト」に名を連ねた場所、それが「世界遺産」です。その条約の内容は「国や民族の枠にとらわれず、世界各地の自然や文化財を、人類共有の財産として守る」ことだと書かれています。

これは文化財や環境を人間の都合で破壊するのをやめてもらうためにとはじめたことでしょうが、どちらにしてもそれを創ったものも破壊するのも人間が行うものです。人間が創造したものを人間が破壊するのですが、破壊しないことを目的としているのはわかるのですが本当に大切にしたいものは残るのかということには疑問を思います。

本来、そこでの人々の文化や暮らしが世界遺産であるはずが見た目の建造物やその場所がそうだというだけになれば見た目さえ維持できればいいという話になってしまいます。観光客が来るからとどんどん観光収入が増えてくると本来の目的がすり替わり気が付けば元の文化や暮らしが喪失しまうことになりかねません。それは守るものが何かということがズレてくるからです。

例えば、生き方や働き方を守るのは、単に見た目の形だけを守ればいいというわけではありません。「大切」にするものそのものが異なるからです。本来、先人たちが人間が傲慢にならないようにと謙虚に守り続けてきた生き方が、何らかの形で喪失して滅ぶ、もしくは滅びそうだから世界遺産が必要になったのではないかと私は思うのです

本来、変えてはならないものを自分勝手に変えてしまい変えるべきものをいつまでも変えないことが自然の法理に逆らっているということの教えなのでしょう。これは時の流れに反しますから必ず滅亡の一途を辿るのは自明の理です。

すでに今の人類の欲望の拡張と拡大は限界に来ていますからこれからの私たちの時代と子孫はその歪に向き合うことになりますから本当に大変なことで心配です。

「今の時代を自分たちの代で消費しつくす」という思想は悪循環を産み出す大変危険な発想ですから論語の「遠慮なければ近憂あり」であるように必ず目先の快楽により未来がいよいよ危うくなっているのです。

世界遺産というならば、生き方そのものを遺産にすることだと私は思います。それは生き方遺産です。生き方遺産があれば人は本当の今に生き、今が仕合せである本質を理解できるように思います。そして生き方遺産とは遺徳のことです。

人が今に生きるというのは如何に今に生き切るかですから「今、此処」を大事にし味わい尽す中にこそ本来の人としての仕合せがあると私は信じています。

そうしていれば今、此処に満たされますから本当に遺していかなければならない遺産とは、先祖がここまで私たちに大切な環境といのちをつないで遺してくださった徳に由るものだと気付くのです。

そういう世界の遺徳を守る、つまり世界遺産を守るというのはその遺徳を守る謙虚な生き方を私たち自身が守ることです。だからこそその遺徳遺産は一人一人の生き方の中にあることを忘れずに今日も社業の実践を積み重ねていきたいと思います。

古い友人

久しぶりに古い外国の友人に会っていると色々なことを思い出します。こちらから連絡が取らないでいると疎遠になりますが、いつも連絡をくれて一緒に会いたいと思ってくれるのは本当に有難いと思います。

古い友人といえば以前、「ゆるす言葉」(出版イースト・プレス)というダライラマ14世の著書にこう書いてあったことを思い出しました。

「私は誰と会おうと、古い友人として迎えようとしています。このことが私を本当に幸せな気持ちにさせてくれるのです。これが、思いやりの実践です。」

どんな人に会おうとも、それは自分にとって大切な古い友人であるということ。ご縁を大切にする一期一会の真心の実践に生きる姿から敵も味方もなく愛するということの偉大さを感じます。

またこの本は「ゆるし」に関することばかり書かれていますがいくつか紹介します。

「ほんとうの意味の思いやりは、まず自分自身に対して向けられるべきものだと思います。まず自分自身に思いやりを持ち、それを周りの多くの人たちに向けて広げていくのです。つまり、自分自身を忌み嫌い、嫌悪しているような人は、他者を思いやることなど不可能なことだからです。」

自分を愛するように人を愛せて愛を循環することができるということなのでしょう。自分を素直に愛するには正直に生きる実践が思いやりを育てるのでしょう。

「ゆるしの気持ちを身につければ、その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、「自分を自由にする手段」です。」

自分を自由にするというのは、一生懸命に真摯に生き切るということです。なぜなら人事を盡すのならばそこに悔いはありません。悔いがないということは、全力を出し切ったのだから後は天にお任せしますという謙虚な心になるからです。思いやりでいる、思いやりのままで居続けるというのが自分を自由にする最善の方法そのものだと私は思います。

最後に、経済のことや大義についても語られます。ここに今の社業の命題もありますし、世界が今、置かれている最重要課題について書き記されているので紹介します。

「経済は大切です。しかし、人間性はもっと大切です。人権や環境問題など、経済より大切なことはたくさんあります。利益を求めてビジネスの世界で関係を築いているときにも、大義を見失わないことが肝心です。」

平和を愛するということがどういうことか、子どもの周りにいる私たちだからこそ常に身を引き締めて実践を高めていきたいと思います。