報徳~真心返し~

万象具徳という言葉があります。すべてのものには徳があるということです。この徳とは何か、それを取り柄と呼んだ人もいればその人の天才と呼んだ人もいます。つまりは必ず何かの役に立つものを持っているということです。

世間では、役に立つとか立たないとか誰かのモノサシで判断されます。人間はみんな自分都合ですから自分にとって役立つかどうかで必要か不必要かを勝手に分別するのです。しかし捨てる神あれば拾う神ありではないですが時・場所・状況に応じてその役割というのは多様に変化していくのです。ある人に必要でもある人には不必要、しかし全体丸ごとで観ればそれはすべて必要不可欠ということです。

そしてそれを徳と呼びます。

二宮尊徳は、その徳に報いることを「報徳」と言いましたがこれはまず大前提にすべてのものには徳が備わっているということがあってはじめて行われるものです。

『論語』憲問篇36にこうあります。

「或(あ)る人曰く、徳を以(もっ)て怨みに報いば如何(いかん)と。子曰く、何を以てか徳に報いん。直を以て怨(うら)みに報い、徳を以て徳に報いんと。」

意訳すれば、(ある人が言う、徳をもって怨みを返すというのはどういうことでしょうかと、孔子は言う、何をもって徳に報いるとするか。それは怨みに対しては素直な真心でお返しし、徳に対してはさらに徳でお返しすればいいのです)と。

これは一言でいえば「酷いことをされてもやさしくしてあげなさい」ということです。つまりは徳に報いるということです。

人は自分が酷いことをされても他人にやさしくできるかといえば、人間はすぐに仕返ししてやろう復讐してやろうという気持ちを持ちますからこれが難しいことはすぐにわかります。しかし孔子も二宮尊徳もそれでは徳ではないといっているようなものです。

如何に自分が頂いたものを善いものへ転換して世の中に御恩返しをしていくか。結局は徳を実践していくとはこれに尽きるように思います。どんな徳を自分が天から与えられているかは天に由ります、しかしその徳をどう活かしていくかが大事であってその徳そのものが大事なわけではありません。そしてその徳は自分次第で如何様にもしていくことができるのです。

日々に生活していく中で、自分の徳をどう皆さんのお役に立てていくか、そして皆さんの徳をどう活かしていくかはその人の生き方が決めるものです。自分の徳を高めていくことと周りの徳を高めていくのは、周りの徳を認めていくことからだと私は思います。

善い方へと転じていく、一円融合してすべての徳を活かしていこうとする、その真心返しにかんながらの道の目的も存在します。いついかなる時も報徳の大切さを肝に命じて実践していきたいと思います。

 

禮と愛

昨日は、新しい仲間といっしょに百姓コーディネーターの就任式と研修会を行いました。子どもたちに譲っていきたい遺徳を昔の百姓という生き方を学び直しつつ研鑽と実践を積んでいきたいと思います。

自然農で収穫した野菜たちと、不耕起の玄米を酢飯にして手巻き寿司をみんなで握って食べましたが何よりいっしょに働く人たちがともに食卓を囲み団欒しながら語り合えることは本当に仕合せな時間だと思います。

人間は、自分にとって都合がいいことを便利といい、都合が悪く手間暇かかるのを不便だといいます。農業だけではなく日常の仕事にいたるまで、気が付けば一人でバラバラに仕事をした方が効率が良いということで便利さばかりを追求して忙しさで心を忙殺する人が増えてきたように思います。健康を害し、精神を病み、殺伐とした無機質な暮らしをする人も増えてきました。

本来、私たちの先祖たちは働く豊かさを持っていました。それは一見、手間暇がかかるものですし、それに精を出すことばかりでした。不便とも思えるものやメンドクサイと思われるものを大事に、時間をかけてみんなでいっしょに取り組んでいました。

人間というものは、自分の思い通りにしたいというのは我欲がありますから誰しも思うことなのでしょうがその欲で満たせる喜びというのはほんの短い期間だけのように思います。たとえ思い通りにならなくても、心が満たされるような歓びというものは永遠に心に刻まれ忘れることもない豊かさがあるのです。

決して自分の都合では得られないものの豊かさというのは、何よりも心が安らぎ満たされるものです。人の愛も同じく、思いやりや真心もすべて人と人の間にあるものですからそういうものを優先していこう、尊重していこうとする心の強ささえあればだれでも持つことができるのです。

みんなでいっしょに取り組むことができるというのは、いっしょに暮らしている仲間がいるということです。その仲間といっしょに笑って泣いて、そしてまた出会い、別れて新たな道を愉しんでいくことが人生の道楽なのかもしれません。

かつての先祖たちは、自然を中心に丹精を籠めて生きることを私たちに残してくださいました。その残してくれた一遍をきちんと受け止めて、そして拾い、それを譲ることが今を生きる私たちの本当の使命かもしれません。

今の世代で、先祖の遺徳や遺恵を遣い切ってしまわないように自分たちの生き方を見つめ真摯に生き方と働き方を一致させていきたいと思います。新しい出会いに感謝します。

徳~恩沢洪大~

実りの秋のことを思い返していると、如何にこれが天地人の恩恵によって得られているかを実感します。御米だけではなく様々な作物もそれを一緒に食べる家族のことを思っても、如何に多くの自然やご縁に佑けられているかを思うのです。

そもそも今の自分があるのは、先祖の遺徳があってこそです。この身体もこの感情もそして心も、また名前から住居、関わりにいたるまで目に見えるところから目には観得ないところまで私たちは祖神や先祖の恵みによって存在しているわけです。

恩沢洪大な徳は、あまりにも大きすぎてまるで宇宙や地球のように当たり前すぎて実感することもなくなってきたかもしれませんが確実にその恩恵をいただいて私たちは今、生き活かされています。

そういうものを忘れて自分の代のことだけを考えて欲に任せて今を貪ったり、恩恵を自分が全部使い果たすような生活を続けたらそのうちその徳がなくなり、自分の代だけではなくその子孫にまで影響を与えてしまうように思います。

今の収穫だけを求めて農薬や化学肥料をまき続け与え続けた土地が枯れて砂漠化していくように、徳を忘れて今だけを凌ごうとすれば自ずからその徳恵は消失していくのでしょう。これは生き方の問題で、如何に恩徳を実感して感謝でもっと恩返しをしたいと願い祈り実践しているかで本来の今との正対が決まってくるのです。

豊かな人というのは、ものを持っているから豊かではなくその恩徳をいただいていることに気づいて御恩返しをしたいと願っているから豊かなのです。お役に立つのも自分のためではなく、自分がいただいているのだからその恩沢洪大な徳を周囲へと恩を送りたいという人が真に自然に沿った生き方をしているともいえるのでしょう。

二宮尊徳の「仕法書」の中で、下記の言葉が遺っています。これは真に豊かな生き方を照らす時にとても大切で、本来の貧富の本質を捉えています。

「人は諸々の恩沢を受けているのにもかかわらず、その恩沢に報いないことがある。徳に報いようとしない者は、自己の将来の幸福のみを考え、自己が受けた恩徳を大切にしないので、結局地位を失い、自己の徳をなくしてしまうのである。逆に恩沢に報いようとする者は、自己の幸福を後回しにして、祖先の丹精を大切にするので、地位を受け継ぎ、富貴を失うことがない。徳に報いることを何よりも優先すべきである」

そして「徳に報いることは百行の長、万善の先」であると言います。

何より、不平不満を並べては境遇を嘆くよりも本来の徳があることを自覚しているか、そしてその徳に報いているのかと自問自答するのです。そのうえで、何よりも徳に報いる実践をするのが何よりも先ではないかと諭すのです。

すべての善いことよりも先にあるのが徳、そして何よりの行いよりも長けているものが徳なのだということです。徳は利己的であるほどに気づきませんが、利他に生きればすぐに実感できるものです。

自分が与えてもらった徳を如何に活かすかはその人の決心次第です。

徳に感謝し恩に報いる生き方を大切にしていきたいと思います。

いっしょ

今の時代は、教育によって個人主義を指導されていきます。自分が周りと同じことをできるようになることが目標にされ集団というものはそのために使われます。競争もまた質を高めるものではなく、みんなが同じことをできるようになるために使われます。

みんなで一緒にといっても、その使う人の「いっしょ」がどの意味で用いられるかでその一緒の意味が変わっているのではないかとも思えます。

本来、この「いっしょ」という意味はどういうものだったのでしょうか、それを少し深めて観ます。

一般的には、一緒にはいろいろな解釈があります。辞書には、ひとまとまりになることや区別のないこと、同時に同じことをすることなどが書かれています。基本的には混ざっているという意味で用いられ、同じでなければならないという意味ではありません。

例えば、チューリップの花を一緒に育てたといっても同じチューリップを咲かせようとするのは一緒にの意味とは異なります。ここでは同じところで同じように育てたという意味でしょう。

しかし本来の「いっしょ」は、私には渾然と一体になっているという意味に感じます。つまりは、あらゆる多様なものたちが同じ場所に生きてそれが渾然と混ざり合いつつも調和しているという状態のことです。

その一緒は、前者の同じだという意味とは異なり、異なっているけれど同じ今に生きている仲間というイメージがあります。同じことをただ同じようにみんなでやることが一緒ではなく、異なるもの同士が同じ時代に生きてご縁を伴にさせていただけることが一緒なのでしょう。つながりの中に存在しているという意味です。

一緒という言葉一つであっても、謙虚な気持ちで感謝がなければその有難さに気づかなくなるのかもしれません。権力で同じように同じくさせようとしても、その一緒はともにいるわりにもの寂しく心もバラバラであることが多いように思います。英語のgroupもteamも、そして何をもってtogetherと定義しているかが根底で理解できていないと日本語のグループもチームも一緒もまたその意味が勘違いされていくのでしょう。

本来、私たちは大和の民族、渾然一体陰陽調和している民です。天皇を中心に家族として一族で和の尊び生き方と働き方を同時一体にしてきた暮らしを続けてきました。その先祖たちが実践してきた「いっしょ」を理解していくことが私たちの心を一緒につなげていくコツなのかもしれません。

常にいっしょの意味を個人的な価値観で狭めて歪んだ個人主義の枠組みに心が亡くならないように、丸ごと渾然一体になったご縁に感謝して今をいっしょに歩んでいきたいと思います。

 

主体に転じる力~自分の問いにする力~

人は力を出したかどうかというのは主体であったかどうかに関係します。そしてその主体というのは、自分の心の転じ方にあるように思います。

例えば、ピンチをチャンスと転じることができる力、ドキドキのプレッシャーをワクワクに転じることができる力、メンドクサイと思えることを面白がることができる力、苦しいことも大変なことも愉しいと味わい深く転じることができる力などです。

外界の出来事が何かが起きるとき、自分の思い通りにはいかないと思ったときにやる気がなくなってしまう人と、外界が自分の思い通りにならない逆境のときこそやる気がでてきて燃える人というものがいます。前者は、出来事に対して受け身であることに対して後者はどんなときでも主体は自分、積極的に人事を盡そうと全身全霊を発揮することができるのです。

先日あるクルーが「出し切りました」という言葉がありました。これはどんなことでも必ず善いことにするという覚悟が、主体を出し切ったといえるように思います。外界の相手がどうであれ、外界の出来事がどうであれ、自分の人事を盡し切るということに迷いがなかったのです。

そういう自分の姿勢に天も味方するのでしょう。天はいつも正直で素直を尊びますから、そういう自らの主体性が運やツキを呼び込むのです。そしてこの主体と楽観性こそが信じているということであり自然なのでしょう。

自分の力を発揮して出し切った後に振り返ると、その発揮している間に不思議な出来事や奇跡との遭遇、また面白い発見や出会いが沢山あったことに気づきます。そして多くの見守りがあり、自分が尊いご縁に恵まれたことを実感するのです。

そしてそれこそが本物の「自信」になります。

自信を持てる人というのは、常に出し切る経験を積んでいるともいえます。自分の力を発揮することを知ることで、自分というものの本来の存在の意義や価値に気づけるからです。そうなるとまた真剣であることや本気であることが愉しくなります、この好循環を得ている人が何よりもハタラク幸せを味わっているということでしょう。

本物の自信とは、畢竟、外側からつくわけではなく自分の中からついてくるものです。自分が転じることができるほどに人事を盡したか天命を待てたか、その両輪の真摯な実践の中に感謝があってこそ育っていくように思います。

何はともあれ転じる力が情熱のことです。自分の内在している情熱を自らが燃焼していくのはいのちの力を使っているともいえます。自分を燃やしていくことほど人生の豊かさと愉しさを実感できます。迷わず善いことへと丸ごと転じ続ければいいのです。

日々はかけがえのない機会に恵まれています、どの出来事に対しても自分の問いにする力をもって積極的に主体に転じて、二度とない丸ごとの人生を味わい深いものにしていきたいと思います。

豊かさのモノサシ(豊かさの観念)

時代の価値観もあり、豊かさにもいろいろな価値基準があります。

例えば、人は持っているかもっていないか、多いか少ないか、早いか遅いか、高いや安いか、ある基準をもとに損か得かというように何かと比較することで物事を評価します。自分がどのように評価されているか、誰かをどのように評価するかはその人の自覚している価値観によるものです。

間違った豊かさを一度持ってしまうと、いつまでも自分に自信を持つことができなくなります。逆に真の豊かさと持つ人は、常に謙虚で確固とした自信を持っています。

つまりは豊かさには豊かさの観念(モノサシ)があるのです。その本人が豊かさの観念がどうなっているかで実は貧しかどうかが決まるのです。たった一人の自分の人生ですから周りと比べる自分ではなく、誰しも真の自分を持つ必要があるのです。

例えば貧しさというのは、もしも物質的なものだけになればお金持ちよりもずっとお金持ちがいますし、自分よりも多くのものを持っている人はいっぱいいます。それにそういうものさしで持ってしまうと一度得たものを失うことの怖さを持たなければなりません。ないものねだりをしているとそこには常に貧しさがつきまといます。足るを知るではないですが十分いただいているという実感を持つには謙虚さが必要です。

またそれとは別のモノサシで真の豊かさがあります。それは精を出せることが有難いと実感していたり、誰かと一緒に働ける幸せを噛みしめたり、体験をさせていただけることの尊さに感謝していたりと、自分が豊かであることに気づいているのです。まるで道楽をしているかのように無尽蔵の豊かさを味わっているのです。

つまりここで言いたいのは、「自分が豊かであることに気づかない人、自分が豊かであることに気づいている人」、そこには真の豊かな生き方があるかどうかがあるのです。

真の豊かさとは単に物質的なものでは得られない歓びを持つ人、言い換えればみんなが幸せになることを祈りながら自分が活かされることに喜びを持つ人、「みんなと一緒に」生きることを愉しめる人が真に豊かな人ではないかと私は思います。

そのみんなをどれだけ”丸ごとのみんな”にするかが豊かさの観念(ものさし)だと思います。マザーテレサにしてもガンジーにしても、清貧のところばかりが評価されますが実際は清富であったとはあまり人に言われることはありません。かの二宮尊徳も同じく終生で集まった報徳金は藩の財政を大きく超えるほどのものだったといいます。しかし本人の生き方は大変豊かであったと思います。

そしてその二宮尊徳が遺した言葉に「心田を耕す」というものがあります。

心が豊かであれば、精を出せる幸せに生きれるならばその無尽蔵の心の田んぼから多くの実り(御法)が顕現してくるといいました。心の豊かな人とは、貧しさがないのです。

心を豊かにするには、徳を積んでいかなければなりません。それは全体のために丸ごと信じて自分を活かすような実践を積み重ねていくことのように思います。生き方がそのままの働き方と仕事になるような大転換が必要です。

本来、私たちがいただいている結びが真の豊酬ですから私たちの「結豊酬」とはそういう天からすべにいただいているものに感謝していますかという意味で実践をしているのです。感謝を忘れればそこにもう真の豊かさなど存在しません。常に謙虚に素直に道を歩んでいきたいと思います。

思いを馳せる~暮~

私たちはかつてどのようなことをして暮らしてきたのか、そのことに思いを馳せることがあります。

古代から火をみて明かりを灯し、そのゆらぎを観てはいのちを見つめてきたのではないか。もしくは、石に絵を刻んでは魂の磨かれる様を見つめていたのではないか。またあるいは、風に揺れる木蔭に佇みながら心が透き通っていくものを見つめていたのではないか、そんな風に思うのです。

太古の記憶に遡ることで、今の自分の内観をしていくと目には見えないけれど確かに残っている感覚に巡り合うように思います。

子どもたちは、そういうかつての暮らしからとても大切なことを学んでいました。それは自然です。自然とは、決して今の知識や言葉で定義されているような都市と対極にあるものが自然というわけではないように思います。

本来の自然とは偉大な循環であり、その壮大な宇宙観のようなめぐりのことです。そういうものを感じるのに、如何に幼少期の体験が大切かということを物語ります。各国の神話にあるような話もそうですし、伝承文化も同じく、子どもたちが発達していくのに必要な環境というものがあるように思います。

それは暮らしなのでしょうが、暮らしとは私たちの風土でありその生き方のことです。そういうものを一つでも残していこうと先祖や祖神たちは大切な環境としての自然を遺してきました。

今の時代は、西洋から入ってきた教科するものばかりのノウハウやテクニック系の教材、所謂知識と学歴ばかりが優先されるようになり、本来の自然の環境が喪失してきているように思います。

身近に暮らしてきた仲間たちがいなくなっていくということが、自然が消失してきたといことです。私の思う自然を子どもたちの身近に置くというのは、単に植物や虫を単に飼育すればいいという意味ではなく、本来の自然環境ともいえる私たちの風土や文化、また伝承や暮らし方、生き方を遺していくということです。

世界の中で私たちが日本人であるのは、そういう先祖たちから連綿とつながってきたものを自分たちが守っているから日本人であるのです。それが日本人でなくなったのなら多様化して世界の一つの役割を果たして来た種が一つ滅んでしまうことになりかねません。

だからこそ私たちは魂を磨き続けなければならないし、心を高めて健やかな智慧を伝承し続けなければならないと思います。今の時代は自然というものの定義も、世界国家の枠組みの中で塗り替えられてしまいました。

もう一度、太古の記憶やかつての暮らしを思い出し、その生活を子どもたちの身近に置いてあげたいと願い祈ります。ご縁を活かして、あらゆるものの感覚に自分の意識を近づけ子ども第一主義の実践を昇華していきたいと思います。

全体意識

人間は自分のことをわかってほしい、認めてほしい、愛してほしいと求める生き物です。もともと自分のことを自分が分かっていないからわかってほしいわけで、認めていないから認めてほしい、愛していないから愛してほしいと願うように思います。

自分というもののことを考えれば考えるほど、自分の心配をすればするほどにその渦の中に巻き込まれるものです。もともと「私」という字は、自分の手の腕を自分の方へと曲げている字でできているといいます。自分の側へと引き寄せようとする姿です。自分の思い通りにしようというのが私利私欲です。人間はみんな誰しも自分勝手ですから如何に自分が利他で生きるかというのは人生の課題であろうと思います。

利他とは、先ほどのことでいえばわかってもらうよりもわかってあげたいと思うこと、認められるよりも認めようとすること、愛されるよりも愛したいと思うようなことです。

言い換えれば自分の方へと引き寄せるのではなく、周囲のことを思いやる方へと与えるということです。自分のことを分かってもらいたいと思いながら相手のことを分かるということは難しいものです。これは風呂に葉を浮かべてこちらに引き寄せようとすると葉が離れていくのに似ています。本来引き寄せたいのなら、向こうへと波を送った方が戻ってくるのです。これが自然です。

自然というものは、与える人が何より与えられ、奪う人は奪われる、周りを活かす人が自分が活かせるというものです。自分を如何に全体のために活かしていくか、それは利他の生き方に転じるということです。

利他とは自分は我慢して人のために尽くすことではありません。みんなの仕合せが自分の仕合せになっていることです。自分の生き方や働き方、その生活のすべてが誰かのお役に立っている状態のことです。それは無理をしているのではなく、自分自身が生きていること、働けることに仕合せを実感している状態です。

京セラの稲盛和夫さんがこういう言葉を遺しています。自分というものを修養していくのに如何に矛盾を包有しつつ前進していくべきかを述べています。とても共感する内容なので紹介します。

『強い思い、情熱は成功をもたらします。しかし、それが私利私欲から生じたものであれば、成功は長続きしないでしょう。

人間にとって何が正しいかということに対して鈍感になり、自分だけが良ければよいという方向へ突き進み始めるようになると、はじめは成功をもたらしてくれたその情熱が、やがては失敗の原因にもなるのです。

理想としては、「私利私欲を捨て、世のため人のために」という形の完全に利他的で純粋な願望を持つことが一番良いことです。

ところが、人間にとって、生きるための私利私欲は自己保存のために不可欠なものなのですから、それを完全に捨て去ることはまず不可能です。

しかし、一方でその利己的な欲望の肥大化を抑制するために、努力することが必要となってくるのです。

‘’せめて、働く目的を「自分のため」から「集団のため」へと変えるべきです。‘’利己から利他へと目的を移すことにより、願望の純粋さが増すことでしょう。』

働き方の目的を、自分のためから全体のためにと転換しきるかどうかが利己から利他へと転じるコツなのでしょう。その全体をどこまで拡げられるかが視野の広さや視野の深さですから怠らないで精進していくことだと思います。それが点を線にして面にするという生き方につながっていきます、つまり「全体の中で活きる」(=ハタラキ)ということです。

頭で考えるようなことでもありませんから、もっと夢を大きくして「偉大」な世界に身を置けるように周囲の人たちの志を応援していきたいと思います。

禮の本質~真の豊かさ~

先日から礼について深めているとインスピレーションがありました。礼とは本来、禮と書きますがその意味に納得したのでそれを書いてみます。

そもそも禮の中にある豊かさについて考えてみると、如何にその豊かさというものの観点の違いがその人に影響を与えているかがわかります。

例えば、もので貧しい人はもので豊かになろうとします。なので常にものを得ては豊かさを感じますから常に自分が持っているかどうかによって豊かさを感じます。逆にものをたくさん持っていても豊かではない人も多い時代ですから、豊かさとはものではないことはわかります。そこには常に手に届かないようなものばかりをいつも望んでいますから次第に不平や不満ばかりを並べては傲慢になりますから余計に豊かさから遠ざかっていきます。

またもう一つ別の観点での豊かさには、持っているか持っていないかという自分にとって損か得かというものではなく真の豊かさというものがあります。それは御蔭様でたくさん見守られていることを感じたり、善いご縁をいただき人生が一期一会に導かれることに感激したり、当たり前ではない日常の些細なことの中に仕合せを味わったり、自分が今あることが如何に有難いことかということに感謝できたりしている中に存在します。それはものではとても買えないものばかりであり、すべては手に届く範囲内にあるものです。

ここから考えてみてもわかりますが、結局はその人の生き方、観点の違いで豊かさというのは変わっているのがわかります。真に豊かな人は、愉しむ力がありますしご恩返しをしていく歓びがあります。

禮というのは、豊かさを示すと書いていますが衣食足りて礼節を知るというものまずその真の豊かさに気づけてはじめて本来の禮が理解できるということかもしれません。

今の社會は物質経済ですから、持っている人と持っていない人で貧富の差はますます開いていきます。本来、日本という国は十分すぎるほど豊かになっているのにも関わらず自殺者は増えて貧困もまた広がっているというおかしなことが起きている国です。それは豊かさの質をはき違えているからであり、それは真の豊かさを重んじる社會ではなくなってきているということなのでしょう。

人は本来、何のために生きるのか、何のために働くのか、そういうことに立脚して見直してみると如何に真の豊かさを求めているのかがわかります。人を尊重すればするほどにその真の豊かさの御蔭様を皆で感謝して共有しながら幸福感を味わうことが大事なのかはすぐに自明します。

真の豊かさとは何か、そして真の貧しさとは何か、そこには観点を変える必要があり、観点が変わることで社會もまた変わっていくのでしょう。わざわざ、一番豊かさを感じられるものを忙しいという理由でつまらなくしたり、もっとも豊かさを得ている一緒に働けることをお座なりするというのでは真の豊かさは遠ざかるばかりです。

何を持っているか持っていないかではなく、何に恵まれ何を与えてくださっているか、感謝する心に豊かさが示されるのが禮の本質なのかもしれません。

禮が廃れている今の時代だからこそ、本物の禮儀を実践していきたいと思います。

四季のめぐり~一生のめぐり~

自然農の大豆を観察していると、また新しい発見がありました。もともとマメ科に限らず、植物には一生のめぐりがあります。四季に合わせて、四季に沿ってその時期に必要な生を全うします。

その生のめぐりにはその生に必要なことを真摯に行っているのです。これは人間でも同じことが起きていますが、植物にもまた同じことが起きています。

例えば、冬から春にかけては「根をはります」、この時期は目立ちませんが地中にしっかりとした根を伸ばしていく時期です。その根が深いほどに、その後の成長が決まってきます。土の上から見ても何も変化がありませんが、土中ではしっかりとはりめぐらせていきます。

春から夏に向けては「葉が生い茂ります」、この時期の葉勢は凄まじく若葉から成長して青々と空に向かって広がっていきます。光や風を存分に浴びて光合成をして栄養分を蓄えながら成長していきます。見た目にもぐんぐん大きく成長していくのがわかり、活動の強さを実感します。

そして夏から秋にかけては「実をつけます」、この時期は葉勢は弱まり虫たちがたくさんその葉を食べていきます。余計なエネルギーは葉に使わず、実をつけるためだけに集中します。たとえ犠牲があるとしてもそれはあきらめて実をつけることだけに特化して他を捨てていきます。もう実をつける時期であることを悟った植物には迷いはありません。葉が食べられ落ちていっても気にもせず実になることを信じています。

最後に秋から冬にかけては「種をのこします」、この時期は種になるためにすべてのいのちをその種に傾けます。枯れていくのは、すべての生をその種に送るためです。生き残ろうとそのまま種も葉も残そうとするのではなく、文字通り全身全霊でその種に全エネルギーを送り込みます。その結果として枯れてしまいますが、それでも種を残すことが生き残ることだと自覚する植物たちは枯れることを厭いません。種になるというのはその生を全うしたということですから、次世代へと望みを託しては種だけになります。

簡単ですが、四季のめぐりにあわせて観察したものを書いてみました。人間もこれに近いものがあるように思います。根をはるために信念を醸成する時期、芽を出しては真摯に活動する時期、実をつけるために自分の犠牲を払い余計なものを捨て去るとき、そして種を残すために望みを託して全うするときという具合です。

その時期その時期、四季のめぐりにあわせて全力で生き切った証として次世代へと受け継がれていくのが生死のめぐり、そして生き方であり観念です。人の一生は真摯に生き切ることではじめて自分の生に出会います。自分探しなどしなくたって、真摯に真心で寸分惜しまず大義のために生きていれば自ずから本当の自分に出会っています。

植物たちも自分というものを持ち合わせませんが、真摯に生き切るとききっとそこに真実の自分の生に出会っているのではないかと私には思えます。自分をどうつくりあげていくのかは、その生き方によるものですが自然の生き物たちはそういう意味では本当に立派に生き抜いています。

身近な自然の生命から学ぶことが本当に沢山ありすぎて、古人たちはきっとここから宇宙のめぐりや自然の循環をも観得ていたのでしょう。悠久の流れや、広大なめぐりを直感できる自分を育てていきたいと思います。