家とは何か

昨日からクルーのみんなと一緒に新潟の弥彦村に来ています。弥彦神社に参拝し、宝物館をはじめ百年以上続く古民家を見学したりと「いにしえのえにし」を直感しながら過ごすことができました。

私は初代当主を名乗った数年前から「家」とは何かと考え続けています。歴史を鑑みて代々家が繁栄し続いていくところと、すぐに家が廃退してしまうところがあります。その違いは一体何か、それを見極めるためにも古きよきものに触れ学び直しています。

今回は少し今まで気づいたところまでをまとめてみようと思います。

永く続く家というものは、徳がある家とも言えます。代々、徳を高め徳を譲り徳が遺るものが永く続く家の特徴です。家が廃退するというのは、目にはみえない徳が廃退することに似ています。如何に自らに与えられた徳に気づき、その徳を活かすか、そしてその徳を伸ばしていくか、それはその代の生き方に懸っているとも言えます。

そして今の自分の徳を思うとき、その徳はどこから来たものか、それは先祖の丹精であることに気づきます。ご先祖様の皆様が、その代その代をもって一生懸命に世のため人のためにと自分のいのちを周りに役立てていたとも言えます。その苦労がみのり、今の代に種から芽が出て花が咲くように繁栄が訪れているとも言えます。

以前、幸田露伴の幸福の三福のことをブログで書きました。徳とは福のことで、福を如何に使い切らないかということが書かれていました。同じく徳を如何に使い切らないか、言い換えるのなら如何に自分が日々に徳を積み続けていくかということです。そういう徳を重んじる生き方、二宮尊徳はこれを報徳とも言いましたが先祖の御恩に感謝し、先祖の徳に報いるように自分の代を盡していくことが継承していく真理であろうと思います。

そして家とするとき、もっとも大切なことは「火を絶やさない」ということだと私は思います。その火とは何か、火は一つのもので謙虚と傲慢を顕します。人が己に負け傲慢になるとき、その欲望が業火の如く顕れ焼きつくしてしまいます。しかし人が己に克ち謙虚になるのならその火は、世の中を光り輝かせ照らす美しい火となり心を癒していきます。

比叡山延暦寺の国宝根本中堂に1200年絶えたことのない火があると言います。常に菜種油に4~5本の芯をつけ火が灯り続けています。この油を一瞬でも絶やせば火が消えることから ”油断するな” という語源が生まれたそうです。

この「油断するな」とは、いったい何を油断するなということなのか。

それは初心に対する情熱を決して絶やすなということだと私は思います。家の存続は、この「油断するな」の一言に尽きると私は思います。どんな時も、理念や初心を忘れずに日々に実践し続けることを怠らなかった家は何百年何千年と火が絶えません。

火は己自身ですから、その火を消すのも灯すのも自分次第です。

家を守る人は、どんなことがあってもその火を守り続けていくのでしょう。血筋がどうこうではなく、火を守れるかどうかが当主の資質です。未来の子ども達のためにも、1000年、10000年と続く家を興せるように真摯に今生と向き合っていきたいと思います。

職住一体

町家の再生をしていると職住一体という言葉に出会います。今の時代は職住を分けて生活をしていて、よくビジネスとプライベートは違うという言い方をします。特に最近ではメリハリをつけてというように、あくまで仕事は仕事、私生活は私生活というように分けなければ問題になっていたりします。

しかしかつての私たちの先祖はどのように暮らしてきたか、それは生活の中に仕事があり、それが分かれていたことはないとも言えます。今のように金融を中心にした社会が形成されると暮らしや生活のみが切り離されて働くことだけになってしまうのかもしれません。日本人はよくエコノミックアニマルと海外では称されますが、これは働くだけで暮らしをしていないという言い方をされていることです。

改めて職住一体について少し深めてみようと思います。

そもそも職住一体とは何か、昔でいえば農家や商人などは暮らしの中に仕事がありそれを分けることなどありませんでした。農家であれば土間を使って仕事をしたり、農作業を共にする馬や牛なども家の一部に一緒に住んでいました。また商人についても、店先というのは路地側のところを開放しそこで商いを行い家の奥の方で暮らしを営んできました。本来人は、暮らしを立てるために農を行い商を行ってきたのです。

昔は大切な守るものがあって、それを守るために暮らしを立てていました。本来の守るものとは、それまでの先人たちの生き方であってそれが暮らしを通して伝承されてきたとも言えます。それが今は間違った個人主義が蔓延し、自分さえよければいい自分のことだけでいいと、守るものは自分となってしまう風潮もあります。

家というものを守るというのは、単に家系を維持すればいいのではなくその家の理念や初心を守っていくということです。その一つ一つの暮らしの中に、その家の理念が隠れているとも言えます。家を感じるとき、暮らしを見つめるとき、私たちはその先人の理念に触れているのです。

職住一体というのは、自他一体と同じく分かれていないところに立ってみて気づく境地でもあります。どんな理念を築き上げて、どんな理念の実践をしていくか、それが家の定義なのです。

家になるというのは、理念を実践する家族や仲間と共に暮らすということです。一家の一員として、如何に理念をカタチにしていくか、生き方を見つめ働き方を改善していくか、それが職住一体ということだと私は思います。

引き続き、家としての本命を深め新たな暮らしを温故知新するため毀すものは迷わず毀し、日々新たに創造していきたいと思います。

似て非なるもの

先日、似て非なるものについて書きましたがこれはどの分野においても発生しているものです。例えば、自然農でじゃがいもを収穫しましたが全体的に丸く小ぶりなものばかりです。スーパーで買えばどれも大きく長い形のものが多いですがそちらの方が昔からあるじゃがいもと思っているものです。世間で流通し、いつも見ているものが本物というように思いこみます。

またこの場合の農の在り方も異なります。同じ農業であっても、そもそも野菜は育つものと信じて手入れをしていく考え方と、そもそも野菜は育てるものと信じて手入れをするのではそのかかわり方が異なります。

現在の慣行農法で肥料農薬と機械を使って行う方法から見れば、手で草を刈って被せて余計なことをなるべくしないのをみると、あれは農業ではないと言われるものです。しかし本来の日本人古来から野菜の姿というのは変わっていないものです。その野菜の姿を変えてまで収穫量を変化させようとするのは、どちらが本来の農業であったかは野菜を観れば明白なのです。

これは教育でも保育でも同じことだと私は思います。

昨日、ある人と話をする中で子どもの発達を信じ関係性を見守る保育をプレゼンしたところある大学の教授から「こんなの保育ではない」と言われたそうです。何をもってその言葉を言ったのかの真意が分からないのですが、きっと先ほど書いた農業の定義、慣行農法と自然農の違いを認識することと同じようなことが起きたのではないかと感じました。

もちろんどちらがいいとか悪いとかを議論しようとしているのではなく、野菜の姿まで変えていいものか、子どもの姿まで変えていいものかということに疑問を感じているのです。

本来の姿が合って、その本来の姿のままに育ててあげることがそのものらしさでありそのものの仕合わせだとも言えます。無理やりに、こちらの都合で相手を変えてしまうことで相手は本来の姿や本来の生き方ができなくなるかもしれません。

自然界というものは、それぞれに活き活きと伸び伸びと自分らしさを発揮して天から与えられた役割を楽しく生き切っているとも言えます。そういう太古から今まで連綿と続いてきたいのちの連鎖や魂の邂逅、そういう仕合せを享受される場がこの地上の楽園であったはずです。

それを無理やりに姿かたちを換えさせ、本来のことができなくなるというやり方が御互いを尊重しているとは私には思えません。

詩経に「鳶飛魚躍」という言葉があります。これは「鳶(とび)は飛んで天に戻いたり、魚は淵に躍る」という言葉です。辞書には「万物が自然の本性に従って、自由に楽しんでいることのたとえ。また、そのような天の理の作用のこと。また、君主の恩徳が広く及び、人々がその能力などによって、それぞれ所を得ているたとえ。鳶とびが空に飛び魚が淵ふちにおどる意」とあります。

本来のそのものの姿を守っていくことが、太古の昔から大切に絆を守りながら共生した仲間たちとの暮らし方です。今のように何でも人間の思い通りに変えてしまおうとするのはとても傲慢なことだと思います。知らず知らずのうちに刷り込まれていないか、他にもおかしなところはないかと学び直し見直す自戒の日々です。

自然の姿を守ろうとすることが自然に逆らわないことであり、自然と寄り添い生きる謙虚な姿勢でもあります。日々はまさに選択の連続、自分の布置がどうなっているのか、刷り込みを憎み人を憎まず刷り込みを取り払って精進していきたいと思います。

人間同士の自然とは

古民家の再生を行いながら今の時代が便利な道具によって価値観が変容していることに気づくものです。昔は手間暇かかることを良しとしたのは、その方が豊かで仕合わせであることに気づいていたからです。

例えば古民家は夏は涼しいのですが冬はかなり寒いものです。今のように気密性が高く、断熱材を入れているような部屋ではなく、隙間風も多くまた壁もとても薄いものです。これでは冬は風がしのげるくらいで寒さは外と変わらないほどです。しかし、ひとたび誰かが来ると火鉢に火をいれ、豆炭で行火を用意し、半纏をそっと肩からかけてあげることができます。また温かい御茶と、やわらかいぬくもりの表情と言葉をかけてあげれば次第に心はあたたまってきます。

もちろん今の時代のように、暖房をつけ部屋全体を温かくする方法があります。しかしこの方法だと先ほどのようなおもてなしをする手間暇はスイッチ一つで完結してしまいます。もちろんおもてなしは暖房だけではありませんが、昔は心のぬくもりを感じられる人たちと、心のぬくもりを味わう人たちが多かったとも言えます。敢えて自然から離れず、自然に寄り添っていきていくことは決して便利なことではありません。しかしその分、謙虚に自然と共生しながら人間同士の中にある「自然」とも心で触れ合うことができたのでしょう。

人間にとっての自然とは私は「つながり」にあるとおもいます。そしてその人間のつながりにどのような心の触れ合いを見出していくか、そこに真の豊かさがあるように思うのです。

人間関係も同じく簡単便利にスイッチ一つで完結させていいものかと思います。今ではすぐに御縁に対しても切ったとか切るとか簡単にいいますが、本来の御縁は切っても切れないものです。その一つ一つに手間暇をかけるのは、心の触れ合いを味わうことです。

古民家再生をしながら、これは決して家や道具だけの話ではなく「もったいなく」生きていく生き方の再生だと感じます。

心を触れ合せていくことは、自然の姿です。どんなものとでも、どんな人とでも心を触れ合せながら大切にしていけるよう、暮らし方を学び直し改善していきたいと思います。

恩顧地心

昨日、久しぶりに故郷で旧友に会いました。もう18年前に、故郷で創業し不可能と言われてきたことをやり続けている方です。私たちの郷里は炭鉱で有名な場所で、一時期は日本国内のエネルギーの半分以上を担っていたこともありましたが今では石炭の需要の減退とともに衰退したところです。

栄枯盛衰というものは、時代によるものでいつの時代もこれは繰り返されているとも言えます。しかしそこに住んでいる人たちが希望をもって温故知新していくのならその場所はまた発展を続けていくのです。

しかし実際はバブル経済の時と同じように、「あの頃はよかった」と昔の思い出に浸るばかりで今をみようとはしなくなるものです。昔を思い出して懐古することは悪いことではありませんが、それにいつまでもしがみつくのは温故ではないと私は思います。

よくよく考えると衰退していくというのは何が衰退するのか、それは希望が衰退しているとも言えます。それは心の持ち方次第で、何をやってもうまくいった右肩上がりのサイクルから何をやってもうまくいかない下がるサイクルの時もあるのです。それは山登りのように上がるときもあれば下がるときもある。本来は、山を味わい上がっても下がっても愉しめばいいのですが、実際に人は下がることを嫌うものです。

下がり始めれば何をやってもうまくいきませんから、そのうち「どうせ無理」と諦めてしまいます。特に上がっていく人たちを羨み、下がっていく人を同情し、比較をしては嘆き節では決して主体的に自ら前進することもありません。

温故知新は、新たに価値を再定義することでもあります。

本来、何もないと思っていたものがもう一度見渡してもう一度見直してみれば魅力はいくらでも発見できるものです。昨日、友人が郷里の善いところを見つめその郷里に育ててもらった話をしてくれました。改めて自分がこの郷里をもう一度見つめ直すことからやり直し、ここから恩顧していくことを決めました。

改めて自分が育ててもらったことへの御恩にどれだけ感謝しているか、環境にお世話になってその環境が良くなっていくことがどれだけ有り難いことか。教育に携わりながら育ち育てられる環境が大切かはいつも感じているところです。

町づくりというものや、町興しというのは其処に住む人たちの生き方が決めていきます。自分が成長し成功し発展すればするほどに、環境に育ててもらったことへの御恩を感じます。そして人はその環境への御恩に対して御恩返しがしたいと思うようになるのかもしれません。それは言い換えるのなら温故知新ではなく、恩顧地心があるから郷里は継承されていくのかもしれません。

場というものの中にある深い慈愛、場の中にある有り難い関わり、それらを大切にいただいている御縁に感謝しながら少しずつでも明るく謙虚に素直に進めていきたいと思います。

似て非なるもの

昨日、自然農の田んぼの草刈りを行いました。この時期は初期の見守りの大切な時機で、1週間田から離れただけであっという間に稲だけではなく周りの雑草も勢いよく伸びてきます。肥料も農薬も使わない農法というものは、見守ることによって育つのを支えていく農法です。だからこそ、田んぼの中に入り自分の手と眼で触りながら稲の様子を一つ一つ確認していくことが自然農をするうえで何よりも大切なことです。

草刈りにおいていつも気づくことがあります。それは稲の周りにとても稲によく似た草が沢山集まってくることです。例えばイネ科のノビエ(イヌビエ)などは酷似しており、慣れていないと間違って稲の方を刈ってしまうこともあります。この稗(ビエ)は田植え前後に芽生えたらほとんど稲と同じサイクルで育ちます。さらに稲が刈り取られる前にすべて種を散らしますから毎年かなりの量の稗がまた翌年出てくるのです。初年度の取り組みのときはこれにかなり苦戦したものです。今では、苗の時にしっかりと関係性を築いてから本田に入れますから自ずから稲の気配のようなものも感じ間違えることが少なくなってきました。

しかしこの「似て非なるもの」が如何にこの自然界の摂理であるのかをこの時期はいつも痛感するのです。ほとんど見分けがつかないこの稲と稗ですが、実際は収穫においてとても大きな差が出て来ます。

この「似て非なり」という諺は孟子の言葉です。孟子は「似て非なる者を悪む。ゆうを悪むは其の苗を乱るを恐るればなり」といい、これを徳の賊であり道の人ではないと言います。似非(えせ)ものという言い方もここから来ています。

この孟子を引用し、佐藤一斎の「言志四緑」ではこう言います。

「匿情は慎密に似たり。柔媚は恭順に似たり。剛腹は自信に似たり。故に君子は似て非なる者を悪む」

つまり感情を表に出さない匿情は、慎み深い親密な様子に似ている。物腰柔らかく媚びる柔媚は、うやうやしく従う恭順の様子に似ている。剛情でいじっぱりの剛腹は、自分の力を信じて疑わない自信のある人の様子に似ている。それで孟子に、「孔子曰わく、似て非なる者を悪む」とあるのは、このことを言っているのであるといいます。

見た目がいくら君子に似せていても、当然その本質や中身は本物の修養と人格によって異なります。見た目君子や見た目良い人は今の時代、見分けがつきません。それだけスピード社会で情報化が進んで、時間をかけずに世間の評価や見た目で誤魔化しさも本物のように振るまいそれが本物に取って代わったような時代になっているとも言えます。先日からブログで書いている「家」のことでは、ハウスとホームの異なり、リフォームとリメイクも異なりと同じくそれが混同されて間違って使われているのと同じです。本や知識が横行し、頭でっかちになればなるほどに本能が減退してくるのでしょう。

だからこそ常に本質は何か、本物とは何か、そういうものを見極める目は自然の中に入ってこの「似て非なるもの」に気づく感性を磨くしかないと私は思っています。

 
また森信三先生はこう言います。「すべて物事は、平生無事の際には、ホンモノとニセモノも、偉いのも偉くないのも、さほど際立っては分からぬものです。ちょうどそれは、安普請の借家も本づくりの居宅も、平生はそれほど違うとも見えませんが、ひとたび地震が揺れるとか、あるいは大風でも吹いたが最期、そこに歴然として、よきはよく悪しきはあしく、それぞれの正味が現れるのです。」

古民家再生を深めていく中で、如何に近代建築が永くもたないことに気づきます。見た目の強度ばかりを誇り、実際に天災がくれば天災が大きかったからという。しかし何百年も今でも顕在する古民家のことは議論にもしようとしない。こういう浅はかな考え方が偽物をこの世にたくさん生み出していきます。偽物とは、歴史や自然の篩にかけられればすぐにバレます。こういうものを付け焼刃の刀とも言い、必ずメッキは剥がれるように思います。

後世の人たちにわらわれないように常に「似て非なるもの」を自戒し、本来の姿に立ち返り実践により本物になることを目指したいものです。子ども達は本物を直感的に察知しますから、その子どもたちに恥じないように着実に成長していきたいと思います。

 

教養とは何か

「教養」というものがあります。

これは、イギリスでは「Culture」と呼び、ドイツでは「Bildung」と言います。辞書によればこれは単なる知識ではなく、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術などを持つ人のことを言います。その他、社会人として必要な広い文化的な知識であってそれによって養われた品位であるとも書かれます。社會をつくる人間を教育する理由、その教育の本質は「教養」を身に着けることにあります。

これは単なる知識を持っている人を教養とは訳さないことが分かります。教養があるかどうかはグローバル社會において何よりも大切です。単に学校などで知識を得た人が世界に出てもそれは今の時代ではパソコンをもってインターネットがあれば膨大な知識は瞬時に使えますからそれでいいとも言えます。では世界で活躍するためには何が必要か、そこには必ず「教養」が要るのです。

有名なジャーナリストに池上彰さんがいます。この方が教養のことをこう言います。

『たくさん本を読んで、知識が豊富になれば、それで「教養がついた」ことになるかというと、ちょっと違うような気がします。自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができて初めて「教養」が身についた、と言えるのだと思うのです。』

自分の得た知識を他人にちゃんと伝えることができるか、それが教養が身に着いてきたという一つのモノサシです。ではなぜ伝えられないかということです。知識をものにするにはやってみなければ本当の意味で分かったことにはなりません。さらにその知識を深めて追及し、自分の中で咀嚼し自分のものになってはじめて伝えることができます。そしてちゃんと伝えるためには、その知識を語るための膨大な経験や暗黙知、そして理論や形式知が必要です。そのためには徹底して取り組んで深めていかなければ伝えることが出来ないのです。

また最近、古民家再生で知ったアメリカ出身の東洋文化研究者のアレックス・カー氏が教養について同じように話しています。

『知識が豊富なだけでは、教養とは言えません。いろいろ知っていたとしても、「その知識のどの部分をどう伝えれば人の心を動かせるか」が分からなければ意味がない。』

そしてこうも言います。

『残念ながら今の日本からは、世界中の人の心をつかむような商品やサービスが登場していない。これはビジネスパーソンの多くが、すぐに通用する仕事のスキルを身につけることばかりに熱心で、真の教養を身につける努力を怠ってきたからではないでしょうか。』

真の教養とは何か、本当の教養とは何か、それを身に着けない限り世界に出たとしてもその人は世界で通用する人物にはなりません。世界で活躍しようと大志を抱くのなら、まずは自分の根元を深掘ることが大切です。その上で、世界共通の物差しを自分の中に確固として持つ必要があります。それは単なる自分の価値観ではなく、普遍的なものを自分に持つということです。言い換えるのなら、真理に精通するといってもいいかもしれませんし、文化そのものになるといってもいいかもしれません。そういう本物の自然体の人物こそが世界でははじめて価値観を超えて話し合いができる人に成り、世界の中で自分を活かし世界について語り合えるリーダーになるのです。

そしてアレックス・カー氏はこう言います。

『教科書に書いてあったり、一般的に言われたりしていることをそのまま鵜呑みにし、お行儀よく「枠」に収まっている限りは、自分の血肉にはなりません。疑問を持って調べ、「枠」から出る。筋力トレーニングと同じで、その繰り返しが教養を高めてくれるはずです。』

自分の手で触り、自分の眼で見て、自分の耳で聴き、自分の声で伝える、そういう全身全霊の感覚をもって直感しコツを身に着けていきつつ、それを言語化して伝達できてこそはじめて本当の教養の入口に入るのでしょう。

そして教養は真に日本人になったとき、はじめて身に着いたといっていいのかもしれません。時代は変化していきますが、子ども達のために本来の姿、本来の生き方、死生観、歴史観、大局観、等々、それに和魂洋才、和魂円満、学び直すのにキリがないですが自然と子どもをお手本にして理念を明るく取り組んで味わっていこうと思います。

誠の成長~いにしえのいま~

現在、古民家を復古創新に取り組んでいく中で日本文化について観直しています。今の時代は、どこか西洋が新しく日本が古いという考え方があるように思います。古いか新しいかという二者択一の分別されたものは所詮は新古です。温故知新というものの語るのはその新古の違いではなく、その中心にある繋がりやむすびのところです。

明治維新以降、日本はそれまでの日本文化の中に西洋の文化を取り容れるという時間をかけた進化を手放し、一気に西洋化するというように日本文化から西洋文化への入れ替えをしました。その際、今まで大切に紡がれ大事に守られてきた精神性やその生き方なども排除し、まったくもって西洋の考え方や精神性が優れているとし、無理やり総入れ替えを行いました。

それは今まで時間をかけてじっくりと日本の文化の中に取り込んでいくということで行われる温故知新の発達と発展を否定したものでした。そして今ではもっと早くもっと便利にと手っ取り早く手に入るスキル的なものばかりが価値があると思い込み、より一層、かつての日本の文化を否定するようになっているともいえます。日本文化は今、まさに消失の危機に瀕しています。

これは私たちの生き方や暮らしが変わってきたともいえ、それは学び方も変わったということです。例えば武士道といっても、今ではほとんどがそれが日常で語られることもなく、日本人が古来から大切にしてきた美意識や美学というものも今ではほとんど身近に感じません。

しかし古民家再生をしていく中で、いにしえの先祖たちと対話を続けているとそこに暮らしてきた人々の持つ高い精神性に触れる機会が多く出てくるのです。そこには何でも時間をかけてじっくりと取り入れて成長させていくこと、真の意味での成長と発展があり、まるで木々が年輪を経て大樹になるように確実に進化しているのを感じます。

本来の進化というものは、とってつけたような付け焼刃でするものではなく永い時間をかけて何度も振り返り自らを修養していきながら行われるものです。すぐにスキルに頼り、すぐに便利なものや楽なものばかりを探そうとするのはとても温故知新しているとは言えません。

温故知新の古さと新しさは、単なる古い新しいではなく古来の真心を持った人物が今の時代の成長に合致して自然に理に適ったものを創造するということでしょう。普遍的なものや本質的なものは、自然美が観えなければ知り得ることはありません。

自然の持つ変化と成長は、便利に楽にその場しのぎで行われるものではなく永い歴史と循環、そして順応と発達、発展により地道に行われるものです。それは私たちの行う理念の実践に酷似しています。

ちょっとずつ成長していくことは決して遅くてダサい古いことではありません。むしろその中で着実に成長するのならそれは温故知新しているということです。そういう観点は自然の中に入ることで気づいていきます。古民家や町家の中にある自然を感じる暮らしは、私たちに変化の大切さを教えてくれます。何でもスピードを出せばいいのではなく、自然循環の速度と合致することが「はじまりを知る」、いにしえのいまに触れることなのです。そういう日本古来の生き方や暮らしを繋ぐ存在によって子ども達にいにしえの初心は伝承されていきます。

もう一度、日本人の暮らしとは何か、与えられた機会に感謝して学び直していきたいと思います。

まちがった教育~刷り込みからの脱却~

熊本県下益城郡出身の日本の数学者に遠山啓氏がいます。この遠山啓氏の競争原理を超えるという理念を支柱にできたのが埼玉にある自由の森学園です。ここの子ども達の活動を見ていると随所にその理念が浸透し反映されている部分を知り、その根底には私にも同じ気持ちがあるのを実感します。

そもそも日本の教育は、だいぶ昔から変わっておらず時代の変化があっていてもまるでどこふく風のように「学校」という形にこだわっています。外から学校に入り不思議に思うのは学び方が知識偏重型の詰め込み教育スタイルをいつまでも維持していることです。

世界をはじめ、IT化が進み情報などはもう学校以外でほとんど入手する時代です。何のために学校にいくのかを再定義しなければそもそも子ども達も学校にいく意味を感じなくなるのは自明の理です。特に本質的であればあるほどに子どもたちは直感で学校学ぶことの価値に「?」を持つことだと思います。

この遠山啓氏は、だいぶ前にこのことを言及している言葉があります。

「学校教育そのものが、いま、絶対視されていて、唯一の教育機関みたいになっているけれども、客観的にみても、情報社会になってきて、学校以外からえられる情報がかくだんに多くなっている。だから学校の相対的な価値はもっとさがるべきではないでしょうか。」

私も同感で、学校だけが教育する場所ではなく人は学校以外のところで学ぶために学校があると私は思います。あくまで学校は、「場」を超えないのであってその場をどう活かすかは子どもたち自身だからです。世界では様々な新しい学校が産まれています、以前見学したシンガポールの学校やインドネシアのグリーンスクールなどもそうです。何のために学ぶのかという原点をはっきりしている学校が、新しい場を創造していくのです。

遠山氏はこう言います。

「創造ということは、がんらい、なみたいていのことではない。そのためには絶対に必要な条件がある。それは自由ということである。」(子どもの側にたつ)より

ここでの自由というものは、今の時代では多様性と言い換えてもいいかもしれません。つまり多様性を持つものだけが自由を手にしますから、自由を手にするためにも自分自身が主体的に世界を知り、歴史を知り、自然を学び、原点を掴み、いのちを生き切ることを遣り切る必要があるのです。自由というのは自然あるがまま(由)の合体した言葉です。如何に自然であるか、自然の中には無があり無の中には無限の創造性があります。そういうものを引き出すためにも自然一体の境地を学問によって学んでいく、その場を提供するのが学校本来の役割ではないかと私は思います。

それを壊すのにもっとも大きな影響を与えるのは「刷り込み」です。私たちは競争原理や序列主義の中で、差別され様々な自由を奪われてきたとも言えます。本来、いのちに序列や差別はありませんがそれをされることで深く心が傷ついてきたのです。すぐに他人のことを馬鹿にしたり出し抜いたり、それを見ているととても心が痛みます。かつての教育によって傷んだ気持ちをどう開放するか、私たちの取り組んでいる本業もその辺が深く関わっています。

そして遠山氏はこう言います。

「序列主義で骨がらみとなった教師は、いきづまると、いわゆる能力別指導に救いを求める。つまり、それは劣等生が優等生の邪魔をする、という考えになってくる」

能力主義というのは、序列主義から発生してくるものです。人を分別し、知識の有無と正確さで優劣をつける。しかしこれでは上下の縦の関係が強くなるばかりでいよいよ横同士の関係のない堅苦しい集団になります。今の時代はかつての上からの一方的な価値観では乗り越えられない時代です。多様な価値観が存在する社會があるのですから、そこは御互いに協力し合って衆知を集めて乗り越える時代です。しかしそれを超える方法も遠山氏は示しています。

「いまの教育というのは、テストの点数で子どもを優劣の順に序列化して一列縦隊になってしまっている。その序列の向きを90度変えれば、一列横隊になる」

如何に発想を転換するか、そこに自由の森の子ども達の活動の妙味があるように思います。子ども達の姿をみていたら、私が今、取り組んでいる子ども第一義の理念と同一であることに気づきます。如何に協働し、如何に自由であるか、その中には個々の尊重と持ち味を活かす仲間づくりをしていく場、衆智の活かし合いを重んじている感じがします。個々の自立は、仲間があってはじめて成り立つものですからその仲間づくりをどう体験するか、そこに自由を学ぶ意味があるように私は思います。

最後に、この遠山氏のこの言葉に私はとても共感します。

「おとなにはあまり期待がかけられない。まちがった教育でだめにされてしまっているからだ。しかし子どもにはまだ希望がつなげる。そのためには、いまのまちがった教育を変えて行かなければならない」

私はこの「まちがった教育」のことを「刷り込み」からの脱却であると定義しています。今まで教えられてきたことを一度疑ってみる、今まで常識だと思っていたことをいちど見直してみる、そういう中に刷り込みの脱却があります。

教育がまちがうというのは、本来の学びの価値が失われていくことです。自分で考えて自分で学ぶ、ゼロベースで考えることが出来る人こそが本物の教育者であると私は思います。

引き続き、御縁をいただける学びをすべて子どもたちのために活かし切っていけるよう精進して全てものから学びきっていきたいと思います。

道と家と暮らし

家のことを深めていると、家には暮らしがあってはじめて家であることが分かります。以前、ホームレスとハウスレスということをブログで書いたことがあったと思います。現在は都会で野宿していても愉しそうに集まって賑やかに生活している人もいれば、高級マンションに住んでいても孤独に一人ぼっちで仲間がいない人もいます。家がないはホームレスの人ではなくハウスレスであるということ、ホームというのは単なる建築物ではなくそこには温もりのある家族や仲間があって家があるのです。

そしてこの家というものは、自分が暮らしてはじめて家になります。一家の一員としてどのように生活をするのか、家族や仲間を大切に思いやり温かい関係を築いていく中で家は次第に住み心地がよくなり居心地が善い安心基地になっていきます。それをホームだと思っている人は多いと思います。

スイス生まれの建築家ル・コルビュジェの言葉に「家は生活の宝箱でなくてはならない」という言葉があります。言い換えるのなら、生活が宝だから家が輝くとも言えます。つまりそこでの美しい楽しい味わい深い一家の家族や仲間との暮らしが宝と感じられることこそが家の定義であるのです。その宝を日々に発見していく場が家ですから、その家の雰囲気や風格、家風といってもいいかもしれませんがそれが暮らしを彩っていくのです。

一家があれば野宿であってもそれは単なるハウスレスなだけで其処にホームはあります。いくら家が豪華絢爛で豪邸であったとしてもそこに家族がなければ単なるそれは建築物です。家は家族や仲間があってこそ家になりますから、家を与えられたことが嬉しいのではなく家に一緒に暮らす仲間があることが何よりも嬉しく有り難いのです。

古民家の再生というものは、建物の再生と暮らしの再生があります。私がやりたいのは建物の再生ではなく、暮らしの再生なのです。暮らしこそが仕合わせで、暮らしの中の美しさも豊かさもまた歓びもある。そういうものを子ども達に伝承していくために家が必要なのです。一家の伝承をするにおいて当主として何をなすべきか、それを辿っていると自ずから自分の役割と環境に感謝の気持ちが湧いてきます。古民家再生をするという意味を正しく伝承していきたいと切に思うばかりです。

最後に、もう一人、日本を代表する建築家、安藤忠雄さんの言葉です。

「環境とは、与え、与えられるものではない、育ち、育てるものである。」

これは家人としての心得だと私は思います。家を建てる人だからこそ家の本質を語っている言葉です。つまり環境は自ら創造するものであって、与えられたからそれでいいわけではない。それは自ずから育つことと自らが感化して育てていくことなのです。自らが主体的に暮らしてこそ家ができ、その家を大切に守るからこそ暮らしは継承されていくのです。そしてこれが家なのです。

世阿弥が、「家、家にあらず。継ぐをもて家とす。人、人にあらず。知るをもって人とす。」と言いました。つまり「道の家とは、血筋で繋がるものではない、その道を伝えてこそ家といえるものである。その家に生まれただけでは、道を継ぐ者とはいえない。道を知ってこそ、その道を継ぐ資格がある人ということである。」という意味です。

神家本家のカグヤ道は、道を実践することで「暮らす家」にすることなのです。今の時代に、先人たちの生き方や先祖たちが大切に譲っていただいたことを遺し譲ることこそが子ども達のためにその真心を勿体なくしていくことです。引き続き、種徳を立て、眼花の花にならないように子ども第一義の理念を優先していきたいと思います。