主体性の発揮

昨日、ある保育園の公開保育に参加して藤森先生の講評を拝聴する機会がありました。そこでは「主体的」の話があり、幼児教育の原理原則として当然のことであり、それをどのようなアプローチで実践するかに見守る保育があると仰っていました。

また気づいたことの中で「環境が主体的な子どもをつくるのではなく、実際は主体的な子どもが環境を使いこなす」とも仰っていました。発達を保障していくとは何か、学び直す機会になりました。

そもそも主体的であるというのは、人間は本来、主体的な生き物です。これは自然物はすべて主体的と言ってもいいかもしれません。それが刷り込みによって主体が失われていくことで発達が歪まれていくように私は思います。

人は誰しも遣りきっている人は主体的であるものです。中途半端に遣りきることをやめてしまえばそこには主体が失われていることに気づくものです。やりたいことを自由にやる環境があるといっても、実際に自由になったからやりたいことをやるわけではありません。

本来、どんなことであっても自分のやりたいと決めた選択を自らが遣り切りやり通すというのが主体のことです。主体が遣りきっていないのに本来の自分の好奇心が目覚めることもなく、自分自身が環境を創造して自分らしく生きていくことはなかなかできません。

人は自分の決めたことを遣りきっていく中で、本来の魂の天命というか自分らしく自分を生きていくことができます。同時にその生き方が他を活かし、自他を活かし合うことができるように思います。

そしていつから刷り込まれ主体性が消失していくのかをみれば、産まれた時からの環境が大きな影響を与えていることに気づくのです。その環境の刷り込みをどのように取り払っていくか、それに気づけるかがその人のその後の人生を大きく左右するように思います。

私たちが見守る保育の道を弘げたいと願うのもまた、この主体性の発揮こそが要であり、発達を見守ることがそのものの主体を信じることにつながるからです。子ども達の目がいつまでもキラキラと輝き時代時代を生き切ることができるように見守っていきたいと思います。

特別という勘違い

人はできる人を目指す人と、御役に立てる人を目指すのではまったくその姿勢が異なるものです。前者は自分が如何に特別な人間であるかに固執しますが、後者はできない中でもお役に立てることに精進しようとします。

自分の感情を満たすための努力というものは、自利が入ります。しかし周りのためにと自分を役立てていこうとする人は利他に入ります。そもそもなんでできる人になろうとしたかの動機が間違えば、その結果もまた相応なことが起きてしまいます。大事なことは何に憧れているかということが重要なのかもしれません。

私はかつては能力が高くて有名な人が特別な人だと信じていたことがあります。しかしある時から、特別な人だからすごいのではなくみんな人は誰でも普通なのだと気付き、誰でも生き方を貫いている人がすごいと思えるようになりました。

自分の信じた生き方を貫いている人は、たとえ肩書や立場がなくても尊敬できます。それは自分がやってみて気づけるからです。自分の信念に生きる人というのは、自分自身とのたたかいに打ち克っている人であり、自分の心と正対し初心を優先しているから尊敬するのです。

よく人を上下に分ける人がいますが、これは自分を特別視するから分けるのです。別に自分がどう思われようともいい、自分が人間の一人であって特別ではないのだと自覚すれば自分が何かに役立てるように精進しようと前向きになれるように思います。自分をあまりにも愛して特別視すると、考え方が常にネガティブになります。自分を守ろうとすると自分の心配ばかりに終始して役に立てる仕合わせを忘れてしまうものです。

大事なことは「自分が特別な存在なのではなく、御蔭様と御縁が特別なのだ」と感謝することではないかと思います。自分が生きていられるのは自然の御蔭様です。この御蔭様は奇跡の御縁で結ばれています。

人間は自分たちを特別視することで神様にでもなったようにすぐに傲慢になります。全知全能などというできる人の刷り込みは、今の世の中の縮図を表します。そういう価値観に縛られるのは感謝の実践が足りないからかもしれません。自分が如何に何ものかに活かされて今があるか、自分が如何に御蔭様に見守られているかを思えば、自然に自分が不完全でも誰かの役立てる仕合わせに感謝できるものです。

謙虚さに気づくのは素直の入口です。他人の話を聴くには、全知全能のできる人を目指し特別な存在であろうとするよりも、自分を含め誰もが特別な存在だと気づくことです。

そしてもしも自分が特別だと信じることでモチベーションを維持するのなら、自分は志があるのだから俗世に流されてはいけない、普通ではいけないと自戒し精進することのように思います。

子どもたちがわたしたちの跡を続いていきますから、自分がこの世に生を受けた御縁までも私物化しないように自分という存在を勘違いしないように精進していきたいと思います。

みんなOK!

人は競争や比較の刷り込みを持つことで、完璧主義に幻想を抱いていくものです。これは集団社会の中で、サボらない人をつくるために「真面目で責任感がある人」をつくりこんでいくように思います。人間は、やらされていると楽をしますから楽をしない人をつくるように育てるのが今の学校のやり方でもあります。

しかしこの真面目で責任感があるという人には落とし穴があります。自分でやろうと主体的な組織に入った時には、どうしていいかわからなくなるのです。

真面目で責任感があるというのは、自分を責めて最後まで完璧に仕事をするという意味で使われますしかし本来の真面目という意味は、目的や理念に対して真剣であることです。そして責任感とはすぐに実行する行動力のことです。理念を優先するからこそ協力を惜しまないのが本来ですが、競争して比較して協力しないでというのは小さな自分に囚われて周りを自分のために利用していることになるかもしれません。真面目で責任感というものを勘違いしてしまうと人を許すことが出来なくなります。

先日、訪問した沖縄教育出版社で「I am OK! You are OK! We are OK!」の社憲を見ました。これは自分もOK、相手もOK、みんなOKという意味ですが、みんな許し合い協力しますという大切なメッセージが入っているように感じました。

つまりは持ち味を活かすというのは、自他を許し、皆を活かすことを優先しようということです。その理由はなぜかといえば、目的や理念を優先するために他なりません。

本来の自分を取り戻すには、小さな価値観に縛られる自分を自ら手放してもっと大きなものに自分を近づけていく必要があります。その基本を腹に据えるものが「理念」だと私は思います。

いつまで誰かに目標を与えられて使役されるままの自分でいるのか、そうではなく自分自身の意志と積極的な信念で目的のために生きていく本当の自分に出会うことが必要です。人間が自立するというのは、本当の自分自身になるということだからです。そして自分自身で歩んでいくことが道であり、志を立てるというのはまず理念を自らの基本に据え置くということでしょう。そうやって道を志すとき、人は実践という歩みを安心の境地で進んでいくことができるように思います。

まず最初のそれまでの競争比較刷り込みを抜け出すには、刷り込みの自分を超える必要があります。そしてまず自分自身と向き合う前に、何をモノサシにして向き合うかが大事です。そのモノサシは理念です。先ほどの「みんなOK!」は刷り込みのない自分のままに自他の成長を味わって自分の持ち味をみんなで活かそうとする素直な言葉です。まず取り組む前に、「誰も責めない=みんなOK」と決めることが許しのはじまりであり、その実践こそが心をオープンにして自他を開放することだと思います。

自分を責める人は他人を責め、そして全てを責めて最後は孤立して人間関係に懲りるまでギスギスする環境が付き纏います。社會の中で協力をしない大人のモデルは子どものためにもなりませんから、理念実践を積み上げて、理念を中心に協力のある社會を譲っていきたいと思います。

自然への畏敬

自然農の畑で高菜の間引き作業をしていると、根元にテントウムシたちが越冬のために隠れています。よく木の皮に隠れている様子をみたことがありますが、高菜の根本にも何匹も隠れている様子に同じように越冬しやすい環境があるのだろうと驚きました。

何でも手作業をしていると、今まで見えなかったものが観えてくるものです。

今は何でも簡単便利に機械やお金で解決する方法で楽をして一気に効率よく進めることが良しとされる価値観があります。手間暇かかることを避け、出来る限り面倒なことは避けたいとエスカレーター式に進んでいくことを望んでいる人も増えました。

今では田んぼや畑に入っても土を触らないで稲を育てられる時代になっているとも言えます。しかし実際は、自分の手で土を触り、自分のカラダで感じなければいのちの様子は感じることはありません。肥料も農薬も使わないというのは、不便で手間暇かかりますがその豊かさというのは自然に触れることができるということです。

先ほどのテントウムシも、その他の虫たちもみんな其処に暮らしています。冬に血液を凍らせないでじっと越冬する様子に、今まで厳しい自然の中で生き延びてきたのだと感じると尊敬の念が湧いてきます。

かつて地球は何度も寒冷期があり、太陽が隠れて厳しい時代があったといいます。その中でどうすれば生き延びれるかを考えて、またその時代が来てもいい様にと敢えて厳しい自然に身を置き続けています。自然はいつまた変化するかわかりませんから、「危機に備える」チカラを捨てることはありません。

私たち人間は、あまりにも豊かであまりにも贅沢な暮らしが続くと危機感というものが喪失していきます。そして変化が来た時、気が付くと自然に順応できずに滅んでいきます。

よく自然を観察しては、どのように生き延びてきたかを学ぶのは変化を学び直すことでもあります。変化できなくなるとき、人類は危機が訪れますから自然をお手本に学び直しを続けていきたいものです。

子ども達に大事なことを伝承するためにも、自然に正対して畏敬をもって語り継いでいきたいと思います。

学問の大禁忌~道を見失う~

知識をつける世間でいう勉強ではなく、道を実践する学問は学び方にルールがあるように思います。道に入っている人は決してしないことでも、道がよくわからない人は簡単にやってしまうものがあります。そういうものが生き方に出て来ますから、なぜかいつも王道の中で自然体に歩む人と、いつも道から逸れては煩悶として不自然になっている人に分かれるように思います。

ではその差は何かということです。

吉田松陰の遺訓の中に「学問の大禁忌は作輟なり」があります。意訳ですが、「道を実践するという本物の学問において、絶対にやってはならぬことはやったりやらなかったりすることである。」と言います。

道というのは、歩んでなんぼのものです。歩まなければ道ではなく、歩むから道だと言えます。もしも足を前に出していないのなら歩んでいないということは誰でもわかります。それが日々の実践です。しかし実際は、悩んでばかりや周りに文句ばかりったり、言い訳ばかりして一向に自分の脚で歩もうとしない。自分で歩かないのに進まないと愚痴をいっては実践しないでは道は自分から遠ざかっていくように思います。

道とは、自分の人生のことです。自分に与えられた人生ですから、それは自分自身でしか歩むことが出来ません。そしてその道を歩むにおいてどこに向かいどこに辿りつこうとするのかはその道の歩み方といった志に顕れてきます。

どんな人生を歩みたいかを初心に、理念を定め、定めた理念に正直に素直に実践していくことで人は道を謳歌していくことができます。そのために、もっとも道においての禁忌は「したりしなかったりすること」であると私も思います。

したりしなかったりするのは、そこに我欲があります。自我に真我が負けて己に嘘をついてしまうからしなくてもいいことになっていきます。しない日々が続くのは、自分で決めた初心を偽るのですから自分にいつも言い訳を言って帳尻を合わせることになります。すると、自分の中にある真心や情熱、そういうものに水をかけてしまうことになるのです。

常に自分で決めた道は、自分の脚で歩き切るといった自らの実践があって人は学問の楽しみを深く味わうことができるように思います。

最後に、吉田松陰の言葉で締めくくります。

「至大至剛は気の形状模様にして、直を以て養ひて害することなきは、即ち其の志を持して其の気を暴ふ義にして、浩然の気を養ふの道なり。其の志を持すと云ふは、我が聖賢を学ばんとするの志を持ち詰めて片時も緩がせなくすることなり。学問の大禁忌は作輟なり。或は作し或は輟むることありては遂に成就することなし。故に片時も此の志を緩がせなくするを、其の志を持すと云ふ。」

どんな時も理念からブレずに実践することこそ初心を忘れず志を守り続けたということです。これこそが「真の学問」ということです。道に入るということは学問に出会い学問をするということです。道は消えるのではなく見失うだけですから、本来の道に帰りまた道を一緒に歩んでいく仲間に合流していけばいいようにも思います。道はそれぞれ自分の脚で歩みますが、同志や仲間がいれば一緒に歩んでいくことに仕合せを感じ感謝の心と同時に深い味わい楽しみがあります。

子ども達に日々の実践こそ学問ということを自らの生き方で示せるよう精進していきたいと思います。

 

経営ではなく理念

人はその時々の決断で何を優先するのかをはっきりさせていきます。人生は選択の連続ですが、その時々の選択に何をもってくるかでその後の方向性が決まっていくものです。

つまり優先順位があるということです。

世の中には無数の答えが存在します。それはその時々の優先順位があるという意味と同じです。そして優先順位とはその目的に対して行われるものですから、優先順位を決めた時はその目的を自分はもとより周りも確認するということです。

その人が何をもっとも大切にしたいかという方向性、何を大事に生きるかという初心を自他へ表明することになります。これが組織においては多大な影響が出てくるのです。

よく経営か理念かと組織論では語られることがあります。理念経営をしていますとかいう声も聞きますが実際は経営理念になっているだけで経営の中に理念を付け足しただけにすぎません。経営するための方法論として理念を置いているだけになっているところが多い様に思います。

理念とは目的です、経営は目標です。目的がなくなれば目標しかありませんから、目標を達することが正解になります。しかし目標だけをやっていて正解になってしまえば、目的は忘れてしまうものです。本来、目的があれば目標はなくても問題がない様に思います。目的意識がある人は自ずから必ずその目的に近づいていきます。目的に合わせて自分の方を変え続けていく人は、理念を実践する人とも言えます。経営は実践とは言いません。

本来、目的(理念)をはっきりさせておかなければ人は何のためにやっているのかがわからなくなります。そうなると目標に囚われ、目標ばかりを優先するようになります。目標は達成すれば充実感が得られますが、目的は心の充足感が得られるように思います。人間は心があるから人間ですから、充足感というものは心の状態ですから人間が心を失わないためにも必要だと思います。

シンプルに言えば「目的を忘れずに実践することが理念を優先する」ということです。その目的がもしもズレているのなら、すぐに自分の方を修正しなければなりません。この「何のために」を明確にすることが本来のリーダーの役割であり、一人ひとりがリーダーシップを発揮するにはこの目的を理解し合わせなければできません。

目指す目的を一緒に観て、それぞれが自分に打ち克って実践していくからこそ御互いのことを尊重し楽しく豊かに働くことが出来るようになります。何のためにというのは、初心の自分を取り戻すための大切な鏡です。

その鏡に映るものがもしも目的や理念でないのなら、鏡には初心とは別のものがいつも映り込むことになるでしょう。目的を忘れて日々の些事や雑事ばかりを優先していたらそのうち些事や雑事の方が大事なことのように勘違いしていくのが人間です。そうならないようにしていくための環境づくりこそがリーダーの真の役割かもしれません。そして目的があるからこそ、理念と経営が一致していき本物になっていくように思います。本物であるということの定義は、そこに嘘偽りのない本質そのもの、”理念が経営になっている”ということ、つまりは古語に言う「中庸であり至誠の存在になった」ということです。

日々に関わる人たちと皆で一緒に優先している目的を忘れない克己の工夫を用意していきたいものです。理念を実践するということの本来の意味を、自分たちの姿によって伝承していきたいと思います。

大和魂と大和心~人であるために~

日本刀は武士の魂と言われます。また世界で唯一、魂が宿る刀であると評する外国の人もいます。それくらい日本刀というものは、特別視されるものです。それはなぜかということです。他にも魂が宿るという道具がこの世の中にはたくさんあります。手間暇と丹精、真心を籠めて造られたものにはすべて魂が宿るといいます。

この「魂が宿る」ということを少し深めてみたいと思います。

そもそも魂とは何かということになります。ものづくりでいえば、心を籠めることにあります。つまりは、心が入っているということです。この逆を言えば、心がないもの、心が入っていない魂の抜け殻というものになります。心が入っているものは、それを使う人の心をまた同時に使う必要があります。なぜならそれだけ丁寧な使い方をしなければ壊れてしまうからです。しかし今の時代のように簡単便利に、大量生産できるものは壊れても買い換えていいものをつくったり、もしくは壊れないために加工されたものをつくります。ここには心のあるなしは必要はなく、技術があれば成り立ちます。

この技術があればというのは、先ほどの武士であれば殺戮能力さえあれば武士になれるという意味になります。しかし本来の武士は、技術があったから武士だとは言いません。武士は無用な殺生はしないと言います、刀は滅多なことでは抜かないといいます。それは殺生するということが、人を殺めるということを自覚しているからです。つまりは心があるからです。心を亡くしてしまえば、ただの殺戮マシーンになります。武士はそんなことはしませんでした、だからこそその殺戮の道具である日本刀には心がなくならないようにと念じて鍛冶師が打ち、その心がなくならないように武士は日々に手入れをして心を研ぎ澄まし心を失わないように精進をしたように思います。

かつての戦争においてでも、日本刀を帯刀した日本兵は最期まで心を失わないようにと戦いました。機関銃で乱暴に殺戮したり、ミサイルで大量に無札別で殺傷していても、日本人は日本刀を帯刀し単に殺戮マシーンになりさがることを自ら戒めました。そこには「どんな時も心を失わない」という決心と初心があったからです。そこに魂が入っていたのです。

つまり「魂が宿る」というのは、人としての心を失わないということです。

心が籠らない仕事は、魂が宿っていない仕事です。そんなことをしては、「人」ではありません。だからこそ最期の最期まで「心(魂)を持っている人」でいようと「人」でいることにこだわったのです。

人が心を失うということがどれだけ悲劇であるか、日本人の先祖たちはそれを知っていました。どんなに時代に翻弄されても、その心の在り処、つまりは魂の宿る場だけは失わないぞという覚悟を日本刀に託したのではないかと私は思うのです。

今の日本社會は残念なことに、忙しさに追われてそして心を入れることを忘れては「人」ではなくなって傷つけあって苦しんでいる人たちを沢山見ます。それは大量生産大量消費、経済優先、そのような使い捨ての文化の中で本来の「心」を見失ってしまったかもしれません。

本来の心を取り戻すために、先人たちの生き方やその道具から何を日本人がもっとも大切にしてきたかを再度考え直すべきであろうと私は思います。大和魂とは「大和心」のことです。大和魂を持つ人があって、はじめて日本刀に魂が宿りました。同じく、日本刀に魂が宿るのは大和心を失わなかった人があってはじめて両者成り立ちます。

先祖たちに恥じないように、今の時代でもどんなときも「心」を優先し、人格を高めて人格を磨き続け、こどもたちに先人たちの心を伝承できるように精進していきたいと思います。

自己肯定感と自己信頼

最近、自己肯定感について考える機会がありました。もともと自己肯定感とは自信のことです。自分に自信がある人は自己肯定感があり、自信が少ない人が自己肯定感が低いと言います。自己肯定感が高い人は、自分自身を信頼することができますから自分自身のことを安心してコントロールしていくことができます。しかし自己肯定感が低い人は、自分自身のことが不安ですからコントロールすることがうまくできなくなります。

つまり自己信頼ができるかできないかというのは、自分自身を活かしていく上で大変重要なことになります。

それではなぜ自己肯定感が低くなるかということです。

これは一概には言えませんが、まず自分自身との信頼を築けないことに理由がある様に思います。自分が決めたことがやり遂げられなかったり、自分の初心を自分が忘れてしまったり、忙しくして自分がこうありたいと思う自分を放り出してしまったりするときに、罪悪感から自分を嫌悪するようになります。自分自身を自分自身が裏切るのですから自己信頼は、自己不信に変わります。これが自己肯定感が低くなる大きな理由ではないかと思います。

人は社會の中で、自分以外の人たちと信頼関係を築いていきます。それはどういうものかといえば、周りにあわせて信頼してもらおうではなく「自分自身が自分との約束を守り、できることはやる!」というように誠実に取り組んでいくことで周りもまた次第に信頼をしてくださるようになります。これは自己信頼でも同じで、自分自身が決めたことを実践し続けることで自分への信頼感は高まっていきます。つまり自分はできることはやると決めたことを遣り続けているのです。

しかし自己信頼が低い人は、自分のできることをやろうとはせずできないことばかりに文句を言ってはできることもしなくなっていきます。つまりは自己不信の状態を続けてしまいます。

自分自身が自分にできることを精一杯やり遂げていたら、次第にできることは増えていき何でもできると思えるようになります。しかしできないことばかりを考えてはできることまでやらなくなれば、次第にできないことばかりが増えてどんなことでもできないと思えるようになってしまいます。

自己信頼というのは、小さな日々の自分との約束の積み重ねによって築き上がっていきます。そしてこれができる人がはじめて周りとの信頼関係を積み上げて築いていくことができます。

できるできないから入るのではなく、「人事を盡そう」、「やれることはやろう」とやっていくことで次第にできるかできないかではなく、「実践する」という境地に入る様に思います。

実践するのは、自分に打ち克つためでもあります。自分自身の自我欲に負けて怠惰になるのではなく、自分自身の理想や初心に対して正直にいる自分を誇りに思えるようになることで人は自己信頼ができるようになります。

昔ある方から「誰がみているかみていないかではない、一番身近で自分が見ているではないか」ということを教えていただいたことがあります。自分を誤魔化すことが増えていけばそのうち周りの人にまで誤魔化すようになります。自分自身の不信は、次第に周囲への不信になり、自己信頼の欠落は周りからの信頼の欠損にもなっていきます。

社會は、見えない約束事で成り立っていますからそれを自ら先に破壊すれば社會が安心して平和に保つことができなくなります。一番身近な自分を責めては罪を擦り付けるのではなく、できることを背一杯やってできないことは周りに頼るという本来の信頼関係を築くことです。

周りに頼れる人は、自分のできることは精一杯やる人だから周りに安心して頼れるのです。周りに頼れない人は自分にできることもやっていないと思った方がいいでしょう。

結局は、どんなことも未来は今の自分の実践次第なのですから変わらないものを嘆きどうにもならないことにいつも悲嘆にくれては何もしないよりも、自分が変えていけるものは何かを見つめてできることをやっていくしかありません。「人事を盡して天命を待つ」心がけで、実践を積み重ねて自己信頼、周囲の信頼を勝ち得ることが善い組織のみならず善い社會を形成する要です。引き続き「実践」の大切さを伝えていきたいと思います。

本来の善意

人には善意というものがあります。いいことをしたい、喜ばせたいというものがあります。しかしその善意が自分の一方的な押し付けであればそれがエゴになることがあります。自分が善かれと思ったことが相手からすると迷惑になることがあります。これを善意の行き違いといい、これを有難迷惑という言い方もします。

それはきっと相手はこうだろうと思い込んだり、自分の価値観で同情したりすることでその善意は本来の姿を歪めてしまいます。本来、相手が望んでいることは何かと、相手に寄り添い傾聴していき求めているものが何かをしって自分のできることで御役に立つことができるならそれは相手にとっての善行になります。しかし、自分が勝手に思い込んでやったことはひょっとすると相手にとっては迷惑であることもあります。本当に頼みたいことはやってくれず、頼んでもいないことばかりをやっては感謝を求めたり、押し付けたりするのはまさに善意の行き違いとも言えます。

これは自分の同情から来るものですが、同情というものは共依存するものです。同情を求める相手に対して、同情する人がいる。もともと同情を乞う心理というのは自我に執らわれている心理とも言えます。同情とは本来、同じ思いになることですから相手が自分だと思って共感することです。しかし実際に勘違いしている同情は、自我が自他を比較し憐れんでみているだけで決して共感しているわけではないのです。

この善意が行き違うということは、本来の善意ではないということです。

なので本来の善意を実践するには、相手の話を相手の立場になって心寄り添い傾聴して共感し、受容することです。それをすることで、相手は同情の有難さを感じ、情け深さによって自分を取り戻し自らの自己憐憫を手放していくように思います。

特に経営者や上の立場の人は、この同情を勘違いして失敗するように思います。自分の方が立場が上であるという事実と、下の人が自分が下なのだという関係が発生するとき、この歪んだ同情の共依存が発生するのかもしれません。

それを断つには、聴福の実践しかないように私は思います。本来は、有難迷惑や善意の行き違いなどはなく、心が澄んでいるのなら、有難いことは迷惑ではないし善意は行き違うことはない。

自分の心を澄ませてみて、自反慎独し全てが有難い御縁であると心から感謝をして御恩に対してすみませんという真心を感じることができるならお互い様の御蔭様に気づいて、善意の行き違いになることも有難迷惑になることもないように思います。

心を澄ませるのは情を整えることでもあります。心を澄ませて情を整えるという順番を間違わないことが本来の善意を盡す方法ではないかと私は思います。情動だけで物事を進めるというのは心が澄まされていないから御蔭様が消失してしまいます。

人間は情が厚いからこその間違いもありますが、それは情を薄くするのではなく情を磨いていくことで澄まされていくと思います。日々は人生道場ですから、言葉、心、行動の一つ一つを丁寧に真心の実践を積み重ねていきたいと思います。

心のふるさと~御縁の暮らし~

年末の「復古創新」の理念研修を迎えるにあたり、温故知新の妙を深めています。古いものを新生し、新たな役割を担っていただきます。永く誰かの御役にたったものや、ずっと誰かに愛されてきたものを感じると心が安らぎます。

先日、十日市町の100年古民家を訪問したときに「思い出」について考える機会がありました。それは古民家再生を手がけるドイツ人建築家カールベンクスさんのHPを知り、そのプロフィールに共感することが記されていたからです。

「『古い家のない町は、思い出のない人と同じです』とは、東山魁夷がわたしにくれた言葉。古い=価値がないのではありません。古いものは、歴史や思いがつまった、単なる”モノ”以上のものなのです。使い捨て、大量消費の文化とともに、日本人はモノを大切にすることを忘れつつあるのかもしれません。この世界に誇れる文化の現状は私にとって残念で悲しいものです。」

今は、大量消費の使い捨て文化の中で新しいものがさも価値があるように宣伝して古いものを捨てていきます。しかし実際は古いものの中には思い出がたくさん詰まっています。物だけではなく人も同じく、「一緒に生きた仲間たち」があって「暮らし」は成り立っているからです。それを何を間違ったか、自分のことだけを心配し、自分の利益ばかりを優先し、自分勝手に我儘ばかりが使い捨て文化の中で助長していくと古いものは邪魔だとさえ考えるようになるようです。

本来、古いものというのは利他に生きた生き方が沢山そのものに詰まっています。それは徳とも言ってもいいかもしれません。物は単なる具ではないからこそ、日本人は具に道をあてて「道具」と呼びました。

物を大切にする「もったいない」という文化は、そこに一緒にお役立ちした仲間たちとの暮らしを何よりも重んじていたから発生した文化ではないでしょうか。

永いもの、古いものは其処にあるだけで心が安心します。

心が安心に落ち着く場所こそ、「思い出の場所」なのです。

大量消費、使い捨てで「思い出」までも捨てていくというのはいかがなものかと思います。それだけ情報化社会の中で、スピードばかりが重視されていますが新しいものばかりに囲まれた生活は果たして仕合わせだと言えるでしょうか。

時間をかけて味わっていく仕合わせというものが「御縁」というものです。

御縁をどのように活かしていくかは、その人の生き方ですから天から頂いたもの、我が家に来ていただいたもの、自分を探し当ててくださったもの、一緒にいたいと思ったもの、そういう一つ一つを大切にする生き方が人間を孤独から遠ざけ、「豊かな暮らし」を与えてくれるのではないかと直感します。心のふるさとは、もったいない暮らしの中に存在するものかもしれません。

まだ実践して間もないのですが、この「心落ち着く」古き善きものに囲まれる暮らしは穏やかな気持ちを与えてくれます。現代に失っていく心を、もう一度暮らしの民具を含め、様々な道具から学び直し、子ども達に伝承していきたいと思います。