バランスの善い人~知行合一~

人は志を持ち、自分から自問自答して場数を体験しなければ学問を大成していくことはできないように思います。教えてもらうことを学びにしている人は、教えてもらおうとする頭ばかりを働かせて頭でっかちになってしまいます。

この頭でっかちとは何か、少し深めてみたいと思います。

もともと頭でっかちとは体に対して頭が不釣合いであることをいいます。それを比喩し、知識は多いけれど実行が伴わないことをいいます。これも今の学校教育の刷り込みの一つだと思いますが知識ばかりを詰め込んでは場数や実行の量が圧倒的に足りないということです。

実行するには心を遣う必要があります。心を遣うと体が動きます、体が動けば心もまた動きます。そしてその中で頭を働かせるという順序が本当の働かせ方のように思います。

世間では何かの道を学ぶとき、心技体のバランスを確認するものです。これは心技体全てを駆使して渾然一体になっているかということです。難しい言い方になりましたが、志を持ち、律儀に場数を踏み大量行動によって自分を育てていけばいいのです。

しかしそれができないのは人には怠惰な精神というものがあります。頭でっかちになってしまうと、如何に楽をしようかと考えてしまうからです。本来、「頭」の仕事というのは身体が無理しすぎないように、心が傷つきすぎないように調整する役割を持っているように思います。

頭があるから、計算して休むことができ、頭があるから、知識によって体験が困難になりすぎないように調整してくれるのです。ただ実際は、頭を優先してしまうと体が動かなくなり精神が着いてこなくなり心を亡くしてしまいます。

常に志を優先し、初志貫徹、何のためにといった初心や目的に照準を合わせて真摯に実地実行を繰り返すことではじめて頭を活かすことができるように思います。

頭が良いのは才能の一つで、頭が良いことで様々な創意工夫やアイデアもまた生み出していきます。だからこそ、まず如何に自分が望む自分を手に入れるために臆病でメンドクサがりな怠け心に打ち克ち苦労や忍耐を学び、日々に己自身との真剣勝負の場数を踏むかが何よりも頭を従い活かすためには大切なのでしょう。

頭で考えたなら、やれないことややりたくないことばかりでしょう。しかし、実際は現場を体験してもらうことでその一つの現場から学んだ有難いご縁や感謝を実感したらもっと実行していきたい、もっと恩返ししたい、もっと成長させてもらいたいと思うのが人間です。

頭も心に追随して困っている人たちに貢献したいと願っていますから、有難い現場をいただいていることにいつも感謝し、その中から学んだ気づきを改善してより行動を増やしていけばいいように思います。

私も今までの人生を思い返せば、行動してきた御蔭様で今が在ります。今の自分を創ってくださったのは出会った方々と尊い体験と、御縁といった場数でした。心が突き動かされるのはその場数に対する感謝があるからかもしれません。

長くなりましたがバランスの善い人というのは、頭を活かして行動が伴う人です。

知行合一に人生の実践を味わい、世のため人のために盡力していきたいと思います。

 

善い一日

日々は毎日、あらゆる出来事に満ちています。自分の主体性が失わなければ人は毎日新しいご縁と感動の中で生きているのです。自分を見失うのも自分、自分を取り戻すのも自分、どれだけ日々に好奇心を失わないように精進するか、そこに魂の磨きがあるように思います。魂を磨くというのは曖昧な感覚で捉えられるものがありますが、それは状況や環境に左右されずに生き切ることができるかということなのでしょう。

人生をどれだけ真剣であったかは何よりもその魂に影響を与えます。人が結果だけを見るのではなくその生き方ともいう経過にどれだけ真摯かは自分の使命の重要性を自覚するからでしょう。自分自身の自覚とは日々の過ごし方が決定づけます。日々を遣い切る、日々を出し切るように真心を絞り出す人の魂はいつも子どもの憧れのまとでありその周囲はいつも光り照らされて観えます。

先日、作家の三浦綾子さんエッセイに触れる機会がありました。その生き方や生き様から学ぶことが多くこのタイミングで有難いご縁をいただきました。

その中の言葉をいくつか紹介します。

「私たちは、毎日生きています。 誰かの人生を生きているわけではないのです。 自分の人生を生きているのです。 きょうの一日は、 あってもなくてもいいという一日ではないのです。 もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、 きょうという一日がどんなに貴重かわからない。」

どれだけ毎日を真摯に生き切るかは、どれだけ自分を誰かのお役に立て切ったかということです。全体のために自分を使うとき、人は自分の考えた一日ではなく自分に与えていただいた大切なご縁に気づきます。そのご縁に気づいたら人は、一日一生の気持ちで生きようと思うのです。死にかけてみてはじめてわかるのが生の有難さです。人はすぐに昨日の繰り返しや、過去から予想して一日を過ごしますが好奇心はそれでは輝きません。常に新しい一日であったか、常に感動と感激を発見しているか、ひとり慎む内省の時間によってそれを育んでいくのでしょう。

私自身も太陽が出てから最大の活動をし、太陽が沈んでから静謐な内省をすればするほどにその間の御縁を通して機縁の奇妙さや不思議に心が感動し魂が揺さぶられます。毎日がかけがえないの記憶の中にあることに感謝する気持ちに満たされ愛に包まれていきます。

人は結局は、一日の過ごし方が一生の過ごし方になります。日々にどれだけ心を遣ったはその人の力量ですが、常に不満から入るのではなく感謝から入ることで自分自身の真の尊さに触れて初心に帰れるのかもしれません。

今の人間は経済的にも環境的にも恵まれすぎて当たり前の豊かさや仕合せを手放してしまったとも言えます。当たり前ではないことに感謝できる感性は、一日一日の過ごし方という実践にてはじめて得られるように思います。わかった気になってはならないのは何よりも毎日毎朝ということです。

最後に三浦綾子さんの言葉です。

「今日という日には、誰もが素人。」

気づけば教えてくださるのに気づくことができない自分がいるだけです。いつも見守られている自分さえ感謝で気づけるなら、大事なことや大切なことは常に日々が私に伝えてきてくださっています。

学びの感性があることそのものに感謝の日々です。毎日が真っ新、毎日が新鮮、毎日が発達、子どもの魂のままに善い一日を過ごしていきたいと思います。

役割意識~人生の目的~

北米インディアンの諺に「7代先の人達のことを考えて生活しなさい」があります。ちょうどこれは200年から300年くらい先のことを考えて今を判断しなさいという教えです。

人は判断をするのにどれくらいの長さで物を観るかでその哲学が変わってきます。今が過去の集積によって存在していることの実感は、同じように先祖たちが考えてくださった未来を今を生きる自分たちが感謝し子孫へ譲っていく思想です。

例えば、食糧でも同じく自分たちの代で食べ尽してしまえば必然的に子どもたちの時には残っていません。子どもたちが貧困で苦しい思いをしてほしくないという思いは誰だって子どもが産まれたら願うものです。そして戦争でも同じく、自分たちの代で戦争をすれば子どもたちには戦禍を遺すことになってしまいます。子どもたちが悲劇に見舞われないようにという願いは同じように誰にでもあるのです。

しかし今の人たちは意図的に操作された自我優先の慾環境によって盲目に刷り込まれ自分たちの身の上のことばかりを思い煩い、先々のためにどう生きるかということを優先することができません。まるでそれは自転車操業のように、走り続けなければ倒れてしまうと思い込んでいるように働きに働きづくめで忙しさに心を取り戻せません。

空の悠久に流れる星々をみつめて今世の自分の役割を果たそうなどと考える時間もないほどです。

北米のインディアンたちは、太古の昔から「自分のいのちは役割を果たすためにある」といった哲学をもって生き抜いてきました。何よりも優先するのが使命や役割だったのです。「グレートスピリッツ」という全自然の偉大な大生霊の循環によって産み出された自分の存在を生き活かそうとするのです。

それは自分が男や女、またどの家系に紐づいているか、その今の自分そのものの全体の中の役割に生き切ろうとするのです。

その役割についても徹底してて、部族の役割の頂点にいるのが酋長です。この酋長は全ての物を全ての人に分け与える存在として選ばれます。従って酋長は一切資産資材を持たず、一族の中では最も質素な暮らしをしていて全体のために自分の役割を生き切るのです。

役割意識というものは、何よりも大事な意識です。

自分の人生を役割だと思えるか、その役割を果たそうと実感できるか、そこには謙虚な生き方があります。自分の生とその自分に与えられた役割に素直に感謝できるとき、今の自分が見守られていることを知ります。そして満たされている存在、足るを知ることによりその御蔭様に対して御恩返しをしたいという願いがでてきます。

その時、はじめて自分がどう生きたいか活かされている自分をどうしていきたいかという人生の目的に出会うのです。

どんな人もどんな動物草木昆虫菌類、無機質のものにいたるまで役割があるから一緒に暮らしているのです。お互いが違う役割を求めるとき、人は生きる意味を見失うように思います。

自分探しや自分の目的など色々と彷徨っている話を聴きますが、大切なのは与えられた役割に気づき役割を果たすことに専念することのように思います。

「自分のいのちは活かされている」という実感があって人は目的に出会うのでしょう。

役割を果たせるように今日も未来永劫に続き未来の子どもたちと、宇宙や世界全体のために今できることに専念していきたいと思います。

 

この酋長はもっとも

私たちの実践~守りたいもの~

今の時代は経済優先の競争社会が当たり前の環境の中に蔓延っています。豊かさの定義は経済力でありその経済力というパワーを持っている人ほど豊かであると周りも羨ましがるものです。

実際に世界では経済力を持たなくても仕合せに暮らす人々もいます。それはかつての先住民族や農耕民族、今の西洋文明が入り込んでいないところで何千年も前から同じ暮らしをする民族たちです。

以前、ブータン王国のことを調べたことがありますがその発展の度合いを測るのにGDP(Gross Domestic Product/国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness/国民総幸福量)を使っているとありました。

つまりは幸福の定義をお金ではなく、仕合せかで量ろうというものです。簡単に言えば、どれだけ今の自分が豊かであるか貧しいかを量るブータン独自のモノサシを持とうというものです。

グローバリゼーションが広がると、そこには今までの豊かさを経済の持つ豊かさに変えてしまいます。今までの「ゆったり生きること、手間暇をかけること、一緒にやること、楽しく面白く過ごすこと」を優先してきた先祖たちの生き方を、「早く効率よく済ませること、便利であること、一人でもできること、勤勉にやること」を優先する生き方に変えてしまい、その分だけお金(豊か)が得られるという謳い文句で人々の生き方を操作していくのです。

人間の慾を優先するか、それとも自然の道理に沿う命を優先するか、それを決めるのは自分自身なのです。

敢えて今の時代に刷り込みを取り除こうとするのであれば、心を強くしていくしかありません。心が本来の目指す生き方を選ぶなら環境に左右されない真の強さを育てあげていけるからです。本来の生き方を守りながら文明と上手に付き合っていける国際世界人に近づいていくからです。

今まで人間は何度も文明の崩壊を繰り返してきました。それは歴史を観れば一目瞭然です。あれだけ繁栄発展した古代文明も等しく滅んでいます。しかしその中でも滅ばずに生き残っている先住民族たちがいるのを忘れてはなりません。その先住民族たちがなぜ今も生き残り今でもこの世に存在するか、そこに共通するものが悠久を生きる鍵なのです。

私にはそれは自然に沿って暮らし、人との結びつき大切にし絆を守った人たちに観えます。

果たしてこのままどこまで人間の慾が金融を操り臨界期まで突入するか、原発の事故のようななれの果てまでいくのはそう時間がかからないようにも思えます。だからこそ、その警告を真摯に受け止め、世界に生き方と働き方を示していきたいと思うのです。

文化と文明は、自然と人間のかかわりのように一体になって時代に息づいています。子ども第一主義の理念に従い、地道にコツコツと根強く耐えて実践を続けながら天機を待ちたいと思います。

自然循環と人間社會~天命畏、徳性尊~

以前、「なぜ新宿で自然に沿った生き方をするのか」とある人に聴かれたことがあります。里山か田舎にいけば、田もあり土もあり、自然はあるのに東京都庁の隣の大都会でなぜかとありました。

そのことを少しここで書いてみます。

そもそも都会というものは、人間が生み出した社會のことです。この社會とは人間だけを中心にどのような暮らしをその中で行うかを考えて人工的に創りだされたものです。私たちは集団をつくりその集団の中でお互いが生き残るために力を合わせて生きていく仕組みを開発してきました。

その社會の中には、思いやりが中心に据えられ人のぬくもりを感じながら安心して暮らし続けてきました。人間社會という言葉にある通り、人間が社會であり、社會が人間ということです。

また同時に地球の中に住まう私たちは地球の一部です。地球の一部であるというのは地球のリズムに沿って生きているとも言えます。四季があるように、昼と夜があるように自然は一定のリズムを持ちます。その自然のリズムに沿って生きるというのは、人間社會とは別に存在している自然循環です。先ほどの人間社會に対し、自然循環というのも自然は循環であり、循環が自然のことです。

人はこの自然循環を優先し、そのあとに人間社會を実践することが調和を創ります。里山の原理も同じく、問題は自然に沿っているかどうかということが問われているのです。

都会の中にいても自然に沿っているならば、私たちは自然の浄化を邪魔することもなく持続可能で豊かな生き方をしていくことができます。人間社會のみの発展だけに特化し経済競争だけを中心にしていけば勤勉であることが美徳のように語られます。

しかし本来は勤勉とは、その背景に楽しさがあってのことです。日本人が勤勉だから美徳ではなく、日本人は働くことが大好きな民族なのです。つまりは道楽者が多いということ、働ける仕合せを実感して生きる御蔭様や感謝の真心のままに素直に生きてきた民族であったのです。

世界からは勤勉だから経済大国になったと目標にされますが本来、自然に沿って暮らしていつつも感謝を忘れないで生きてきた私たちは働く仕合せがあったから結果として経済も発展したのです。

豊かさについては色々という人もいますが、私が思う真の豊かさというものは自然に沿った生き方をし人間を大切に思いやり正直に明るく楽しく暮らしていくことです。

私が新宿で子ども第一主義の理念を掲げ実践を増やし続けているのも、そういう本来の生き方を環境や状況に左右されずに成し遂げていこうとする初心を忘れないためでもあります。

子どもたちはこの加速した都市化していく暮らしの中で希望や夢を失うことがないように、私たち今の大人が天命を畏れ徳性を尊び、御蔭様に感謝しぬくもりや思いやり大切にして実績を遺してあげることだと思います。

自らが挑戦してモデルになることで必ず子どもたちの勇気になっていくと思います。

忙しさに負けない心の強さとやさしさ、真の豊かさを味わえる高い心を道を共にする仲間たちとともに大事に育てていきたと思います。

 

朝の生き方~生活リズム~

生き物にはリズムがあります、それを生活リズムとも呼びます。これは動物でも人間でも全ての生き物は、地球の鼓動や呼吸と同じように自分たちもそれを行っています。

例えば、朝になれば鳥が鳴きはじめ活動をはじめるようにいつも同じリズムで活動します。ベランダに飛来してくる雀もいつも同じ時間にやってきては朝食をとり、その後は縄張りのチェックや他の鳥と遊びコミュニケーションをとっています。

これは鳥にも限らず、人間も一定の生活リズムで中心を持っていて多生のズレは修正できますが大きなズレになると体調や精神が不安定になって病気になったりするのです。

この生活リズムのことを別の言い方では生活習慣といいます。

その人がどんな生活習慣を持っているかがつまり生活リズムがどうなっているかということなのです。これが現代人は、自然から離れた生活をしていく中で頭で時計ばかりをみて時間に合わせ過ぎているうちに自分の生活が乱れてしまっているといいます。

この乱れの原因は、食事や睡眠、運動、感覚などから影響を受けています。なぜかいつもバランスが悪くて集中できない人や、不自然な姿が気になる人はその生活習慣を立て直すことからやらないと本に戻れません。

生活習慣のリハビリをし生活リズムを立て直すことから行うことで心身が調和しバランスの善い暮らし、つまりは充実した日々を過ごすことができるように思います。

そのためには「朝練」を行うことが善いと私は実感しています。朝同じ時間に起きること、そして運動をし、その後、お腹がすくので朝食を食べることです。朝の起きる時間にこの睡眠、運動、食事、呼吸、初心、感覚を澄ませることで生活リズムをスタートできます。

リズムというのは、最初が肝心で何処を中心にしどこから始まるかで終わりが観えてきます。その始まりがズレている人ではどんなに途中で修正しても終わりが観えません。見通しというのは、そのはじまりのリズムを持っていてできるものですから一日の朝にしっかりと立て直しておけばその日のリズムはつかめるのです。

朝寝坊をしたり朝食を抜いたりは生活リズムが乱れる根本原因になります。

子どもたちは大人たちの生活リズムのせいで同じリズムを強要されて子ども自身が色々な発達に悪影響が出ています。一日一日の生活の積み重ねが一年でありそれが一生になるのが人生です。

大人の悪影響のモデルにならないように、子ども第一主義の理念の実践としての「朝の生き方」を大切に生活リズムを積み重ねていきたいと思います。

観通し力~いのちのままに~

人は経験してくることで伸びてくる本当の力というものがあります。

それは「観通し力」です。

この観通し力とは何か、深めてみたいと思います。

そもそも経験や体験というものは、その人の求める質量によって変化します。日々を過ごすのに、もし今日が人生最期の日だと思って過ごしている人と、いつも通りに過ぎていく消化試合のように過ごす人では同じ一日でも全く異なる一日を過ごします。

つまり体験や経験というものは単に「すればいい」のではなく、「実践すればいい」のです。言い換えれば、流されている場合ではなく自分から主体的に覚悟を決めて義務を甘受すればいいのです。

自分に与えれた天命を畏れ、徳性を尊び、道を真摯に切り拓いていくのが本当の人生の意味だからです。

しかし実際は、せっかく与えてくださった機会や環境に気づかずに不平不満やすぐに他人に矢印を向けては何かにつけて誰かのせいにして自分の問題だと気付かずに感情に呑みこまれたもったいない日々を悶々と過ごしていることが多いのです。

同じ一日にしても「実践しよう」と決心している日々は確かに積み上がっていくものです。しかし決めていない日々はいつまでもすることばかりに追われる忙しさに己自身が負けてしまうのです。自分に打ち克っていくというのは、一日一日、一瞬一瞬の過ごし方であるのです。

そしてその積み上げた先につく力こそ「観通し力」であると思います。

これは信じて実践してきてはじめて備わる力です。自分が信じているからこそ目先に囚われない、自分の小我に翻弄されない、焦らない、惑わない、悩まない、いつも明るく健やかに逞しく日々に笑顔で正対していくことができるのです。

観通すということは、それだけ長い目で偉大な視野で今此処が何に繋がっているのかの御縁を感じているということでもあります。今の自分をどれだけ真摯に生き切るか、それは日々を如何に出し切るか、言い換えれば「天命に任せ人事を盡してきたか」という自戒自省への問いを持ち続けているということです。

本気で生きた人生だけが真実であり、産まれてきた以上いかに自分の志を高め魂を磨くかはその人に与えられた日々の過ごし方で決まります。正解のない人生にもしも正解を求めるとすればそれは生き様ということでしょう。

そしてリーダーと呼ばれる人たちが自然に観通しがついてくるのはその生き方が「真摯」であるからでしょう。何を真似し何を見習うかは、目には観えないところのその人の「覚悟力」かもしれません。

どんな尊敬する先師、先覚者も先達者も皆等しく苦労して努力して精進しその日々の積み重ねではじめて偉大なことを成し得ています。本来の学び方というのはその生き方生き様に自分の生死間を照らしていくことなのです。因果応報が観えるのもまたその真摯に生きる人だからこそ実感できるのでしょう。

まだまだもったいない日々を過ごしていないか、今一度自分に問い直し、かけがえのない環境に感謝していのちのままにかんながらの道を創造していきたいと思います。

日々は常に貴重な学びの愉しさに満ちています、好奇心全開で楽問していきたいと思います。

自分の道~人生の醍醐味~

人間にはそれぞれに与えられた人生があります。産まれた時から今に至るまで、その人にもっとも相応しいものを与えてもらい今の自分が存在します。自分というものの認識は、今与えられている全てに感謝できるときにだけ本来の自分であることができるものです。

しかし人は不平不満から与えられていることよりも、不足していることの方にばかりに関心を抱き、今を受け容れることをしないものです。

その代表的なものが「自分で決める」「自分で歩く」ということの放棄です。

物事に限らず全ての機縁は、来たものの選択によって左右します。言い換えれば日々は全てにおいて「選択と判断」によって大きく変化していくからです。来たものに対してどちらを選んだかで未来は全て変わっていきます。

来たものに対して自分にとって都合の良い方ばかり選ぶ人と、来たものに対して自分にとっては都合が悪くてもそれ以上の大切なもののために最善を選ぶ人と、それはその人の生き方といった判断基準によって変わってくるものです。

ある人はチャンスをすべて棒に振り、ある人はチャンスは全て活かすのです。それは判断次第ですが、その判断がまともにできるのなら人間はみんな完璧な存在になります。しかし人間は本来、与えられた役目がありますから完全な存在です。それを前提に物事を省みると、来たものを選ばないことが最も今の自分に相応しいということになるのです。

そしてその時、同じ出来事を通過してもその体験の質を考えないといけません。つまりは、その道は与えられたものを歩かされているのか、それとも自らが歩んだかということです。

もしもその人が自らの運命を信じてすべて来たものを選ばないと決めているなら、矛盾していますが本当の意味で選ぶことを決めなければなりません。向こうから日々に訪れた時処位に対して歩かされてしまうのか、やらされてしまうのか、それとも自らが歩むのか、自らで決心したのかは唯一その瞬間瞬間に選択できるものだからです。

人生というものは、外側の世界をどうするかではなく自分の内側の己に対して如何に正直に素直にいるかということが本当の勝負です。だからこそ、目の前の出来事に対して頭ばかりを使うのではなく、出来事を心を味わい、それに対して自らが積極的に決心をし進んで義務を甘んじる勇気と実践が何よりも大切なのです。

日々の仕事にしても、やらされている人は与えられているものを結局はちゃんと受け止めずそして単にそれをこなしているだけで敷かれたレールの上を背中を押されて歩まされているだけになります。人生は一度きりですから、レールがあるならそのレールを自らの決心で受け容れ、自らの足で歩んだときそのレールは最幸のレールになるのです。

親のレールであれ、誰かのレールであれ、今のあなたがいるのはそれはもっとも相応しいからそこに在るのですから文句を言う前に大事なのはそのレールに感謝しそのレールを自分のものにする覚悟こそ「道」だと思います。

道を単なる道路にしてしまえば目的地までいくのは自分勝手にできるのかもしれません。しかし道は単なるレールでも道路でもなく、あなたに与えられた唯一無二の道なのです。

道は自らの足で歩んでこそです。

本当の自分を取り戻すには、何よりも日々の瞬間瞬間を選ばずに選び自らの足で道を「切り開き踏み締める」ことで得られると思います。人生は気づけば何度でもやり直せるのも道の御蔭様です。

子どもたちに見せられる背中を歩んでいきたいと思います。

多生の縁~志事と仕合せ~

自他一体の話をブログでも書いてきました。これは自分と人とを分けないということですが、もっと卑近なところでどのように訓練をするのかを書いてみようと思います。

そもそも自他一体である必要がある理由は、他人ごとにすることで様々な問題が起きるからです。

仕事でもなんでもそうですが自分の事とは思わず他人ごととして相談にのってもその人が助かるアドバイスができません。それはその問題の本質を自分のものとして捉えていないからです。つまりは自分のものではない仕事は、そのまま仕事ではないということです。

先日テレビ番組でカラオケで得点を競うものの中で、ある人の歌が他人の歌を自分のものにしていたという解説がありました。あれと同じく、誰かの歌をただ歌っているだけでは心に響くものはありません。誰かの歌を自分の歌にしてはじめて周りにその歌の本質を自分なりに伝え感動させることができるのです。

言葉も同じです。

他人の言葉をいくらなぞって象ってそのまま伝えてみてもそれは相手には響きません。他人の言葉で感動しても、その言葉を自分のものとしてはじめて相手はその言葉に感動するのです。

これは先ほど自他一体に近い話で、仕事は全てにおいて「自分のもの」にしていく必要があります。いくら頭で理解してもそれが「他人のもの」になったままでは仕事にはならないからです。

先ほどの歌の事例ならば納得するまで徹底して共感して歌いこんでその歌の本質をもとの歌者の心を掴み納得するなどの過程があるのです。仕事でも同じく、本来の仕事の意味や定義を納得するまでやり込んでいないと決して本来の仕事にはならないのです。

如何にどんな出来事も仕事も「自分のもの」として捉えるか、それが分けないということなのです。これは自分には関係ないからと分けると、その分けたところが他人のものになっていくところです。

どんな出来事も自分には必要な尊いご縁しか発生しないのが人生です。いくら関係ないとめんどくさがっても事実、そのことが自分の人生に多大な影響を与えているのはすぐに時間が経てば自明します。だからこそ、他人ごととは思わずすべてを自分事にし、目の前の人の問題はまるで自分の問題そのものだと親身に親切になりきってこそ自他一体になったと言えると思います。

心が成熟して技術も精神も練り上がっていくと、人は次第に自他一体になっていきます。つまりはご縁の活かし方に長けてくるということです。人はご縁によって教え教えられ成長しますから一期一会の御縁をどれだけ大切にしているかが何よりも重要なのです。

全ての御縁を「自分のもの」にしていくのが、すべての御縁を「他生(多生)の縁」にしていくことです。如何に日々の生活の中で絆を大切に生きていくかは、全てのことを志事だと真摯に訪れた機会を最大限活かすことです。

自分の都合で物事を捉えずに、常にゼロベースで意味を感じ取り他人の仕合せを自分に仕合せにして歩んでいきたいと思います。

いのちの徳性~万物の霊長~

「万物の霊長」という言葉があります。これは孔子の編纂した書経(秦誓上)の中に人類というものを解釈して書き記されたものです。実際に何を目指して人類は万物の霊長たれと孔子は言ったのか、それを理解している人が少ないように思います。

自分たちが動物たちや食物連鎖のトップだから霊長というわけでもなく、他の動物よりも寿命が長いから霊長であるというわけでもありません。その本質について深めてみようと思います。

そもそも私たちをはじめすべての生き物は、何を伸ばしていきたいかというものがあります。それは進化でも証明されています。生き物にはそれぞれに特有の固有の能力があります。

鳥であれば空を自由に飛び回りますし、魚は自由に泳げます。地上を走る動物たちもいます。そしてそれはさらに分化し飛び方から泳ぎ方、走り方に至るまで、あらゆる自分たちの特性を活かして進化成長を続けるのです。それは私たちが真似と道具を使う能力があるように、他の生き物たちもまたそれぞれに自分たちの得意分野で能力を伸ばします。

それでは孔子はこの能力がどんな動物よりも高く優れているから万物の霊長といったのか、私はそうではないと思います。

動物だけではなく樹木までありとあらゆる生き物には心があります。その心とは人間にわかるように話せば他を思いやる心があるということです。これは能力の特性ではなく「いのちの徳性」と名付けてもいいかもしれません。活かされている存在だからこそ備わっている唯一無二の徳性です。

このいのちの徳性を伸ばしていくことでどんな生き物よりも思いやりが長けている存在、それこそが万物の霊長であると孔子は定義したのではないかと私には直感するのです。なぜならそれが孔子が目指した理想でもあり、私たちをはじめ地球に生きているすべてのいのちを奥深く見つめ感謝し哲学する生き物たちが目指すところだからです。

例えばあのクジラやゾウなど、脳にシワが沢山刻まれている生き物たちのシワは私たち人間のように余分な知識を詰め込んでシワが多いのではありません。非科学的だと笑われるかもしれませんが、あのシワは思いやりや真心を伸ばしてきてついたシワです。樹木であればあの年輪こそがシワなのです。そしてあのシワはいのちの徳性を伸ばした生き方や哲学によって深く思いやりを学んでいる証拠だと私には思えます。

家族を大切にしたり、他の生き物たちを大切にする、その思いやりの心がまるで太陽や月、地球のような偉大な慈愛慈悲を持てるようになってはじめて「万物の霊長」、つまりは「いのちの徳性」を伸ばしたものというのでしょう。

私たちが本来、磨かないといけないものは単なる能力ではないように思います。それはあくまで付属的要素であり本質ではありません。私たちがこれだけ自由に地球の中で生きることができることに感謝するなら私たちに与えられている大きな使命をも同時に感じなければなりません。

能力ばかりで他を裁き押さえつけ排除するのではなく、思いやりの心で他と共生し他を活かすことを本懐や使命にすることのように私は思います。

孔子の言う、「万物の霊長」として恥じないように他の偉大な生き物たちの思いやりを尊敬し自らの真心、「いのちの徳性」をかんながらの道の中で磨いていきたいと思います。