育て方

野菜にも御米にも今の育て方とかつての育て方があります。今の時代は、一斉に成長させ一斉に収穫するという育て方が主流ですから、かつてのような固定種で骨が折れるような手間暇かかるものよりも品種改良と農薬と肥料で機械によって簡単に一気にできるものになりました。

何を優先するかで「育て方」というものは変わってきます。

食べ物も安全安心で美味しいものを作るときの育て方と、収入やお金を優先して美味しいものを作るときの育て方は全くというほど異なるのです。

例えば、かつては薬や肥料は木酢や堆肥でしたから虫たちを殺すというよりは忌避したり肥料も科学的な窒素やリンなどよりも人糞や鶏糞など身近な微生物の亡骸を利用しました。苗作りに時間をかけたり、蒔くタイミングを間違えなかったり、他の雑草や微生物との共生環境を維持育成したりと、薬や肥料を使わない分、自然を観察して自然に沿って取り組んでいかなければなりません。育て方も、自分都合で育ちませんからよく観察して接していかなければなりません。見た目のよさよりも食べる物なので安心で安全な自然のものを育てようとしました。

それに対し今の農業は、見た目の美しさで金額が変わるためにありとあらゆる虫たちが作物を食べないように薬を用います。また出荷する前にも、野菜や果物がくたびれないようにまた別の薬を散布します。とにかく作る前から作った後まで薬漬けである農法は今では当たり前なのです。そしてその種もまた、改良されたくさんの肥料が必要で薬にも強いものが作られて売られるのです。その種や苗で育てる場合は以上のことに合わせた育て方でなければうまく育ちません。マーケットに対して作物を育てますから如何にマーケットで沢山売れる商品を作るかに傾倒していくのです。

だからといって昔の農業に全部戻すというような乱暴な話をしているわけではなく、何を変えて何を変えないかを決めなければならないということなのです。

つまりは理念を定める必要があるということです。

本来、安心安全というのは食べるものですから当然それが優先されるべきです。そしてそのうえでマーケットに合わせられるところを合わせるという具合です。先日の藤崎農園さんは、「安心安全でお客様が喜ぶ美味しい御米」が理念でした。

変えないものと変えるものがはっきりしています、その育て方が不耕起栽培の自然耕ということです。

育て方に理念が出ますから、育て方を観ればその人の目指すところが分かるとも言います。育て方を直すというのは、理念を直すということです。自分がどのように育ってきかたも気付かなければなりませんし、これからどのような育ち方をするかも人間なら自分で選択しなけれなりません。

もしもこれが人間なら人間学を学び善良な人格を育て、そのうえで今の社會に必要な先端技術を身に着けることでしょう。そして本来、会社というのは生き方を集めた場所です、言い換えれば田んぼであり畑であるのです。その農地や畑をどうするか、そしてそこで育つものたちがどのような育ち方をするかでその会社の理念がはっきりするのです。

理念を優先するというのは、周りの環境に左右されずに自分が決めた信念を貫くということです。そしてそれは周りに反対するのではなく、周りの中でも自立して多様性を維持するということです。

謙虚で素直でなければ難しいことですが、敢えて子どもたちのために育て方の温故知新に挑戦していきたいと思います。

苗半作~厳父と慈母~

先日、百姓コーディネーターからの研修の中で「苗半作」のお話をお聴きしました。この苗半作とは「御米の出来は苗育てで半分が決まる」ということだそうです。

そしてこれは御米に限らずすべての野菜や植物がその苗の育ちの善し悪し によってその後の作物の生育に大きく影響するということです。

自然農で野菜を育てていると、最初の苗の環境がどのようであるか、その苗にどれくらい配慮したかでその後の主体としてのいのちの育ち方もまた変わってくるのははっきりしています。

たとえ大きな気候変動にも耐え忍ぶことができ、病気や虫がつきにくくなり、健康でたくさんの実と種をつけることができます。

言い換えれば、健やかで逞しい一生を送ることができるのです。

この苗半作の時期は人間でいえば幼児期であり、如何に幼少期に健全に健康な環境があったかがその後の人生に大きな影響を与えてしまうということです。

できるならばすべての親ならばみんな子どもたちには自然のままに健康に強く逞しく元気に育ってほしいと思います。色々な困難があっても、それを前向きに乗り越えて立派な実と種をつけてほしいと願うものです。だからこそ私もこの「苗半作」が何よりも重要ではないかと思います。

来年は百姓コーディネーターのご協力のもと、この智慧を学び直せるのが愉しみです。

またこの苗半作を改めて考えてみると、今取り組んでいる自然養鶏の烏骨鶏の育雛につながってきます。烏骨鶏も季節の変わり目、春先と秋先に卵を温めはじめるのですが産まれた雛は食べ物はまだありますが気候はとても寒暖差が激しい時期に育まれます。

寒暖差が激しいということは、それだけ環境の変化を受けているということです。その環境の変化の中で周りに関わる暖かい真心を受けているということです。厳父と慈母のもと、子どもは健全に育つといわれますが何が厳父で何が慈母だったのかというのを今回のことで悟った気がします。

自然の智慧というものは、本には書かれませんが確かに存在します。その知恵をどう継承するかというのは本能で行います。その本能を喪失するような知識は果たして世の中を救う本当の智慧なのかというと私には大変疑問に思います。本能が減退していない人が持つ知識というものが本物の洗練された知識なのかもしれません。

引き続き、自然をお手本に先人の智慧を継承しつつ洗練された知識を形にし世の中に還元できるよう日々の実践を深めていきたいと思います。

 

徳~恩沢洪大~

実りの秋のことを思い返していると、如何にこれが天地人の恩恵によって得られているかを実感します。御米だけではなく様々な作物もそれを一緒に食べる家族のことを思っても、如何に多くの自然やご縁に佑けられているかを思うのです。

そもそも今の自分があるのは、先祖の遺徳があってこそです。この身体もこの感情もそして心も、また名前から住居、関わりにいたるまで目に見えるところから目には観得ないところまで私たちは祖神や先祖の恵みによって存在しているわけです。

恩沢洪大な徳は、あまりにも大きすぎてまるで宇宙や地球のように当たり前すぎて実感することもなくなってきたかもしれませんが確実にその恩恵をいただいて私たちは今、生き活かされています。

そういうものを忘れて自分の代のことだけを考えて欲に任せて今を貪ったり、恩恵を自分が全部使い果たすような生活を続けたらそのうちその徳がなくなり、自分の代だけではなくその子孫にまで影響を与えてしまうように思います。

今の収穫だけを求めて農薬や化学肥料をまき続け与え続けた土地が枯れて砂漠化していくように、徳を忘れて今だけを凌ごうとすれば自ずからその徳恵は消失していくのでしょう。これは生き方の問題で、如何に恩徳を実感して感謝でもっと恩返しをしたいと願い祈り実践しているかで本来の今との正対が決まってくるのです。

豊かな人というのは、ものを持っているから豊かではなくその恩徳をいただいていることに気づいて御恩返しをしたいと願っているから豊かなのです。お役に立つのも自分のためではなく、自分がいただいているのだからその恩沢洪大な徳を周囲へと恩を送りたいという人が真に自然に沿った生き方をしているともいえるのでしょう。

二宮尊徳の「仕法書」の中で、下記の言葉が遺っています。これは真に豊かな生き方を照らす時にとても大切で、本来の貧富の本質を捉えています。

「人は諸々の恩沢を受けているのにもかかわらず、その恩沢に報いないことがある。徳に報いようとしない者は、自己の将来の幸福のみを考え、自己が受けた恩徳を大切にしないので、結局地位を失い、自己の徳をなくしてしまうのである。逆に恩沢に報いようとする者は、自己の幸福を後回しにして、祖先の丹精を大切にするので、地位を受け継ぎ、富貴を失うことがない。徳に報いることを何よりも優先すべきである」

そして「徳に報いることは百行の長、万善の先」であると言います。

何より、不平不満を並べては境遇を嘆くよりも本来の徳があることを自覚しているか、そしてその徳に報いているのかと自問自答するのです。そのうえで、何よりも徳に報いる実践をするのが何よりも先ではないかと諭すのです。

すべての善いことよりも先にあるのが徳、そして何よりの行いよりも長けているものが徳なのだということです。徳は利己的であるほどに気づきませんが、利他に生きればすぐに実感できるものです。

自分が与えてもらった徳を如何に活かすかはその人の決心次第です。

徳に感謝し恩に報いる生き方を大切にしていきたいと思います。

本物の技術~徳技術~

昨日のCNNニュース(2014.9.21)で中国の人たちが米国のトウモロコシの種を盗んで問題になっているという報道がありました。この理由は、近年トウモロコシの輸入や生産が多くなっている中国国内用の需要のために必要だからとのことです。そのために長い時間かけて研究された遺伝子組み換えし交雑された種と干ばつや害虫に耐用しているテクノロジーを安易に国内の生産に実用したいようです。米国もその技術が盗まれないように国家をあげて機密保持に取り組んでいるようです。

急な経済成長と人口増加に環境や食がついてこないから需要が急増している分、誰かにとってはビジネスチャンスなのでしょう。しかしこの出来事全体に何か視野の狭さと短さを感じてしまいます。

そもそも、最初にこの技術について思うのですが米国では長年土を痛めつけるような農法を行い、地下水脈をあるだけ使い切り、農薬を散布し害虫を駆除してきたことで酷い干ばつが起きているといわれます。干ばつが起きれば農業は打撃を受けますから、その干ばつに耐えるだけの作物を遺伝子組み換えによって育てます。それでも酷い干ばつの場合は、さらにそれに耐用する種を育てます。まさに、気が付けば見た目はトウモロコシでも中身は別物になっているかもしれません。

また害虫といっても、いつも虫を全滅させているからお互いに食べる相手が見つからず一つの種類だけが大量に発生することで害虫になるのです。自然界のバランスを崩しておいてそれを人間の思い通りにしようとするテクノロジーをばかりを優先してきたら干ばつが急激に発生して砂漠化が進んでいるのです。

中国も急な経済発展で北京の周りには工場が増産され、今ではPM2.5をはじめ様々な化学物質が都市の空を覆い、年に晴れ間が実感できるのも2,3日ほどとのことです。砂漠も年々首都に近づいてきていますからこんな状況をまた打開するために人間都合のテクノロジーを駆使しても焼け石に水なのです。

先祖や祖神は、とても長い目で広い視野で物事を捉えました。目先の欲望を優先したらどういうことになるかを戒め、いつも自然とのバランスを優先してきました。私たちの存在が自然の一部であることを忘れませんでした。人間だけがいる世界だとは思っていませんでした。

気が付けば、人間だけがすべてかのようにふるまい、周りの生き物たちのことを思いやらず、自分たちだけに良いようにと競争しては奪い合い、自分勝手な正義を振りかざしてはさもそれが絶対かのように思い込んでいます。そんな中で生まれてくる最新の技術というものは、すぐに人間の思い通りにできる技術のことです。果たしてそれが本物の技術なのかと思えるのです。人間だけが認める技術など、たいしたことはなく、それはむしろ小手先の便利な技術のことです。

本物の技術とは、自然が認める技術です。それは悠久の時を経てもいまだに褪せないか、自然全体を活かしているか、無理をせずに自然の道に沿って謙虚に人間が生きようとするか、そういう技術です。

私はそれを徳技術と呼びます。発酵もその徳技術の一つですし、杜づくりや治水も同じく徳を重んじます。今の時代のような徳を重んじない技術はすべて人間都合です。何が徳かではなく、何が得かの時代ですから技術もまた得する人たちによって奪い合いその技術が適応されていくのでしょう。

本物の職人がいなくなってきたのも、そういう得を社會が重んじているからでしょう。短期的にはメリットがあっても、長期的には大変なデメリットになると知っていてもそれを誰かがやれば我先にと飛びつくのが流行というものですから、いつの時代も不易と流行は変わらないのです。

中国の古典、「易経」に、「時流にのる者は時流によって滅ぶ。君子は時流にのってはならない。時中しなければならない。」にありますがここからも不易と流行に時中するのが徳に根差しているということが分かります。

長くなりましたが、今こそ「徳」というものがなんであるかを研究する必要があると思います。孔子は論語を通して為政者のための学問を実践したといわれます、為政者のためとはなぜか、それは政治が悪なのではなく政治を行う人間を善くしようとしたためです。

その政治を善くする人間を育てる人間学には何よりも徳を重んじます。以前、致知出版社を訪問した際に社長から「徳」と書きなさいと言われたことが今ではしみじみとその意味の深淵さに触れています。

人間がどうなっているかで、その技術も変わるということがこれではっきりしたように思います。人間が自然のバランスを維持できていた時のような本物の技術が消えていく昨今にとても心苦しく子どもたちのことを思えば嘆きたくなります。

しかしだからこそ、自分たちが正しくその文化を継承していけばそれを拾ってくれる人もいるはずです。思い出せなくなるくらい目先のことに流されてしまわないように、地に根差し自然から学ぶことを忘れないでいたいと思います。

本物の技術は人を救うだけではなく、世界を救う技術なのですから。まだまだ研鑽を積み、今の人たちが価値がないと捨てた技術を太古に思いを馳せて拾って広めていきたいと思います。見守るという信の技術もまた今の時代に必要な技術です、一緒に実践し深め広めていきたいと思います。

真の発酵人~地球が喜ぶか~

人間の腸内には今わかっている範囲で100種類以上、100兆以上の膨大な微生物が生息しています。その微生物群の状況は、人間の指紋と同じく一人ひとり同じものはまったくないといいます。つまり、その人の体の状態に合わせてバランスよく微生物が配置されているということです。

この微生物たちが人間を活かしているのは、この微生物が食事をしたものを消化して発酵することで人間のエネルギーに転換されるからです。これは植物の根粒菌と同じく、土の栄養も根っ子の微生物がいなければエネルギーに転換されないように人間の根も同じく腸の微生物が栄養を転換しているのです。その根粒菌が死滅すれば植物が死滅するように、人間の腸内細菌が死滅すれば同じく死滅するのです。

その腸内細菌は、常にバランスを維持しています。健康も不健康も、その人の腸内の微生物の環境によって左右されていきます。よく生活の立て直しは、食の立て直しからといわれる所以もまたその腸内のバランスを立て直すことをいうのです。

先日、ナショナルジオグラフィックのニュース(「Nature」誌オンライン版に9月17日)で興味深い記事がありました。

「「ただより高いものはない」という言葉があるが、最新の研究によると、“カロリーゼロ”食品に使われる人工甘味料にも当てはまるようだ。イスラエルの研究チームは17日、サッカリンなどの人工甘味料は腸内細菌を変化させて血糖値レベルを引き上げる可能性があると発表した。砂糖の代用品である人工甘味料が、避けるべき状況を逆に招いていることになる。」

これは砂糖も人口甘味料も同じく、腸内細菌のバランスが炎症に傾き血糖値を変化させてしまっているということです。結局は添加物というものが腸内に与えている影響がとても大きいということを結論付けます。

今の時代は、日常は意識していませんが今の日本では年間平均4キロの合成添加物を摂取していることになっています。これを10年続ければ当然40キロ、20年では80キロというように自分の体重を超えるほどのものを摂取し続けているのです。

ひとたび合成添加物が入ってくると乳酸菌よりも、その添加物を分解吸収しようと日頃は日和見でいる菌や敢えて炎症を起こすような悪玉菌が活動してエネルギー転換しようとします。そうすると腸内のバランスもまた崩れ、それが人体に影響を及ぼし調子を悪くしてしまうのです。

昔から日本人が大事にしてきた「菌食」というのは、乳酸菌発酵食のことです。菌食をやめれば心身のバランスが崩れると言われるのもその理由からです。昔から大事にしていた味噌汁などの麹、漬物などの乳酸酵母菌、玄米などが持つ玄米発酵などをやめて安易にお菓子やコンビニで買えるようなもので代用するから心身の調和が保てなくなってきているのです。

体というのは心と密接で、病気になれば体だけではなく心にもダメージを受けますから心を健康にするのは体が健康でなければなりません。心身を健康に保つというのは、食生活を改善するということです。そして食生活というのは、言い換えれば生き方ですから生き方を改善するということになります。

眼には見えないところで、私たちは微生物たちのハタラキによってこの体を動かしていくことができます。微生物たちがエネルギーを細胞へと送り届けて体を動かすことができます。細胞の中のミトコンドリアも核がありますから元は微生物だったのではないかと私は思います。

つまりここから導き出される推察では私たちの体はまるで微生物そのものということになります。人間の便1グラムに100~1000億の微生物ですから毎日排泄するということは日々に膨大な微生物が役割を終えて一緒に排泄され続けているのです。そう考えてみても微生物を殺すような抗生物質も、洗剤も薬品も、それがまわりまわって自分たちの体を痛めつけていることを忘れはいけません。

なぜ人工添加物がよくないのか、なぜ抗菌農薬がよくないのか、これは自分たちの体が何でできているのかを自覚すれば自ずから自明すると思います。

微生物たちが喜ぶものを日頃から摂取していくというのは、いつも微生物の御蔭て活かされているという感謝の気持ちを忘れない実践になります。日頃目には見えないけれど、確かな存在に活かされいる、見守られているという謙虚な心があることでまた微生物もお役に立ちたいと真の発酵をしてくださるはずです。

眼には見えないものへの感謝を忘れるとき、人は発酵しなくなるときなのでしょう。腸内の微生物を並べたら地球2周半ほどの長さになるそうです。私たちの中に膨大ないのちを活かしているということは、地球が私たちを活かしているのと似ています。地球が喜ぶ生き方かどうか、これは真の発酵人につながる思想ですが私もそれを体得していきたいと思います。

善き捨て拾い

人にはみんな何かしらの欠点というものがあります。何かの長所が突出すればするほどに、その反面何かの短所も突出していくものです。長所がせっかくよくてもその短所を庇おうとしていたら、結局は平均的にどちらでもないものになるだけです。

人は欠点があることを認めることができるから、徳性を伸ばしていくことができるともいえます。

また自然界には共生があります。これは自分の持っている特性を最大限に活かすために敢えて捨てるという戦略です。自分にしかできないことに特化するには、それまでに自分がやっていたことを諦めて他を信じて任せていかなければなりません。運命共同体のように、お互いがその機能を捨てる、そして捨てたものを拾う勇気がいるのです。

その勇気は、大変な覚悟でありもう二度と捨てたものはもとに戻るわけではありません。そして拾ったものは二度と捨てることはできません。捨てる神あれば拾う神ありというのは、私の持論ではどちらも神であったということです。つまりはそれだけの真の絆を持ったパートナーであったということです。

本田技研の本田宗一郎と藤澤武夫という人物は、お互いを深く信頼しあい、お互いの持つ長所に互いに専念しました。そしてお互いに捨てたものには掣肘しないという覚悟を持ち、ともに自分を活かしきることに専念しました。

これはその方が自分を活かせるということであり、短い人の一生に於いて自分が最もやりたいと思うことに専念するという腹を割って腹を決めてご縁を結んだのです。自分がしなくてもいいことを自分がしていたら、一つごとに集中することができずエネルギーも分散します。また全部のことを自分で全部握りしめていたらあれもこれもとやっているうちに身動きもまたできなくなります。

本来、人の使命というのは有限な人生の中で何をもっともやり遂げたいかということにかかっているように思います。そしてそれをやり遂げたい人たちが運命の出会いをすることで、互いに活かしあうことができるように思います。

そうして活かしあった魂に人々は感動するように思います。

欠点を一生懸命に埋めて努力しようとする生き方よりも、欠点を受け容れてその欠点は周りの人たちに助けてもらおうとする生き方。欠点を悪いものと決めつけるのではなく、それだけやりたいことや得意なことがあるということへの目覚めがいるのでしょう。

まだまだ私自身、捨てられないものに苦しみ拾えないことに苦しみ、自分の使命を存分に発揮しようとしていない自分自身の刷り込みが払えず悩み悶えています。もう今まで何人の人たちがそれを私に伝えてくれたでしょうか。もう何人の人たちが命を懸けてそれを示してくれているのでしょうか。もうこの刷り込みに向き合って長い年月が経ちすぎて、いつ頃から悩んでいるのかさえ忘れてしまいました。

そろそろ機が熟してきているように思います。

やりたいことがあるのを知って駆け付けてくれた仲間たちがあることにより一層の自らの使命感を感じます。今まで身に着けてきた中での最大の刷り込みをまさに乗り越えようとしています。今回の気づきは、たくさん人たちの勇気になることでしょう。

今一度、正対し、身近なところから善き捨て拾いをしていきたいと思います。

認めるはじまり~育つ~

人は自分の存在を認めることで、人の存在が認められるようになります。人は人格を尊重するには自分を含むすべての世界のことを認めていかなければなりません。人は自他を認めるときはじめて、すべてのいのちが同じ存在であることに気づくからです。

そしてその最初の認めるということに、「育ち」があるように思います。専門的には発達といいますが、発達というのは本能であるように自然にそのものが行うものです。

つまり人間を含むいのちはすべてはじめから「育つ」ようにできています。その育つということをよく内観すると、育つという行為は空気や水のように当たり前すぎて気付きにくいものですが何よりも人間を人間として尊重しているものであるのです。

そもそも自発性や主体性といいますが、そんなものは後から誰かによって引き出すものではなくそのものをもってすべての生き物は産まれてきます。生きていること自体が絶対的能動でありますから、その能動体として自分はそもそも発達しているということです。

その発達を認めていくというのは、そのものの人格を認めていくことに他なりません。発達を認められることで人格が認められ、その人格が認められることで安心して発達していくことができるのです。

発達を邪魔するというのは、人格を邪魔することと同じです。

つまりは、そのものの存在を丸ごと認めようとしないということです。すべての生命は誰に指示されなくても命令されなくても、自ずから然るがままです。それを認めないのは人間の浅はかな知識で刷り込むからであり、その刷り込みを取り払うならだれもが安心立命できる世の中になるはずです。

そういうものを幼いときに認めてあげることが、如何に自分を自分で認められ、その自分が周りを認められることになるのかということです。

人はひとたび自分の存在を丸ごと認められると納得するならば、周りの存在を丸ごと認め受け容れることができるようになります。自由になるということです。その自由を尊重することで人は思いやりが発露してきます。

お互いを思いやり、見守る社會が顕れることで徳の好循環がはじまります。幼児教育だとか高等教育とか、色々と言っている人がいますが本来人間としてどうあるべきかを正対するのが根本であることは道徳から省みれば自明の理です。

色々と雑音が聞こえてくる今の世の中ですが、よく耳を澄まし耳を傾け、心に聴いていきたいと思います。善いご縁をいただくことで学ぶことが限りありませんが、多くの人から学んだことをもっとシェアしていけるように精進していきたいと思います。

視野とは何か

人は同じ実践をしていても、その実践の徳があります。何のための実践なのかというのは、実践が本質的かどうかということです。

以前、田舎の小さな村に宿泊したときに早朝にお坊さんが鐘を鳴らす音が村中に響いていました。毎朝、同じ時間に起きて毎日、同じように鐘を打ってくださっています。これを村人たちは毎朝聴いてから目覚め一日を過ごします、そして夕方また同じ時間に鐘を聴くのです。これは単に時間を知らせているのではないことはすぐに察することができます。

無事で一日が過ごせて無事に一日が終えることができた、その有難い見守りに感謝しているということです。

しかし、仮にその鐘を打つ人が自分が鐘を打ってやっているんだという気持ちで打っていたらどうでしょうか、ひょっとしたら朝から煩いなと村人は感じるかもしれません。実際はそんなことはないのでしょうが、きっとお坊さんは今日も私が鐘を打たせていただいている、心を澄ませてその感謝報恩をしていきたいと「実践」しているのでしょう。

つまり実践というものは、自分がやっているという傲慢な感覚ではなく、有難く自分がさせていただけるという感謝で行うことが実践の本質なのです。

実践風というものは、どこか実践までも自分だけのものにしてしまいます。本来、実践とは自覚があってのものです。自分の存在が多くの人たちのお役に立っているという自覚、自分の体験はたくさんの方々のためになっているという自覚、つまりは自分は「何ものかによって活かされている」という自覚をもってはじめて実践が正しく行えるように思うのです。

謙虚な心がなければ、素直な心でなければ、周りから活かされているという自覚がありません。周りに迷惑をかけても気にならない人というのは周りを意識することもありません。礼を失し、思いやりに欠け、常に行動が自分中心になってしまいます。

よく考えてみなくてもすぐにわかることに「健康」がありますが、毎日健康で過ごさせてもらえることだって決して当たり前のことではありません。親からいただいた大切な身体、祖先や天から分けていただいた徳で生きていることができています。よくよく「見渡して観直せば」如何に自分が多くのものに恵まれ満たされていることに気づくはずです。それもすべて決して当たり前のことではありません。

そういう気持ちを常に忘れないことが謙虚素直の体現である「正直な実践」につながっていくように私は思います。

自分でいっぱいのときは周りの感謝が観えなくなるのが人間です。だからこそ自分の人生体験は常に誰かの励ましになっている、自分の存在が誰かの支えになっているという「リーダー(主人公)としての自覚」を持つことで視野もまた広がっていくと思います。

視野が狭い人はどこか自分を存分に活かせていないように思います。視野が広い人はいつも真心で自分を活かしていくことができています。仕事でも、仕事をするという意識と、仕事をさせていただけるという意識では、働く愉しさも仕事の歓びもまた変わってくるのでしょう。

どうせ実践するのなら、その実践が御蔭様を感じる自分の真心でたくさんの方々の見守りになるようなものにしたいものです。

最後に先ほどのお坊さんの鐘ですが、きっと村人たちはその毎朝の鐘を一生涯ずっと聴き続けているうちにいつの日か心にその鐘の音が永遠に響き渡るようになるのでしょう。その日常の当たり前という偉大な御蔭様の有難さの徳の実践に感化され村全体が自然に心から感謝できるようになるのでしょう。その陰徳は、いつまでも心に鳴り響き、そのお坊さんが年老いていなくなってまた次の世代の新たなお坊さんになっても実践が続いていく鐘に「自分たちはいつも偉大な存在に見守られている」という自覚を互いに持てるようになっていくのでしょう。

見た目ばかりに捉われ察する力が減退してきた現代だからこそ、人間としてこうありたい、こうでいたいという自分像をしっかりと自覚して精進を積んでいきたいと思います。

実践か

先日から実践と考えるということを深めていると、その意味がまったく異なっていることが整理できてきました。それを少し書いてみます。

実践といえば、森信三先生に下記の言葉が残っています。

「例外をつくったらだめですぞ。今日はまあ疲れているからとか、夕べはどうも睡眠不足だったとか考えたら、もうだめなんだ。」

ここの「考えたらもうだめなんだ」という言葉に共感するものがあります。

人は考えてしまっているときは、実践しようとしていない時です。なぜなら、考えるというのは頭で考えていることであり、心まで到達する前にそれを止めてしまうことだからです。

属にマニュアルを用いて人を管理するような手法もありますが、このマニュアルというものは考える人たちには有効です。しかし本来の物事は、心で感じるところで動かすものです。それを決心ともいい、それを初心を忘れていないとも言います。

そして組織には理念というものがありますが、これは何のために集まって長期的に何を目指して何処に到達するのかといった方向性を示すものです。自分が今、何処にいるのかがわからなくならないように、また迷子になって一緒にいる皆に迷惑をかけないように常に初心を確認して方向性を感じながらはじめて通る道を歩んでいくのです。

人間は感じたままに実践しているときと、いちいち考えてからやっているのとでは実践と考えるという違いがあります。前者は心で決めた覚悟のままに実践を積み上げているのであり、後者は頭で考えて実践風に形式だけをなぞっているということになります。

考えるというのは、信が不足しているともいうように思います。信じさせてもらえるからやるというのは自分の信を自らが使おうとはせずに誰かによって指示命令されて動かされるから信じるという行為で責任も発生せずに楽なのです。

しかしもしも自分が信じるのならば、考える必要はなく信じたままに行動すればいいのです。この時、はじめて責任を実感することができ自分の役割に誇りが持てるようになります。

畢竟、人はやらされるときは無責任で自分でやっているときだけ責任を果たしているということです。自分から信じる人になるには、考えさせてもあまり効果がなく、それよりも感じてもらった方が効果があります。

自ら気付くことができる人になるということです。

自ら気付くには、自分から考えるのをやめてもらわなければなりません。考えるばかりで実践しないのは、自分から信じて動いていこうという行動が少ないからです。行動が少ないと実践もまた積み上がりませんから信も積んでいくことができません。

初心を感じたままに行動するということは、理念を確認しながら実践するということと同義です。何のためにの初心の確認は、自らが羅針盤で方向性確認することと同義です。

考える前にやってみろ、まずやってみろという言葉の中には、信じなさいという応援が入っているのです。信じているから人は信によって信用されはじめてご縁は有難く結ばれていきます。信じるということはとても偉大な行為ですから、考えてもそこには達しないのです。

私がマニュアルを嫌い、文化にこだわるのも、考えるのを嫌い、実践にこだわるのも、真実や本質がいつも現実にあるからです。現実の中に生きている自分たちだからこそ現実逃避しないようにしていきたいと思います。それが人生二度ないという意味につながるのでしょう。

心気を引き締めて、粛々と実践をしていこうと思います。

実践の重み

今の時代は児童養護や教育や保育など、言葉で仕事が分業し分類されています。省庁も厚労省や文科省で分かれ、そのことから色々な弊害が出ています。ヨーロッパの視察でも、今は省庁が融合し子ども省というように、分かれているものを一つにしていこうとする動きがある中で私たちの国はなかなか変わることができません。

それぞれの利権や今までの絡み合った関係を紐解くのが難しいからかもしれません。しかし現場では、そのことで大変面倒なことになっています。

そもそも物事は分けて考えられないくらい密接につながっています。福祉や教育というものもわかれておらず、教育が改善されなければ福祉も改善されません。その関係は前足と後足のように前後しているもので、歩めばお互いに一歩一歩バランスよく足を出していかなければならないものです。

それを片足だけで進もうとすればすぐにコケてしまうのは自明の理です。しかし実際は、お互いに前足のせいだとか後足のせいだとか文句を言っては前に進まずに停滞するというのが現状のように思います。

もっと全体へ視野を広げ、何のための行うのかということを共有し語り合い全体システムを変更するようなことが必要な時代ではないかと痛感しています。部分ばかりを変えようと固執するのは分類分けられた場所でのみ考えようとするからです。縦割りか横割りかではなく、そのものの本質からそれぞれの分野分類の人たちが集まり全体システムを考えることなのでしょう。

そのためには対話が必要です。ただの対話ではなく、お互いを尊重し認めるといった対話です。しかし今は、お互いがいがみ合いお互いの業界の批判ばかりが目につき本来の大きな目的のためにと協力することがなかなかできないものです。人間はいつの時代も相手と協力する前に自我に負けてしまうのでしょう。自分に打ち克ってでも全体を優先しようとする人たちがいなければ時の流れに準じて変化することができないのです。

かつて坂本竜馬やその周囲のリーダーたちがやったようにもっと大きなもののためにと絵を描ける人物がなかなか出てこなくなったのかもしれません。自分の人生や世代よりも大事なことのためにのみ人は自我を超えられるのかもしれません。しかし時代がそういうものを顕現させるとしたら、今は焦らずにじっくりと時を待ちつつも休まずに自分のできる実践を積み上げていくしかないのではないかと感じています。

世界各地の諺や故事にはどこも「子どもは宝」だといわれ、子どもを大切にする国は永続的に発展繁栄するといわれます。子どもが大切にされるというのは、子どものことを大人たちがしっかりと考えて子どもたちに善き世界を譲っていこうとする思いやりのある社會が実現されているということです。

それは本来は国民国家みんなで真摯に真心で行うことのように思います。仕事でやることでもありません。なぜなら子どもは親からされたことを自分が親になり子どもにするようになるものです。そうやって真似も連鎖していき子どもは育っていきます。だとしたら、どのようなことを親(大人)が子どもにしていくかというのは将来の子どもたちがまた子どもたちへしていくことになるのです。

だからこそどのような生き方をしたか、そして何を譲り遺したかということは未来そのものに直結しているように思います。自分たちが実践する理由は、別に無理にやったりやらされたりとか感情論で語るものではなく、本質的に何のために行うのかを深めているから実践を積み上げていくのです。

一つ一つの実践が如何にどれだけの重みをもつのか、それは真の目的を忘れずに取り組んだものだけが知る志を実現する世界です。今日の実践も、明日の実践も、大河の一滴かもしれませんがそれが集まって大海になることを忘れずに本気の目的のために人生を遣い切っていきたいと心新たにする体験を得ました。

やらない人はすぐに人の批判ばかりをしては実践をしようとはしませんが、そんなことも言っていられないほどに現実は厳しさを増しています。現実を直視し、本当の理想の実現のために今日も大事に実践で世界を改善していきたいと思います。