暦と徳

今週の金曜日、2月4日の立春に例大祭と徳積財団設立2周年記念イベントを行います。私は旧暦に合わせて暮らしのバランスを取っていますから、歴を遊び様々な取り組みをしています。

そもそも本来の暦は、月や太陽の運行に照らして自然と調和しながらその宇宙や地球の機智に合わせながら生きていく仕組みです。全体快適というか、自然との調和の中で暮らしていく方が無駄な力もいらずみんなで共生し支え合っていきますから合理的でシンプルです。

自然界を観察すれば、動植物はじめすべての生き物たちはこの自然暦に沿っていのちを永らえて繋いできました。雨が降る時期には雨を活用し、暑い時にはその暑さを活用する。それぞれのいのちのリズムをととのえながら、他の生き物たちと一緒一体になって自然と上手に力を貸しあい借り合いながらこの世の生を豊かに全うします。

自然と遊ぶのは暦と遊ぶことに似ています。私は旧暦で大事な感謝の行事に取り組みますが、新暦もまた遊び心で楽しみます。日本には古来から予祝の文化がありますから、この少しズレている暦もまた予祝にしてしまえば御蔭様と感謝の二回、その徳を味わうことができます。

例大祭は、毎年、同じことをやっていますがその時々で神様が喜ぶようなことが変わります。それはご縁と出会いが増えていくこと、弥栄といいますか繋がりが豊かになっていきますから回数を重ねるごとに面白く仕合せが増えていきます。そして直来もまた、その時々にいただいたご縁によって変わります。同じことをやっていますが、同じことは一度もなく毎回、この日が来るのが楽しみになっています。

それに今回は、徳積財団設立2周年ということもありまた徳について磨き深める時間が持てます。あっという間の2年でしたが、なんと濃い2年であったかと振り返ると感謝がこみ上げてきます。

むかしから、徳には陰徳というものと明徳というものがあります。

陰徳は見返りを求めずに、自分の真心を盡すこと。そして明徳は、そのものに備わっている使命を明らかにすること。徳は、この世で生きていく上での真の羅針盤であり、この暦と徳を学べば安心立命の境地に入ります。

子どもたちの未来のためにも、本来の生き方を、日本人の道を少しでも後世に繋いでいきたいと思います。

徳の回帰

大分県中津市本耶馬渓に「青の洞門」というものがあります。これは江戸時代、荒瀬井堰が造られたことによって山国川の水がせき止められ、樋田・青地区では川の水位が上がりました。そのため通行人は高い岩壁に作られ鉄の鎖を命綱にした大変危険な道を通ることでしかそこを渡れなくなっていました。

諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓に立ち寄った禅海和尚が、この危険な道で人馬が命を落とすのを見て心を痛め、享保20年(1735年)から自力で岩壁を掘り始めたのがはじまりです。

この禅海和尚は最初は、自分一人で3年間ノミと鎚で穴を掘りぬき、その後も托鉢勧進によって雇った石工たちとともに30年余り経った明和元年(1764)、全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させたという話です。その後は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用をもらうことにし、これが日本初の有料道路とも言われています。

私はこの青の洞門に深く心が支えられていることがあります。周囲の誤解で事を邪魔されたり、すべてをひっくり返されるような出来事に出会う時、また一人でコツコツと地道に取り組んでいる最中など、ふとこの禅海和尚のことをいつも思い出し徳を偲ぶのです。

人は、あまりにも偉大なことを発想したり、あまりにも遠大なことに取り組もうとすると周囲から必ず誤解されたり疑われたり、変人や狂人扱いをされるものです。一生懸命それを何度も説明しても誰も本気にはせず、言い訳の一つやもしくは何か裏があるのだろうと思われたりもします。私の人生はいま振り返るとそんなことばかりの連続でした。不可能と思えることや、意味がないといわれることに取り組んでいくことは陰徳のようでそれを誰かに認められたいからなどの気持ちは入りません。でも人は人とあまりにも違う人をみると好奇な目もあり社会秩序などが気になってしまい黙ってはいられないのでしょう。

私の場合は、今まであまり目立たずにこっそりとひっそりとそっとしてもらいながら取り組んでいくように心がけていきました。時折、周囲が盛り上げて運動にしようとされますがそれがいつも返ってそれぞれの我欲望の養分になって大きな邪魔になってしまうことが多く、結局は静かに実践する人たちと穏やかに取り組んだ方が安心して結果が出るまでが早かったりするからです。

人は真の意味で人を信じることができるとき、本当の意味の支援や協力をしてくれるようになります。誤解されたり、いつまでも理解されないのは、まだ自分の真心が人々が信じるほどではないのだと諦めて真摯に取り組むしかありません。

この青の洞門は、そういう意味では私たちが真に徳を積むためのお手本であり模範です。この取り組みをベンチマークして学び、取り組むことで私たちはこの先人の智慧を活かしこの国も人々の心も甦生させていくことができると私は思うのです。

この禅海和尚は、初心を定めてから3年間はまずは一人で掘り続けました。すると3年目にしてはじめてお手伝いしてくれる人が現れ一緒に掘り始めます。その後は、一人二人と協力が現れみんなで掘り始める。今度は、石工たちに費用が払えるように托鉢が広がっていきます。最後は、有料道路にして通行料をとってそれを掘り修繕するための費用にします。この流れで、トンネルが掘られたのです。そしてこの景観と遺徳後世まで守るためにと、福沢諭吉が周囲の土地を買い取り守ります。その後は羅漢寺と共に、現代の資本主義の台風をいわばでしのぎながらも嫋やかにその陰徳を顕彰し続けるために維持します。そしていつまでも多くの人たちが訪れてその価値を学び続けます。それが私のように志を守る勇気をいただく原動力となって心にいつまでも徳が掘り続けられていくのです。

これは一つの真実であり、甦生やコンサルティングのもっとも王道のカタチです。

現在、英彦山の甦生に取り組んでいますが私がいつも心に抱いて見本にしているのはこの禅海和尚の志の貫徹する実践の姿です。信仰というものの本当のチカラは、人々の心に徳を回帰させていくことです。

徳が回帰すれば、人々はその偉大なことをいつまでも学びそれを世の中を導く原動力にしていきます。ひょっとしたら福沢諭吉にもこの禅海和尚は偉大な影響を与えたかもしれません。子どもたちは、このような遺徳が養分になり健康に成長していきます。

1000年後の未来のために、逆算して今、何をすべきかをこれからも真摯に取り組んでいきたいと思います。

 

終始のご縁

何がきっかけで物事がはじまったのかを振り返ってみると、そのはじまりのきっかけの中にそのご縁がどのようなご縁だったのかが観えてくるものです。今振り返ると不思議で、みんな誰もがはじめて出会ったときにはその後にどのようなことが発生するのかがわかりません。

わかるとしたら直観的に幸不幸の予感があるくらいですこのご縁には、ずっと一緒に長く旅を伴にする人もいればバトンを渡すときに一瞬だけのご縁の人。あとは、すれ違っていくようなご縁の人。人生を丸ごと変えてしまうようなご縁もあります。しかし、よくよく味わってみるとあの時のあの出会いとご縁は必然だったのだとも感じるのです。

それをどう大切にするかは、その人の感性に由ります。感性が優れている人は、ご縁の持つ偉大な存在に気づいています。一期一会に、ご縁を大切にしそこに宿しているメッセージを受け取りそのものとのご縁を集めていきます。

どのようにご縁を集めて一つの人生を完成させていくのか、それが人が生きていくことの証です。そう思うと今も私の人生はご縁を集めることだけです。

これまでもただ大切にずっと集めてきました、そしてこれからも遺りを集めていきます。よく集大成という言い方をしますが、人生はご縁が積み重なり結び合いできあがります。今、私たちの目の前にあるものすべて、それは石や木、そして生命体に至るまでそのすべては集大成の今のカタチなのです。

ご縁はまだまだ無限に続き、まだまだ集め続けます。しかし、人生は死を迎えるとそれが逆行していくように感じます。つまり集大成からまたはじまるのです。まるで終わりがはじまりのようにです。

はじまりのご縁を感じるときに何かが終わることを感じる。つまりはじまりと終わりのご縁は同時に行われているということです。その終始こそご縁の本体であり、終わるようではじまり、はじまってるようで終わっていく。まさにご縁というのは永遠の循環です。

だからこそ私たちはその一瞬のご縁を「大切にしたか」が問われるのです。

大切にするからこそご縁は活きるのであり、ご縁を活かす人は「大切にしていくことを忘れない」のです。時間は、その大切にする意味を思い出させるための産み出した人類の道具なのです。まだ言葉のない時代、何も知識がない時代に、私たち人類はそこに気づきこの世に時間を創造したのではないかと私は思います。

人生は一度きり、そして永遠なのです。

日々の社会通念や常識に流されてしまいますが、いのちの持つ意味を忘れずに子どもたちに先人からのいのりを伝道し生きるチカラを伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスの本懐

万物にはそのものの徳というものが備わっています。それを磨き明らかにしていくことを、明徳という言い方をします。この明徳は、大和心そのものでもあり日本人に連綿と続いてきた大切な生き方です。私は、この大和心の甦生のことを「暮らしフルネス」と定義しています。もっとシンプルにいえば、この徳を明らかにし、徳を循環し徳によって治める世の中になっていくことが暮らしを実践する理由ということです。

私が本業として取り組んできた見守るという保育も、またむかしの田んぼや伝統固定種の高菜、そして古民家での智慧の甦生やあらゆる現在の取り組みに至るまですべてはこの大和心がそうさせているともいえます。

和というのは、徳が引き出されることでわかります。和食であれば、素材のもっているそのものの味や魅力が引き出されたことをいいます。私は料理人ではありませんが、井戸水や炭火をつかい素材そのままで味わうものを好んでつくります。余計な味付けなどしなくても、そのままの味が出た方がその徳が明らかになるから好むのでしょう。

このみんなが使っている「和」や「暮らし」は、本当の意味になっているのでしょうか。なんとなくわかりやすく使われていますが、日本人の和や日本人の暮らしではないものがほとんどになっているようにも感じます。

そもそもこの和や暮らしは、長い歴史の中で用いられた言葉です。歴史を学ばずして、先人の智慧の伝承なくして使うようなものではありません。現在は、何か新しい知識やそれを上手に分かりやすく便利なした言葉がすぐに独り歩きしていきます。しかし、本来は長い年月を経て醸成された発酵したような言葉であることが本質です。

だからこそ、知識ではわからないものが「言葉(言霊)」の中に存在しているともいえます。同じ、「暮らし」という言葉を使ってみたとしてもです。その暮らしという言葉は、使う人の持つ歴史や伝統によってまったく意味が異なっているということです。

私はもともと「和風」という言葉が嫌いです。和風は和ではないから、言葉遊びのようになるのが苦手なので嫌いという具合です。本物の「和」は、和風のものとは一切異なります。ひょっとしたら、昔気質なのかもしれませんが日本人としての誇りがあるからどうしても和風が馴染まないのかもしれません。西洋の文化や他国の文化はいつも尊敬しています。だからこそ、この便利な和風はどこか失礼ではないかとも感じてしまうのでしょう。これは決して和風がわるいと言っているのではなく、少し苦手というニュアンスで書いています。

刷り込まれた知識や、社会通念があるということが前提ですが私たちは何が本来の和であるのか、何が本来の暮らしであるのかをみんなで実践を磨き合う中で学び直す必要性を感じています。

私がこの場の道場での取り組みは、それを子どもたちに伝承し未来を智慧で満たすためです。先人の深い愛や思いやり、そして暮らしを次の世代へ伝道していきたいと思います。

健康をととのえる

加齢とともに体の反応が鈍くなってくると思い込んでいましたが、色々と禊や精神を澄ませるような修行をしているとかえって体の反応が敏感になっていくのがわかります。

精神と体というのは一体であり、その両方がバランスよく整っていることで私たちは健康を維持することができます。昨年から、少しずつ漢方のことを学び始めていますが大変奥深く好奇心がわいていきます。自分の身体のことなので余計にその状態から学べるというのもまた、この漢方の面白さです。

最近、胃腸は食べ物から取り込んだものを「清」と「濁」に分ける役割があることを知りました。その「清」は、「気、血、水」となって生命活動のエネルギーとなります。そして「濁」は体に不要で排泄されます。これは静と動のように常に、バランスを保って状態を中庸にするという考え方と同じです。

そして漢方は、「清」は上半身へと昇りっていき、「濁」は下半身へと降りていくのといわれます。つまり、胃腸が悪い状態で清濁が出てくると血流がわるくなりますか上半身に症状が出てくるという具合です。

私は胃腸がよくないので、食べ物の浄化が正常に行われないとそれが頭痛になったり吐き気になったりしてきます。特に、雨の日や雪の日の寒い時はさらにそれが悪化します。これは雨や雪で気圧がさがり、水が溜まりやすくなりより排出が滞っていくからです。

血のめぐりが悪い時に、暴飲暴食するともうそれはひどいものです。そうなると身体の声をきいて、速やかに下痢がでて排出していきます。辛い時はその排出もうまくいきませんから、大根おろしや山芋、他にもこの時期の旬のもの、今では白菜やしょうがなど食べて体の排出を助けて浄化する料理をつくりそれを時間をかけてゆっくりと食べるようにしています。

もともと西洋医療は、症状が激しく出てからの診療で薬を投与します。しかし、東洋医療は、症状が少しでもでそうならそこから推察し予防するための生薬などを調合します。本来、医食同源といって食べ物は単に栄養をとり空腹を満たすものではなく食そのものが健康を保つための薬という考え方もあります。

現代は頭でっかちになりすぐに知識で健康を保とうとしてサプリなどをよく摂取したりしますが。本当は体の声を聴くことが健康になるということです。体がどうしてほしいといっているか、早めに素直に謙虚に聞いて改善していくことで健康は長く保たれ寿命ものびます。

借り物の身体をその日が来るまで大切に使えるように、健康をととのえていきたいと思います。

地震からの

昨夜、1時頃に大きな地震がありました。福岡で地震を体験するのは久しぶりで、東京に住んでいたときにはしょっちゅうでしたから改めて不思議な感覚になりました。

地震という言葉と震度などで地震を表現しますが同じ揺れというものは一つもありません。震源地の深さや内容、そして揺れ方や時間の長さなど毎回、異なっています。

東日本大震災の時は東京で揺れを体験しましたが、長くゆっくりと大きく揺れました。あの時は、近くではない感覚と何かが大きなものが倒れたような感覚がありました。昨夜の地震も似てはいましたが、倒れたというよりは何かを強く押し出したような感覚です。

つまり地震といっても、本来はどのような感覚の地震だったかがもっと議論されてもいのではないかと思うのです。その理由は、地球全体で起きていることをもっと人類が感覚で理解することになるからです。

現代は、すぐに科学の力で可視化して科学的に証明するものしか表現せずに信じなくなりました。しかしその頼りにしている科学は、あくまで全体のほんの一部を解明したにすぎずほんどのことはわかっていないということです。実際に、プレート説もありますが本当にそうなのかということもわかっていません。

想像すると例えば、豆乳や具材などを土鍋にいれて弱火で煮込むとき表面がとろとろしてゆるやかに沸騰して泡がぽこんとはじけるようなものが噴火だったりするのではないかと感じるとします。上部が冷えていれば多少は沸騰しても穏やかでしょうが、周囲が暖かいと泡の頻度もあがってきます。地球は、まるで鍋に具材をいれて下から温めているというのはこれは仮説ではなく地球というものの事実です。

どの時点の鍋なのかというと、冷えすぎず沸騰もせず、ぬるま湯の中でじっくりと時間をかけて温めているという感じでしょう。それが人間の生命のように一日、一年、百年、千年の周期でリズムがあります。人間の体温が一日で何度も変わっているように地球も変化しています。つまり地球も生きているということです。そして私たち生命は地球の中でまるで皮膚の繊毛のように共生しているといことです。

そうであることを忘れるとき、地震というものがよくわからなくなります。地震は私たち人類に大切なことを伝えてきます。それは自然を忘れるな、地球と生きていることを思い出せというメッセージのようです。だからこそ私たちは謙虚になって、人間だけで勝手に生きているとは感じずその地球とのバランスを保つように知恵を働かせていく必要があると思うのです。

感染症は人災ですが、それを引き起こすのは天災です。天災への対応の智慧は謙虚であること、素直であること、また地球と共生することです。子どもたちのためにも先人の生き方や動植物らの生き様に学び直し、未来を生き残れるように自然と共生していきたいと思います。

 

目利きを磨く

「目利き」という言葉があります。これは辞書を調べると、器物・刀剣・書画などの真偽・良否について鑑定すること。また、その能力があることや、その能力を備えた人。人の才能・性格などを見分けることにも使われるとあります。

この目利きがいい人というのは、本物を見極める力がある人のことをいいます。では何が本物で何が偽物なのかがわかるというのは何かということです。それは真実や本当の価値を見極めることができるということです。

現在は、この目利きが非常に失われている気がしています。テレビやマスコミ、そしてあらゆる情報をインターネットで配信されていますがそのどれもが本当の情報を伝えていることはありません。つまり目利きがよくないということです。どれも、人気が出そうに加工したり、さも手間暇がかかっているかのよう表現したりと、そもそも大量生産大量消費、経済拡大を優先した市場原理を優先していますが無理やりにそれに合わせているうちに目利きを間違うような価値や表現ばかりが磨かれていきました。

広告や宣伝もまた、本当にいいものの配信ではなく目的は商売や人気取りのためのようになっていきました。消費者たちがすぐに飛びつくような情報操作を繰り返しているうちに消費者が目利きがなくなってきました。そうなってくると、みんなが使っているものがいい、テレビでよく出てくるものがいい、大きなディスプレイに陳列しているものがいい、ブランド品であればいいというようによく調べもせず、目利きもせずに安易に購入して消費するようになりました。それが今の社会通念としての「いいもの」になってしまい本物や真実を目利きする力が削がれたようにも思います。

もともと本物というものや真実というものはとても地味なものです。じっくりと観察して、その膨大な手間暇、自然の深い関わり方や造形してきたものに近いものです。

昔の人は、自然の経過や自然が造形したものを深く尊敬しその持っている徳を引き出し、その徳に見習い近づけようと調和を意識してモノづくりをはじめ生き方を磨き続けていきました。むかしの洗練されたものは、現代では実現できないほどです。それは刀剣然り、陶器然りです。

そういうものが分かる人たちが増えていけば、この世の中で何がもっとも真実でいいものかがわかるようになっていきます。目利きをする人たちがこの世の中に、本当に素晴らしいものを増やし、目利きできる人になるようにと暮らしを磨いていくことで私たちの社会も本質的で自然美に近づいていくように思うのです。

世の中が本物や真実になったなら、正直者が馬鹿をみないような豊かな社会が顕現します。地球がととのっていくというのは、こういうところから始まっていくと私は思います。素直であること、謙虚であること、明るくいることは真心を磨いていくことです。真心と目利きは表裏一体なのかもしれません。

子どもたちに真実や本物が譲り遺せるように、これからも目利きを磨いていきたいと思います。

地球との共生

トンガの近くで火山が大噴火をして地球全体にこれから大きな影響を与えます。地球は丸くなっていますし、回転し循環しますからこの火山灰や二酸化炭素がこれから地球を冷やしていくだろう問い事が予想されます。これは太陽の光が入りにくくなってくるからです。

よく考えてみると、気候変動による温暖化で地球が急激に温められていましたがここに来て噴火により今度は冷えていくということが発生します。地球も一つの生命体ですから、バランスをとって自浄作用が働くというのは人間の身体と同じことです。

私たちは人間の身体でいえば、皮膚の繊毛のような状態かもしれません。身体にひっついて身体の変化の影響を受けていきます。何かが身体で起きれば、その状態に応じて変化して生息し続けます。いくら人間が、自分たちのものかのように地球上で振る舞っていても実際には繊毛が何か騒いでいるだけの状態です、身体が本体ですから、如何に本体とうまく共生し穏やかに生存していくかを選択していくかということです。

平和が長く続き、地球の変動が少なかったからこそ私たちは今の生活を享受されました。しかしひとたび、地球に大きな変動が発生したら今の仮初の物質的豊かな生活はあっという間に破綻してしまいます。

かつて地球には、氷河期というものが何度もありました。ある意味、今も歴史から振り返ると氷河期のままという考え方もあります。問題は、私たちが食べるものがなくなってしまうような氷河期に突入することです。

土も凍れば作物は育ちません。太陽光が弱くなれば、それだけ光合成ができなくなり森林をはじめ植物たちは弱っていきます。海面も下がり、地上や地中の水も減ります。もしも火山の噴火が、さらにいくつも同時に噴火したとしたらその急激な変化に今の人類がどれだけ対応できていくか。今はある程度のテクノロジーを持っていますから、ある程度は対応できますが人類全体となると80億人いるからよく考えないといけません。

私たちはいつの時代も、本当はサバイバル状態で子孫がどう続いていくかを常に向き合っていかないといけない存在です。先人たちは長い間の地球との共生の中で、生き延びる方法を智慧として伝承してきました。もしも現代のような化学的なテクノジーで生き残ったのなら、そんな智慧は必要ないはずです。

文明は何度も発展し、崩壊し、消失してきました。その中のいくつかの文明では、今と同じくらいのテクノロジーをもった時代もあったそうです。しかしそれがすべて失われている。ここに何かのヒントを感じます。

日本人は極東の島国で、もっとも遠くまで旅をした民族だといわれます。つまりそれだけ絶滅の危機を体験して乗り越えてきた民族ともいえます。その民族が、先人の智慧として遺して繋いできたものこそが生き残るための方法であり、歴史であるということは間違いありません。

状況が一変し、環境も社会情勢も変わる瞬間があります。野生の感覚を失わないまま、本来のあるべきようをよく観て、子どもたちのためにどうすべきか、挑戦していきたいと思います。

原点回帰と甦生

この十数年で地球の気温は急激に上昇しています。同時に、地球内部の変化も著しく地震や火山の噴火も増えています。私たちの身近では、四季のめぐりが少しずつ変化しているのを感じます。それは和の暮らしを通して実感するものです。

現在は、都市化した自然から離れた生活環境で仕事をしていく中でかつての日本人の先祖たちのような自然と調和した暮らしが失われてきました。気候変動のことも、今では衛星や世界各地の観測などをインターネットやテレビですぐに確認できますがむかしはそんなものはありませんから身近な微細な変化で地球全体の様子を直感したのでしょう。

空の様子、海の様子、そして風、月、山、さらには虫たちや植物たちの変化から地球の反対側で起きたこともある程度は把握することができたのかもしれません。

実際には、この世の中は因果の法則という真理もあります。どんなに私たちが小さな行為をしたにせよ、それが関係性によって繋がっていますから巡り廻って地球全体に偉大な影響を与えてしまうのです。

小さな石ころを転がしたということや、火をつけて燃やしたということでされ、一見そんなものが何かを起こすとはだれもが考えませんが実際にはそれが因果のはじまりになりますから何かしらの影響を大きくして周囲に展開されていくのです。

宇宙のはじまりなどを解明していけば、無から有が産まれるときなどその原理が働いていることはそのうち量子力学などで明確になっていくと思います。しかし人間jは、教育によって自他を分け、他人事という便利な仕組みを覚えてからそんなものは誰かがなんとかしてくれて自分の問題ではないと分別するようになりました。

気候変動や環境問題などその最たるものです。

この世界は、丸く、地球も円環ですからやったことが巡り廻る仕組みです。だからこそバランスが重要になります。このバランスは、ゼロイチのようにすべてをプラスマイナスでゼロにととのえ続けなければ維持できません。使ったエネルギーは休ませて貯める、昼と夜のように必ず静と動を保つ必要があります。

人類は極端になるのは、この分別したことからです。分別されしなければ、極点にはならないのです。バランスを崩したのはこの分別智であるのは明らかです。だからこそ、この分別しない智慧が必要になります。それを日本の先祖たちは「和」といい、日ごろからバランスを保つような暮らしを創造したのです。

私の暮らしフルネスの本懐はここにこそあります。

時代の変化の中で、常に自分を調和させていくことは責任を自分に保つということです。その自分を保つためにも、この和の暮らしは必要であり、そして同時にテクノジーや智慧を使うのです。

子どもたちの未来のためにも、この時代に人類全体が目覚め地球と一体になる生き方に原点回帰できるように様々な原点回帰を甦生させていきたいと思います。

世界変革への門出

昨日は、聴福庵にてブロックチェーンエンジニアたちと一緒に鏡開きを行いました。お昼にはその鏡開きの御餅を使い、七つの穀物と七つの若草を使いお雑煮にしたり、かき餅にしてみんなで食べました。

鏡開きでは、まずみんなで鏡餅に感謝をして参拝して、その後は「おめでとうございます」と声掛けをしながら御餅を木槌で開いていきました。清々しい門出と福がみなさんにつながるようにと祈り行いました。

寒い日でしたが、炭をたくさん使った古民家はとてもぬくもり、またコロナでテレワークからなかなか会えない仲間たちと一緒に雑談をしたり学び合い、教え合う時間は、何よりも有意義でした。

畳になれていない人も多く、少し腰が痛いこともありましたが懐かしい未来の時間をみんなで過ごす豊かな時間です。

一昔前まで、日本人はどのような環境で仕事をしていたのでしょうか。そういうことを知っている人ももういませんし、たいした文献も残っていません。

しかしむかしから続いている場所で、むかしの真心をもって文化を継承している人がいるとそこには懐かしい未来の場が甦生するのです。私がそうであるように、私の暮らしフルネスの実践の中に人が入ればそこに何かを直感してくれます。

それは私が先人の智慧を尊び、日本人であることの素晴らしさ、文化の偉大さを実感しているからにほかなりません。現在は、都市化され国家を優先して生活というものを激変させましたからむかしからある本来の豊かな暮らしを失っていきました。

生きているということは、決して生活のためだけではなく暮らしのためにあります。この暮らしは、現代の暮らしではなく、懐かしい暮らしのことを言うのです。暮らしの定義を換えない限り、本来の私たちの豊かさは原点回帰しないのではないかとも感じます。

コロナで私たちは大切な何かを思い出し、そしてコロナ後に世界は人類のしあわせとは何かということを考えようと話していました。しかし、現在の社会情勢をみていたら原点回帰は元の経済優先の仕事中心に戻ることのように報道されます。

残念なことです。

人は一人ひとりの中での意識の変革によってしか世界は変わっていきません。まずは自分自身が変わることで、つまり暮らしを換えることで世界は真に変革していくと私は思っているのです。

子どもたちの未来、子孫たちの平和のために、世界の変革をこの場所、私のいる足元から変えるために実践を積んでいきたいと思います。