ご縁と暮らし

ご縁というものは時間差があって発展していくものです。ご縁はまるで発酵のように成熟していきます。調理なども少し寝かせた方が美味しくなるともいいますが、ご縁もそれに似ています。

これは一体何かということです。

それは「刻」というのが関係しています。私たちは自分で生きていること以外に何かによって生かされているという事実もあります。私たちが呼吸をするとき、呼吸するのは自分ですが呼吸する何かがあることで私たちはそこからいのちのエネルギーを循環して生きています。

つまり常に自他というものは和合し一体になっているということです。つまり一帯が全体ということ。一体全体という言葉もありますが、不思議なことを思うときによく使われるものです。

ご縁というのは、存在そのものすべてに降りかかります。なぜならすべてのこの世のものは繋がっていないものはない。それがご縁の正体ともいえます。つながっているものは決して人だけではなく、物体や歴史など途切れることがない時空の存在もあります。また意識というように、すべてのいのちが創造しているものともつながっています。

決して途切れない糸、あるいは闇があらゆるすべてを包むように存在しているもの、それがご縁ということでしょう。

ご縁があるかないかではなく、ご縁のないものはこの世には存在しない。そのご縁の感じながら生きている人と、ご縁を気にしないで生きている人がいるだけともいいます。

私はご縁を辿るのがとても好きで、ご縁を観察するのが趣味のようでもあります。このご縁は何か、そして刻々と醸成されていく意味が結ばれる時、感動や感謝が湧いてきます。

この人生の物語はとても豊かです、まさに幸福の本体はこのご縁ということかもしれません。

引き続き、ご縁を味わいながら日々の暮らしを磨いていきたいと思います。

足つぼの知恵

足つぼ療法というものがあります。元々の足ツボの歴史は、約五千年前の古代中国だともいわれます。古代の文献に足の裏を刺激することによって身体全体の整えが可能であるとの記述されているようです。またエジプトの4500年前の壁画にも描かれていますし、他にもアーユルヴェーダなどでも自然療法として伝統的に取り入れられています。

今ではリフレクソロジー(反射療法)といって主に足の裏の特定部位を押すことで体の特定部位に変化が起こるという理論をアメリカの医師ウィリアム・フィッツジェラルドによって提唱して足つぼ=リフレクソロジーともなっています。

もともとは手術中の患者がベッドの梁に手足を押し付ける行為を観察し、これを医学的に研究したことからはじまります。のちにユーニス・イングハムがフィッツジェラルドの理論を発展させ足裏の反射区と全身の器官の対応関係を体系化し、現代のリフレクソロジーになっています。どこを押せば、どの場所に効果があるかというのを体系づけたということです。

またこの「つぼ」という概念は東洋医学における「気」の流れを調整する重要なポイントのことです。このつぼを刺激することで身体の不調を改善するという仕組みです。最初の発見は、わかっている範囲では石器時代にまで遡る可能性があるとされています。具体的には1991年に発見された「アイスマン」のミイラにツボに関連するタトゥーがあり、当時から治療に利用されていたことが示唆されているともいいます。

結局、人類の始まりのころからこのつぼを刺激すること、足裏に何か健康維持の秘訣があることを智慧として伝承してきたということでしょう。

科学的な根拠は後でわかってくるとして、伝統的に数千年、数万年も前から人体に効果があるということを信じない手はありません、まさに智慧というものは、伝承されていることで今でも生き続けています。

気分転換に足つぼをするのもいいですが、実際には自律神経を調えたり、あるいは血液循環を調えたり、氣の流れが脳にばかりに集中する現代の生活習慣や食生活にもこの足つぼは大きな調和を与えてくれるように思います。

私はお灸もしますが、足裏のお灸はとても効果があり、私はよくその効果を体感しています。

先人の知恵を大切にしながら、心身の調和を味わっていきたいと思います。

怪我と静養

人間は以前の苦労をすぐに忘れるものです。かつてたくさん苦労しても過ぎてしまえばあまり思い出すこともありません。たとえば、怪我などもかつて大きな怪我で入院したりリハビリが大変だったりしましたがまた健康に歩けるように忘れてしまいます。しかし後遺症をもったり、その後の不便な生活がはじまると怪我が原因だったことを何度も思い出すものです。

そもそも「怪我」という語源の由来は、動詞「けがる」や「けがれる」の語幹から来ているともいわれます。つまり「思わぬ過ち」や「過失」を指し、身体に傷を負うことを意味していたといいます。時代と共に今では意味が変化し、現在では主に身体の傷や負傷のことを言うようになりました。また江戸時代には、過失犯を意味した刑法の名前だったともいいます。

漢字の中国語においては、「怪我 (Guài wǒ)」は「責める」の意味ともなります。過失や責任を責めて咎めることが怪我という意味です。

古来より「怪我」は単なる「負傷」の意味でだけではなく、「過ち」や「汚れ」を指す「穢れる」の当て字ともされてきました。

怪我というのは、心が澄んでいないときに発生してくるものかもしれません。また注意することが大切ですが、この注意という言葉の語源も古代中国語に由来し、「注」と「意」から成り立ちます。つまり「注」は「そそぐ」という象形で、水が一点に流れ込む姿を表し、「意」は心臓の形をかたどった「心」と「音」を示す部首が合わさって「心に宿る思い」としています。

注意するということは、心を離さずに心のままでいるということです。意識を常に丁寧に集中しているときは「氣をつける」ことができているということです。事故や怪我は氣をつけないときに発生するということでしょう。

だからといって怪我は決してよくないことだけではありません。有名な諺には、「怪我の功名」というものがあったり、「禍転じて福になると」ということや、「人間万事塞翁が馬」や、「踏み外して得たもの」、「転んでもただでは起きぬ」などともあります。

重要なのは、どのような出来事からも學びがあり、素直に真摯に取り組めば相応の氣づきを得るということかもしれません。

久しぶりに骨折しましたが、學ぶことや氣づくことががまた増えそうです。怪我は穢れに氣づくチャンス、心を研ぎ澄ませて丁寧に止静の静養をしていきたいと思います。

士魂商才

戦争というものがあります。この戦争というものはよく観察すると何が戦争で何が戦争ではないかが観えてくるものです。そもそも戦争の始まりは何か、それは利害であろうと私は思います。

太古の人類もまた、土地の境界や水、あるいは食料の確保で争いがはじまりました。縄張り争いなどもその一つです。生きるために仕方がないものであったものが、味をしめた人間が無限にその欲望を拡大してきて歴史は何度も同じ過ちを繰り返します。

どちらかに利益があればどちらかが被害を受ける。利害が一致したものたちが徒党を組んで争うことで戦いは続きます。日本では古来、そこから武士道という精神が生まれました。ただ利害を争い合い、修羅のようになるのならお互いに武士道を保って自律していこうと戦う相手を自己の修養に根差したのです。

そもそも平和というものはどういうことか。それは他者と利害を争うことはではないことはすぐにわかります。

現代では経済戦争といって、武器をお金にして争います。お金がもっとも利害と影響が深いからです。世の中のマーケティング用語やビジネス用語はほとんどが戦争用語と同じだといわれます。先にどれだけ市場を獲得するかや、独占権を与えないか、権利の主張なども戦争のやり取りと酷似しています。武器でいえば最終兵器は核兵器、お金であれば最終兵器は世界恐慌ということでしょう。どちらも使っていないだけで、使うとそこで終わるということだけがわかっています。

かつて商人の中には、士魂商才といって武士道精神のままで商売をするという人たちがいました。江戸時代、戦国時代が終わり刀を仕舞い自立していく道を求めました。上杉鷹山や二宮尊徳、石田梅岩や三浦梅園などそれぞれに平和を願い道を歩みました。

結局、戦争は巻き込まれれば誰かのせいだといっていますが本当は誰にでも自分の中に戦争の火種はあるということです。人類はそれを運命だとわりきって文明が消滅するのを何度も繰り返していくのも宿命だという人もいるかもしれません。

しかし子どもたちのことを思うと、何かそれを少しでも調和できないか。もっともバランスのよいところはどこかと考えるのが政治でもあり、生き方でもあると私は思います。

利害を誰かがいいだしたら、みんなそれを言い出します。誰かが律してお手本を見せれば、みんなが律してお手本をしようと試みるものです。先祖の中には、長老と呼ばれる人格を磨いている人をリーダーにして群れを纏めてきたという実績もあります。これもまた人類存続の智慧の一つだったのでしょう。

やり方や工夫はまだまだたくさん地球に遺っていて、学ぼうとすればいくらでも学び直すこともできます。テクノロジーが進んだ今こそ、目覚める人も増えていくはずです。

引き続き、子どもたちの平和を願い挑戦を続けていきたいと思います。

此の世のかたちをなすものはすべては素材の集合体です。目に見えるあらゆるものは、解体していけば最後は土や粉のようなものになります。最初はどこからはじまったといえばこの地球では地面の土ということでしょう。そこからお水や光や火などが合わさり、岩になり川になり植物が誕生しという具合でかたちを形成していきます。

このかたちの形成には何通りかあって、自然に風土が形成していったもの。もう一つは人工的に形成したものなどがあります。他にも偶然に組み合わさったものもありますが、これも自然といえば自然にできたものです。

自然に形成されたものの中には、数億年、数十億年の歳月をコツコツと積み重ねてかたちになったものがあります。人工的なものではそこまでの時間をかけることはありません。そもそも人工的なものは、数十億年も使えるものをかたちにしようという発想がありません。

特に現代においては、定期的に壊れるようにしてはお金になるようにかたちにしています。本来、せめて数百年持つような家なども数十年で壊れるようにつくります。ものづくりもまた、すぐに新しい材料と組み合わせがでて変化していくので長持ちするよりも目先のスピードを重視してかたちをつくります。

私たちの肉体も同じく、本来は土からできたものです。そして土から取れたものを糧にして生きています。すべての存在は土に始まり、最期は土に還ります。つまりはこの土こそがかたちを形成するすべての基礎になっているということです。

近年では、その土を汚すような技術が増えています。土を汚したり水を汚してはかたちをつくります。これなどはまさに形成する前の素材そのものを汚染するという技術です。これによってかたちになったものがすぐに壊れたり汚染されて歪んだりします。つまりは、原初の土そのものを破壊するのです。

例えば日本刀の古刀などは現代の刀工では再現できないともいわれます。それは素材が異なるからではないかとも思います。その素材は、決して刀に使われる炭や砂鉄だけではなく、その関わる人間の身体もまたその時の土でできていますからかたちになるものもかわっていきます。だからこそ土こそがすべてのかたちの基本なのでしょう。

土さえ変わらなければ、かたちは変わりません。土をどれだけ大切に尊重していくか、人類は今まさに試されているということでしょう。

土を守り土を育てるというのは、土を汚さないということです。

田んぼの技術はまさにこのかたちをつくる智慧の結晶です。子どもたちに本物の土をつくって、かたちを譲り渡していきたいと思います。

田んぼから挑戦

現在、人間社会は金融によって自然が大きく破壊されています。お金を大量に創造してはそのお金の使い先をつくるために、あれやこれやと新しいビジネスを無理やり考えてはお金を使います。地球の資源がすべて失われるか金融が破綻するかの我慢比べのような様相です。どちらにしても、私たちのいのちはその我慢比べによって崩壊していくのは火を見るよりも明らかです。

不思議なことですが、循環の真理というものは悪循環というものもあります。一度、悪が循環するとずっと悪で循環するということです。循環に意志はなく、ただ循環をするだけです。歴史を鑑みると悪い流れを断ち切るときは、衝撃波のような大きな出来事が発生するものです。その悍ましさと悲しさを知るからこそ、真に平和を望む人々は、身近な自立や暮らしから改革を続けていくものです。人間の利権は目を曇らせます。目を覚ます人を一人でも増やし、一人一人が暮らしから変えて自然の循環に寄り添って流れを易えていくしかありません。

日本の田んぼでも今、同様のことが起きています。

もともと日本という島国は、お水を貯水することが難しい国土でした。島国は雨が降ってもすぐに水が海に流れ出てしまいます。貯水が難しいのが島国ということです。そこで、田んぼをつくりお米を栽培することで永続的な自然循環の営みと調和していきました。

種を守り育ててその一部を食べるという仕組みは、自然全体の調和にも貢献していくし土を発酵させ、水を必要とするいのちのために場を調えることはそれだけいのちの好循環を育んでいきます。

先人の知恵というものは、循環の妙を悟っているようにも思います。この世のすべては、いのちが循環することで調和します。そのいのちが循環するように暮らしをそれぞれが磨いてきたから永続的な生活が保障されてきたともいえます。

人類は今、大きな分水嶺に来ています。衝撃波まで諦めて何もしないか、それとも子孫のためにも今、ここで暮らし方を変革するか。極端にはできなくても、小さなところ、弱いところから変革していけば自分の意識もまた本質的になり生き方も変化していくものです。

引き続き、今年も暮らしフルネスを通して田んぼから挑戦していきたいと思います。

馬との循環

今年は午年ということもあり、馬を深めています。もともと馬の起源は人類が誕生した700万年前だといいます。洞窟壁画などにも描かれ、その頃は狩猟をして食料にしていたようです。大きな転換期は約4000年前に家畜化されたところにあります。この頃には、中央アジアの草原で移動手段として用いられました。そこから、人類は自分の足で走るよりもずっと早く遠くまでいける方法を得て文明を急成長していくことになりました。

馬を得てから人類は距離や時間や範囲を広げて情報交換や交易、また支配などを拡大していきました。そして戦争も徒歩で戦うものが、騎馬兵や戦車といって機動力が増しました。特に中世の帝国や支配には馬がなくては存在しないほどです。

しかし同時に馬にとっても人類の進化と共に色々な苦難もあったように思います。家畜化というのは、人間の都合でいかようにも扱われます。よい人間が動物を飼育すれば、大切に扱われて心を通わせます。しかし、悪い人間、つまりいのちとも思わない単なる物や道具として粗末に扱う人間次第では悲惨な一生を送ります。これは家畜かどうかではなく、戦争という環境が人心を壊すことで馬も一緒に被害があったということです。

近代までは馬は農耕や信仰などで暮らしの一部でしたが、現代は娯楽や文化、食料やスポーツで馬は使われています。日本だけでも毎年競走馬として7000頭が生産され、一部の資料では毎年7000頭が殺処分されるといいます。

本来、馬の寿命は20年から30年あるといわれます。実際に競走馬として成功して寿命を全うする馬は1パーセント未満だともいいます。実際には競走馬は怪我や負傷も多く、引退後に、飼育費が払えず、乗馬などでも期間が短く、ほとんど維持できなくるといいます。

農耕馬であれば、暮らしの循環のなかで天寿を全うしたものも多かったはずです。人々の暮らしが資本主義や産業革命で大変革したときに今のようないのちの使い方、使われ方に変化したことが大きいように私は思います。

人類をずっと支えてきた存在に対する尊厳というものはどうなっているのでしょうか。それは鶏なども同様ですし、他にも様々な生きものがいます。便利な世の中になってお金で何でも買えるような時代、生き物のいのちもまた軽んじられているようにも思います。

動物も人間のように感情があります。植物においてもまた生きてきた年輪と同じくらいの歴史を持ち、伐採されたあとも形を残して生き続けています。

いのちが粗末にされる時代は、見方を変えてみると人類史上今がもっとも悲惨な時代かもしれません。

それぞれの役割の中で、真摯にいのちを燃やしていますが存在そのものを慈しむような暮らしを、本来の自然との循環から問い直す時代なのかもしれません。暮らしフルネスのなかで、静かに今を見つめて改善していきたいと思います。

丙午の年

いよいよ今年は、「ひのえうま(丙午)」に入ります。これは十干十二支といって中国の古来の歴訪、そして日本の民間信仰が結びついてうまれたものです。一般的には自然の循環や時間の流れを整理し、理解するための東洋的な知恵の体系であるといわれます。

まず十干は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類があります。これに五行(木・火・土・金・水)と陰と陽が組み合わせられます。そして十二支は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類があります。具体的には時間帯や方角や季節を意味します。

今回の丙午は、五行では「火」を顕し、陰陽では「陽」を示します。つまり火の氣が重なる非常に情熱的な年になるということです。

風水では、エネルギーが最高潮に達するということで燃えるイメージになります。活動的でスピード感、発展や成長などがあります。同時にメリットにはデメリットもあるように反対側に衝突やトラブル、激情や極端になるともあります。

私の名前は、「火」の性質がとても強く、この丙午のような性質で人生を送ってきました。よいこともあればよくないこともある。燃えすぎる情熱は時として摩擦や人間関係の軋轢をつくります。昨年、レスキュー隊長の消防士が来られましたが燃えていて冷静という二つの性質を調和することで人命を救助できるお話をお聴きしました。

まさに今年は、黙っていても背中を押されるように熱気や気炎が盛んですからどう調和していくかというのが何よりも重要になります。

風水では、火を調和させるのは土と水の役割です。土と水といって最初に連想するのは「田んぼ」です。田んぼはまさに火と調和する素晴らしい智慧です。

有難いことに今年の私のテーマは、「水」。そして土づくりは私の使命の一つ。丁寧に火と調和し、子どもたちのいのち耀く元氣なお米(魂)が育つような環境を調える一年にしていきたいと思います。

本年もよろしくお願いします。

みずからの一年

今年も色々なことがはじまった一年でした。毎年、新しいことに挑戦させていただき実践が増えていきます。氣がつくと、今の私の暮らしフルネスの実践のほとんどがご縁から取り組んだことの集積であることに氣づきます。

今年はスリランカからはじまり本質的な仏縁も広がりました。英彦山の法螺貝においては、60貝を守静坊から新たに甦生するご縁にも恵まれました。大阪万博のいのち会議にもカグヤとして参加し、子ども第一義のこれまでの取り組みを発信することができました。BAでのブロックチェーンの活動も、次第に仲間も増え聖地のようになってきました。英彦山での仙人苦楽部でも面白い仙人との出会いが新たな自分の仙人活動の境地を開いてくれました。浮羽の古民家甦生もほとんど終え、いよいよ来年から田んぼを守り日本人の心を甦生する取り組みも本格化していきます。

また出会いと別れもたくさんありました。大切な家族の一員でもあった犬のサスケや烏骨鶏のナビキが亡くなりました。講をはじめて結成し、普遍的なかんながらの道を共に新たに一緒に生きていく仲間や同志も増えました。大和の遊行も少しずつですが確かに歩き始めてカタチも顕現してきました。

来年は会社のみんなで恒例のように定めているそれぞれの一文字を私は「水」としました。尊敬するお水に触れ、いのちの根源を学び直し、お水の場を丁寧に磨き澄ませていく一期一会の恩返しの一年にしようと思っています。

振り返ってみると私の人生はずっと美しいお水に守られてきました。いつも何かをはじめるとき、お水が見守ってくださっています。氣がつくと、お水の神様をあらゆるところにお祀りして毎朝、雨乞い神事の法螺貝をお水に鳴動奉納しています。

お水が深くかかることで、いのちも健やかに新鮮に活き活きと癒されていきます。

もっとも大切で何よりも当たり前だと思う存在にいつも感謝できるお水のような柔軟で素直な心で来年は一旅を味わい歩み続けていきたいと思います。

本年も間接的なことを含めあらゆることでお世話になっている御蔭様の八百万のみなさまに、改めて心から感謝申し上げます。来年も、子どもたち、子孫のために徳積循環の実践を積み重ねていきたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

すべてのいのちが循環し、喜び合える素晴らしい刻を過ごせますように。

節目に感謝

昨日は、郷里の仲間や同志と忘年会をBAで行いました。そういえば、ここ数年、忘年会らしい忘年会をしておらず時代の変化と関係性の変化を感じます。本来、暮らしフルネスの中では節目を大切にして振り返りをしますから忘年会はぴったりの行事です。

日頃の苦労を分かち合い、お互いに心を開いて一年を感謝で振り返る。

囲炉裏を囲んでの美味しい食事やお酒に盛り上がり、新しい年への期待と希望、そしてご縁の発展を感じます。

私たち日本人は、未来のことを未だ来ないものではなく未来は起きることが前提でお祝いをする予祝という文化と、過去にあった出来事の意味が見つかる伏線回収という考え方があります。あれがあるから今がある、そして今があるから未来はこうなると過去と未来が今に結ばれているのです。

どれも必然であったとわかると、どのご縁も大切な学びと成長のプロセス、つまりステップだったと確信するのです。

その証拠に、見事な天の采配がありお導きとも思えるような出会いとご縁と場と体験があったことを発見します。つまり人生は道そのものであり、その道中に誰と出会い、どこまで一緒に歩み何をするのかと、お導きを生きるのです。

畢竟、人生はお導きよって物語を彩られそれぞれに主人公として徳が循環する自然のいのちの関係性の中で結び結ばれ和合する体験の妙を味わう忘年会のようなものです。

忘年会というのは、忘れることを善しとします。忘れるというのは、よくないことのように扱われますが人は忘れることで体験を昇華して次の道中の新展開に導かれるものです。

今年もご道中の旅路で出会いの多い素晴らしい一年でした。節目があることに心から感謝します。