暮らしフルネスの本質

色々とむかしから自然農や自然養鶏などに関わってくると、それが自然の暮らし方と密着していることはすぐにわかります。もともとむかしはどうだったのか、自然と共生していればそれが自然とつくものであることがわかります。

例えば、お山で暮らしていると自然に柚子胡椒づくりなどもはじめます。現代は、商売のためお金のために物をつくっていますが実際には自然と共生するなかでお互いにいのちを循環しあうために行っているだけです。

自然との共生というのは、本来の暮らしに立ち返ることです。現代の暮らしは、本来の暮らしではありません。暮らしというものは、自然循環のことで自然循環しないものを私は暮らしとは呼びません。

自然の中で自然と共生する仕組みのなかで生きていく、まさにいのちが活き活きと満ち溢れていくこと、それが暮らしフルネスです。もちろんそういう暮らしをしていれば、自然に感謝しますから足るを知る暮らしにもなります。

すべてのいのちを喜ばしながら一緒に生きる。

まさにそれが暮らしフルネスの本質で本義ということでしょう。

たくさんのものに囲まれていたらなかなか気づき難いものです。シンプルなもの、洗練されたものとは、自然の存在そのままです。自然あるがままに感謝して、自然と共に歩んでいく生き方。

時代が変わっても、子どもたちのためにもそのような暮らしを伝承していきたいと思います。

お水の不思議

液体というものはとても不思議な存在です。よく考えてみると空気と同じくらい、此の世にはなくてはならない存在です。私は火を深めていますが同時に水も深めています。火と水が調和するほどに、その存在がいのちを育んでいることを学びます。

液体のことを少し深めてみようと思います。

そもそもこの液体は最後の古典物理の難問ともいわれ未だに解明されていません。使ってはいるけれど理解できていないというもの、それが液体です。特に液体の代表はお水です。このお水のことは私たちはお水なしには生きていくことは不可能ですが、そのお水の存在そのものは何かということがわからないのです。

例えば、お水には色々な性質があります。氷になったり蒸気になったり、あらゆる変化をしながら液体から変化します。液体は、この地球をはじめ私たちの体内をめぐり、あらゆるものと渾然一体になって存在しています。

液体の状態は特に奇跡と不思議に満ちています。その状態のお水の触れ方だけで味を変えたり薬になったりもします。または記憶媒体になったり、甦生したりもします。あらゆる成分と調和し、その成分の力は発揮させます。

液体は循環運動を続け、螺旋のように渦になりいのちの間をめぐるのです。

液体が解明されないのはなぜでしょうか。

それは液体は分けて考えることができない存在だからだと私は思います。そもそも科学や知識は分別知識によって構成されます。しかし全体宇宙にはそうではない存在の方がほとんどです。その代表こそお水です。

お水をそのまままるごとに理解するには、お水の接し方から学び直す必要があります。その一つに注ぎ方というものがあります。

色々と試行錯誤をして、豊かなお水の関係を築いていきたいと思います。

後ろから見守る

昨日、吉田松陰を尊敬している企業経営者のお二人の若者が訪ねてきてくれました。吉田松陰の生き方に憧れ、一生懸命に志を伝承しておられました。とても感慨深く、役割をそれぞれに果たしていることの有難さを感じました。

志というものは、伝承によって受け継がれていくものです。誰かが何かを志したことの琴線に触れ、その志の一部が自分のものとなり発展していくのです。

自分のことを思い出してみても今の自分を形成したのは、人に出会い志を受け継いできたからです。自分のいのちを懸けて一生を費やし、大切なもののためにいのちを使う。それを使命ともいいます。

使命をもって生きている人に出会うことで、自分の使命を思い出します。思い出した使命があるから、その使命に従って自分を生き切っていくことができます。

使命は役割によって変化しますが、それは時に応じても変化します。

まるで何かの荷物をみんなで抱えて運んでいくように、御神輿のようにその純粋な魂や志を担いで道を歩んでいくのです。

何かを為すことも大切ですが、どのような志と思いで為すかということの中に真の幸福と生きがいがあるものです。

歳をとって、自分のことを振り返り、後を続く人たちが元氣に追いかけてくるのを感じると偉大な安堵感と喜びがあります。後人のためにも、道をあけて今度は後ろから見守っていく楽しみを味わっていきたいと思います。

志とは何か

志という文字があります。これは色々な使われ方をします。たとえば、同志であったり立志であったり、意志であったりします。

この漢字は、古代中国では「志をもって生きる人」であったり「学び、使命を担う者」を表していて単なる身分のことをいうのではなく使命、つまりは自らの在り方を自覚した人を意味したといいます。

吉田松陰が「志をもって立ててもって万事の源となす」という言葉を遺しています。これは志こそ、すべての根源であると言い切っているものです。

その理由はなぜか。

それは志とは継続される生き方だからです。志というのは、自分のいのちを何に使うかということを覚悟するということです。それは日々にいのちをどう使うかを続けるということです。それは片時も離れず、いのちあるがままに自分の行き方を追求していくという実践を意味します。

つまり、どう生きたか、それが志なのです。

日々はどう生きるか、どう生きたかの実践道場です。

毎日、刻々と時は刻みます。その一瞬一瞬、今、心はどうあるか、自分の覚悟はどう決まっているかを内省し反省し只管に真心、つまり至誠を盡すのです。

これらの生き方こそ、魂が研ぎ澄まされた状態でありいのちを燃やし尽くしていく全身全霊の生き方です。そこに正解もなく、良し悪しもなく、ただ生き切ったという事実だけが残ります。

そうやっていのちを循環させていくことに仕合せを感じるのは、この世で生きる至高の喜びだと私は思います。

色々なことをいっても、誰の人生もその人のもので使命があります。今日もそういう一期一会で真剣な一日を過ごしていきたいと思います。

私たちの冬至祭

2025年12月22日は、場の道場では冬至祭を開催します。この日は、世界中で太陽のお祭りが行われます。日本でも一陽来復といって、陰極まって陽になるとし一年で一番昼の時間が短く、夜が長い日です。

今年の冬至点は、2025年0時3分。甦生のポイントになります。その刻までどのように最期の刻を刻むのか。それが私たちが取り組む冬至祭です。この日は、いのちにとっては大変重要な日です。

私たちは毎日細胞は生まれ変わります。同じ細胞はありません、常に一期一会に死に生れ、新しくなっていきます。この自覚で時を刻んでいるのかで私たちのいのちの本当の時間を生きていけます。

この冬至をむかしの人たちはどのように過ごしたでしょうか?

日々に短くなっていく昼間、そして長くなっていく夜。寒さは厳しくなり、食べ物はなくなります。どうこの先、生きていけばいいかとその日の夕方に沈む太陽を眺めてはあれこれ心配になったはずです。しかし夜空を見上げれば冬の澄み切った満天の星々の光。明けない夜はないと、家族で静寂とぬくもりを感じながら火を焚き太陽を待ったのではないでしょうか。そして朝になって太陽がはじまって次第に日が長くなっていきます。

このダイナミックな活動は、太古のむかしから変わらずに私たちに偉大な影響を与えています。現代がネオンが明々とし光が途絶え、競争で目先ばかりで目を曇られ、お金や時間に縛れていたとしても、ふと立ち止まり冬至点に身を置けば懐かしい魂に触れて覚醒するものです。

太陽が生まれ変わるのは、自分が生まれ変わることです。

自分を変えていく、自分が変わっていく、それは自然に変わっていくことです。

この世の正体はすべて和合一体、むすひであるという法理。

宇宙の中に住み、暮らしている私達だからこそ太陽と一緒にこの日をいのり祝いたいと思います。

仙人苦楽部

昨日、英彦山の守静坊で仙人苦楽部を開催しました。気が付けばたくさんの仙人との出会いがあり、とてもお山での暮らしも豊かになってきました。多様な才能や徳を持っている人たちが人生の中で真理や伝統や智慧に触れる。未知なものに触れることほど好奇心を育てるものはありません。

仙人というと、よく俗世より離れて白髪の白髭のお爺さんを思い浮かべるものです。しかし実際には、時を超越し、刷り込みや洗脳などまったくなく、純粋で不老不滅、まるで自然そのもののような存在であることがほとんどです。

その証拠に、自然の叡智に精通し、宇宙の法則も暮らしの中で自由自在。目には見えないものもはっきりと自覚自明し、その一端を顕現化するほどに修練を積んでいます。

もともと、最初の根源は何だったか。教えなどなかった時代、何がもっとも私たちが観えている世界だったか。これを私はよく考えます。

例えば、建築であれば最初の人間の建築はなんだったか。もともとは何が建築だったか、飛鳥時代の大工はなぜ法隆寺をあのようにできたのか、あるいは古墳を含めあらゆる建造物の始まりは何かと思いを馳せます。

そうするとその当時、まだ何も刷り込まれていないときの視野が観えます。

昨日は、リズムの仙人でしたが表裏一体、陰陽調和、音の法則、原初の人々が何をリズムとしたか。それを全身全霊で体験する入口をドラムという楽器の徳を使い味わいました。

また最後に英彦山や宿坊に奉納演奏をしていただきましたが魂が揺さぶられる演奏に今でも深く心に余韻が残っています。よい出会い、よいご縁は、子どもたちへの伝承の種になります。

来年はまた面白い仙人がたくさん英彦山に集まってくることでしょう。心を穏やかに静かに素直にご縁を場で結んでいきたいと思います。

法螺貝講習

昨日、英彦山守静坊で法螺貝講習を行いました。一人一人に丁寧に、法螺貝を吹いてもらい何が課題で何が重要か、そして吹き方の癖やどのように吹くと振動や音が安定するのかなどを見つけて指導していきます。

今回は、私のメンターの立螺師も宇佐から来ていただき一緒に考え方をはじめ法螺貝を吹くことの意味や背景、その歴史や経緯など、仏教の真理に従い進行していきました。

例えば、法螺貝を立てるときの偈文に「三昧法螺声」というものがあります。この偈は、仏教の教えを表し、法螺貝の音が三界の神霊を驚かせ、妄夢を醒まし、覚りの位に導くとされているものです。他にも「一乗妙法説」などの偈文を唱え、魔障を払い、大日如来の説法からご祈祷が始まります。

その中で、最後に「當入阿字門」と最後に唱え法螺貝を吹きます。

この「阿字門」とは何なのか?

これはシンプルにいうと「阿」という万物の根本真理に入り、悟りの本質に至ることを意味する真言密教の言葉です。

まずこの阿は、梵字(サンスクリット文字)の 「अ(a)」 のことです。この阿は万物の根源・生滅しない真理(不生)・大日如来そのもののことを指します。つまり不生不滅の存在、分別することのないあるがままの存在のことです。

そして阿字門とは、その悟りへの入り口に入ると門のように見立てたものです。最後は、すべての修行は阿に帰着するのだという意味で唱えます。「當入」というものは、「まさに入るべき」「正しく入る」という意味になります。

この法螺貝の音を聴き、まさに自己と宇宙(大日如来)が一体の存在であることを悟るのだということがこの「當入阿字門」です。

法螺貝を吹くたびに、この心願を唱えます。

私たちが吹いている法螺貝は、その音を聴けば宇宙と一体になる響きを味わう。まさに宇宙の螺旋を顕現する唯一無二の存在が法螺貝であると私は信じています。

参加者の講のみんなも活き活きとし、また法螺貝をもっと吹き込みたいと熱気が充ちていました。このように繰り返すことで、はじめてやっていることの意味や、自分たちがなぜ法螺貝に導かれたかがわかります。

ご縁を大切にし、また次回の講習を楽しみにしています。次は法螺貝網袋に使う「七宝」の真理についても学び合いたいと思います。

いのちを綴る

先日、AIを使ってこのブログの思想体系を整理してもらいました。秀逸にまとめられて、読んでいてよく整理できていてとても関心しました。誤字脱字などもほとんどなく、そのまま一冊の本になりそうな具合です。

便利な時代になったことと、この文章というものが実際の体験そのものとは乖離していることを改めて気づくよい機会になりました。

そもそも文章というのは、便利な道具の一つです。そこにはその文章という括りの中で文字を配列します。この配列次第で、それを読む人たちの共通理解や相互理解ができます。例えば、暑いといってもどの程度の暑いなのか。そして誰がなぜ暑いのかなどいくらでも状況を文章で表現していけます。

当然ですが、文字を知らない人は文章を読んでも意味がわかりません。違う言語の言葉であっても同じです。限りある制限のなかで文字や言葉は構成され活用されています。

しかし、文字では表現できないものがたくさんあります。それは実際に触れたり見ないとわかりません。このようなものと抽象的に表現できても文字では説明できません。どれだけAIが熟練しても文字ではできません。

宇宙という言葉もまた同様に、宇宙の一部を切り取って私たちは宇宙を表現し、宇宙を知らない人は宇宙の共通理解もありません。地球というものも同様です。先に言葉がわかってもそのもの本体はわかっているわけではありません。

説明することと実行することは異なります。私はブログを振り返りで使っています。言い換えれば、記録ですがこれは意識の記録でもあります。自分がどのような意識であるかを常に確認して、自分の物語を綴っているのです。

文字の徳は、この物語を綴ることではないかと感じます。文字にもいのちがあります。そのいのちは文字を綴ることによって結ばれ新たに甦生し続け共に生きています。

切り分けによる限界は、それ自体がいのちではないからかもしれません。いのちは、意識する時にこそ結ばれるものです。

引き続き、時代の変遷で便利な道具のリスクを見つめながら丁寧に関わっていきたいと思います。

体と調和

よく考えてみると、人間の体の仕組みはとても神秘的です。例えば、毎日食べるものを消化吸収して分解してエネルギーに転換するだけでも全身全霊であらゆる機能が働いていることになります。

胃なども特徴的で、胃壁から分泌される胃酸(主に塩酸)が食物の消化を助けるために強酸性の環境をつくり細菌の殺菌をします。それに食物中のタンパク質を変性させることで、消化酵素が消化を促します。またその胃酸から胃を守る粘液をつくります。加齢とともに胃の働きも衰えていきますが、それでもこの胃がある御蔭でいのちを循環させていくことができます。その他、小腸大腸、あらゆる臓器が有機的に働いていのちを循環させます。

年々、体をはじめ臓器の有難さを実感するばかりです。つい日常の外側の生活に軸足を置きすぎていると、自分の身体のことを忘れてしまいます。疲れやストレスが身体にも影響でてきますし、気候変動をはじめ日頃食べているものに順応するにも労力を使っています。

ついこの程度はあちこちよくなくても、無理をしてしまうものですが改めて感謝ばかりなのがこの体です。

体の声を聴いていくことは、自分の状態を自覚するのにとても役に立ちます。

また食べ物などは特に影響が大きく、体との対話にとても役立ちます。お蕎麦などは手打ちするところから食べているような感覚になりますが、とても美味しく、蕎麦湯をはじめ心身が調います。

私たちの体の働きは、調和がもたらすものです。胃もたれなどは不調和が原因です。これはうまく胃が働けないということです。うまく働くには、「調和」が必要。これは組織をはじめ人間関係にも言えることです。

いいハタラキをすることは、調和するものを大切に意識しているからだといえます。日々が調和で生きられるように、まず身近な体から大切にしていきたいと思います。

力の使い方

力というものがあります。これはエネルギーのことです。エネルギーというのはよくガソリンや電気などで使われます。しかし、実際にはその燃料という定義ではなく、いのちという定義もあります。

いのちというのはエネルギーが結集したものです。つまり力が集まって顕在化したものともいえます。ガソリンや電気だけではなく、宇宙から微生物まですべてはこのエネルギーや力が統合したものが可視化できたものともいえます。

実際には可視化できないものもいのちであり、可視化できたものもいのちです。つまりいのちというのは、何らかの力が集まったものということでもあります。

この力というのは、例えばものづくりなどでもすぐに自明します。私もよく手作りや手作業をしますが、その時、力を集中して形にします。その時、何のためにやるのか、誰のために、そして信じるものの力を入れることで精神も統合していきます。つまり力の中には、物理的なものとは別に精神的なものも入るのです。そうやってエネルギーや力が注ぎ込まれて形はできます。

この世のかたちは全てこれらの力が統合したものでできたエネルギーということでそれをいのちと呼んだのでしょう。

いのちは、力の使い方で変わります。うまく統合していけば、力は発揮されます。逆に分散して散乱すると力がうまく働きません。そうすると形にもなりません。

無から有をつくるという行為もまた、厳密にいえばこの力の使い方のことです。

力の使い方を学び直していきたいと思います。