場を調える

人は場を調えることで仲間が増えて志も磨けるものです。場の道場を運営する中で、大切にしているのはこの仲間と同志です。そもそも場の中には、いつもこの仲間と同志がいます。場が調和すればするほどに素晴らしい仲間と同志に恵まれるのです。

今週末は、朝倉の旧三輪町の大神いにしえの田んぼで稲刈りと稲架かけもします。手植え手がりですから、少ない人数ではとても大変です。しかしいつもたくさんの仲間や同志が助けてくれます。みんなで和気藹々と楽しみながら田んぼで元氣になっているとそこには場が産まれます。そしてその場の稲もまた、美味しく元氣になります。場が全体を元氣にするのです。

人間は、どの時代も場を創造している中で暮らしが醸成されているともいえます。どのような場をつくろうかと、みんなで力を合わせて取り組んでいくのです。

現代は、歪んだ個人主義が横行してみんなのものという意識が失われてきています。自分の敷地、自分の財産、自分のお金、何でも自分自分と権利を主張して争いが絶えません。

むかしは、地域であれば神社などもみんなのものでした。美しい水源も、風景もそして子どもたちもまたみんなで大切に見守り合ってきました。そこには素晴らしい場が産まれていました。

私たちは自分というものを優先しないことで、場をつくり仲間や同志を増やしていきました。これは自然の循環も同様に、一緒に生きる仲間として認め合い徳を譲り合って繁栄してきたのでしょう。今、日本の山々や田んぼにはソーラーパネルばかりです。山は自分の土地だから何をやってもいいということでしょうか。しかし、本来はお山はみんなの大切な場です。そこには鎮守の杜があり、水源もあり、樹木が生き物たち、微生物を見守り循環の根源があります。

私たちはそろそろ目を覚ます必要を感じます。仲間や同志がいることを思い出す時機です。平和もまた、調和の真っただ中にこそ存在するものです。

懐かしい真心を稲刈りや稲架かけを通して学び直して、子孫へ継承していきたいと思います。

氏神と氏子~見守り合い~

地域には氏神様というものがあります。そしてそこで一緒に育つ存在が氏子です。幼い時から、お宮参りをして氏神様に成長を見守っていただきました。私も子どもたちが幼い時に、地域の氏神様が祀られている神社が3社ほどあり七五三をはじめ大切な節目にはいつも感謝のご報告と御祈願をしてきました。

振り返って見ると、氏神様はいついかなる時もその土地での繋がりやご縁を見守ってくださり私たちに偉大な恩恵を与えてくださってきました。雨が降り、風が吹き、食べ物をいただき、季節の恵みをいただく。それを創り出している存在とは何か、まさにそれがその土地でありその地域であり、地場そのものです。それを私たちは故郷といい、身土不二ともいいます。

土地との繋がりのことを、地縁といいます。

地縁によって私たちは様々なものと関係を結びます。土地の人間関係もあれば、風景との関係、そしてあらゆる歴史や先人たちとの関係もあります。代々、ずっとその土地に暮らしていけばその土地そのものと一体になっています。つまり風土が私になっているのです。

その風土を善くしたい、その風土に恩返ししたいという気持ちが私がここに徳積財団を設立した理由です。恩徳が循環するように、その地縁に報いていきたい。小さなことではありますが、かつて先人たちがそうであったように自分の暮らす場を調えていくことは仕合せなことです。

故郷がここだから日本のことを考えない、世界のことを思わないのではなくこの土地は日本とつながり世界とつなり地球とつながります。今居る場所を、より善い場所にしていこうとする真心こそ氏子の本心であろうと私は思います。

氏神様と氏子は見守り合うときにこそ成立します。

お互いが見守り合えるように丁寧に関係のお手入れをすることがお祀りであり、お掃除です。かつての人々がそうであったように、私も子どもや子孫のために真心を盡していきたいと思います。

竹の甦生

来月、故郷にある綱分八幡宮の竹藪の伐採を声掛けしたら仲間たちや地元の中学生たちが集まってくれることになりました。ここは幼い頃から、よく境内で遊んだ神社です。相撲をとったり、ランニングをしたり、虫取りや木登りなどをした記憶があります。

この竹藪はちょうど参道の脇に鬱蒼として檜なども枝が伸ばせず、また太陽が入ってこないので暗くジメジメしています。やぶ蚊も多くて、参道を歩く最中にたくさんの蚊が飛来してきます。

そもそも竹藪が竹害となったのは、人が管理しなくなったからです。竹は持続可能な貴重な自然の材料で、長い歳月、私たちの暮らしを支えてきました。それが高度成長期に入り、プラスチック製品が増えて便利になり竹は失われました。ちょうど、その頃、管理しなくなった真竹もほとんど枯れて暮らしに活かしてきた竹は消えていきました。

竹は日本には約600種類のものがあるといいます。有名なものは、とても大きくなる中国から渡来したモウソウチク(孟宗竹)、竹の皮に黒褐色の斑点があるマダケ(真竹・苦竹)、寒い地域でも育つハチク(淡竹)、柔らかく粘り強いメダケ(女竹)、庭で使われるクロチク(黒竹)、棹の下部が七福神の布袋様の腹のように膨れ上がるホテイチク(布袋竹)、四角形の 稈 が特徴的なシホウチク(四方竹)、庭で使われるトウチク(唐竹)、山伏がお茶にするクマザサ(熊笹)、チシマザサ(千島笹)、ミヤコザサ(都笹)、そして私が下駄で使っている天然記念物のトラタケ(虎竹)などがあります。世界には合わせて約1200種類といわれますがそのほとんどが日本にあります。日本は竹のさきわう国です。

その竹が害になるのは、お手入れ不足です。自然と共生し、自然の生産性と循環を守る為に私たちは自然と共生した暮らしが必要でした。現在の自然が害となるのは、自然との共生をやめてしまったからです。あちこちにはソーラーパネルをつくって、自然を破壊していきます。竹が害なのではなく、人の欲望や煩悩が害になっているのです。

神社というのは、本来清浄な場で清々しい空気を纏っている場です。大切な1300年の節目に、みんなで参道を調え、竹に感謝して竹をいただき、故郷をずっと守ってくださってきた神様とご先祖様たちの遺徳にご恩返しをしていきたいと思います。

過信とは

人は実力以上のことを思い込むことを過信ともいいます。この過信の正体とはどういうものか。それは事実やあるがままの現実を歪めることを言うように思います。つまりは自分の思い込みというものです。

ある事情があったとき、例えばそれを真心を盡して奇跡が発生したとします。その奇跡は自分の実力ではなく、ある意味、尽力して他力が入って偶然に自分の思い通り以上の結果が出たとします。それを自分の力だとどこか思い込んでしまうところに過信があるのです。

そもそも過信というのは油断を産みます。油断=過信ということです。過信しないという言葉は、油断しないということです。自信と過信は異なります。自信は、どういう結果になっても自分を信じるというものであり過信は自分の思い込みによって信じているものです。

思い込みによって信じることを他人は慢心と呼びます。自分というものを何か別の何かのように誇張していく、あるいは特別の存在のように思いこむ。自分を本来の存在よりも過剰に意識することによって過信が生まれます。自信過剰という言葉もあります。

思い込まないためにどうすればいいか、そこに謙虚さというものがあります。思い込みではなく、あるがままを聴く素直さ。もっと言えば、心の穢れを洗い清めて常に澄んだ気持ちでいること。その状態になると、人は謙虚でいられるように私は思います。

謙虚さがないというのは、何かそこに別の穢れがこびりついているということです。

時代が変わっても、人間の本質は変わりません。生き方を常に見直し、よく見つめ、精進していきたいと思います。

普遍的な教育

現代の教育というものは、優劣があります。知識が豊富で権威があるところが、資格を出しその資格が社会の中での自分の基準になっていたりします。そもそも教育とは何か、もしも権威などがなければ何が教育なのかという定義も異なります。

すでに職業としての教育者が当たり前になり、それを仕事にしてお金を稼いでいます。教育費用は、大変高額で誰でもお支払いすることはできません。奨学金という名の借金をしては教育を受けています。この時の教育は、技能に集中しています。

例えば、助け合いや道徳ということを學ぶのに高額な教育費はかかりません。そしてそれを実践し実行する人も徳のために行うために見返りも求めません。しかしこれを現代では教育とは呼びません。職業にもならず、資格もないからです。

私はこう感じます。

そもそも人間は自然環境の中で数億年以上、生き延びてきた生物ですからそれだけ厳しい自然のなかでも助け合って暮らしてきました。その時の人間は、知識はあまりなくても人間性は調っていたように思います。縄文時代の遺跡から争った気配がないこともまた、助け合う風土が醸成されていたのを感じます。

現代においては、歪んだ個人主義やマッチポンプ商法、利権やよくない政治ばかりが横行している環境においてはかつてのような人間性が発揮されにくい状況です。そんな中、教育もビジネスになり教育者も職業教育者です。みんなお金のために働いていたら、教育もまたお金のためになります。

本来、このような現代のような状況下においては私たちは教育の定義から見つめ直す必要を感じます。人間が生き延びるための智慧、そしてこれからどのようにして生き延びるか。

それはお金をたくさん稼ぐ方法を教えるのではなく、やっぱり人間性に原点回帰することではないかと思います。思いやり助け合い、見守り合う。共生し、尊重し、分け合い存在そのものを丸ごと愛し合う。自然から学び、自然の循環と共に暮らしを長く豊かにして仕合せを追及していくということ。

そういうものが今の時代では真の教育になりうるものだと直観するのです。

優劣は競争から、そして権威や権力は欲望から発生します。

子どもたちや子孫のためにも、悠久の時間軸のなかで普遍的な教育を伝承していきたいと思います。

徳と智慧

昨日、呼吸のことについて深めましたがそもそも人類の呼吸はいつからはじまったのか。科学的には、シアノバクテリアという藍藻(らんそう)という光合成細菌に辿りつきます。

この藍藻は、30億年前に地球上に初めて現れた酸素発生型光合成生物であったと考えられている存在です。藍藻の光合成によって、地球上に初めて酸素と有機物が安定的に供給されるようになりそれが現在へとつながる生態系の基礎が築かれたといわれます。

つまりこの菌が光合成が呼吸をして二酸化炭素を吸い酸素を供給するのです。二酸化炭素は私たち人類、もっといえば菌が発酵するときに燃焼して出てくるものです。それを植物が吸って酸素を供給します。地球は、光合成細菌と発酵する菌のバランスによって温度も気候を含めすべての調和が保たれているということです。

現実として、呼吸をするというのはこの菌たちの共生の理の中でいのちが生きているということになります。植物と動物の関係もまた、最小単位で観るとこの藍藻という光合成細菌と、発酵という腸内細菌の関係と同じです。

菌からこの世のすべては形成されてきたというのはさておき、この地球の存在はこの絶妙な調和と共生によって生態系が存在できているというのは真実です。だからこそ、その根源である呼吸には地球創生からの継続継承してきたいのちの智慧が宿っているともいえます。

呼吸を調えるということは、地球を調えるということにもなるのです。

そして私が法螺貝を使うのは、その螺旋構造の中にその神秘が宿るのを直観するからです。ただ二つのものが共生するのではなく、そこに縦軸といった螺旋になるような徳が循環する真理が宿っています。

座禅も瞑想も、この法螺貝も呼吸を中心に自分の身体の真奥へと入っていくものです。

引き続き、場を通して現代でも普遍的ないのちの仕組みを解いていきたいと思います。子どもたちや子孫へ、徳と智慧をつないでいきたいと思います。

法螺貝と呼吸

法螺貝を吹いていると呼吸の話に必ずなります。呼吸というのは、私たち人間にとって空気や太陽のように当たり前の存在ですがそれだけに神秘的です。この当たり前になっているものこそ、実は最も大切な存在で私たちの健康や長寿、そして幸福や調和などと深くかかります。

呼吸は、世の中には様々な呼吸法が存在します。現代は、過度のストレス社会や緊張からか呼吸が浅いといわれます。浅くない呼吸のことを深呼吸ともいいます。深呼吸をする人が減り、様々な病気が増えているともいえます。

私たちの身体は細胞が集積して形成されます。その細胞は呼吸をします、そのために私たちは全身で呼吸をするのです。具体的には、 酸素は血液を介して細胞に届けられ、細胞内で有機物を分解してエネルギーを生成します。そして細胞小器官であるミトコンドリアで行われそこで酸素と二酸化炭素の受け渡しが繰り返されます。そのためにも細胞は酸素を必要とし、エネルギーを生成するために欠かせません。

呼吸が浅いというのは、十分な酸素が細胞に行渡らないということになります。そうすると、エネルギーが生成されずに代謝や甦生することが難しくなります。

私たちは呼吸を通して、様々な力を活用している生き物です。運動するのも呼吸、声を出すのも呼吸です。他にも、自律神経や副交感神経なども呼吸です。また胸式呼吸や腹式呼吸というものがあります。

法螺貝が腹式呼吸を使って呼吸をしますが、副交感神経が刺激されリラックスをして落ち着きます。

呼吸はあまりにも身近にあるものだからこそ、意識して呼吸を調えることで健康や調和を実現するのです。そういう意味でも、法螺貝はとても心身健康に役立つ最高の法具です。

引き続き、呼吸法を一緒に学びながら法螺貝の和を広げていきたいと思います。

オノマトペ

先日、浮羽の古民家のお米の商品の打合せで食感について発見することがありました。私たちは食べ物を理解しあう時に、サクサク感がほしいとか、もっとパリパリとか、そのニュアンスや感覚で味覚を共有したり調理を近づけていきます。そこは言葉というよりも、感覚をそのまま表現しています。この時に使う擬音語と擬態語を総称してオノマトペといいます。

このオノマトペの元々の語源は、古代ギリシア語の「onoma(名前)」と「poiein(作る)」が融合してできた「onomatopoiia(オノマトポイーア)」に由来するといいます。英語では「onomatopoeia(オノマトペア)」、フランス語では「onomatopēe(オノマトペ)」となり、日本では「オノマトペ」を多く使われます。

例えば、先ほどの食感でいえばカリカリとかモチモチとか、パサパサとかシャキシャキ、ホクホク、トロトロなどたくさんあります。食感を感じて、どうだったかと近づけていくと最初はもっと甘くとか、さっぱりとかいいますが次第に深まって微細な調整が出てくると先ほどのオノマトペが出てくるのです。より感覚、より感情と一体になっています。

日本には古来よりこれらのオノマトペが豊富な国です。言霊のさきわう国といわれてきた理由かもしれません。この言葉というのは、ただの連絡ツールや情報交換ツールだけではありません。時には、不思議な力を発揮して現実を変えてしまうことがあります。かつては呪力があると信じられ、言葉から奇跡をたくさん実現してきました。

本来、私たち日本人は自然というものを外側から感じるのではなく自然の一部として自然と一体に繋がっているところの意識で暮らしてきました。うちでは烏骨鶏を8羽ほど飼っていますが、朝から鶏の鳴き声で目覚めて朝が来ます。その時は、コケコッコーなのです。一緒に生きている仲間として、一緒に暮らしている家族の一員としてコケコッコーはそのまま心身に届きます。他にも、秋雨前線が近づき大粒の雨がザーザーときたり、雲がサーサーと流れていたり、乾いた風で落ち葉がカサカサと吹かれます。

そのどれもが季節と一体になっているものであり、そのものと同じところで発します。つまりは、相手と自分との境界がなくつながっているところで聴いているということです。そこで聴いているからこそ、発するのも同じように聴いたままに発します。その子言葉が通じ合うのは、繋がりの中に共にいるという感覚があるからです。

お米であれば、田んぼやその中の生き物たち、四季や関係性のすべてと一体になってご飯を炊き食べます。炊き立てのご飯を食べるとき、そのプロセスやつながりを味わっているのです。

私はだいたい、暮らしフルネスの中で人工的な生産性や効率などを度外視しています。それは別に暇なのではなく、こだわりが強いわけでもなく、ただそのものと繋がりながら生きているとそうなるだけです。

繋がっているという感覚は、分かれていないという感覚です。つまり言葉で敢えていうのなら自他一体であり、全体最適、あるいは神人合一のような感覚なのかもしれません。

引き続き、先人たちが磨いてきた感覚を大切に継承しながら生き方を磨いていきたいと思います。

自然に通じる

昨日は、筑豊在来種の日子鷹菜の種を自然農の畑に蒔いてきました。近年は、イノシシもよく入ってきて対策に苦労しています。普通の柵くらいではほとんど効果がなく、イノシシが本気を出せばあっという間に破壊してきます。

近くに柿園もあり、音で撃退しようとしていますが雨の日に入ってきてはあっという間に荒していきます。彼らも生きることに必死ですから、食料が山に減ってくればすぐに畑に降りてきます。

現在、高菜を育てている畑の下は空き地にしていてそこにイノシシがたくさん来るようにしています。敢えて、隙間や自由、自分たちのスペースを用意することで高菜の畑に来ないように場を分けています。

自然が多いところというのは、それだけ自然の縄張りのようなものがあります。現在、英彦山で薬草園もつくっていますが野草の力が大きく、なかなか一般的なものはそのままだと育ちません。人工的なものが調和するには、かなりの時間がかかり自然に認められるまではコツコツと手入れをしていくしかありません。

この時季は、葛なども旺盛でほとんど畑の周囲を取り囲むように旺盛に育っています。もう少し先になれば、乾燥して枯れますが柵などはあっというまに倒していきますし、近隣の木々などはほとんど葛の木のようになっています。葛は梅雨時期などは一日に80センチほど伸び、節でクローンのように繁茂していきます。蔓植物というのは、なかなか厄介なものです。根こそぎしか対策はなく、私は農薬は一切つかいませんから手作業で取り除くしかありません。

現在は、なるべく共生できるようにここまでという範囲と、ここからは自由という範囲を分けています。ここまでと間を定めてコツコツ手入れすると、植物にも伝わるのかそこからは入ってこないようになります。

先ほどのイノシシも、ここまでと決めて全部を荒していなければおおらかな気持ちになっておけばそこまでは荒しません。むしろ英彦山の鹿の方が、宿坊の庭の中にまで入ってきて何でも噛んで食べていきます。しかしよく観察すると、植物が枯れるほどは食べません。上の方だけ食べては、また伸びたら食べにくる程度です。

昨年は、土が激しい暑さで乾燥してしまい発酵が間に合いませんでした。今年は、発酵するように草刈りを早めにして草を敷き、発酵を促しました。日子鷹菜スパイスや高菜漬が大変好評で今年はちゃんと収穫する責任があります。

しかしこの日子鷹菜は、職業として仕事でやっているのではなく供養からはじめたものです。今も初心は供養の気持ちで関わっています。何のためにという心は、不思議ですが自然の動植物にも波動として伝わっていくように思います。

お金のためとなると、容赦なく自然はその動機を試してきます。供養や真心であれば、自然の心の通じていきます。私たちは自然と繋がって生きています。自然もみんな生きることに必死です。お互いに尊重しあいながら、時には奪われ、時には与えますが、お互いに助け合う心あってこそ自然の生産性に任せていくことができます。

引き続き、今年の高菜を見守りながら後半の季節を味わっていきたいと思います。

 

冒険を楽しむ

長い間、共に同じ志を持って歩んでいる仲間がいます。それぞれに日頃は離れていても、不思議ですが心は一つでお互いに尊敬しています。人生というのは、それぞれに自己との対話や精進を続けていてそれぞれの道の中で生き方を磨きます。

この自己を磨くのは、自己の初心を守るためでもあります。人間は覚悟を決めたら、後は覚悟が試され続けるだけです。

よく覚悟を決めたのにブレてしまうということを言う人がいます。実際に覚悟が決まったら迷わないともいいますが、実際の覚悟は常に今を覚悟で生きている状態です。それを忘れてしまうと、自分で決めたことも変わってしまいます。他人軸ではなく、自分軸でこれは自分が決心したのだと何度も確信して反省をし続けているのが覚悟の実態ともいえます。

私は小さいころ、植村直己が大好きでした。よく本を読んだりして、「冒険」というのをしてみたかった。その冒険をこの歳になって、あれは覚悟だったのではないかと感じるようになりました。

植村直己はこういいます。

「冒険とは、死を覚悟して、そして生きて帰ることである」と。これは、生きているというのは、命懸けでいることであるという意味でもあります。

「みんな、それぞれが、何か新しいことをやる、それはすべて冒険だと、僕は思うんです」

そしてこうもいいます。

「困難のすえにやりぬいたひとつ、ひとつは、確かに、ついきのうのできごとのように忘れることのできない思い出であり、私の生涯の糧である。しかし、いままでやってきたすべてを土台にして、さらに新しいことをやってみたいのだ。若い時代は二度とやってこない。」

冒険を共にする仲間がいて、それぞれの船に乗って大海の旅をする。朝夕に自分の今の布置を確認しながらまた風に吹かれ、潮に流され、航海を続ける。

人生の冒険は、覚悟があってはじめて続けるものかもしれません。

引き続き、冒険を楽しみ自分の決めた道を歩んでいきたいと思います。