夏至 陰陽転化

本日は夏至で、私たちも夏至祭を行います。この夏至というのは太陰太陽暦における二十四節気の一つです。2月には冬至祭を行いましたが、暮らしフルネスでは太陽と月の運行で一年を過ごすことで宇宙自然のリズムの豊かさを感じやすいということで取り入れています。

同時に、自然界もまたこの太陽と月にあわせて生々流転しているのでその循環を味わうようにできているものです。

この夏至は「日長きこと至る(きわまる)」という意味があるといいます。冬至は陰極まって陽になり、今回夏至は陽極まって陰になるということです。

これを陰陽転化ともいいます。これは片方が最高度に達したときに他方に転化するという仕組みです。自然界はこの陰陽転化に合わせて、それぞれのいのちを調整していきます。例えば、バランスを崩して風邪を引けば高熱が出て下がり平熱に戻る。あるいは体温が冷えすぎて風邪をひくというように、この陰陽のバランスが体調維持に大きな影響を与えます。中和するために、私たちは自然に睡眠や排せつ、水分補給や栄養などを摂取して日々を生きているのです。

意識していなくても、身体は自然に陰陽調和をし続けている。これは地球も同じで宇宙も同じです。

話を夏至に戻すと、日本がある北半球ではこの日が一年のなかで最も昼の時間(日の出から日の入りまで)が長くなります。これは太陽が黄道上で最北に位置する「夏至点」を通過する日です。

夏至は世界中でお祭り行われています。太陽のお祭りですから、火に因んだものも多くなります。私たちは、宗教ではなく生活の中で信仰していますから自由にお祭りを楽しむことができます。もちろん、伝統的な神事に習いいのりは捧げますが、太陽の光から火を熾し、それを備長炭に移してこの日はずっと太陽の灯と共に一日を暮らします。

また太陽の光をたくさん浴びてこれから陰に入っていく太陽を深く感じます。太陽の光の豊かさは有難く、太陽がなければ私たちは生きていくこともできません。世界は色々な状況が変化して、暗雲も立ち込めていますが太陽はむかしから変わらずに私たちを見守ってくれています。

夏至を味わい、冬至に向けて陰陽調和を楽しんでいきたいと思います。

法螺道の加減

匙加減がわかるという言葉があります。この匙(さじ)とは、薬などを調合するときに使うスプーンのことです。分量次第で色々と効能も変わりますから、相手に合わせてまた状況や症状で適切にできる加減のことです。

この加減という言葉は、調整、調律、具合なども意味が近いものです。加えることと減らすこととありますが、これは力の調整、調律、具合などを合わせるということです。

例えば、物体であれば壊れやすいものや薄いものなどは特に丁寧に力を加減します。その逆に頑丈で強いものも力を加減します。弱いものから強いものまで、相手に合わせてその力の使い方を変化させるのです。

これは当たり前のことを言っているようですが、実際には物体によって個体差があります。同じ紙でもすぐに破れるものもあれば、とても強くて破れないものがあります。相手に合わせて、紙への接し方も変わります。見た目が同じ紙だからと、同じようにやるとなかなか加減が分からずにうまく扱えないものです。

道具というのは、相手の素材に合わせて使い分けていくものです。和包丁などは、素材に合わせて使い分けます。同時に使い手もその素材の性質を知り、力加減を絶妙にしていくのです。

現在、法螺貝の吹き口をつけ調律を学んでいますがこの加減というものの奥深さや難しさに直面しています。法螺貝そのものが持つ可能性を探っていくには、その貝の素材の性質を深く洞察し理解できないといけません。同時に、その法螺貝で出せる音を見究めるために様々な呼吸や吹き方を試していく必要があります。

先ほどの和包丁のように素材を扱う側も自分の身体の扱い方も両方が上達している必要があります。自然物というのは、なるべく余計なことをしないでいのちを壊さないようにした方が鮮度も保ち、徳を穢しません。

どれだけの加減を見究めるか。何でも同じことばかりしていたら、いい加減うまくいかないときに気づくものです。しかし人間は、加減を學ぶのはたくさんの経験や失敗を通してです。

私も古民家甦生をしてから恥ずかしいほどにたくさんのものを壊したり傷つけてきました。その都度、深く反省し失敗から学び、配慮するように生き方を磨いていきました。自分の方の扱い方を変えることの連続です。しかしその御蔭で、素材のことを深く知り、素材の性質や徳性を知り尊敬の気持ちも増えていきました。

法螺貝の道もまだまだ入り口、法螺道を真摯に向き合い螺旋からその好い加減を学び直していきたいと思います。

田んぼのご縁

今週末は、お田植祭です。今までは千葉県神崎のむかしの田んぼで無肥料無農薬でお米づくりをしていましたが今年は福岡県朝倉の田んぼで新たに挑戦します。いつものように予祝をして、田の神さまをお祀りして早乙女と早苗を植えていきます。祝詞も神崎神社の宮司様から伝承いただいたものをこちらでも奏上します。

もともとこの朝倉の田んぼがある場所は、福岡県筑前町(旧三輪町)弥永にある大己貴神社がすぐ近くにあり見守られています。この神社は我が国で最も古いといわれている神社のひとつで神功皇后が新羅討伐の兵士を集めるために太刀・矛を奉納し願いを立てた、戦勝を祈願したという言い伝えがある古社だといわれます。

また、邪馬台国-朝倉説の重要な神社として有名で「福岡県筑前町弥永の大己貴神社付近」と「奈良県桜井市三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)付近」の地名や地形も
偶然とは思えないほど酷似しているといいます。

実際に御宮にいき、お山を拝んでいると確かに奈良の三輪山と同じ風景と気配を感じます。法螺貝を奉納すると、その響きがお山をはじめ地域全体に膨らみ懐かしい景色が顕現します。

この場所でむかしの人たちの心で、むかしのように手植え手がりで伝統神事と伝統行事を甦生させてお米づくりができることに深いご縁を感じます。

神仏のお導きというのは、自分の考えとは関係がなく事が進みます。千葉の田んぼの継承のことで私にできることはないかと無私無欲に真心を盡していましたがその結果としてこの朝倉でむかしの田んぼに新たに挑戦するご縁になりました。決して狙っていたのではなく、頭で考えていたのではなく、こうあるよう、こうするようにとカグヤさんをはじめ地域の氏神様や縁故の方々に運を運ばれていくのです。

お導きというのは、素直さや正直さがあってこそだと私は思います。その時々に到来するご縁をどこまで丸ごと信じ切ることができるか。そしてその信じ切るご縁にどれだけ真摯に誠実に順応していく努力を続けていくことができるか。人生は試練ですが、試練の中に豊かさも仕合せもあり、また感動の出会いも別れもあります。

今年もまた稲と共に一年の循環が味わえることに深く感謝します。

祈りを捧げながら、一緒に生きる仲間や時代と共に五穀豊穣に感謝します。

ガラス戸の美しさ

現在、浮羽の古民家甦生でガラス戸をお手入れしています。むかしのガラス、昭和型ガラスともいいますが明治以降から昭和にかけてのガラスはゆらゆらと波をうっていて、どれも個性がありまた一点ものの美しさがあります。

現代は、ガラス製造技術が変わりかつてのようなガラスではなくんりました。より均一化し、品質は高まったともいえます。しかし、古民家にはどこか機械的過ぎて雰囲気が合いません。

私はわざわざむかしのガラスを探しては、それをカットして建具にいれます。通常は、解体作業などに立ち会っていると古いガラスはあっという間に破壊して捨ててしまいます。それを一つ一つ丁寧に外し、今にも壊れそうな薄いガラスを洗浄して甦生します。

強度などは明らかに現代のガラスの方が強いのですが、逆に弱くて柔らかいからこその強さもあります。またガラスの音も美しく、風に吹かれたり少し叩くと優しい感じが出ています。

元々ガラスの起源は紀元前25世紀頃まで遡るともいわれます。長い歴史を経て、今のガラスを私たちは活用しています。ガラスがなければ、携帯もパソコンも使えません。ガラスはとても身近な存在です。

かつての明治以降のガラス戸は、それまでの障子戸や板戸からの変革でした。しかし障子の持つ豊かなあかりや、板戸の持つ頑強さなど、あらゆるものをガラスが吸収融和して新たな戸として誕生しました。

その頃の板ガラスは、どれも美しいのはそれだけ先人たちは戸を重視していたことがわかります。弱くて柔らかくて美しいのは、光を透すからです。その光は、材質や原料によって変わります。

お水に光が透るように、また和紙に光が透るようにガラスも透したのでしょう。

私の拠点、場の道場の邸内社のご神鏡はガラスです。これはかなりむかしのガラスです。その透明度の美しさは神業であり、自然が産み出した美しさです。透明であること、透過することは浄化にも似ています。

ガラス戸にはそれだけの光の徳があります。

丁寧にお手入れして、甦生に集中していきたいと思います。

香と徳

ここ数年、お香のことを色々と深めています。お香は奥が深く、音と同じようにその時の湿度や空気、環境や心境で様々に変化します。

中国・北宋時代を代表する詩人で書家の黄庭堅、お香の有用性や優れた特性を40文字で詠んだものに「香十徳」といいます。これを弘めたのは室町時代の一休宗純の書になります。

そこには、こうあります。

感格鬼神  感は鬼神に格(いた)り
清淨心身  心身を清浄にし
能除汚穢  能(よ)く汚穢(おわい)を除き
能覺睡眠  能(よ)く睡眠を覚し
静中成友  静中に友と成り
塵裏偸閑  塵裏(じんり)に閑(ひま)を偸(ぬす)む
多而不厭  多くして厭(いと)わず
寡而為足  寡(すくな)くして足れりとす
久蔵不朽  久しく蔵(たくわ)えて朽ちず
常用無障  常に用いて障り無し

これはお香の持つ徳の力を文書にしたものです。意訳をすると、「お香は感覚を研ぎ澄ませ、心身を清浄にして穢れを取り除く。また眠気を覚ましてくれて忙しい時にも静かな心でいることができます。多くて困ることは一切なく、少なくても薫りは変わりません。日常的に使っても飽きがこず、長期保存もできる優れものです。」といった感じでしょうか。

私は朝晩は必ずお香を焚き、後は場づくりするときや来客時、瞑想や心を落ち着かせるときに用います。好きなお香もありますが、その時のイメージで香りを使い分けています。

この香りは心を密接に結ばれていて、香りと心の状態は常に影響しあっています。ちょうど、昨日は真菰を育てている伝統職人のところにお邪魔しましたが部屋中が真菰の香りで充たされていて何時間でも滞在したい気持ちになりました。

香りは生き方と繋がっています。

薫陶や薫習という言葉もありますが、香りはそれだけ私たちの生き方にも大きな影響を与えているのでしょう。まさに徳の顕現する一つがこの香りです。

引き続き、香りを深めつつ、いつか真の香りを伝承できるように精進していきたいと思います。

修行の仕合せ

昨日は、滝行をしてきました。この時季のお滝場のお水は水量も多く、また石清水にも勢いがあり2種類のお水に癒されます。1つは、降雨と合わせた荒々しいもの。もう1つは、時の流れを感じる静かで穏やかなもの。

私の通うお滝場は本来は、英彦山に次ぐ修験場でかつては1200年の歳月をかけて何千人、あるいは何万人という山伏たちが修行をした場所です。明治の廃仏毀釈と山伏禁止令、そして近代においては治山工事やダムの建設などで水路が変わり滝場も消失し今の場所に移動しました。しかしその御蔭さまで、かえって新たな素晴らしい滝場ができて岩窟と共に修行にはとてもいい環境になっています。

もともと修行というのは、苦行のことだと一般的には言われます。しかし苦行のように外から観えても、本人たちはそれを歓び楽しみ幸福を味わっているものだったりします。例えば、身体を酷使させるのは疲れるように思われても実際には五感をフル稼働して身体感覚を味わう喜びがあります。自然の中で自然物と一体になれることは、地球と結ばれ自然の一部である安心感があります。

また滝行でいえば、「活きた新鮮なお水の徳」を肌身で感じることでいにしえの龍の存在や波動、心毒を流し煩悩をかき消してくれます。お水の流れに心身を深く委ねて任せていくことで、清々しく澄んだ気持ちが湧き、時を忘れます。合わせて龍神法螺貝も真言もお香も火もどれもが集中力を高めてくれます。先人たちの遺徳に感謝するばかりです。

そして滝行した後は、まるで視力が変わりクリアにこの世のことがくっきりと観えてきます。現在、中東で戦争の火種が発生し予断を許しません。世界の真の平和をいのりながら、滝場で深くいのります。いのりは修行の醍醐味です。

本来、私たち人類は誰もが自然のなかで平和をいのりました。

かつての人間性を快復させていくのは、自然と共生することからです。それも平和をいのるような自然との共生からだと私は思います。

今週末は、夏至祭とお田植祭、お山と田んぼのお手入れをしますが暮らしの軸足をお金や経済の方だけにするのか、それとも自然との共生にするのか。それで人生は大きな影響を受けます。

どちらかだけではなく、バランスや調和、調律があってこそ人間は心身脱落するものです。人生はある意味ですべて修行ですが、豊かで幸福な修行をみんなで増やして子孫たちに智慧を伝承していけたらいいなと思います。

慚愧懺悔六根清浄。

場をととのえて、静かに待ちます。

自然物と五感

自然物というのは、同じものがありません。同じものがあるということが不自然ということです。同じものがないから同じことはできません。同じようにはできますが厳密にいえば同じにはなりません。

手工芸をはじめ、手で物を加工する職人たちはそれを自覚しています。現代は、機械で何でも同じ原料で同じものをつくることを良しとしています。同じ品質、同じ味、同じ音、何でも同じものでなければ信用問題になるほどです。しかし実際に私は法螺貝をつくり、蕎麦も打ち、石風呂などを手掛けていますが同じようになったことは一度もありません。

厳密には、空気の中の湿度が毎回同じではありません。それに自分の体調、また素材そのものの個性があります。また自分の感覚もその時々で異なりますし心の状態はとても緻密に揺らぎます。

自然物を相手にするというのは、感覚を使うということです。コンサルティングの仕事をしてきて感じたことですが、同じような組織の問題でも同じことは通じません。当然、共通する問題はあるにせよ人が異なります。場所も異なります。近い結果になったとしてもそのプロセスの組み合わせは無限にあります。

だからこそ一期一会だと、毎回、真摯に真剣勝負で取り組むのです。自然界はいつも真剣です。失敗すればリカバーできるものもあればできないものもあります。その瞬間瞬間を逃さずにいることが自然に正対するということでしょう。

昨日までの大雨が嘘のように今朝は穏やかな風と青い空と白い雲が広がっています。池の上を走ってくる風は、まるで産まれたての赤ちゃんのようです。

五感を研ぎ澄ませながら、ご縁とお導きを楽しんでいきたいと思います。

音と遊び

宿坊ではご祈祷をするときに法螺貝やおりん、金剛鈴などの音を鳴らします。これは音に由る振動によって、場を調えて感覚を目覚めさせるためにも用います。日常と非日常、また特殊な周波数は振動数を高めて心を落ち着かせます。この陰陽調和、強弱調和は、時には驚覚し、また時には歓喜になります。

音による説法というものは、人間の心に深く染み入ります。言葉や喋りで理屈で理論で説明するよりも、音によって氣づいていくというのが真理ということでしょう。

今年の初めにスリランカに訪問した時も、お経を音で歌う僧侶の姿にいにしえの仏陀の雰囲気を感じました。仏陀は、その話ではなく音によって人々の心を素直にしていきました。

これは自然のせせらぎの音や、新緑の木々の音、あるいはしとしとと落ちる雨の音、杜の静寂の風音などあらゆる音によって人が心を目覚めさせることに似ています。

法螺貝は特にこの驚覚の徳があります。以前、大きなゴングを宿坊で鳴らしていただいたことがありましたがあの振動も心身に響き数か月間はずっと鳴り続けていました。

法螺貝もまた、その時々の心境や場面によってその効力の発揮する期間が変わってきます。いつまでも心に遺る法螺の音は、五感をはじめ五臓六腑を癒し続けます。

最近は、毎日のように貝に触れる日々ですが貝のもつあたたかさやぬくもり、優しさをはじめ清らかさや逞しさを感じる日々です。

真言を唱えるのは、宗教だからではなく音だからです。

私は色々と比較されたり宗派や宗教に巻き込まれるのが苦手です。暮らしの中で、自然に溶け合うように自然と一体になった人間があるがままに智慧を学びその生活の音を出す。ここに真の伝承を実感します。

別に宗教の真似事をしたいわけでもなく、先人たちやご先祖様を軽んじるわけでもなく、純粋にそのものから学び、そのものから導かれるものに従って自然体で歩んでいきたいと思っています。

分類わけできない存在を異様がる人もいますが、分類などない絶対界にいって自由自在に遊んでいきたいと思います。

のうまくさんまんだぼだなんあーん。

法螺貝の法則

私たちが居る地球にはいくつかの法則があります。その法則を古代の人たちは学び、それを科学によって解明してきました。科学で自然を理解することで、その科学を実社会で活用することで力を手に入れてきたのです。

未知の文明は、それぞれの宇宙の中でその星の法則をそれぞれに解明してまた科学を手にしています。そうやって宇宙では様々な新しい科学を発展させているのでしょう。その果てには、何があるのか。知りたいという好奇心かもしれませんが、それによってわからなくなるという矛盾は常に発生するように思います。

話を戻せば、その法則の一つに陰陽五行説というものがあります。まず陰陽説は五行説が誕生するより遥か昔から存在していて、宇宙のすべては陰陽に分かれるという思想がありました。これは古代中国の神話に出てくる皇帝「伏儀(ふくぎ)」が唱えたともいいます。そして五行説は前4世紀末の斉の鄒衍(すうえん)が物質の根源を木・火・土・金・水の5要素が連続的に循環し変化するというものを唱え、それが合わさって陰陽五行説というものが出てその後の徳によってどのように政治を行うかを指南して今では庶民にまで伝承されているものです。

日本では陰陽道として中国から渡来して発展しました。万物陰陽にわかれ、それが、木・火・土・金・水の性質を持ちこの5つの気が絶えず循環しているとしてこの世の道理を見究めていきました。

確かに、自然界に中にいると一年の四季もまた陰陽と五行で表現できます。例えば、春夏秋冬がありそれぞれに木の勢いある春、火の勢いのある夏、金の勢いのある秋、水の勢いのある冬になります。その中間には土の勢いがあります。つまりそれぞれの強みを発揮する季節があるということです。その強弱が移り変わり循環し調和することで、陰陽が調和していきます。

まもなく夏至ですが、陰陽の中で夏の陽が最も強くなる時季です。陽極まれば今度は陰になっていきます。つまりはここまでが最も陽の氣に溢れてこれから陰に移っていく節目ということです。まだ6月ではないかと思うかもしれませんが、地球は大きく太陽も大きい。6月までの余熱で8月は暑く感じますが実際には陽の氣は弱まり陰に移り換わっていっているのです。

実際の肌感覚よりも先に、自然は陰陽を調和します。私は法螺貝を立てますが、法螺貝も木火土金水で吹き分けられています。具体的には、陰陽として高音(甲音)と低音(乙音)にわかれます。そして音階は低いほうから 木、火、土、金、水の5音あります。木、火を乙音、土、金、水を甲音としています。

音の世界もまた、陰陽五行説で表現され力の調和をします。「調べ」というものもあります。調和をすることを司る、陰陽道も法螺貝に大きな影響を与えていたことがこういうことからもわかります。

私が取り組む英彦山仙螺には、この陰陽道をはじめ陰陽五行説を十分に検証して自然に見立てて創作しています。

調和や循環は古来の叡智です。

子孫のためにも、自ら学び発見し、自学自悟を基にして丁寧に伝承していきたいと思います。

杣と仙

山のお手入れをする人たちを「杣」(そま)と呼びます。この杣という語はもともと木を植え付けて材木をとる山そのものという意味になります。

古来から人間社会において建築用の木材が大量に必要なときに、木を伐採する必要があります。そのためには、その伐採するための重要な木材を管理する場所が必要です。それを「杣山」(そまやま)といいました。

そこで採れる木を杣木(そまぎ)といい、その杣によって生業とする人たちと杣人(そまびと、そまうど)と呼びました。

この杣は、古来よりお山を守る大切な生業の一つでした。自然と共生し、お山の暮らしを支えた大切な存在です。樵(きこり)とも呼ばれますが、神様が宿る依り代としての木を尊敬し丁寧に扱い、お山のお手入れを通してお山を中心にできた地域の伝統的な暮らしが穏やかに伝承され安心できるようにしてきました。今ではその存在はほとんど見かけません。お山は放置されるか観光地化しゴミを捨てる人たちによって汚れ、荒れ果ててここ数年の水害で土砂崩れが頻発しています。お山で暮らすのは、金銭的にもできないということでお山を捨てて都市に移動した結果、杣人もいなくなりました。当然、山伏などもほとんど暮らしていません。

現在、私も英彦山の守静坊からお山のお手入れをしていますがまるでやっているのはこのかつての杣人と同じです。かつての杣人たちは、霊峰や杜のなかで暮らし、木々や森林資源を活かして生活していました。お山と一体になっていたのです。

枯れ木や倒木を片付けて燃料にしたり、木材を加工して生活文化に必要な道具をつくったり、炭焼きや薬草の採取などお山で自然と調和する暮らしを守っていました。その調和する暮らしそのものが、自然への畏敬や感謝に溢れておりそれが地域の伝統文化や行事、神事、そして智慧を守ってきました。それを山岳信仰と呼ぶのでしょう。

現代では区別や分業化が進み林業となって、お金のための森林伐採がメインになっていますがかつての杣人たちはお山の仙人のような風格があったようにも直感します。

お山にいるとお山の恵みを感じない日はありません。美しく澄んだ空氣に、清らかなお水、またあらゆる動植物や昆虫まで多様に活き活きと生活をして循環を支えます。このお山の恩恵を大切に見守っていこうとするのが杣人、そして仙人の役割ではないかと私は思います。

私が今、取り組んでいるお山の甦生はまさにこの杣人や仙人の暮らしを甦生することです。すでに薬草が増え、炭焼き、法螺貝づくり、お山のご神木を見守る神事や山岳の智慧の伝承など活氣づいています。

子孫たちに如何に自然の恩恵を譲り渡していくか。現代文明が終焉に入り、歪んだ物質至上主義の世の中もちらほらと綻びはじめています。コロナをはじめ感染症の背景にあるもの、食料危機という名の拝金主義、田んぼを農薬で汚し新築ばかりを建てては智慧を捨てていく現状。

子どもたちのためにもそろそろ氣づいて行動していく時節ではないかと私は思いますが皆さんはどう思われますか?

暮らしフルネスと私が提唱のは、むやみに危機感を煽りたいのではなく本来は暮らすだけで仕合せだった古来からの智慧に原点回帰した方が喜びも仕合せも増えますよという意味でもあります。みんな自然と共生していたころの懐かしい未来に憧れていたものです。いつの時代も心の豊かさは自然との共生の中にこそ存在します。

杣から学び直し、仙からやり直していけたらいいですね。