徳が循環する結づくり

昨日は、伝統固定種の堀池高菜を収穫しました。もともと30年間、耕作放棄地だったところを畑にし無肥料無農薬でもう10年以上になりますが今年の出来栄えもまた素晴らしいものでした。

虫もほとんどついておらず、葉も青々とし、茎などはまるで樹木のような頑丈さ。鎌で刈り取るとその周辺には高菜の香ばしい香りが満ちてきます。今回は、一緒に取り組んでいる仲間も参加しみんなで和気あいあいと畑ライフを楽しみました。

みんなで畑で歓声をあげながら、高菜の出来栄えを喜びそして分け合うと深い喜びと仕合せを感じます。種を蒔いてから半年間の間、猪被害に遭い、草とりもあり、何度も足を運んだことが報われる瞬間です。昨日はそのまま高菜を天日干しにし、高菜漬けをつくりこのあと古漬け作業に入ります。

高菜漬けもまたみんなで行いましたが、こうやって素材そのものが出来上がるプロセス、そして素材が美味しいままにみんなと分かち合える仕合せ。これはゼロから生産するからこそ味わえるものです。

私たちはいのちのバトンというものを繋いでいく存在でもあります。そのバトンをつなぐことが大切なのは当然ですが、実際にはそのバトンをつなぐまでの喜びが仕合せが幸福でもあります。

与えられた場所で、与えられた種と共に一緒に育ちあい、そして一喜一憂しながらも様々な物語を体験し感謝してみんなと分け合う。こんな仕合せは他にはありません。

私はこのような取り組みをする仲間を集めたいと、徳が循環する結づくりをしています。それが子どもを見守ることになり、私のバトンをつなぐことにもなります。

この人生は、自分のものですが自分だけのものではない。いのちはみんなのものであり、みんなとつながるなかで私たちはその恩恵や恩徳を実感できるのです。

私にとって今日の日は、特別な日の一日でもあります。陽気な春の気配と、ひなたの喜び、いのちがイキイキと躍動して仕合せを分け合える日。こういう素晴らしい日のような心のままに歩んでいきたいと思います。

懐かしさとは

むかしの遺跡や和歌を深めていると、その時の情景や心情がどうだったのだろうかと感じるものです。今は、ほとんど景色も様変わりしており、遺跡の周囲は近代的な建物や資材置き場など価値のない場所として使われています。そもそもこの価値が変わってしまい、昨日ブログでも書いた種よりもお金が大事になり、歴史よりも経済が大事になればその土地の本来の価値も失われていくのは当然かもしれません。

私達が懐かしいと思うものは、ただ思い出があるものだけではありません。そこには、今にも「つながっている心」であったり、その当時から人間が持っている普遍的な情緒や感情、気持ちに「共感」するときに懐かしいと感じるのです。

この懐かしいという言葉は、慣れ親しむもの、手放したくないものという意味でもあります。つまり、いつまでも失いたくないもののことのことでしょう。

私達が懐かしいという言葉を語る時、忘れてはいけない初心や、いつまでも失いたくない大切な記憶のことをいうのです。

今の時代は、懐かしいものが減ってきています。ほとんど懐かしいという言葉を使うことがないほどに、なんでも新しくし、近代化を進め、過去を否定し、価値を換えてしまいました。

しかし、子孫のことを思う時、これはいつまでもなくしてほしくないもの、そして忘れてはいけないもの、そういう先人たちも一度きりの人生で深く味わった大切な体験をずっと宝ものとしていのちのままとして後世に伝承していけたらと思うのです。

伝承は、この懐かしさと一体になっているものです。

初心伝承をしながら、子どもたちに懐かしい未来をつないでいきたいと思います。

徳積帳とご縁

私は結というものを通して様々なことを結びなおそうとしています。生きている間は、さまざまつながりがありその結び目に気付きます。それを丁寧にほどいてまた新たに結んでいくこと。ほどくことも結ぶことも生きていることの醍醐味であり、人生の妙味はそのご縁の最中にこそあるように思います。

振り返ってみると、産まれる前からいただいてきたご縁によって導かれ今があります。それをほどきながら新たな結びをつなげます。それを生きているときにまたほどければいいのですが、ほどけないものは次への持越しになります。次の持越したときに、あまりにも結び目がきつすぎたりすればほどけません。それに絡まり合っていたらそれも時期が来なければほどけません。

不思議なことですが一つほどけ、二つほどけ、周囲が、あるいは誰かが、もしくは何かが偶然におこり奇跡によってほどけるものがあります。ほどけたとき、みんながまたそこから結びなおして調えていく。美しい結び目ができれば喜び、複雑に絡み合えばまた執着する。人間というものは、こうやって何度も心の循環を繰り返していくように思います。

自然界というものも結んでいます。そして生死を繰り返してほどけていきます。連綿と網羅し繋がっているこの宇宙で私たちは何度も結んではほどいてそのいのちを循環させていくのです。

新たな結をつくるのに大切なことは、あまり強い結び目にならないことです。すぐにほどけるようなゆるいつながり、そして何かあればすぐに結べるような柔らかで寛容な結び目を繋がり続けること。

徳積帳でこれから行っていこうとしている、私の結の本質はこのほどくことと結ぶことの中の場にこそあります。ご縁に導かれるように、ご縁を味わい、ご縁とともにいのちのつながりを子どもたちに結びなおしていきたいと思います。

感情と心

怒りというものがあります。怒りには一次感情と二次感情というものがあるといわれます。表面上で怒るのは、自分の思っていたのと違うという感情や自分の価値観では当たり前である常識やこうあるべきというものと異なるときに防衛手段として怒るのです。しかし、その背景やその奥には悲しみや苦しみ、そして自分の心や魂などの叫びなどもあります。感情というものは、ある意味で心や魂の一次感情です。その奥にあるものこそがその発端になっている元にあるものでもあります。

人は感情をバネにして成長していくものです。喜怒哀楽があるように、その感情は心で感じたことを表出させさらにそれを外に出していくことで新たなものが入ってきます。感情をコントロール事が大事なのではなく、その感情を味わい内省することが感情を調えていくことにもなるように思います。

悲しみには時薬というものがあります。ずっと荒波のように荒れていることはできず、海が静かにさざ波だつように心も感情も一つになり修まります。宇宙の心がどうなっているのか、地球の心はどうなっているのか、味わうことは風に吹かれ、雨に打たれ、光を浴び、星々と月の影に触れると心に沁みます。

私たちは常日頃、天候や気候、季節の感情に触れてはそれを味わいその心の奥深さに触れていきます。私たちの心は偉大なものと結ばれていて、その結ばれているものが自然の偉大な恵みを循環させています。

感情を見つめると心が観えます。そして心を観つめていくと天命に気づきます。天命に気づけば穏やかです。目に見える現実を直視することは、真理を探究するのに似ています。その蔭にあるもの、隠れているもの、深遠を辿ると静けさが来ます。

あるがままの弱さ、甘さも受け止めて、その時々の感情の奥にある己心と正対して今に精進していきたいと思います。

カグヤの由来

カグヤという会社の名前はかぐや姫から名付けられています。これは1000年前も今と変わらず語り継がれるような物語を子どもたちに譲り遺していこうと名付けたものです。歴史や物語には、普遍的な本質がありそれが子どもたちの心に深く響きます。自然の篩にかけられて遺ってきた物語には時代を超えた生き方があるものです。その生き方を遺し、それをつなぎ、甦生するというのは偉大な経糸や縦軸の伝承になります。

このカグヤの「かぐ」というのは、古語では光を意味したともいわれます。「かげ」という字も光を意味していて、月影や星影といったように影とはその光の余韻や陰影に映る光全体の様子を顕現したものです。そして火の神様をカグツチと呼び、天の香久山もカグヤマというのはこれも光を顕しています。

ちょうど昨日、天の香久山の歌枕を郷里の香春神社で詠みましたが、近くに銅鏡をつくる場所があり山頂で儀式をして古代には白い光を放ったいたことが想像できました。光を集めて、光を放つというのはある意味今もリーダーの役割であり心の明かりを燈す大切な古来からの徳の生き方です。

私は元々この世に存在したものを徳と呼びます。そしてこの光というものもまた徳の側面です。光はいつからあるのか、それは初めからあります。つまり初心です。その初心を思い出し、その光に感謝すること。これを御蔭様ともいい、御光様ともいいます。

この光の生き方とは何か、それは古代の人たちがしてきた生き方を今も自然に行うことです。私にとっては、鞍馬寺での信楽香仁さまがその一つの憧れた生き方であり御光様そのものでした。いつも天にお任せしてお気楽に極楽でいる生き方。暗闇すらもぬくもりにし、日々のお山の空気そのものに喜びと仕合せを感じておられました。

私たちは初心を忘れています。

改めて、カグヤという名前、そしてカゲという在り方。かんながらの道を邁進していきたいと思います。

懐かしい未来

懐かしい未来という言葉があります。この懐かしいというものは、むかしから今も続いているものです。そして未来とは今のことです。今の連続こそが未来そのものになるからです。

本来、むかしにどのようなことが行われていたのか。時間という概念のなかでは過去のことはほとんど覚えていないということになります。しかし時間という概念がないとするのなら、過去のことは今であり今があるというのは過去はないということになります。そうなると今はむかし、むかしは今となります。

つまりは過去がないのだから、今こそまさにむかしそのものを象っているということになるのです。

そういう意味で、神事というものは過去のものではありません。今のものであり、今もむかしと同じことを続けているだけということになります。

私は時間軸でいえば1000年前も100年前のことも覚えてはいません。しかし、そのころに同じ心で同じように場を設け、みんなで一緒に味わっていたであろうことは思い出します。それは今の心から思い出します。過去への推測ではなく、今感じているものに歴史やその当時の人々の心を直観するのです。

私たちは過ぎ去ったものを歴史と呼びます。しかし本当にそうでしょうか、この大きな勘違いと常識によって今というものがわからなくなります。今を生き切る、今にいるということの大切さは本当の自分たちを知り、本来の未来を実現するということです。

懐かしい未来というものは、そういうものであり私が実践で取り組んでいる暮らしフルネスもまた同様にこの今、此処に真心を籠めて生きることでもあります。それは私のいる「場」に来ればすぐに学べ伝わります。

子どもたちに懐かしい未来のままで喜びや仕合せの初心を伝承できるようにこれからも精進していきます。

暮らしと聴く

私たちは日々の暮らしのなかで様々な季節の変化を味わいます。その味わう中で、それぞれのいのちがどのように反応しているのかを観察しています。私たちは元々、光と同じように反射や反応というものですべてを認識できるようになっています。

つまり直接的ではなく間接的に物事を認識しているということです。そう考えると、私たちが直接見ていると思っているものは直接ではなく、物体から反射しているものを観ているということです。反射は関係性でもあります。そのもの、そのご縁、そのつながりではじめて認識が可能ということです。

だからこそ、その反応したもの反射したものは何かと認識するとき間にあるものを聴く必要があるように私は思います。聴くというもの一つも反射や反応です。音がそうであるように空気やそのものとの触れたもので形成されます。音も耳や体を水や空気が響きあって認識できるのです。

私たちが分解してみているものは、本来は一つではありません。外の雪一つでも、そのほかの多くと結びつき関係をもった雪ですから雪単体などはありません。風景のなかの雪であり、空気や水と一体となった雪ですから雪単体ではないのです。音も同様に、音単体ではなくその部屋や環境によって異なりますから音単体などないのです。

だからこそ暮らしは面白いのです。

ありとあらゆる生活の中で、私たちはその様々なものをつながりの中から感得し感知し感受します。それは非常に豊かなものであり、私たちはその一部としてそこに存在します。季節であれば、美しい山の中にいて自分も山の一部としての認識になります。その山の空気も、風も光もすべては一体として認識するのです。

私が「場」というものを理解するとき、私はこの場にあるすべてのものを聴くのです。聴くからこそ調い、聴くことで私たちはその場を創造します。私が場にこだわりそこで一円対話や聴福人をするのはその理由からです。

まだ科学ではわからないことは、自然そのものの本体です。その本体は、私たちはすべての感覚で直観できるようにできています。なぜ目が見えるのか、なぜ耳が聴こえるのか、心とは何か、そういうものはすべて同様です。

子どもたちから学び、子どもに暮らしと聴くを伝承していきます。

 

徳積の初心

論語の大学には、「明明徳」「親民」「止於至善」の三綱領と「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八条目があります。これらは、大学のはじめにある「大学の道は明徳を明らかにするにあり、民を新にするに在り。至善に止まるに在り」に続くものです。

この大学はとてもシンプルです。人間が自然の道に入ること、自然であるとはどういうことか、自分になるということ、自分であることの大切さを説いているように私は思います。自分の原点、改良される前、真に澄んだ素直な自分であることがわかれば徳は明らかになります。その徳を使って、今度は世の中も同じようにしていけば天下は永遠に平和になるということでしょう。

しかし実際にやるのは簡単ではありません。歴史というものは、改良や刷り込みの連続ですからもはや最初が何だったのか、原点が何か、根本はどうかなど知ることがほとんどできません。それを真に実現するには、先ほどの三綱領や八条目の実践が有効だと言っているように思います。

二宮尊徳先生は、幼少期から亡くなるまで大学を手放さなかったといいます。まさにそのような生き方をされ、天命を全うされました。

二宮尊徳先生の語録191にこのようなものがあります。

『孔子は、「大学の道は、明徳を明かにするに在り。民を新(あらた)にするに在り。至善に止まるに在り。」と言った。これを田畑にたとえれば、明徳が物欲に覆われているのは、荒地ができたようなものであり、明徳を明らかにするのは、荒地をひらくようなものである。そしてその産米を得たならば、その半ばを食って半ばを譲り、繰り返し開墾して荒地を起させていく。それが「民を新にする」ということである。そして、この開墾と推譲の道は、万世までも変るべきではない。これが「至善に止まる」である。』と。

意訳ですが二宮尊徳先生は、誰もが捨ててしまった荒廃した田畑を開墾してそこでお米を収穫できるようにしました。そのうえで収穫したものを全部を使い切らず、半分で生活をさせ残りの半分を翌年や今後のために譲りました。それを繰り返し行うことで、人々の暮らしが調っていきました。それを遣り続けることこそが最善の永続であり自然の循環であるとしたのです。

もう一つこういう言い方をします。

『私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種である仁・義・礼・智を培養して、善種を収穫し、また蒔きかえし蒔きかえしして、国家に善種を蒔き広めることにある。大学に明徳を明らかにするにあり。民を新たにするにあり。至善に止まるにありと。明徳を明らかにするは心の開拓をいう。』

私が真に取り組んでいることは、荒廃した田んぼのようになった人々の心の荒廃を開拓して、もともとその人が先天的にいただいた徳、つまりは真心や思いやり、やさしさなどを培養し、その心の種をみんなから集め、その心の種を何度も蒔いては蒔いてそれを国全体に蒔いて広げていこうとしたことです。大学の明徳とは、つまり心の開拓をすることです。

自分自身が心を開拓され、その真心や思いやり、やさしさに触れたからこそその心の種をもっとたくさんの人たちに広げていこうと思うものです。見守られた人は見守りたくなり、信じられた人は信じたくなります。それはそうやってその人の心の中に、その種が蒔かれて芽生えたからだともいえます。

私が取り組む実践は、この二宮尊徳先生と同じ志です。

元々の徳を明らかにして、生き方を調え、いのち徳積みの実践を丹誠を籠めて弘めていきたいと思います。世界が平和になるように、私のできることから今、この場から今日も取り組みます。

自然と聴く

私が尊敬している教育者、東井義雄さんに「ほんものはつづく。つづけるとほんものになる」という言葉があります。時間をかけて伝統や老舗を深めていると、理念が本物であるからこそ続いているのがわかります。

この本物というのは、自然に限りなく近いということだと私は思います。自然は人工的なものを篩にかけては落としていきます。自然に近ければ近いほど、自然はそれを自然界に遺します。つまりは本物とは自然のことで、自然は続く、続いているものは自然に近いということでしょう。

この自然というものは、人工的ではないといいましたが別の言い方では私心がないということです。自然と同じ心、自然の循環、いのちの顕現するものに同化し一体化しているということでもあります。

私たちが生きているのは、自然のサイクルがあるからです。水の流れのように風の動きのように、ありとあらゆるものは自然が循環します。自然の心はどうなっているのか、自然は何を大事にしているのか、そういうものから外れないでいるのならそれは「ほんもの」であるということです。だからほんものは続くのです。

歳を経て、東井義雄さんの遺した文章を読めば読むほどにその深淵の妙を感じます。生きているうちにお会いしたかった一人です。

その東井義雄さんが遺した言葉に、こういうものがあります。

「聴くは話すことより消極的なことのように考えられがちですが、これくらい消極的な全身全霊をかけなければできないことはない」

私は、聴くという実践を一円観で取り組む実践者でもあります。この聴くという行為は、全身全霊で行うものです。ただ聞き流しているのではなく、いのちの声を聴くこと。万物全ての自然やいのちからそのものの本体を聴くということ。そういう自然の行為をするのなら、この世の中は福に転じます。

私が日本を立て直すという聴くことの本意はこの自然と聴くというものに由ります。子どもたちに少しでも善い世の中にて推譲していきたいと思います。

帰る場所

人は心が帰着する場所というものがあるように思います。それは安心する場所のことです。ある人にはそれは帰る家があるともいい、またある人は心の故郷と読んだりもします。帰るところがあることは仕合せなことです。人はそれぞれに安心できるところがあるかが重要です。それは仕合せであるかということと通じているからです。

例えば、生まれてきては親という存在があります。自分一人だけでは生きてはいけない存在で誕生し、どうしても親の助けが必要です。自分のいのちを守ってくれる存在に出会うことで私たちは安心を得ます。その安心は、偉大な信頼でもあり幸福でもあります。自分を守ってくれるという絶大的な安心です。これがあることで、私たちは多少不安なことがあっても心配があっても前進していこう、挑戦していこうという気持ちが湧いてきます。守られているということを実感するところが帰る場所ということでしょう。

そういう意味では、私には帰る場所がたくさんあります。気が付くと、私たちは安心の場所を求めては移動して心を守り育てています。私たちは安心の繰り返しで心身が成長していくのであり、見守られたことによって自他自己に対する偉大な信頼が醸成されていきます。一度きりの人生において、守られて生きたということの幸福や感謝はなにものにも代えがたいことです。

人が家族をつくり、仲間をつくり、助け合い、守り合うのはみんなにとっての大きな安心、帰る場所を創造しています。同時に、今まで守られたことを思い出す場所や、今も守ってくださっていると感じるご先祖様や、深い関係性を築いたお守りのような存在も帰る場所です。

帰る場所があることは仕合せです。

人の仕合せを増やすことは、安心基地をその人の心に増やすことです。私が取り組んできた半生はその帰る場所づくりだったのかもしれません。これからも人々の幸福、そして子どもたちの仕合せを創造していき自分がいただいた感謝を多くの方に光を伝承していきたいと思います。

いつもありがとうございます。