感謝を磨く

昨日、ある法人の理念研修で感謝の話をお聴きしました。この法人の職員はもともと仏教を信仰している方が多く、とても感謝の心を大切にしています。その話とは、同じことをしていても感謝の心でやっているかどうかがとても重要だという話です。

何かのことをやる際においても、実際には多くの人たちの努力や御蔭様が存在します。また食べ物一つを食べるというのであっても育ててくれた人、運んでくれた人、料理してくれた人、そして人だけではなくその生きものを育んだ地球のことまで思いを馳せれば自然に感謝が湧いてきます。

この感謝は、実際に当たり前ではない存在を感じ取っている心であるとも言えます。如何にそれが有難いことか、滅多にないことかと自覚している心が感謝の心であるのです。

人間はなんでも自分の思い通りになる生活をしていると、次第に傲慢になってきてなんでもあって当たり前、なんでも自分の権利であるかのように勘違いしてしまいます。そのうち感謝の心を忘れてしまうと、自分自身のいのちにさえ感謝をすることをやめてしまうことにもなります。

みんな何かの出来事があり、なぜ自分がこんなことにと思う時、静かに振り返れば感謝の心を忘れていたのではないかと思い出すように思います。

忘れるのを思い出すことと、忘れないように日々に思い出すこと。今のようななんでも物に溢れ、人間の都合でなんでも簡単便利に手に入る時代だからこそ心を磨くために、感謝という実践を積み重ねていくことが心を平安にしていくための大切な徳目になっていきます。

時代が変わっていく中で、今が何に気を付ける必要があるか。仏教ではそれを六波羅蜜で説いています。まさに今の時代は、有頂天にならないように気を付けること。それは感謝を忘れないで生きていくという自戒を持つことだを感じます。

当たり前ではない存在に気づくのは、自分勝手な妄念や妄想を払清めることからです。

初心や理念を忘れずに、感謝を磨いていきたいと思います。

 

自然と神様

昨日は、分霊する八意思兼神をお迎えにいくために埼玉県の秩父神社でご祈祷を行いました。この神様の子孫である知々夫国造が武蔵国西部(秩父神社を中心とする秩父・児玉地域)の氏神様になりました。

改めて祝詞を奏上し、神様の分け御霊を御幣に降臨していく姿に立ち会うと分けていただいた存在をさらに大切に集めて増やして活かしていきたいと思う気持ちになりました。

神様の話になるとどうしても宗教のように聞こえますが、あくまで私の神様は日本文化としての道の一つです。その道は、極端かもしれませんが漬物を育てていくのと同様で実践がセットであると信じています。

例えば、漬物の菌も樽に移しその樽を大切に使いながら漬物を育てていきます。その樽に菌を分けてもらい定着してもらえば、あとはその樽が腐らないように傷まないように手入れをしながら漬物を漬け続けます。その漬物や樽が使えなくなるのは、手入れを怠り、塩加減や水加減を間違い、放置すれば廃棄しなければならなくなります。

ちゃんとその漬物の樽を活かし、菌に活躍し続けてもらうにはずっと大切に一年の自然の四季のめぐりに沿った暮らしをしながら自分もその自然の一員にしていただくように取り組んでいくのです。

私にとっては、神様は菌と同じです。そしてお社は樽と同じです。こういうと不謹慎だといわれるかもしれませんが、自然を神様として観れば何も違うことはありません。

本来の自然(神様)のハタラキをそのままに、最大限活かすには自分自身が自然(神様)が喜んでくれるような生き方をしていかなければなりません。私は、自然農をはじめ、日本の暮らしを甦生していますから特段、何か特別なことを増やすわけではありません。

今の暮らしの中に入っていただき、より活躍する場を醸成していくだけなのです。これから新しいパートナーが増え、新たに暮らしが充実していきます。秩父神社とのご縁に心から感謝しています。

思慮の神様

場の道場BAに、間もなく神社を建立してお祀りはじます。今回、勧請する神様は八意思兼神です。この神様は日本神話に出てくる天の岩戸・国譲り・天孫降臨と言った重大な局面で知恵を絞り、解決してゆく重要な神様でもあり情報技術の神様でもあります。

また、八意思兼神のもう一つの表記「思金神」という名前から大工の道具の曲尺(カネジャク)とつながり、建築技術と匠のご利益・御神徳もあるといわれます。現代でも伝統的な建築現場の仕事始めの日に行われる手斧初(ちょうなはじめ)という儀式では、この八意思兼神を祀ります。

神道では自然が神様になっていることがほとんどですが、この神様は「知恵」そのものを御神体としています。この八意思は「あらゆる問題を兼ねて思慮る」という意味で江戸時代の本居宣長は、その古事記伝で、思金(思兼)という語については「多くの人の思慮る(おもんばかる)智を一つの心に兼持てる意なり」と記しています。

この神様の知恵は、神話を紐解くと、如何に世の中を明白にするか、そして如何に全体が福になるかという知恵を出されていたのがよくわかります。

まさに八百万の神々すべてを思慮する神様ということでしょう。

私が実践する一円観にも似ていて、とても深いご縁を感じます。自然には様々ないのちがありそのいのちをみんなが享受しあい共生して暮らしています。その暮らしが、永遠に健やかであるようにあらゆる問題を「慮る」ことで解決していくというのは大切な心構えのようにも感じます。

周りをよく見渡し見通す知恵は、まさに自然循環そのものの仕組みであり知恵の姿です。このご縁をさらに結び直し、子どもたちに明るい未来を譲り遺せるようにまごころで例大祭を執り行っていきたいと思います。

日本人文化甦生

私たちは日本人としての文化を持っています。それは何千年も前から生きた人々が、暮らしの中で培ってきた心の文化だとも言えます。自然に信仰し、自然に食べ、自然に生き、自然に家族を持ちました。そうやって、長い年月をかけて身に着けてきた知恵や仕組みこそが文化になったのです。

現代では、神様を拝もうとするとすぐに宗教だといわれます。神様=宗教としてそれぞれに宗教の違いを信仰よりも先に語られます。しかし本当にそうでしょうか。

確かに宗教は個人の自由であり、税金もかからないから特別な組織とみなされます。しかし本来、宗教が始まる前はみんな自然に信仰を持っていたはずです。それはアマゾンの奥地やインディアン、各地の少数民族に至るまで何かしらの信仰心をもって自然や先祖を崇拝していますがそれを現地では宗教とは言いません。

つまり本来、すべてのものは文化からはじまっているのでありそれを分類したものが宗教などになっていったともいえるように思います。異なる文化を認めるというのは、それぞれの育ってきた歴史を肯定し認め合うということです。

そしてその文化をつなぐものこそが「暮らし」であり、その暮らしを丁寧に紡いできたからこそ日本人としての本来の役割や個性も世界で発揮できるようになるのです。

人類がそれぞれで移動して分かれてどのように地球に適応してきたかというのは、偉大な叡智であり智慧そのものです。気候変動の中で、また人類の社会を創っていく中で、どのようにその場所で調和させようとしたか。

実際に実験を人生を懸けて行ってくれてきた先祖たちの生き方が、私たちの水面下の意識で文化として醸成され、今に引き継がれ、この先を見守るのです。

今度、私は神社を建立しますがこれは決して宗教として取り組もうとしているのではありません。私はあくまで「文化」としての道を、日本人の古来からの生き方を暮らしを通して甦生させていこうとしているのです。

まさにそれが子どもたちに日本人の心を育て日本人の誇りを思い出すことにもつながると信じるからです。私自身も、日々に手を合わせ、内省し、自然の循環と共に人も一緒に八百万の神々と共に暮らしていくことに仕合せを感じています。日本人の生き方を学ぶためには、古民家も必要ですし、暮らしも必要ですし、暮らしには行事もあるし、神社も必要です。

心を甦生していくのは、日本人の暮らしの甦生からです。

2月4日、立春の日に出現する神社と共に日本人文化甦生に歩んでいきたいと思います。

真の強さとは

何かを守るということで人は強くなります。しかしその守るためには強さが必要です。その強さとは何かということです。

相対的に戦って勝つか負けるかという強さもあります。しかしそういう戦国の世においても、もっとも最上の策は戦わずして勝つともいいます。つまりは、戦わないことこそ本当の強さであるとも言い換えることができます。

この場合の戦わないとは、戦わないために何がもっとも大切かということを考え抜く正対する力を持つということです。

人間はすぐに自分を中心に物事を考えてしまいます。そして自分の価値観で物事を裁く傾向があります。また欲望があり、保身があり、魔が差す弱さも持っています。そういう人間の姿をあるがままにありのままに見つめるには、心の鍛錬が必要になり心の胆力のようなものが求められます。

優しさは強さにもなり、優しさは弱さでもあります。その優しさが本当の意味での強さになるには心を高め、自他を深く見つめ、丸ごと一体善になるように自分を融通無碍に変転自在になるような精進を続けていくことです。

守るというのは、何を守ろうとしているのかを自分自身に問うことです。

その守るものが私利私欲でないものであれば、また忘己利他のものであれば守る強さは偉大になります。

守るとは、常に損得を超えた「徳」を実践するときにこそハタラキます。その徳は、親が子どものために命を懸けるように、また体が自然に自分のいのちを守るように、地球が生命を保持するように偉大なものです。

徳を実践する人こそ、真の強さを持ち合わせる人物であると思います。そして徳がある人は「運がいい」のです。運がいい人は、長い時間をかけて先祖代々に積んできた徳が備わっています。

その徳を引き出し磨く人こそ、人徳者であり強き者であるのは自明の理でしょう。引き続き、徳を磨き、徳に報いていけるように人生のかじ取りを間違わないように取り組んでいきたいと思います。

沢庵漬けの原理

昨年末から杉樽に漬け込んだ「沢庵漬け」が食べ頃になり、とても美しい艶と味で感動しています。現代、お店で売られているものは人工香料などを添加され沢庵風になっていますが、実際に自分で漬け込んだ沢庵漬けは格別ものです。

以前、ぬか漬けをやっていた時機がありますがこのタイプの乳酸発酵は期間も短く細かい手入れや観察が必要になってきます。ぬか床の発酵の原理は、微生物たちのハタラキです。

このぬか床の微生物は、塩分が多い中でも酸素が少なくても元氣に発酵します。しかし言い換えれば、塩分が減り酸素が多いと過発酵が進みあっという間にタンパク質を分解してしまい、アミノ酸や乳酸なども過分に分解します。簡単にいえば、甘さから酸っぱさになります。

また最初の微生物の分解が終わり、今度は温度が上がってしまえば腐敗がはじまり別の微生物たちがハタラキはじめます。

なのでぬか床をはじめ、これらの乳酸発酵の微生物は寒さと酸素管理、水分管理、塩分管理などが絶妙にかみ合う必要があります。言い換えれば、微生物がもっとも喜ぶ環境を用意してあげなければならないのです。

自然の智慧というのは、どのように学ぶかといえば自然をよく観察して自然に自分が合わせていくチカラをつけることです。ある人から私のやっているあらゆることは、まるで大自然に正対して取り組んでいるようだと言われたことがあります。

確かに自然農という生き方も、磨き直し甦生する生き方も、子ども第一義の理念も全部これらの自然観が基本になっています。

漬物をつけることは私にとってはライフワークであり、ライトワークでもあります。保存食ではなく、人類の持続可能食が漬物です。漬物文化は私たちの食文化の根本です。

引き続き、身近な暮らしの実践から子どもたちに譲り遺したい文化を学び直していきたいと思います。

先駆者の前進

人間は、どのくらいの深さで物事を認識するかでその視座が変わってくるものです。現在、私も異なる分野に進出する中でより深く濃い智慧を持っている人と話をしていると自分の無知を自覚するものです。

自分の無知を理解する人は、勉強不足であることに気づきます。勉強不足があることがわかれば、知らないことを真摯に学び直し、わからないところは信頼する人のアドバイスや指導をいただきます。

無条件に専門家に頼ればいいということではなく、信頼できる仲間を集める必要があるように思います。信頼できる仲間は、親身になって一緒に問題の解決に向けて取り組んでくれます。

無知故に仲間ができ、無知故に成長する動機が産まれます。

知ると知らないの間には、体験という智慧が入ります。体験は、仲間の存在で豊かにもなり楽しくなります。同志や協力者、応援者たちの御蔭でその希望は小さくてもつながり大きく育っていきます。

先駆者は無知との遭遇ばかりを歩み、そこから体験を人々へ語る存在でもあります。先駆的なものはなかなか理解されませんが、時代はその先駆者を追いかけてくるものです。

先駆者の宿命としての大変さは誰もが同じです。試行錯誤は体験の醍醐味ですから、自分の信じる道を仲間たちと共に前進していきたいと思います。

大湯屋建造

近くBAに日本の伝統的なサウナを甦生するために、東大寺を不屈の精神で再建した重源上人の遺した石風呂を深めています。昨日は、山口県で数か所石風呂を見学し、体験し、構造を分析してきました。

先日、フィンランドのスモークサウナで体験したような同じ柔らかい温かさがありましたが800年前の人々の安らぎとつながった感覚があり有難く不思議な気持ちを味わうことができました。

この重源上人は、日本大百科全書によれば「鎌倉初期の浄土宗の僧。俊乗房(しゅんじょうぼう)と号する。紀季重(きのすえしげ)の子で、重定(しげさだ)と称した。1133年(長承2)醍醐寺(だいごじ)で出家し、密教を学ぶ。また高野山(こうやさん)に登り、法然(ほうねん)(源空)に就いて浄土教を研究するとともに、大峯(おおみね)、熊野、御嶽(おんたけ)、葛城(かつらぎ)など深山幽谷を跋渉(ばっしょう)して修行した。1167年(仁安2)入宋(にっそう)、栄西(えいさい)とともに天台山に登り、浄土五祖像を請来(しょうらい)する。1181年(養和1)造東大寺大勧進(ぞうとうだいじだいかんじん)職となり、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と号し、広く諸国を勧化(かんげ)して、建永(けんえい)元年6月5日に86歳で没するまで、平氏焼討ち後の東大寺復興の造営にあたった。その間、再三にわたり入宋するとともに、1191年(建久2)には法然を東大寺に招き、南都諸宗の学匠に浄土三部経の講義を開いたという。また周防(すおう)(山口県)阿弥陀寺、播磨(はりま)(兵庫県)浄土寺、伊賀(三重県)新大仏寺をはじめ、各地に堂宇を建立するとともに、備前(びぜん)(岡山県)の船坂山を開き、播磨の魚住泊(うおずみのとまり)の修築、摂津(大阪府)渡辺橋・長柄(ながら)橋などの架橋、河内(かわち)(大阪府)狭山(さやま)池の改修、湯屋(ゆや)の勧進を行うなど、西大寺(さいだいじ)の叡尊(えいぞん)、極楽寺(ごくらくじ)の忍性(にんしょう)に劣らず社会救済事業に尽くした。」と紹介されています。

社会救済事業に生涯を懸けて取り組み、その遺徳が800年後の私たちにまで届いているのですから如何に偉大な思想を持った人物であったかがここからわかります。

私が今回、取り組むサウナにはこの重源上人の理念に共感して取り組んいます。この当時は、建設に従事する人たちが心穏やかに大仏殿を復興できるように人々の労をねぎらい、病や傷を癒す目的もあって湯屋をつくったとあります。

そもそも何のために復興するのか、復興とは何かと理念や本質を追求し決して結果だけを目的に歩んでいたのではないことがわかります。不屈の精神で取り組んでいくなかで、現実の矛盾や境界線を超えて、人々がお互いに心の平安を持つことができることを信じて具体的な形を示していきました。

「人々の心を癒し、そして穢れを祓う。」

私が今回、取り組んでいる復古起新のサウナもまたこの理念によって執り行う覚悟が決まりました。本日は、100年前の鉄の羽釜が神奈川から届き、今週は樽を佐賀まで見に行きます。

病気が増えに増えて、こんなに人々が病に傾いた現状を重源上人が生きていたらどう感じたでしょうか。その当時の予防医学は今よりも洗練されていたことを私は重源上人の石風呂で実感しました。

時代の過渡期に、人々の心を癒し穢れを祓う大湯屋建造に覚悟で取り組んでいきたいと思います。

 

成長の糧

人は失敗を体験して強くなっていきます。この失敗とは、成功か失敗かの意味での失敗ではなく成長するための大切な養分であるとも言えます。

本田宗一郎が「失敗を恐れるよりも何もしないことを恐れよ」とありますが、失敗の本質を語っています。成長というのは、日々に必要なことです。私たちはいのちを使い、そのいのちを何のために活かすのかと自問自答しながら歩んでいくときいのちの充実していくのを感じます。

いのちの充実は、目的意識を持っていけばいくほどに明瞭になってきてその分、五感も感情も感性も研ぎ澄まされていきます。

洗練されていけばいくほどに、いのちは錬磨され輝きを増していくのです。不思議なことですが、成長するというのは、いのちが輝くような日々を味わっていくことを言います。

失敗はそういう意味では、成長の最大の糧であるのは間違いありません。

ただ、失敗をするというのを好んで行う人はあまり多くはありません。なぜなら、転んで怪我をして立ち上がるのは容易なことではないからです。失敗と苦労はセットであり、痛みや不安や恐怖を伴います。

それでも目的のためにと邁進していくには勇気が必要です。

私は今年の一文字は、勇敢の「敢」にしました。この敢えてというのは、障害があってもそれに耐えて事をまっとうする意味になるといいます。道理を思えば今まではしなかったものでも目的のためなら敢えて取り組むという決意と勇気の言葉です。

失敗をするのは多くの人たちにも迷惑をかけます、しかしその分、それを取り返すために多くの挑戦をして成長し見守ってくださった方々のために恩返しをするのです。

最後に本田宗一郎の言葉です。

「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎない。99%は失敗の連続であった。その実を結んだ1%の成功が現在の私である。その失敗の陰に、迷惑をかけた人達のことを私は決して忘れないだろう。」

それでも敢えてやりたいことに本気に取り組むことで、信念を高め生き方を子どもたちに表現していき譲り遺していきたいと思います。

生き方の発信

現在、様々な技術革新によって人類は新たな扉を開こうとしています。私たちはそれを進化と呼びますが、物事は観方によってはそれは果たして本当に進化であったのかというものもあります。

例えば、縄文時代という時代は非常に平和な時代が続き持続可能な生活を維持してきたことが遺跡から洞察されています。また飛鳥時代なども、職人たちの建造物からその時代の人たちの心豊かな暮らしが洞察されています。物がなく、科学技術も進んでいなかった時代は果たして進化ではないのかと思うと考えさせられるものがあります。

人類においての洗練というのは、決して技術革新だけを言うのではありません。人類の洗練とは、敢えて技術革新しないという選択もあるのではないかと私は思うのです。

自然循環が余計なことを邪魔しないように、私たちも余計な邪魔をせずに暮らしていく。如何に、長くこの地球で暮らしていくのかを思う時、果たしてこの科学技術ばかりを追い求めていくことが人類の洗練なのだろうかと疑問に思うのです。

人類が洗練されていくというのは、目には観えない世界をもちゃんと自覚して自律して協力し合っていく社會を築くことではないかと私は思うのです。それは、自分自身がよりよく生きていきながら周囲への思いやりを忘れないでいのちを輝かせて生きていくこと

心安らかに、与えられた場所で自然と一体になって暮らしを営んでいくこと。人類は、何度も何度も同じ課題を向き合い、結局は縄文時代のような生活に回帰するのではないかと私は思うのです。

知識が増えて言葉が増えていくことが果たして進化と呼ぶものなのか。かえって言葉がなく知識がない方が眼に見えない偉大な存在をみんなが感じ取って仕合せに豊かさを築き上げていたかもしれません。

現代に生まれた私たちがそれに憧れないのは、もう環境が変わってしまったからかもしれません。気候変動が如実に目に見えてくればくるほどにきっと私たち人類は、何が洗練された人類なのかということと向き合う日が必ず訪れます。

子どもたちが末永く平和で仕合せでいるために、大人が選択して決断しなければならない日もまた必ず訪れます。今は、時代の過渡期ですからどこまで通用するかわかりませんが、自分の生き方で世の中に生き方の発信を続けていきたいと思います。