主人公の醸成

千葉の神崎にある伝統的な酒蔵に寺田本家があります。この酒蔵の23代目当主、寺田啓佐さんが「発酵道」というものを著書で書き記しました。この発酵道には、ご自分の体験を通して腐敗と発酵が醸し出すその価値が語られています。

腐敗もまた発酵であるといい、発酵するためには腐敗も必要と説きます。よくなるためにわるくなる、それも発酵であるといいます。その腐敗と発酵を繰り返すことで何を学ぶか、「うれしき たのしき ありがたき」といってなんでも楽しいものにしていく姿の中に本当に美味しいお酒が醸造できたといいます。

いくつかその寺田啓佐さんの言葉を引用してご紹介します。

「大事なことは、腐敗から発酵の方へ変わっていくと言うことである。否、発酵するために腐敗現象が起こると言ってもいいかも知れない。つまり、良くなるために悪くなると言うことである。いろいろな問題、災い、トラブル、病気など、良くなるために起きるのかも知れない。」

人は色々なことが起きます、自分にとって病気や災難はつらいものですがそれはすべて発酵のための腐敗現象かもしれないといいます。良いか悪いかではなく、発酵がはじまっていると思い腐敗と如何に調和して発酵させる状態にするかがはじまったということです。

そして寺田さんは微生物も人と同じであるとし、微生物から生き方を学びます。

「人間は脳を使えば使うほど自分のエゴに走り欲望と感情に巻き込まれてしまう。その原因を追求していくと過去の記憶にあるようなのです。ところが微生物はまさにあるがまま、目の前の今をどう心地良く生きていくかなのです。だから人間も過去にとらわれず、常岡先生の言うように手放して頭を空っぽにし、中心を取っていけばいいのです。でもそれも怖くてなかなか手放せない。自分はたまたま飛び降りるしかないというところまで追い詰められて、そして飛び降りたら「な~んだ、こんな世界があったのか」と気づいたのです。」

脳で考えるときは過去の記憶に囚われてしまう。原因は過去の何かに囚われて感情に巻き込まれて迷い苦しみが発生するといいます。しかし微生物は如何に今をどう心地よくして生きていくか、自分らしく、あるがままを受け容れて無理をせずに心地よく生きていくというのです。思い切って手放して諦めて流されるままに流れてみたら新たな世界に出会うといいます。

私の解釈では、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ともがくのやめてみれば次第に浮き上がってくるというのと同じです。そうしていると腐敗が発酵に切り替わり、ブクブクシュワシュワと楽しそうに微生物は醸します。そこには腐敗も発酵もどの微生物もつながっていてすべては発達のために必要だったという出会いがあります。発達することが発酵することですから、みんなそうやっていのちは終わることなく繰り返され今に受け継がれているとも言えます。

「発酵してくると、魅力的になる。自分が大好きになる。まわりの人が、あなたにまた会いたくなる。」

そのままの自分、あるがままの自分を好きになることは発酵することです。腐敗を否定し排除するのではなく、腐敗している自分を認め、その腐敗を許し、腐敗も発酵になることを信じてゆっくりと醸成していけば自分のことが大好きになります。そうやって苦労を糧にして忍耐を学び、成熟していく人には周りがその人を必要としていくからです。

本当の自分を取り戻す方法が、この寺田さんの生き方、「発酵道」の中には詰まっています。

最後に、私も発酵を学ぶ人間としてとても共感する言葉がありその寺田さんお言葉で締めくくります。

「松下幸之助も「愉快に生きると幸せになる」と言っている。これから我われは、本物の時代、魂の時代、心を洗って、魂を磨いていく時代に入っていく。そして「みんなもともと一つだ」と言う、ワンネスへと向う時代である。そんな時代に上手く行くコツは、決して「清貧の思想」という、清くて貧しい生き方をすることではない。清くても豊かに生きるという「清富の思想」で生きることである。それが実は、自然に生きると言うことである。

自然の正体は親心である。まさに慈しみと愛である。親の心と一緒である。自然に沿ったらうまくいくのは、自然が愛と慈しみで出来ているからである。だから、自然に逆らって、上手く行ったためしがない。一時は上手く行っても、また腐ってきてしまう。

自然の慈しみと愛を受けて、発酵すれば、人生でも、商いでも、みんなうまくいってしまう。それがこれからの魂の時代の生き方である。」

魂の時代の生き方である・・・引き続き、自然から学び、微生物から学び、本来の自分、主人公としての自分を醸成したいと思います。

魂の磨き

人間は困難によって魂が磨かれるものです。自分の思い通りにならないことは自分を磨く試金石だとも言えます。自分の魂を何を持って磨くか、そこに自分の志や初心があります。魂を磨くというのは、人生の意味そのものですから誰もが磨く機会、試練をいただけます。その試練と苦労がその人の魂を育て光らせていくように思います。

以前、ある人に私たちの会社のことを「魂を磨く会社だ」と言われたことがあります。今の時代は、心とか精神とか肉体とかはあっても魂を磨くということを経営にしている会社は珍しいと言われたことがあります。子どもの心を見守る仕事をしている人たちはほとんどこの魂を磨くことをそれぞれの持ち場で真摯に実践しているように思います。

もう10年以上前に熊本県阿蘇の満願寺窯にて陶芸家の北川八郎先生にお会いしたことがあります。先日も致知の中の記事で写真を拝見しましたがとても穏やかで厳かな雰囲気に懐かしさを覚えました。あの頃に教えていただいたことのヒントも今の会社にいきています。

その北川八郎先生のブログに魂を磨くことについての記事があったので転載します。

===ここから

「今 この日本に生きていると言う事。

この 混乱のない時代に魂が出てきたという事は 素晴らしいチャンスです。

魂を磨く時と場が与えられ その上 世の中に貢献し、魂の向上を図る機会を得たと言う事なのです。

少し前の時代 1940年代、つまり第二次世界大戦の前後の人達と言うのは

私達よりも 魂と生きる意味について学ぶ事が少なかったかもしれない。

なぜならば 現代は魂の事を語るチャンスがとても多いし そのことに気づいた人がたくさんいます。

でも 戦前戦後の頃は ただ食べることに必死の時代でした。貧しくて ほとんどの人が 学ぶ機会がなかったのです。

私達が今 この物質的に恵まれ 自由に生きられる時代の日本に生まれたということは 今世 魂や転世や、生きる意味について 学びの良き場を与えられているという事です。

今世に何を成そうとして生まれてきたのか、その一つはまず 人に良きものを与えよう という事です。

それは 祈りでもいいのです。笑顔でもいいのです。やさしい感情でもいいのです。人を助けることでもいいのです。

「自分の為だけの人生」は 神の意志から遠いという事に気づく事です。

人を許し 人の喜びに参加することです。

特に怒りを捨て 自分を傷つけた人を許す生き方を身に付ける事です。

人の失敗を許してみましょう。人の情けなさ・・・を許してみましょう。

何回も練習して 「○○さん あなたを許します」 と言ってみましょう。

特に 自分に苦と被害を与えた人を許す事です。

許して 光を与える事。

許し続けましょう。もう 許しましょう・・・。」

(「心にある力」より  http://manganjigama.jp/  )

===ここまで

平和な今の時代、物は豊かになりましたが心が貧しくなりました。そしてその心の貧しさを豊かさに転じるには魂を磨く必要があります。磨き方はいろいろとありますが、この北川先生の言う「ゆるす」ということにはとても深い祈りがあるように私は思います。

許す自分、許される自分、自分を労り自分に優しくすることは周りの人も同様に思いやりをもって大切にしていくということでもあります。

許すという磨き方があることを知り、新たな砥石を得た心地です。引き続き、磨くことを本業にしている以上、試練を試金石ににして磨き直していくチャンスに転じていきたいと思います。

個性の尊重

人間には個性があります。それは自分らしく生きるときに出てきます。この自分らしくというのは、無人島で一人ぼっちでいれば自分らしくというわけではないことはすぐにわかります。自分らしくというのは、その陰に集団の中でという言葉が隠れています。つまり個性は一人で実現するものではなく、その色々な人たちの中で自分の個性が存在するということです。

人は一人では生きていきません、人生という感じも二人以上が寄り添っている間に生きている字になっています。人間に限らず全ての生物は単体では存在できず、周囲の生き物たちと共生関係を持ち、貢献し合う中で生き活かしあっています。

これを生活ともいいますが、その生活の中で私たちは多様な個性を発揮することでお互いを必要としあい、お互いの存在を認め合い高め合っています。

よく自分の個性を自分勝手に思い込み、自分を頑固に持つことを個性と勘違いしている人がいますがこれは個性ではなく我儘になります。個性というのは、自分らしく生きていくことができるように自分の人格を高め周囲への御蔭様に感謝し思いやりを忘れず、お互いに尊重し合う関係の時にはじめて語られるように思います。

個性の尊重というものは、お互いに自分のままでいいと認め合う中で行われます。そして認め合うには自分の思い込みの狭い先入観や価値観を捨てて話を聴けなければなりません。人が話を聴くということは、その聴くことを通して丸ごと認めることになり、その丸ごと認めたことではじめて自分らしく生きることを肯定できるからです。

私たちの行う一円対話は、そういう自分の狭い価値観に閉じこもり、思い込みや先入観を取り払い、あるがままのその人の価値観もまた好いものだと認め合う実践です。

この実践を通して人は少しずつ自分らしく生きることが楽しいと思えるようになっていきます。幻聴ばかりを聴いているうちに幻聴に呑まれて感情が抑えれなくなり生きづらくなる人がたくさんいます。

人がみんなと一緒に生きていく仕合せ、人と共に助け合い生き歓び、人間のもっとも幸福と感じられる体験を子どもたちに譲っていけるように日々を研究し仕組みを開発していきたいと思います。

暮らし~人生至高の錬磨~

古民家甦生を通して暮らしを実践していると「もったいない」の意識が変化していくのがわかります。例えば、それまでは日常の生活の中で「いのち」などを意識しなくても様々な道具も食材も建築物もそのまま頭の中の知識の一つとして無造作に扱っていましたが、実際に暮らしはじめていくと全ての生物非生物にいのちが宿っていることに気づけるようになります。

この日常の暮らしの実践というものは、私たちにいのちの存在に気づかせ、そのいのちをどのように活かしていけばいいかを学び直す人生至高の錬磨になります。

昔の人々は、建物にもいのちがあると考え、寺社仏閣にはご本尊があることが観えたといいます。それは太古の昔から、大きな樹や大きな岩、また滝や川、あらゆる自然の中に神や精霊を見出しそれを祀っていたのを観ても感じます。

こういうものを感じなくなってしまったのが現代であり、太古の昔はそれを身近にいつも感じて慎み深く恭しく謙虚に生活を営みました。この暮らしというものは、私たちはあまり議論にもしなくなりましたがそれまで観えていた世界を観なくなったというのが暮らしの消失でもあります。

如何に自分を磨いていくか、如何に自己を鍛錬していくか、人生修行、人生道場においての道場はこの暮らしの実践にこそあるように私には思えるのです。

同じもったいないというものであったとしても、ある人はそのものを別のものに見立てていのちの寿命を伸ばします。またある人は、そのものの手入れを怠らず何世代も活かし続けて甦生させていきます。

これはすべて暮らしの実践によって磨かれた人格であり、私たちの先祖はいのちをどのように活かすか、いのちをどのように伸ばすか、いのちをどのように甦生させるかといういのちと向き合ってきた民族であったのは明白です。

これらのいのちの暮らしがなくなれば、私たちはいともたやすく精神を損ない、魂が枯れ、心が疲れていきます。今の時代の忙しさの元凶は何か、魂が病んでいる人が増えたのはなぜか、精神が怠惰になってしまうのはなぜか、これは暮らしの喪失によって行われていることに気づかなければなりません。

日々の暮らしはいのちを学ぶ道です。

そのいのちを学ぶ至高の道場が家ですから、どのように家で暮らすかはその人の人生に多大な影響を与えます。家が先生であるという理由は、ここに極まります。

人生にとって一番長い時間は暮らしをしている時間です。この時間にどのような暮らしを実践するか、それを人生とも言います。経済優先、スピード重視、効率効果ばかりが叫ばれる自転車操業の世の中で人類は一度立ち止まり、自らの暮らしと向き合い見つめ直す時機に来ているように思います。

引き続き暮らしの実践を通していのちの甦生、人々の甦生、子どもに譲りたい未来のためにたゆまず磨き深めていきたいと思います。

 

変化を楽しむ~柔弱の徳~

植物を見ているとそこにとても柔軟性があることを感じます。特に新芽の頃の植物はとても柔らかく弱くできています。しかし様々な自然の猛威も受け流し、また虫たちの餌になっても旺盛な成長力でリカバーしていきます。

老子は、柔弱の徳といって柔軟性があるものがもっとも変化に強いということを言いましたがそれは植物たちの生き方を見ていれば一目瞭然です。老子はきっと植物たちがどのように自然に調和して生きていたかを学んでそれを通訳していたのだろうと感じます。

この柔軟性は言い換えれば、自分の方を変化させていく素直さといってもいいかもしれません。これがダメならあれでいこう、あれもダメならこれでいこうと様々な手を持っているということでもあります。これは常に変化は来るものとして準備を怠らず精進して変化が来たら謙虚にどう本質を維持しながら道を深めさらに柔軟に対応していくかといった学問を実践し続けているということです。

道は続いていますからその道を歩んでいく中で初心を忘れずに一つ一つのことを意味付けしては、その道中に出てくる障害や困難を乗り越えて進んでいかなければなりません。

その際、そこで簡単にあきらめてしまったらそこから前へは進めなくなります。その時こそ、先ほどの柔軟性が必要で変化し続けて福に転じ続けて七転び八起きして歩んでいくのでしょう。根無し草であれば、風が吹けばどこかに飛んでいきますし、もしくは土からの養分を貰えなくなってしまいます。だからこそ困難を糧に根を張る精進は、忍耐によって培われそれは初心を忘れないことの連続によって養分を吸い上げていきます。

どんなことが来ても変化していけばいいという最初から自然に抗わず逆らわない生きる姿勢の中に、相手を尊重し畏敬の念を持ち常に成長していこうとするいのちの姿が観えてきます。

いのちは成長することを求めるとき無限に養分を得ていきます。

逆に成果主義や効率主義、効果主義などプロセスよりも簡単便利に走るときに養分は得られずいのちは枯れていくように思います。如何に自分を磨き続けるかは、その初心や理念に対して日々の変化にどれだけ柔軟性を発揮していくかということに尽きるように私は思います。

磨くことが柔軟性ですから、矢印は自分に向けて自分磨きを怠らず自然を尊敬する真心のままに変化を楽しんでいきたいと思います。

本質と勇気

昨日は、「大切なことを忘れないDAY」として社内で東日本大震災の振り返り、またカグヤの防災とは何かについて話し合いました。

以前の震災の時は、原発事故もあり全員で福岡に移動しそこで約2か月間ほど避難しつつ東北の取引先に手紙を書いたり物資を調整したりとしました。ただ真っ先に東京から自分たちだけ離れたことで、周りからは逃げたと噂され、卑怯者だと罵られ、その当時は深く心が傷ついた記憶があります。

私たちの会社の理念は子ども第一義、もしも子どもだったらと考えた時に如何に自分たちがその姿勢を見せるかということを優先しています。もちろん、逃げられない仕事もありその場合は仕方がないのでしょうが私たちの場合は生き方と働き方で貢献しようと決めていますからその一つ一つの判断が未来の子どもたちの指標になっていきます。

長い目で観た時に、子どもたちはこの地震や津波をふたたび体験するかもしれません。その時はもうすでに私たちはこの世にいないかもしれません。しかしその子どもたちにとって自分たちがどのように対処したか、どのような姿勢で臨んだかはきっとのちの世代のための貴重な糧になるはずです。

自分くらいという生き方ではなく、将来の子どもたちのことを考えたうえで自分がどう生きるかということの方が子ども第一義を掲げる私たちにとっては重要なことなのです。

世の中の常識に如何に負けず、周りの批評や非難を受けても本当は何かと本質を貫けるのは勇気のなせる業のように思います。

最後に、朝日新聞の天声人語の記事を紹介します。

「1966年羽田空港でカナダの旅客機が濃霧で着陸失敗。
64人が犠牲になった。
その事故の直前、ハワイから飛んできた日航機が二度の着陸を試みるも断念して福岡へ向かった。
ハワイから8時間もかかって羽田まで来たにもかかわらず福岡へ向かうことに乗客は落胆する。
福岡では入国手続きに手間取ったため、乗客の憤まんはピークに達する。
その時、空港のテレビで炎上するカナダ機を目にする。
憤まんは機長への感謝に変わった。
そして「臆病者と言われる勇気を持て」という格言が航空界に広まった。
最近の山や海の事故や大雨などの気象災害を見るにつけ、臆病なほど相手(自然)の機嫌をうかがう心構えが肝要である。…と結んでいる。
自然を次々と破壊して、自然と称した人工物を自然と勘違いしている今の人間たちを本物の自然は寛容に許してはくれないようである。」

ここには臆病者と言われても、自分の考えを貫き通す勇気、弱虫と言われても、率先垂範して逃げる勇気が観えます。勇気とは決して野蛮で勢いで行うものではなく、自分の弱さと正面から向き合ってはじめて人は本物の勇気を持つことができるように私は思います。

勇気は問題意識と危機感、そして現実の直視からはじまります。引き続き子どもたちのためにも、想定外に備えて初心をいつまでも忘れないように実践を続けて積み上げていきたいと思います。

道中

古民家甦生をやっていると、色々と周辺の人たちには何をするのかと聞かれます。直してどうするつもりかと尋ねられることはあっても、なぜ直しているのかとはなかなか聞かれることがありません。

私にとってはこの古民家甦生のプロセスの中に、日本人の生き方や民家の暮らしの尊さを学び直して自分を直しているのであり結果はその直した後に自然に出てくるように感じています。

直すというのは、こちらが直しているのか、それともこちらが直されているのかというものがあります。自然農も同じく、私が田んぼを作り直しているのではなく田んぼによって自分の方が直されていくのです。

相手が自然や伝統である場合、ズレてしまっているのは自分の方であることに気づきます。自分が不自然になっていないか、自分がつながりを見失っていないか、一つひとつの体験を通してそのことに気づいていくのです。

ある人にとってはこんなに田んぼを遊ばせてもったいないや、古民家をお店として利用しないでもったないなどと言われることもありますが、私にとってのもったいないというのはこの取り組んでいるプロセスがもったいないと感じるのです。

もちろん結果や収穫、家が完成するのもまたうれしいのでしょうがこの取り組んでいる最中こそが有難く、心豊かで仕合せを感じます。古民家甦生などは一年でよくもここまでやったなと周囲に言われますが、これは結果に対して焦っているから早く完成しているのではありません。

私にとっては自然農も古民家甦生も大変ですが取り組むたびに新しい発見があり楽しく、そして好きで好きで仕方がなく、やっていることで学問の悦びを感じます。周りからは急いでいるように見えても、私にとっては四六時中同じことを考えていますからそのどれもがかんながらの道に観えています。

道楽というのは、来たものを選ばずにそのどれからも学び続けている幸福の中にいるということです。

また仲間がいるから、家族があるから一緒に道を歩める仕合せがあります。

引き続き、子どもたちのためにも目的を大切にして結果を求めずに求道し続けていきたいと思います。

 

民の道

民族のルーツをたどっていくと、それぞれの民族に発祥があることに気づきます。それはその土地の自然風土の中で、何とつながり、何と絆を結んだかという自然との共生により発生したものです。それをより深め、子孫へと伝承してきたのが発達であるとも言えます。

そう考えてみると、多様性というものはその土地や風土の変化に合わせて自分たちが変わり続けていることを知ります。その土地の生き物たちが場所を超えて巡り合う時、様々な化学反応が起きます。そして破壊と創造をくりかえし新たなものがそこに発生します。

連綿と続いてきたその民族特有の血脈は、見た目には失われているように見えてもそれはなくなってはいないものです。その証拠に、私たちは伝統や歴史、先祖たちの生き様や文化に触れると魂が揺さぶられる感覚があります。つまり本物に触れることができるのです。

例えば、アラスカの土地でアフリカの文化をみても私たちはそこに違和感を感じます。しかしアフリカの土地でアフリカの文化を感じると私たちは感動します。それは自然と結ばれてきた人々の暮らしが文化に残存するからです。

長い年月をかけて、風土と共に経年変化した味わいというものは偉大な化学反応でありその壮大なスケールに私たちは畏敬の念を覚えるように思うのです。

一代でなしえないことを、何世代もかけて順応させていくという智慧は地球の成長と変化に結ばれ自然と共生してきた私たちのいのちの本質なのでしょう。

目先の大きな変化が変化のすべてだと勘違いしてしまいますが、実際の変化とはもっと悠久の年月をかけ壮大なつながりの中で行われているものです。自分の中に流れている血に民族の魂と志を感じます。

引き続き、周りから誤解されて理解されなくても自分の進むべき道を迷わずに歩んでいきたいと思います。

おもてなしの本質

「お客様は神様です」という言葉があります。これは商売の間では、一般的にクレームの声や様々なアドバイスや利益をいただけるお客様はまるで神様のようであるというように使われているように思います。

しかしこの言葉を使い広がった起因となった歌手の三波春夫氏は、お客様は神様であるという意味をこう言います。

『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。だからお客様は絶対者、神様なのです』

しかしこの本意がなかなか伝わらず三波春夫氏は説明に苦慮されたそうです。それが下記の問答の中にも残っています。

『ある時こんな質問を受けたことがあります。「三波さん、お客様はお金をくださるから神様なんですか」と。私はその時その人に聞きました。「じゃああなたは神様からお金や何かをもらったことがありますか。お賽銭を上げてお参りするだけでしょう」』

信仰するということの意味から離れて、個人の損得のみで判断する世の中になっていく中で本来の「神様に対する姿勢」という畏敬の念もまた失われてきたのかもしれません。

この神様に対する姿勢の中で日本民族の代表的な言葉に「おもてなし」があります。広辞苑ではとりなし、つくろい、たしなみ、ふるまい、挙動、態度、待遇 馳走、饗応など書かれます。真心を持って気遣いや心配りをする生き方のことで日本人の徳性の一つです。

このおもてなしは、裏表なしの「おもてなし」とも言われます。裏のないあるがままの純粋な心のままに気を配るということです。ここに私は先ほどの神様が深く関係していると感じるのです。

日本では古来より、神事や御祭において神様を自然の場所から御社へと御迎えして「おもてなし」を行います。供物や神楽をはじめ素直な心で真摯に感謝の念を伝えます。この時、私たちが実践しているのは「神様をもてなす」ことであり、「お客様は神様」になっているのに気づきます。

お客様が神様であるというのは、私たちのご先祖様が常日頃から生活文化の中で「暮らし」を通して自然に実践を積み重ねてきたものであり、世界に誇る真心の接待は神様をお客様として御迎えするなかで伝承されてきた「生きざま」だったのです。

しかし今では、御祭りの意味変わり、個人主義が蔓延し、人間のみを相手にサービスばかりを増やしては満足度を気にしているようでは「お客様は神様」の意味もまた変わってしまうのでしょう。

どれだけ相手を卑下せず尊重して自らの姿勢を正すか、畏敬の念で相手の心に寄り添い丹誠を籠めて真摯に尽力しようとするところにその人たちの目線の丁重さを感じます。低姿勢の人はみんな生き方が謙虚であり、相手のことを慮り思いやる素直な姿勢を持っています。

常に自分の姿勢を省み、全てのいのちを神様だと思いそのお客様に仕える心で生きていきたいと感じます。ご先祖様たちの大切にしてきた暮らしを守っていきたいと思います。

原点回帰とは

今というものを紐解いていくと、それは過去のある時点での決心の延長線にあるものだと気づくものです。今の自分が存在する結果は、かつて蒔いた種が実っているということになります。そしてその種ともいえる動機を初心とも言い、それを原点とも言います。この原点を忘れないままでいると、自分の根がどこに伸びているか、そしてその根がどのように何を吸収しているのかを自分で理解できるようになります。

例えば、自分の根の成長を省みると自分の信念や理念、その初心とつながりそれが困難や苦労によって下へ下へと根が広がっていくのが分かります。そして根は養分を土の中から上へ上へと土壌の水分などを吸い上げていきます。

それが「いのちの成長」でもあります。

私たちは表に出て変化している部分と、表には出ませんが土の中で成長していく部分があります。これは植物で比喩していますが、見た目と内面の変化とも言えます。

原点を持つというのは、この根を深めるということにおいて何よりも重要になります。根を深めるとは、原点回帰をすることであり、何のために自分が今これをやるのか、なぜこれを今やるのかと、常に自分の根を張り巡らせてしっかりとその場所に根付いていくことです。

根無し草や根が弱ければ、ちょっと風が吹いたり嵐がきたり、困難があるとあっという間に吹き飛ばされたり折れたりして枯れてしまいます。そうならないように、その場所に深く根を張ることで困難を成長の糧にし、艱難を持って信念を醸成するのです。

人が自分の根をそうやって深く掘り下げていくように、組織もまた同様にみんなで深く根を掘り下げていきます。そうやって繰り返し、植物たちのように「いのちの廻り」を繰り返しているうちに土壌は発酵し様々ないのちをささえる楽園になっていきます。そこに他のいのちが活かされ、そこはまさに生き物たちのユートピアになるのです。

原点回帰というのは、それぞれが自分の価値観よりも少し大切なものを持つということに似ています。また自分の価値観よりも優先するものを持つということ、言い換えればこれだけは譲れないと思っているものを持っているということです。

この原点を大切に守っていくことが原点回帰であり、時代の変遷の中であっても不易と流行のように変わるものと変わらないものをちゃんと回帰しながら歩んでいくということです。

この「回帰」というのが、初心に帰るという意味であり理念に立脚するという意味です。

引き続き、人間の一人一人が幸せに生きていく社會、やりがいと生きがい、誇りと安心立命できる豊かな社會を目指して、原点回帰の実践を仲間と一緒に取り組んでいきたいと思います。