力の出し入れ~生き方を省みる~

昨日、力を抜くことについて深めてみました。力が抜けているというのは、自分らしくいること、つまりは自分がどうありたいかという自分の生き方の方を優先する自分でいられる状態になっていれば力もまた抜けるということです。

そもそも力というのは何のためにあるのかということです。

力もまたお金と同じように使い道の問題のように私は思います。その力を何のために使うかでその力の価値が発生していくように思います。その力をいつも自分のためだけに使う人、その力をいつも誰かのために使う人ではその力のつき方もまた変わっていくように思えるからです。

私はどんな時に力が出るかと自分を省みると、いつも誰かを思いやって使うときにこそ最大限に発揮されるように感じています。逆に自分のためにやるときは、余計な力が入るだけであまり力が存分に出ている感じにはなりません。この力はお金にも似ていて、貧乏神が自分のためだけにお金を使っているのに対して、福の神はいつも誰かのためにとお金を使っているのと同じように思います。つまり何のために使うのかということがはっきりしているかどうかです。

そして力の使い方とは、常に自分自身の執着が関係しているように思うのです。

私が思う力が出るという、この「出す」技術というものは、思いやりに出すことや、誰かのためにと感謝で出すことではじめてなんでも出てくるように思います。言葉もそうです、よくよく自分や他人の言葉を聴いて観ていたら何の言葉が出ているかでその人の思いが出てきます。「ありがとう」や「おかげさまで」、「たすかったよ」とか「すばらしい」とか、「すごいじゃないか」なとといつも人を励まし信じるような言葉が出ている人はその心は「思いやり」が出ているのです。

逆に余計な力が入っている人は、これらの言葉が出てきません。黙っていたり、文句を貯めこんだり感情をイライラしたり、もしくは周りに矢印を向けていたりと、なかなか言葉に出すこともなくそれが出たときには先ほどの言葉と反対のような不平不満不足不信が出てくるものです。

この「出す」ということをどう出すかでその人の生き方が出てきます。思いやりのために出そうとするか、自分のためだけに出そうとするかはその人の生き方次第です。

力の出し入れ具合にはその人の生き方を省みるキッカケになります。力を入れるときは自分を信じること、力を出す時は人を思いやることと、力を大切に使わせていただける自分でいたいと思います。

 

真心の在り処

論語や君子というものを考えるとき、それは一般には政治やリーダーの学問であると言われます。しかし一度、そういう世間の評価を外して本当は何だろうとじっとそのものをそのままに見つめていると別の視点が顕れます。そもそも論語とは、そして君子とは一体何かということです。

それを少し深めてみたいと思います。

まず孟子の中に「君子三楽」という話が出てきます。そこにはこうあります。

孟子曰、「君子有三楽、而王天下、不与存焉。父母俱存、兄弟無故、一楽也。仰不愧於天、俯不怍於人、二楽也。得天下英才、而教育之、三楽也。君子有三楽、而王天下、不與存焉。」

意訳ですが、「君子には三つの楽しみがある。それは別に天下の王になることではない。まず一つ目の楽しみは父母が健在で兄弟も健やかであること。そして二つ目の楽しみは、天に恥じることのない真心で生きることができること。最後の三つ目の楽しみは天下に役立つ人たちを見出しその持ち味を活かせるようにすることだ。これは別に天下の王になることと関係がない。」と言います。

父母兄弟が和合し共に慈しみ、正直に素直な日々を謙虚に送れ、周囲を見守り活かせる安心基地の存在になること。孟子の描く君子像とはこのようなものです。

そして孔子はどう考えるのか、私には孔子の「志」について語る同志との問答の中に君子本来の姿が顕れているように思います。そこにはこうあります。

「顔淵季路侍、子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘、與朋友共、敝之而無憾、顔淵曰、願無伐善、無施勞、子路曰、願聞子之志、子曰、老者安之、朋友信之、少者懐之。」

意訳になりますが、「孔子は顔淵と子路と一緒に歩んでいる中であるとき彼らに質問をしました。”あなたたちの志を聴かせてくれないか”と。子路はそれに対してこう言いました。”馬でも馬車でも衣装でもなんでも朋たちと全て分かち合い、たとえそれをなくしたり壊されたりしても怒ることがない人になりたいです”これを私は志しますと。そして顔淵は言います。”他人には善いことをしそれを思うこともなく、他人の苦労をそっと取り払いまた思うこともない自分になりたいです”これが私の志ですと。そして孔子は最後に自分の志を言います。”年寄たちからは安心され、友人たちからは信頼され、若者からは慕われるような人になりたいものだ”と」

彼らが目指した君子とは一体どういったものか、それを感じるのです。

人は何かを成し遂げないから君子になれないのではなく、その日々の自己の心がけ次第で君子になれるようにも思います。人として当たり前のことができない苦しみを抱え、人は人生航路をそれぞれに歩んでいきますがその修行は日々のあちこちで訪れます。

その道の同行行脚の中で仲間と共に目指す仁人の実践、真心を盡すご縁をいただけることは何よりも有難い志のように思います。志の意味も、何か夢かなにかと勘違いすることがありますが彼らにとっての志とは思いやりのある人になりたいと願う自己の実践です。だからこそ道とはなんと深淵で奥深い美しい世界であるかと私には感じます。

学べば学ぶほどに本当に教えてくださっているのは、知識でもなく智慧でもなく、能力でもなく技術でもない、その真心の在り処だったのかもしれません。先生が居るということ、同志や仲間との御縁があるということはそれだけで何より有難いものです。

ご縁を大切に日々を学び直して急がずに休まずに心を廣く歩んでいきたいと思います。

青春~心の若さ~

サミュエル・ウルマンの「青春」をヒントに松下幸之助さんのが自ら作成した座右の銘があります。

「“青春とは心の若さである 信念と希望にあふれ勇気にみちて日に新たな活動を続けるかぎり 青春は永遠にその人のものである”」

という言葉です。一生青春を掲げその生涯を亡くなるときまで日々新たと青春し続け心を高めた松下幸之助さんの生き様が言葉に凝縮されているように思います。

そもそも青春とは何か、ウィキペディアにはこうあります。

「青春とは、元は春を表す言葉である。 古代中国の五行思想では、「春」には「青(緑)」が当てられる。 同様に、「夏」を「朱(赤)」、「秋」を「白」、「冬」を「玄(黒)」に当て、それぞれ「青春(せいしゅん)」、「朱夏(しゅか)」、「白秋(はくしゅう)」、「玄冬(げんとう)」という。 これらは季節を表す言葉であり、これが転じて、日本では特に「青春」について人生における若く未熟で、しかしながら元気で力に溢れた時代を指すようになった。」

人生の春、もっとも若く好奇心あふれてこれから伸びていこうとする素直な心。そういうものを持ち続けようとする中に自然の道があるように思うのです。天地自然には鬱蒼と生い茂る新緑のエネルギー、つまりは逞しさを見守る何かがあるように思えてなりません。

いのちがその希望に燃えるとき、何かの偉大な御蔭様や見守りが働くように思えます。自然界では常に厳しい環境の中でいのちが自然の摂理に晒されます。その時、誰かが救けてくれるのを待つのでもなく、何かに依存して甘えるのではなく、自ずからの心の在り方を変えて善いことに転じようとするのです。

この禍を転じる力こそが若さであり、福にしていくことこそ青春だと私は思うのです。

もしも私が青春をヒントに座右をつくるとしたらこうなります。

「青春とは禍転じて福となすことである、日々のご縁を丸ごと善いことにしていくことである、万物不変の本質、永遠の若さとは好奇心を忘れないことである。旅と思い出のための冒険を味わうのが人生の醍醐味である。」

と。

実践するのは大変なことですが、実践させていただける仕合せもまたあります。出会いを大切に学び直しを続けていきたいと思います。

海との再会~愛を体現~

先日、イルカが沢山の浜辺に打ち上げられ亡くなったニュースが報道されました。他にもクジラが浜辺に打ち上げられたニュースもよく聞きます。イルカやクジラと話せるわけではない人間は、磁場が乱れたとか地震が来るとか、シャチから逃げたからだとか様々な推測ばかりをします。

こんな時、私は故ジャックマイヨールを思い出します。

もしジャックマイヨールならこれをどう読み取るだろうかと。昨年の貝との出会いから私の中のジャックマイヨールはとても大きな存在になりました。海と人とのつながりにおいて忘れていたものを思い出したからです。海という感覚を自らの内なる世界観から捉える感性には心に響くものがあります。

ジャックマイヨールは、こういう話をしていました。

「たしかに人間は何万年にわたって、進化を遂げてきました。しかし、決して変わってはいないものがあります。水の記憶です。生命の源です。私達の体や遺伝子の中には、母の子宮の中や海の中で生きていた時代の記憶がはっきりと残っているのです。」

もともと私たちが本来「水棲生物」であった証は、赤ちゃんであったことを思えば自明します。赤ちゃんのとき、私たちは羊水の中でずっと泳いでいるからです。本来は水の中で暮らしてきたことを証明しています。

「私のささやかな経験から言えば、生と死は同じことの、裏と表のようなものです。 例えば赤ちゃんは生まれるとき、同時に死を通過しているのです。子宮の中にいる赤ちゃんは、ちょうどグランブルーの世界にいるときと同じように、完全な平和の世界に生きています。そして、ひとたび誕生の時が来ると、へその緒を切られ、一度死を通過して新しい次元に生まれ出るのです。これは人生も同じです。呼吸というへその緒が切れたとき、死を迎え、新しい次元に生まれ出るのです。魂の世界で、大宇宙の母の子宮に戻るのです。」

この次元で物事を捉えることができるのは自然を体感していたからなのでしょう。深い内省が深淵に近づくとき、人はこのような宇宙観に気づくのかもしれません。そしてイルカやクジラとの対話についてはこう言います。

「鯨達との交感に言葉はいらない。コミュニケーションではなく、ハーモニーするのだ。」

このハーモニーとは、いのちの響き合いのことを言います。お互いに自然に心を寄せるものはまるで一心同体になるということでしょう。佐賀県唐津でのイルカとの出会い、家族との思い出が響き合い初心になってその神秘なまでの海との記憶を美しい心のままに追い求めていたのかもしれません。

イルカやクジラの痛ましい自死のニュースは、これ以上、母なる海を汚さないでほしいという決死の真心の訴えかもしれません。絶対平和を選んだ彼らができることは相手を責めることもなく、自分を責めることもなく、”愛を体現”することであったのでしょう。

彼らにとっては今も未来の私たちも”みんな丸ごと自分の子ども達”です。子ども達に訴えかけてくるその真心や愛を心で感じ取り、本来の自然に学ぶ心を取り戻してほしいと私も一緒に深く祈ります。これはきっと”自然からこれ以上、心を離さないで”という海とイルカからの遺言です。

最後にジャックマイヨールの志の言霊からまだまだ子ども心を諦めないぞという勇気が湧いてきます。

『自然と寄り添い、自然と調和したとき、無限の可能性が生まれる』

3つ子の魂は100までを信じ、御蔭様の使命を信じ人類初心の実践あるのみです。
再会に心から感謝します、ありがとうございます。

新しい生き方と働き方

先日、ある子どもに小学校でのこんな話を聞きました。

小学校ではなんでも一人でできることを重んじ、周りの心配をしていたら「他人のことはいいから自分のことをやりなさい」と先生に叱られるそうです。その子は周りをいつも心配して「大丈夫?」と声がけをしているのですがその際にいつも自分のことを先にやるようにと指導されるそうです。

ふと、疑問を感じることがあります。

確かに、自分のことを自分でできることを自立であると定義しているならば他人の心配をするよりも自分のことをやればいいということになります。同じ目標ならそれぞれが自分のことをやっていれば全体では引き上がるのでできると考えますが、それはみんなが同じことを目指し同じことを周りと同じようにするようなことがある場合に限りです。

しかしそんなことは実社会に出てどれくらい頻度があるでしょうか。実社會に出て人と働いてみたら、多様化した今の環境では誰かと同じことをしている仕事などというものはほとんどなくなっています。ひょっとすると昔は大量生産大量消費で工場のような仕事が多かったのかもしれませんが、今では仕事も時間と共に変化し、昔のままでやって温故知新しないものは時間と共に消失していきます。仕事が消失するのは必然ですからその同じ仕事に固執していたら自分もまた失業してしまいます。

人が学ぶということはこの温故知新を繰り返すということです。言い換えれば自分を毀すということです。新しいことに挑戦し、今までの自分を刷新していくこと。新しい価値観に触れては新しい自分に出会い続けて自分を変え続けていくことです。

深めていかなければならない理由もそこに在りますし、楽しくしていく理由もまたそこにあります。変化は創造であり、変化こそ学問の本質です。

もしも人は同じことを皆がするが最良とするなら今なら精密なロボットで構いません。人間にはそれぞれ無二の個性があり一人ひとりに与えられた天分といった得意、特性があるのだからそれを活かしあうことで複雑なことも成し遂げ偉大なこともできるようになるものです。そしてそのプロセスの中に人間社會の幸福もあるのです。

そのためには単に同じことを行う個をつくり上げるのではなく、異なることを協力する中で自分を発揮して周囲のために活躍できる人の方が本来の集団では役に立つように思います。必死に周りができることと同じことができるようになったとしても、それよりももっとできる人が現れたなら自分は役に立てなくなるというのでは、不安はなくなりませんし倖せもまた感じにくくなります。

人が安心するのは自分にしかできないことが、周囲の人たちのお役に立っていることの実感です。それは単に能力だけではなく、その人の”持ち味が活きている”ということです。そしてその持ち味は、周りのために働く倖せを知っている人たち、そしてその人の持ち味を温かく見守り協力を惜しまない仲間たちによって得られるように思えるのです。それは先述した自分のことをやりなさいということではなく、周りのために自分のできることをやりなさいと言う方がいいように思います。それは不安を解消するために頑張りなさいではなく、安心して思い切りやってみなさいという励ましに似ています。

情報化社会が成熟してきて働き方も生き方も、ものすごいスピードで変わり続ける現代において「変化を教える」というのは何よりも重要なことのように私には思います。それは一斉画一に同じことを教えてできる環境で人を創るのではなく、柔軟性を持ち、いつも周りの変化に対して協力し合える個性溢れる豊かな環境で人を創る方が今はいいように思います。

新しい生き方や新しい働き方を子どもたちが創造していくのを今の大人たちが邪魔しないようにしていくことが将来の日本を世界の中で役立てていく方法ではないかと私は思います。子どもたちのモデルになるような新しい生き甲斐と遣り甲斐を自分たちを温故知新していくことで創りあげていきたいと思います。

 

逞しさ~ワイルドハート~

今の時代は自然の環境の中いるよりも、人工的な環境の中にいることの方が圧倒的に増えていることが多い時代です。都会に住めばあらゆるところにまで人工物が張り巡らされています。言い換えれば人間が頭で考えたものに囲まれた中で生きているということです。

いのちには本来、「逞しさ」というものがあります。自然界では逞しくないと生きていくことができません。それを生きる力と私は定義しています。しかし都市化人工飼育の中でその逞しさは次第に失われていくように思います。隅々まで人工的に操作したお金や物に頼る安心と安全こそがそういう人間本来の生きる力を奪うのかもしれません。

自然界というものは、数々の困難が待ち受けます。身近な植物をみていても、天候の急変にさらされ、動物や虫に食べられ、鳥についばまれ、あらゆる災難の中で自らの一生をいのちを燃焼させることで生き切ります。そこには野生があり、温室栽培のものとは明らかに逞しさが異なります。

本来、見守るということを感じる力や御蔭様と感謝する心は苦労する中で育まれていく感性のように思います。自分の思い通りや都合よくいかないと思って不平不満ばかりを並べては解決ばかりに固執しマジメになっていても嫌な思いをするだけで苦労をしているわけではありません。

人生は一度きり、一日一生と、今日ある当たり前ではない日々に感謝し、その日を精一杯生き切る中に真の苦労はあるように思います。如何に自分が活かされているか、如何に自分が生きていることが有難いか、平和ボケせずに生きる幸せを深く味わい盡すのです。

それは自然から離れないという意味と同じ意味になるかもしれません。

生きる力が発揮されるということは、野生を生きるということです。それは自然をエコなどと呼ぶのではなく、自然はワイルドであるという本来の意味を間違えないということです。自然の厳しさと慈しみ、それを存分に感じながら自分らしく生きていくことは、この自分のいのちを自ら主体として磨き光り輝かせていこうとする生きる力です。

物の視方を転じて観れば、自然の生き物たちはみんな一緒に逞しく生きています。自分だけで生きているなどという傲慢な気持ちこそがその人を孤独にしているのかもしれません。様々な生き物を育てたり一緒に暮らしたりする中で自然を取り戻していくことが孤独を取り払うことかもしれません。

子ども達には、この先の未来で何が起きても逞しく生きていってほしいと思います。私たちが大人として何を譲れるか、真摯に正対していきたいと思います。

恩師

昨日は、一年ぶりに中学校の頃の部活の恩師に会いました。私はこの恩師の御蔭で本当に人生を変える大きな道しるべと心には宝をいただき今まで歩んでこれました。まさか25年ぶりに再会し、今の年齢になって色々とじっくりお話ができるなんて夢にも思わず人のご縁の奇跡にただただ不思議に思います。

教育という深淵に触れたのも先生があったからです。

自分の人生に正面から向き合ってくださって、その上で人間としてどう生きようかと一緒に歩んでくださったこと、そして大事な局面ではまるで自分自身に喝を入れて叱咤激励するかのように遠慮なく全身全霊で愛情をかけてくれました。

懐かしい思い出は、目を閉じ眼れば今も心の中に鮮明に残っています。

その先生から指導についてのお話を今、お聴きできるのもこのタイミングで私が大事なことを学ぼうとしているからかもしれません。不思議ですが「今必要だと渇望していたら誰かが必ず愛の手を差し伸べてくれる、いつもご縁は初志を離れない」ことも改めて実感します。

私が部生活を通して習った恩師からの戦略は、”勝つバレーではなく負けないバレー”でした。いつも試合がはじまると、相手のチームが勝っているように感じているのになぜか試合が終わったらいつも相手が負けているという戦い方です。相手の監督や選手からもいつも不思議がられていました。

これは日頃の練習こそが本番で基本、その上で如何に自分に打ち克つことが仕合いだと私たちも先生も一体になって戦ってきました。その結果として、敵は周りにはおらず自分自身であることもそこで学んだことを今でも覚えています。先生はいつも自らの実践として練習を重視し、いついかなるときも選手の姿を見守り、常にプレーを通して生き方をきめ細かく指導してくださっていました。

試合ではいつも練習を出せばいい、思い切ってやれといい、試合に負けたら先生の責任だからといい、試合に勝ったら一緒に克ったなと心から喜んでくれました。厳しい中にも深い思いやりがある優しい先生です。先生の生き方は私の人生観に於いて、多大な影響を今でも与え続けています。

最後に先生からいただいた有難い言葉がありました。

先生にも尊敬している先生がいて、その方にある質問をしたそうです。それは「私のような未熟で不完全な人間が指導しても良い人間などできないのではないか?」という質問です。それに対して先生の先生はこう答えたそうです。「世の中に完全な人間などはいない、その中でも自分で勉強して、”こんな人間であろう”としっかりと勉強しなさい。子どもは、小学生でも、中学生でも、高校生でも、自分のその顔つきとか目つきとかでちゃんと人間性が出てくるから。」と。

それを心に、生徒指導の道を歩まれてこられたそうです。まさに論語の「己達せんと欲して人を達せしむ」です。 生徒指導を30年以上勤めて様々な智慧を持つ先生はいつまでも私の先生です。

不思議なことですが今になってみて、尊敬していた先生の生き方を知り、私は深く薫陶を受けていたことを感じ、自分の志事が自分勝手なものではないことに改めて気づきます。初志に教えていただけるのはきっと自分が何を大切に歩んでいるかから離れていないからです。

これからも素直に正直に、指導の原点を学び直していきたいと思います。

素敵な誕生日プレゼントを有難うございました。

生き様

価値観が多様化する時代、それは言い換えれば生き方が増える時代とも言えます。その人がどのような生き方をするかは、その人が新しい価値観を創造するということでもあります。

生き方がブレナイ人というのは、自分を持っている人のことです。人の価値観を否定するわけでもなく迎合するのではなく、自分の生き方を定めているということです。よく勘違いされるのは、自分の価値観に固執するばかりに他を排斥し自分勝手に傲慢になるのはそれは生き方とは関係がありません。

生き方を貫こうと思ったら、周囲への思いやりが必要ですし、その生き方をするのは何のためにかということを心の深いところに育てて据え置かなければならないからです。何がもっとも大切なことなのか、そして世界の中での自分の役割とは本当は何なのかを突き詰め、自らの天命に応じて素直に従うような力量もまた問われるように思います。

以前、NHKの大河ドラマで「八重の桜」がありました。その中で、新島八重を夫である新島襄が友人あてに紹介する文面に「ハンサムウーマン」という記述が出てきます。そこにはこうあります。

「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」

「生き方がハンサム」なのですとあります。これは八重の生涯を見て観たらすぐにわかります。新島譲は他にもこういう言葉で友人に自分の結婚観について紹介します。

「外国人は生活の程度が違うから、やはり日本夫人をめとりたいと思います。しかし亭主が、東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」

つまりこれは単に西洋か東洋かではなく、男か女かでもなく、お互いの意見を尊重してお互いに認め合い学び合い、そして助け合えるパートナーを言ったのでしょう。

これはまるで志を同じくし、話をよく聴き、自分はこう思うと話ができ議論し合える志士のようです。あの時代、維新の志士では男性ばかりが登場しますが新島襄の同志がたまたま女性であって八重であったということなのでしょう。

自分を持っている人というのは、その心に確かな志があります。

志がある人は、必ずや人物として多くの人たちに影響を与えていきます。そしてその影響を与える根幹にあるものこそ、その人の生き方がどうであるかということです。生き方がブレナイ人になるためにも、目の前の些事や周囲の押し付ける空気に流されず、坦々滔滔と地味粛々に自分の生き様を内省していきたいと思います。

御米

私たちは親祖よりずっと御米を食べて暮らしてきました。

それは国内にある様々な遺跡の中から、炭化した御米が発掘されていることからわかります。縄文遺跡の以前は、陸稲を中心に栽培され、弥生遺跡以後は、水田を中心に栽培されています。

そもそも私たちは自然の一部ですから何と共生をするのかを選択して生きています。この共生とはなくてはならないいのち同根、生死一道の関係のことです。その共生の相手に御米を選んだというのが私たちの親祖です。

人は食べたものでできているものです。何を今まで食べてきたかを観れば、その人のからだが何でできているのか、どこからでてきているのかが理解できます。その元を知ることが自分を知ることであり、その根を確かめることが自分を実現させることのように私は思います。

日本の全ての行事は御米と一緒に学んできたことがカタチになっているものです。それが今では私たちが一番長く食べてきたものを育てたことがないということに大変な危険を覚えます。古来からあるものから離れるということは、自分たちの姿を正しく理解できなくなるということでもあるからです。

御米作りというものは、一生涯の働きであり、御米を食べるということは私たちがなんであるかを知るただ一つの道だと私は感じています。

日本の自然思想家であり医者である安藤昌益という人物がいます。この方の「自然真営道」という著書の中で下記の一文があります。ここに御米とは何かということの真実が書かれているように思うので紹介します。

「米(こめ)は神と同音、米(よね)は世根、稲は寿根(いのちね)の略。稲荷とは人の神身皆稲なれば人常に稲を荷(にな)ふ意。飯は命師(めし)又は身師(みし)の転訛。寿(いのち)は飯中(いいのうち)の略。迷は米吾(わ)を去りて他にゆく意。即ち食を離れた時の心理状態に名づけしものである」

つまり古来、御米こそ日本人のいのちの糧であり心であったということです。

自分がどこから来たのかというのは、これからどこへ向かえばいいのかを自覚する唯一の鍵です。その鍵こそ私は御米であると確信しています。

今年もまた自然に沿った御米作りがはじまりますが、ここで御米から学んだことを後世のために譲り、そして人類の初心のために活かしていきたいと思います。

 

執らわれない

人が一人前に仕事ができるようになるというのは、様々が定義があるように思います。例えばそれは技術力が極まりミスがなくなることという人もいれば、結果が出せるようになるという人もいます。しかし私が思う一人前は思いやりで仕事ができるようになることであり、なるべく周りに迷惑をかけないようにしていくことのように思っています。

実際、人として当たり前のことができればそういうことは少なくなってきます。しかし実際にそれは大変に難しく、日常の挨拶から片付け、情報共有や労い、御礼など言い出せばきりがありませんが心構えができてその一つ一つのことを実践できつつも同時に一つのことに執らわれない心を如何に持てるかということが大切ではないかと齢と体験を経るたびに思えるからです。

どれだけ自分に打ち克ち我儘をしないで周りを思いやれるかは人間人格修養の一生の課題かとは思いますが、仕事というのはその人格を磨くための大切な機会になっているように私は思います。仕事が面白いのは、そういう自分の心を高め磨くリハビリにもなっているからです。

私がよく讀み直す大好きな本の一つに、千日回峰行を満行された塩沼亮潤さんがいます。この方の著書「執らわれない」(PHP研究所)の中にはその人生体験の中で得られたことを自分の言葉にして紹介している箇所がたくさんあります。

ここで仕事の思いやりについていくつかご紹介します。

『自分が正しいからと言って、強さが先行して優しさに欠けたり、心配りが足りなかったりすると、陰で涙を流す人がいたりします。ちょっとした加減で微妙に変化する人生は、方程式のように毎回同じようにはいきません。』

人は得てしてうまくいったパターンにとらわれてしまうと自分が正しいと思い込みます、そしてそれをやることが一番なのだと周囲を省みずに強引に進めていると周りを知らず知らずに傷つけてしまうものです。独りよがりの正義は思いやりを内包しませんから、正しいよりも楽しい方を選んだり、正しいからいいではなく真心を籠めるという力をつけなければなかなかみんなが倖せになるような行動ができないものです。私もいつも気を付けていますが、どうしても理想と現実の中にある中で頭で思い込み刷り込みに負けて真心や感謝が欠けると人間関係に失敗をしてしまうことばかりです。

『みんなのためにと思って行動しているときに、何か一つのことにとらわれすぎると、周囲との隔たりができたり、ものごとが裏目に出て、逆にみんなに迷惑をかけてしまうことがあります。』

よく法理法則では「部分最適ではなく全体最適を」という言い方をします。人は自分の考えに固執するのではなく、よく周りの意見を聴き相手を慮り譲歩しながら歩むならあまり行動が裏目に出ることもないように思います。きっとこれでいいはずだという思い込みは、不確定な状態では頼りになるのもしれませんがいつも心を周囲に開いていたり、真心や思いやりを忘れないように小まめに自己内省していき聴く姿勢を正していくことが本質的に迷惑をあまりかけない方法かもしれません。

どちらにしても「執らわれない」という塩沼亮潤さんが目指す理想が、私が目標にする姿と一致してその生き方に共感することばかりです。離れていても共に歩んでいる道があること、真っ直ぐに歩まれているその有難い存在に深い感謝を覚えます。

『強くなんかない。清くなんかない。唯そうありたいと、願い続けているだけ。人の一生はみじかい。いかなる道を歩もうか。思いなやむことなく、唯この道をひたすらに。』

執らわれない実践を積み重ねて歩んでいきたいと思います。