終わらない夢

私たちはかつての人たちに様々な生き方を遺していただいていることに気づきます。

昨日書いたサミエル・ウルマンの「青春」の詩も、その詩に夢を遺した人物と、その人物の目指す理想を受け継ぐものたちによって夢が続いています。書き記した人物はもう死んでしまって生存していませんが、その人の夢は他の人に語り継がれることによってこの世に存在しています。

忘れ去られていくのが世の常ですが、それを忘れない人たちによってその夢は時代を超えて遺っていくのです。しかもそれはその人が出会ったこともない人たちですし、その人が生きていない時代の人たちなのです。

自分の遺志というものは、誰が受け取るのか、そして誰が後を綴り夢を観続けるのか、それは誰にも分りません。しかし確かに分かっていることは、夢は終わらないということです。

夢が終わらないからこそ、どんな夢を自分が観ているのか、どんな夢を観たのか、そういう物語が何らかのかたちによって出会う事を信じて諦めないで生き方を遺していくしかないのではないかと私は思います。

沢山の人たちの夢は、全て一つのところに集約されているように思います。

それは人類の夢とも呼んでもいいのかもしれません。人類の夢は時代と関係なく、世界と関係なく、生物無生物の分別を超えて今に生き続けています。

夢を明らかにすることは、その時代の夢の継承の発信でもあります。夢は代々集積し偉大に発達していきますからその初心を忘れないように夢をカタチにしていきたいと思います。

希望とは何か

昨日、サミエル・ウルマンについて深める機会がありました。私が20歳の前半のときに詩集の「青春」にめぐり会い、大きな勇気をもらったことを思い出しました。松下幸之助氏の著書の中で自分の座右の銘として紹介されていたその時の詩の印象から青春の真価を再確認したことを覚えています。

もともとこのサミエルウルマンは、ユダヤ人でアメリカで活躍した実業家です。その当時、社会的弱者でもあった孤児、女性、黒人、労働者の救済運動に生涯を捧げた方だったそうです。この詩は、サミエルウルマンが80歳の誕生日に自費出版した詩集の中にあったものです。

日本でこの詩が翻訳され広がったきっかけは、アメリカの連合国司令官だったマッカーサー氏が座右の銘にしていた詩で、執務室に掲げられ日々に内省していたものを日本フェルト工業統制組合専務理事の岡田義夫氏が感動してそれが友人ずてに伝わり松下幸之助さんが紹介して今に至るようです。社会的閉塞感の中で、心が病んでいる人たちがたくさんいる今の時代だからこそ、もう一度この詩の必要性を感じました。ちょうど、この詩が広がったときも終戦後の暗くつらい時代でした。

「青春~YOUTH~」

「青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。

若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、
安易に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。

人間は年齢を重ねた時老いるのではない。
理想をなくした時老いるのである。

歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。

悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、
雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。

六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬
夜空に輝く星座の煌きにも似た事象や思想に対する敬愛
何かに挑戦する心
子どものような探究心
人生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことができる。

人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
自然や神仏や他者から、
美しさや喜び勇気や力などを感じ取ることができる限り、
その人は若いのだ。

感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、
人間は真に老いるのである。

そのような人は神のあわれみを乞うしかない。」

希望とは、心の持ち方を変えることです。そして心の持ち方を常に変えることができる人は、人生において一生涯好奇心を捨てることはありません。最初は光輝く子ども心も、社會の中で次第に曇りそのうち光らなくなっていくものです。それを磨き続けていくことで、光り輝く心を取り戻すことができる。

それを私は「希望」と呼び、「青春」と定義しています。

人生において絶望とは、生き方を見つめる最大の転機です。その転機に関われることこそ教育の醍醐味ではないかと改めて実感しました。これから、新しい道に同行しますが面白くワクワクするご縁をいただけたことに感謝しています。

私もその一人として絶学を継ぎ、心の世界を創造し青春を謳歌しつつ希望の詩を仲間と一緒に唱和していきたいと思います。

完全体~人生のモノサシ~

人は物事を判断するとき、加点法か減点法かをその人の考え方で決めてしまっているものです。簡単に言えば、物事を省察するときに肯定的に物事を捉えているか、それとも否定的に物事を捉えるかということです。

これはどちらかが良くてどちらかが悪いという意味ではなく、不足を見るか足るを見るかという考え方の違いになります。そこには、完璧を目指すか、完全を目指すかという違いがあるように私には思うのです。

完璧というものはこの世には存在しません、もしも完璧があるとするならばそれはこの世のものではありません。以前、あるテレビ番組の企画でパソコンを使って世界中の美人のパーツを全部合わせて完璧な美人を創ってみようという企画がありました。実際の結果は散々なもので、とても見るに堪えない恐ろしい姿になりました。何をもって完璧であるかとするのは、人間の中の平均の中でもっとも高いものを組み合わせているものを完璧であると考えているのです。

それに対し完全という考え方があります。人間は産まれながらに完全な存在であるというものの視方です。不足しているものがあるのではなく、今の自分のままがもっとも完全だということです。言い換えれば「私は私であればいい、あなたはあなたであればいい」ということです。完全な存在なのだから何かを無理に足す必要もなく、ないからそれを嘆くこともありません。今の自分がもっとも完全だと考えれば、ないもの探しではなくあるもの探しをすればいいということになります。

別に人生は100点でなければならない理由があるわけではないのだから完璧である必要はありません、それよりも自己実現ができることの方が愉しいですし、思いやりを盡して誰かのお役に立つことの方が仕合せです。今の自分でできることにいのちを燃焼させていく方が今の自分を信じ愛することもでき、周りの人と活かしあう豊かさを実感できるのです。

人間は欠けているからそれを補うのですが、それをもし一人で全部やったらどうなるでしょうか。みんな同じコピーを作ることに躍起になってしまうかもしれません。先ほどの完璧な美女がいればそれを目指せば全員それをコピーすることを目標にするはずです。これは学校教育の評価による刷り込みをもっているということではないかと私は思います。

今の自分のままでそれをどう伸ばしていくか、それを磨くかというのが本来の加点法、肯定的な物事の視方、そして楽しくなる生き方ではないかと私は思います。コピーで苦しんでいる人が沢山いる今の社會に、あなたのままでいいと言ってくれる社會があることでその人がどれだけ救われるかわかりません。評価のモノサシではなく、人生のモノサシをその人の中に持てるようにしていくのが私たちの願う見守り合う社會です。

自分たちの生き方を通して、一人でも多くの子ども達に完全である仕合せ、周りと一緒になる喜びを伝えていきたいと思います。

 

 

内省的実践習慣

情報化社会というのは、頭脳を使い知識を優先して妄想を現実にしていく世界のことです。本来は、人間の頭脳は危険回避にもっとも活躍しますから、脳ばかりを駆使していると危険察知の情報収集にすべての意識が囚われその場その場を対処することにエネルギーをほとんどつぎ込んでいきます。情報化というのは、知識先行化のことで知識ばかりが優先されている世界ということです。

これを船の航行で例えてみます。

頭で処理するというのは後者の急流濁流の中で目先の石や障害を避けようと先々の不安を解消し危険を回避するために集中力を発揮している状態のことです。しかし、そんなことを続けていたら周りの景色も分からずどこに進んでいるのかもわからず安全だけを守ろうと身動きが次第に取れなくなります。この状態を人間は「忙しい」と呼びます。忙しいというのは、心が着いてきていない状態のことで、目先のことしか考えられず、目の前の不安を解消することに集中しているということです。

しかし本来、これは人生の航行と同じで一度しかない船旅をどのように味わい、自分が納得する物語を生きて旅をするかはその人の決心に由るものです。それにはどんな旅であっても、自分が何のために旅をするのかを忘れずに舵をとっていく必要があります。そのためには忙しいという状態がずっと続くというのを避けなければなりません。では、暇になるまで忙しいのかといえばそんなことはありません。忙しい人は暇でも忙しいのは、心が着いてこないから暇にしていないのです。

心を広くゆったりと持つには、内省と実践の習慣が身についている必要があります。なぜなら、出来事が動く際に、同時にその出来事は一体なんだったのかを振り返っているかを自ら自得しなければ意味を感じることができなくなるからです。

これはすでに海外でも提唱されていて、マサチューセッツ工科大学のドナルドショーン氏は、「リフレクティブ(Reflective)=内省的+プラクティショナー(Practitioner)=実践家」と定義しています。つまりは、”内省的実践家は行為しながら考える”という言い方をし、そこではじめて経験した糧が体内で消化されるという意味です。

これは私も同じように理解していて、内省と実践がなければ人間は必ず「忙しい状態」になると思うのです。もしも内省と実践が習慣になっているのであれば、忙しくても忙しくはないという状態がつくれます。つまりはどんなに環境や状況が変化していても、心は平常心を維持することができているということです。

心が落ち着いていれば、忙しそうに見えても忙しそうなだけで忙しくなることはありません。まるでしなやかで嫋やかに揺れる平原の若草のように、揺れても心は楽しんでいます。

そして組織が内省的実践ができているのなら、その組織は初心や理念を忘れることは決してありません。その組織は、身体がいのちを消化吸収していくように、心も同時にいのちを消化吸収していくことができ、いのちはめぐり発達を已まなくなります。

もしも先ほどの急流で濁流の船で忙しく舵をきる船長がいたら船員はきっと不安で仕方がないでしょう。そうならないように、内省と実践の習慣を身に着けることが心を優先する生き方、見守るためには必要不可欠であると私は信じているのです。

そのために、私たちはあらゆる方法を用い内省と実践を同時に習慣づくようにリーダーに実践を増やし促していきますし、内省をファシリテーターの資質の基本に据えているのです。この内省と実践は、本来同一であり片時も分かれることはありません。

常に忙しいからできなかったではなく、忙しさに負けない強さを持てるようにしていくことが心のつながり、共感の絆を結び育て、組織の結束を高めて豊かにしていく方法なのです。

心の持ち方を変えるためには、コンサルティングの技術も必要です。まだまだ精進して、その理論を具体的発明に換え、実践実地に活かしていきたいと思います。

真実を見抜くちから

人間は知識が多くなってきて、分別された情報を認識することで様々なことを確認するようになりました。そのことで同時に、「何のためにか」という本質を考えず、どうするかばかりを考えるようにもなりました。便利な社会というものは、如何に簡単に安易にスピーディに物事を解決する価値観が中心になっている社会です。

ここでの便利な社会というのは、自分都合の社会のことを言います。何でも自分都合で好都合になることがもっとも良いものだと考えるのです。これと反対に不便というものがありますが、これは相手都合、つまり自分以外の都合に合わせるから不都合となります。

例えば、自然界に生きていたら自分都合であることはほとんどありません。農業一つとってみても天候も思い通りではありませんし、育つ作物もそれぞれですし、天敵なども出てきて無事に収穫できるとも限りません。自分たちにとっては不都合だらけです。しかしそれは全体にとっては都合が良いという考えもあるからです。

得てして自分にとって不都合なことは全体にとっては都合が良いことばかりです。それは万物は循環していますから、自分の都合を周囲に優先させればその都合によって不都合の人が出てくるのです。しかし実際は、権力や人間の身勝手によって都合が悪くなることを排除してきたのが便利な社会ですから都市の中では可能でも、都市から離れると急に不都合に順応することがなかなかできないものです。

田舎にいけばわかるように、交通手段もありませんし、街灯もないですし、インターネットも繋がりません。人間には大変不都合ですが、他の自然の生き物たちには都合が善いのです。

人間の慾は限りなく、どこまでも都合欲なるように広めていきますから世界中あちこちが便利である世界に換えようとするのかもしれません。それが人間関係の中でも発生していますから、今は人間関係も都合の良い人ばかりが増えてきているように思います。

人間が謙虚さを失うとき、そこには便利な社会が増えていくのでしょう。

生活の中に敢えて不便を取り入れること、つまりは周りを思いやることで私たちは自分たちの慾を御して暮らしてきたのかもしれません。子どもたちのためにも「本当は何か」という本質に立ち返り、常に本質を考え抜くことで便利さの陰に隠れている”真実を見抜くちから”を育てていきたいと思います。

真の賢者

人は矛盾する相反するものを理解するとき、一流であると人々から評されるものです。以前ある人は矛盾を抱えながらも一つを成し遂げることが個性であると言いました。つまりはあらゆる矛盾をどう乗り越えるのかがその人の人間性であるのです。

例えば仕事では、働き方と生き方の一致ですし、生き方でもあり方と処し方の一致、他にも自分と他人との一致、人間学と時務学の一致、きりがありませんが二つ以上のものを一つにできるのはその人間の中に矛盾を抱え込む器ができているということでもあります。

自分の性格も生来からどちらかに偏っているものです、それが個性でもあります。ある人は積極的、ある人は消極的であるとも言えます。積極的な人には内省を促し、消極的な人には実行を促す。そのどちらもバランス善くできる人が真の主人公です。主体性と一概にいっていても、その主体性を発揮するには人間を磨き、自分を育ててバラス感覚を身に着けて矛盾と調和を内在できるようにならないと自由にはなれません。

結局は、自由も人格が関係していて自由の中にあるあらゆる矛盾を受容できてこそ自由という無限の選択肢の中に生きられるようになると思います。自分を変えるということも、柔軟性ということも、全てはこの矛盾に対する実力のことを言っているように思います。

人は膨大な知識を得ては想像を膨らませますが、同時にその一つ一つの知識を実体験によって消化していくという矛盾に生きています。夢と現実、思想と実践、目に見える世界と目に見えない世界、それらを調和するのは自分なのでしょう。

最後にシュバイツァーの言葉で締めくくります。

An optimist is a person who sees a green light everywhere, while a pessimist sees only the red stoplight, the truly wise person is colorblind.

楽観主義者は、どこでも青信号を見る人のこと。悲観主義者とは、赤信号しか見えない人のこと。そして真の賢者は、色盲である。

「真の賢者は色盲である」。

これは面白い言葉で、読んだとき嬉しくなりました。刷り込みのない世界に生きた人たちと刷り込みを取り払っていきたいと思います。

いのちのむすび~生命の畏敬~

先日、アルベルト・シュバイツァーのことを深める機会がありました。「世界人類は皆兄弟である」という思想を持ち、平和活動だけではなくアフリカのランバレネで医療活動を通して自分の生き方を貫かれた人物です。

生き物を深く愛し、「生命の畏敬」という言葉を遺しています。

私のかんながらの道でも最も重要なテーマがこの「いのちのむすび」です。そもそも私たちは自然界が産んだ一つであるのだから、元来繋がって丸ごと一つになっているものです。ふと田畑に出ては、様々な虫たちや植物たち、動物たちの声を聴いていたらその田畑の中にある自分に気づくことがあります。

そんな時、生きている自分ではなく活かされている自分に気づくのです。その安心と安楽はとても言葉では表現できず、自分も皆と一つになっている仕合せを味わえる瞬間です。

その時、いのちは自他一体に結ばれています。それぞれにどれも必要であり、要らないものは一つもないということは自然を観れば明白です。しかし人間が価値を定め、その価値基準によって上下軽重など仕分けて権力を握っている世界ではどうしてもその考え方から離れてしまうのかもしれません。八百万の神々とあるように私たち日本人は大和という考え方が基本にあります。その基本があるから、いのちを尊び、いのちの有難さ、いのちの御蔭様に見守られている感覚を失わないのです。

そのことをシュバイツァーは「わたしたちは、生きようとする生命に囲まれた、生きようとする生命である。」という言葉で語り掛けます。つまり同じく一緒、私たちはいのちそのものなのだという言葉に強い信念を感じます。

そして私が何よりも感銘を受けたシュバイツァーの詩があります。

「自分にどんな価値があるのかが問題ではない。
生命そのものが神聖なのである。

虫が灯りに集まり、羽を焦がして落ちるのを見るよりは
むしろ窓をしめきって我慢する。
雨上がりの地面にはうミミズを見れば、
太陽が照り輝く前に、湿地にもどればいいと気づかってやる。

これを人は、感傷と呼ぶかもしれない。
しかし、私は恐れない。

認められるまでは、嘲笑される。
これは真理の常である。

私が「生命」というものの真の意味を見つけた土地、ランバレネ。
人は誰でも自分のランバレネを持つことができる。」

窓の外をみれば青空と光り輝く朝露の中で、鳥が歌い、花が咲きます。その一つ一つのいのちと同じように、今の私も愉しくしわあせに生きています。自然に身を置くというのは、いのちを大切にするということ、思いやりを何よりも優先しようとすること、それは役割を与えてくださっていることに自然に感謝できるからかもしれません。

最後に、自分探しや自分を見つけようと焦っている人をみますがその心配はないことをシュバイツァーの言葉で伝えます。

「人の本当の価値というのはその人自身から見出す事はできない。それは周囲の人々の表情や雰囲気の中にありありと浮かびあがってくるものだ。」

どう生きたらいいか。

この魂の自問自答は、謙虚さの中で育まれ、自然の答えに生きることでつながるのかもしれません。偉大な先人に習い、修養を続けてさせていただきたいと思います。

 

 

人財教育の王道

人間は理想と現実の間に今を設け、今を見つめ向き合うことではじめて今に存在することができるように思います。妄想ばかりをいくら増やしても、現実は変わらないのですから実行していくしかありません。

昨日、鹿児島に入り維新館を見学する機会がありました。ここ薩摩は、古より教育を何よりも重んじる風土があるような気がします、昔から「島津にバカ殿なし」と呼ばれるようにここには郷中教育をはじめ様々な人財育成の仕組みが文化として継承されているように思えるからです。

その郷中教育の中で、日新公いろは歌というものがあります。これは物心つく前から毎日唱和しからだに沁みこませてきた歌です。そこのはじまりの「い」にはこうあります。

「いにしえの道を聞きても唱えても わか行いにせすは甲斐なし」

(古来から言われてきたどんなに素晴らしい道を聞いても語っていても、自分で実践して行わなければ何にもなりません)という意味です。

そして「ろ」にはこうあります。

「楼の上もはにふの小屋も住人の こころにこそはたかき賤しき」

(どんなに立派な御殿に住んでいる人も粗末な小屋に住んでいる人もそのことだけでは人間の価値は判断できない。要は住んでいる人の心の気高さが重要なのだ)とあります。

今回は「は」までご紹介しますが、そこにはこうあります。

「はかなくも明日の命を頼むかなけふもけふもと学ひをはせて」

(人間明日のことは予測がつかない。勉学修行を明日にしようと引き延ばし、もし明日自分が死んだらどうするのか。今その時その時に全力投球せよ。)と。

この「いろは」だけでもこの言霊の濃さと重さです。これは島津中興の祖である島津忠良が5年の歳月をかけて郷中教育の基本として定めたものです。この出発点であり原点が今の薩摩の人財をいまだに育てているのではないかと思います。

なんだか今回のご縁に何をすべきであるかを直感するものがありました。出発点や原点を思うとき、今までのものを毀す勇気が今にこそ必要のように思えます。そんな時は「今」を奮い立たせる勇気のある詩に励まされるのも人間のように思います。

最後に京都大徳寺大仙院の尾関宗園さんの詩を紹介して終わります。

「今こそ出発点」

人生とは毎日が訓練である
わたくし自身の訓練の場である
失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である
今この幸せを喜ぶことなく
いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう
わたくし自身の将来は
今この瞬間ここにある
今ここで頑張らずにいつ頑張る

普遍的な道の上にこそ人財教育の王道があると確信できました。

ありがとうございます。

実践躬行~至誠~

吉田松陰の座右に至誠があります。この至誠は、孟子の「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」という言葉から来ています。この至誠とは、読んで字の如く、「言うを成す」から出来ている字です。

つまりは言行一致のことです。誠というのは、自分の言ったことを実行することを意味します。先週の大河ドラマ花燃ゆの中で、吉田松陰が久坂玄瑞に対して「あなたの情熱は素晴らしい、あと実行さえできればあなたは必ず志を実現できる」と励ましていました。

知行合一、常に分かるということは行うことで行うことが分かることであるという王陽明の一文を思い起こします。これはかつての人物たちが必ず実践した理です。

論語では、「子曰わく、弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力あれば則ち以て文を学ぶ。」とあります。これを伊與田覚さんはこう訳しています。「先師が言われた。若者の修行の道は、家に在っては孝を尽くし、世に出ては、長上に従順であることが第一である。次いで言動を謹んで信義を守り、人々を愛し、高徳の人に親しんで、余力あれば詩書などを読むことだ」と。まず実行が先で余力があれば本を読むなどをすればいい、まずは至誠を盡しなさいといいます。

永平寺の道元禅師は、「修せざれば現れず」という教えを遺しています。ここには「曰く、「知る」ということと「わかる」ということとはちがうのです。知っていても実行されなければ、わかったことにはなりません。薬の効能書を読んだだけでは病気は治りません。禅も実行してはじめてわかることなのです」とあります。

常に実行を伴うことで語りそれを言葉にしていくような生き方をするように諭します。言い訳のない生き方というものの中に、覚悟を感じ、その覚悟こそが志を為す元であることを感じずにはおれません。

できないことを並べてもできるようにはならず、諦めそうなときは実践者の先人先輩たちが背中で励ましてくれます。

その覚悟の激励のやり取りも論語の中に遺っています。『冉求曰く、子の道を説ばざるに非ず、力足らざればなり。子曰く、力足らざる者は、中道にして廃す。今、女は画れり』。

これを意訳すると(冉求が言いました。「私は先生の言っていることを有難く思わないのではありません。しかし今の私の実力や力量が不足しているのです」と。それに対して孔子は言います。「もしも本当に実力や力量が足らないのならば、途中で投げ出しているはずだ。今、お前は自分で見切りをつけているのだ」)と。

冉求は、心を入替えて自分から先に見切りをつけるのをやめ、真摯に実践躬行に取り組みその後にある国の宰相のように大きく用いられました。この冉求は孔子十哲の一人と称されていますが、消極的な性格だったので常に孔子から「聞くままに斯れこれを行え」(すぐに実行しなさい)と叱咤激励され続けたと言います。

どんな時代も、頭でっかちにならないように真心の汗をかきなさいという教えに救われる気がします。他人にはそれぞれの特性はありますが、躊躇うことは誰にでもあります。見守りの中で信念を育て、信念の根をはっていけるように実践させていただけることに感謝して歩んでいこうと思います。

 

個性~人格形成~

人はそれぞれ生き方があり、個性も異なりますから、その顕し方も人それぞれです。しかしその個性は比較する中で出てくるものではなく、その個性は人格が磨かれてくる中で顕れてくるものです。なぜなら本当の個性というものは、そのものが何よりもそのものとして在るときにはじめて出るからです。

よく誰かと比較して個性があるやないとかいいますが、実際は組織や集団に入る中でその人の個性は引き出されてくるものです。一人では個性とは言わないように、集団の中で個性は出ます。その時の個性は、集団の中でのその人の役割のようなものです。しかし本来の個性は、その人が思いやりや真心で全体のために自分を活かした時こそはじめて発揮されているように思います。

そしてそのためには人格を磨き人物となっていなければ個性を修めることができないのです。周りに合わせるのではなく、自分を修めるという発想が個性を存分に発揮するには必要のように思えるからです。

論語に十五にして学を志、三十にして立つ、四十にして惑わずとありますが、少年期は志を立て、青年期には自分を試しあらゆる挑戦をし、中年期には自力を発揮するようにそれぞれがそれぞれの年輪で自らを磨き修めることが世の中で自分を発揮していく道だと述べているかのように思います。

今の自分がみんなのためにできることを発展させてそれを広げ膨らませていくことで本当の自分自身に出会うということでしょう。そして同時にそれは自らの人格を育てて自分をつくり上げていくということです。

東井義雄さんに『自分は自分の主人公』という詩があります。

「自分は 自分の 主人公
世界でただ一人の自分を
光いっぱいの自分にしていく 責任者
少々つらいことがあったからといって
ヤケなんか おこすまい
ヤケをおこして 自分で自分をダメにするなんて
こんなにバカげたことってないからな
つらくたってがんばろう
つらさをのりこえる
強い自分を 創っていこう
自分は 自分を創る責任者なんだからな。」

自分は自分の主人公、世界でただ一人の自分を創っていく責任者という言葉は、個性とは自らで磨き上げていくものであるということを伝えてきます。自分に打ち克つというのは、誰かに打ち勝つよりも難しいことです。常に自分との調和融合を実現し、平常心を身に着けることで人は自分らしく自然体でいれるようになるのかもしれません。

畢竟、個性を大切にするというのは、人格を尊重するということです。自他一体に人格形成を優先して大事にしていきたいと思います。