挑戦し続けること~オリジナルの維持~

人間は誰しも同じ人がいないオリジナルの存在です。しかし気が付くと、他の誰かになるように刷り込まれオリジナルの存在であることが消えていくものです。自分らしく生きたいと思う反面、それをする勇気がなく主体性を失ってしまっている人も多いように思います。

他人と違うことをすることを恐れるのは、勇気を出してオリジナルの自分を前面に出すことができないからです。そこには目には見えない、みんな同じでなければならないや、周りに合わせて従順でいなければならない、自分勝手なことは許されないなどのプレッシャーをいつも心身に浴びていることでできなくなります。

個性の発揮と自立や、主体性などのことで悩む人はみんなこの自分らしさというものを押し殺してきたことで悩んでいます。自分らしく生きていくというのは、他の人と異なることを恐れずオリジナルの自分の志望動機のままに生き方を貫いていくことができるということです。

アメリカ合衆国の詩人、画家、随筆家、劇作家のE・E・カミングスはこのような言葉を遺しています。

「朝から晩まで絶え間なく、とてつもない勢いであなたに他人と同じであることを強要するこの世界の中で自分らしくあろうということは、要するに人間が直面し得る最も苛烈な戦いを、休みなく続けるということなのだ」

受け身でいることに慣れてしまい少しでも油断すると、形状記憶合金のようにあっという間に気が付くと周囲と同じ形に作られた姿に自分を合わせていきます。周囲と異なる自分に不安を感じ、周りに合わせた優等生のような姿になることで安心してしまいます。そのように自分を信じず、他人に合わせた生き方ばかりをやっていたら、そのうち自分の本当の生き方が別のものにすげ換り分からなくなっていきます。そして生き方が分からくなれば、すぐに言い訳をして誰かのせいにしてそのうち自分が人生の主人公であることも手放してしまいます。

受け身であることはその時は安心で楽ですが、その後にやってくるのは中途半端な覚悟でやってしまったことによる後悔や悩みです。主体性というのは、誰かに従って指示されていわれてやるものではなく、言われなくても前に出て自分から自分らしくやってみたいと発信して勇気で行動していくことで磨かれていきます。

今の時代はそれだけ自分らしくいることを貫くことに勇気がいる時代ですが、よく周囲を見渡せばベンチャーの経営者や、アーティストや歌手、みんな自分らしく生きることをテーマに苛烈な戦いを休みなく続けていくチャレンジャーはまだまだたくさんこの世に存在します。

そういう私たちもまた、子どもたちの個性を見守り、子どもそれぞれのオリジナルの生き方を尊重して信じきることを理念にしていますから負けるわけにはいきません。だからこそ、この主体性を発揮するために日々に挑戦をして勇気を出して行動することは私たちの理念のテーマであり、実践もまたそこに根差しているのです。

最後に、オリジナルを貫き大きな勇気を世界に与えたココシャネルの信条を紹介し仲間に勇気を振り絞るエールになればと思います。

「今も昔も、最も勇気のいる行動といえば、自分の力だけで考えること。考えたら声を張り上げて伝えることよ。」

何のためにやるのか、本当は何かと考え抜いたなら、その自分の出した答えを最期まで信じ抜くのは自分の覚悟です。それが周りに流されず周りに合せず、本当の自分を大切にする生き方です。

引き続き、子どもたちの個性を守るためにも弛まずに怠けず叱咤激励して誰でもない自分自身と向き合いながら今に挑み続けていきたいと思います。

自然の姿~仏性~

先日、あるお客様のところの話でその方の座右について教えて頂きました。その座右は「人間は落ち込むときは自分の仏性が観えない、そして怒っていると他人の仏性が観えない」という話です。

この仏性とは、仏さまの性質や仏の本性と呼ばれるものですが仏教では山川草木悉有仏性という言い方をします。それを道元禅師は「山川草木、悉有は仏性なり。」と訳しています。つまりは、自然のすべては仏性そのものであるということです。

私たちは自然が観えるとき、もしくは静寂の中で自然を感じるとき心は穏やかで落ち着いているものです。しかし不安や怒り、落ち込むときは自分に囚われて執着していますから自然の音や声や姿が目には入ってきません。全体を観て視野が広く心が開いている状態のときは自然が観えても、この逆に自分の感情の中に入ってしまうと視野が狭くなり心を閉ざし何も観えなくなってしまうものです。

この不安と怒りの感情は表裏一体ですから、表に怒りが出れば裏に不安があり、不安が表にあれば裏には怒りがあります。そのどちらもまたはっきりしているのが不自然な状態になっているという事です。

不自然ではない状態を如何に維持するか、平常心を磨き如何に自然体で居続けるか、それが仏性の状態でいるということかもしれません。自然の姿には、怒りとか不安というものはありません。自然に生きるものは無心にあるがまま、つまりは自然のままの姿で生きています。

そこには運命を受け容れ、天命に従うというようにどんな状況に置かれていても必死で生きていこうとします。今に集中し、今を生き切っています。そんな心のままでいられるとき、人はもっとも仏性が顕現しているのかもしれません。

自分の目を曇らせているものは何か、自分の心を澱ませているものは何か、自分の執着を見つめてそれを手放していくことや、元来の生きる動機や初心を忘れずに心をなくさないように日々に内省を続けていくことであるがままの状態を維持していくことができれば自然と同様に自然に近づいていくことができるようにも思います。

人間は自然から離れていきましたから、余計に仏性のことが観えなくなっていったのでしょう。自分に囚われていないか、執着していないかと、自問自答しながら自省して自分を変えていくことは本来の心を守るための大切な仕組みの一つです。

子どもたちの心が見守れる大人であれるよう、実践を積み重ねていきたいと思います。

 

熱とは何か

私たちは熱をもって体を温めて活動しています。当たり前すぎて日ごろはあまり考えないと思いますがこの熱があるからこそ私たちは生きていくことができます。それは単に物理的な熱だけではなく情熱といって私たちの内面から出てくる熱量のこともあります。この身近な熱について、少し深めてみたいと思います。

熱には主に3つの熱があるといわれます、それは熱伝導、熱伝達、輻射熱です。分かりやすいたとえでいうと熱伝導はカイロで手を温めたり、フライパンで何かを焼くなど直接その熱に触れることで熱が移動することをいいます。そして対流は、温風ヒーターやドライヤー、など空気を媒体にして熱が伝わる言います。

そして輻射熱は、炭火で火を熾したときにも周囲にいればあたたくなるように遠赤外線などの熱線により熱が移動することを言います。いくら冷たい風が吹いても太陽の光を浴びれば暖かく感じるのもこの輻射熱を浴びているからです。輻射熱は電磁波でもあり、遠赤外線といって体に良い影響を与える電気の波長を放つものです。

冬に体の血流が悪くなるのも次第に熱がなくなり体の液体の中の分子の動きが鈍っても、太陽の光を浴びればその輻射熱で分子の動きが活発になり健康になっていきます。この太陽の光の中には、単なる熱があるだけではなくいろいろな種類の波長の輻射熱が入っています。

これは先日、井戸水で書いたように水にもたくさんの種類があるように光にもたくさんの種類があるのです。

昔の暮らしを実践して気づくのは、熱にも多種多様なものがあるということです。蝋燭の火から出る光と、炭火で出る光、木を燃やして出る光も太陽の光も月の光も同じ光は一つもありません。また季節が変われば光の種類も変わり、同時に輻射熱や遠赤外線の熱の種類も変わるのです。

私は夜は静かに蝋燭の火でクールダウンしたり、朝は早起きして火鉢の炭の近くでこうやってブログを書いていますがその光を浴びることで体調や波長を整えています。

私たちも熱と波長をもち、言い換えるのならその熱によって光の波動を出しています。それが導通したり響き合ったりして熱量を熾しているのです。人間関係も同じく、熱量の高い人が冷めている人に熱量が移動します。もしもみんながそれぞれの光や熱量を高めることができればその輻射熱によって周囲の波動も波長も響き合い伝道伝達していきます。

人間でも太陽のような暖かさを持つ人は、その熱や光は周りを暖めていくものです。

私がとても今でも興味があるのは炭の持つ波長で、その波長はとても穏やかであり静かなものです。心が落ち着き気持ちが沈み静かになるのは、この炭の波長を感じるからです。

炭が癒しになるのは、そこから出ている遠赤外線や波長が低周波であり低姿勢であるからです。私たちは低い波長を感じると、次第に穏やかになるのです。このゆったりじっくりと丁寧に火を燃やしていくということ、そこに呼吸を合わせて息を吹きかけて火を熾していくこと、そのすべてに自然と一体になる熱の不思議を取り入れているのです。

まだ水も火も土も科学では証明されていない不可思議なことに包まれています。それを私は感覚によって使い分けできますし、直観によってそのものの観えない力を感じる取ることもできます。人間には元来、自然物ですからそういう観えないものを観える力が備わっているということです。

熱はまだまだ魅力がいっぱいです。引き続き熱を深めながら、子どもたちにその熱量や波動を伝承していきたいと思います。

 

 

ニーズと真の豊かさ

時代の変化とともに人々のニーズも変わっていきます。それは仕事でも同様にかつてはお客様のニーズだったものが時代が少し変われば環境も変わりますからニーズもそれによってすぐに変わっていきます。

相手のニーズは何かと感じる力は、変化への順応性でもあります。そのためには相手の話を聴いて相手の立場にたって物事を考える訓練が必要になります。人は我が強すぎると、自分の視点や観点だけを相手に押し付けるばかりでニーズを考えなくなってしまいます。

もしも相手が自分だったらと考えてみれば、自分にどのようなことを求めているかが共感できるからです。それを相手と話し合っていくうちに、お互いの協働が合わせやすくなります。

昔のように物がなくサービスもなく、ニーズが分かりやすかったころにくらべ物が溢れほとんどのことがお金で手に入るようになった世の中においては複雑になっていますからより潜在的なニーズをつかむ必要があります。

それは表面上のニーズではなく、万物根元に共通するニーズのようなものです。たとえるのならば心や魂から求めているニーズのようなものともいえます。

それは初心であったり生き方であったり、何のために生まれてきて、どんな人生を送りたいかのような万人に共通するニーズのことです。日常の生活で出てくる不満や障害からのニーズで満たされやすいものですが実際はそういうものが消えれば潜在的ニーズが出てきます。

これは怪我や痛みがもっとも痛いところが治ってくると他の個所の怪我の痛みが出てくるように深いところの痛みは気づかないだけで誰しもが抱えているものです。

初心や理念といったものも同様に、生き方ですから本当にその人が心から願い魂から渇くようなニーズは真の豊かさに直結しているように私は思います。

引き続き、理念や初心伝承の仕事を通してその人の自己実現から周囲の子どもたちへのお手本になる生き方を伝道していきたいと思います。

水の味

井戸水を炭で沸かして点てるお茶はいつも格別な味がします。このお茶の味の中には、井戸水の深い味わいが混じっています。この水の味というものは、今では水道水の普及と共にあまり日常的に意識して感じなくなったかもしれませんがこの水には不思議な個性の味があります。

例えば、販売してあるようなペットボトルのミネラルウォーターの水や自然からそのまま湧き出る水は同じ水ではありません。成分の違いもありますが、どの場所の水を汲んだか、さらには水を取り出した時機など、その水には様々なものが映っています。

水の不思議な力のひとつは、混ざり合う力です。どんなものとでも混ざり合い融け合わせる力を使ってどんなものも浄化していきます。ミネラルが豊富に入るのは、水の中に自然物が融けているからでもあります。

最近問題なっている酸性雨は、空気中の汚染物と融け合った水が空から降ってきているし、また水道水に入る有害物質もまた河川の汚染の影響で融け合った水が配管から流れてきているともいえます。

水は万物を循環しながら、混ざり合い全体調和によって万物全ての生き物のために融け合わせていく働きを已めません。

人間の体では、60%以上が水でできておりすべての臓器や骨格に水が含有しそれが流れ続けています。一日に約2リットルの水を摂取し排出しながら体の中にあるものと混ざり合い融け合い浄化を続けます。腎臓は、その8倍の水を常にフィルターで人間の体に適合するように再生され続けます。

井戸水がなぜいいのか、それはこの土地の木々や植物や野菜などこの地の水を取得して成長しているからです。その風土に適した水は、その風土に調和した水とも言えます。外から運んできた水は、外からもってきた水ですからその土地のものではありません。

その土地の空気や水、光や風は、見事にその土地の持つ不思議な風土と合致します。その合致した状態が調和であり、私たち人間も自然に調和を美味しいと感じます。この井戸水が美味しいと思う感覚はそこから来るのです。

お茶もまた炭を熾し、井戸水を入れ、時間をかけてゆっくりと融けだしていく万物の調和に美味しさを感じ水の不思議な感覚を覚えます。万物の根源に触れる機会があるというのは、調和を甦生する機会に出会うということでもあります。

水の不思議な力を味わいながら、思索にふける時間はとても豊かで味わい深いものです。引き続き、復古甦生を味わいながら学び直していきたいと思います。

非認知の意味

人は知識を持つことで知識によってすべてを理解できると勘違いすることがあります。現在、世界では非認知的能力の重要性が教育界でも重要視されるようになりましたが、そもそも非認知とは読んで字の如く認知しないということですから考えたり知識で理解するものではないということです。

つまりは考えないのだから直観ともいい、知識で理解しないのだから気づきのようなものともいえます。こんなことを敢えてブログで説明してもまさにこれも認知ですから言葉で理解するとわからなくなるものです。だからこそ先祖は師弟が同体験や気づきの共有を通して大切なことを伝承していきました。その人の気づきを見守ったのです。

本来、私たちはそれぞれに気づく力を持って生まれてきます。生命は生まれながらにして呼吸をし、成長過程で人間としての生活が送れるのは、生まれる前から持っているものがあるからだとも言えます。

自分たちが生まれる前は一体、どのようになっているのか。そこから気づき直すことが非認知を高めるためには効果があるかもしれません。禅問答の中に「一撃忘所知」があります。

これは香厳という唐の禅僧が、「ゴツンと一撃をくらい一切合切、一瞬にしてすべてのものを忘れてしまい、心につかえるわだかまり、とらわれも無い悟り の心境を得た」という意味で使われ経典や知識の及ばぬところに悟りの道が開けるという、禅の綱領を示した故事の一つです。

どれだけ知識を大量に得ても、経典をどれだけ読み込んでも、それを悟るわけではなく気づいたわけでもない。その一つの気づきを持つために何十年もかけて実践修行をしてきたことを心境で顕したものです。

気づくことで真理を学び生き方を正すことが目的ならば、わかることはほとんど意味がないことは自明します。自分を磨いていく砥石は、自然や真理ですからその砥石を通じて自分の心魂を磨いて研ぎ澄ませていくのは私たちの日々の実践です。

非認知の大切さは知識で教えるものではなく、先人や身近な大人たちが生き方で示していくものです。今それが世界で求められるということは、何が課題なのかはすぐに気づきます。

引き続き、子どもを信じきる生き方を磨いて子どもに豊かな未来を譲り遺していけるように実践を積み重ねていきたいと思います。

道と志

数年前から鹿児島に一年に何度も訪問するご縁があり、西郷隆盛や郷中教育のことを深めています。西郷隆盛については今年は大河ドラマの主役ですから、いろいろとわかることも増えていくと思いますがどのような人物であったかはその足跡や言葉を自分の足で辿ってみなければわからないものです。

頭でこうだろうといくら思っても、歩いてみないとわからないものもあるし、いくら知識で補おうとも体験してみなければわからないものもあります。大事なのはその人の生き方に触れることで、どのような心境であったかを深く共感しその生き様を自分に投影し心を磨いていくことのように思います。

その西郷隆盛が尊敬した人物に、山岡鉄舟がいます。この二人を観るとき、私には同じ生き方をする二人に観え、志を貫く生き様には学ぶことばかりです。その山岡鉄舟のことを西郷隆盛はこう評します。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

こういう西郷隆盛もまた同様な生き方をしていたからこそ、その山岡鉄舟の生き様をみて共感したのではないかと思います。無心無私の生き方は、何にもとらわれず無為自然であり天道真理に沿っているからこそ人知を超えたものに命を懸けられるということなのかもしれません。

人は誰しも、自分の命を惜しみ、名誉を求め、地位や権力、お金などの影響を受けるものです。それは欲があるかないかの話ではなく、志で生きるかどうかの覚悟を持っているかどうかということです。無欲だからいいのではなく、志を貫く信念があるかどうか、損得や営利などで判断することがない人は扱いが難しいというのは理屈ではなく理想を求めているからです。大業や大志を実現しようとするからこそ、艱難が訪れますがそれを共にできるものは志が高い人たちのみです。

同時代の高杉晋作は、「艱難を共にすべく、富貴を共にすべからず」といいました。志は命もいらず名もいらず、官位も金もいらないからこそ共にできるということでしょう。

山岡鉄舟は、最後まで清貧忠義を貫き弱いものを助け強いものをくじく生き方を貫きました。最後に、無刀流を極めた達人の山岡鉄舟の箴言です。

「道は千載不滅だよ。いかなる大敵でも、道には勝てぬ。」

いかなる大敵でも、道には勝てぬ。これはとても勇気をいただける言葉です。世界がどのように変化して大きな壁が立ちはだかったとしても道には勝てないのです。道を継ぐことは志を継ぐことですから、道と志を子孫へ伝承していきたいと思います。

 

自分の人生

人間は「わかる」というものと「きづく」というものとで自己との対話をしていきます。わかるというのは、理解することですがきづくというのは覚めるということです。

先日ある人が、主体性のない部下に対して「あなたは一体どうしたいのか?」と聞いても本人がどうしたいかわからないという返答で困っているという相談がありました。主体的に自分で決めたことをやった方が楽しいし本当の人生だからと善意で話をしても本人は、「考えれば考えるほど自分のことが分からない」とより一層悩みが深まって困ってしまうという話です。

本当の自分のことを抑え込んで世間体や周りの空気を読んで周囲にとっていい人でいようと自我を無視して誰かのいう正しいを正しいことと盲目に信じてその場しのぎで楽をしてきたことでわかりのいい人になりきづくことができなくなってしまったのかもしれません。すぐにわかるわりに、気づくことがないのはわかりのいい人が長かったからかもしれません。

この場合のわかるとは、周りをみてわかることです。自分がどうしたいかを常に周りをみながら決めてきた人生を送れば、周りを関係なく自分はどうしたいかという選択肢はなくなってしまうものです。そうなると、自分は世間体や評価、周囲の期待に応える自分を自分と思い込んでしまい自分がしたいことが何かと聞かれても周りがどう思っているかということや周りはどうしてほしいのかがわからないという具合で本当の自己のことはもう見失ってしまっていることが多いように思います。周りの中でつくりあげてきた自分のことを自分だと思い込んでしまうことをやめないかぎり自分のことには気づけないのです。

本来、自分がどうしたいのかというのは自分はどういう生き方をするかという自分自身を貫いていく人生のことでもあります。人生は何のために生きるのかからはじまり、そのためにどう生きるかを決めます。その決めたものが生き方ですから、常に自分は何がしたいのかというのは常日頃から自己との対話によって覚悟を磨いていくものです。

もしも今まで自分の心の声に従うのではなく、周りをみて空気を読んで従っている癖があれば周りの声のことを自分の声だと勘違いしてしまうかもしれません。周りの評価を気にしては自分をさらけ出すこともできず、あるがままの自分を隠しては周りの期待する人に近づこうと頑張ってしまいます。本当の自分ではない付き合いをする人は、その後の人生でも無理をして本当の自分を偽りますから真実の信頼関係がもたなかったり、自分自身も本来のつながりや絆を結ぶことができずに孤立してしまうものです。

大事なことは、周りとか空気とか世間体とかを一時忘れて、本当はどうしたいのかと自分の初心を確認することだと思います。そしてひとたび初心を思い出したのなら、その初心を忘れないようにしていくことが自分の声に従い自己との対話を通して覚悟を定める生き方になっていくように思います。

自分自身に素直になる人は、他人にも素直になれますし、自分自身を信頼できる人は、他人のことも信頼できる人になります。まずは自己というものを自覚すること、つまりはわかろうとするよりもきづくことを優先することのように思います。

きづくとは、「本当は何か」と自問自答することです。

引き続き、その人らしいその人の個性をみんなが喜び活かせるように自分の人生や生き方を思い出し主人公と自覚できるような環境を子どもたちに用意していきたいと思います。

日本の心と自己錬磨

私が尊敬する方の一人に日本の将棋棋士で永世七冠の羽生善治氏がいます。いくつかの著書を拝見していますが、そのどれも自己との対話や感情との折り合い、調和への心の姿勢などどれもとても参考になります。実戦により鍛錬されたその思想や感情、どのように向き合って自己錬磨されているか、それは事物に挑むときの指針になります。例えば、自己との勝敗を決める岐路について磨かれている言葉には下記のようなものがあります。

「自分から踏み込むことは勝負を決める大きな要素である。」

「基本的に人間というのは怠け者です。何も意識しないでいると、つい楽な方向や平均点をとる方向にいってしまいます。だから相当意志を強く持って、志を高く揚げ核となっている大きな支えを持たないと、一生懸命にやっているつもりでも、無意識のうちに楽な方へ楽な方へと流されていくことがあると思います。自分自身の目標に向かって、ちょっと無理するくらいの気持ちで踏みとどまらないといけません。」

「どんな場面でも、今の自分をさらけ出すことが大事なのだ。」

「「自分の得意な形に逃げない」ということを心がけている。」

「勝負に一番影響するのは「怒」の感情だ。」

「平常心をどれだけ維持できるかで、勝負は決まる。」

自分との戦いを続け、如何に自分を磨いていくか、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉に木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす「木鶏」という言葉がありますがまさに羽生善治氏はその木鶏そのもののモデルように私は感じています。この境地を体得するために、私たちは自己錬磨を続けていくように思います。

「ビジネスや会社経営でも同じでしょうが、一回でも実践してみると、
頭の中だけで考えていたことの何倍もの「学び」がある。」

「人間には二通りあると思っている。不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間だ。」

「私は、対局が終わったら、その日のうちに勝因、敗因の結論を出す。」

「私は才能は一瞬のひらめきだと思っていた。しかし今は、10年とか20年、30年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。」

「ひらめきやセンスも大切ですが、苦しまないで努力を続けられるということが、何より大事な才能だと思います。」

「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」

自己錬磨の価値を教えてくれる存在が、同じ時代に生きていてその姿勢を見せてくれることがどれだけ有難いことか。日本の伝統文化である将棋には、日本の心があります。その日本の精神性や心を体現している存在があって、私たちは勝敗とは何を学ぶものか、そして自己錬磨とは何かということを先祖の生き方を学び直します。

尊敬し憧れるのは、単に強いからではなく日本人として磨かれた精神を将棋に感じ、その自己錬磨の生き方に感動するからかもしれません。

最後にいま、特に心に響く言葉です。

「山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が、重要なことだと思います。」

「 今の情報化社会では知識や計算は簡単に手に入る、出来る物。だからもうあまりそれらに意味はない。これからの時代の人間にとって大事なのは決断する事だと思います。」

どのような決断をするか、そして何を捨てるか、常に自己との対局を楽しんでいくことで自己錬磨の面白さも味わいも豊かになります。引き続き、日本の心と自己錬磨を学び直していきたいと思います。

 

職商人

「職商人」(しょくあきんど)という言葉があります。これは職人と商人が合わさった言葉で、言い換えるのならいい職人こそいい商人であり、職人と商人の一致とも言えます。私はこの言葉に出会い、感動し、自分が目指しているところを知り、また同時に日本人の持つ伝統的経済観念を再確認することができました

かつて江戸時代は、修理や修繕といった繕いの文化がありました。今のように新しいものをつくっては捨てていく時代は、分業制も進みものを作る人と売る人も分かれてしまっています。

以前、ある鋸職人のところにいい鎌や鍬の鍛造を相談しに行った際に、職人さんたちが使い手の相談に乗りながら新しい商品を開発しそれが商売になっているという話をお聴きしたことがありました。アイデアを常に、お客様と一緒一体になって作ってこそ単なる物売りではなく単なりものづくりではなく、職商人であるともいえます。

自分で作ったものを長く手入れできるということは職人にとってもどの部分が改善が必要でどの部分が弱かったのか、また使い手の癖や職業上の理由など物事が深く理解できます。さらには、作ったものを如何に長持ちさせて甦生させるかを極めていくことは捨てない社會、いわば循環型の持続可能な社會を実現するために大きな役割を担っていることになります。

作ったものを修理修繕し、改善する文化があれば大量生産しなくても少量生産であっても長く永続的に使えればゴミになることはありません。今の時代は、作っては捨てて、古くなってはすぐにゴミのように廃棄されますが、それは職商人がいなくなっているからです。

職商人は、自分で体験したものの気づきをまた新たな智慧にして世の中に還元して人々と共に成長して成熟し、ものづくりだけではなく人づくりにまで貢献していくものです。まさに自他自物一体の境地の生き方です。

世の中がもので溢れていたとしても、長く使い古されて貢献してきた物は思い出や思いやりなどがそのものに籠っています。それを如何に活かし、長持ちさせていくかが、その人物の人格に左右されます。物を磨くのは修繕するところからはじまり、精神を磨くのはそれを研ぎ澄ますことで得られます。

引き続き、古来からあるものを大切にしながら子どもたちに勿体ないの初心の本質を伝承できるように日本の伝統文化を担う職商人としての誇りを持ち、一つひとつを丁寧に実践していきたいと思います。