子どもを尊重する~信じ合う心~

2日間を通してGTサミットでは改めて「見守る保育」とは何かについてその理念を学び直すことができました。一年に一度、初心を確認する上でも理念について学び直せるのはブレていないかを自覚自明するにも大切な機会です。

人はすぐに忙しさの中で自我に呑まれそもそも何のためにといった初心を忘れますから、常に自分の初心を忘れていないかということが一度きりの人生の生きる姿勢に於いて何よりも重要な自己修養になっていくと思います。

亀井勝一郎が「いっさいに対して私は初心でありたい」という言葉を遺しています。もしも人がいつまでも初心のままであるのなら、その人の一生は理想に向かって自分の役割を生き切った美事な人生であろうと思います。初心を忘れさせないメンターや理念を語る実践人の模範がいるということの有難さその恩恵の深さに改めて尊い御縁に感謝の念がこみ上げてきます。

昨日は、藤森平司先生からは「保育は人の生きる道に通じている」という話にはじまり、「見守る」ということについて改めて基本を確認することができました。赤ちゃんから「子ども達は自らで乗り越える力を持っている」だからこそ周りの大人たちが「見えない発達を理解しどう見通し、子ども同士の関係の中でその乗り越える力を身に着けていくか」。そしてその発達が理解でき、見守れるのは相手を信じているからであると仰っていました。

一般的に見守るを見ているだけと批評する人もいますが、それは日本語を知らない人とも言えます。辞書にも「見守る」という意味は「無事であるように注意しながら見る。また、なりゆきを気をつけながら見る。」や「 目を離さずにじっと見る。熟視する。凝視する。」ともあります。

それにやってあげると見守るでよく比較されて、介入するのかしないのかと議論されていることが多いのですが本来の大前提にその人が「子どもを尊重しているか」があるように私には思います。

どんな方法論があったにせよその大前提が”普遍的な道理”(いのちの尊重)に通じているであればいいのですが、実際は単にその人の偏見や、目先の大人の都合や独善的な価値観で相手を不当に扱うから問題になっているのです。それが結局は信じていないことにつながり、子どもが子どもらしく生きていくことができなくなるのです。

子どもが子どもらしく生きていくということは、相手を信じ、相手を尊重して相手の乗り越える力を信じて見守ることのように私は思います。一見、直接的には何もしていないようでもその心では「信じている」という自分自身との正対が求められているのです。

人は信じられることで自分の乗り越える力を信じることができます。そして可能性は信じることで発見発掘され、その人そのものの個性もまた光りはじめるように思います。保育が人の生きる道に通じているのは、それは人生の在り方、生き方に繋がっているからということでしょう。

未来をどんな社會にしていきたいか、それは私たちの願いであり子どもたちを思いやる真心が顕れる夢です。その夢に向かって今は歩んでいる最中ですから、改めて私自身も初心を忘れずに脚下の実践を愉しみながら信じて前進していきたいと思います。

いつもながらの真摯で大義に生きる背中を見せていただき、心から感謝しています。この邂逅の御蔭様に対して、さらなる恩返し恩送りができるよう日々を精進していきたいと思います。

知愚一如

森信三先生の人生の中で、生き方を大きく転換した中の言葉で「知愚一如」という言葉があります。それに気づいてから、自分の中の学術研究の意味もまったく変わったしまったほどだったと後述しています。

そもそも「知愚一如」とは何か、それを少し深めてみたいと思います。

まず最初に森信三先生はこう言います。(「知愚一如」 即ち、知者も愚者もひと度、絶対者の前に立てば全く同価値であって根本的にはその間に絶対に優劣がつけられぬということが、真に分かることによって初めてわたくしの哲学体系たる「恩の形而上学」は生まれたわけです。(「不尽片言」より))

これは根本にはすべて優劣などはないという意識のことです。そもそも知識というものは知っていることが優れ、より知らないものは劣っているという考え方を持っていては本当の意味で「分かる」ということはありません。これは「分かった気にならない」という言い方を私はしますが、分かるという考えがある以上はその知ることが愚かだということに気づけないということです。

さらに「森信三一日一語」(致知出版)の中でこうも言います。「知っていて実行しないとしたらその知はいまだ真知でないとの深省を要する無の哲学の第一歩は実はこの一事から出発すべきであろうに。」と。

つまり真知とは何か、やろうともしない学ぼうともしないのでは意味がないのではないか。知ることが如何に愚かなことであるかということに気づき、そしてそこから学び方を転換しているのです。これはカグヤで言う「やって内省しなければやらないのと同じ、内省してやらないのでは学ばないのと同じ」というように私は理解しています。

そしてここから「恩の形而上学」という境地に入ります。そこでは「「恩」とは、この自己の一切が、自己を超えたものの力によって与えられ恵まれているのみか、さらに自己の今日に到るまでの一切の歩みもまた、同様に自己を超えたものの力によるとする意味である。」(森信三)

これは次第に真知を実践していく中で、感謝、御蔭様、そして報恩という境地に意識が高まってきたと感じます。私自身、日々に書いている感謝日記が次第に深まっていくたびに御蔭様を経て報恩や報徳の真価に辿りついてきています。世の中の学問や哲学などというものを考える前に、本来のあるべき姿に立ち返り実践をするのなら自ずから明らかになるのが真理というものなのでしょう。

最後に、知愚一如についてもっとも明確に顕されているものを紹介して終わります。それは兼好法師の徒然草の中にある一節です。

『但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。』

真実の人は賢愚得失は存在しないということ、つまりは一切は「無」であるということです。

世の中に、様々な知識の刷り込みがあるからこそ自らの実践を高めて日々に精進し、余計な知識は手放しつつ子ども達と道を味わうためにも自らの感化につとめていきたいと思います。

変化の本質

人生というものは二度ありません。だからどんな時も一期一会であるとも言えます。あの頃はと思い返してみても、あの頃は戻ってくることはありません。その頃に感じたことはやはり一期一会であるのです。そして人生には変化があります。同じ人間がずっと同じままでいるということはありません。人は変わっていくものです。

明治以降に、税金を管理する関係上の法律ができて自分の名前は一生そのまま変わらないというルールが現代になって適応されました。それまでは人は変化に合わせて名前を変えてはそれまでの生き方を変えて新しい自分としてその時代の変化と共に歩んできたと言います。例えば、上杉謙信の場合も虎千代→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→不識庵謙信とその時々の変化に対して名を変えて新しい自分で生きていきました。

つまりは人は変わらないということはないということです。幼年期から少年期、青年期、成人し、壮年を迎え、熟年、老年など、人生は確実に死に向かって前進していくものです。その都度、他人はその状態が変わるのだから変化しないということはありません。不老不死で見た目もいつまでも同じ齢のままということは、生きている以上はありえないことです。人は変わっていくというのは、受け容れることではじめて今の自分に出会いますから変わり続けていく自分を味わっていくことが人生の醍醐味であろうとも思います。

しかし同時に、変わらないものがあります。それは道です。一生涯かけて何度も変化したとしても、いつまでも同じことを実践しているというものがあります。私であればかんながらの道ですが、この十数年で何度も自分の意識は生長し別人のようになったはずなのにいつまでも同じことを続けています。これは別に一生勤めた会社にいるという意味ではなく、一生同じ道を歩んでいくということです。そしてこの道を歩んでいるということは、そういう「生き方」をしているということなのです。

ファーブル昆虫記のファーブルは90歳で亡くなるまで、ずっと昆虫を研究してきました。その間、何度も食べていけない状態が続き、そして何度も引っ越しをしたり職を失ったりしました。しかしそれでも虫の研究は死ぬまで続けています。他にもミミズを一生涯死ぬ直前まで研究した進化論を記したダーウィンもまた大変な状況に何度陥っても遣り続けました。

変わるものと変わらないものがあるのが人間です。

人生は必死ですからどんな人でも使い古されて死に至ります。それは変わり続けていくということの本質です。しかし変わらないのはそこにはその人が持って産まれた理想があります。その理想に対して決めた生き方は、死んでも変わることはありません。その生き方は、どんなに変化してもいつまでも同じ道を歩んでいるのです。

変わるものと変わらないもの、その両輪を円満にしていくことが一期一会に生き切るということなのかもしれません。

出会いがあれば別れがありますが、それは新しい出会いと別れを同伴してきます。その中で一期一会の道を一緒に歩んでいくのだからそこは確かな御縁があります。

子ども達に受け継がれ譲られていくいのちだからこそ、これまでの御恩を忘れずこれからも感謝で共に変化を味わいながら生きていきたいと思います。

報恩謝徳

人間は、我が優先されてくると今までの御恩よりも今の自分にとって都合がいいかどうかを考えたりするものです。本来、今の自分があるのは自分の一人のチカラで成り立っているものなどは何もなく、全ては今までの御蔭様の御力添えによって今の自分が成り立っているともいえます。

これは少し考えてみればわかることですが、カラダを与えてくださったご先祖様方。そのご先祖様方を支えてくださった縁者の方々。また育ててくださった父母をはじめ、先生や友人、兄弟などあげていけばキリがありません。

自分の一人のチカラではないものを、わざわざ自分一人が苦労して手に入れたなどと錯覚しては全ての御恩まで私物化していくのです。目の前にあるものや、自分の身の周りにあるものはすべて過去の御縁と御恩の集積です。その偉大な見守りや御蔭様が観えている自分であるならば自我妄執に打ち克っていますが、もしもその御蔭が自分のおかげなどとなっていたり、もしも相手に見返りを求めているのならすでに自我妄執に囚われているともいえます。

このように自分の都合を優先するようになると、その御恩も御蔭も自分の解釈でさも真実のように自分に都合よく捻じ曲げてしまいます。だからこそ、自分が見守られていることに気づいているか、自分が多くの御蔭様のハタラキで存在できていることが観えているか、と自戒しては内省し振り返っていることで本来の御恩や感謝に気づけるように思います。人間には所有欲や支配欲をはじめ様々な欲があります、しかし欲そのものが悪いというわけではなく理念や初心を優先できないことに問題があります。欲があるのは自分を守るためだったり、生きていくためだったりもします、だからこそ理念を設定し理念を優先することで御恩を忘れず感謝も忘れず徳に報いるための実践になっていくように思うのです。

「報恩謝徳」という言葉があります。

これは恩に報い徳に謝すという意味で恩に感謝し報いていこうという真心のことです。自分が今までいただいたその有難い徳の御力添えに対して、いただいてきた全ての恩に対して自分のできる限りのことを返していこうとする心。

この報恩は受けた恩に報いることで報徳ともいうそうです。そして謝徳は受けた恩に対して感謝の気持ちを表すことで謝恩ともいうそうです。どうしても感謝の気持ちから何かをお返ししたいという心の発露が自然に出てくる心境に入っているということです。

本物の謙虚さというものは、報恩謝徳にこそあるように思います。

日々の試練は、理念を優先し如何に自分の都合と折り合いをつけるかの一進一退の真剣勝負でもあります。しかし、日々の実践を通じて感謝という意識の境地に達していくならば自ずから報恩する生き方に転じてくるように思います。私が尊敬する二宮尊徳が実践した「報徳思想」は、この御恩を刻み徳に報いる生き方だったのでしょう。少しずつですが、その深い真心に触れては有難い尊い歩みに御縁を感じます。

今の私にはまだまだとてもその境地にはいけそうにありませんが、日々の実践が何のためにあるのか、理念の御蔭様で振り返りができることにお時間とお役目をいただけた仕合せも感じます。

この「報恩謝徳」を常に自戒にして、これからも精進を続けていきたいと思います。

 

君の志は何ですか?

人は純粋であればあるほどに志を持つものです。志というのは、純粋性でもあります。その人がどれだけ理想に対して真剣であるか、理想に対して素直であるかが問われます。以前、NHK大河ドラマの中で吉田松陰が「君の志はなんですか?」と何度も聴くシーンがありました。まず出会った人に志を尋ねるその純粋さに心打たれたものです。

この志は、混じりけのない純粋な思いでありそれは理念とも言い、原点とも言い、初心とも言うものです。人は私的な自我が強くなればなるほどにその純粋な思いを忘れてしまい気が付けば不純なものに入れ替わっていくものです。本来は純粋性こそ本物のその人らしさです。もしも本当にその人が純粋に思いを語れるのなら、それが志とも言えます。この志は生まれた時から持っているもので、それが曇らないように澄ませていくためにも穢れを祓い清める日々の実践があるように思います。

そしてその志を推し量るのに下記があるように私は思います

一つは、運の強さ。そして一つは、思いの強さ。もう一つは、絆の強さ。この3つがあるものは強い志に支えられているように思います。さらに同時に、真心の篤さ。次に感謝の篤さ。最後に学びの篤さ。この3つの篤さがあるものは篤い志に助けられているように思います。

その強さと篤さは「最期まで諦めずに絞り出したか」、そして「常に全身全霊を出し切ったか」の集積によって積み上げられていくようにも思えるのです。

志は誰にしろありますが、その志を開いてくれるのは全て御縁です。

出会った人に「あなたの志はなんですか?」、「あなたの目指す理念理想はなんですか?」と尋ねることは、つむいできたつながりの道の上にある一期一会のあなたとの御縁を信じていますという確かなメッセージです。

私はお会いする人たちに信念の種や志、理念を尋ねます。それはその人たちの志を叶えたい、そして同時に自分や周囲の方々への御縁を結びたいと願うからかもしれません。かんならの道は御蔭様の道でもありますから、出会う御縁に導かれるように歩んで往ける今がいつも仕合せなことです。

「出会いの哲学は初志にあり、御縁の哲学は貫徹にある。」藍杜静海

一期一会の生き方の中から学び直すことばかりです。道中の出会いを大切に、一日一生を実践していきたいと思います。

 

好循環~実践の強さ~

物事には好循環というものと悪循環というものがあります。これは循環の理の中で如何に循環を理解しているかということが深く関係するように思います。循環を邪魔しないというのは、自分が循環の中に入るということです。

しかし実際は、自我欲や己に負けては循環を邪魔をし謙虚さを忘れては間違いをするのも人間です。素直さや謙虚さというものは、実践を忘れない心があってこそ顕現してきます。いくら頭でわかっていても口先で語っても、一つの実践には敵いません。一つの実践を丹精を籠めて取り組んでいく中でこそ、はじめて循環の中にいる実感を持てるようにも思います。

二宮尊徳は常々、「道は書物にあるのではなく、行いにある」としています。知識で分かったからとそれ以上取り組むのをやめてしまったり、本を読んでは理解したからと深めていくことをやめてしまっているのは道ではないということです。この道もまた循環に関係しますから、大いなる廻りに同化していくためにも日々の小さな実践を積み重ねていくことで道と縁は展開していくように思います。

二宮尊徳はこう言います。

「人、生まれて学ばざれば、生まれざると同じ
学んで道を知らざれば、学ばざると同じ
知って行うこと能はざれば、知らざると同じ
故に、人たるもの、必ず学ばざるべからず
学をなすもの、必ず道を知らざるべからず
道を知るもの、必ず行はざるべからず」

道を知る者は必ず実践しているものだということです、そして道を知らないのは学ばないとの同じで学んでいないのは生まれていないのと同じであると言います。学ぶということは道を実践することであるとはっきり定義しています。

孔子が論語の中で、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」といいます。

最初から苦労なしに学んだ人たちは誰もおらず、みんな自らが苦労を積み重ねてその長いプロセスの中で道を実践し体得して周りの人々のお役に立ったのです。自らの実践を怠り、知識ばかりを増やしては満足していたら道は遠のいていきます。そして循環というものは、自然と同じですが本当に少しずつ動いていきます。頭で考えているようなスピードや頭で思っているような結果はすぐに出て来ません。しかし好循環は、発酵と同じく本当に小さく少しずつ動いては偉大な変化を創造していくものです。

日々のちょっとずつでも小さくても行う実践こそが何よりも偉大なことを実現します。それを二宮尊徳は「積小為大」といい、実現するのに「至誠」「分度」「勤労」「推譲」と言いました。これはまさに好循環の理を語っているということに他ならないと私には思えます。

迷いを断つのは日々の実践への強さが影響するように思います。子ども達のためにも、実践を強く発揮していきたいと思います。

チカラの本質

以前、ある経営者と漫画について話すことがありました。その方は、京都大学を卒業後あらゆる本を読んできたけれど「NARUTO」ほど参考になるものはなかったと仰っていたことが印象的でした。この「NARUTO」というのは週刊少年ジャンプで連載していた岸本斉史原作の忍者漫画のことです。1999年43号から2014年50号迄掲載し全700話ある少年ジャンプの看板作品です。

私も幼い頃から、少年ジャンプや少年マガジンなど漫画を読んではキャラクターに共感し、夢を見ることの大切さや仲間を思いやることの素晴らしさ、また最後まで諦めないことの重要性など、様々なキャラクターに思いを寄せて共感しては人生の要所要所で勇気と励ましをいただいたように思います。

漫画は漫画家がそれぞれの人生観に従って描き記していくものです。これは詩や文と同じく、その人の生き方をはじめ思想や哲学が入っているものだと感じます。より具体的に読みやすく解りやすく多くの人たちに影響を与えるという意味では漫画というのは素晴らしい作品であるように思います。

この「NARUTO」ですが、25年連載していく中で作者もまた25年の歳月を様々な出来事を通して学んだことが漫画にも投影されています。毎週連載をしていくというのは、毎週人生を深め高めて実践していくことに似ていますからキャラクターの成長は漫画家自身の成長でもあるように思います。

あらすじとしては、木の葉の里の忍者アカデミーという若き忍者の育成機関の生徒「うずまきナルト」がいつか木の葉の首領「火影」になることを夢見る話です。実際は弱点ばかりの落ちこぼれ忍者が、数々の出会いを試練を乗り越えて見事立派な火影忍者になるまでが描かれています。そのライバルに「うちはサスケ」という忍者もいました。何でもできて完璧な忍者でしたが、同じように火影を目指します。その火影を目指すプロセスに哲学があり、それが作品を通してあらゆる場面でぶつかり葛藤します。

うちはサスケは、「人々に選ばれた者ではなく 躊躇いなく憎しみを受け入れる事が できる者こそ火影に相応しい人物だ。」と言います。それに対してうずまきナルトは「火影になった者が皆から認められるんじゃない、皆から認められた者が火影になるんだ仲間を忘れるな。」と学びます。

自分のチカラだけを頼りに強さを求めてきたサスケに対して、周りのチカラ添えを頼りに強さを見出したナルト。本来の自立とは何か、チームワークと根性というものがナルトの強さの秘訣だと言いますがそこには仲間に対する信頼と、自分自身に負けない強さがあったように思います。

人は己に克つことをやめて強さを求めたらサスケのように孤独になります。しかし己に克ちその上で仲間を信頼することができるのなら協力できるようになります。本来、チカラを持ちたい動機は大切なものを守りたいからではありますがそのプロセスの中に自我欲に負けてしまうのか、それとも周りの役に立ちたいのかで「生き方」が出てきます。生き方が決まれば、次にその「やり方」がはっきりしてきます。そのやり方をこの「NARUTO」は皆に解りやすく伝えているように感じて共感することが多いです。

己に打ち克ち、周りを信じるということは本当の強さと優しさを兼ね備えた人としての思いやりの道です。「NARUTO」の随所では「忍道」という言い方をされますが、「道」を歩むものとしての心構えた志について描かれたシーンはどこも感動する物語ばかりです。

自分の生き方と照らしつつ、道を愉しみ道を味わい、真心や思いやりを反省しつつ子ども達と一緒に歩んでいきたいと思います。

誇りと自信

先日、あるお客様の内省シートから「仕事に誇りをもって取り組まれているのが伝わってきた」と書かれていました。この仕事に誇りを持って取り組むとは何か、その「誇り」について少し深めてみようと思います。

「誇り」の対義語は「恥」だと言われます。自分に嘘をついたり、自分から逃げて自分に負けると誇りは失われていきます。この誇りとは、「自分は逃げなかった、己に克ってきた」というものが誇りの本質です。そして自分自身が自分のすべてを知っているのにその自分を裏切り妥協することが恥です。そして恥というものは、辞書には「世の人に対し面目・名誉を失うこと。恥ずべき事柄を恥ずかしいと思う人間らしい心。」と書かれています。この恥ずべきことがらがまずわかることが誇りの入口です。

自分自身が真っ直ぐに逃げずに向き合って己に打ち克つ人は、自然に誇りと自信を纏ってきます。逆に己に負けてしまう人は、プライドが高くなり不安を纏ってきます。他人の評価云々ばかりを追いかけるのも恥ということが分からないところが関係します。この恥という字は、耳と心でできています。自分の本心に耳を傾けているかどうか、自分の心が決めた自分に正直に生きれているか、そこに誇りはあります。

仕事に誇りを持つというのは、理念を優先して自分自身を変えてきたという実績です。先日もあるクルーが理念のために自分自身の都合を手放していきましたが、その瞬間からその人が纏う誇りや自信が目に見えるほどに光りはじめます。周りの刷り込みや今までの習慣よりも、自分の決めた生き方や働き方を優先したからこそその人はその恩恵として「誇りと自信」を持つことができます。

誇りを自信を持つ人がひとたび言葉を話せば、その人のように生き方と働き方を変えたいと感化されていくものです。いくら言葉巧みに上手いことをいっても、それぞれ人は己との向き合いの中でしか成長できませんから己に克っている人の言葉はとても勇気になるのです。

特に子どもは正直で、建前と理想をいくら使い分けてもその矛盾にすぐに気付きます。それだけ自分の心に正直に生きているからです。その正直に生きる子どもたちに生き方と働き方を遺すならば、誇りと自信は欠かせない徳目です。それが人間らしい心とも言えます。

人間らしい心は、常に自分の心と正直に向き合いその心に従っていきようとする生き方のことです。自分という最大の敵に先に負けてしまって心をその都度誤魔化して保身や保守ばかりを優先してしまえば、その分また誇りと自信が失われていきます。心を誤魔化さないというのは、ありたい自分、理念や初心を優先する自分でいられているということです。もっとも身近な自分がもっとも自分のことを四六時中観ていますから、その自分と対話して自分に打ち克っていくことで自分だけではなく周りも元気づけていけるのでしょう。

お客様からクルーのことが「誇りを持っている」といわれることほど有難いことはありません。陰ながら自分から逃げずに実践して己に打ち克って努力精進している姿を観てくださった気がして、本当に嬉しく見守られていることを実感しました。きっとこの方もまた、克己復礼に修養を怠らない実践家なのでしょう。御互いの誇りが観えるということは、何よりも強い心の絆になっていきます。そういう絆のある人のことを仲間と呼び、同志と呼ぶのでしょう。

自分自身が自分自身でいられるように、日々の実践を怠らず、理念を優先し、修養の勝負に勝ち越せるように子どものモデルになるような生き方と働き方を追求していきたいと思います。

 

 

人格を磨く

人間は人格を磨いていく中で、本来の自分の天分を活かしていくことができるといいます。素直になって謙虚になれば物事を受け容れありのままに自分の御縁を生きていくことができるからです。

実際に、どんな仕事でも自分以外の誰かと取り組む仕事は自他を合わせ鏡にして御互いを磨き合っていくものです。鏡の曇りがなく、美しい素直な鏡と合わさるなら自分の美しい素直な部分が投影してきます。もしも濁った鏡と合わせるならより自分が分からなくなります。御互いが合わせ鏡だからこそ、何を心に映していくかというのはその人の素直さに由るのです。そしてその心は生き方によって磨かれますから、人格を高めて自己修養によって鏡をいつも日々に洗い清めていくしかないように思います。

また仕事は同時に互いを磨き合うものです。どの砥石を用いて自分を磨いていくか、何をそぎ落として研ぎ澄まされたものにしていくかは自分の選択が決めるともいえます。砥石選びというものは、謙虚さが必要で素直な心でなければ誤った研ぎ方によりかえって自分を活かせなくなるかもしれません。そしてこの素直な心というのは、全ての基本になっているように思います。

松下幸之助さんに「素直な心の十か条」というものがあります。

1.私心にとらわれない
2.耳を傾ける
3.寛容
4.実相が見える
5.道理を知る
6.すべてに学ぶ心
7.融通無碍
8.平常心
9.価値を知る
10.広い愛の心

素直の実践の中で掴んだ感覚を、そのまま十か条にしているように思います。こういう状態の時は素直な心が働いていますということでしょう。そのどれもができそうでできないことであり、人格を磨くために大切な鏡であり砥石であることに気づきます。

例えば、私たちも「傾聴」というものをもっとも大切に実践しています。しかしそこに私心に囚われて「きっと何か理由があるのだろう」と考えず心の余裕をなくしていればすぐに傾聴できずに思い込み決めつけることになってしまいます。自らが聴き福にするか、自らが学んでいるか、自らが受け止めているか、自分に矢印が向いているかとしたとき、はじめて傾聴が始まってきます。

松下幸之助さんは傾聴のことを「素直な心というものは、だれに対しても何事に対しても耳を傾ける心である」といいます。それを黒田長政の「腹立てずの意見会」の実践を紹介し、会合を長政が最期まで続けたのは「一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがある、それは改めなければならないから教えてもらおう、というような謙虚な心をもっていたからではないかと」と言っています。聴くということは自分自身の私心と向き合うことでもあります。自分が聴きたくないことを言われてもそれを素直に受け入れてみる。そのあとは何を行う必要があるかが自明してくるのが人間です。

あるがままに物事が観えるなら、あるがままに対処すればいいのですがあるがままに物事を観たくないからあるがままに対処できないのです。本来、素直さというものは私心を交えずに全体を観るチカラとも言えます。それは自然が自然の循環を邪魔しないことと似ています。素直な心を磨き、人生の最期には自分の天分を全うできたと思えることは本当に倖せなことだと思います。

畢竟、人間はどんな仕事であってもどんな出会いであっても御互いに人格を高めていくことでしか御互いを活かす道はないのかもしれません。しかしそういう切磋琢磨できる同志がいることは人格を磨きたいといった素直の心があるから出会えるのでしょう。御縁の中に「素直」であることを第一義に、常に子どもから学び直していきたいと思います。

貝殻~宿る美~

貝磨きの御縁から貝殻の美しさについて考える機会がありました。なぜ貝殻が美しいのか、その貝を磨くことが一体何かということをここで書いてみようと思います。

私の中での貝磨きというのは、魂磨きと同じ意味です。魂磨きとは「自分に宿っているものを発掘し発見していくもの」とも言えます。私たちもカラダを依代に宿る魂であり、すべてのいのちには等しく魂がありますからその魂を引き出していくことは自分の存在を確認していくことであり何のために生まれてきたのかを知る旅でもあります。

貝殻の美しさは、その本質に魂が宿っています。貝殻は貝の時、貝のいのちを守るために存在したものです。貝は一生を海で過ごし、長いものでは何百年も生きるものもいます。波に揺られ、海のリズムで壮大に生き使い古された貝殻にその生きたものの魂が宿っているからです。私にとっての貝殻は「宿」であり「故郷」です。

あのヤドカリ(宿借)も、宿主が死んだあとの宿を借りその魂を継承して活かしていきます。古語では「カミナ」という響きを持ち、宿に由るいのちではないかと私は思います。

この宿の美しさは『使い古された美』に由るものです。使い古されれば使い古されるほどに、次第に光り輝いていく美しさ。それは魂が磨かれて磨き貫かれた中にある「毘」とも言ってもいいかもしれません。これを「直毘霊」といい、古人はその直毘魂を引き出していくことが大義に生きることであるとも言いました。

貝殻の美しさは、その貝殻に宿された魂があることです。

魂が遣ったものは、どんな古いものでも素晴らしく光り輝きます。そしてご縁を観てそのご縁を大切に活かすものが顕れればそのいのちは新生していきます。まさしく温故知新に宿る美、「カミナ」するのです。かんながらの道の一つに、貝が顕れたのはその「カミナ」が道を導く存在だからかもしれません。

原始の海、原始の親祖たちは貝殻に魂が宿るのを知覚することができたからこそ装飾したのでしょう。海と共に美しく生きた貝殻に、自分の魂を重ね合わせて魂磨きを行っていたのかもしれません。

御縁の世界は、かつて使い古された中に生きた魂が宿る世界を知ることに似ています。目に見えない歴史をつむぐことは、目先の生だけを貪らない生き方を実践していくことに似ています。貝殻をカラダに纏うことは先祖代々から磨かれてきたいのちをそのままに譲っていくといった「かんながらの道」を体現することに似ています。

貝の御縁を大切に、その毘と美についてさらに深めていきたいと思います。