魂の指南書~循環する魂~

17歳の頃から数えて21年間、毎年、この時期に山口県の萩市にある松陰神社に参拝にきています。ここには青年期より憧れた吉田松陰の魂が息づいていて、自分の生き方と照らし合わせては四季を振り返っています。

魂の先輩に触れることで、どれだけ魂を磨いてきたか、体験を気づきに換えて如何に学問を深めたかを確認するのです。松陰神社の中にある、ある一角に心が穏やかに澄む場所があります。

同じように思想を遊ばせるとき、死生を超えたところで魂が触れ合うのかもしれません。ご縁は本当に不思議で、現実にはいない人であっても心中にはいつも生き続けている人がいます。自分もそういう生き方をし、子どもたちに永遠永劫の勇気を与えられるような大和の風土になりたいと願っています。

吉田松陰に留魂禄があります。これは死の直前に書かれたもので、いわば遺書のようなものです。この世と別れる最後の最期に記した思想は、魂の指南書とも言えます。命懸けで学び、命懸けで弟子たちに教えたものは何だったか、そこに全て籠められています。

「今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ 蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ 人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ 未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ 吾行年三十一 事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ 然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン 何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス 十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ 二十ハ自ラ二十ノ四時アリ 三十ハ自ラ三十ノ四時アリ 五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ 十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ 百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ 斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ 乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ 同志其是ヲ考思セヨ」

果たして今の私は吉田松陰のような循環を、今を本気で生き切っているか、自分の生が後の世の子どもたちの教えになるような生き様であるか、ここに来るといつも未熟な自分を恥じ入るばかりです。

いのちを懸けて教えてくださったその魂の生き方を、守り通したいと思う同志は今でも産まれ続けています。私のようなわかりづらい人間に着いてきてくださる方々、支えてくださる方々がいてくれるのも、どこかに吉田松陰の見守りがあってかもしれません。

人生とは「四時ノ順環」である。

魂も自然の循環であることをしかと肝に命じ、何事も至誠と真心、正直に素直にかんながらの道の実践を盡していきたいと思います。

 

 

 

夢を与える~生き方~

先日、メンターから興味深い話をお聴ききすることができました。

それは小学校の道徳の授業で、講評で呼ばれた時のお話です。

その授業は、イチロー選手が努力して夢をかなえたというような話だったそうですが、先生が「イチロー選手がなんで夢がかなったと思いますか?」という質問に子どもが「努力したから叶いました」と答えました。それに対して先生もまたおおむね同じように努力したら夢がかなうのですよと言ったそうです。

それに対してメンターは講評を求められ、こういったそうです。

「イチロー選手は努力したから夢がかなったのでしょうか、そうではなく夢があったから努力できたのではないですか」と。世間では努力を優先して夢を持たせようとしますが、本来は夢が先で夢があるから努力もできるのではないかというお話でした。

これをお聴きしながら感じたのは今の時代は会社でも学校でも国家でも、頑張れば夢がかなうとか、一生懸命であれば救われるとか、真面目にやっていればいつかはよくなるとか、そういう理由で夢を諦めるなという励まし方が多いように思います。

よく見れば結果的に努力することばかりを強要しているような指導や教育ばかりです。本来、人は理念や目的があってそれに向かって努力する生き物です。あの進化論のダーウィンも、根気強く研究して発見をするのも夢があったからじっくりと待つことができたのです。

夢があるというのは、きっとこんな未来が来ると信じて待てるということです。そしてその夢がかなうと信じ切っているから努力することを厭わないのです。

努力する力ばかりを先に持たせようとすることも確かに善き習慣を身に着ける上においては大切かもしれませんが、人生において生きて観て実感するのは夢を持つことの方がもっと大切であることに気づけます。

その夢とは、企業が自社をアピールするために広告しているような願望ではなく、そもそもの本質である初心(理念)です。

人は「何のために」を自覚することで安心して夢を追いかけることができます。それがなくなってしまえば、夢から自分が逃げてしまうことになるのです。一体、何のために努力するのか、そこには自分を大切なもののために使って生きたいという人類の根底にある共通する夢があるからのように思います。

子どもたちが夢を観るのは、大人たちが夢中でいるからです。その夢中とは妄想ではなく、理念を真摯に実践しているという意味でしょう。

人生において子どもたちの身近にいる大人が苦しくても愉しそうに働くのは何よりの夢を与えるように思います。夢を創り与えるということは、生き方を示し生き方を与えるということです。

これからも理念を大切に日々に何のためにかということを忘れずに丹精を籠めて取り組んでいきたいと思います。

メンターとメンティ②~信の徳~

メンターとメンティ①のブログで紹介した上杉鷹山と細井平洲は、互いに見守り合う関係においてとても参考になります。

上杉鷹山は、第九代上杉藩主として立派に藩政を改革し立て直し、終生民の幸せに尽力した人物として今でも名君と慕われます。この上杉鷹山が十四歳のとき、二十三歳年長の細井平洲と邂逅しメンターとメンティとして互いに真心を通じ合わせてお互いの人生に多大な影響を与え合います。

その細井平洲は享保十三年(一七二八)に、尾張国知多郡平島村の農家の次男として生まれ、名古屋、京都、長崎で勉学を積み重ね、後に江戸で塾「嚶鳴館」を開き、諸国の人びとを指導していました。尾張藩校明倫堂の初代校長でもあります。
この細井平洲の教えは知行合一であり、これを鷹山は『学・思相須つ』、つまり「学問(学んだこと)と今日(現実)と二途にならざるように実践実行せよ」といつも話されたそうです。すなわち、学問をするということは、知識を得るためだけのものではなく、学んだことを生活に生かして実践しより善くしていくことだと断言していました。

いつの時代も知識と行動が分かれているのは、知識ばかりに偏り大量に詰め込んできた教育の弊害ということです。「知ることはできること、わかることは努力すること」と私もいつも話していても、どうしても現実が変わらないのはそれだけ教育が生き方に影響を与えたものだからです。生き方を変えるというのは、人生を変えるということですから知識だけで変わるはずもなく、どれだけ善き習慣を与えるかということなのでしょう。

この二人のメンターとメンティのやり取りの中で、私がとても大好きな見守りのエピソードがあります。それは鷹山が、初めてのお国入りに当たって平洲に会って助言をいただいた時の話です。

鷹山は尋ねます「私は幼いままで藩の人々に藩主として臨むことになります。不安で心が落ち着かず、薄氷の上を歩むような気持ちで怖くて緊張しています。私は一体どうすればよいのか、ぜひ教えてください」と。

それに対して平洲は「藩主となるあなたに最も大切であると思うこと、お手本にしたほうが善いと思うことはもう全て教えています。あなたは、これからは「現実の政治」を実践していかなければなりません。藩の人々の暮らしを豊かにしていくためには、まず自らが身を正しく修めて、絶えず努力して、自分の信じるところを貫いていかなければなりません。」と語り掛けます。

そしてここからが大好きな名文「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」です。

意訳ですが「『自分を信じる』、これは勇気のある者だけができるのです。勇気ですよ!勇気なくして、どうして政治ができるでしょうか!いよいよその時が、やってきたのです。」と話すのです。

これに鷹山は「大事なことを教えていただきました。私は終生このことを帯に書いて忘れないようにします。」と答えたのです。

ここにメンターとメンティの生き方と働き方が合致したのを感じます。共に人生の中で、大事な局面において何よりも学び合っていたのは本気の覚悟です。知識として教えただけではなく実践も同時に教える。これがメンターの役割ではないかと私は思います。

知識だけでは人生は何一つ変わることはありません。人生とは、生き方が何よりも優先されそれに付随して知識が必要なのです。知識で先に刷り込まれてしまうと、その根本を見失ってしまうのかもしれません。実践の大切さが維持されるのは、メンターとの邂逅を求めるその人物の真摯な人生との向き合いがあるからでしょう。

今まで当たり前すぎて「勇気」というのをあまり考えてきませんでしたが、勇気とは人生の大事な局面において信じ合っているからこそ出てくるものなのかもしれないと考えるようになりました。信じているから勇気が出る、勇気が出るのは信じ合った証そのもの。

そしてその信の形として顕れる勇気こそ、「信の徳」なのかもしれません。

いつも勇気を与える存在になり、いつも勇気をいただいている存在であることを忘れないでいたいと思います。

メンターとメンティ①~親切という生き方~

メンターという言葉があります。

これはギリシャのホメロスの叙述詩『オデュッセイア』の登場人物である「メントール(Mentor)」という男性の名前から来ています。このメントールという男性は、オデュッセウス王の友人でもあり、王の息子テレマコスの教育を託された賢者でした。

そのメントールは王の息子にとり、生き方や判断のモデルとなり、指導者、理解者、支援者といった見守る役割を果たした人物です。このメントールが英語でメンターと言われるようになりメンターの対象者が「メンティ(Mentee)」ということになります。私の主観ですが、日本では吉田松陰と高杉晋作のような関係や、細井平洲と上杉鷹山の関係もまたこのメンターとメンティの関係のように思います。

もともと人は一人でやっているようで一人でやれることはありません。その人が結果を出せるのは、その陰に見守ってくださるメンターたちがいてはじめて事が実現します。

何かあればいつもメンターが助けてくださっているからこそ、メンティは立派に事を成し遂げることができ、メンターもまたそれを支援することでその人自身が志を完遂するのを惜しみなく助けるのです。

もともとメンターというのは、困っている人を助けるような存在です。つまりは見返りを求めない親切さがあるものです。今まで私がお会いしてきたメンターもみんな本当に自分のことを実の息子のように可愛がってくれて惜しみなく智慧や励ましやアイデアをいただきました。

その御蔭様をもって今日があり、今日があるのはメンターとの出会いがあったからと断言できます。そしてメンターもまた、メンターがいて同じようにメンティでもあったのです。

人は生きていく上で、実践モデルは必要です。自分にすべてをさらけ出して命を懸けて大切なことを教えてくださる存在がメンターです。教わる方もそれを命懸けで学んでこそはじめてメンティとも言えます。

つまりはメンターとメンティは共に本気であること、同等の覚悟をもつもの、道を共にし志を同じくするものたちがそう呼ばれるのではないかと私は思います。

善いメンターに出会いたいのなら、善いメンティにならなければなりません。つまりはお互いが「生き方としてのモデル」になったとき、ホメロスの叙事詩に画かれるような素晴らしいご縁や出会いの物語に恵まれるのです。

親切にしていくこと、親切にされたことを周りへお返ししていく生き方がメンターとメンティを育て、そしてその両方が子どもたちがお手本にする生き方の実践になって学問の素晴らしさを伝え、世の人々との関係を好循環させていくように思います。

自分がメンターでもありメンティでもあるのだから、常に学問は命懸けで実践していきたいと思います。コーチングもカウンセリングもどれもこれも基本は親切心と真心ですから常に自分の魂に問い出会いを磨いていきたいと思います。

善い一日

日々は毎日、あらゆる出来事に満ちています。自分の主体性が失わなければ人は毎日新しいご縁と感動の中で生きているのです。自分を見失うのも自分、自分を取り戻すのも自分、どれだけ日々に好奇心を失わないように精進するか、そこに魂の磨きがあるように思います。魂を磨くというのは曖昧な感覚で捉えられるものがありますが、それは状況や環境に左右されずに生き切ることができるかということなのでしょう。

人生をどれだけ真剣であったかは何よりもその魂に影響を与えます。人が結果だけを見るのではなくその生き方ともいう経過にどれだけ真摯かは自分の使命の重要性を自覚するからでしょう。自分自身の自覚とは日々の過ごし方が決定づけます。日々を遣い切る、日々を出し切るように真心を絞り出す人の魂はいつも子どもの憧れのまとでありその周囲はいつも光り照らされて観えます。

先日、作家の三浦綾子さんエッセイに触れる機会がありました。その生き方や生き様から学ぶことが多くこのタイミングで有難いご縁をいただきました。

その中の言葉をいくつか紹介します。

「私たちは、毎日生きています。 誰かの人生を生きているわけではないのです。 自分の人生を生きているのです。 きょうの一日は、 あってもなくてもいいという一日ではないのです。 もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、 きょうという一日がどんなに貴重かわからない。」

どれだけ毎日を真摯に生き切るかは、どれだけ自分を誰かのお役に立て切ったかということです。全体のために自分を使うとき、人は自分の考えた一日ではなく自分に与えていただいた大切なご縁に気づきます。そのご縁に気づいたら人は、一日一生の気持ちで生きようと思うのです。死にかけてみてはじめてわかるのが生の有難さです。人はすぐに昨日の繰り返しや、過去から予想して一日を過ごしますが好奇心はそれでは輝きません。常に新しい一日であったか、常に感動と感激を発見しているか、ひとり慎む内省の時間によってそれを育んでいくのでしょう。

私自身も太陽が出てから最大の活動をし、太陽が沈んでから静謐な内省をすればするほどにその間の御縁を通して機縁の奇妙さや不思議に心が感動し魂が揺さぶられます。毎日がかけがえないの記憶の中にあることに感謝する気持ちに満たされ愛に包まれていきます。

人は結局は、一日の過ごし方が一生の過ごし方になります。日々にどれだけ心を遣ったはその人の力量ですが、常に不満から入るのではなく感謝から入ることで自分自身の真の尊さに触れて初心に帰れるのかもしれません。

今の人間は経済的にも環境的にも恵まれすぎて当たり前の豊かさや仕合せを手放してしまったとも言えます。当たり前ではないことに感謝できる感性は、一日一日の過ごし方という実践にてはじめて得られるように思います。わかった気になってはならないのは何よりも毎日毎朝ということです。

最後に三浦綾子さんの言葉です。

「今日という日には、誰もが素人。」

気づけば教えてくださるのに気づくことができない自分がいるだけです。いつも見守られている自分さえ感謝で気づけるなら、大事なことや大切なことは常に日々が私に伝えてきてくださっています。

学びの感性があることそのものに感謝の日々です。毎日が真っ新、毎日が新鮮、毎日が発達、子どもの魂のままに善い一日を過ごしていきたいと思います。

役割意識~人生の目的~

北米インディアンの諺に「7代先の人達のことを考えて生活しなさい」があります。ちょうどこれは200年から300年くらい先のことを考えて今を判断しなさいという教えです。

人は判断をするのにどれくらいの長さで物を観るかでその哲学が変わってきます。今が過去の集積によって存在していることの実感は、同じように先祖たちが考えてくださった未来を今を生きる自分たちが感謝し子孫へ譲っていく思想です。

例えば、食糧でも同じく自分たちの代で食べ尽してしまえば必然的に子どもたちの時には残っていません。子どもたちが貧困で苦しい思いをしてほしくないという思いは誰だって子どもが産まれたら願うものです。そして戦争でも同じく、自分たちの代で戦争をすれば子どもたちには戦禍を遺すことになってしまいます。子どもたちが悲劇に見舞われないようにという願いは同じように誰にでもあるのです。

しかし今の人たちは意図的に操作された自我優先の慾環境によって盲目に刷り込まれ自分たちの身の上のことばかりを思い煩い、先々のためにどう生きるかということを優先することができません。まるでそれは自転車操業のように、走り続けなければ倒れてしまうと思い込んでいるように働きに働きづくめで忙しさに心を取り戻せません。

空の悠久に流れる星々をみつめて今世の自分の役割を果たそうなどと考える時間もないほどです。

北米のインディアンたちは、太古の昔から「自分のいのちは役割を果たすためにある」といった哲学をもって生き抜いてきました。何よりも優先するのが使命や役割だったのです。「グレートスピリッツ」という全自然の偉大な大生霊の循環によって産み出された自分の存在を生き活かそうとするのです。

それは自分が男や女、またどの家系に紐づいているか、その今の自分そのものの全体の中の役割に生き切ろうとするのです。

その役割についても徹底してて、部族の役割の頂点にいるのが酋長です。この酋長は全ての物を全ての人に分け与える存在として選ばれます。従って酋長は一切資産資材を持たず、一族の中では最も質素な暮らしをしていて全体のために自分の役割を生き切るのです。

役割意識というものは、何よりも大事な意識です。

自分の人生を役割だと思えるか、その役割を果たそうと実感できるか、そこには謙虚な生き方があります。自分の生とその自分に与えられた役割に素直に感謝できるとき、今の自分が見守られていることを知ります。そして満たされている存在、足るを知ることによりその御蔭様に対して御恩返しをしたいという願いがでてきます。

その時、はじめて自分がどう生きたいか活かされている自分をどうしていきたいかという人生の目的に出会うのです。

どんな人もどんな動物草木昆虫菌類、無機質のものにいたるまで役割があるから一緒に暮らしているのです。お互いが違う役割を求めるとき、人は生きる意味を見失うように思います。

自分探しや自分の目的など色々と彷徨っている話を聴きますが、大切なのは与えられた役割に気づき役割を果たすことに専念することのように思います。

「自分のいのちは活かされている」という実感があって人は目的に出会うのでしょう。

役割を果たせるように今日も未来永劫に続き未来の子どもたちと、宇宙や世界全体のために今できることに専念していきたいと思います。

 

この酋長はもっとも

私たちの実践~守りたいもの~

今の時代は経済優先の競争社会が当たり前の環境の中に蔓延っています。豊かさの定義は経済力でありその経済力というパワーを持っている人ほど豊かであると周りも羨ましがるものです。

実際に世界では経済力を持たなくても仕合せに暮らす人々もいます。それはかつての先住民族や農耕民族、今の西洋文明が入り込んでいないところで何千年も前から同じ暮らしをする民族たちです。

以前、ブータン王国のことを調べたことがありますがその発展の度合いを測るのにGDP(Gross Domestic Product/国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness/国民総幸福量)を使っているとありました。

つまりは幸福の定義をお金ではなく、仕合せかで量ろうというものです。簡単に言えば、どれだけ今の自分が豊かであるか貧しいかを量るブータン独自のモノサシを持とうというものです。

グローバリゼーションが広がると、そこには今までの豊かさを経済の持つ豊かさに変えてしまいます。今までの「ゆったり生きること、手間暇をかけること、一緒にやること、楽しく面白く過ごすこと」を優先してきた先祖たちの生き方を、「早く効率よく済ませること、便利であること、一人でもできること、勤勉にやること」を優先する生き方に変えてしまい、その分だけお金(豊か)が得られるという謳い文句で人々の生き方を操作していくのです。

人間の慾を優先するか、それとも自然の道理に沿う命を優先するか、それを決めるのは自分自身なのです。

敢えて今の時代に刷り込みを取り除こうとするのであれば、心を強くしていくしかありません。心が本来の目指す生き方を選ぶなら環境に左右されない真の強さを育てあげていけるからです。本来の生き方を守りながら文明と上手に付き合っていける国際世界人に近づいていくからです。

今まで人間は何度も文明の崩壊を繰り返してきました。それは歴史を観れば一目瞭然です。あれだけ繁栄発展した古代文明も等しく滅んでいます。しかしその中でも滅ばずに生き残っている先住民族たちがいるのを忘れてはなりません。その先住民族たちがなぜ今も生き残り今でもこの世に存在するか、そこに共通するものが悠久を生きる鍵なのです。

私にはそれは自然に沿って暮らし、人との結びつき大切にし絆を守った人たちに観えます。

果たしてこのままどこまで人間の慾が金融を操り臨界期まで突入するか、原発の事故のようななれの果てまでいくのはそう時間がかからないようにも思えます。だからこそ、その警告を真摯に受け止め、世界に生き方と働き方を示していきたいと思うのです。

文化と文明は、自然と人間のかかわりのように一体になって時代に息づいています。子ども第一主義の理念に従い、地道にコツコツと根強く耐えて実践を続けながら天機を待ちたいと思います。

自然循環と人間社會~天命畏、徳性尊~

以前、「なぜ新宿で自然に沿った生き方をするのか」とある人に聴かれたことがあります。里山か田舎にいけば、田もあり土もあり、自然はあるのに東京都庁の隣の大都会でなぜかとありました。

そのことを少しここで書いてみます。

そもそも都会というものは、人間が生み出した社會のことです。この社會とは人間だけを中心にどのような暮らしをその中で行うかを考えて人工的に創りだされたものです。私たちは集団をつくりその集団の中でお互いが生き残るために力を合わせて生きていく仕組みを開発してきました。

その社會の中には、思いやりが中心に据えられ人のぬくもりを感じながら安心して暮らし続けてきました。人間社會という言葉にある通り、人間が社會であり、社會が人間ということです。

また同時に地球の中に住まう私たちは地球の一部です。地球の一部であるというのは地球のリズムに沿って生きているとも言えます。四季があるように、昼と夜があるように自然は一定のリズムを持ちます。その自然のリズムに沿って生きるというのは、人間社會とは別に存在している自然循環です。先ほどの人間社會に対し、自然循環というのも自然は循環であり、循環が自然のことです。

人はこの自然循環を優先し、そのあとに人間社會を実践することが調和を創ります。里山の原理も同じく、問題は自然に沿っているかどうかということが問われているのです。

都会の中にいても自然に沿っているならば、私たちは自然の浄化を邪魔することもなく持続可能で豊かな生き方をしていくことができます。人間社會のみの発展だけに特化し経済競争だけを中心にしていけば勤勉であることが美徳のように語られます。

しかし本来は勤勉とは、その背景に楽しさがあってのことです。日本人が勤勉だから美徳ではなく、日本人は働くことが大好きな民族なのです。つまりは道楽者が多いということ、働ける仕合せを実感して生きる御蔭様や感謝の真心のままに素直に生きてきた民族であったのです。

世界からは勤勉だから経済大国になったと目標にされますが本来、自然に沿って暮らしていつつも感謝を忘れないで生きてきた私たちは働く仕合せがあったから結果として経済も発展したのです。

豊かさについては色々という人もいますが、私が思う真の豊かさというものは自然に沿った生き方をし人間を大切に思いやり正直に明るく楽しく暮らしていくことです。

私が新宿で子ども第一主義の理念を掲げ実践を増やし続けているのも、そういう本来の生き方を環境や状況に左右されずに成し遂げていこうとする初心を忘れないためでもあります。

子どもたちはこの加速した都市化していく暮らしの中で希望や夢を失うことがないように、私たち今の大人が天命を畏れ徳性を尊び、御蔭様に感謝しぬくもりや思いやり大切にして実績を遺してあげることだと思います。

自らが挑戦してモデルになることで必ず子どもたちの勇気になっていくと思います。

忙しさに負けない心の強さとやさしさ、真の豊かさを味わえる高い心を道を共にする仲間たちとともに大事に育てていきたと思います。

 

観通し力~いのちのままに~

人は経験してくることで伸びてくる本当の力というものがあります。

それは「観通し力」です。

この観通し力とは何か、深めてみたいと思います。

そもそも経験や体験というものは、その人の求める質量によって変化します。日々を過ごすのに、もし今日が人生最期の日だと思って過ごしている人と、いつも通りに過ぎていく消化試合のように過ごす人では同じ一日でも全く異なる一日を過ごします。

つまり体験や経験というものは単に「すればいい」のではなく、「実践すればいい」のです。言い換えれば、流されている場合ではなく自分から主体的に覚悟を決めて義務を甘受すればいいのです。

自分に与えれた天命を畏れ、徳性を尊び、道を真摯に切り拓いていくのが本当の人生の意味だからです。

しかし実際は、せっかく与えてくださった機会や環境に気づかずに不平不満やすぐに他人に矢印を向けては何かにつけて誰かのせいにして自分の問題だと気付かずに感情に呑みこまれたもったいない日々を悶々と過ごしていることが多いのです。

同じ一日にしても「実践しよう」と決心している日々は確かに積み上がっていくものです。しかし決めていない日々はいつまでもすることばかりに追われる忙しさに己自身が負けてしまうのです。自分に打ち克っていくというのは、一日一日、一瞬一瞬の過ごし方であるのです。

そしてその積み上げた先につく力こそ「観通し力」であると思います。

これは信じて実践してきてはじめて備わる力です。自分が信じているからこそ目先に囚われない、自分の小我に翻弄されない、焦らない、惑わない、悩まない、いつも明るく健やかに逞しく日々に笑顔で正対していくことができるのです。

観通すということは、それだけ長い目で偉大な視野で今此処が何に繋がっているのかの御縁を感じているということでもあります。今の自分をどれだけ真摯に生き切るか、それは日々を如何に出し切るか、言い換えれば「天命に任せ人事を盡してきたか」という自戒自省への問いを持ち続けているということです。

本気で生きた人生だけが真実であり、産まれてきた以上いかに自分の志を高め魂を磨くかはその人に与えられた日々の過ごし方で決まります。正解のない人生にもしも正解を求めるとすればそれは生き様ということでしょう。

そしてリーダーと呼ばれる人たちが自然に観通しがついてくるのはその生き方が「真摯」であるからでしょう。何を真似し何を見習うかは、目には観えないところのその人の「覚悟力」かもしれません。

どんな尊敬する先師、先覚者も先達者も皆等しく苦労して努力して精進しその日々の積み重ねではじめて偉大なことを成し得ています。本来の学び方というのはその生き方生き様に自分の生死間を照らしていくことなのです。因果応報が観えるのもまたその真摯に生きる人だからこそ実感できるのでしょう。

まだまだもったいない日々を過ごしていないか、今一度自分に問い直し、かけがえのない環境に感謝していのちのままにかんながらの道を創造していきたいと思います。

日々は常に貴重な学びの愉しさに満ちています、好奇心全開で楽問していきたいと思います。

いのちの徳性~万物の霊長~

「万物の霊長」という言葉があります。これは孔子の編纂した書経(秦誓上)の中に人類というものを解釈して書き記されたものです。実際に何を目指して人類は万物の霊長たれと孔子は言ったのか、それを理解している人が少ないように思います。

自分たちが動物たちや食物連鎖のトップだから霊長というわけでもなく、他の動物よりも寿命が長いから霊長であるというわけでもありません。その本質について深めてみようと思います。

そもそも私たちをはじめすべての生き物は、何を伸ばしていきたいかというものがあります。それは進化でも証明されています。生き物にはそれぞれに特有の固有の能力があります。

鳥であれば空を自由に飛び回りますし、魚は自由に泳げます。地上を走る動物たちもいます。そしてそれはさらに分化し飛び方から泳ぎ方、走り方に至るまで、あらゆる自分たちの特性を活かして進化成長を続けるのです。それは私たちが真似と道具を使う能力があるように、他の生き物たちもまたそれぞれに自分たちの得意分野で能力を伸ばします。

それでは孔子はこの能力がどんな動物よりも高く優れているから万物の霊長といったのか、私はそうではないと思います。

動物だけではなく樹木までありとあらゆる生き物には心があります。その心とは人間にわかるように話せば他を思いやる心があるということです。これは能力の特性ではなく「いのちの徳性」と名付けてもいいかもしれません。活かされている存在だからこそ備わっている唯一無二の徳性です。

このいのちの徳性を伸ばしていくことでどんな生き物よりも思いやりが長けている存在、それこそが万物の霊長であると孔子は定義したのではないかと私には直感するのです。なぜならそれが孔子が目指した理想でもあり、私たちをはじめ地球に生きているすべてのいのちを奥深く見つめ感謝し哲学する生き物たちが目指すところだからです。

例えばあのクジラやゾウなど、脳にシワが沢山刻まれている生き物たちのシワは私たち人間のように余分な知識を詰め込んでシワが多いのではありません。非科学的だと笑われるかもしれませんが、あのシワは思いやりや真心を伸ばしてきてついたシワです。樹木であればあの年輪こそがシワなのです。そしてあのシワはいのちの徳性を伸ばした生き方や哲学によって深く思いやりを学んでいる証拠だと私には思えます。

家族を大切にしたり、他の生き物たちを大切にする、その思いやりの心がまるで太陽や月、地球のような偉大な慈愛慈悲を持てるようになってはじめて「万物の霊長」、つまりは「いのちの徳性」を伸ばしたものというのでしょう。

私たちが本来、磨かないといけないものは単なる能力ではないように思います。それはあくまで付属的要素であり本質ではありません。私たちがこれだけ自由に地球の中で生きることができることに感謝するなら私たちに与えられている大きな使命をも同時に感じなければなりません。

能力ばかりで他を裁き押さえつけ排除するのではなく、思いやりの心で他と共生し他を活かすことを本懐や使命にすることのように私は思います。

孔子の言う、「万物の霊長」として恥じないように他の偉大な生き物たちの思いやりを尊敬し自らの真心、「いのちの徳性」をかんながらの道の中で磨いていきたいと思います。