古い友人

久しぶりに古い外国の友人に会っていると色々なことを思い出します。こちらから連絡が取らないでいると疎遠になりますが、いつも連絡をくれて一緒に会いたいと思ってくれるのは本当に有難いと思います。

古い友人といえば以前、「ゆるす言葉」(出版イースト・プレス)というダライラマ14世の著書にこう書いてあったことを思い出しました。

「私は誰と会おうと、古い友人として迎えようとしています。このことが私を本当に幸せな気持ちにさせてくれるのです。これが、思いやりの実践です。」

どんな人に会おうとも、それは自分にとって大切な古い友人であるということ。ご縁を大切にする一期一会の真心の実践に生きる姿から敵も味方もなく愛するということの偉大さを感じます。

またこの本は「ゆるし」に関することばかり書かれていますがいくつか紹介します。

「ほんとうの意味の思いやりは、まず自分自身に対して向けられるべきものだと思います。まず自分自身に思いやりを持ち、それを周りの多くの人たちに向けて広げていくのです。つまり、自分自身を忌み嫌い、嫌悪しているような人は、他者を思いやることなど不可能なことだからです。」

自分を愛するように人を愛せて愛を循環することができるということなのでしょう。自分を素直に愛するには正直に生きる実践が思いやりを育てるのでしょう。

「ゆるしの気持ちを身につければ、その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、「自分を自由にする手段」です。」

自分を自由にするというのは、一生懸命に真摯に生き切るということです。なぜなら人事を盡すのならばそこに悔いはありません。悔いがないということは、全力を出し切ったのだから後は天にお任せしますという謙虚な心になるからです。思いやりでいる、思いやりのままで居続けるというのが自分を自由にする最善の方法そのものだと私は思います。

最後に、経済のことや大義についても語られます。ここに今の社業の命題もありますし、世界が今、置かれている最重要課題について書き記されているので紹介します。

「経済は大切です。しかし、人間性はもっと大切です。人権や環境問題など、経済より大切なことはたくさんあります。利益を求めてビジネスの世界で関係を築いているときにも、大義を見失わないことが肝心です。」

平和を愛するということがどういうことか、子どもの周りにいる私たちだからこそ常に身を引き締めて実践を高めていきたいと思います。

徳~恩沢洪大~

実りの秋のことを思い返していると、如何にこれが天地人の恩恵によって得られているかを実感します。御米だけではなく様々な作物もそれを一緒に食べる家族のことを思っても、如何に多くの自然やご縁に佑けられているかを思うのです。

そもそも今の自分があるのは、先祖の遺徳があってこそです。この身体もこの感情もそして心も、また名前から住居、関わりにいたるまで目に見えるところから目には観得ないところまで私たちは祖神や先祖の恵みによって存在しているわけです。

恩沢洪大な徳は、あまりにも大きすぎてまるで宇宙や地球のように当たり前すぎて実感することもなくなってきたかもしれませんが確実にその恩恵をいただいて私たちは今、生き活かされています。

そういうものを忘れて自分の代のことだけを考えて欲に任せて今を貪ったり、恩恵を自分が全部使い果たすような生活を続けたらそのうちその徳がなくなり、自分の代だけではなくその子孫にまで影響を与えてしまうように思います。

今の収穫だけを求めて農薬や化学肥料をまき続け与え続けた土地が枯れて砂漠化していくように、徳を忘れて今だけを凌ごうとすれば自ずからその徳恵は消失していくのでしょう。これは生き方の問題で、如何に恩徳を実感して感謝でもっと恩返しをしたいと願い祈り実践しているかで本来の今との正対が決まってくるのです。

豊かな人というのは、ものを持っているから豊かではなくその恩徳をいただいていることに気づいて御恩返しをしたいと願っているから豊かなのです。お役に立つのも自分のためではなく、自分がいただいているのだからその恩沢洪大な徳を周囲へと恩を送りたいという人が真に自然に沿った生き方をしているともいえるのでしょう。

二宮尊徳の「仕法書」の中で、下記の言葉が遺っています。これは真に豊かな生き方を照らす時にとても大切で、本来の貧富の本質を捉えています。

「人は諸々の恩沢を受けているのにもかかわらず、その恩沢に報いないことがある。徳に報いようとしない者は、自己の将来の幸福のみを考え、自己が受けた恩徳を大切にしないので、結局地位を失い、自己の徳をなくしてしまうのである。逆に恩沢に報いようとする者は、自己の幸福を後回しにして、祖先の丹精を大切にするので、地位を受け継ぎ、富貴を失うことがない。徳に報いることを何よりも優先すべきである」

そして「徳に報いることは百行の長、万善の先」であると言います。

何より、不平不満を並べては境遇を嘆くよりも本来の徳があることを自覚しているか、そしてその徳に報いているのかと自問自答するのです。そのうえで、何よりも徳に報いる実践をするのが何よりも先ではないかと諭すのです。

すべての善いことよりも先にあるのが徳、そして何よりの行いよりも長けているものが徳なのだということです。徳は利己的であるほどに気づきませんが、利他に生きればすぐに実感できるものです。

自分が与えてもらった徳を如何に活かすかはその人の決心次第です。

徳に感謝し恩に報いる生き方を大切にしていきたいと思います。

豊かさのモノサシ(豊かさの観念)

時代の価値観もあり、豊かさにもいろいろな価値基準があります。

例えば、人は持っているかもっていないか、多いか少ないか、早いか遅いか、高いや安いか、ある基準をもとに損か得かというように何かと比較することで物事を評価します。自分がどのように評価されているか、誰かをどのように評価するかはその人の自覚している価値観によるものです。

間違った豊かさを一度持ってしまうと、いつまでも自分に自信を持つことができなくなります。逆に真の豊かさと持つ人は、常に謙虚で確固とした自信を持っています。

つまりは豊かさには豊かさの観念(モノサシ)があるのです。その本人が豊かさの観念がどうなっているかで実は貧しかどうかが決まるのです。たった一人の自分の人生ですから周りと比べる自分ではなく、誰しも真の自分を持つ必要があるのです。

例えば貧しさというのは、もしも物質的なものだけになればお金持ちよりもずっとお金持ちがいますし、自分よりも多くのものを持っている人はいっぱいいます。それにそういうものさしで持ってしまうと一度得たものを失うことの怖さを持たなければなりません。ないものねだりをしているとそこには常に貧しさがつきまといます。足るを知るではないですが十分いただいているという実感を持つには謙虚さが必要です。

またそれとは別のモノサシで真の豊かさがあります。それは精を出せることが有難いと実感していたり、誰かと一緒に働ける幸せを噛みしめたり、体験をさせていただけることの尊さに感謝していたりと、自分が豊かであることに気づいているのです。まるで道楽をしているかのように無尽蔵の豊かさを味わっているのです。

つまりここで言いたいのは、「自分が豊かであることに気づかない人、自分が豊かであることに気づいている人」、そこには真の豊かな生き方があるかどうかがあるのです。

真の豊かさとは単に物質的なものでは得られない歓びを持つ人、言い換えればみんなが幸せになることを祈りながら自分が活かされることに喜びを持つ人、「みんなと一緒に」生きることを愉しめる人が真に豊かな人ではないかと私は思います。

そのみんなをどれだけ”丸ごとのみんな”にするかが豊かさの観念(ものさし)だと思います。マザーテレサにしてもガンジーにしても、清貧のところばかりが評価されますが実際は清富であったとはあまり人に言われることはありません。かの二宮尊徳も同じく終生で集まった報徳金は藩の財政を大きく超えるほどのものだったといいます。しかし本人の生き方は大変豊かであったと思います。

そしてその二宮尊徳が遺した言葉に「心田を耕す」というものがあります。

心が豊かであれば、精を出せる幸せに生きれるならばその無尽蔵の心の田んぼから多くの実り(御法)が顕現してくるといいました。心の豊かな人とは、貧しさがないのです。

心を豊かにするには、徳を積んでいかなければなりません。それは全体のために丸ごと信じて自分を活かすような実践を積み重ねていくことのように思います。生き方がそのままの働き方と仕事になるような大転換が必要です。

本来、私たちがいただいている結びが真の豊酬ですから私たちの「結豊酬」とはそういう天からすべにいただいているものに感謝していますかという意味で実践をしているのです。感謝を忘れればそこにもう真の豊かさなど存在しません。常に謙虚に素直に道を歩んでいきたいと思います。

本物の技術~徳技術~

昨日のCNNニュース(2014.9.21)で中国の人たちが米国のトウモロコシの種を盗んで問題になっているという報道がありました。この理由は、近年トウモロコシの輸入や生産が多くなっている中国国内用の需要のために必要だからとのことです。そのために長い時間かけて研究された遺伝子組み換えし交雑された種と干ばつや害虫に耐用しているテクノロジーを安易に国内の生産に実用したいようです。米国もその技術が盗まれないように国家をあげて機密保持に取り組んでいるようです。

急な経済成長と人口増加に環境や食がついてこないから需要が急増している分、誰かにとってはビジネスチャンスなのでしょう。しかしこの出来事全体に何か視野の狭さと短さを感じてしまいます。

そもそも、最初にこの技術について思うのですが米国では長年土を痛めつけるような農法を行い、地下水脈をあるだけ使い切り、農薬を散布し害虫を駆除してきたことで酷い干ばつが起きているといわれます。干ばつが起きれば農業は打撃を受けますから、その干ばつに耐えるだけの作物を遺伝子組み換えによって育てます。それでも酷い干ばつの場合は、さらにそれに耐用する種を育てます。まさに、気が付けば見た目はトウモロコシでも中身は別物になっているかもしれません。

また害虫といっても、いつも虫を全滅させているからお互いに食べる相手が見つからず一つの種類だけが大量に発生することで害虫になるのです。自然界のバランスを崩しておいてそれを人間の思い通りにしようとするテクノロジーをばかりを優先してきたら干ばつが急激に発生して砂漠化が進んでいるのです。

中国も急な経済発展で北京の周りには工場が増産され、今ではPM2.5をはじめ様々な化学物質が都市の空を覆い、年に晴れ間が実感できるのも2,3日ほどとのことです。砂漠も年々首都に近づいてきていますからこんな状況をまた打開するために人間都合のテクノロジーを駆使しても焼け石に水なのです。

先祖や祖神は、とても長い目で広い視野で物事を捉えました。目先の欲望を優先したらどういうことになるかを戒め、いつも自然とのバランスを優先してきました。私たちの存在が自然の一部であることを忘れませんでした。人間だけがいる世界だとは思っていませんでした。

気が付けば、人間だけがすべてかのようにふるまい、周りの生き物たちのことを思いやらず、自分たちだけに良いようにと競争しては奪い合い、自分勝手な正義を振りかざしてはさもそれが絶対かのように思い込んでいます。そんな中で生まれてくる最新の技術というものは、すぐに人間の思い通りにできる技術のことです。果たしてそれが本物の技術なのかと思えるのです。人間だけが認める技術など、たいしたことはなく、それはむしろ小手先の便利な技術のことです。

本物の技術とは、自然が認める技術です。それは悠久の時を経てもいまだに褪せないか、自然全体を活かしているか、無理をせずに自然の道に沿って謙虚に人間が生きようとするか、そういう技術です。

私はそれを徳技術と呼びます。発酵もその徳技術の一つですし、杜づくりや治水も同じく徳を重んじます。今の時代のような徳を重んじない技術はすべて人間都合です。何が徳かではなく、何が得かの時代ですから技術もまた得する人たちによって奪い合いその技術が適応されていくのでしょう。

本物の職人がいなくなってきたのも、そういう得を社會が重んじているからでしょう。短期的にはメリットがあっても、長期的には大変なデメリットになると知っていてもそれを誰かがやれば我先にと飛びつくのが流行というものですから、いつの時代も不易と流行は変わらないのです。

中国の古典、「易経」に、「時流にのる者は時流によって滅ぶ。君子は時流にのってはならない。時中しなければならない。」にありますがここからも不易と流行に時中するのが徳に根差しているということが分かります。

長くなりましたが、今こそ「徳」というものがなんであるかを研究する必要があると思います。孔子は論語を通して為政者のための学問を実践したといわれます、為政者のためとはなぜか、それは政治が悪なのではなく政治を行う人間を善くしようとしたためです。

その政治を善くする人間を育てる人間学には何よりも徳を重んじます。以前、致知出版社を訪問した際に社長から「徳」と書きなさいと言われたことが今ではしみじみとその意味の深淵さに触れています。

人間がどうなっているかで、その技術も変わるということがこれではっきりしたように思います。人間が自然のバランスを維持できていた時のような本物の技術が消えていく昨今にとても心苦しく子どもたちのことを思えば嘆きたくなります。

しかしだからこそ、自分たちが正しくその文化を継承していけばそれを拾ってくれる人もいるはずです。思い出せなくなるくらい目先のことに流されてしまわないように、地に根差し自然から学ぶことを忘れないでいたいと思います。

本物の技術は人を救うだけではなく、世界を救う技術なのですから。まだまだ研鑽を積み、今の人たちが価値がないと捨てた技術を太古に思いを馳せて拾って広めていきたいと思います。見守るという信の技術もまた今の時代に必要な技術です、一緒に実践し深め広めていきたいと思います。

真の発酵人~地球が喜ぶか~

人間の腸内には今わかっている範囲で100種類以上、100兆以上の膨大な微生物が生息しています。その微生物群の状況は、人間の指紋と同じく一人ひとり同じものはまったくないといいます。つまり、その人の体の状態に合わせてバランスよく微生物が配置されているということです。

この微生物たちが人間を活かしているのは、この微生物が食事をしたものを消化して発酵することで人間のエネルギーに転換されるからです。これは植物の根粒菌と同じく、土の栄養も根っ子の微生物がいなければエネルギーに転換されないように人間の根も同じく腸の微生物が栄養を転換しているのです。その根粒菌が死滅すれば植物が死滅するように、人間の腸内細菌が死滅すれば同じく死滅するのです。

その腸内細菌は、常にバランスを維持しています。健康も不健康も、その人の腸内の微生物の環境によって左右されていきます。よく生活の立て直しは、食の立て直しからといわれる所以もまたその腸内のバランスを立て直すことをいうのです。

先日、ナショナルジオグラフィックのニュース(「Nature」誌オンライン版に9月17日)で興味深い記事がありました。

「「ただより高いものはない」という言葉があるが、最新の研究によると、“カロリーゼロ”食品に使われる人工甘味料にも当てはまるようだ。イスラエルの研究チームは17日、サッカリンなどの人工甘味料は腸内細菌を変化させて血糖値レベルを引き上げる可能性があると発表した。砂糖の代用品である人工甘味料が、避けるべき状況を逆に招いていることになる。」

これは砂糖も人口甘味料も同じく、腸内細菌のバランスが炎症に傾き血糖値を変化させてしまっているということです。結局は添加物というものが腸内に与えている影響がとても大きいということを結論付けます。

今の時代は、日常は意識していませんが今の日本では年間平均4キロの合成添加物を摂取していることになっています。これを10年続ければ当然40キロ、20年では80キロというように自分の体重を超えるほどのものを摂取し続けているのです。

ひとたび合成添加物が入ってくると乳酸菌よりも、その添加物を分解吸収しようと日頃は日和見でいる菌や敢えて炎症を起こすような悪玉菌が活動してエネルギー転換しようとします。そうすると腸内のバランスもまた崩れ、それが人体に影響を及ぼし調子を悪くしてしまうのです。

昔から日本人が大事にしてきた「菌食」というのは、乳酸菌発酵食のことです。菌食をやめれば心身のバランスが崩れると言われるのもその理由からです。昔から大事にしていた味噌汁などの麹、漬物などの乳酸酵母菌、玄米などが持つ玄米発酵などをやめて安易にお菓子やコンビニで買えるようなもので代用するから心身の調和が保てなくなってきているのです。

体というのは心と密接で、病気になれば体だけではなく心にもダメージを受けますから心を健康にするのは体が健康でなければなりません。心身を健康に保つというのは、食生活を改善するということです。そして食生活というのは、言い換えれば生き方ですから生き方を改善するということになります。

眼には見えないところで、私たちは微生物たちのハタラキによってこの体を動かしていくことができます。微生物たちがエネルギーを細胞へと送り届けて体を動かすことができます。細胞の中のミトコンドリアも核がありますから元は微生物だったのではないかと私は思います。

つまりここから導き出される推察では私たちの体はまるで微生物そのものということになります。人間の便1グラムに100~1000億の微生物ですから毎日排泄するということは日々に膨大な微生物が役割を終えて一緒に排泄され続けているのです。そう考えてみても微生物を殺すような抗生物質も、洗剤も薬品も、それがまわりまわって自分たちの体を痛めつけていることを忘れはいけません。

なぜ人工添加物がよくないのか、なぜ抗菌農薬がよくないのか、これは自分たちの体が何でできているのかを自覚すれば自ずから自明すると思います。

微生物たちが喜ぶものを日頃から摂取していくというのは、いつも微生物の御蔭て活かされているという感謝の気持ちを忘れない実践になります。日頃目には見えないけれど、確かな存在に活かされいる、見守られているという謙虚な心があることでまた微生物もお役に立ちたいと真の発酵をしてくださるはずです。

眼には見えないものへの感謝を忘れるとき、人は発酵しなくなるときなのでしょう。腸内の微生物を並べたら地球2周半ほどの長さになるそうです。私たちの中に膨大ないのちを活かしているということは、地球が私たちを活かしているのと似ています。地球が喜ぶ生き方かどうか、これは真の発酵人につながる思想ですが私もそれを体得していきたいと思います。

善き捨て拾い

人にはみんな何かしらの欠点というものがあります。何かの長所が突出すればするほどに、その反面何かの短所も突出していくものです。長所がせっかくよくてもその短所を庇おうとしていたら、結局は平均的にどちらでもないものになるだけです。

人は欠点があることを認めることができるから、徳性を伸ばしていくことができるともいえます。

また自然界には共生があります。これは自分の持っている特性を最大限に活かすために敢えて捨てるという戦略です。自分にしかできないことに特化するには、それまでに自分がやっていたことを諦めて他を信じて任せていかなければなりません。運命共同体のように、お互いがその機能を捨てる、そして捨てたものを拾う勇気がいるのです。

その勇気は、大変な覚悟でありもう二度と捨てたものはもとに戻るわけではありません。そして拾ったものは二度と捨てることはできません。捨てる神あれば拾う神ありというのは、私の持論ではどちらも神であったということです。つまりはそれだけの真の絆を持ったパートナーであったということです。

本田技研の本田宗一郎と藤澤武夫という人物は、お互いを深く信頼しあい、お互いの持つ長所に互いに専念しました。そしてお互いに捨てたものには掣肘しないという覚悟を持ち、ともに自分を活かしきることに専念しました。

これはその方が自分を活かせるということであり、短い人の一生に於いて自分が最もやりたいと思うことに専念するという腹を割って腹を決めてご縁を結んだのです。自分がしなくてもいいことを自分がしていたら、一つごとに集中することができずエネルギーも分散します。また全部のことを自分で全部握りしめていたらあれもこれもとやっているうちに身動きもまたできなくなります。

本来、人の使命というのは有限な人生の中で何をもっともやり遂げたいかということにかかっているように思います。そしてそれをやり遂げたい人たちが運命の出会いをすることで、互いに活かしあうことができるように思います。

そうして活かしあった魂に人々は感動するように思います。

欠点を一生懸命に埋めて努力しようとする生き方よりも、欠点を受け容れてその欠点は周りの人たちに助けてもらおうとする生き方。欠点を悪いものと決めつけるのではなく、それだけやりたいことや得意なことがあるということへの目覚めがいるのでしょう。

まだまだ私自身、捨てられないものに苦しみ拾えないことに苦しみ、自分の使命を存分に発揮しようとしていない自分自身の刷り込みが払えず悩み悶えています。もう今まで何人の人たちがそれを私に伝えてくれたでしょうか。もう何人の人たちが命を懸けてそれを示してくれているのでしょうか。もうこの刷り込みに向き合って長い年月が経ちすぎて、いつ頃から悩んでいるのかさえ忘れてしまいました。

そろそろ機が熟してきているように思います。

やりたいことがあるのを知って駆け付けてくれた仲間たちがあることにより一層の自らの使命感を感じます。今まで身に着けてきた中での最大の刷り込みをまさに乗り越えようとしています。今回の気づきは、たくさん人たちの勇気になることでしょう。

今一度、正対し、身近なところから善き捨て拾いをしていきたいと思います。

視野とは何か

人は同じ実践をしていても、その実践の徳があります。何のための実践なのかというのは、実践が本質的かどうかということです。

以前、田舎の小さな村に宿泊したときに早朝にお坊さんが鐘を鳴らす音が村中に響いていました。毎朝、同じ時間に起きて毎日、同じように鐘を打ってくださっています。これを村人たちは毎朝聴いてから目覚め一日を過ごします、そして夕方また同じ時間に鐘を聴くのです。これは単に時間を知らせているのではないことはすぐに察することができます。

無事で一日が過ごせて無事に一日が終えることができた、その有難い見守りに感謝しているということです。

しかし、仮にその鐘を打つ人が自分が鐘を打ってやっているんだという気持ちで打っていたらどうでしょうか、ひょっとしたら朝から煩いなと村人は感じるかもしれません。実際はそんなことはないのでしょうが、きっとお坊さんは今日も私が鐘を打たせていただいている、心を澄ませてその感謝報恩をしていきたいと「実践」しているのでしょう。

つまり実践というものは、自分がやっているという傲慢な感覚ではなく、有難く自分がさせていただけるという感謝で行うことが実践の本質なのです。

実践風というものは、どこか実践までも自分だけのものにしてしまいます。本来、実践とは自覚があってのものです。自分の存在が多くの人たちのお役に立っているという自覚、自分の体験はたくさんの方々のためになっているという自覚、つまりは自分は「何ものかによって活かされている」という自覚をもってはじめて実践が正しく行えるように思うのです。

謙虚な心がなければ、素直な心でなければ、周りから活かされているという自覚がありません。周りに迷惑をかけても気にならない人というのは周りを意識することもありません。礼を失し、思いやりに欠け、常に行動が自分中心になってしまいます。

よく考えてみなくてもすぐにわかることに「健康」がありますが、毎日健康で過ごさせてもらえることだって決して当たり前のことではありません。親からいただいた大切な身体、祖先や天から分けていただいた徳で生きていることができています。よくよく「見渡して観直せば」如何に自分が多くのものに恵まれ満たされていることに気づくはずです。それもすべて決して当たり前のことではありません。

そういう気持ちを常に忘れないことが謙虚素直の体現である「正直な実践」につながっていくように私は思います。

自分でいっぱいのときは周りの感謝が観えなくなるのが人間です。だからこそ自分の人生体験は常に誰かの励ましになっている、自分の存在が誰かの支えになっているという「リーダー(主人公)としての自覚」を持つことで視野もまた広がっていくと思います。

視野が狭い人はどこか自分を存分に活かせていないように思います。視野が広い人はいつも真心で自分を活かしていくことができています。仕事でも、仕事をするという意識と、仕事をさせていただけるという意識では、働く愉しさも仕事の歓びもまた変わってくるのでしょう。

どうせ実践するのなら、その実践が御蔭様を感じる自分の真心でたくさんの方々の見守りになるようなものにしたいものです。

最後に先ほどのお坊さんの鐘ですが、きっと村人たちはその毎朝の鐘を一生涯ずっと聴き続けているうちにいつの日か心にその鐘の音が永遠に響き渡るようになるのでしょう。その日常の当たり前という偉大な御蔭様の有難さの徳の実践に感化され村全体が自然に心から感謝できるようになるのでしょう。その陰徳は、いつまでも心に鳴り響き、そのお坊さんが年老いていなくなってまた次の世代の新たなお坊さんになっても実践が続いていく鐘に「自分たちはいつも偉大な存在に見守られている」という自覚を互いに持てるようになっていくのでしょう。

見た目ばかりに捉われ察する力が減退してきた現代だからこそ、人間としてこうありたい、こうでいたいという自分像をしっかりと自覚して精進を積んでいきたいと思います。

私の夢2

日本という国は古来から運命共同体の世界に生きてきました。しかし明治維新前後から個人主義という名の自然と切り離された人間都合の価値観を教え込まれ、そこから自然と切り離された考え方を持つようになってきました。

何度も誰かによってどちらかに都合が良いように、右か左か、上か下かというように偏った考え方で統一しようとし、昔のように間をとり和やかな距離感で暖かく見守ろうとするゆとりの心も薄れてきているように思います。

そもそも昔の私たちはすべてを搾取しつくしてその場にものがなくなれば移動しようなどという考えはありませんでした。風土に産まれ風土に住んだ私たちは限りある資源であるという自覚を持ち、その限りある資源を大切に慈しみながら分けていただこうという謙虚な心がありました。

それは里山や森との共生にも言えることで、里山では生態系が循環してどちらか一方が減らないように全体に善い影響を与える生き方を目指しましたし森では木を伐採すれば同じだけ木を植えました。他にも今ではアメリカで地下水が枯渇してもう農業ができなくなってきましたが、日本では水田をたくさんつくり地下水が枯渇しないようにと工夫してきました。

常に自分だけの視野で物事を裁くのではなく、自然を畏怖し全体の視野を優先し物事と調和するような生き方をしたのです。

これは言い換えれば、運命共同体である自覚であり、私たちは一緒に生きて一緒に死ぬ存在であるという仲間意識のことでもあるのです。人間だけが特別だと勘違いし、自然にあるものを我が物顔で蹂躙していくというのはあまりにも思いやりがなくなっているように思います。

いのちというのはそれぞれに大切で、先住民がいるならそこに先住民の暮らしがあります。また自然の場所にはそれぞれに先にそこで長く暮らしていた他のいのちが存在しています。

そういうものを人間の都合だけを優先して排除していけば、必ず悲惨な出来事が待ち構えています。

昔は親が子どもに背中でこれらの自然と一緒に生きていくことを伝えていました。ものを大切にすること、ものを粗末にしないこと、ものに感謝すること、そして思いやりを忘れないこと、そういうものを一つ一つの暮らしの中で生き方として伝承してきたのです。

そういうものがなくなっていくことで今までのご縁が途切れ、周囲の仲間たちとの関係が希薄になり、竟には存在すら思い出さないというのはあまりにも悲しいことです。

昔はものが今のように豊富になくても、慎みながらもあたたく仕合せな社會がありました。それは相互扶助の世界です。相互扶助という仕合せは決して人間のみであるのではなく、お互いが思いやりでつながっている世界を実感することができた社會です。

心の安心感、心の幸福感は、このような相互扶助のつながりの社會でのみ本質的に実感できるように思います。子どもたちに私たち大人が与えている安心感と幸福感は、「人間のみが特別の世界で行っている中でしか味わえない」としてはこれはとても将来に危うい憂いの種を蒔いてしまうと心から思います。

自然の中で運命共同体として生きることが、自然の一部として私たちを存在させ、その中で使い切りゴミをうみだすのではなく、すべての生き物たちが循環によって活かされるような世界と社會にしていくことが私の願う夢なのです。

自然社會の究極の仕合せは「循環社會を人間が自然の一部として実現すること」です。私が子ども第一主義にこだわるのは、この循環を取り戻すために必要だからです。子どもに何を譲るのか、そこに真のポリシーがあってこそ大人としての役割が果たせるのでしょう。

引き続き、夢を語りたいと思います。

 

私の夢

一人一人の人間には必ず何かの才能を天が授けているともいえます。それが個性というものです。しかしそれを開花させるには、自分を信じてあげなければならないように思います。

子どもの頃から、様々な知識を教えられて周りを比較され競争し画一化されていく中で人は自分のもっている才能が何かに気付かなくなっていきます。

本来、何もしなければ自ずから周りもその人も才能に気付くものですがなんでもできるようになってきてから余計にそれがわからなくなってくるものです。

そしてその才能とは、集団や社會の中で多様に使われ用いられるものです。自分が何に向いているのか、自分が何をすることが最も皆の役に立つのか、それが考えなくても自然にできるのならこんなに仕合せなことはありません。

人間の仕合せというものは、お互いに必要としあう関係になった時です。言い換えれば運命共同体になれたということです。自然界ではそれを共生と呼びます。

共生関係が結べるとき、生き物たちはその出会いに感動して自分の才能が相手に必要であると確信し互いに力の及ぶ限りに自分を生き切っていこうとするのです。

人間は、こうでなければならないと無理に自分を抑え込み我慢したことで自分のことがわからなくなってきました。特に同じ成功を求められ、幸せの形を刷り込まれ、平均という価値観を植え付けられることで余計に自分の才能のことに気付けなくなりました。

そのものがそのものでいいというのは、自分が天から授かった才能があると信じ切ることです。信じ切っているからこそ、それをやり遂げたとき、世界はその人の生に魂が揺さぶられ感動するのです。

李白にこういう言葉があります。

「天生我材必有用」(天、我が材を生ずる、必ず用あり)

天が私に才能を授けてくださった以上、必ずこれを何かに用いる使命があるという意味です。

私が一番何よりもかんながらの道で夢とし希望とするのは、人間が自分のやりたいことを見守ってくれるような社會を育て上げていくことです。子どもたちが、好きに自分の才能を誰かのお役に立てるような社會を醸成していくことです。

八百万の神々は、誰も否定されずそれぞれに理由をもって大切なお役目を果たしていきます。もしも三つ子の魂が百まで生きるのなら、それほど私にとって仕合せなことはありません。

なぜ発達を邪魔したくないのか、それはその人の仕合せを願うからに他なりません。社業の理由をそろそろはっきりと世の中へ打ち出していこうと思っています。

体験~人生二度なし~

人生には一切の無駄がないという言葉があります。これはなぜそうなるのか、その意味を深めてみます。

人は必ず自分の体験が誰かのお役に立つようにできています。それはその時は感じていなくても時間が経つとあの体験がなければ今はなかったというような感覚を持つようになるからです。

そしてこれはその人個人の体験に限らず、その体験を必要とする人に巡り合い、その人が自分の体験を糧にその人の人生に役立てるからです。

この体験が尊いというのは、もともと人間が分かれていない存在であることに立脚しています。人間はつながっている存在です、それは歴史を観れば必然ですが分かれているものは本来何もないのです。

だからこそ自分の体験は必ず何かとつながっているし、自分の人生体験は必要だから発生しているともいえます。だからこそ自分の体験は他の人たちの体験にもなっているのです。

自分の人生を一生懸命に生きる意味とは、それがお役に立てると信じているからです。自分一人だけの世界で物事を見てしまったら、お役に立つという観念もまた自分の都合で考えてしまうかもしれません。しかし八百万の神々といった全体から自分を省みれば、存在そのものが大いに役に立っていることに気付くのです。

それ故に人は役に立ちたいと強く願うのです。本来の役立ちというものは体験を大事に自分の使命を尽くしていくことのように思います。

言い換えれば、体験そのものをどれだけ充実させているか、体験させていただけることに感謝しその体験を如何なる高みにまで昇華させるかということでしょう。

何気ない日々も体験ですが、二度とない一期一会の日々もまた体験なのです。体験そのものが役立ちだと気付くことができたなら、人生に無駄がないことにも同時に気付けるのです。

無駄がない人生だからこそ、体験を大切にしなければなりません。

どんな体験もそれはかけがえのないご縁ですから、そのご縁が結ばれていく世界に存在しているのだから無駄にはしないという覚悟もまた必要なのでしょう。

結果を求めるのではなく、どれだけ真心を籠めて生きたか、どれだけ至誠を盡して生きたかというのが体験させていただいたことへの感謝の現れなのでしょう。

正に人生二度なし、二度とない出会い(体験)を大切にしていきたいと思います。