共通する存在に気づくこと

自然農とベランダガーデニングを一緒にして探求していたら気づくことがある。

いろいろなことを対比しつつ実験しているとその時の自分の心境に気づくのです。

例えば、自然農をするときの私の心境は種を蒔いた後は色々と大丈夫だろうかと心配するけれどきっと善いことになるだろうと、もともとその種が持っている生命力や自然の叡智、天の采配を信頼してそのものが自立できるように見守っています。

この時は何もしないことの方が幸せを感じて、何もしていないのに育つのはなぜかと思えば育ついのちへの畏敬の念や、自然の親心を味わっている自分がいるのです。

そしてもう一つのガーデニングのときの心境は種を蒔いた後は自分とその種との関係を感じながら手を入れてこちらのイメージしているように順調になるように水をあげ剪定し、バランスがよくなるように繊細に関わっているのです。

この時は、お互いが密接に関わっていることの方に幸せを感じて、自分がイメージしたようになるのはなぜかと思えば自らが愛情に応えてくれるといった繫がりを味わっている自分がいるのです。

天の道理と人と道理というものがあるのでしょうが、昨今の教育や福祉と分かれているところにも似たような真実があるように思うのです。

どちらをやってみてどちらが正しいと言い争うことはあまり意味がありません。

そもそも違いを語るよりも、両方やってみてそれをどちらも実感したならば真実が一つであることにそのうち気づくことができるのです。

天も人も同じであるという天人合一というものは、どちらにも存在している確かなものがあるのを実感することができるからであるように思います。自然と一体になって生きるということには、そもそも分別されたものはありません。

そのどちらにも天の心を感じられる自分の心境があるからです。

世の中の真実は常に共通したところにあるように思えます。
まだまだ引き続き、実践しつつ学問を深めていこうと思います。

経験よりも体験の集積

人は日々に色々な出来事を通じて学んでいくものです。

そしてその学びというものにも、経験というものと体験というものがあるのです。

経験というものは、起きた出来事をそのままにこんなことがあったからどうだったと自分自身で考えている状態のことを言います。しかし体験というものは、起きた出来事は一体何だったのか、これはどのようなことを教えてくださっているのかと感じている状態のことを言います。

つまり経験は誰でもしますが体験をしているとは言わないのです。

自分にとって良かったか悪かったかと思っている範囲ではまだそれは経験でしかありません。よくエピソード保育などと言われますが、その経験をしたからといってそれが何なのかというところまで感じることができていなければそれはあまり真の学びにはなっていないのです。

本来、学びというものはその出来事が良かったか悪かったではなく、成功したか失敗したかではなく、その経験を自らで深め味わい実に尊い体験をさせてもらったと謙虚に感じて意味に感謝するときはじめて体験できているといことになるのです。

私も一日を毎朝、毎夕、振り返り、とても素敵な一日であったと内省するとき、自分に与えてくださった尊い体験に何度も手を合わせることがあります。そんな時、この体験が持つ本当の価値や、この体験が示唆してくれる自分の学問に何よりも歓びと感謝が湧き上がってくるのです。

人は、誰でも人生は同じように経験を積むことができます。しかしその感じ方は十人十色です。

一度しかない人生を、経験だけ積んで何でも出来事がうまくできるような人になりたいのか、それともそれを貴重な体験に換えてそれを積んでどんな出来事からでも学べる人になりたいのか、これは明白なのです。

だからこそ、どんなことも常に深く味わいこれは何が起きているのだろうかと振り返り心の眼で見て感じて経験を体験に換えていくことで人生は無二の安心感に包まれていることに気づけるようにも思うのです。

心を高め魂を磨くには、どんなことからも学ばなければなりません。

有難い体験をさせていただいているこの今に、この見守りそのものに何よりも感謝しています。

 

自然の叡智

自然農法で有名な方に、奇跡のりんごの木村秋則さんがいる。

10年間無収穫無収入でも絶対不可能と言われたりんご栽培に農薬を使わずに成功させた方です。今では、全国の農業指導で行脚してその思想や実践を世の中に広めている挑戦者でもあります。

もともと自然農というものは、自分の不自然に気づき、自分の都合でものを動かそうとする自分の内面の部分に光を当てていくものです。

相手や周りのせいにしようとしたら、すぐに楽な方を選択してしまいますし、観えないものを観ようとしたり、心で気付こうとしなければ結局は脳を通して目で見える仮想の世界に負けてしまうのです。この奇跡というのは私の定義では、心で信じた世界がこの世の中に顕われるという意味でもあるのです。

一般的な農家と、この本物の農家の差は何処にあるのか。

一般的な農家は、最初から思い通りにしようと思っているから農薬や肥料、自分にとって都合の良い場所や環境など全部人間側の欲求に合わせて取り組もうとするのです。そうしているから少しでも都合が悪くなると、便利な文明の利器に頼り自分の元々内在する信じる力や自然の智慧を活用しようなどとは思いもしないのです。

何か事があれば、すぐに思い通りにいかなかった理由を簡単便利なメソッドや道具で解決しようとするのです。先日もある園長がアユ釣りに行ったときの長野での話で、雹が降ったあと村内放送で「今雹が降って作物が傷むので皆さんはすぐに農薬を使って対応してください」とあって農家が全部畑にでて農薬をまいていたと聴きました。これなども、最初から道具やメソッドありきで、そもそもそれが何を意味するのか、そういうことを考えようとしません。

前回の大震災でも、震災後に仮設住宅と避難場所を確保したから大丈夫とありましたが何が大丈夫なのか、そこから何の意味があったのかまでは深めずに安易な対策を講じます。

これとは別に本物の農家は、最初から思い通りにはなると思っていないから自然に従い応じて自然に任せつつも、自然を学び、自然に智慧を得て、自然の一部であること、自然とのつながりのなかでそこからまた挑戦を続けていくのです。自分の思い通りにならないことも楽しみ、人ができないと思っていることを信じて取り組みそれを転じて自然と共に生きていくのです。

そしてそこから確かな意味を感じとり、そこからまた自分たちそのものを改善していくのです。

自然の叡智というのは、自然を征服使用や自然に勝とうといったものからは得られません。

自然はそれを受け容れるとき、そこから畏れ敬い感じるときに天啓が得られるのだろうと思います。そしてそれはどちらにしても、心で観ないと観えないのです。天というものや自然には、魂や心があります。

そしてそれは日々に自分の心が澄んでいたり、魂が磨かれていなければそれを実感することはできないように思います。それは自然には人間のような脳みそで簡単に裁くようなことをしていないから、もともと叡智や智慧の中で生きている存在であるからです。

何が賢いのか、何をもって頭が良いのか、天地が逆転しなければ自然農はできません。

そして何よりも人間に信念がなければこの農法はできないと私は思います。
子どもを見守ることも同じで、大切なのは心を澄まし心の眼を持つことだと思います。

大事なことや大切なことを見落とさないように、実践を心を籠めて取り組んでいこうと思います。

安心立命

人は誰でも生まれてきたときはやりたいことを持っています。

3つ子の魂というように、幼い頃は魂がむき出しになっているからそれを見守っているとその子が一体どうしたいのかがあるのです。

その子の個性や人格というものは、その子がこの世でやりたいことを証明しているともいいます。こういう生まれながらに持っているものを智慧ともいい、その後に次第に人は知識というものを観に着けて魂が分からなくなってくるものです。

そう考えてみると、やはり幼児期というものは大切でこの時期にどのように過ごしたか、どのように周囲がやりたいことを実現しているかを実感することはこの世で自分も同じようにそう生きることができると自信を持つことにも繋がるからです。

もともと人は自分の力で生きているのではありません。この身体もそうですが、呼吸や心臓の鼓動を含め、空気や水、光などといった周囲の御力で活かされているいのちともいいます。

こういうものを実感し、自分が何をしていればどのようになるのが自然であるのか、そういうものを体験することで子どもたちは後の自らの幸せを得ていくものだと私は思います。

幼い頃に、本物に触れるというものは、その子自身が安心立命できるようにするためにとても大切なことのように思います。

自分がどうしたいかと自問するとき、哲学をしそれを現実に化成するときに智慧が出ます。その智慧を感じることは、自らの魂の向かう先、その使命を実感することになるのでしょう。

常に答えは己の中から出づるものだと気づき、気づきを気づくようないのちの運びを謙虚に味わわせていただきたいと思います。

智慧の出逢い、魂の邂逅に深く感謝いたします。

自然体に生きる力

先日、カグヤの全体会議のお昼ご飯実践の団ランチにて自然農の野菜を皆で食べました。

これは肥料も農薬も水も使わず、種を蒔いて周辺の草を最初に敷いただけであとは一切なにもしていません。一般的には、耕したり水を毎日かけたりといろいろとして育てているのでしょうが、私の実践している今回の自然農の野菜は本当に全く何も手を出していません。

それでもとても立派に味の濃い、個性が光る素晴らしい実をつけてくれました。

最初はこんなにも楽でいいのだろうかと心配するほどでしたが、次第に周囲の草が生えすぎたり虫がたくさんつくとこれはこのままではダメなのではないかと心配になり、心境としていろいろと手を出したくなるのですが、それをぐっと堪えて信じて待つのです。

すると不思議なことが次々と起きて、竟には自然が色々な奇跡を見せてくれるのです。

一見、何もしていないと思われがちなこの自然農ですが何もしないで育つことはありません。自由放任と、見守るのは外見上は似ていますが内容はまったく異なるのです。

そもそも何か余計なことをしたがるのは、そのものの存在を丸ごと信じようとしないからです。

昨日もある園長とのお話の中で、園のある子が遺伝的に障がいがあり実際の年齢よりもゆっくり育つそうなのですが、保護者が「御蔭で子どもはこのように発達するのかと本当に子どもの発達が良く分かります」という話をお聴きしました。遅い御蔭で、親も長い時間、健やかに発達していく子育てを存分に楽しむことができ、発達を観て学び楽しむことができているのです。つまりその子はゆっくり育ちたい親もゆっくり育てたいと思って互いに生まれてきたのです。

つまりは、それにはそれの善さが必ずあるということなのです。

しかし人はつい不安からこうでなければならないと、否定的に物事を見たり、まだまだだと過小評価するのは、それでは善くないという考えに縛られているからのように思うのです。

そしてこれこそ真の刷り込みとも言うのです。

自然に育ててみると、如何に余計な事をしない方がいいということは善く分かります。余計なことというのは疑うということで、それは知識の先入観や自我欲があるからすぐに人は疑おうとしそれが余計なことを考えて問題ばかりを招いていくのです。

つまりこれで善いではないか、これが善いではないかと、自らの心が実感しているとき、そのものの善さが自然に光ってきます。言い換えれば万物の生命が必ず持っている徳そのものが、顕われてくるのです。そしてそれが自然体に生きる力というものではないでしょうか。

自然体に生きる力というものは、そのものを丸ごと信じる事で湧き出てくるように思います。
自然を観ていたら大切なことは生きる体格よりも、生きる体質を善くしていくことです。

自らの魂心体が健全であるかを内省しつつ、太陽や月や地球が余計なことを私たちにしていないように自然と同じ実践を重んじ、その先生から学びながらこの世で生きるという歓びを謳歌し味わっていきたいと思います。

灯台の炎

二宮尊徳の夜話に、灯台の話がある。

昔は海が荒れると下田の灯台に寄港して無事をとっていましたが、近くの別の岩場が多いところで火をつけわざと難破させて物品を奪う盗賊がいたとのことです。その盗賊のようになってはならないという話ですがこれは本来の灯台の使い方を間違っていると諭しています。

もともと灯台は、暗闇の中でもそこに辿りつけるように灯りを立てて迷わないように導くためのものです。

これは経営でも同じく、自ら定めた方針やビジョンを照らし続けるのは灯台の光を放ち続けるようなものです。世の中を見回せば、多くの刷り込みという暗闇の中で私たちは光を求めて歩み続けなければなりません。

特に新宿に住んでいると、夜のネオンの光が深夜まで明々とし自然の光はほとんど見えない程ですしまたどこに本来の星の光が輝いているのかすら夜空には見えません。

だからこそ心の眼で心に映る光を捉えるためにも、一度決めたビジョンや方針は灯台のようでもあるのです。

園の現場でも、一度決めたことを忘れ刷り込みに敗れ、せっかく変えようとしたことを元に戻そうなどということがあります。もちろん、そういう時こそ共に力を合わせて乗り越えていく必要があるのですがそれを聞いた現場は何よりも混乱してしまうのです。

自分が灯台だという自覚というものは、今のような時代を生きる上ではとても大切なことであろうと私は思います。灯台が、あまりにもうろうろとしていたり、点いたり消えたりしていたらみんなどこを向いていけばいいのか分からなくなるからです。

道を歩もうとするとき、それを照らす人の光をたくさんの方々へ観えるようにしていくことは一人でも多くの彷徨う人たちを正しい方へと実践で導くことになるのです。

一人一人が灯台になれば、みんながその灯台の光に気づきそこを目指してやってきます。

大切なのは、自分が灯台なのだという自覚を持つ人たちを増やしていくことのように思います。
常に自分から光るような人物になれるよう、不動の信念を磨いていきたいと思います。

道はひとつ

この業界に来て、様々な人たちを支援し共に仕事をご一緒していく中でいつももったいないと思うことがあります。

同じように子どものことを思って同じことを取り組むのに、派閥ができ、共にやろうとはせずすぐに構えたり、わざわざ距離をおいて近寄らなくなったりして、力を合わせないのです。

今は時代がまだ悠長なことをしていてもいいと思っていないはずなのに、実際に何かをやろうとするとすぐに自分の世界や自分だけのものにしようとした力が働くのです。

多くの人達が同じ道を目指すのならば、自分だけのものにしたいや、自分だけがよくなればいいという考え方ではなく、共に同じ道を手を取り合って歩んでいくのがいいように思います。

しかし実際は、そうではなくすぐに分かれてまた不利益な競争をするのです。
二宮尊徳に下記があります。

「天地は一物だから、日も月も一つである。したがって誠の道は二つはない。真理は万国同じであるはずだ。ただ真理を究めないのと尽くさないということがあるだけだ。それなのに諸道おのおの道が異なるとして相争うのはそれぞれが自分の領域を狭くしてお互いにへだててしまうためである。ともに三界域内に立てこもった迷妄の者といってよかろう。まず、この垣根を見破ってから道について論ずべきだ。垣根の中にうちこもった議論は、聞いても役に立たず、説いても益がない。」

意訳すると、太陽も月も一つであるように天地は一つのものでできあがっている。だからこそ真心や誠の正道も同じく二つと分かれてはいない。つまり真理は世界共通であるはずだ。ただ真理を究め尽くしていないだけの話です。それなのに、自分の方が正しいとそれぞれに道を歩んでいる人たちが争い競うのはそれぞれが自分の世界に閉じこもり狭くし互いに垣根をもうけようとするからだ。これはこの世の中で自我欲に負けて彷徨っている亡者といってもいい。まずはこの御互いの垣根を見破り、常に道について論じるべきだ。垣根の中に閉じこもった議論をいくらしても役に立たず、それをいくら説いても効果がないのだから」

とある。

それぞれ業界で著名な方や、自ら志を立て一本立っている人たちがなぜ力を合わせようとしないのか、自分の世界でのみやろうとするのか、何かしようとするとすぐにメソッドのようなものばかりが出てきたり、何かしようとするとすぐに人間関係に不信になろうとする。

子ども達のことを本当に思うのなら、自らの垣根を壊してほしいと思うのです。

私自身も、相手のそういう気持ちについ反対したり言い返したりとする気持ちが出たりもします。しかし本当に子ども第一主義を貫くならば、そういう妄想や妄念を見破り、もっと大胆に世の中をよくするために協力していきたいと思うのです。

自分自身も道を歩んでいることを忘れずに、実践とは何か、今とは何かを気づいていこうと思います。

 

源志の魂

何かの勝負の際に、人数が多いか少ないかというものがある。

よく会社でも社員数が少ないことがさもデメリットのように言われるし思い込んでいる人がいる。しかし実際は人数が多ければいいか、少なければいいかという表面上の問いはあまり勝負において意味をなさない。

なぜなら、人は一人で戦うにせよ、二人で戦うにせよ、戦う人の志が勝敗を決するからです。人数が多いか少ないかを憂うよりも、志が一つになった仲間であるかどうかが肝心なのです。

かの忠義の偉人、楠木正成にこのような言葉が残っています。

『合戦の勝負、必ずしも大勢小勢に依らず、ただ士卒の 志を一つにするとせざるとなり』

楠木正成は、上杉謙信、高杉晋作なども等しく用いた野戦に長け、自然を縦横無尽に用い戦わずして勝つといった最上の智慧を持って大義を貫いたリーダーです。

これらのリーダーの特徴は、まずは理念や大義があること、そしてそれを実践し実行する勇気を持っていること、さらには思いやりや智慧を天より借りることができた謙虚な心、その時の運気と同体になったからこそであったと私は思います。

志というものは目には見えませんし、それがどのような結果に影響を与えるかも誰も何も言いません。しかし、チームの一人一人が自分くらいと志を下げるようなことであればアッというまに士気は下がり負け戦になるのです。

もしも逆に、自分だけでもと志を貫く気概を持った人たちが集まればチームの一人一人が志を一つにしどんな強敵がいても様々な好機をものにし必ず道理に叶い正しい成果を得られるのだと思うのです。

吉田松陰に、「志を立てて以って万事の源とす」がありますがこれはこのことを言っているのです。吉田松陰は、かつて生前、4回も楠木正成の墓所を参り、自らの志を確かめています。

私も先日、その機会に恵まれいよいよその志の意義を確かめるに至りました。
世界を変えるなら、世界を変えるほどの戦略が必要でありその智慧を得たのです。

智仁勇のプロセスを味わいながら、あるべき道を歩んでいきたいと思います。

幸が運

運というものがある。

生まれてきてから死ぬまでにどのようになっているのか、そういう絶対的なものを運と呼ぶ。
もともと変えられないものがあるとして、それをどのように考えるか、そこに運が善いがある。

運が善いと思う人は、いつも大事な局面で何らかの幸せが入るようになっている。
それは人であったり事物であったりするけれど、自分がそう思うほどに幸運は強くなるのです。

運というそのものは、如何に運に対して自分がポジティブであるかを思うときにそう感じるのであろうと私は思います。逆にネガティブな人だといつも運が悪いと思ってしまいますから運は観えないのです。

つまりは運とは、これがいい、今が一番いい、自分がいい、最幸の人生、ちょうどいい、などと、いつも自分の人生の運びに対して生き方の姿勢が前向きである時に感じるものなのです。運が観える人というのは、泰然自若として心の感じるままを大事に生きられる人なのです。

よく考えてみると、悩みが多くても今身のまわりにある幸せはかけがえのないものです。時折、寂しいと感じたり、悲しいと思ったり、辛いと観えても、その実は全て幸せの隣にいるのではないかと思えるのです。

人生は自分で決めて生きる部分と、流されていく中で決まっていく部分があるように思います。

そしてそれは、自分自身の生き方そのものを問う中で感じることができるのです。

相手がどうであれ、世間がどうであれ、自分の境遇がどうであれ、自分がどうしたいのか、自分がどう生きたいのか、そこが大事なのではないかと思うのです。

他人の目を気にしていたら、内観もできませんし、内在する自我の直観を信じることもできません。やはり自分の心に正直にオープンに、そして自分らしくいることに迷わないように任せていけば自然に辿りつくところにいけるのであろうとも思うのです。

頭で考えていたら不安はつきものですが、心で感じれば晴れ晴れとしています。
空を見上げて生きていくような姿にこそ、運が好転して幸が顕われるのではないでしょうか。

幸運とは、幸せを実感する生き方のことです。
つまりは幸がそのまま運になるのです。

どんな小さなことからも運に気づき、運を深めて運と楽しんでいきたいと思います。

気づき見守る

保育の入り口に発達を見守るというものがあります。
その子の今というものがどのようになっているのかを知るのです。

その子の今とは、今までのその子の育ち、そしてこれからのその子の育ち、それがどのようなものであるかを見守るともいえます。

人は成長しますが、その成長はどのような環境の中で育ったかで育ち方が分かるものです。
そして育ちというものを見守るには、気づきを深めていくような実践が必要です。

なぜなら、そのものを主体としてどうしたがっているのか、何を求めているのかなども自分の中の気づきに照らし合わせていくことで感じることができるようになるからです。

いくら知識できっとこうなのだろうと思ったとしても、本当にその主体がそれをしがたっているのかなどは分かりません。よく観察していくことで、そのものがどのようになっているのか、どのようにしたがっているのかに気づけるのです。

日々の小さな変化はとても微細で、気が付いたときには成長してしまっているものです。

先日蒔いた種も、気が付けばあっという間に大きくなって形度っています。
子どもも同じく、気が付いたらあっという間に成長しているものです。

どちらにしても、注意深く観察していかなければ変化の兆しに気づくこともできません。
私が観ていると、じっくり地味に浸透し爆発的に変化するというのが成長です。

どこが醸成している時機なのか、どこが伸び始めた時機なのか、何となくですが素直に観察していると御互いに感じるものがあるのです。

そしてそのどちらにも、見守り見守られているという信頼の絆、その見守っている姿勢と実践があってこそ発達は安心して行わるともいえます。不思議なことですが、生きているものはすべて何かを信じなければ生きることもできないからです。

それは繋がりの中ではじめて「生きる」ということになるからだと私は思います。
このいのちは、すべて共生の中でしか存在しないからです。

そして人も等しく無意識ですが、自分のことを見守ってくれる存在があるからこそ自分を信頼できますし、自分が自らで信頼できれば、より多くの人達を進んで信頼していくことができるようになります。

以上のように大事なことは目には見えませんが、大事なことだからこそ心の眼で観るのです。そうやって心の眼を育み育てていくことが、発達を理解し、子どもが成長するという保育の本質にも通じていくのでしょう。

気づけない所へ心の眼を運び、よりセンスを高め、気づきを深めて見守りたいと思います。