法螺貝と呼吸

法螺貝を吹いていると呼吸の話に必ずなります。呼吸というのは、私たち人間にとって空気や太陽のように当たり前の存在ですがそれだけに神秘的です。この当たり前になっているものこそ、実は最も大切な存在で私たちの健康や長寿、そして幸福や調和などと深くかかります。

呼吸は、世の中には様々な呼吸法が存在します。現代は、過度のストレス社会や緊張からか呼吸が浅いといわれます。浅くない呼吸のことを深呼吸ともいいます。深呼吸をする人が減り、様々な病気が増えているともいえます。

私たちの身体は細胞が集積して形成されます。その細胞は呼吸をします、そのために私たちは全身で呼吸をするのです。具体的には、 酸素は血液を介して細胞に届けられ、細胞内で有機物を分解してエネルギーを生成します。そして細胞小器官であるミトコンドリアで行われそこで酸素と二酸化炭素の受け渡しが繰り返されます。そのためにも細胞は酸素を必要とし、エネルギーを生成するために欠かせません。

呼吸が浅いというのは、十分な酸素が細胞に行渡らないということになります。そうすると、エネルギーが生成されずに代謝や甦生することが難しくなります。

私たちは呼吸を通して、様々な力を活用している生き物です。運動するのも呼吸、声を出すのも呼吸です。他にも、自律神経や副交感神経なども呼吸です。また胸式呼吸や腹式呼吸というものがあります。

法螺貝が腹式呼吸を使って呼吸をしますが、副交感神経が刺激されリラックスをして落ち着きます。

呼吸はあまりにも身近にあるものだからこそ、意識して呼吸を調えることで健康や調和を実現するのです。そういう意味でも、法螺貝はとても心身健康に役立つ最高の法具です。

引き続き、呼吸法を一緒に学びながら法螺貝の和を広げていきたいと思います。

オノマトペ

先日、浮羽の古民家のお米の商品の打合せで食感について発見することがありました。私たちは食べ物を理解しあう時に、サクサク感がほしいとか、もっとパリパリとか、そのニュアンスや感覚で味覚を共有したり調理を近づけていきます。そこは言葉というよりも、感覚をそのまま表現しています。この時に使う擬音語と擬態語を総称してオノマトペといいます。

このオノマトペの元々の語源は、古代ギリシア語の「onoma(名前)」と「poiein(作る)」が融合してできた「onomatopoiia(オノマトポイーア)」に由来するといいます。英語では「onomatopoeia(オノマトペア)」、フランス語では「onomatopēe(オノマトペ)」となり、日本では「オノマトペ」を多く使われます。

例えば、先ほどの食感でいえばカリカリとかモチモチとか、パサパサとかシャキシャキ、ホクホク、トロトロなどたくさんあります。食感を感じて、どうだったかと近づけていくと最初はもっと甘くとか、さっぱりとかいいますが次第に深まって微細な調整が出てくると先ほどのオノマトペが出てくるのです。より感覚、より感情と一体になっています。

日本には古来よりこれらのオノマトペが豊富な国です。言霊のさきわう国といわれてきた理由かもしれません。この言葉というのは、ただの連絡ツールや情報交換ツールだけではありません。時には、不思議な力を発揮して現実を変えてしまうことがあります。かつては呪力があると信じられ、言葉から奇跡をたくさん実現してきました。

本来、私たち日本人は自然というものを外側から感じるのではなく自然の一部として自然と一体に繋がっているところの意識で暮らしてきました。うちでは烏骨鶏を8羽ほど飼っていますが、朝から鶏の鳴き声で目覚めて朝が来ます。その時は、コケコッコーなのです。一緒に生きている仲間として、一緒に暮らしている家族の一員としてコケコッコーはそのまま心身に届きます。他にも、秋雨前線が近づき大粒の雨がザーザーときたり、雲がサーサーと流れていたり、乾いた風で落ち葉がカサカサと吹かれます。

そのどれもが季節と一体になっているものであり、そのものと同じところで発します。つまりは、相手と自分との境界がなくつながっているところで聴いているということです。そこで聴いているからこそ、発するのも同じように聴いたままに発します。その子言葉が通じ合うのは、繋がりの中に共にいるという感覚があるからです。

お米であれば、田んぼやその中の生き物たち、四季や関係性のすべてと一体になってご飯を炊き食べます。炊き立てのご飯を食べるとき、そのプロセスやつながりを味わっているのです。

私はだいたい、暮らしフルネスの中で人工的な生産性や効率などを度外視しています。それは別に暇なのではなく、こだわりが強いわけでもなく、ただそのものと繋がりながら生きているとそうなるだけです。

繋がっているという感覚は、分かれていないという感覚です。つまり言葉で敢えていうのなら自他一体であり、全体最適、あるいは神人合一のような感覚なのかもしれません。

引き続き、先人たちが磨いてきた感覚を大切に継承しながら生き方を磨いていきたいと思います。

自然に通じる

昨日は、筑豊在来種の日子鷹菜の種を自然農の畑に蒔いてきました。近年は、イノシシもよく入ってきて対策に苦労しています。普通の柵くらいではほとんど効果がなく、イノシシが本気を出せばあっという間に破壊してきます。

近くに柿園もあり、音で撃退しようとしていますが雨の日に入ってきてはあっという間に荒していきます。彼らも生きることに必死ですから、食料が山に減ってくればすぐに畑に降りてきます。

現在、高菜を育てている畑の下は空き地にしていてそこにイノシシがたくさん来るようにしています。敢えて、隙間や自由、自分たちのスペースを用意することで高菜の畑に来ないように場を分けています。

自然が多いところというのは、それだけ自然の縄張りのようなものがあります。現在、英彦山で薬草園もつくっていますが野草の力が大きく、なかなか一般的なものはそのままだと育ちません。人工的なものが調和するには、かなりの時間がかかり自然に認められるまではコツコツと手入れをしていくしかありません。

この時季は、葛なども旺盛でほとんど畑の周囲を取り囲むように旺盛に育っています。もう少し先になれば、乾燥して枯れますが柵などはあっというまに倒していきますし、近隣の木々などはほとんど葛の木のようになっています。葛は梅雨時期などは一日に80センチほど伸び、節でクローンのように繁茂していきます。蔓植物というのは、なかなか厄介なものです。根こそぎしか対策はなく、私は農薬は一切つかいませんから手作業で取り除くしかありません。

現在は、なるべく共生できるようにここまでという範囲と、ここからは自由という範囲を分けています。ここまでと間を定めてコツコツ手入れすると、植物にも伝わるのかそこからは入ってこないようになります。

先ほどのイノシシも、ここまでと決めて全部を荒していなければおおらかな気持ちになっておけばそこまでは荒しません。むしろ英彦山の鹿の方が、宿坊の庭の中にまで入ってきて何でも噛んで食べていきます。しかしよく観察すると、植物が枯れるほどは食べません。上の方だけ食べては、また伸びたら食べにくる程度です。

昨年は、土が激しい暑さで乾燥してしまい発酵が間に合いませんでした。今年は、発酵するように草刈りを早めにして草を敷き、発酵を促しました。日子鷹菜スパイスや高菜漬が大変好評で今年はちゃんと収穫する責任があります。

しかしこの日子鷹菜は、職業として仕事でやっているのではなく供養からはじめたものです。今も初心は供養の気持ちで関わっています。何のためにという心は、不思議ですが自然の動植物にも波動として伝わっていくように思います。

お金のためとなると、容赦なく自然はその動機を試してきます。供養や真心であれば、自然の心の通じていきます。私たちは自然と繋がって生きています。自然もみんな生きることに必死です。お互いに尊重しあいながら、時には奪われ、時には与えますが、お互いに助け合う心あってこそ自然の生産性に任せていくことができます。

引き続き、今年の高菜を見守りながら後半の季節を味わっていきたいと思います。

 

冒険を楽しむ

長い間、共に同じ志を持って歩んでいる仲間がいます。それぞれに日頃は離れていても、不思議ですが心は一つでお互いに尊敬しています。人生というのは、それぞれに自己との対話や精進を続けていてそれぞれの道の中で生き方を磨きます。

この自己を磨くのは、自己の初心を守るためでもあります。人間は覚悟を決めたら、後は覚悟が試され続けるだけです。

よく覚悟を決めたのにブレてしまうということを言う人がいます。実際に覚悟が決まったら迷わないともいいますが、実際の覚悟は常に今を覚悟で生きている状態です。それを忘れてしまうと、自分で決めたことも変わってしまいます。他人軸ではなく、自分軸でこれは自分が決心したのだと何度も確信して反省をし続けているのが覚悟の実態ともいえます。

私は小さいころ、植村直己が大好きでした。よく本を読んだりして、「冒険」というのをしてみたかった。その冒険をこの歳になって、あれは覚悟だったのではないかと感じるようになりました。

植村直己はこういいます。

「冒険とは、死を覚悟して、そして生きて帰ることである」と。これは、生きているというのは、命懸けでいることであるという意味でもあります。

「みんな、それぞれが、何か新しいことをやる、それはすべて冒険だと、僕は思うんです」

そしてこうもいいます。

「困難のすえにやりぬいたひとつ、ひとつは、確かに、ついきのうのできごとのように忘れることのできない思い出であり、私の生涯の糧である。しかし、いままでやってきたすべてを土台にして、さらに新しいことをやってみたいのだ。若い時代は二度とやってこない。」

冒険を共にする仲間がいて、それぞれの船に乗って大海の旅をする。朝夕に自分の今の布置を確認しながらまた風に吹かれ、潮に流され、航海を続ける。

人生の冒険は、覚悟があってはじめて続けるものかもしれません。

引き続き、冒険を楽しみ自分の決めた道を歩んでいきたいと思います。

宇宙の法具

昨日は、英彦山の守静坊で新しい法螺貝を二貝ほどお渡しして吹き方と扱い方の実践をしました。お二人は、一人は消防士でレスキューの隊長でもう一人は看護師の方でした。日子山仙螺を持つ方々は、様々な職種の方が多く、芸術家から宗教家、あるいは仙人のような方までおります。

しかし共有することは、志している生き方がとても似ているということです。その生き方の根幹は、道です。道を歩もうと道を実践する方がこの日子山仙螺に辿り着いているように思います。

例えば、昨日のお二人ははじめて福岡に来られた方もいましたが一般的な観光で遊びに来たのではなく懐かしい暮らしを体験したいと一緒に過ごしました。

早朝から宿坊で一緒に作務をして、お手入れや磨きを数時間一緒に真剣に行いました。ほとんど会話を交わすことはなく、宿坊の場に向き合い掃除をします。誰も手を抜いたり、雑な掃除はせず、汗をかきながら丁寧に隅々まで調えていきます。

私は修行とは一緒に行うことで、道の修行は為ると信じています。その証拠に、誰かが教えると教えられるという関係ではなくお互いが学び合うという場が誕生するからです。お互いに思いやり、己に打ち克ち、一緒に成長していこうとするところに道があります。

場を調える作務をした後は、法螺貝を伝承する儀式をしますがその方の初心を確認していのり、その重力を直観させ、静かに息を吹き込み呼吸の方法を学びます。あとは、自然のリズムで法螺貝がその人を導いてくれるので心配はありません。自然物そのものであり螺旋を顕現する法螺貝は、まさに天の権化です。その天の権化が、天道へと人を導いていきます。

最近では量子力学が発達して、波動のことも少しずつ解明されています。宇宙の真理には、波動がありそこには螺旋という回転して揺れる音(周波数)の鳴動が与えるリズムというものがあることも科学的に証明されています。医学的にも呼吸が如何に大切か、そしてバランスを保つ調和が人体にとっても偉大な効果があることも再認識されてきています。

宇宙の法具、法螺の貝はまさに私たちに天の道理を智てくださる貴重な存在です。

お二人がこれからどのように法螺道に入り成熟していくのか。とても楽しみにしつつ、自分の法螺道を英彦山でさらに深めていきたいと思います。

法螺貝の網袋

昨日は、法螺貝の網袋づくりを仲間とやりましたがかなりの時間をかけています。そもそも現代は機械編みの方法なども増えて、人の手が入らないことで時間を短縮し経済効率を優先していきます。しかし、むかしは冬の間や、少し時間が空いた時に、コツコツとみんなで手作業にてつくりこんでいました。それが喜びでもあり、仕合せなことでもありました。

利益から考えると、時間がかかりすぎることやそんなに大量生産する必要のないものであれば一般的な経営者はそれをやろうとは判断しません。よくそのような取り組みは個人の趣味だとも言われます。しかし実際に個人の趣味でも、それが多くの人たちのお役に立つものがあります。経営的には利益がでなくても、それが一人の人間を救うほどに効果があるものもあります。そういうものをお金にならないからと全部やめてしまえば、この世の中はとても貧しくなっていきます。

そもそも貧しいというのは、金銭を持っていないことだけをいうのではありません。そして豊かさというのも何でも自由に手に入ることだけを言うのではありません。金銭などの物差しを少し手放してもう一度、この世の仕組みを観てみたら動植物たちや虫たちは金銭を持っていません。そこに貧富というものはありません。自然と結ばれているところにいると花が咲けば虫が集まってきます。それだけで豊かです。つまり豊かさというのは、あるがままであること、自分らしくいること、そして心を開いて心のままに行動することの中にもあります。

話を法螺貝の網袋に戻せば、仲間と一緒に指先を使って編んでいくのは仕合せなことです。一編み一編み編み込んでは、時には間違えて解きやり直します。お互いに編んだものを観ながら一緒に学び合います。時には絡まったものをほどき直してまた時には、ちょうどいいところで切って結びます。そして法螺貝を包み込み守る網袋を完成させていくのです。

人生というのは、この網袋に似ています。私たちはご縁によって結ばれ、そしてご縁に包まれていることによって今の生を支えられます。特に大切なところは深く厚く編みこまれています。

私が持っている網袋の一つは、法螺貝のメンターからいただいたものです。それを藍染で染め直して今でも大切に使っています。網袋を大切にしていくことは、ご縁を大切にしていくことです。

引き続き、指先から丁寧な暮らしフルネスを味わい子どもたちに古来からの智慧と真の豊かさを伝承していきたいと思います。

稲架掛け

昨日は、朝倉にある大神いにしえの田んぼの稲架かけの準備をしてきました。また隣の畑には、在来種の高菜の種も蒔きました。稲刈りのタイミングで今度は高菜に入ります。春夏秋冬の自然のリズムは、私はのお米と高菜で行います。この自然のリズムというのは、自然の持つ波動と共にする暮らしのことです。

私たちの身体も、そして自然も時を一つ一つ刻みます。この刻むというのは、大切なのは効率優先することではありません。刻むというのは、一刻一刻を丁寧に刻むということです。

そう考えると、どのように今を刻むことがいいのかがわかってきます。例えば、お米が育つというのはどういうことか。苗を本田へ移植し、自然の風と光と澄んだ水と雷と月の光、そして微生物や虫や動物たちと一緒に時を刻みます。そのお米の一生を、自分も一緒に見守ります。そして収穫をするのですが、現代は乾燥機にかけて一気に乾かします。しかし時を刻むことを優先するのなら、太陽の光をしっかりと浴びさせた方がお米の種も成熟します。

そもそも太陽を浴びるというのは、いのちを強くすることです。私たちの元氣というものは、時と光と水、そしてそれを発酵させる触媒となる微生物がいのちを育てています。

稲架掛けは、それまで水田で育って蓄えてきたエネルギーを纏めるのに役立ちます。また稲架掛けの最大のメリットは、その干した稲藁をそのまま活用に役立てることができるからです。この稲藁をつかい、しめ縄や草鞋、あるいは藁ぶきなどに活用できます。

現代の慣行農法は、稲架掛けをせずに収穫した藁はそのまま機械が裁断して田んぼに帰します。藁を使う必要がないからです。

しかしむかしは、藁があったから生活用品がつくれ装飾品などでいのりや暮らしが保たれました。長い間、日本人が維持してきた循環的な自然との共生はこの藁が支えていたともいえます。

藁を大切にする心は、日本人の先人の心に触れます。

稲架掛けがどれだけ重要なことか、実践を通して伝承していきたいと思います。

薬石の徳

薬石というものがあります。私はご縁のあった石英と共に過ごす時間を日々に持っています。石というのは不思議でそれぞれに個性があります。個性とはもちろん形や見た目もありますが、それだけではありません。そこには波動や氣というものがあるのです。私が石で調える理由は、この波動と氣の調和のために行っています。

そしてこの波動や氣は、お水や火を通して力を増幅させることができます。あるいは、人間の身体に流れている電気によってです。現在、薬石などはほとんどが自然放射能のホルミシス効果などのことを言われます。石で病気が治るなどというと、ややもすると現代は薬事法違反になったり、詐欺やペテンなどともいわれます。

しかし実際には残念なくらい効果があります。特に山伏や修験道をし岩窟修行をする人はすぐに岩窟の持つ力のことを知っているはずです。岩窟の中には、強い波動や氣が滞留しています。その力をその身に宿し移すことで、人はその治癒の力を身に着けていきます。

私たちは、意識というか目に見えないところで波動や周波数を発信してそれを感受します。これはラジオなどの電波をあわせるとその音が聴こえるように、周波数の帯域さえ調整できれば物体とも対話は可能です。

私は古民家甦生を通して、古民家と対話します。家と対話なんてと笑われますが、実際に家がどうしてほしいか、どこを治してほしいかがわかるのです。その通りにすると、あっという間に家が喜んでいることを笑って信じなかった人でもすぐにわかります。

それくらい、物質や場には意志や波動や氣が存在するということです。

薬石の素晴らしさは、石の持つ「意志」に由ります。これはダジャレではなく、石には意志があるのです。そしてじっと動きませんが、意志をもって動かないのです。薬石には、薬石の意志があります。

その徳をどう上手に引き出すかは、その石をどれだけ尊敬し尊重しているかに由ります。私の取り組む石風呂や備長炭サウナにはそれがあります。ご縁がある人には、この波動や氣を感じてほしいなと思います。

子孫のためにも、伝承を丁寧に続けていきます。

失敗と成長と智慧

先日、ある方のこれからも人生を走馬灯のようにお聴きする機会がありました。今のその人がそうなっているのは、どのようにそうなったのかを知れるのです。一人の人生の生涯をお聴きするのは面白く、とても豊かです。まるで一本の映画の大作を観るかのようです。

実際には想い出は美化されているものもありますが、おおむね事実はかわりません。その中でどのような感情があり、喜怒哀楽を経てその人が成長していきます。成長する過程で何があったのかをお聴きすると、そこには学が智慧があります。

人生というものは、失敗を通して自分を知ります。内省をし、向き合い、覚悟を決めて改善していく連続です。

また不思議なことですが、人生の課題は先祖代々の課題ともいえます。自分の中に先祖が一緒に歩んでいて、似たようなシーンになって似たような感情やトラウマが発動します。

例えば、大きな決断をせまられるとき、家族か仕事かというものを選択することであったり、信頼しているはずが裏切られるような環境をつくりだしたりなどそれも一つの例ですがそれぞれに何か以前、似たようなことが起きたのではないかというシーンが出てきます。

それをまた上塗りするのか、それともそれを乗り越えて別の展開になるのか。実際には、その両方を繰り返しながら最後には乗り越えて成長していきます。成長するというのは、そこに大切な智慧があるということが隠れているものです。

つまり失敗や成長は、智慧を学ぼうとする宿命や運命が宿っているということです。

一つの人生の中で、それを得たならそれが次世代、あるいは似たようなシーンを乗り越えようとする人たちへの恩恵になります。自分の苦労が、誰かの役にたっていくのです。

自分が何の役に立つのか、どのような使命があるのか、それは体験によって氣がついていくものです。日々の出来事を丁寧に向きあい、自己を磨いていくことが失敗も成長も智慧も高めてくれます。

暮らしを調えて、徳を積んでいきたいと思います。

音と道

昨日からリズム仙人が来て音楽談義をしていますが、その奥深さに感銘を受けるばかりです。自分の知っている音楽は、まるで氷山の一角でその道を究めている人のもつ視座の高さや理解や直観の偉大さには尊敬の念が湧きます。

人は見かけによらないというか、その奥には奥義を極めている人もいます。つまり道を歩み自分を磨いてきた達人たちにしか観えない景色というものがあるのでしょう。そしてその道はどれも共通するものがあります。

例えば、「天」というもの、どの道も天につながる、天と結ぶという意識があります。また自己の「感覚」というもの、中庸の直観のような絶妙な意識もあります。そして「生き方」が深く関係するということです。

天地にいて感性を磨き、生き方を貫く。

これを道ともいうのかもしれません。

道はひとそれぞれに与えられた唯一無二のものがあります。それぞれに自己の一期一会の道が与えられそれを真摯に生き切っていきます。その中で辿り着いた境地、あるいはご縁のお導きによって偶然の奇跡のようなめぐり逢いをします。

不思議ですが、道を歩む人たちは道を歩む人に出会います。それぞれ別々の道であるのにまるで同じ道を歩んでいるような錯覚すらもあります。それは生き方が共通しているからこそ、道が似ているのです。過去にどのような道を辿ったかを聴けば、自分も似た道を通ったといいます。今どの道をいるかを聴けば、まるで同じ道にいるかのように感じます。別の道であるはずが、次元を超え、場所を超え、距離を超えつながり結ばれるのです。

道こそ、不思議なものです。

音楽の道、法螺の道、これもとても似ています。それは音が道とつながっているからです。音の道はまるで仏の道、そして弁財天や吉祥天の教えに共通しています。

妙音菩薩を観て、道の喜びを直観しました。次回の仙人苦楽部を心から楽しみにしています。