変化そのもの

蘇軾という人物がいます。この人物は人生を行雲流水に生きた方です。実際にこの行雲流水という言葉もこの方が最初に文章にしています。この人物は、約1000年前の中国の方ですが一生を栄光や転落などを何度も繰り返しても、その時々を実に楽しみ艱難も栄華も生き方を磨く砥石にして素晴らしい詩や文章を後世に遺された方です。

時代が変わっても、国が違っても、人が異なっていても、深く共感するのは変化そのものがあることです。どんな今であっても、その変化を丸ごと受け容れ、それを学び、深く楽しむ。幸福や真の豊かさ、學問の本質には心惹かれます。

行雲流水の文章はここから出てきました。

「大略如行雲流水 初無定質 但常行於所當行 止於所不可不止 文理自然 姿態橫生」

(おおよそ行雲流水のごとく、初めより定質なし。ただ常に行くべき所に行き、止まるべからざる所に止まるのみ。文理は自然にして、姿態横(おの)ずから生ず)

これは後輩とのお手紙のやりとりの中で書かれるものです。後輩の詩に作為が出ていることを指摘し、もっと自然に湧いてでるようにとアドバイスをしています。具体的には、おおよそ流れる雲や水のようにはじめから決まったものはないのだから止まる時は止まり、流れる時は流れるようにすればいい、自然体であるといいと。

自然の流れに従うようにというのが正直で素直であるということでしょうか。これは文章を先ではなく、自分を先にそうすればいいという教えや智慧であるともいえます。そもそも変化というものは、変わるものと変わらないものがあります。これは動くものと動かないものという変化もあれば、意識と実態、あの世と此の世、時と記憶のようにも語られます。

しかしよくよく観察していると、変わるものと変わらないものの「間」にこそ「真の変化がある」ことに氣づくものです。それは「今」とも言えますし「直感」とも言えますし、「味わっている最中」とも言えます。

つまり、「今を素直に感じて味わう」ということが変化そのものになるということでしょう。

変化そのものになるとき、変化はなくなります。

私たちは変化できない理由はいろいろありますが、自分のもののように所有していると勘違いしたり、先のことや後のことばかりに執着していたり、本来の自分というものを別の何かと錯覚するからだと感じます。まるで人間だけが人間を生きていると勘違いし、自然から離れてその本来の変化の感覚を忘れてしまっているかのようです。

自然体であることは、自然の変化と共に歩んでいくことでもあります。

まもなく英彦山のしだれ桜が満開になりますが、しだれ桜は変化をよく観ています。そしてしだれ桜から人間を見つめてみたらそこに来る人来ない人、観て感じている人がいるだけです。事実は、こちらだけでなくあちからだと別の見え方があります。自然になっている存在の方が、変化そのものになっているように思います。

だからこそ「この今を素直に感じて味わう」ことで私たちは変化を自分のものにしていくことができます。少し人間の喧騒から離れてみて、神仙遊山の境地を味わい、人生の大切な節目の変化をしだれ桜と共に味わってみるのもいいかもしれません。

宿坊に私も滞在しておりますので、一緒に変化を味わえるといいですね。

 

 

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