君の志は何ですか?

人は純粋であればあるほどに志を持つものです。志というのは、純粋性でもあります。その人がどれだけ理想に対して真剣であるか、理想に対して素直であるかが問われます。以前、NHK大河ドラマの中で吉田松陰が「君の志はなんですか?」と何度も聴くシーンがありました。まず出会った人に志を尋ねるその純粋さに心打たれたものです。

この志は、混じりけのない純粋な思いでありそれは理念とも言い、原点とも言い、初心とも言うものです。人は私的な自我が強くなればなるほどにその純粋な思いを忘れてしまい気が付けば不純なものに入れ替わっていくものです。本来は純粋性こそ本物のその人らしさです。もしも本当にその人が純粋に思いを語れるのなら、それが志とも言えます。この志は生まれた時から持っているもので、それが曇らないように澄ませていくためにも穢れを祓い清める日々の実践があるように思います。

そしてその志を推し量るのに下記があるように私は思います

一つは、運の強さ。そして一つは、思いの強さ。もう一つは、絆の強さ。この3つがあるものは強い志に支えられているように思います。さらに同時に、真心の篤さ。次に感謝の篤さ。最後に学びの篤さ。この3つの篤さがあるものは篤い志に助けられているように思います。

その強さと篤さは「最期まで諦めずに絞り出したか」、そして「常に全身全霊を出し切ったか」の集積によって積み上げられていくようにも思えるのです。

志は誰にしろありますが、その志を開いてくれるのは全て御縁です。

出会った人に「あなたの志はなんですか?」、「あなたの目指す理念理想はなんですか?」と尋ねることは、つむいできたつながりの道の上にある一期一会のあなたとの御縁を信じていますという確かなメッセージです。

私はお会いする人たちに信念の種や志、理念を尋ねます。それはその人たちの志を叶えたい、そして同時に自分や周囲の方々への御縁を結びたいと願うからかもしれません。かんならの道は御蔭様の道でもありますから、出会う御縁に導かれるように歩んで往ける今がいつも仕合せなことです。

「出会いの哲学は初志にあり、御縁の哲学は貫徹にある。」藍杜静海

一期一会の生き方の中から学び直すことばかりです。道中の出会いを大切に、一日一生を実践していきたいと思います。

 

炭のチカラ②

昨日、無事に合計700キロの備長炭を床下に敷き終えることができました。すでに2日目になると、床下の空気や雰囲気も澄んできているのを感じます。炭の効能は科学的にわかってきている部分もありますが、未だに解明されていないものもあります。

先人たちは炭と共に暮らしていく中で、その効果を長い年月をかけて自得していたのでしょう。昔は傷ついた動物が炭焼き小屋で傷を癒したという民間伝承も遺っています。実際に、牛や犬なども胃腸を整えるときに炭を食べているそうです。炭には水を浄化するだけではなく体内を浄化するチカラもあり、いのちに関わる様々なところで昔は活かされたようです。

私の中で現在、発酵を通して気づいたことは炭には微生物が棲んでいるということです。炭の表面を拡大して観察するとミクロ単位の孔が無数にあるそうです。その孔は縦横無尽につながっていて全てが外気に触れています。

この炭の内部にある「多孔チューブ」の表面に水や空気が通ると有害物質が吸着され、孔内にすむ無数の微生物によって分解するという仕組みです。この内部に住む微生物こそ土壌をアルカリ性にする作用があり、木炭を撒いた畑の作物が良く育つ理由とも言われています。私たちが生活しやすいように微生物たちに活躍してもらうという方法なのです。

私たちの住まいが家であるように、微生物の家は炭になります。そして炭を愛する微生物たちが私たちの人間の暮らしに共生し、自然の相乗効果を発揮するのではないかと私は推察しています。

自然農や自然養鶏の中で、水の中に炭を入れていますが生き物たちはその炭の周囲を暮らしの中心にしていきます。不思議なことですが、その炭を置いた処から発酵場になり発酵が進むのです。多様な生き物を活性化するということが発酵ですから、炭の効果は甚大なのです。

今回の夏季実践休暇で気づいたことは、「炭こそ暮らしの家」であることです。炭がある暮らしというのは、そこは豊かな生態系が発生してきた家であったということです。私たちの親祖たちもずっと火をおこし炭を焼き暮らしてきました。そしてその周りに人間たちが共生した生き物たちが集まって豊かな生態系の中で一緒にいのちをつむいできたということなのでしょう。

炭の持つ、不思議なチカラを体験できる善い御縁をいただきました。さらに炭道の達人との新たな出会いもありましたから引き続き学び直しつつ深めていきたいと思います。

 

 

誇りと自信

先日、あるお客様の内省シートから「仕事に誇りをもって取り組まれているのが伝わってきた」と書かれていました。この仕事に誇りを持って取り組むとは何か、その「誇り」について少し深めてみようと思います。

「誇り」の対義語は「恥」だと言われます。自分に嘘をついたり、自分から逃げて自分に負けると誇りは失われていきます。この誇りとは、「自分は逃げなかった、己に克ってきた」というものが誇りの本質です。そして自分自身が自分のすべてを知っているのにその自分を裏切り妥協することが恥です。そして恥というものは、辞書には「世の人に対し面目・名誉を失うこと。恥ずべき事柄を恥ずかしいと思う人間らしい心。」と書かれています。この恥ずべきことがらがまずわかることが誇りの入口です。

自分自身が真っ直ぐに逃げずに向き合って己に打ち克つ人は、自然に誇りと自信を纏ってきます。逆に己に負けてしまう人は、プライドが高くなり不安を纏ってきます。他人の評価云々ばかりを追いかけるのも恥ということが分からないところが関係します。この恥という字は、耳と心でできています。自分の本心に耳を傾けているかどうか、自分の心が決めた自分に正直に生きれているか、そこに誇りはあります。

仕事に誇りを持つというのは、理念を優先して自分自身を変えてきたという実績です。先日もあるクルーが理念のために自分自身の都合を手放していきましたが、その瞬間からその人が纏う誇りや自信が目に見えるほどに光りはじめます。周りの刷り込みや今までの習慣よりも、自分の決めた生き方や働き方を優先したからこそその人はその恩恵として「誇りと自信」を持つことができます。

誇りを自信を持つ人がひとたび言葉を話せば、その人のように生き方と働き方を変えたいと感化されていくものです。いくら言葉巧みに上手いことをいっても、それぞれ人は己との向き合いの中でしか成長できませんから己に克っている人の言葉はとても勇気になるのです。

特に子どもは正直で、建前と理想をいくら使い分けてもその矛盾にすぐに気付きます。それだけ自分の心に正直に生きているからです。その正直に生きる子どもたちに生き方と働き方を遺すならば、誇りと自信は欠かせない徳目です。それが人間らしい心とも言えます。

人間らしい心は、常に自分の心と正直に向き合いその心に従っていきようとする生き方のことです。自分という最大の敵に先に負けてしまって心をその都度誤魔化して保身や保守ばかりを優先してしまえば、その分また誇りと自信が失われていきます。心を誤魔化さないというのは、ありたい自分、理念や初心を優先する自分でいられているということです。もっとも身近な自分がもっとも自分のことを四六時中観ていますから、その自分と対話して自分に打ち克っていくことで自分だけではなく周りも元気づけていけるのでしょう。

お客様からクルーのことが「誇りを持っている」といわれることほど有難いことはありません。陰ながら自分から逃げずに実践して己に打ち克って努力精進している姿を観てくださった気がして、本当に嬉しく見守られていることを実感しました。きっとこの方もまた、克己復礼に修養を怠らない実践家なのでしょう。御互いの誇りが観えるということは、何よりも強い心の絆になっていきます。そういう絆のある人のことを仲間と呼び、同志と呼ぶのでしょう。

自分自身が自分自身でいられるように、日々の実践を怠らず、理念を優先し、修養の勝負に勝ち越せるように子どものモデルになるような生き方と働き方を追求していきたいと思います。

 

 

人格を磨く

人間は人格を磨いていく中で、本来の自分の天分を活かしていくことができるといいます。素直になって謙虚になれば物事を受け容れありのままに自分の御縁を生きていくことができるからです。

実際に、どんな仕事でも自分以外の誰かと取り組む仕事は自他を合わせ鏡にして御互いを磨き合っていくものです。鏡の曇りがなく、美しい素直な鏡と合わさるなら自分の美しい素直な部分が投影してきます。もしも濁った鏡と合わせるならより自分が分からなくなります。御互いが合わせ鏡だからこそ、何を心に映していくかというのはその人の素直さに由るのです。そしてその心は生き方によって磨かれますから、人格を高めて自己修養によって鏡をいつも日々に洗い清めていくしかないように思います。

また仕事は同時に互いを磨き合うものです。どの砥石を用いて自分を磨いていくか、何をそぎ落として研ぎ澄まされたものにしていくかは自分の選択が決めるともいえます。砥石選びというものは、謙虚さが必要で素直な心でなければ誤った研ぎ方によりかえって自分を活かせなくなるかもしれません。そしてこの素直な心というのは、全ての基本になっているように思います。

松下幸之助さんに「素直な心の十か条」というものがあります。

1.私心にとらわれない
2.耳を傾ける
3.寛容
4.実相が見える
5.道理を知る
6.すべてに学ぶ心
7.融通無碍
8.平常心
9.価値を知る
10.広い愛の心

素直の実践の中で掴んだ感覚を、そのまま十か条にしているように思います。こういう状態の時は素直な心が働いていますということでしょう。そのどれもができそうでできないことであり、人格を磨くために大切な鏡であり砥石であることに気づきます。

例えば、私たちも「傾聴」というものをもっとも大切に実践しています。しかしそこに私心に囚われて「きっと何か理由があるのだろう」と考えず心の余裕をなくしていればすぐに傾聴できずに思い込み決めつけることになってしまいます。自らが聴き福にするか、自らが学んでいるか、自らが受け止めているか、自分に矢印が向いているかとしたとき、はじめて傾聴が始まってきます。

松下幸之助さんは傾聴のことを「素直な心というものは、だれに対しても何事に対しても耳を傾ける心である」といいます。それを黒田長政の「腹立てずの意見会」の実践を紹介し、会合を長政が最期まで続けたのは「一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがある、それは改めなければならないから教えてもらおう、というような謙虚な心をもっていたからではないかと」と言っています。聴くということは自分自身の私心と向き合うことでもあります。自分が聴きたくないことを言われてもそれを素直に受け入れてみる。そのあとは何を行う必要があるかが自明してくるのが人間です。

あるがままに物事が観えるなら、あるがままに対処すればいいのですがあるがままに物事を観たくないからあるがままに対処できないのです。本来、素直さというものは私心を交えずに全体を観るチカラとも言えます。それは自然が自然の循環を邪魔しないことと似ています。素直な心を磨き、人生の最期には自分の天分を全うできたと思えることは本当に倖せなことだと思います。

畢竟、人間はどんな仕事であってもどんな出会いであっても御互いに人格を高めていくことでしか御互いを活かす道はないのかもしれません。しかしそういう切磋琢磨できる同志がいることは人格を磨きたいといった素直の心があるから出会えるのでしょう。御縁の中に「素直」であることを第一義に、常に子どもから学び直していきたいと思います。

個性=人間性~助け合う社會のために~

個性というものについて昨日も書きましたが、個性は人間性を優先するためになによりも大切なものです。人間性が個性ですから個性を排除するというのは人間性を排除するということです。人間がロボットやゾンビのようになるのもまた、その個性を排除することで行われていきます。

個性とはその人そのままの姿ですから、それをみんなと同じにするというのは個性を否定するということです。人間は自分得意不得意がカラダにも出てきていますし、顔にも、性格にも、特長にも表れて出ています。それは観方によれば、それを活かして使ってほしいというアピールでもあるのです。それを長所ともいい、その長所を伸ばしてあげることで人はみんな役に立つ仕合わせに出会います。仕合わせとは助け合いの中で得られるものですから、自分の長所が皆に喜んでもらうことほど自己実現できることはありません。

そしてそれは周りが個性を発見、発掘することも大事ですがその本人が個性を出していかなければ周りに貢献していくことが難しくなります。長い時間をかけて個性を否定される教育を受けてきたり、自分自身で個性をなくしていくような生き方をしてきたら自分自身に気づかずに新しい自分にも出会えません。

それではどうやって個性を引き出すかということです。

それは「己に克つ」ということです。人は自我欲を乗り越えて、自分都合を度外視して私的な自分を手放して己の目的や信念、初心、理念を優先することで己に打ち克つことできます。そうやって己に打ち克ち続けることで次第に個性は磨かれて発揮されていくものです。個性が出てくれば、次第に周りがその個性に自分の個性を合わせて協力していくことができるようになります。

個性は己に克った集積により磨きだされていきます。世の中で活躍する人たちや、貢献していく人たちはみんな個性が突出しています。そしてその全ての人たちはみんな「己に克つ」ことができている人です。個性が人間性であり、個性を磨くことが人格を磨くということはそういうことです。

人間は生まれながらに唯一の個性をもって産まれてきます。それは指紋が一人として同じ物がないように、顔が同じ顔がないように個性を何よりも尊重します。その個性を尊重することが本来の「人権」であり、それは単になんでも私物化する自分の権利のことではないのです。

だからこそ人権を尊重するために、産まれてきたままの異なりを否定せずに認めることが子ども一人ひとりの発達を尊重するということになるのです。私たちの提案するミマモリングプラスというのはそういう哲学と思想、実践の中から開発されてきたものです。

個性豊かな仲間たちを増やして、百花繚乱の美しい思いやりのある社會を子どもたちに譲っていきたいと思います。

人間社會

先日、訪問した群言堂本店の洗い場にマハトマ・ガンジーが提言した「七つの社会的大罪というものがありました。そこには今まさに人間が創りあげてしまった道徳的でなくなっている社会的理由が書かれていました。

一、原則なき政治
二、道徳なき商業
三、労働なき富
四、人格なき教育
五、人間性なき科学
六、良心なき快楽
七、犠牲なき信仰

以上の七つですが「原則・道徳・労働・人格・人間性・良心・犠牲」などを見失えばその問題が社會のどこに出てくるかというのを深い洞察によって見抜いています。

例えば、「人格なき教育」でいうと人格を磨こうとしない教育など本来は存在しないということを言っています。論語で、「古の学者は己の為にし、今の学者は 人の為にす」とあるように本来は自己修養のために学問があったものを誰かに知識を教えて収入を得るためのものにすり替わってしまっているということです。偉くなればなるほど、有名になればなるほどに地位や名声、そして富が入ります。そうなってしまうことで人格を磨かない教育が人々に蔓延ってしまうと世の中が混乱しだすであろうということです。

そして「道徳なき商業」なども分かりやすいと思います。自分の稼ぎばかりを考えて人類全体の社會を善くするための商道を商人が行うことをやめたならあっという間に賄賂や詐欺、また中身のない経済が蔓延っていきます。二宮尊徳が「道徳を忘れた経済は、罪悪である。経済を忘れた道徳は、寝言である。」といい、渋沢栄一も論語と算盤とし「道徳経済の一致」をしなければ社會が腐敗してしまうと予測しました。

他にも「人間性なき科学」は、今のクローン技術の話や核兵器、化学加工食品などもそうです。「労働なき富」は、1パーセントの富裕層がマネーゲームで世界の富を蹂躙していることなどでしょうし、「良心なき快楽」は出会い系サイトなどもそうですし、「原則(理念)なき政治」は、今の日本政治の何も決まらないままの混乱した模様のようです。それに最後の「犠牲なき信仰」などは例えたくもないほどです。

マハトマガンジーがかつて洞察したこれらというのは、実際に人間の中に存在するものです。もともと人間には良いも悪いも半分ずつ存在しているとも言えます。何もしなければ動物と同じようであり、それを道徳の育成によって人間らしくなっていくとも言えます。だからこそ社會が人間であるように太古の昔から、私たちは社會を育てて守ってきたとも言えます。

孔子が仁の政治を説いてきたのも、仏陀が慈悲を説いてきたのも、キリストが愛を説いてきたのもまた、人間社會の在り方について深く洞察したなれの果てのように私にも感じます。自分自身が社會の一員としての責任を持ち、如何に人類全体のために自分の徳を磨くために自分を変え続けていくかというのがこの七つの社会的大罪を転じて七つの美徳にしていくことが本来の人間の社會的役割のようにも思います。

時代の終焉が近づくにつれ、これらの人間社會への人類の挑戦はまた繰り返し発生し魂を磨き続ける機会を天から授かります。日々の小さなところから、自分の実践を積み重ねて人類がいつまでも持続できるような社會を一人ひとりの目覚めによって改善していくことが希望のように思います。

子ども達の希望の光になるように、他人のせいにはせず精進していきたいと思います。

 

本物の暮らし~魂の伝承~

昨日は石見銀山にある群言堂本店に訪問し、他郷阿部家を見学し松場登美様と御縁をいただくことができました。

ここの全てを見学しながらすぐに実感するのは、随所に心の風景のようなふるさとの懐かしさです。場所場所に配置されているものはすべて御縁から頂いたものしかなく、その一つ一つにはすべて物語があります。天から授かったものを大切に向き合っていく生き方が、その気配りの随所に顕れていて絶妙な安心感に包まれる空間がありました。

そして松場登美様のお話の中で何より感動したのは、「暮らしの基本」のお話です。

そもそも人間に与えられているものには宗教、哲学、芸術があるといいます。そしてそれは暮らしの中に存在しているものです。その基本として感謝する気持ちが宗教であり、哲学は学問ではなく美しく生きることであり、芸術は子どものようにアーティストであることだといいます。そして暮らしの中にある長い間の文化が如何に美しいかを思い出すことが大切であるといいそのモノサシは「正しいかどうかよりも美しいかどうか」だと仰っていました。

私たちが本来持っていた暮らしはどこからか分断され今では経済優先、効率優先、お金ばかりで「もったいない」の意味もすり替えられてしまいました。本来のもったいないという”御縁をつむぐ”ような考え方ではなく、単に貧乏性のような用いられ方になってしまっているように私は思います。

私たちの暮らしを後回しにしてきたツケは、必ずこれからの子ども達にまわってしまいます。どんな未来にもどんな事業にも暮らしは欠かせないものですから「本物の暮らし」を見つめ直す時代に入っているように思います。如何にこれからの日本にかつての「本物の暮らし」といった根のある生き方を遺していくか、それは古いものか新しいものかではないのですから子ども達にその根を譲っていくために私たちもしっかりと実践しなければと改めて気づき直すことができました。

文化が壊れていくなかで何を遺していけばいいか、時代の変遷の中で何を大切に譲っていけばいいか、それは「本物の暮らし」であり、「先祖たちの真心」、それは「美しい生き方」であると確認しました。そして悠久のもの、古いものの全てには”魂が宿っている”からこそその魂が慶ぶ生き方や使い方をしていきたいと思います。

そしてこれからもずっと子どもは私たちの未来であり、子どもたちは先祖から譲られてきたクニの宝です。その子どもたちに何が遺せるか、そういう視点からカグヤでも今回の御縁を活かし実践を根気強く発信していきたいと思います。

御蔭様の奇妙な御縁に心から感謝しております。次回は、一家総出でぜひお伺いしてお世話になります。ありがとうございました。

 

リーダー~責任感とは何か~

人は誰しも自分の人生に責任が伴うものです。自分自身であることは自分の人生に責任を持つということです。その自己責任を深めるとき、それは常に覚悟のことを思います。どのような覚悟を決めるか、そしてその覚悟をもってどのように生きるかということを感じます。これは生き方を決めるということに似ています。

人はどんな星の下に生まれてくるのか、それは誰にもわからずその人の持って産まれた天運だとも言えます。その生まれ落ちたところの星に従ってその人の人生が廻りますからその時々の人生の幸不幸をどう受け止めて、今の自分を受け容れていくかは自分の足で立ち、正直に人生を歩んでいくための最初の課題であろうとも思います。

正直に歩むと決めて歩み始めれば、必ず日々様々な困難に出会います。その出会いの一つ一つを大切にしていくことで、本当の自分に出会い、本物の自分の心を知るように思います。「自分になる」ということはまさに「自分である」ということであり、それは嘘偽りない素直な自分で生きていくということです。

しかしそれを邪魔するのは、今の自分に対する不足や不満、何でも他人のせいにしたりすることで次第に素直ではなくなっていきます。そういう時こそ自分に矢印という言い方を私たちはしますが、自分自身が自戒を持つことで一度きりの自分の人生で生きられ、周りのお役に立てる仕合せに出会えるのではないかと私は思います。

自戒といえば、「徳川家康の人生訓」というものがあります。自分自身の責任を自覚し、その上で自分の脚で積極的に歩くということの大切さについて自戒しているように思え大変共感しますのでご紹介します。

「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし
急ぐべからず
不自由を、常と思えば不足なし
心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし
堪忍は、無事のいしずえ
怒りは、敵と思え
勝つことばかりを知って、負くることを知らざれば、
害、其の身に到る
己を責めて、人を責めるな
及ばざるは、過ぎたるに優れり」
(慶長八年正月十五日)

全ての責任は自分が負うという覚悟、言い換えればどんな人生であっても積極的に主体的に生きるのは自分自身だという覚悟、受け身になり逃げようとはせず、常に積極的に主体が減退しないように「全ては自分の責任である」という自分に矢印を向けているのを感じるのです。

もしも全ては自分の責任だとし、他人のせいにする人生をやめてしまえば全ての問題は自分の中にあることに気づけるものです。自分の中にあるのだから、自分の方を変えていこうということに迷いもなくなっていきます。

覚悟というのは結局は自分に矢印を向けているかということに由るのです。

どんなことも決めるのはたった一人の自分次第です。

自分が決めるからこそ、周りもまた決めることができます。自分が決めた人生はどんな結果が待ち受けていても悔いもなく、また清々しいものです。生き方を決めるということや、初心を定めるということは自分の人生を自分で歩むということを決断したということになります。

自分自身が自分自身のリーダーになることで自分自身が自分自身のことを認めますから、周りもまたその人を自分のリーダーと認めるのかもしれません。自分自身のリーダーは自分自身、リードしていくのは自分なのだとし責任感を持ち常に矢印を自分に向けて精進していきたいと思います。

 

世界の平安

全ての出来事というの物は、直接的なものと間接的なもので出来上がっているものです。それは直接目に見えるところと、間接的に観えるものが合わさっているともいえます。人は視野狭窄になると、目に見える直接的なところだけで物事を判断してしまうものです。しかし実際の物事は、目に見えないところの間接的な効果によって顕れてくるものです。

こういうことが分かるには、眼だけではなく心眼のようなものも同時に働かせることで気づけるように思います。そしてその訓練は、内省と振り返りによって行うものです。

例えば、過去のことを思い出すとします。その際、あの過去のことが生じたのは一体何が原因であったかということを見出していきます。すると、あの時の出会いがそうだったとか、あの時の行いが繋がっていたとか、あの時が運命の分かれ道だったとか、様々なことを思い出されます。そして今を見つめると、天の助けがあったとか、実践をしてきたからだとか、生き方が変わったからだとか、夢を信じたからだったとか、様々なことを振り返ります。

そうやって内省と振り返りを通して、人は直接的にも間接的にも、生じたご縁に気づきそのすべてを実感することで出来事や物事を全体を観ることができるように思うのです。もしそのように全体を素直に観ることができるのならば人間は方向を見失うことが少なくなるように思います。いや、言い換えれば人類は方向を見失わないのではないかとも思うのです。

今の時代は、間接的なことに対する意識が失われつつあります。振り返りと内省をする時間がないほどに何か急いでいるような気がしてなりません。別にただ早いという意味ではなく、内省し振り返る時間がなくなってきているのです。

目に見えるところばかりを見て生きるのは忙しくなるだけで思いやりを優先できなくなってきます。本来は、多くの間接的な見守りによって現実の世界は生じてきたのだからそこに対する感謝の心があってこそ御蔭様の有難さに気づけるものです。

一度、眼を半分だけ閉じて心の眼を半分だけ開き、同じ目で全体を丸ごと見つめその偉大な御蔭様に気づけるのなら如何に御縁を結べた思いやりで今につながっているかといった人類の初心をも思い出させていけるように思います。

大切な気づきを共有することで、心の平安も得られ世の中の平安も広がります。何を優先して生きていくか、力強く実践を高めていきたいと思います。

 

人類の未来予測

昨日、新潟のカマキリ博士こと酒井與喜夫先生にお会いすることができました。以前、「カマキリは大雪を知っていた」(人間選書)を拝読し感動してずっとお会いしたいと思っていた方です。

お話をお聴きしていると、その範囲は丸ごと自然全体に及び、カマキリだけに限らずあらゆる生き物たちの声を聴いて未来を予測していました。それは単なる天気予報ではなく、人類の未来の予測といってもいいかもしれません。

人類がこれからどう生きていくか、自然災害に対してどう生き残っていくか、本来の私たちが長年何を大切に暮らしてきたかを考えさせられる機会になりました。

昔から私たちは「民間伝承」というものが口伝でたくさん残っています。それは先祖たちが、長年の自然の観察をもとに分析してきた財産とも言えます。それらはすべてマグレではなく、場数によって得られた智慧です。

例えば、本来の農家の農は、自然に精通している農の農です。今の農は、農学を優先しあまり自然の姿からの洞察を重要視しません。本来の職業の本質は、昔は学ではなく道としてすべてそのもの(自然)と対話する中で磨き上げれてきた智慧集類とも言えます。

道から離れて文字や記憶にある学だけを正しいと信じるということ自体が自然を見失っていった原因ではないかと思います。文字や記憶にないものは、そのものが必死に生きているという現実味です。現場というものは、常に真摯であり必死です。生き残るために必死ですから本来の本能が働いています。今のように平和ボケしてなまってしまったセンスではなく、本来のセンスがハタラキあらゆるものを感受感得できたように思います。

そういう目に見えないものを観る力があってこそ、見えるものを素直に観ることができるように思います。世の中は、常に見える世界と見えない世界が合わさって丸ごと動いています。見える世界ばかりを知って、さもそれだけが正しいと思い込めば見えない世界があることを信じなくなります。もしくは見えない世界だけを信じて、見える世界をなおざりにすると見える世界が知らせてくる兆しすら感じられなくなります。

自然を見つめるとき、それは見える世界と見えない世界の両方”丸ごと”で理解していくのが自然そのものの智慧の理解であろうと思います。そしてそれは、自分の手と足、目と耳、全ての感覚を遣って「カラダ」で理解していくものです。「カラダ」は見える見えないに関わらず、全身全霊で必死ですから本来の智慧を感受できるのでしょう。

それが自然の智慧そのものであり、私たちに具わっている生きる力の源流です。

酒井先生の毎年1万キロに及ぶ、数十年の観察を通した生き方から自然の周波数とは何か、本来の未来予測とは何か、そして結びの中にある声聞縁覚とは何かをもう一度見つめ直す有難い機会になりました。様々なことを学ぶには第一に謙虚さが必要で、その謙虚さは常に丸ごとで自然に寄り添うことを肝に命じたいと思います。

自然界の生き物の中でもっとも自然災害に弱いのが人間ですから、その人間がこの先の気候変動の中でどう生きていけばいいか、子ども達にも自分たちの生き方が譲れるようにさらに実践を高めて精進していきたいと思います。

有難うございました。