天地自然の学問

早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきます。鳥はなぜ鳴くのか、それぞれに縄張りを知らせるからや雌への求愛からなど一般的に言われています。私たちはほかの生き物を認識するとき、人間が特別で別の生き物は別のもののような認識をします。

しかし実際には、目もあり耳もありそして手足もあります。共通するところをよく観察すると似ているところがとても多いことに気づきます。違いばかりを探すよりも、似ているところを観察すると自分というものと同じところがあることを認識します。すると次第に、その生物のことを深く感得していくことができるように思います。

そもそも多様性というものは、尊重するために必要な言葉です。生物も何らかの天性や個性があり、固有の意識や魂もあります。それぞれに意味があって生まれてきて、この自然界の中で大切な役割を果たしていきます。それを尊重しようとするのが多様性を理解する本質だと思います。

鳥もまた、季節ごとに活動していますが自然の役割があります。その役割をよく観察するとき、豊かに生きることや仕合せであることなどが共通していることに気づきます。

鳥が鳴くのは、私の感覚では感情があるからです。単なる合図だけで鳴いているのでもなく、対話をするだけではなく、私たちが自然に感情がこみあげてくるように鳥にも同じように感情が湧きます。私は烏骨鶏を長いこと飼育していますが、その日その日の感情で鳴き声が微妙に異なっているのがわかります。悲しいときには悲しい鳴き声を発し、怖がっているときには怖がっている鳴き声を発する。自分の感情を鳴き声で伝えているのです。

私たちの体は感情を伝えるように機能が発達しています。例えば、目というもの。目は口ほどにものをいうともいわれますが目は自分の感情をそのままに現わします。鳥もまた同じく、苦しそうな時には苦しそうに目が表情を映します。楽しそうなとき、うれしそうなときも同じように表情が出てきます。

そしてこれは鳥に限りません、犬にも猫にも同じことがいえますしもっといえば、虫や植物にも同じことが言えます。つまりこの「感情」というものは、この地球のすべてのいのちに宿っている共通のものということです。

私たちは変に勉強しているうちに細部がわかっても全体がわからなくなっていきました。本来は、自分と同一であるということを忘れて人間だけが特別かのように勘違いしていきました。ここから学問は崩れ、専門家たちのものになり本来の天地自然を尊敬し尊重するという意識が薄れてきたように思います。

本物の学問は、天地自然を相手にするものだと私は思います。古来の普遍的な大道を生きた先達たちような生き方をこれから結んでいきたいと思います。

場を思い出す

昨日は、暮らしフルネスで自然農の体験をしたいという方がきて夏野菜の畑を一緒に取り組みました。はじめてこれから農的な暮らしをはじめるとのことで、何もしたことがなくてもやる気はとてもある方でした。

思い返せば、私も幼いころより祖父の手伝いで畑にはよく連れていかれましたが自分が本格的に野菜やお米をつくるようになったのはまだ十数年くらいなものです。しかも仕事をしながらの隙間時間でだったので、失敗も多く、思ったようにならないことばかりでした。

今では、野菜の性質をしり、土を理解し、風や水の通し、虫や動物への対策なども体験し自然に畑をつくり収穫をしています。しかも、どうやったら美味しく食べられるかも学び、自然農家のような暮らしができるようになりました。合わせて、今では山での暮らしもはじまりもう一歩前に進めて山での暮らしを体験しています。

みんなはじめは初心者です。誰が偉いとか、誰がすごいとかではなく、あのすごい人も偉い人もみんなはじめては初心者です。それを継続していくなかで、様々な失敗や成功を繰り返し実力が磨かれ結果としてできるようになります。

初心者だからダメではなく、いつかはできるようになる人のことを初心者というのです。私も現実的には、不可能と思えるようなことをたくさん体験してきました。特にはじめてやるときは現実に直面してたじろくこともありました。

しかしそれでも周囲に支えてくれる人や、見守ってくださる方が顕れ気が付くとできるようになっていました。こうやって人は、思いがあれば仲間が集まり伝承されることで継承されていくのです。

特に土を触ることや、野菜を育てることはもう何千年も前から私たちの先祖がはじめたことを私たちは今も取り組んでいることになります。できないはずはなく、忘れているだけです。

忘れているものを取り戻すことこそ、私は真にできることであろうと思います。問題は、どのように思い出すかということです。子どもたちのためにも、思い出すことが忘れないように場を調えていきたいと思います。

本来の伝承

修験道のことを深めていると、時代の変遷を経て様々なものが混淆していることがわかります。はじめは山からはじまり、その山で修業し暮らした人たちが持っていた様々な知恵が里の人を救うための仕組みとして伝道していきました。本来の根源的なものは何だったのか、そういうものに触れることで私たちは歴史から原点を学び直すことができるように思います。

ざっくりですが、修験道をはじめすべての神仏混淆したものはそのはじまりは日本の場合は自然崇拝からはじまります。自然と自分と結んでいるもの、自分の心身を構成しているものとのつながりの中にいのちや、その存在の妙を直感し、自然にいのりはじめたことがはじまりです。縄文時代の遺跡や文化にも、祭祀を行い、自分を活かしているもの、自分のいのちを存続させてもらえる有難い存在、それはご先祖さまを含めて大切にいのり続けたことからも理解できます。

それが時代の変遷を通して、数々の人たちとその時代の価値観と融合してあらたな信仰として変化してきました。自然崇拝からの巫女さんたちが神道に混ざり、そして仏教が入り尼になりと、様々な暮らしの中で信仰が結びついてきました。さらに、政治的な宗教も入り、共同体としての豪族から領主的なものとしての統治に代わるなかでまた組織ができ、信仰も形を変えていきます。また明治に入り様々な宗教が区別されていくなかで、混淆していたものを分類わけして今に至ります。

本来の始まりはどこかということも、今であまり重要視されていません。しかし私は、分類わけして複雑になってそれがいがみ合うほどになっているのなら原点回帰することが自然ではないかとも感じています。それもまた自然の仕組みの一つだからです。

自然というのは、はじまりから終わりまで循環を続けます。ただその循環は何が循環しているのかということが重要です。自然界であれば、いのちが形を変えて循環を続けます。そのいのちがまるで水のように移り流れることで、私たちは生き続けて活かし続けられていきます。

本来のいのちがあるものは、そういう原点や根源的なものを失ってはいないものです。今の時代は、物質文明でいのちを物として扱い、便利さや効率を優先して経済効果を最大化するという仕組みで成り立っています。だからこそ、原点や根源的なものをあまり意識することもなくなってきました。

しかし、山は変わらずに今私たちの前にあります。その山と対話することは、今の私たちが忘れてしまっている原点や根源を思い出す大切な機会になるように思います。

子どもたちのためにも、はじまりから学び続ける姿勢を伝承していきたいと思います。

観音様の生き方

観音様を深めていますが、観音様の真言というものがあります。この「真言」とは古代インド語のサンスクリット語でマントラ(Mantra)と言われる言葉のことで「真実の言葉、秘密の言葉」という意味です。空海の般若心経秘鍵によれば「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く、一字に千理を含み、即身に法如を証す」記されます。私の意訳ですが、真言はとても不思議なものである。この真言をご本尊を深く実観するように読んでいると知らず知らずに目が覚め、一つの字の中に無限の理を感じ、直ちにそのものと一体になり悟ることができるという具合でしょうか。

この観音様の本来の名前はサンスクリット語では、「アヴァローキテーシュヴァラ」(avalokiteshvara)と記されます。もともと般若心経などを翻訳した鳩摩羅什はこれを「観世音菩薩」と訳し、その観世音菩薩を略して観音菩薩と呼ばれるようになりました。この鳩摩羅什(Kumārajīva)という人物のすごさは、母国語がインドでも中国でもなくウイグルの地方の言葉が母国語でしたがその両方の言語の意味を深く理解し、それを見事な漢訳の言葉に磨き上げたことです。これは仏教の真意を深く理解し、それを透徹させてシンプルになっているからこそ顕れた言葉です。これは意味を変えないままに言葉と事実の折り合いをつけその中庸のまま中心が本当はどういう意味かという真意を的確に理解しているからこそできたものです。これによって仏の道に入りやすくなったということに厚い徳を感じます。

今でも私たちはそのころに漢訳されたお経を読んで生活しています。西暦400年ごろから今でも変わらずそれが普遍的に読み継がれるのはそれだけその言葉が磨かれ本質的であるということの証明でもあります。そこから約200年後、三蔵法師で有名な玄奘三蔵はこの観音経の真言を「ava(遍く)+lokita(見る)+īśvara(自在な人)」とし観自在菩薩と訳します。つまり鳩摩羅什による旧訳では観世音菩薩とし、玄奘三蔵の新訳では観自在菩薩となりました。

それを私の観音経の解釈では「円転自在に物事の観方を福に循環する徳力がある」と現代に訳します。つまり、自分の物事の観方を変えて、すべてのことを福に転換できるほどの素直さがある仏ということです。これは観直菩薩でもいいし、調音菩薩でもいい、観福菩薩でも、そう考えて訳している中で当時最もその人が深く理解したものを言葉にしたのでしょう。大事なのは、その意味を味わい深く理解し自分のものにしていくということが親しむことであるしそのものに近づいていくことのようにも思います。

最初の観音様の真言に戻れば、観音菩薩の真言は「オン アロリキャ ソワカ」は「Om arolik svaha」といいます。これもまた私が勝手に現代語に意訳してみるとこうなります。

「おん」=私のいのちそのものが

「あろりきゃ」=穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを

「そわか」=心からいのります

『私のいのちそのものが穢れが祓われ清らかさに目が覚め、物事の観方が福となることを心からいのります。』

とにかく「善く澄ます」ことということです。実際にその言葉の意味をどのように訳するかは、その人の生き方によって決まります。その人がどのような生き方を人生でするかはその人次第です。それは自分でしか獲得できませんし、他人にはどうにもできないものです。しかし、先人である観音様がどのように生きたのか、そしてどのような知恵があって自ら、或いは周囲の人々を導き救ってきたか、それは今もお手本にできるのです。

私たちが目指したお手本の生き方に観音様がとても参考になったというのは、私たちのルーツ「やまと心」が何を最も大事にしてきたのかということの余韻でもあります。

時代が変わっても、響いて伝わってくる本質が失われないように生き方で伝承していきたいと思います。

 

 

謙虚さ

時間の経過を観察していると様々なことがわかってきます。自然界ではありのままに移るので道理に従っていることが自明します。人間関係においては、どのような思い込みであったのかということも次第に明らかになってきます。人間はそれぞれの観念や思い込み、あるいは自分の価値観で相手を見ますから都合よく認識するものです。

思い込みが発生するのは、自分の感情が大きく影響するものです。ありのままのことをあるがままに受け入れることは素直な感情です。しかしそこに自分の過去のトラウマや、こうなってほしいという願望などが入ってくると現実を歪めてしまうものです。

特に執着などがあれば、その執着ゆえに事実も受け入れられず様々な問題をつくりだしていきます。執着を手放すといってもそう簡単には執着はなくなりません。思い込みもまたこだわりや思いの強さでもあったりするので、善悪で考えられるものでもありません。

しかし真に豊かであったり、真の喜びのさなかに入ればそれぞれの存在を丸ごと味わうといういのちの姿になっていくとき執着も思い込みも中和されていくものです。

真心を盡したり、人を大切にしたり、ご縁を丁寧に結んだりしていく人は、様々なことを調えていくことができるように思います。しかし、強い思いで何かに取り組むときはどうしても心がほかのことに使われてしまいそれができないものです。

謙虚さというものは、そういう時に磨かれるもののように思います。自分の力でやっているけれど、それは大きな力をいただいてさせていただいているという感覚。主語を自分にせずに、主体を全体にして自分もその中の一部になるような感覚。

そういう無我というか、真我の境地のなかにこそ思い込みを超えたやさしさや思いやりがあるように思います。

人生は色々な方法でその境地にアプローチできるように思います。日々の学びを磨き、自分らしく自分のままにいのちを歩んでいきたいと思います。

初心伝承の人生

誕生日を迎え、多くの友人たちからお祝いのメッセージをいただきました。思い返せば、あっという間にこの歳まで過ごしてきました。日にちでいえば、赤ちゃんとして外の世界に出てきてから17194日目になります。また今日もその日に一日を積み重ねていきます。あと何日、この世で体験できるのか。そう思うと、貴重な日々を過ごしていることを思い大切にしたいと願うようになります。

誕生日というのは、そういう日々を過ごす原点を思い出しこれまでの日々に感謝する日かもしれません。どの一日も、よく考えてみたら当たり前の一日ではなく尊い日々です。

その時々の人と出会い、語り、何かを共にする。いのちを使い、いのちを守るために、他のいのちをいただいて暮らしを紡いでいく。どの日々もつながっていないものはなく、どの日々も結ばれていないものはない。

一日一日をリセットしているようで、それはリセットではなく新たな一日をさらに新しく体験させていただいているということになります。そして身体も衰え、次第に死に向かっていきます。死を想う時、この今が如何にかけがえのない一日かは誰でもわかります。

一日を何に使って生きるのか、自分のすべての日にちをどんなことに懸けて生きるのか。

有難い一日にかけがえのない喜びを感じているとき、人は仕合せに回帰します。どのような一日であったとしても、その一日は二度と戻ってこない一日。一期一会だからこそ、生き方を見つめ、生き方からいのちを発して光を放っていきたいと思います。

我が初心伝承の人生。

残りの日数で、できる限り真心で尽力していく覚悟です。

貝に導かれる人生

昨日から私が尊敬する友人が来庵しています。この方は、真言宗の僧侶で法螺貝を愛する人物ですが生き方が共感することが多く話をお聴きして学ぶことや気づきをたくさんいただけます。

もともと法螺貝の音色もとても情熱的でまっすぐで、その振動は全身から汗がでてくるように水を揺らします。夜中まで法螺貝談義で盛り上がりましたが、その中でも特に貝に導かれる人生についてのところは有難い気持ちになりました。

私の貝との最初の出会いは、宮崎の日南海岸です。出張で、車で海岸沿いを走っていたら海の中に光る不思議なものを発見し、スーツでしたがズボンをまくり上げて数十メートルの浅瀬を歩いていき手を伸ばした先に小さな巻貝がありました。

その体験の時の出会いが忘れられず、終生お守りとして大事に保管しています。その後の留学や海外での仕事、東京での一人暮らしのときもこの巻貝をいつも持って一緒に暮らしてきました。眠れないときは、耳に当て海を感じ、一期一会を思い出すときは手にとってお手入れをしていました。

そこからは千葉で貝磨きの方と出会い、貝を磨くことで光ることを学び、素晴らしい貝に出会うと磨き上げていました。そして、気が付けば法螺貝に出会い、法螺貝を磨き吹くことで多くの人たちとの出会いがはじまりました。

尊敬する友人も、法螺貝に導かれる人生を送られていました。幼いころにお父さんが吹いていた法螺貝に憧れ、そこから法螺貝に魅了され修行を積まれます。今では、貝がどのようにしてほしいかを直感し、貝の手入れをされ指導や修繕などを手掛けられます。

あくまで法螺貝を優先するので、法螺貝を売るのではなく法螺貝の声を届けるという生き方です。

私も古民家甦生をはじめ、あらゆるものの古いもの、懐かしいものの声を届けることを実践しています。それは同じ感覚で、古民家を売り買いしたいのではなく家がどうしたら喜ぶか、そしてこのいのちがどうやったら甦生するかということしか興味もなく、行動もしません。

たまにこれを仕事にすれば儲かるなどという人もいますが、そもそも動機や目的が子ども第一義からきているものですから、生き方が純粋でなければ、そして本志本業が一致していなければ生きている意味がありません。

生き方というものは、昔の人たちはとても大切にしていました。自分を守るために、切腹するほどに大切な生き方を優先していました。自分を守るということは、自分の純真や純粋性を守るということにほかなりません。

私の周囲には、そういう方がたくさんおられます。私自身も刺激され、生き方を磨く環境をたくさんいただけています。今回も、貝がつないでくれたご縁です。ありがたく、貝の声を聴き届けていきたいと思っています。

法螺貝に感謝して、法螺貝とともにこれからも歩んでいきたいと思います。

懐かしさとは

むかしの遺跡や和歌を深めていると、その時の情景や心情がどうだったのだろうかと感じるものです。今は、ほとんど景色も様変わりしており、遺跡の周囲は近代的な建物や資材置き場など価値のない場所として使われています。そもそもこの価値が変わってしまい、昨日ブログでも書いた種よりもお金が大事になり、歴史よりも経済が大事になればその土地の本来の価値も失われていくのは当然かもしれません。

私達が懐かしいと思うものは、ただ思い出があるものだけではありません。そこには、今にも「つながっている心」であったり、その当時から人間が持っている普遍的な情緒や感情、気持ちに「共感」するときに懐かしいと感じるのです。

この懐かしいという言葉は、慣れ親しむもの、手放したくないものという意味でもあります。つまり、いつまでも失いたくないもののことのことでしょう。

私達が懐かしいという言葉を語る時、忘れてはいけない初心や、いつまでも失いたくない大切な記憶のことをいうのです。

今の時代は、懐かしいものが減ってきています。ほとんど懐かしいという言葉を使うことがないほどに、なんでも新しくし、近代化を進め、過去を否定し、価値を換えてしまいました。

しかし、子孫のことを思う時、これはいつまでもなくしてほしくないもの、そして忘れてはいけないもの、そういう先人たちも一度きりの人生で深く味わった大切な体験をずっと宝ものとしていのちのままとして後世に伝承していけたらと思うのです。

伝承は、この懐かしさと一体になっているものです。

初心伝承をしながら、子どもたちに懐かしい未来をつないでいきたいと思います。

徳積の初心

論語の大学には、「明明徳」「親民」「止於至善」の三綱領と「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八条目があります。これらは、大学のはじめにある「大学の道は明徳を明らかにするにあり、民を新にするに在り。至善に止まるに在り」に続くものです。

この大学はとてもシンプルです。人間が自然の道に入ること、自然であるとはどういうことか、自分になるということ、自分であることの大切さを説いているように私は思います。自分の原点、改良される前、真に澄んだ素直な自分であることがわかれば徳は明らかになります。その徳を使って、今度は世の中も同じようにしていけば天下は永遠に平和になるということでしょう。

しかし実際にやるのは簡単ではありません。歴史というものは、改良や刷り込みの連続ですからもはや最初が何だったのか、原点が何か、根本はどうかなど知ることがほとんどできません。それを真に実現するには、先ほどの三綱領や八条目の実践が有効だと言っているように思います。

二宮尊徳先生は、幼少期から亡くなるまで大学を手放さなかったといいます。まさにそのような生き方をされ、天命を全うされました。

二宮尊徳先生の語録191にこのようなものがあります。

『孔子は、「大学の道は、明徳を明かにするに在り。民を新(あらた)にするに在り。至善に止まるに在り。」と言った。これを田畑にたとえれば、明徳が物欲に覆われているのは、荒地ができたようなものであり、明徳を明らかにするのは、荒地をひらくようなものである。そしてその産米を得たならば、その半ばを食って半ばを譲り、繰り返し開墾して荒地を起させていく。それが「民を新にする」ということである。そして、この開墾と推譲の道は、万世までも変るべきではない。これが「至善に止まる」である。』と。

意訳ですが二宮尊徳先生は、誰もが捨ててしまった荒廃した田畑を開墾してそこでお米を収穫できるようにしました。そのうえで収穫したものを全部を使い切らず、半分で生活をさせ残りの半分を翌年や今後のために譲りました。それを繰り返し行うことで、人々の暮らしが調っていきました。それを遣り続けることこそが最善の永続であり自然の循環であるとしたのです。

もう一つこういう言い方をします。

『私の本願は、人々の心の田の荒蕪を開拓して、天から授かった善い種である仁・義・礼・智を培養して、善種を収穫し、また蒔きかえし蒔きかえしして、国家に善種を蒔き広めることにある。大学に明徳を明らかにするにあり。民を新たにするにあり。至善に止まるにありと。明徳を明らかにするは心の開拓をいう。』

私が真に取り組んでいることは、荒廃した田んぼのようになった人々の心の荒廃を開拓して、もともとその人が先天的にいただいた徳、つまりは真心や思いやり、やさしさなどを培養し、その心の種をみんなから集め、その心の種を何度も蒔いては蒔いてそれを国全体に蒔いて広げていこうとしたことです。大学の明徳とは、つまり心の開拓をすることです。

自分自身が心を開拓され、その真心や思いやり、やさしさに触れたからこそその心の種をもっとたくさんの人たちに広げていこうと思うものです。見守られた人は見守りたくなり、信じられた人は信じたくなります。それはそうやってその人の心の中に、その種が蒔かれて芽生えたからだともいえます。

私が取り組む実践は、この二宮尊徳先生と同じ志です。

元々の徳を明らかにして、生き方を調え、いのち徳積みの実践を丹誠を籠めて弘めていきたいと思います。世界が平和になるように、私のできることから今、この場から今日も取り組みます。

故郷の徳を磨く

昨日は、私の母校の庄内中学校の生徒たちと鳥羽池のお手入れ、ゴミ拾いを行いました。前回は、バスケットボール部が中心に行いましたが今回は生徒会が中心に声掛けをして80名以上の有志が集まりお掃除を行いました。

休みの日の初日に、これだけの生徒が集まってみんなで主体的に掃除をしましたからその熱気や熱意は相当なものでした。私たちは、ゴミ袋に入らないようなものを軽トラックで伴走しながらお手伝いしましたが普段拾うことがないような工業ゴミや自転車、タイヤなどの粗大ごみもたくさん拾うことができました。

この池は、ブラックバスが良く釣れるということで釣りの人たちがたくさん来ます。ルアーをはじめあらゆる釣り具が捨ててありましたがそれで怪我をして生徒もいました。きっとすべての釣り人が捨てているわけではなく、一部の人たちによって全体の釣り人の評判が下がるのはとても残念なことです。自然を愛する人たちは、自然を汚したりゴミを捨てたりすることはしないように思います。みんなが気持ちよく、自然を楽しめるように配慮していただけると鳥羽池も喜んでくれるように思います。

ゴミで多かったのは空き缶など、そのほかには生活ごみです。ゴミ箱に捨てるのが面倒だったのか、それとも捨て方がわからなかったのかその辺に投げ捨てているものがほとんどです。粗大ごみにいたっては、きっとお金がかかるとか面倒という理由で池に投げ捨てたのでしょう。冬の間に水を抜くことで、ゴミが捨ててあることに気づきます。

この池は、冬鳥たちや渡り鳥がたくさんきます。年中、色々な鳥たちが憩いの場になっています。魚をはじめ亀なども多く、小春日和や秋の夕暮れなどは幻想的で自然の美しさにうっとりします。自分の故郷や町にこのような場所があることで、心のゆとりや余裕もうまれます。朝夕、散歩の老夫婦をはじめランニングをする方々もたくさんいます。私の父も、桜を守っていて蔓などが桜を枯らさないように見守っています。

みんなが愛した場所は、愛したように場所が美しくなっていきます。

場というものは、本来はみんなでお手入れして守っていくものです。お手入れとは、心のお手入れでありそして場所のお手入れです。このお手入れとは、いつの日か必ずこの世から存在が消えてしまうものだからこそ勿体ないと丁寧に少しでも寿命が長く持てるように愛していくことです。

そうやって愛されたものは、そのままにその愛を周囲に恩返ししていきます。私は古民家甦生をしていますから、それがよくわかります。古く長く大切にされてきたものは、みんなから愛されてきたものがほとんどだからです。

生徒たちが中心になってこのような活動を故郷で行っていくことは本当に素晴らしいことと思います。こういう活動がいつまでも続き、そしてその生徒の姿をみて大人たちがもっと変わっていけばいいなとも感じます。子どもたちに恥ずかしくないような大人でありたいと思います。

これからも故郷の徳を磨いていきたいと思います。