初心の文化論

子ども心というものがあります。これは遊び心や好奇心などともいわれますが、私は人間性の初心のように定義しています。子ども第一義というもの、元々具わっている子どもの人間性を忘れないという意味で使います。つまり人類の原初の思いやり、孟子でいう惻隠の情のことです。自然に湧き出てくる人間の真心ともいえます。

保育園で子どもたちの会話を聴いていたり、質問をするとまるで神がかかっているような言葉や行動をみることがあります。子どもは優しく思いやりがあり、刷り込みがありません。あるがままのこの世の中をあるがままに観て、自然体です。赤ちゃんが神々しく感じられるように、人間は本来は神々しく感じる存在です。

そのまま大人になった人物を仏陀ともいい、観音様などとも呼ばれています。

しかし人間は発達する過程で、その人間性や初心を忘れていきます。それは与えられた環境や欲望が心を曇らせていくからです。それをどう取り払い、本来の人間性を回復させていくか。それが私が暮らしの甦生に取り組む本意でした。

もしも仏陀や観音様が今、目の前にいてどのような暮らしをしているかを観れば人は何が人間性であるかを思い出すかもしれません。実際には、まったくそういう場がなく見ることもなければ気づくこともないでしょう。

だからこそ、時代を超えて人間性を磨き、初心を忘れない仕組みを暮らしを通して伝承する大切さを感じます。

子どもたちは本来、人間性や徳が溢れる存在です。その存在が、ずっと初心を守れるように見守ることが私が感じる保育の本質です。つまり子ども心とは人間性の初心であり、暮らしの甦生とは、その初心を忘れずに生きるための場と文化を未来へ伝承するということでしょう。

同じ言葉を使っても、その人の思想や人生観、そして生きざまや実践が言葉に宿ります。私が思う文化論をどのようにカタチにしていくか、まだまだ精進していきたいと思います。

紫陽花の徳

梅雨入りして紫陽花が美しく咲いています。この梅雨の期間の花はドクダミもですが昼間も雨で薄暗い景色に水色や藍色、純白の花はとても心を潤します。お水が大量に土に沁み込む季節は、お水を大量に必要とする植物たちが賑やかに育ちます。

この紫陽花は日本原産のお花です。お花は小さいのですがガクがお花のように見えて不思議な形状をしています。西洋アジサイというものがありますが、これは日本のホンアジサイが欧州に渡り逆輸入されたものです。

日本の文化が欧州にいき、逆輸入して日本の文化として再び根付くというのは心に思うものがあります。うちの庭では、日本紫陽花と西洋アジサイが同じ場所に咲きますからそのどちらも美しく、紫陽花そのものの徳を引き立たせてくれているように感じます。

切り花で家に室礼ますが、お手入れをよく施せばずっと長く咲いて家の空間を美しく彩ります。

もともと紫陽花はお寺にもたくさんあり、供養花でもあります。

アジサイの花の色は、青いものから赤いものまでたくさんの種類と変化があります。酸性の土では青みが強くなり、アルカリ性の土では赤みが強くなるといいます。本来の紫陽花の名前は「集真藍(あづさあい)」で藍色が集まるという意味が由来といいます。

日本の土壌はほとんど酸性であるため、その当時の紫陽花はみんな青色であったのではないかといいます。

私は藍色が特に好きなので、この時季のお水と紫陽花の花は深く心が癒されます。むかしはカタツムリなども紫陽花に乗っていてその風景や景色をずっと観察していました。

何年経っても、お花が観直にある暮らしは仕合せです。

これから切り花の水きりをし、少しでも長く一緒に紫陽花を愛でていきたいと思います。

自然体調和

今から約2200〜2500年前(紀元前4世紀〜紀元前1世紀頃)に、多くの医師や思想家たちの知恵を集めて編纂された「黄帝内経」という中国最古の書物があります。これは伝説上の帝王である黄帝と賢者・岐伯の対話形式で書かれているものです。

これは東洋医学の原点でもあり、中国医学の原初とされる書物です。その内容は単なる治療技術や薬の解説ではなく「人はどのように生きれば本来の生命力を保てるのか」という根源的な問いを発しています。

まず冒頭で意訳ですが黄帝は師である岐伯に尋ねます。

「昔の人々は百歳を超えてもなお元気に活動していたと聞く。しかし今の人々は五十歳ほどで衰え始める。これは時代が変わったからなのか。それとも人々の生き方が変わってしまったからなのか。」と。

すると「今の人は酒を水のように飲み、無理に働いている欲望のままに生き、生命の根源的な力を消耗している。昔の人で道を知る者は、自然の法則(陰陽)に従い、生活の節度を守っていた。それに飲食には節度があり、生活には規則があり、無理な働き方をしなかった。だから身体と精神が調和し、本来与えられた寿命を全うすることができたのです」と。

つまり病気は単なる身体の故障ではなく、自然との調和や自分自身との調和を失った結果として現れるとはっきりと定義しています。

そして黄帝内経・素問 上古天真論篇第一』でこう諭します。

「恬淡虚無、真気従之。精神内守、病安従来。」

つまり「心が静かで執着が少なく、無理な欲や先入観に振り回されなければ、本来の生命力は自然に働く。そして精神が自らの中心に安定していれば、病は容易には生じない。」と。

自然な生き方が乱れると病気になると。

今の日本では、薬局も病院も増え、病気の人ばかりです。これは病気の問題なのか、生き方の乱れの問題なのか、それは一目瞭然です。不自然な生活、不自然な飲食、不自然な暮らし、不自然な生き方、つまり不自然が不調和をつくり病気が蔓延しています。

それを正そうとするのではなく、便利な治療法や対処療法でお金にしていく。お金と欲望はつながっていますから病気が増えるというのはつまり欲望が病気を大量生産していくということでしょう。

如何に「自然体調和」を心掛けるか。

健康で長生きは、むかしの人たちの憧れでした。現代は、科学の力で不老長寿などを研究していますがそもそもそれも不自然をさらに増幅させていくようにも思います。

自然体でいることが調和をつくり、未病を維持する仕組みという中に智慧を感じます。引き続き、暮らしの乱れを調えながら「恬淡虚無」の実践を心がけたいと思います。

井戸水への感謝

今では水道水の生活が当たり前ですから井戸水のことなどは考えることはありません。しかし私は基本はすべての古民家では井戸水をお祀りしそのお水で調理や日々の暮らしを調えていますから欠かせない存在です。

井戸水といっても同じお水は一つもありません。英彦山の井戸水はお山の石清水ですから透明感が強く清めたりお薬にするのに向いています。聴福庵のお水は、調理や飲み水に向いています。遠賀川の横を流れるお水で鮮度が高く、水量も豊富です。場の道場のお水は、岩盤の割れ目から流入してくる伏流水でPh9あり硫黄臭などがあり冷鉱泉のようです。お鍋料理などもいいですがお風呂で使うと感動します。和楽の井戸水は、大変冷たく、砂礫の間を抜けた関の山や田んぼお水がしみ出しています。水風呂や洗い物、育苗などにも重宝しています。

井戸水にはそれぞれの個性がありその土地特有の特徴がお水に具わっています。水道水はどこでも似たようなものですが、組み立ての井戸水の個性は誰でもすぐに感知できるほど特徴的です。

この数年、井戸掘りをはじめ井戸に関わってきましたがこの井戸という存在の大きさを深く学んでいます。井戸水は土地の神様、産土神そのものです。その井戸水に深く感謝することや、大切に接して祈ることでお水への尊敬を忘れないこと。お水は単なる飲料水ではなく、いのちそのものの顕現する姿です。

むかしの人たちは、井戸水は龍神の化身とも信じられとても大切にお祀りしていのりました。

先日、ある古民家の井戸が枯れたお話をお聴きして存在の偉大さを痛感しました。

お水は家を守るだけではなく、その家族を守ります。

だからこそ守ってくださっていることをいつも忘れないように暮らすことで心中の偉大な安心になっているように思います。

引き続き、井戸のお水に感謝して暮らしを調えていきたいと思います。

法螺貝の呼吸

私たちは呼吸をします。この呼吸は酸素を吸っているといわれます。酸素はいわゆる古代から効率的なエネルギーとして利用されてきました。ミトコンドリアという細胞が酸素を使って糖や脂肪を燃焼させて私たちは活動します。同時に酸素は毒でもります。三によって錆びたり、老化したりさせます。

人体でもっとも酸素を使うのは脳みそだといいます。全体の2パーセントしかない脳が、約20パーセントの酸素を使います。

脳は少しの時間酸素が供給されないだけで意識障害をおこし、数分で脳死します。酸素が脳を動かす動力源です。

この酸素というものは、科学的な存在以外に氣やエネルギー、いのちを司ります。

どんな人間でも呼吸をしない人はいません。また呼吸が止まればいわゆる死んでいるということになります。この呼吸をどれくらい大切にしているか、これは自律神経をはじめ心身の調和にも大きな影響がでます。

酸素にも色々な酸素があります。

特に美しい霊山の深山にある綺麗なお水が湧くところの酸素と、大都会の酸素、砂漠や北極などの厳しい自然の酸素、どれも同じ酸素ではありません。そこには確かないのちのエネルギーや存在がありそれを呼吸することで取り入れ自分を調えます。

人が緊張したり、不安だったり、感情に呑まれたりすると呼吸が乱れます。他にも心の状態が酸素を取り入れることに影響を与えます。

呼吸が浅くなり、酸素を取り込めなくなると脳が酸欠になります。すると精神疾患やうつ病などのリスクも出てくると言います。薬ですぐに麻痺をさらに麻痺させるよりも、呼吸の仕方を甦生させたり、いのちの循環を味わったり、休息によって息を調えることを優先した方が酸素は正常に供給されていくように思います。

息ができるということは、仕合せなことです。

呼吸があるから私たちはいのちの循環を味わい、いのちが別のものに転嫁して共生関係をつくることに氣づけます。

法螺貝はこの酸素を調えるのにとても役立つ唯一無二の法具です。酸素の存在を忘れやすい現代だからこそ、法螺貝の呼吸を伝承していきたいと思います。

元氣の回復

元氣というものがあります。これは氣の流れのことをいいます。元氣があるとかないとかいいますが、実際には氣が滞りなく流れている時は元氣がよくそうではないときを元氣がないと言っているように思います。

元氣というのは、絶えず循環して氣が滞りなく自然に流れている状態です。これはお水で例えればすぐにわかります。

お水は滞ればそこから腐り始めます。あるいは澱みが出てきます。まずお水が滾々と湧き出す状態、お水が自然に流れている状態、お水がまた濾過して排出されている状態。常に身体はお水を通して血液をはじめめぐり循環を已めません。

ではどのような時に氣が滞るのか。例えば、東洋医学では感情を抑え込むとき、緊張して滞ります。また、考えすぎることも氣の流れを妨げるといいます。それに恐れや緊張、不安も同様です。他には運動不足、季節感のなさや自然のリズムから離れた生活もまた氣の滞りをつくるといいます。そして執着や固執、頑固なども同様に氣が滞ります。

シンプルに言えば、無理に力んで固くなっている状態、凝り固まっているような状況がもっとも元氣を澱ませ、氣が滞るということです。

ではどのようにしてまた氣を流すのか。それは氣楽になること、つまり肩の力を抜いてリラックスし、心身をゆるめていくことだといいます。

具体的なゆるめる実践としては、呼吸を整えること。首や肩の体操、温かいものを取り入れる、また息を吐くことを含め排出を増やすこと。自然の中に入り五感を使うことや、足裏など押し氣を落とすこと、柔らかい音楽を聴く、薬膳などで心身を癒すことなど多々あります。

力が自然に抜けている状態、自然であるがままで過ごしている時間が元氣を回復していくのには必要だということでしょう。

元氣のあるものは、自然体であるということ。自然体であるために、あらゆる我執や凝り固まり、執着や煩悩を手放していくというのは修験道の一つの境地かもしれません。法螺貝はお水に通じています。法螺貝の神秘を通して、元氣を回復する仕組みを伝道していきたいと思います。

文化づくりの要諦

世界には様々な文化があります。その文化は今でも人々の暮らしの土台となってその人々を支えています。地域という土地の文化もあれば、関係性で続いている文化もあります。組織や会社、そしてそれぞれの家庭にも文化があります。どのような文化が根付いているか、どのような文化を持っているか、それは長い歳月でとても大きな影響を与えていきます。

例えば、習慣や継続するものの中には文化ができる素地があります。

大切なことや忘れてはいけないもの、それを維持するために文化があります。

暮らしの中では、何のために生きるのか、仕事においても、何のために働くのか、つまり目的があります。その目的を忘れないでいることで文化は醸成されていきます。

その逆に目的を忘れると、単なる手段になっていきます。手段は目的があっての手段ですが実際には手段が目的に取って換わることが多いのが人間です。

経済活動においても本来は国家が成長発展するためでしたが現代では経済活動そのものが目的になっています。何のために経済活動するのかも忘れてしまい、経済競争やGDPを増やすことに躍起になっています。

手段が目的になっていくと、人間は人間性を失なっていきます。例えば、存在価値があったものが存在価値よりも重要なものが増えて単なる便利な道具になっていったりもします。手段が優先されると、いのちや存在よりも利用価値や効率がよい方が価値があるように感じるものです。

そうやって失われていった感覚は、敢えて不便さや手間暇をかける中で思い出すことができるものです。

文化というのは、この不便さや手間暇の中でも忘れてはいけないものを守ろうとするときによく育つように思います。いのちの大切さ、地球の循環の有難さ、ご縁や関係性の仕合せ、そして一緒に生きる共同体への安心など、人類が今までずっと見守られてきたものへの初心がそこにはあります。

今の時代は、さらにAIをはじめ便利な道具が急速に発展していきます。人間性が道具に追いつかないでいると、悲惨な結果を招く可能性があります。子どもたちがどのような環境で育つことが、人類にとってもっとも存在価値を育むのか。

暮らしフルネスの場づくりを通して試行錯誤していきたいと思います。

不老園のお茶

英彦山で満月の日にお水の汲んで不老園をつくり調えています。地球は太陽と月によって陰陽を調えている存在でもあります。バランスは、その両方がどのような位置、関係性になるかで変化してきます。

私たちが朝調った状態で起き、夜は休息するように生命のリズムと月と太陽のリズムは一定です。地球がどのように呼吸をして育まれているのか。科学的に証明されなくても、五感や直観でいのちの揺れの状態は理解できるように思います。

例えば、四季というものがあります。これも太陽と月と地球の関係で小さな揺れによって引き起こされます。そのリズムに合わせて、植物をはじめあらゆる動物や昆虫、微生物も変化します。まるで先にその変化を知っていたかのように、少し先回りをして準備して育ちます。これは先読みをしたのではなく、リズムを合わせているのです。

リズムというのは、振動です。

いのちには振動があり、その振動を身体に取り入れることでいのちの循環と調和します。すると、自然に心身が調ってくるのです。

満月には、満月の振動、波動があります。太陽や月や地球が螺旋を描き、銀河を旅するように私たちの身体も同じように螺旋を描いて生命を循環させています。その生命循環の記憶を心身に直接取り込むのにお水は最適な存在です。

お水はあらゆるものを溶かします。そこには時間を溶かし、波動を溶かし、記憶を溶かすこともあります。つまり同化したり透過したり、渾然一体に融和するのです。

その存在を直接、心身に入れるのは感覚の内側からリズムを調えることに似ています。

満月の不老園は、薬草たちのちから、英彦山伝統の祈りのちから、満月の太陽と月の調和、そして場のちからが宿ります。

お茶として飲んでいただくだけですが、むかしはお茶も大切な薬でした。

現代のサプリや科学的な薬とは違い、お茶は嗜好品のようになっていますが本来の深い力を秘めた存在だったように思います。防腐剤や添加物など一切用いず、天然自然のちからが宿るお水をみんなで味わい、伝統を守り健康を保っていきたいと思います。

徳の循環といのちの螺旋

私たちはすぐにあれもこれもと欲望から足し算になっていくものです。そしてあれが足りない、これが足りないと不足を思います。この不足を思うというの足し算の生き方をしているということです。それを続けていたら、ないものねだりばかりをしてはあるものに氣づくことができません。もはや手に持っていても、持っていないと忘れています。この忘れるという行為は、別のものに意識がいっているからです。

よく足元を見つめよという言葉や、立ち止まって考えろという言葉もあります。これも忘れていたものを思い出すような金言の一つです。

満たされない思いや充たされていないという欲は増大するばかりで減ることはありません。人類はずっとこの欲望の螺旋と向き合ってきました。もっともっとと求めては、まだ足りないといって際限がなく増大させていきます。

この反対に引き算になっていくものもあります。これを捨てるとかあれを捨てるなどいって削っていくのもまた引き算のように思います。しかし本質は、足るを知るということをいい、初心を忘れないということでもあります。

すでにあるものに感謝をしたり、自分にしか与えられていない存在価値に氣づいたり、あるいは周囲のご縁が唯一無二であること、先祖や先人たちの徳が与えられていることなど、すでにいただいているものを思い出す生き方のことです。

私が場づくりで取り組んでいるのは、極端に言えばこの一点だけです。

私は子どもを丸ごと信じるという信条を持ち、25年間、子ども第一義の理念を掲げて子ども心を守り子どもの憧れる大人や未来のために社業と生き方に取り組んできました。

だからこそ子どもに忘れてほしくないことがあり、その周囲の大人にも思い出してほしいことがある。その願いと祈りが今の私の暮らしフルネスや場づくりに投影されています。

この世界は完璧ではなくても完全であるという事実。存在価値そのものが美しく素晴らしいという事実。人間は調和を學び、本来の在り方や生き方を思い出せば平和は身近から宇宙まで広がっていきます。

引き続き、丁寧に日常の暮らしを徳の循環といのちの螺旋と共に思い出していきたいと思います。

小さな実践

暮らしというものは小さな実践の積み重ねで成り立ちます。そして同様に文化も日々の小さな習慣によって根付いていくものです。この根付いていくという考え方こそ、暮らしというものを感得するために必要なことだと思います。

そもそも暮らしと呼ばれている言葉の定義は色々とあります。しかし大別するなら根がある暮らしか、根無しの暮らしかということに分けてもいいかもしれません。

根があるものは当然、そこに土があります。暮らしがあるというのは、そこには場があるということです。根無しということになれば、場がない生活のことです。

本来、土というのは時間をかけて醸成していくものです。セメントの上で植物を育てるのと、土があるところで育てるのでは異なります。その違いは、いのちが循環するか、しないかということでもあります。

いのちが循環するには、土をはじめ水、そして光、風や空気など様々なものが働きます。その中で暮らしを支える最も大切なものは土だと私は直感しています。土台があってこその舞台。土台がなければ舞台もありません。

土台を育てるというのは、人間では人間性を育てることです。いのちの実感をはじめ様々な五感を磨いて、先人が譲ってくださった大切な智慧を伝承して実践を続けていくことです。

小さなことでは、いのり、そしてお手入れ、調和などあらゆるものがあります。その組み合わせをよく場と折り合いをつけながら実践を修養していきます。

それが運命を換え、徳を循環させ、文化を醸成し、人類だけでなく地球を含めたあらゆるものが仕合せと安心でいのちを活性化していき豊かになります。

これは思想ではなく、小さな実践。

小さな実践をすることが場づくりの基本ということです。

引き続き、場を調えて伝承者が育つ環境を調えていきたいと思います。