守られる

人は色々なことに守られて生きているものです。生まれたときから、両親や家族や友人、そして場や空気、地域に光に身体に言えばきりがないほどのものに守られています。生きているということは、言い換えれば守られているということかもしれません。

その守られているものに支えられて今もありますから、感謝することばかりです。

例えば、この自分の体というものをよく観察していると皮膚をはじめ骨、肉などもすべて何かから守ろうとして存在します。瞼や鼻などもそうですし、内臓などもすべての臓器は有害なものを浄化したり排出したりしながら全体を守っています。

体に症状が出てくるというのは、守っていることが出てくるともいえます。何から守ったからその症状が出たか。そう思うと、体は正直で自然ですから体の声を聴くのが一番、守られていることを感じるコツかもしれません。

人は守られているばかりではなく、今度は守ろうともします。親が子どもを守るように、自分も体を守ります。無理をせずに労わることや、休むことなども体を守ることになります。あるいは、食べ物を調整し、精神を調えることなども体には効果があります。

免疫力という言い方もありますが、これは守る力を高めるということでしょう。そのためには、守ってくださっているすべての存在に感謝していくことが何よりも重要かもしれません。

つまり守られていることに感謝して、その存在に氣づき大切に労わるということ。

親孝行に通じるものがありますが、きちんと守られていることに日々に感謝することができるように今日も精進していきたいと思います。

時と場

古い古材や道具、建具などを扱っているとそれを丁寧に洗い磨きたいという気持ちが湧いてきます。それまでのそのものの時間が愛おしく感じて、労いたい思いが湧いてくるからです。特にボロボロになっているものを観ると、それだけ色々な体験をして今こうなっているのかと思い心が親しみます。

そしてお疲れ様という気持ちと、甦生して快復したいという気持ちが出ます。しかし、よくよく対話観察しながら甦生が難しい場合もあります。その時は、供養といってそのものの魂や徳を鎮めます。一緒に過ごした時間の中で、きっとたくさんのことを観てきたはずです。そして聴いたことが残っているでしょう。それを受け取り受け止めて関係性を慈しむのです。

古いものというのは、ただ経年劣化したものを言うのではありません。古いものというのは、それだけお互いに一緒に記憶を共有してきた共生の絆をもっているものです。それを実感すると、よかったねという気持ちと、ありがとうという気持ちが訪れます。

増えすぎるととても全部と一緒に過ごせませんが、きちんと配置するとお互いに見守り合って仕合せな場が産まれるものです。和の空間というものの本質は、この記憶の調和のことでしょう。

相性のよいものが近くにあると、それだけでお互いを意識するものです。不調和があっても、距離とお手入れをすれば静かに和合するものです。

古いものを扱い、お手入れし磨くというのはそのものの価値を再発見し、真価を引き出すための徳の実践です。

暮らしの中で、古い懐かしいものに活かされるのは喜びです。古い記憶が結び合って今があり、今がさらによりよいものへと変化していく。

時のありがたさ、場の豊かさに心から感謝しています。

真価

価値というものがあります。これは付加価値や真価といったものもあり、一つではありません。しかし、よく考えてみるとそのものの価値という事実は少しも変わることはありません。ただ、それを価値だと思う人にとってはとても価値のあるもので、ないと思う人にとっては価値がないだけです。

私はよく古民家甦生をしますが、私にとっては宝でもある人にとってはゴミくず同然のような価値のものがあります。それに路傍にある石ころ一つでも、ある人にとっては思い出の大切な価値のあるもので一生大事にしているということもあります。

つまり価値というのは、その人のとってのという前提があるということです。

現在、私たちは価値のあるものをお金で買うのが当たり前の世の中にいます。大勢が価値があるものが価値があるものとして高値で売り買いされています。逆に大勢に価値がないとするものは社會の表舞台に出てくることもありません。まるで無視されないかのように扱われ、それを大切にしている人を変わった人として変人扱いをするものです。

そもそもこの大勢が価値があると信じるというのは、人間の観念がそうさせます。そしてそれがいつまでも価値があるように見せるために様々な情報や環境をつくりこんで信じさせます。ある特定の価値を維持することで、お金を儲けることができる人がいるからです。

しかし、此の世には「事実」というものがあります。真実ともいっていいかもしれません。例えば、石は石、お水はお水、太陽は太陽とあるようにそのものはそのままで価値があるものです。無理に付加価値をつけなくても、そのものの真価というものはそのものに存在します。

宇宙全てのものにはそれぞれに真価があり、その真価のままであるがままに存在するのです。その真価そのものを感じるとき、人は安らかな心と感謝の気持ちを持てるように思います。

そしてこの真価のことを私は徳とも呼びます。

徳が循環する世の中というものは、すべてのものが真価のままでいられる世の中のことかもしれません。引き続き、真価を見究める眼を磨いていきたいと思います。

居場所を調える

居場所というものがあります。これは魂の居場所ともいえます。魂はどこに落ち着いているか、鎮座しているか、よくよく観察するといつも同じ場所に静かに佇んでいるものです。それを別の言い方では「初心」ともいいます。ずっと変わらずに、自分を見守っている存在ともいってもいいかもしれません。

居心地が善い場とはどのようなものか、それは自分が自分らしくいられる場所というのはすぐにわかります。自分のままでいい、あるがままの自分がそのままでいいと存在している場所。そこに人間は自分の真の心が居ることを実感するからです。そしてその場所は、心が安んじられる場所、心の平安がある場所でもあります。

人間はどのような状況変化の中にあっても、心の中には故郷のように安心できる場所があるものです。自己との対話によって、どこに安心しているか、何を安心としているかは内省を繰り返すことによって自明していくものです。自分の喜びが誰かの喜びになることは、あるがままの自分が全体快適と和合一体になっているという感覚でもあります。

徳は、自分の喜びに集中しそれが全体が喜ぶ生き方と一致しているときに積み重ねられるものだからです。だからこそ、心の故郷を忘れずに自分でいられる居場所に何かあれば帰ってこれる状況にしていくことが大切です。

人は自らの唯一無二の道を歩んでいくなかで静かに瞑想をし、自分の心の声を聴いていればこれは違うなというのを感覚として直観するものです。あるいは、どのような環境下にあっても自己を見失わないで立ち返るものです。これは魂の力とも呼ぶものかもしれません。

心をすり減らすのではなく、魂を磨くという生き方こそが真の自己を覚醒する道であり、天に任せて天命を歩むということかもしれません。

自己を調えることは、居場所を調えることです。そして自己を生き切ることは、魂を研ぎ澄ましていくことです。ご縁の役割を全うし、ご縁に任せて引き続き歩んでいきたいと思います。

 

暮らしと覚悟

人生を振り返ってみると、流されそうになったり目的を見失いそうになったことがあります。周囲の雑音や圧力などで心が弱り、流されそうになったこともあります。そんな時、いつも助けてくれたのは自分の心底信頼してくれている人の存在や、尊敬している生き方が見事なメンター、そして自分の初心や覚悟だったように思います。

生きていれば、なぜこんなことにと理不尽を感じることもあるものです。誠実に正直、真摯に全身全霊で取り組んでいてもその成果や評価はずっと時間が経過した後のことがほとんとです。特に、大義や理想、理念に取り組んでいるとただ脚下の実践を如何にブレないで取り組んできたかという事実だけが残ります。

日々にブレないようにするためには努力や精進が必要です。いくら覚悟が決まったと思い込んでいても、状況や環境に影響を受けて揺らいでしまうからです。

私はこの日々のブログも日記も、そして初心の振り返りも一円対話もご祈祷や瞑想も自己の目的や理念から離れないように工夫する仕組みとしても使っています。

人間は体調がよくないだけでも意思が弱くなりますし、感情が大きく揺さぶられると不安や恐怖や孤独などで心が折れそうになるものです。そういう時にでも真の自己を保つために毎日、毎時、自己に問うための羅針盤があったほうが安心です。特に、頭や脳でばかり処理しても感情は穏やかになりません。そういう時は、掃除をしたり、お手入れをしたり、お山に入って修行をしたり調えたりして濁っている自己や歪んでいる認知を清浄にするように工夫します。

つまり日常の調和する暮らしによって自己を支えるのです。

暮らしフルネスのよさの一つは、暮らしによって覚悟を磨いていくことができるということです。覚悟は、決めただけではなく暮らすことによって研ぎ澄まされていく。暮らしが調っていれば、覚悟もまた揺らがなくなっていくということでしょう。

日々に暮らしを調えながら、日々の自己を磨いていきたいと思います。

時の声

自然には時節というものがあります。時がすべてを調整して万事を運びます。これを運ともいいます。よいタイミングがよいことがあり、わるいタイミングではわるいことがある。よいものわるいも時の運ということです。時機ではないものに執着をして、必死になっても裏目に出てはかえって運もわるくなることがあります。そういう時は、時を待ち、よくよく時節を観察していくのがいいように私は思います。

松下幸之助さんがこのような言葉を遺しています。

「悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。だが何もせずに待つ事は僥倖を待つに等しい。静かに春を待つ桜は、一瞬の休みもなく力を蓄えている。たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。」と。

よい時が必ず来るからそれまで静かに待つこと。そして静かに待つというのは、力を蓄える時機であるという啓示。じっくりと、それまで自重して謙虚に内省と実践に専念していくということでしょう。備えあれば憂いなしということもあります。つまり備える時として丁寧に調えて準備していればそのうちまた好機が到来するということでしょう。さらにいえば、備えていたからこそ好機は向こうからやってくるということ。

自然界は、誰にも平等に何度も何度も挑戦する機会やご縁を与えてくれます。一つが終われば、また一つがやってくる。すべてはその時のための準備であったと言えるように、日々に怠らず努めては静かに待つことが肝要ということでしょう。

時を待つ境地というのは、時の経過で真実や答えを見せてくださる鬨までよくよく観察するということです。時は必ず本質をあぶり出し、真実を教えてくれます。時は静かに動き、時は穏やかに流れます。時薬というものもありますが、時が癒し全てを解決していくのです。

時はまるでお水のようです。

お水が流れていくことで、また静かに透明になります。濁ったものが流されると、何が濁っているのかがわかり、どこで濁ったのかもわかります。現在、妙見神社の治水工事が行われていますが、濁りの原因が取り除かれるのを今は静かに待っています。

これからも時の声を信じて歩んでいきたいと思います。

情報共有

情報共有というものはとても大切なものです。同じ情報をみんなで持っていることで、余計な詮索や疑念はなくなります。情報の行き違いが発生すると多くの人を巻き込んで大きな損害が発生するものです。

そもそも情報に必要なのは透明性です。

勘定を交えず、事実を正確に把握する必要があります。伝える側の何かの感情から情報が歪んでしまうと正確な判断ができなくなるものです。だからこそ、歪まないように時系列で記録をとって対応する必要があります。合わせて日頃のコミュニケーションの量と質が大切です。

情報共有が全体でうまく機能していないと何が起きるのか。これは身体で置き換えればすぐにわかります。情報共有はある意味で、血液共有のようなものです。血液が循環しなくなれば循環不全をおこします。そうすると、人間の身体は死んでしまいます。血液を常に運び続けているからこそ、体は自由自在に順応していくことができるのです。

本来、リーダーやフォロアーというのは血液が濁らないように浄化して透過する役割があります。流れてきた血液を綺麗に調えながら自分の役割を果たします。それができなくなると、他の臓器にも悪い影響が出ます。

しかし人体は見事で、その臓器が調和できなくても他の臓器が代替機能を発揮して対応して調えます。組織も本来は、それぞれの人がそれぞれに冷静に情報共有をし、その情報を精査して浄化透過していくことができるのです。

この体は、見事に調和していて心身を統一和合しているのです。

だからこそ情報共有は、血液と同じくらい大切にしていく必要があるのが組織です。血液が汚れないようにみんなで工夫する。情報であれば歪まないようにみんなで気を付けることが大切です。

だからこそ情報リテラシーの仕組みや教育は早い時期からはじめていなければなりません。

子どもたちが将来、安心してチームで働き、互助関係を風通しのよい組織をつくり実現できるように場を調えていきたいと思います。

思い出と祈り

今回の古民家甦生では新しい出会いやご縁もたくさんありました。大変で苦しかった体験もありましたが、実際にはいただいている方の奇跡に感謝することばかりです。

まずこの2年半かけてお米のことを深く學び、お米に関わる人たちと接する機会がありました。日本人が何よりも大切にしてきた主食、それを守る人たちに会いました。農家をはじめ、食を扱い、啓蒙し、先人の知恵を大切にする人々。志に刺激を受け、私も日本の田んぼを改めて守ろうという意識を持つことができました。

そして職人さんたちとの新たな出会い、信頼できる仲間と共に理念を共有し心を籠めて建物を創る喜び、楽しかったです。場は、その場を創る人の心が宿ります。私の心を汲んでいただき、納得のいくまで妥協せずにお付き合いいただき見事に調和した姿を観るのは仕合せでした。

また商品開発をするのにもたくさんの試食をはじめ、試作、智慧を働かせて何度も何度も諦めずにチャレンジできました。愉快で気の合う仲間と和気藹々と意見を出し合い取り組むこと。実力のある方ばかりが集まり、何でもできそうな自信と誇りを持ち直すことができました。

素材との出会いや一期一会の組み合わせ、理念とアイデアを想像しては見事に集まってくるご縁。この取り組みの最も楽しいひと時です。私は、生き方として座右が一期一会ですからご縁が重なり組み合わせることで発生する「妙」を観るのが大好きです。

これからいよいよ店舗がはじまり、私の手は離れていきますが心は楽しかった思い出、有難かった感謝に満ちています。いつまでもあの場が、日本のお米の発信地になり、子どもたちの未来に伝統が継承され、いつまでも自然に元氣が湧きだすように祈ります。

おめでとうございます。

お水への感謝

浮羽の老舗兵四郎のお披露目会で古民家甦生の報告をすることができました。思えば、2年半の間、お水に見守られた有難いご縁になりました。浮羽は、大雪で吹雪いており時時に美しい太陽の清々しい光が舞い降り場を照らしてくれました。

今回の甦生で一番思い出に残っているシーンは、井戸掘りだったのは間違いありません。1年半もかけて、ずっとお水が甦生するように祈り、何度も井戸に入り、井戸に祈り、井戸を掘る職人と一緒に誠実に盡しました。最初は、井戸のあった場所が見つからず、周辺を何度も数メートルほどみんなで掘りましたが出てこず、諦めた頃にむかしの井戸であっただろう掘り穴が出てきました。またその井戸が空気抜きがされていないこともわかり、苦しかったであろうことも感じご供養祈祷をしました。

そこから砂や土を取り出し18メートルほど掘っているとお水が湧きました。そのお水が透明で美しく、顔を洗い口に入れるとその清らかさに感動して泣いていました。これだけ長い時間をかけて井戸を掘った理由は、井戸職人さんの体調をはじめ、道具を集めたり、無理せずに日を選んだり、定期的にご祈祷をして穏やかに取り組むようにしたこともあります。

井戸を掘っている間は、常にお酒やお塩、法螺貝を吹いては事故や怪我がないように祈り続けました。不思議なことに、一番奥ふかい場所から一つの勾玉のような石が出てきて台座もありました。誰かが井戸を埋める前に、安置したのではないかとし今でもその石と台座を大切にお祀りしています。

また井戸検査も見事な結果で、もちろん飲用もでき水質は近隣の名選百水の清水湧水に勝るとも劣らないほどです。

お水は調理や生活するには十分なほどの水量もあり、これから老舗兵四郎の店舗で用いられます。お水がまた流れはじめ、暮らしの中で循環すると思うと感無量で言葉にできません。

私たちはお水があってこそ生きていくことができます。

あまりにも身近にありすぎて、感謝をする機会も減っているように思います。しかし私は有難いことに井戸を掘る機会に恵まれたことでお水が湧きでることの本当の有難さを學ぶご縁をいただいてきました。

此の世のどのようなものよりもお水が尊い存在であることも井戸が教えてくれました。

昨日は、井戸の蓋を開けありがとうございますと話しかけました。清らかにあがってくる空気を感じながら、お酒を法螺貝に汲んで井戸と酌み交わしました。波動や鳴動で振動を揺らすと、余韻が場の全体に響き渡ります。

甦生したお水と古民家が、子どもたちの未来に向けて徳を発揮し、豊かさや喜びが場に満ちることを信じて蓋を閉じました。

一期一会の井戸とのご縁に深く深く感謝しています。

ありがとうございました。

人生の学び直し

日々というものは静かに速やかに移ろっていきます。一つのことがあれば、一つのことからたくさん学び、その学が何だったかということにのちに気づけます。人は失敗しても、その失敗を感情的に経験するだけではなく学びにすることで人間的に成長成熟していくことができるものです。

そういう意味でも、失敗がよくないとか、成功がいいではなく、何を学んだかということがもっとも大切なことであるということでしょう。

つまり人間は何をする生き物かと問われたら、學ぶものともいえます。學問というのは、どのような状況でも諦めずに根気強く、素直な澄んだ心で実践し続けてこそ意味があります。

此の世に産まれてきてから、此の世を去るまで、學問の連続です。

今回の体験や経験は何を学んだか、そして今まで学んだことで今、何をさらに学びを結んでいるか。人生は、学びの連続とその集積が集大成として生き方に顕れてきます。

自分の生き方を、そして初心を守ってさえいれば、学はいつまでも自分から離れることはありません。

一期一会というのは、ご縁のことですがどのようなことから学ぶ人生は豊かで仕合わせなことです。

もうすぐ私は齢五十歳を迎えますが、学問の齢は二歳くらいほどでしょうか。

刺激が大きいことばかりですが、一つ一つを丹誠を籠めて学び直していきたいと思います。