今と歩みを振り返る

昨日は、英彦山守静坊の煤払いや室礼をしてご祈祷したのち氏神様の宗像神社へご参拝してきました。朝から100年以上前の杵と木臼、また木製のせいろも大活躍でみんなで和気あいあいとお餅つきをしたものを鏡餅にしました。お米も自然農法でつくれたもので、安心、美味しくできたお米です。

心をととのえていくなかで、一年間の感謝や御礼をあらゆる人や物へと心を運びます。日々の出来事には、複雑な執着やご縁もありご迷惑をおかけしたものや人への思い出、あるいは助けて頂いた思い出、数々のことを教えていただいたことなども脳裏をよぎります。その一つ一つを、福に転じていこうとするところに素直に伸びていこうとする活力が芽生えます。

人はいろいろな人に出会うことで、数々の生き方を省みることができます。あの人はこう生きるのか、この人はこう生きるのかと、それぞれの生き方が参考になります。そして自分はどう生きるのかと向き合えるものです。

人間は誰しも平等に生き方というものを決めていくことができます。運命や宿命に対して、どのような使命を生きるかはそれぞれの自由です。どれだけ過酷な状況下であっても、普遍的な生き方をする人もいます。あるいは、恵まれ過ぎた環境に漬け込まれ流行に流されるような生き方もあります。それに人には生き方の癖というものがあり、その癖があるから体験方法もそれぞれに異なります。

そういう時、有難いと深く感じるのは先祖を実感するときです。御先祖様というものは、私たちが今に生きるまでずっと繋がっている存在です。この今も、心を見つめると一緒に先祖が語り掛けてくるものです。その声に従って生きているとき、私たちはあらゆるものが同時に重なりあって生きていることを実感します。おかしな話ですが、色々な人生を同時に生きている状態になっているのです。

私たちは網の目のようにあらゆる人生が場に重なりあって存在しているものです。それが見事に結び、絡み合い、時には絆になりながら時を進めていきます。眼に見えるものや、頭で理解できるもの以外にそこには一つの答えがあり答えを生きる自分があるのです。

年末に自らが静かに振り返り瞑想をするのは、そういう自分というものが今何処にいて何をしようとしているのかを味わう時間でもあります。この一年の節目に、出会いを整理して歩みを深めていきたいと思います。

故郷の徳を磨く

昨日は、私の母校の庄内中学校の生徒たちと鳥羽池のお手入れ、ゴミ拾いを行いました。前回は、バスケットボール部が中心に行いましたが今回は生徒会が中心に声掛けをして80名以上の有志が集まりお掃除を行いました。

休みの日の初日に、これだけの生徒が集まってみんなで主体的に掃除をしましたからその熱気や熱意は相当なものでした。私たちは、ゴミ袋に入らないようなものを軽トラックで伴走しながらお手伝いしましたが普段拾うことがないような工業ゴミや自転車、タイヤなどの粗大ごみもたくさん拾うことができました。

この池は、ブラックバスが良く釣れるということで釣りの人たちがたくさん来ます。ルアーをはじめあらゆる釣り具が捨ててありましたがそれで怪我をして生徒もいました。きっとすべての釣り人が捨てているわけではなく、一部の人たちによって全体の釣り人の評判が下がるのはとても残念なことです。自然を愛する人たちは、自然を汚したりゴミを捨てたりすることはしないように思います。みんなが気持ちよく、自然を楽しめるように配慮していただけると鳥羽池も喜んでくれるように思います。

ゴミで多かったのは空き缶など、そのほかには生活ごみです。ゴミ箱に捨てるのが面倒だったのか、それとも捨て方がわからなかったのかその辺に投げ捨てているものがほとんどです。粗大ごみにいたっては、きっとお金がかかるとか面倒という理由で池に投げ捨てたのでしょう。冬の間に水を抜くことで、ゴミが捨ててあることに気づきます。

この池は、冬鳥たちや渡り鳥がたくさんきます。年中、色々な鳥たちが憩いの場になっています。魚をはじめ亀なども多く、小春日和や秋の夕暮れなどは幻想的で自然の美しさにうっとりします。自分の故郷や町にこのような場所があることで、心のゆとりや余裕もうまれます。朝夕、散歩の老夫婦をはじめランニングをする方々もたくさんいます。私の父も、桜を守っていて蔓などが桜を枯らさないように見守っています。

みんなが愛した場所は、愛したように場所が美しくなっていきます。

場というものは、本来はみんなでお手入れして守っていくものです。お手入れとは、心のお手入れでありそして場所のお手入れです。このお手入れとは、いつの日か必ずこの世から存在が消えてしまうものだからこそ勿体ないと丁寧に少しでも寿命が長く持てるように愛していくことです。

そうやって愛されたものは、そのままにその愛を周囲に恩返ししていきます。私は古民家甦生をしていますから、それがよくわかります。古く長く大切にされてきたものは、みんなから愛されてきたものがほとんどだからです。

生徒たちが中心になってこのような活動を故郷で行っていくことは本当に素晴らしいことと思います。こういう活動がいつまでも続き、そしてその生徒の姿をみて大人たちがもっと変わっていけばいいなとも感じます。子どもたちに恥ずかしくないような大人でありたいと思います。

これからも故郷の徳を磨いていきたいと思います。

循環の妙

英彦山と関わりだしてから山への感覚が深くなってきました。もともと山とは何だったのか、それを深めていると海とは何かということに辿り着きます。この山と海の存在はもともと一体であり分けることができません。川はその山と海をつなぐ存在であり、この川も元々は山と海が一体であることを証明するものです。

私たちは便利な言葉を用いることで、あらゆるものを分別していきました。本来は全体が一体であることが前提になった分別ならまだいいのですが、分別したものを集めて全体にしようとなったときにそのものの本質が分からなくなっていったのでしょう。

その弊害が、あらゆる自然環境の破壊につながり、人類の知恵を消失させている理由になっています。教え方が問題というか、人工的なものだけですべてを理解できると思い違いしたことに一つの理由があるように思います。野生的なもの、本能的なもの、自然的なものとのバランスが崩れると人間は歪んだ方向へと進んでいきます。

神代や古代は、そうならないように指導者やカミという人類を守る存在があってバランスを調えていきました。どうしても目先の欲望や、近視眼的になってしまう宿命がありますからそれをそうならないようにする仕組みを保っていたのでしょう。

山に住む山伏たちやその暮らしもまた、本来は指導者や守る人としての役割を果たしたのでしょうが現代はそういう人たちは特殊な生き方をしている人たちとしてあまり身近に存在も感じません。人間社会でのバランスも職業や商品、商売なっていますから山もその商品の一つになっていくのでしょう。

今の時代は、人工的な世界の方が常識ですからその人工的な知識を優先にした山の理解や海の理解が歪な環境改善をさらに促進しより深い断絶を増やしているように思います。

本来、山は山の養分が川に流れ、その川が海にいくことで生命は潤います。水というものは触媒であり、無色透明であらゆるいのちを通過していきます。つまり循環のいのちの根源はこの水ということになります。この水が何を運ぶのか、それはいのちの元を運びます。それぞれの生命が、それぞれのいのちを充実させ結実したものを運ぶのです。それは目には見えませんが、見える分を養分とも呼びます。人間でいえば、糞尿なども養分といいます。

こういうものが自然に流されますが、それは単に栄養素だけが流れるのではなく充実したという証が流れます。それが海に到達するころには山から地上のあらゆる生命の養分が渾然一体となって海に到達します。

その海に到達したものがさらなる新たないのちを掻き混ぜていきます。以前、貝磨きをする方と一緒に貝を深めたことがありますが貝はこの養分を得ていのちを守る存在として顕現してきます。

私たちは、美しい貝を観てはいのちの辿る道やいのちの本体を直観してきました。私は法螺貝を吹いていますが、法螺貝はそのいのちの結晶の一つです。山で法螺貝を吹くとその音色が山に響きます。

山の養分が海にいき、そして貝になる。

その貝が山に還り、山で音を立てると山が喜んでいく。こうやっていのちは、真に豊かに廻ることで徳は永遠に磨かれるのです。

自然環境の改善は、いのちのリサイクルの仕組みが必要です。私の天命も近づいてkました。世界に人類の新たな道筋を示し、子どもたちに普遍的な循環の妙を伝承していきたいと思います。

場を育てる

「場」をつくるなかで大切なのは、主語はどこになっているかということがあります。人はすぐに自分というものを主語にして語りますが、本質を突き詰めていくと自分というものが邪魔になることがあります。それはなぜかというと、本物を求めているうちにモノや他との境界線が消えていきそのものと一体になるからです。

これを私は自他一体の境地と呼んでいます。相手が自分であり相手も自分になるというものです。それだけ一体に同化している状態になっているというものです。これを私は「場」と呼びます。私のいう「場」は元々は、分かれていないものです。そこには例えば、過去からずっと今も生きている歴史の場であったり、あるいはすべてのものが関わり繋がりあって網の目のような場であったり、またあるいはみんなで心を一つにあわせて一緒に取り組む場であったりします。それくらい分かれていないところにあるのが本来の「場」ということになります。

その場を醸成するためには、あまり他人軸の自分やエゴが強すぎると育たないものです。無私や無我に近い方が、場は良く育ちます。

例えば、場に喜んでもらおうとすることや、みんなの喜びが自分の喜びになっているような実践や取り組みをする方がいいという具合です。

自然界というもの、宇宙に至るまですべては自分というものはありません。生命であれば細胞にいたるまですべてが繋がり結び合って存在します。この世に孤立しているものなどは一つもありません。そういうものを理解していることが重要で、そのうえで自立するということが命題でもあります。この自立というものは、独立自尊の時の自立であり協力し合うという共生の中の自立です。つまり、助け合い、持ちつ持たれつ、御蔭様といわれているすべてと活かしあうときの自立です。

「場」には、その自立や調和、共生などあり方や生き方が問われます。そしてこれはテクニックではなく、まさに自覚と実践によって行うものです。

最近では、場というものが便利に知識的に理解されほとんど表面上の浅いものになっています。場もいのちのある生き物ですから、その場を守るための精進も必要ですし、お手入れが欠かせません。

私が取り組む場の道場では、その辺を実践によって知恵を伝承していくものです。子どもたちに先人からの知恵や真心の道が繋がっていくように丁寧に場を育てていきたいと思います。

知恵の甦生

歴史というものを語る時、そこには知識と知恵があることが分かります。例えば、何かの事実を突き止めて歴史の事実を科学的に調査し証明するとします。そうすることで知識は増えて整理され、歴史を学ぶということの知識の豊かさがあります。もう一つは、歴史の中で伝承されている生きた人たちの間で用いられている知恵というものです。古代から今までその知恵を伝承することで人々は仕合せを得ることができました。今の私たちに繋がっているものは知識の歴史ではなく、知恵の歴史であることは間違いないことです。

現代は、歴史は知識としての認識がほとんどで知恵とはなっていません。なぜなら教科書で教える歴史の中では伝承されにくいからです。ほとんどの人が、頭で分かるものだと認識して実際に自分で伝承していこうとはしないからです。本来の歴史を学ぶというのは、自分で伝承してみてはじめてその価値を感じるものです。その結果として、どうやって人類は今までその仕合せを文化にまで昇華させてきたのかがわかります。

世界には様々な文化があります。その文化は歴史が築いてきたものです。この文化を机上で学べば年号や地理、出来事などは暗記できますが文化を習得したわけではありません。実際の文化の習得は、知恵の伝承ですから真摯に歴史を実践していく必要があります。

歴史の実践というものは、知恵を学び先人と同じように知恵を用い幸福になることです。つまり私たちの先祖たちはどのように幸福な暮らしを実現してきたか。それを学ぶのが歴史の実践です。

例えば、伝統的な暮らしの中には知恵が溢れています。私は室礼や年中行事を実践していますが、ここにはまさに知恵の宝庫です。どのように日本人が代々、家庭教育をしてきたか。また連綿と続くいのちのバトンをつないできたか。あるいは、その土地を豊かにして永続できる環境や場をととのえてきたか。それが日々の暮らしの実践の中に溢れています。

特に私は炭を使いますが、この炭の暮らしを実践するだけでもあらゆる知恵が入ってきます。こうやって知恵を生活の中で活かしている人は、仕合せであり真の豊かさを知ります。つまり徳を積むのです。

徳を積むというのは、人類が幸福になる唯一の道です。

だからこそ、本来の歴史を学び直す必要を私は感じています。世の中が終末期、人類は過酷な時代に入っていけばいくほどに歴史の必要性を感じます。全人類が平和でなければ、平和はない。身の回りの小さな知恵の実践でみんなで力を合わせなければ、不幸や不満は増大する一方だからです。

子どもたちのためにも、知恵を甦生し未来へバトンをつないでいきたいと思います。

日本人の徳~やまと心の甦生~

日本人の心の風景を譲り伝わるものに「歌枕」というものがあります。これは辞書によれば「歌枕とは、古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中の、和歌の題材とされた日本の名所旧跡のことをさしていう。」とあります。

またサントリー美術館の「歌枕~あなたの知らない心の風景」の序文にとても分かりやすく解説されていました。それには「古来、日本人にとって形のない感動や感情を、形のあるものとして表わす手段が和歌でありました。自らの思いを移り変わる自然やさまざまな物事に託し、その心を歌に表わしていたのです。ゆえに日本人は美しい風景を詠わずにはいられませんでした。そうして繰り返し和歌に詠まれた土地には次第に特定のイメージが定着し、歌人の間で広く共有されていきました。そして、ついには実際の風景を知らなくとも、その土地のイメージを通して、自らの思いを表わすことができるまでになるのです。このように和歌によって特定のイメージが結びつけられた土地、それが今日に言う「歌枕」です。」

そして日本古来の書物の一つであるホツマツタヱによる歌枕の起源には、「土中の闇に眠る種子のようなものでそこからやがて芽が生じるように歌が出てくる」と記されています。

日本人とは何か、その情緒を理解するのに歌枕はとても重宝されるものです。「古来・古代」には、万葉人が万葉集で詠んだ歌があります。その時代の人たちがどのような心を持っていたのか、その時代の先祖たちはどのような人々だったのか。私たちの中にある大和民族の「やまと心」とはどのようなものだったのか、それはこの歌枕と共に直観していくことができます。

しかし現代のような風景も人も価値観も文化も混ざり合った時代において、その時代にタイムスリップしてもその風景がどうしても純粋に思い出すことができません。ビルや人工物、そして山も川もすべて変わってしまった現代において歌枕が詠まれた場所のイメージがどうしても甦ってこないのです。

私は古民家甦生のなかで、歌枕と風景が描かれた屏風や陶器、他にも掛け軸や扇子などを多くを観てきました。先人たちは、そこにうつる心の原風景を味わい、先人たちの心の故郷を訪ねまた同化し豊かな暮らしを永遠と共に味わってきました。現代は、身近な物のなかにはその風景はほとんど写りこみません。ほぼ物質文明のなかで物が優先された世の中では、心の風景や大和心の情緒などはあまり必要としなくなったのでしょう。

しかし、私たちは、どのようなルーツをもってどのように辿って今があるのかを見つめ直すことが時代と共に必要です。つまりこの現在地、この今がどうなっているのかを感じ、改善したり内省ができるのです。つまりその軸になっているもの、それが初心なのです。

初心を思い出すのに、初心を伝承するのにはこの初心がどこにあるのか、その初心を磨くような体験が必要だと私は感じるのです。それが日本人の心の故郷を甦生することになり、日本人の心の風景を忘れずに伝えていくことになります。そのことで真に誇りを育て、先祖から子々孫々まで真の幸福を約束されるからです。

私の取り組みは、やまと心の甦生ですがこれは決して歴史を改ざんしようとか新説を立てようとかいうものではありません。御先祖様が繋いでくださった絆への感謝と配慮であり、子孫へその思いやりや真心を譲り遺して渡していきたいという愛からの取り組みです。

真摯に歌枕のお手入れをして、現場で真の歴史に触れて日本人の徳を積んでいきたいと思います。

 

 

流域を見つめ直す

昨日、友人が流域を改善する必要性について話をする機会がありました。この流域とは何か、世界大百科事典大2典によれば「地上に降った雨や雪は,一部は蒸発や蒸散により大気中に戻されるが,残りは地表面や土壌中を流下し,場合によっては地下水を涵養した後に,河川水となって海に排水される。ある河川の河口に着目したときに,その河口から排水される河川水のもとになっている降水のもたらされる範囲を流域という。流域は河口についてだけ定義されるものではなく,河川のある1地点(たとえば,合流点,ダムの建設地点,架橋地点)をとった場合には,その地点に流下してくる降水のもたらされる範囲が,その地点からみた流域となる。」と記されます。

つまり河口から河川で海まで流れ辿り着くまでの範囲のことを指しています。この流域を再思考し観察することで自然災害と自然との共生を考えようとするということの話でした。

そもそも人類というか、すべてのいのちは水よりはじまり水に終わります。私たちは水を循環していのちを分け合い、いのちは水と共に移動してすべての生命を潤し身体も支えます。小さな微生物から昆虫、動物、植物、すべての生きとし生けるもの、無生物と人間が思っているものに至るまで水がなければ活動することはできません。水がすべての活動の根源です。人間であれば、すべての細胞は水を必要とします。その細胞一つ一つは生命があり、その生命を支えるものも水です。そう考えてみると、この流域で考えるというのは真に理に叶ったものであることはわかります。

そこから考えてみると、今の人間社会はどうなっているのか。

水などすべて無視して経済活動だけを優先しています。古代から大切にしていた水は、当たり前に水道を開けばどの家にも流れこみますしその水がどのように海に流れているかなどは考えることはありません。

以前、高島市にある里山の針江生水の郷を見学したことがあります。水路を中心にあらゆる生き物たちがその生活を循環できるように配慮されていて人間の食べ物のカスなどは魚が食べ、その魚もまた食べと小さな循環で生活を営んでいました。私も家で烏骨鶏を飼っており、野菜くずや虫たち、玄米を食べて一緒に暮らしをすると卵をいただきそれがまたお互いの共生を助けます。卵を産まなくても、一緒に暮らしていますから朝の鳴き声で眼を覚まし、日々の緩やかに安心して過ごしている姿に心も満たされます。

この小さな循環というのは、私たちが日々に実践できるものです。それを私は暮らしフルネスの中でも提案しています。人類は人口が増えて、今、宇宙にいこうとか、削減しようとか、バーチャルで乗り切ろうなどといっていますが古代の人はこれを聴いてどう思うでしょうか?知恵は使っていない知識の欲望に呑まれた人類を悲しく思うかもしれません。

本来は、人類の知恵は今でも私たちは先祖たちの御蔭で使うことができます。その知恵を使うことで、私たちは永続する未来を約束されていました。今、水の問題が地球から人類の進む方向へ警告がはじまっています。地球の声をどう聴くかは、知恵のある人たち次第です。

子どもたちの未来のためにも、今、できることから取り組んでいきたいと思います。

 

煤払いの暮らし

昨日は、聴福庵と和楽のすす払いを行いました。この煤払いは一般的には12月13日に行います。もともと旧暦12月13日は、婚礼以外は万事に大吉とされる鬼宿日(きしゅくにち)とのことで江戸時代に江戸城で煤払いが広がったからといいます。

もともと神聖な歳神さまをお迎えする神事として厄払いを兼ねて丁寧に準備をして待つという意味でも行われてきました。この後は、正月に向けて門松やお餅つきなども行い新年にむけて清浄な場をととのえていきます。

有難いことに今年は、ご縁のあった曹洞宗の和尚さんに来ていただき家祈祷を行いました。この一年の道具たちや暮らしのあらゆる場に対して御供養していただきました。思い返せば、今年も竈や囲炉裏をはじめ火の神様と共に歩んだ一年でした。当たり前ではなく、この火があることの有難さ、尊さ、そしていつも豊かな人生を助けてくれる暮らしのあらゆるものへと感謝する機会になります。

和尚さんと共に数日間を暮らしていると、朝は日が昇る前に起き座禅をしお参りをします。そして元氣よくご挨拶をしてお掃除をします。一緒に朝食を食べ、一日を合掌と共に過ごします。心豊かに保ち、どんなこともご縁であり学びであるとよく聴きよく観て手を合わせます。夜になれば湯あみをして穢れを払い、またお経を唱えてはお参りをしてお休みします。

丁寧な生き方が暮らしを支えています。

もともと私たちは宇宙の運行や自然の循環とともに丁寧に和合する暮らしを営んできました。その時々の季節のめぐりと身体と心を一致させ感情をととのえて豊かに生きてきました。健康であることの有難さ、静かに過ごすことの仕合せ、太古の昔から足るを知り、幸福を味わって一生を終えていきました。

現代は、人間の都合で経済活動を中心とした時間とお金に管理されて暮らしが消失していきました。季節感もあまりなく、毎日は人間同士の活動で忙しくしています。太古からの暮らしは今では遠いむかしの過去の出来事です。

私は煤払いをはじめてから、懐かしいふるさとを感じる機会が増えたように思います。年末まで色々とあったことを振り返り、一年が豊かで恵まれていたことに感謝するのです。その感謝は、煤を払ったときに美しくその場にととのうものです。

大掃除という言い方ではなく、煤払いという言葉の中にその意味を感じます。積もった雪のような灰も煤も、暮らしの余韻であり仕合せの宝。それを綺麗にふき取って磨いていきまた元の状態を確認していくこと。私たちの日々は、払い、拭いて磨いてお手入れをしていくなかで味わい深いものになり心は安心するものです。

安心できる日々は、生きている深い味わいと実感を得られる日々です。

子どもたちに安心できる豊かな日々を共に創造していきたいと思います。

便利さを手放す

便利さというものは、本来の大切なものを失わせていくものです。便利さがなぜ必要かというのは、それだけ効率を優先したり誰かの都合に合わせていこうとするときに用いられていきます。

現代は、時間を切り売りして消費することや税金の回収に余念がなく便利さはさも素晴らしく必要不可欠なものということになっています。しかしその便利さの背景にあった、不便だけれども大切なもの、不便でなければならなかったものまで失われていきました。

気が付くと、便利さによって得られるもの以上に失われてしまった方が大きくなり取り返しがつかないようになってきています。不便であることを優先する人を、蔑んだり、変人扱いするというのはどうしたものかと感じます。

例えば、不便なものとして代表的なものは「手間暇」というものです。丹精を籠めて時間をかけてじっくりと丁寧に取り組んできたものは今の時代は、それは良いことはわかっているけれどと言いながら誰もやらなくなってきました。その理由は、時間がない、お金がない、人がいないという理由です。そうしているうちにロボットやITが広がり、人も必要なく、お金もかけず時間もかからないものを選択するようになってきました。

経営も経済も効率化してその分、利益は出しましたがその便利な利益によってさらに便利なものを産み出す方へと投資されていきます。すると先ほどの不便なものは悪となり、気が付くと手間暇をかけることが良くないことのような価値観になっていきます。

自然界の循環の仕組みに合わせるというのは、時間も効率も良くないということで人間が無理に循環を促進していきます。そうしているうちに、最初は時間もお金も人も要らないといっていたものが経年劣化しているうちに大量の時間もお金も人も必要になります。人間は、目先の損得に心を奪われ便利さを追求すると本末転倒していきます。

長い時間をかけて、丁寧にじっくりとというのは伝統のことです。そしてそれを正しく伝承することでその知恵は永続的に子孫へと受け継がれていきます。これを途絶えさせるような政策や生き方、そして暮らしが失われていくというのは人類が知恵を捨てていくということに似ています。

そろそろ本気で、便利さを手放す勇気や知恵、そして聖賢たちが目指した徳の世の中へと転換していく時機にきているように私は感じます。子どもたちをみていたら、未来があります。私たちが勇気を出して変わるという意識と行動が必要です。

暮らしフルネスをさらに磨いて伝道していきたいと思います。

時代を歩む

人はみんなそれぞれに道を求めて旅をします。旅のなかで自分の出会いたいもの、自分と同じように実践する人を求めては訪ねていきます。それが短い間でも長い間でも、求めているものを探してはご縁を辿ります。

そうやって心を交わし、魂を混ぜ、共鳴して自分自身の人生の道の一つに組み込んでいくものです。出会いによって人生は変わり、道を歩き旅をすることによってその味わいは深まっていきます。

よく考えてみると、仲間というものや同志というものは同じ道を求めているから旅を伴にします。旅をしながら道を辿り、その時々の出会いや発見によって自分の道を深めていきます。時に助け合い、或いは時には支え合い、切磋琢磨、激励し合いながら目指している目的地に向かってそれぞれの場所で挑戦していきます。

気が付けば、旅のあちこちに仲間がいることに気づいて感動もし元氣も養えます。

むかしから同じように旅をしてきた人たちによって今の私たちの時代があります。いつまでも今も人は旅をしながら道を歩み、みんなで一緒に時代を歩んでいるのです。

大きな意味で、人間は意識の旅をしています。

その意識の旅は、時代の旅です。

この時代に生まれてきたこと、出会ったことに深く感謝して私も旅をより美しく味わい深く歩いていきたいと思います。