謙虚さ

時間の経過を観察していると様々なことがわかってきます。自然界ではありのままに移るので道理に従っていることが自明します。人間関係においては、どのような思い込みであったのかということも次第に明らかになってきます。人間はそれぞれの観念や思い込み、あるいは自分の価値観で相手を見ますから都合よく認識するものです。

思い込みが発生するのは、自分の感情が大きく影響するものです。ありのままのことをあるがままに受け入れることは素直な感情です。しかしそこに自分の過去のトラウマや、こうなってほしいという願望などが入ってくると現実を歪めてしまうものです。

特に執着などがあれば、その執着ゆえに事実も受け入れられず様々な問題をつくりだしていきます。執着を手放すといってもそう簡単には執着はなくなりません。思い込みもまたこだわりや思いの強さでもあったりするので、善悪で考えられるものでもありません。

しかし真に豊かであったり、真の喜びのさなかに入ればそれぞれの存在を丸ごと味わうといういのちの姿になっていくとき執着も思い込みも中和されていくものです。

真心を盡したり、人を大切にしたり、ご縁を丁寧に結んだりしていく人は、様々なことを調えていくことができるように思います。しかし、強い思いで何かに取り組むときはどうしても心がほかのことに使われてしまいそれができないものです。

謙虚さというものは、そういう時に磨かれるもののように思います。自分の力でやっているけれど、それは大きな力をいただいてさせていただいているという感覚。主語を自分にせずに、主体を全体にして自分もその中の一部になるような感覚。

そういう無我というか、真我の境地のなかにこそ思い込みを超えたやさしさや思いやりがあるように思います。

人生は色々な方法でその境地にアプローチできるように思います。日々の学びを磨き、自分らしく自分のままにいのちを歩んでいきたいと思います。

命の経済と徳の循環する経済

ジャックアタリ氏という人物がいます。この方は、1943年、アルジェリアの首都アルジェ生まれで思想家、経済学者、文筆家と言われます。具体的にはフランスのミッテラン元大統領の経済顧問を務めた後、欧州復興開発銀行の初代総裁、経済成長に関する仏政府委員会委員長などを歴任されています。

最近、「レコノミー・ド・ラ・ビー(命の経済)」という著書が出て早速購入してみました。すると、私の目指している徳積循環経済や暮らしフルネスに近いことが書かれていて驚きました。

知の巨人による近未来の予測は、現実的には歴史に則ったもののように私は思います。ジャックアタリ氏も、利己主義がつくりあげた経済ではなく利他的なものが必要ではないかと、私は二元論は嫌いなのですが敢えて両輪という言い方をし、片方だけではなく同時にもう片方の車輪をまわしていく必要性を実践で伝えています。

ジャックアタリ氏の命の経済にはこういう文があります。

「私が今後の世界で鍵となると考えるのが「利他主義」だ。他人のために尽くすことが、めぐりめぐって結局は自らの利益になる。例えばマスクを考えてみよう。他人を感染から守るために着けるが、同様に他人も着ければ自分の身を守ることにつながる。「利己的な利他主義」の好例だ。自らに利益がなければ、人は利他的になりにくい。外出制限は利他主義の対極にある。自己の中に閉じこもるだけの愚策であり、経済危機も引き起こした。パンデミック後の世界は他者としての将来世代の利益を考慮しなければならない。何が将来世代にとって重要なのか。政治家らも考える時だ。人類の安全保障や将来のため、生活のあり方や思考法を変えて「命の経済」に向かわなければならない。新型ウイルスに限らず、気候変動による危機なども叫ばれる中、国際社会には総力を挙げた取り組みが求められている。」

言い換えれば、もっと子孫のための経済をつくろうということです。縦の糸のことです。本来は、縦軸という連綿と続いてきた人類が最初からずっと大切にしてきた徳の循環があってその中に横軸としての地球規模というものがあるということです。

利己的というのは、今の自分たちの世代のことしか考えず判断したり行動することです。それぞれ一人一人が、己に打ち克ち己を律するのは子どもたちや子孫のことがあるからです。

将来世代のことを思えば、自分たちはもう一度今の暮らしそのものを見つめ直す必要があると感じています。それが私の提唱する暮らしフルネスです。暮らしを変えていけば、おのずから生き方も変わります。暮らしは、人の生き方の顕現したものであり、どのような暮らしを続けるかは子孫に譲り残していきたい徳を積むことになります。

まさに今の時代は、誰かに依存したり特定のリーダーや国家に命を委ねるのではなく自らの命を自らが責任を持ち、いのちが喜び合うような社会づくりをみんなでできるところから実践していく必要を感じます。

暮らしフルネスの実践を使命感をもって取り組んでいきたいと思います。

即興と甦生

私は場を研究し、実践するので即興であることが多くなります。この即興は、辞書をひくと「型にとらわれず自由に思うままに作り上げる、作り上げていく動きや演奏、またその手法のこと」をいいます。また音楽、詩作、舞踊、演劇などの分野では「事前の準備なく、その場で作り、その場で表現すること」を意図して使われるとあります。

これは常識やそれまでの通念よりもその「場」の持つ空氣を優先するということです。世間から常識知らずや刷り込みがないとかも言われ、時として誤解されて批判されることが多いのですがそれでも場からの声や、場が喜んでいるかどうかを優先していきます。

私が古民家甦生するときも、基本は常識に従って丁寧に甦生していきます。町家であれば町家、農家であれば農家のようにと最初は型かた入ります。そのあと、その家の歴史や立地、そしてそれまでの物語やご縁や関係性が出てくるなかでその家の独自性やその家の持つ初心のようなものをくみ取っていきます。その声に従いながら即興で工事や大工をしていきながら最後はその家そのもののいのちが循環するように調えて仕上げていきます。これは場を優先している私の甦生の特徴です。

先人たちの知恵を尊重しながらも、今はこうあったほうがいいというのができるのはその先人たちと同じ心を伝承しているからです。その心の伝承は純度が必要でどれくらい、本気の覚悟で先人とともに歩んでいるかということも問われます。

この時代に今も先人がそのまま生きているとしたら、どうするかということを突き詰めるのです。私が即興を重んじるのは、即興かそうではないかではなく先人ならどうするか、今、私も先人と同じならどのような決断をするかと正対していると次第に即興になり柔軟に判断していくことが増えるだけです。

時代は移ろい、本質もその時々で変化します。本質が変化するのは、それだけ全体快適であるか、どれだけの視野で決めるかが微細に左右されていくからです。最後は、純粋に穢れや曇りのない初心で決断していくしかありませんがその直感に頼るときまたそれが外から観たら即興に感じられるということでしょう。

自分の即興、直感は先人の真心とつながっていると信じてこれからも甦生に取り組んでいきたいと思います。

龍の徳

今朝がた、龍の夢を観ました。この龍は、想像上の生き物ですから私は実物は見たことがありません。なので夢の中の龍も水だけです。よく水墨画やアニメなどに描かれている蛇やワニのような姿ではなく私が観る龍はいつもその活動の余韻の方です。

例えば、今朝がたであれば龍が深い水の淵に潜んでいて水面に落ちたものを深く静かにゆっくりと吞み込んでいきます。すると、水が動き始め滑らかに緩やかに滑るように大きな揺らぎや流れをつくります。その水の流れ方が、まるで蛇のように蛇行しそしてぞっとするような静けさと佇まいを放ちます。まるで、とても大きなものが動いたような水の動きです。その時、私はそこに龍が潜んでいるのを直観するというものです。これは夢ですが、似たような経験を何度も深い池の淵や山間の溜池、大きな川の深いところで感じたことがあります。

この龍というのは、水の化身のようなものです。この時機は、七十二候では雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)に入ります。これは春雷のことです。この春雷を呼ぶのは何か、それは龍であるといわれます。

秋の終わり頃から冬の間、深い淵に潜んでいた龍が雲の上へとあがっていきます。春霞のうちにきっと天に昇ったのでしょう。そして雲の上で活動をし、雷をつくるのです、この雷は稲を助け、田んぼに豊作の兆しを導きます。そして田んぼを見守り秋になると、雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)となってまた水中に帰ってきます。

この水の運行をむかしの人たちは龍と呼んだようにも思います。水のカタチは一つではありません。雨だけでも千差万別の様相があり、霧や霞、そして川の流れ、滝、海に至るまでその姿は微細なものからダイナミックなものまであらゆる姿に変化していきます。

まさにその姿こそ龍の本体であり、その本体を人が直観するとき龍を観たとなったのではないかと私は思うのです。人間の身体も水が流れていますし、すべてのいのちは水が橋渡しをして結んでいきます。

4月1日ですから、エイプリルフールでもあるので今朝龍を観たといってもみんな笑って聞いてくれると思います。みんなの龍はどのような龍なのか、それぞれの龍をもつ人たちがその水の徳に感謝して偉大な龍の流れを味わっていけたらいいなと思います。

この日本に産まれ育ったこと、そして新たな一日になることに感謝しています。

初心伝承の人生

誕生日を迎え、多くの友人たちからお祝いのメッセージをいただきました。思い返せば、あっという間にこの歳まで過ごしてきました。日にちでいえば、赤ちゃんとして外の世界に出てきてから17194日目になります。また今日もその日に一日を積み重ねていきます。あと何日、この世で体験できるのか。そう思うと、貴重な日々を過ごしていることを思い大切にしたいと願うようになります。

誕生日というのは、そういう日々を過ごす原点を思い出しこれまでの日々に感謝する日かもしれません。どの一日も、よく考えてみたら当たり前の一日ではなく尊い日々です。

その時々の人と出会い、語り、何かを共にする。いのちを使い、いのちを守るために、他のいのちをいただいて暮らしを紡いでいく。どの日々もつながっていないものはなく、どの日々も結ばれていないものはない。

一日一日をリセットしているようで、それはリセットではなく新たな一日をさらに新しく体験させていただいているということになります。そして身体も衰え、次第に死に向かっていきます。死を想う時、この今が如何にかけがえのない一日かは誰でもわかります。

一日を何に使って生きるのか、自分のすべての日にちをどんなことに懸けて生きるのか。

有難い一日にかけがえのない喜びを感じているとき、人は仕合せに回帰します。どのような一日であったとしても、その一日は二度と戻ってこない一日。一期一会だからこそ、生き方を見つめ、生き方からいのちを発して光を放っていきたいと思います。

我が初心伝承の人生。

残りの日数で、できる限り真心で尽力していく覚悟です。

供養の心

昨日は、郷里の落雁を製造する友人のところで落雁づくりをみんなで体験してきました。米粉に砂糖、あとは水を混ぜ合わせ、菓子型にいれて固めてから取り出し乾燥させるというシンプルな手仕事です。

しかしシンプルな手仕事はとても奥が深く、味わいがあるものでした。落雁のことはこのブログでも以前書きましたが、日本古来からある伝統の和菓子です。お寺にはきってもきれない関係があり今も大切にされています。

現代は、見た目が落雁である落雁風のものも増えています。本来は、砂糖がなかった古代において甘いものというのは大変貴重で高価なものです。それをまず仏様にお供えするという心が落雁には宿っています。

このお供えというのは、感謝の気持ちそのものを伝えるものです。今の自分があるのは、その前の有難い何かをいただいたことからはじまっている。そのものに深く感謝をする気持ちがお供えをする心でもあります。

亡くなった人や、もう随分前にお世話になった人にはそこでお会いすることも直接感謝することも物理的にはできません。だからこそ、心を伝え、心で接するようになるのだと思います。

心で接する時、心は体と一体ですから心を籠めて手仕事をすればそのものに心が宿るのです。心は宿ったものをお供えすればその心は、感謝というものに転換され届けることができるのです。

お供えものをお供えする側の心の中に、相手の心もあります。心というのは通じ合うことで伝わりますから、自分の心が通じ合うように調えることはとても大切なことだと私は思います。

宿坊で、供養の心を伝えていこうと考えていましたが落雁はとてもいい体験になるように思います。子どもたちに、先人たちの心、そして今を生きる私たちが大切にしていきたい心を伝えていきたいと思います。

子孫のために今できること

ものづくりをするとき、捨てることを考えてものづくりするよりも売れるものを考えてものづくりを優先するところがほとんどです。その結果、大量のゴミが発生します。しかも、そのゴミの中には分解できないようなものもあります。それはそのまま土に埋めたりしていますが、何万年も何十万年も土の中で分解されずに循環しない環境にしてしまう有害なものが多くあります。

みんながそんなことをしていたら、この地球には循環しない場所がたくさんうまれその後処理に子孫たちが大変な思いをするということが予想されます。

私は空き家のことや古民家甦生を通して、それを実感してきました。本来は、子孫のためにと先人たちが知恵を結晶して建てたものが今では負の遺産となり破壊され続けています。そしてその逆に、環境を汚し後片付けもできないような建物ばかりを建てています。

自分の子ども、そしてその先のずっと子ども、孫たちや子孫たちがどんな思いをするのか、想像力が欠落してしまっている現代ではまるで空気のように当たり前になってしまい解決しようとすることもありません。

それくらい今は、消費経済、資本主義の流れを換えることができません。自転車操業をして今の体制で走り続けなければこけてしまうからです。一度、コロナで立ち止まってもまた周囲の流れに乗っかってしまい元の木阿弥です。

では孫たちのために、子孫たちのためにどうすればいいのか。

それは私は徳積循環経済を創るしかないと思っています。今の循環を換えるのです。ちゃんといのちや、純粋な子どもの心のような思いが循環していく世のなかにしていくのです。そのためには、どうにかしてでも別の流れを仲間を集めみんなで創っていくのです。

それが私の考える結づくりの意味です。

本当は、そうやって先祖代々、先人たちは孫や子孫のために本当の経世済民に尽力してきました。石田梅岩が倹約を中心にしたのも、二宮尊徳が報徳を中心にしたのも、三浦梅園が正徳といったのも、渋沢栄一が道徳経済合一としたのもすべては子孫のためです。

今の自分のことだけ、自分の世代だけのために経済をやるというのはあまりにも寂しいことだと思います。そしていつまでもそれをやっていたら、冒頭で話したようにいつの日か子孫たちに大きなツケをまわしてしまいます。それは先人たちも先祖も望んでいないことは簡単に想像できます。

だからこそ、私たちは今こそその本質に気づき徳積循環経済に舵を切る必要があると思います。これは、誰にでもできることですしすぐにでも実践できるものです。しかし一人では流れを換えるまではかなりの時間がかかります。だからこそ、みんなで結づくりをしてその勢いを強くする必要があると私は思います。

この場所で、まずはその徳積循環経済をつくる体験と結に参加してほしいと思います。子どもたちの未来のために、今しかやれないこと、自分にしかできないことをご一緒していきたいと思います。

貝に導かれる人生

昨日から私が尊敬する友人が来庵しています。この方は、真言宗の僧侶で法螺貝を愛する人物ですが生き方が共感することが多く話をお聴きして学ぶことや気づきをたくさんいただけます。

もともと法螺貝の音色もとても情熱的でまっすぐで、その振動は全身から汗がでてくるように水を揺らします。夜中まで法螺貝談義で盛り上がりましたが、その中でも特に貝に導かれる人生についてのところは有難い気持ちになりました。

私の貝との最初の出会いは、宮崎の日南海岸です。出張で、車で海岸沿いを走っていたら海の中に光る不思議なものを発見し、スーツでしたがズボンをまくり上げて数十メートルの浅瀬を歩いていき手を伸ばした先に小さな巻貝がありました。

その体験の時の出会いが忘れられず、終生お守りとして大事に保管しています。その後の留学や海外での仕事、東京での一人暮らしのときもこの巻貝をいつも持って一緒に暮らしてきました。眠れないときは、耳に当て海を感じ、一期一会を思い出すときは手にとってお手入れをしていました。

そこからは千葉で貝磨きの方と出会い、貝を磨くことで光ることを学び、素晴らしい貝に出会うと磨き上げていました。そして、気が付けば法螺貝に出会い、法螺貝を磨き吹くことで多くの人たちとの出会いがはじまりました。

尊敬する友人も、法螺貝に導かれる人生を送られていました。幼いころにお父さんが吹いていた法螺貝に憧れ、そこから法螺貝に魅了され修行を積まれます。今では、貝がどのようにしてほしいかを直感し、貝の手入れをされ指導や修繕などを手掛けられます。

あくまで法螺貝を優先するので、法螺貝を売るのではなく法螺貝の声を届けるという生き方です。

私も古民家甦生をはじめ、あらゆるものの古いもの、懐かしいものの声を届けることを実践しています。それは同じ感覚で、古民家を売り買いしたいのではなく家がどうしたら喜ぶか、そしてこのいのちがどうやったら甦生するかということしか興味もなく、行動もしません。

たまにこれを仕事にすれば儲かるなどという人もいますが、そもそも動機や目的が子ども第一義からきているものですから、生き方が純粋でなければ、そして本志本業が一致していなければ生きている意味がありません。

生き方というものは、昔の人たちはとても大切にしていました。自分を守るために、切腹するほどに大切な生き方を優先していました。自分を守るということは、自分の純真や純粋性を守るということにほかなりません。

私の周囲には、そういう方がたくさんおられます。私自身も刺激され、生き方を磨く環境をたくさんいただけています。今回も、貝がつないでくれたご縁です。ありがたく、貝の声を聴き届けていきたいと思っています。

法螺貝に感謝して、法螺貝とともにこれからも歩んでいきたいと思います。

徳が循環する結づくり

昨日は、伝統固定種の堀池高菜を収穫しました。もともと30年間、耕作放棄地だったところを畑にし無肥料無農薬でもう10年以上になりますが今年の出来栄えもまた素晴らしいものでした。

虫もほとんどついておらず、葉も青々とし、茎などはまるで樹木のような頑丈さ。鎌で刈り取るとその周辺には高菜の香ばしい香りが満ちてきます。今回は、一緒に取り組んでいる仲間も参加しみんなで和気あいあいと畑ライフを楽しみました。

みんなで畑で歓声をあげながら、高菜の出来栄えを喜びそして分け合うと深い喜びと仕合せを感じます。種を蒔いてから半年間の間、猪被害に遭い、草とりもあり、何度も足を運んだことが報われる瞬間です。昨日はそのまま高菜を天日干しにし、高菜漬けをつくりこのあと古漬け作業に入ります。

高菜漬けもまたみんなで行いましたが、こうやって素材そのものが出来上がるプロセス、そして素材が美味しいままにみんなと分かち合える仕合せ。これはゼロから生産するからこそ味わえるものです。

私たちはいのちのバトンというものを繋いでいく存在でもあります。そのバトンをつなぐことが大切なのは当然ですが、実際にはそのバトンをつなぐまでの喜びが仕合せが幸福でもあります。

与えられた場所で、与えられた種と共に一緒に育ちあい、そして一喜一憂しながらも様々な物語を体験し感謝してみんなと分け合う。こんな仕合せは他にはありません。

私はこのような取り組みをする仲間を集めたいと、徳が循環する結づくりをしています。それが子どもを見守ることになり、私のバトンをつなぐことにもなります。

この人生は、自分のものですが自分だけのものではない。いのちはみんなのものであり、みんなとつながるなかで私たちはその恩恵や恩徳を実感できるのです。

私にとって今日の日は、特別な日の一日でもあります。陽気な春の気配と、ひなたの喜び、いのちがイキイキと躍動して仕合せを分け合える日。こういう素晴らしい日のような心のままに歩んでいきたいと思います。

懐かしさとは

むかしの遺跡や和歌を深めていると、その時の情景や心情がどうだったのだろうかと感じるものです。今は、ほとんど景色も様変わりしており、遺跡の周囲は近代的な建物や資材置き場など価値のない場所として使われています。そもそもこの価値が変わってしまい、昨日ブログでも書いた種よりもお金が大事になり、歴史よりも経済が大事になればその土地の本来の価値も失われていくのは当然かもしれません。

私達が懐かしいと思うものは、ただ思い出があるものだけではありません。そこには、今にも「つながっている心」であったり、その当時から人間が持っている普遍的な情緒や感情、気持ちに「共感」するときに懐かしいと感じるのです。

この懐かしいという言葉は、慣れ親しむもの、手放したくないものという意味でもあります。つまり、いつまでも失いたくないもののことのことでしょう。

私達が懐かしいという言葉を語る時、忘れてはいけない初心や、いつまでも失いたくない大切な記憶のことをいうのです。

今の時代は、懐かしいものが減ってきています。ほとんど懐かしいという言葉を使うことがないほどに、なんでも新しくし、近代化を進め、過去を否定し、価値を換えてしまいました。

しかし、子孫のことを思う時、これはいつまでもなくしてほしくないもの、そして忘れてはいけないもの、そういう先人たちも一度きりの人生で深く味わった大切な体験をずっと宝ものとしていのちのままとして後世に伝承していけたらと思うのです。

伝承は、この懐かしさと一体になっているものです。

初心伝承をしながら、子どもたちに懐かしい未来をつないでいきたいと思います。