生の全う

人はいつの日か誰にも必ず死を迎えます。死は決して生の終わりではなく、生の中に死は存在するからです。その死にも、肉体的な死もあれば、精神的な死もあり、また魂の死というものもあります。

つまりは生のために死は一時的に発生するもので、その死を乗り越えて新たな生が誕生し続けるという甦生の一部であるのです。この甦生とは、「更に生きる生」と書きますが、まさに私たちは永遠の生の中に存在し、その生をより善く生きるために死というものを活かすのです。

私は、人生の目的にこの「甦生」というものを掲げています。ありとあらゆるものを甦生させる力、そして穢れを祓い清め浄化していく力、それらを活用して新しい生を更に前へと進めていきます。

そもそも循環や寿命というものは、すべては生き方の在り方に通じているものです。どのように生きて、どのように更に生きるか、私たちは日々に死を体験しながら新たな生を誕生させているとも言えます。

人生というものは、死の前進によって生がより輝くのであり、私たちは進んで死を受け容れることによってより善い人生へと舵を切り続けることができるのです。

それは時々として愛するものの死であり、場というものの死であり、意識というものの死でもあります。どれも当たり前ではなかった現実と直面し、その時々に死を受け容れながら新たな生を歩むのです。

生にはマンネリはなく、死に続けることで常に赤子のように新鮮な姿を私たちに見せてくれます。私たちは死に学び、はじめて本当の生の意味を知ります。人間の心身がもしもこの時代に試されることがあるのなら、どれだけ死の直前まで素直に運命に従うことができるか、選ばずに受け入れることができるかが生の全うになると私は思います。

子どもたちを信じて、生を全うしていきたいと思います。

信用第一(信徳目)

BAにある水風呂に甦生させた鉄の羽釜は、「稲むらの火」で有名なヤマサ醤油でかつて醤油をつくるために用いられていたものです。このヤマサ醤油は、1645年から続いている老舗で業界第2位のシェアを誇ります。ホームページを拝見しても非常に徳の高い経営をされており、変化を恐れずに果敢に温故知新しているのがわかります。

そもそも老舗というのは、時代の篩にかけられても生き残っている企業ということです。それはどの時代にも必要であったということの証明でもあります。その企業の暖簾を守り続けてきた結果として老舗という称号を与えられます。

この老舗とは何か、私は「信用」であるように思います。

信用とは、確かなものであり、正直・誠実さの顕れでもあります。そこに頼めば間違いがないと、時代を超えて信頼されている徳のことです。

大切な理念や家訓、文化をそれぞれの時代の人たちが真摯に守るために挑戦を惜しまずに実績を積み重ねてきて生き残ってきた「信用」が商売になっているのです。

確かにその時代時代の流行があり、その時々ではあらゆる競合他社が産まれ時には倒産の憂き目にあうようなこともあると思います。しかし流行は過ぎてしまえば、風邪などのように元通りに落ち着きます。その時、人々はまた老舗の信用を安心して頼るようになるのです。

つまり老舗は、流行に左右されずに確かな存在として人々の安心基地になってきたということです。どんなに時代がブレても理念や初心はブレないというその生き方。その生き方を守る家人たちの働き方が、100年も500年もまた1000年も続く礎になってきたのです。

例えば、世界最初の畳油醸造の老舗に室次本店があります。その室次醸造の家訓にはこういうものがあります。

「良い醤油を造りたいなら、自分を磨け。 醸造にはごまかしはない。 誠心誠意がなければならない。 その人柄や性格がその味に香り、色に出てくる。」

これが理念になり文化になりそこで働く人たちが何よりも優先してきた生き方がこの醤油のすべてを証明して信用が確立され今に続いているように思います。まさに、良い醤油をつくるということがどいうことなのか。この人間としての「信用」を守り続けてきたからこその今があるのです。

どの時代においても歴史的に観返せば、企業は大きいか小さいかが問題ではなく、「信用」があるかどうかが本来の問題なのです。信用がない会社は長続きせず、信用がある会社だからこそ生き残ることができるのです。

生存戦略としてもっとも大切であり重要なのがこの「信用を守る」という智慧であることは歴史が証明しています。つまりこれは決して企業だけに限らず、人間社會において何よりも最も重要なのがこの「信用第一」ということでしょう。

信用を守るためには、変化を恐れずに果敢に挑戦を続けていく必要があります。そしてもっとも大切なものを守るために、あらゆるものを活かし未来を見据えて行動していく必要があります。

まさに現在は、時代の分水嶺でありそれぞれの企業が大きく試されるときです。私も信用という徳を守るために、日本を代表する先人たちの老舗に生き方を働き方を学びながら実践を積み重ねていきたいと思います。

暮らしのロールモデル

これから自然農園の田畑を、暮らしフルネスの農場として甦生するために昨日は大勢で畑の草刈りを行い、荒地を甦生して耕しました。日差しが強くて、体力をだいぶ消耗しましたがいつものむかしの田んぼでのお昼ご飯のように玄米を竈で炊き、採れたての新玉ネギを使ってハヤシライスをつくりみんなで一緒に食べたら疲れも取れました。これから畝をつくり、マルチをして種蒔きをして収穫まで見守ります。

思い返せば、自然農に取り組んでから随分と長い月日が流れました。肥料も農薬も使わずに耕さずに草も虫も敵にしないという農法でしたが山間の野生化した荒れ地では人力でいくら手入れをしていても害獣たちが波のように押し寄せ、また雑草の生命力が明らかに人工的な野菜を凌駕し、なかなか自然循環の一部として許してもらえるようにはなりませんでした。

しかし、約10年の間、伝統の高菜を育てているうちにその境目というかどこまでが許されてどこまでが許されないかということを学びました。もちろん、農薬や化学肥料は一切用いないのですが今の時代に存在する科学は道具もある一定のものは活用して賢く取り組むのです。

かつては自然農だから一切耕さないと意地をはっていましたが、場所や農地によっては多少の手配は必要です。私の自宅の庭は、完全に自然農の理念で簡単に野菜がつくれます。それは住宅地がある場所であり、自然はやや人間側に傾いているため害獣もおらず、虫も雑草もそんなに強力ではありません。つまり人間が里山のように形成している場での農業のやり方と、完全に人里離れた山林の傍の場での農業のやり方では異なるということです。重複しますがなんでも一律にマニュアル通りにいくようなことは一切なく、その場その場に応じた工夫と改善は必要なのです。

古民家甦生を通して私はその辺の柔軟性を身に着けました。そのものの徳を引き出すことが何よりも優先するものであり、それ以外のものはある程度は裁量に任せて工夫の余地があるのです。

大事なことは、徳を引き出すのであれば道理は叶うということです。

これから野生化の農場をうまく管理して、そこに新たな自然循環の実証実験の場にしていきます。自然に寄り添い、自然を喜ばせるために如何に人間が自然から学び自然に近づき、自然の許容範囲に対して折り合いをつけつつ、全体の徳を引き出していくか。

挑戦ははじまったばかりですが、新しい取り組みにわくわくしてきました。何年たっても青春は失われず、いつまでも情熱は子ども心のままです。こういう時だからこそ、みんなのお役に立てるように暮らしのロールモデルを模索していきたいと思います。

徳積の生き方

先日、ダスキンの社長を務めた駒井茂春さんの言葉を知る機会がありました。その中の「損の道」の話は、私の徳積財団の思想と非常に近いものを感じて新しい時代を感じました。本当の意味で、この損の道を理解している人はどらくらいいるのでしょうか。今は、得が全体を覆ってしまっていますから余計にこの損の本質を理解することが難しくなっているように思います。

改めて、駒井茂春さんのこの「損の道」の言葉から深めるきっかけになればと思います。

「世の中には損の道と得の道があるのですが、得の道を行こうと思ったら満員電車です。損の道を行ったら、ガラ空きなのです。損の道とは、自己を大いなるものに没入させながら損得勘定にとらわれず、他人のために努力する。そういう生き方です。」

真心の生き方は、まさに正直であり誠実です。その道はガラ空きですから周りに人はいませんがすれ違う時に深く心に残ります。まさに損得勘定ではなく、天を相手にした生き方がここから感じられます。

「人生というものは、『出しただけしか入ってこない』というのが私の結論です。何を出すのでしょうか。それは、モノを出すこともあるでしょう、お金を出すこともあるでしょう、知恵を出すこともあるでしょう、汗を出すこともあるでしょう。何でもいい、人さまのお役に立つために一生懸命に出したら、その出しただけのものは、ちゃんと神さまから入れていただけるということです。」

出し切るというのは、全身全霊で丹誠を籠めて取り組むということです。その時、無私は利他になり万物一体善、自他一体の境地に入ります。まさに自然体そのものでお役に立てるように私も思います。

「野越え、山越え、歩いただけが人生です。人生ははるかな旅路と言われますが、
どこへ行ったかということより、どんな旅行をしたかということが大切です。ゴールよりも、野越え、山越え歩んでゆく一日一日のプロセスこそ人生の旅です。今日こそは、新しく生まれ変わるチャンス。悔いのない一駒一駒を、大切に真剣に歩んでゆきたいものです。」

まさに生き方のことで、一期一会にご縁を活かしたか。そしてそれを内省し、自分が体験したことを真摯に深くじっくりと味わったか。人生の充実はまさにこの日々のいのちの使い方が決めているように思います。

最後に、父からかつて紹介していただいた駒井茂春さんのメッセージ「自分から」を紹介して終わります。

「あなたから先に話しかけましょう。あなたの方からにこやかに笑いましょう。あなたの方からいさぎよく赦しましょう。あなたの方から勇気をもって詫びましょう。

『自分が変われば相手が変わる』

あなたが相手にこうしてほしいと思うことをまずあなたが実行することで世の中きっと楽しくなると思うのです。」

徳積とは、この磨き続ける生き方のことです。1000年後の未来に向けて、この今を大切に過ごしていきたいと思います。

時代のうねり

世界ではロックダウン後の終息宣言をする国家が増えてきました。医療崩壊を防ぎ、緩やかに感染を収めるという目標が達せられたところからアフターコロナでの新しい戦略が生まれ始めています。

まずは中国がいつものように今回の災害を活用して強かに経済活動を5Gに懸けて世界を席巻しています。なんでも使えるものは使い、どんな機会でも利を求めていく生き方はまさに大陸の産んだ文化です。

私たち日本人は、島国で育ち、自然と共生しながら質を追求してきた民族ですから利よりも暮らしの充実を求めていくようにも思います。自然に恵まれ、豊かな四季が暮らしを支えますから私たちは自然に心を研ぎ澄ませていきます。

コロナで世界が一度、立ち止まり、このあとどのように生きるのかをみんな向き合う機会を得ました。立ち止まり振り返った人たちは、コロナの前の元の姿に戻ることを求めず、コロナ後の新しい時代を創ろうとします。まさに私たちはコロナの御蔭で時代が変わる瞬間に立ち会ったと言えるように思います。

コロナ後の生き方と新しい働き方は、私たち人類の運命を易えるように思います。その運命には、つながるということの意味、一緒に生きる意味、集まることの意味、生きることの意味、働くことの意味が重なります。

今まででできなかったことを、新しいステージでもう一度やり直す。そしてそれは、過去の反省を見つめ直し、これからをよりよく生きる挑戦がはじまるという時代のうねりです。

この時代のうねりを活用して、私も子どもたちが100年後から振り返ったときあの決断の御蔭で今があるというようなものにしたいと思います。積小為大、まさにこれから私たちが取り組むのはその最初の一歩です。

アフターコロナの面白く豊かな暮らしフルネスを、カグヤと共に歩んでいきたいと思います。

徳積循環社會の実現

私は、徳を磨くことの一環として人が捨てたものを拾うことを実践しているように思います。それは決してゴミ拾いが好きだという意味ではなく、まだまだその徳が活かせると思えるもの、磨き直せばきっと何か徳が出てくると思えるようなもの、また寿命が尽きる最後まで一緒にお役に立っていきたいと思っているものを拾っているように思います。

それはそこに「徳」が残っているからです。

徳を捨てて私利私欲の得を取るのが今の世の中ですが、本来は得(私利)と徳(利他)がセットになってはじめて全体の道徳経済は一致していくように私は思います。資本主義が偏ってしまったのは、徳ばかりが失われて得ばかりが優先されてきたからに他なりません。

私は決して資本主義を否定するものでもなく、現在の経済も決してダメだとも言いません。実際に私もその恩恵の中で暮らしを育まれており、お金の御蔭で多くの味わい深い幸福も得ています。

しかし否定していませんが、本来の資本主義を完成させるためにも徳循環経済をもっと大きくしてバランスを取る必要があると思っているのです。だからこそ徳積財団を設立し、徳積の仕組みを発明し先進技術によってそれを実現しようとしているのです。

同時にこの徳積は理解がなかなか難しいものでもあります。なぜなら利益中心の世の中においては、無私の発想で放たれる徳の経済の考えは照らし合わせるものがないからです。

長い目でみれば、徳は必ず経済には必要不可欠であることはわかります。しかし現代のようなスピード社會では、その価値はなかなか理解されません。着眼大局、着手小局と先達の人物たちは取り組みましたがなかなかそのような人物が現代では巡り合うことがありません。

世の中の価値観に振り回されてしまい、また組織が大きければ大きいほど、その時代の価値観の影響を受けてしまい取り組むことができないからです。

だからこそ今は、小さい組織で信念で価値観を醸成できるチームを分散させ、その人たちによって草莽崛起するように徳循環の社會を創造していく必要を感じています。

まずはここで自分でやり遂げ、その志を継いでくれる人、仲間を集めてみようと思っている次第です。

引き続き、徳積循環社會の実現に向けて挑戦していきたいと思います。

訓練の大切さ

新型コロナウイルスの感染が拡がり、日本国内も緊急事態宣言が出され自粛の生活が続いています。実際には、みんなこのような体験には慣れておらずどうしていいかわからずに世の中は混乱しているように思います。

東京都内においても、いつものように密集していて感染がひろがり、地方や田舎はまだまだ身近に感染者がいないためあまり危機感もありません。経済対策は後手にまわり、人々の怨嗟の声がマスコミの報道などで日々に流されます。

本来、どうあるべきだったのか。

それをこの時に考えることで、今後の感染対策に向けての準備ができるように私は思います。

そもそも思うに、こういうものが発生し混乱するのは日々の訓練を行っていないからなのは間違いありません。人類は体験したことを学び、それを予防するために訓練を続けていくから有事の際に速やかに連携して協力していくことができます。

しかし実際には、そんなことは起きないだろうと想像もせず自由気ままに平和ボケした生活を続けていると次第に訓練することを怠るようになります。東日本大震災でも釜石の奇跡といって訓練を続けていた小学校はみんな協力して避難して最小限に被害を抑えました。

これは起きるか起きないかわからない地震に対しても、常にその時に備えて訓練をしようと日々に努力し続けてきたからです。

今回の感染症もまた、結核が流行り悲劇の歴史がありましたがワクチンが開発され安心して訓練をやめたところにまた肺病が流行ったということになります。そもそもその時代を経て歴史に学び、どのように感染を防ぐか、そしてどのように拡大を抑えるかとみんな日ごろから訓練をしていれば有事に際して迅速に行動できるものです。

日本では学校をはじめ、日々の暮らしの中でも感染に対する意識は低くなっていて日常生活にあまり関係がなくなってきていました。ここで改めて私たちは、公衆衛生や公衆道徳の在り方を見つめ直し、今後どのように訓練を施していくかをみんなで知恵を出し合って取り組んでいく必要があるように思います。

気候変動が激しくなり、今まで以上に様々な病原菌や食糧難などが予想されています。その時に、どのようにみんなで助け合い生き延びるか、それを今から訓練しておかないとその時がきて今と同じように混乱を招いてしまいます。

禍転じて福にするという諺があるように、敢えてこの災禍を見つめ今後の子どもたちへの見守りに転じるために生き方や暮らし方を換えていくことです。

引き続き、あるべき姿を見据えながら着々と準備を進めていきたいと思います。

こだわりとは

私はこだわりが強いタイプと周りに言われます。いちいちこだわっているといわれ、嫌煙されるか尊敬されるかがどちらかに分かれます。自分自身では無意識にやっていることなので今さら周囲がどういおうが生き方が変わらないのですが、納得するまで本質を突き詰めたいと思いあれこれを深めていたら自然にこだわりが強くなっていくだけのように思います。

先日、稲盛和夫さんにこういう言葉に出会いました。

「ひとつのことを究めることは、すべてを理解することなのです。すべてのものの奥深くに、真理があるのです。」

確かに、一つのことを深めれば深めるほどにあらゆる総合的な知識や経験、そして智慧や直観が使われていきます。今まで見聞きしたものから真理を思い出し、その真理に照らして道理を悟ります。

私の場合は、どれも自然から学んだ智慧ものを用います。例えば、自然か不自然かがまず最初の篩であり、その後は、歴史の智慧に照らします。歴史の智慧とは、発酵とか、共生とか、体のことや気候、伝統などです。

いわれてみれば、自然農をやってきたり、人類を学んだり、伝統を学んだり、暮らしを学んでいる過程で私はすべてを理解していきました。そのすべてのものの奥深さに感動し、その感動したものを自分のものにする過程で新たな発見は発明に出会います。

現在、建造中の復古創新した日本伝統のサウナもまたすべてを理解するなかで創造する総合芸術であり、その中には私が経験して学び理解した本質のすべてを組み合わせていきます。

気が付くと、こだわりが強いといわれていますがこれはこだわりではなく真実に近づいているということでもあります。こだわりとは、決して嘘偽りない正直な真心で取り組んでいるということかもしれません。

執着というこだわりと、真理というこだわり、同じこだわりという意味でもその大前提が異なります。自然は無為であるように、真理もまた同様に無為というこだわりがあります。

自然も真理も道理ですから、そこから外れないで生きることこそ人類にとって必要なこだわりではないかとも私は感じます。時代が変わればこだわりもまた変わります。人類の道理を忘れないよう、初心を大切に取り組んでいきたいと思います。

 

居場所

場の共有を考えていると、まず最初に意識するのは「居場所」です。自分が何処にいて何をしているのか、どのようなコミュニティを築いているのか、自分というものを認識するのにもまずはその居場所を確認するものです。

自分の居場所は、単なる物理的な場だけではなく意識の中の場というものもあります。家庭での居場所、会社での居場所、社會でも居場所、世界での居場所、あらゆる居場所から自分の布置を見つめていきます。

自分の居心地の善い場所を見つけるために、人は場を求めていくものです。そしてその求めている場を求めている人たちと共有するとき、居場所が創造できるように思います。

そして居場所を創造するには、まず自己との対話が必要であり、自分が自分のままでいい、自分のままで愛されているといった状態、その上で、他人にも同様にその意識を持つことで居場所は顕現されていくようにも思います。

居場所の顕現するとき、人は心の安心を得られます。自分という存在をどのように認め合うか、これは居場所づくりにおいてとても重要であると思うのです。

だからこそ、場の共有とは自分という人間を丸ごと認めること、そして一緒に生きていく人たちのことも丸ごと認めること。自分にとって都合が悪いからと全部排除したり、その人のダメなところは一切認めないという心の態度では居場所が創造することはできないようにも思うのです。

人間は、長いこと評価に晒されてくると自分のダメな一面を認めようとはしなくなります。そうなると同様に他人のダメなところも認めることができません。丸ごと認めるという場が共有されるとき、人間は安心して自己を表現し自己を発揮していくことができるように思います。

自分の個性を理解してくれる存在や、自分の持ち味を分かち合ってくれる存在、そして自分というもののマイナスなところも含めて許しあえる存在、そんな存在に出会うことで人は居心地の善い場にたどり着くことができるように思います。

自分を受け容れることは場の共有において大切な実践項目です。

子どもたちが安心して場に自己を発揮していけるように、場の共有を深めていきたいと思います。

場の共有

人間は、「場を共有」することで共存共栄してきた生きものです。ここでの場とは、同じ空間と時間を一緒にするという意味です。同じ空間と時間をというのは、人生は生まれてきた中で色々な人たちとご縁があります。その一度きりのわずかな時間に、誰と一緒に生きていくか、誰と時間と空間をシェアしていくかということでその人生の質は決まります。

つまり人生は、場によって創造され場によって演出され場によって顕現するということです。だからこそ、場の共有は同じ時代、同じ場所、同じ空間を共にする仲間との大切な分かち合う時間だとも言えます。

人生は、色々な目的がありそれぞれに志があります。これだけ多くの人間がいても、一生のうちで関わるのはわずかな数です。そのわずかな数によって人生は彩られ、その奇跡とも言えるような組み合わせによって体験する内容が異なっていきます。

あの時、出会うことがなければ、あるいは、あの時一緒の場に遭遇しなければと、一期一会に人は場によってあらゆるご縁を導きだしていきます。

そしてどのような場を体験したいかという、それぞれの目的に合わせた夢や理想に向けて人は場を重なり合わせていくように思います。それがまさに「場の共有」の実践なのです。

それは家庭でも然り、職場でも然り、ライフワークでも然り、どのような人と、どのような場にしていくかは人生にとって大変重要なテーマであることは間違いない事実です。

だからこそ「場の共有」と正対し、どのような場を創造していくかは一人一人の主体性と責任が関わるものです。場を整わすことも、その場を活かそうとするからであり、場を清めるのも、場の目的を明確にして場を高めるためでもあります。

私の主催する場の道場は、場にこそいのちの原点があり、場にこそご縁の真髄があると確信しているものです。場によって人が変わり、場によって世界が換わる。これからの時代、新しい場の共有が人類の進む道に大きな影響を与えるはずです。

子どもたちのためにも、場を深め、場を譲り、場を遺していきたいと思います。