かんながらの与贈

先日、贈与という言葉は聞いたことがありましたが「与贈」という言葉に出会いました。贈与はある人が誰かに無償で財産を贈ることを言います。しかし与贈になると少し意味が異なってきます。

その「与贈」について、場の研究所のフェイスブックにこう紹介されていました。

「私たちの「与贈」は、正確に言えば「〈いのち〉の与贈」です。いまマザー・テレサの愛のことばの本を読んでいたら、次のようなすてきな言葉に出会いました。『愛は分かち合わなければ、何の意味もありません。愛は行動に移されるべきものです。見返りを期待せずに愛さなければなりません。愛そのもののために何かをするべきで、何かを得るためにするのではありません。見返りを期待するなら、それはもう愛ではないのです。本当の愛とは、無条件で、何も期待せずに愛するということだからです。』(清水紀子訳)これほど「与贈」という行為の意味を正確に伝えている言葉に出会ったことはありません。場の研究所で、私たちが「〈いのち〉の与贈」と、〈いのち〉をつけているわけは、人間以外の生きものにも〈いのち〉の与贈循環を広めて、持続可能な地球をつくりたいと思っているからです。」

これは私の思う「徳」と同じです。愛を徳に換えればそのまま与贈ということなります。

私たちのいのちの中で永遠永久に存在しているものがこの循環している愛や徳、与贈です。それは生死を問わず、なくなっているようで存在し、宇宙の中にずっと積み上げられていくものです。

むかしの人は、それを「徳を積む」という言い方をしました。これは愛を与えることと、真心を盡すこと、そして自然が循環することがいのちそのものの本体だと気づいていたからではないかと私は思います。

そして私たちが今あるのは、かつてのいのちたちの屍の上で存在しています。時空を超えてめぐりめぐっているいのちの中で自然宇宙の中の恩恵そのものの偉大な場を舞台にして私たちのいのちそのものは何かによって活かされているということです。

当たり前ではないこの「場」の存在に如何に気づいて、自分をその「場」ではたらかせていくかがいのちそのものに同化していくことであり自然になることです。人類が永続する道もまたこの「場」に対する生き方次第です。

徳を色々な形で学び、その徳を如何に循環させていくかを私のかんながら(自然)の与贈から伝承していきたいと思います。

多様な働き方と理念の伝承

昨日、都内にあるコワーキングスペースを経営するWEWORKを見学する機会がありました。ここは、最近急速に日本でも展開が増えているコワーキングでデザインも統一感があり確かに場に理念を感じました。

具体的には自社サイトの理念にはこう記されています。

「​2010​ 年に WeWork を始めた時、私たちはただの美しいシェアオフィス以上のものを創りたいと考えました。それはコミュニティです。「Me」という個人として参加しながらも、より大きな「We」の仲間になれる場所。利益だけでなく、個人の充足感を尺度として成功を定義し直す場所。コミュニティの存在が、私たちに無限のインスピレーションを与えてくれるのです。」

個人の充足感を尺度とした働き方、そこには確かなつながりというコミュニティが必要不可欠であると定義されています。

元々創業者のアダム・ニューマンはイスラエルの人物ですが、キブツというイスラエル独特の集団農業共同体で小さな規模で100人大きな規模では1000人が共に暮らし、働いてきたといいます。

その思想がWeWorkやWeLiveの原型となるアイデアになったそうです。そのアイデアは暮らしのコミュニティの重要性を説き「暮らしのコンセプト(Concept Living)」と名付けられたそうです。

またその後、ビジネスパートナーでもあり映画監督でもあるレベッカ・パルトロウと結婚します。このレベッカとの出会いがユダヤの教え「カバラ」の影響を受け生き方に大きな影響を与えたそうです。

この「カバラ」とは、ヘブライ語で「受け継がれてきた伝承」という意味の言葉です。具体的には「思考は言語から生まれるのであって、言語から思考が生まれるのではない」と定義します。聖書にも「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」と記されていますが思想というものの本体に気づいたのかもしれません。

「働く=個人の充足感」という理念が今のコワーキングスペースの理念に通じているのでしょう。ここのタグラインには「やっと月曜日がはじまる!(Thanks God It’s Monday!)」と記されます。世間では、やっと週末だという人が多い中で発想を転換して仕事を働く仕合せに換えていこうという取り組みです。そのために月曜日が楽しくなるようなイベントやコミュニティをコミュニティマネージャーが展開しているともいいます。

これから多様な働き方改革で様々なコワーキングが誕生します。子どもたちにどのような理念を伝承していくことが大切なのか。ユダヤのカビラに学び、イスラエルのギブツに学びつつ、子ども第一義の働き方を深めてみたいと思います。

 

本物の美味しさ

昨日は、千葉県神崎にあるむかしの田んぼの草取りを行いました。現在の一般の田んぼは除草剤を使っていますから田んぼに直接足を入れて除草することはほとんどありません。しかしむかしからの田んぼには、必ず稲とは別の草草が生えてきますから除草をしなければ収量が大幅に変化してしまいます。

この除草も田んぼが大きくなればなるほどに大変ですが、みんなで作業すると苦労も分かち合え、また食事も美味しく、家族のような親近感が湧いてくるものです。懐かしい家にいるかのような感覚になるのも、田んぼの場がそうさせるのかもしれません。

お昼は、この田んぼの理念でもある「美味しいお米づくり」を私たちカグヤの子ども第一義と組み合わせて「美味しいごはん」を用意することにしています。今の子どもたちに本物の「美味しい」とは何かを伝承するために様々な取り組みを工夫しています。

昨日は、ひつまぶしのようにして鯛茶漬けを食べましたが直前に鉋で鰹節を削り、鉄鍋を用意し炭火で沸かした水をつかって出汁をとったものは美味で薫りも見た目もすべてに感動しました。

お米も昨年、みんなで収穫したお米を食べましたが甘くお米だけで充分なほどでした。さらにみんなで協働して働いたあとだったのでお腹もすいていたことから夢中でみんなで「美味しい美味しい」とだけいいながら食べていました。

この「美味しい」というのは、単に舌先三寸だけを喜ばせて美味しいわけではないことはこうやって食べてみるとわかります。農家さんをはじめ、私たちも一緒に苦労することで味わいが倍増していくのです。

今の時代はなんでも便利になって、苦労せずに楽をしておいしい思いをしようとする傾向が増えています。そのことからかえって美味しいということが失われてきているように思います。

ルーティンのようにご飯を食べ、面倒くさいという言葉が巷にははびこり、すぐに何かをしようとすとすぐに「面倒くさい」と口癖のようにつぶやいているのをよく聞きます。甘やかされた環境の中でいて甘えに浸かっていると、本当に人生の味わいを知ることがないのではないかとも感じます。厳しい環境や苦しい環境は、野生の生き物たちと同様にいのちが充たされその分、味わい深い人生を歩めるように思います。

だからこそ今の時代こそ、面倒くさいからやらないのではなく、敢えて面倒なことをみんなで取り組んでみるとそこには意外な深い味わいのある仕事や思い出があったりするものです。

また「美味しい」ものができるということは、みんなが丹精込めたからですがそれを味わう人もまた努力や苦労の味を心で感じ取っているように思います。

心が充たされる味わいというものと、五感が一緒に喜ぶ味わいとが重なったときにこそ「本物の美味しさ」を人は味わえるように思います。

子どもたちに本物の味わいを遺し譲っていけるようにこのむかしの田んぼを守っていきたいと思います。

菖蒲の力

先日から湯屋を深めている中で東大寺再建に要する材木調達に従事した人々の保養のために重源上人が創始した石風呂が日本的サウナの起源に近いように感じています。

この石風呂は、石積みや岩窟の空洞を利用したサウナのような熱気浴施設です。その石を薪などで温めてその上に薬草を敷いてむしろを置き、中に入り湯気によって身体を癒します。

材木調達では怪我や事故が多かったため、施浴として開発されたものです。東大寺再建を苦しみではなく、人々の仕合せを願い行う聖武天皇の理念を重源上人は実践したことになります。

その中の薬草の一つに、菖蒲があります。

この菖蒲は、端午の節句などでも菖蒲湯にして今でも風呂につかる文化が残っています。菖蒲湯はその香りによって悪疫を退散させ、菖蒲湯は薬草を入れた温水浴としての民間療法となりこれが年中行事に結びついたとされます。同様の例として冬至の日のゆず湯があります。

薬効としては、ウィキペディアにはこうあります。

「菖蒲にはアサロンオイゲノールという精油成分が多く含まれている。腰痛神経痛を和らげる効果が期待できる店頭で売られている菖蒲は葉の部分が多いが、血行促進や保湿効果の薬効がある精油成分はの部分にあるので、それを望む場合は漢方薬局で相談するとよいまた、菖蒲には独特の香りがある。菖蒲湯にはアロマセラピー効果もあり、心身ともリラックスすることを期待できる」

この菖蒲を、むしろの下に敷くことで体調を整えたのがわかります。特にこの初夏や梅雨の時期は、季節の急激な変化で気温差や雨にうたれることから体調を崩します。その時に、菖蒲の力を借りて身体を回復させより免疫を高めて仕事に取り組むことで元氣を蓄えていたのでしょう。

遠赤外線や間接的な穏やかなぬくもりとこの薬効によって心身を癒すことが、善い仕事、善い暮らし、善い思想を場に創造したのでしょう。

子どもたちのためにもむかしの智慧を復古起新して伝承の価値を実践していきたいと思います。

整うとは何か

先日からサウナのことを深めていますが、その中で「整う」という言葉がよく用いられていることを知りました。この整うというものは、美しく和を保ち清浄であろうとする日本の生き方に共鳴するものがあるように思います。

この「整」うという字の成り立ちは、分けたり束ねたりしてそれを正しくするという意味の字です。そこから、乱れたものをもとの状態にするという意味で使われます。そこから整理、整備、整合性や理路整然、他にも整骨や整腸など身近で使われる整の字から印象が理解できるように思います。

この「整う」というのは、和の家に住めば自然に意識しているものです。例えば、和の家はシンプルに空間がある中で適材適所に道具や装飾が配置されていきます。よく床の間に色々なものを置きすぎてかえって見苦しくなっているところを見かけますがそれも整えば美しい景色を発揮していくものです。

他にも物が溢れてあちこちが散らかっているところにいると、なぜか気持ちもざわついてしまいます。いつも整理整頓されたシンプルな空間には、心が落ち着き、気持ちも安らぎ、自分の状態も穏やかになっていくものです。

私も日常の暮らしの中で、古民家や和の民家の手入れを行いますからこの「整う」というのは非常に大切な実践項目になっています。まず、シンプルに最初の形を決める。その形は、そのものがあるように、そのものが喜ぶように自然に配置していきます。

そうやって配置したものの中に外からたくさんの物が入ってきますが、それを適切に配置するか仕舞い、出番などの準備を決めて片付けます。この片付けるというのは、形を整えるという意味でもあります。

つまり形が整っていくことで、心も整い、精神も整い、感情も整い、自然あるがままの自分が整っていくのです。本来の自分をとり戻すといってもいいのかもしれません。これを平常心ともいい、平静心ともいい、動じずに落ち着いて不動の境地を得ているという状態でもあります。

自然や天候が乱れても、そのうち整い穏やかないつもの天候になっていくように私たちはハレとケという使い方をして日常と非日常のバランスを整わせて暮らしを行います。

暮らしが失われてきた昨今において、整うということはとても大切なことのように思います。今は、乱れやすい環境にありますからそれをどのように整えるかはそれぞれの工夫がより必要になるものです。

せっかく湯屋を甦生しますから、「整うとは何か」ということを探求しそれを形にして子どもたちやご縁ある人々の心の安らぎを提供していきたいと思います。

徳の場づくり

先日から湯屋のことを深めていると、東大寺大勧進職として源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした重源上人に何度も出会います。この方は平安時代から鎌倉時代にかけての日本の僧侶であり俊乗坊といいました。

この人物のすごさはその東大寺大勧進職を引き受けたのが当時で61歳の時、さらには東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があったのをすべて寄付などによって自ら工事の陣頭指揮を執り復興を果たしたことです。

この人物は、浄土宗の開祖法然に師事し中国の宋へ3回も渡航し数々の知識や智慧を習得して帰国されました。造営と信仰を融合し、場によって人々の心を癒し安らげる仕組みで数々の功績を遺しています。

今回、改めて重源上人を知ったのは周防国の阿弥陀寺の湯屋の施浴でしたがこの人物が如何に徳を積み、徳を弘めたのかが伝わってきます。勧進帳にはこう記されています。

「東大寺勧進上人重源敬って白す。

特に十方檀那の助成を蒙り、絲綸の旨に任せ、土木の功を終へ、仏像を修補し、堂宇を営作せんと請う状

右当伽藍は風雨を天半に軼べ、棟甍の竦櫂を有ち、仏法恢弘の精舎、神明保護の霊地なり。原夫れ聖武天皇作治の叡願を発し、行基菩薩知識の懇誠を表す。加之、天照大神両国の黄金を出し、之を採りて尊像に塗り奉る。菩提僧正万里の滄海を渡り、これを崛して仏眼を開かしむ。彼の北天竺八十尺弥勒菩薩は光明を毎月の斎日に現じ、此の東大寺の十六丈盧舎那仏は利益を数代の聖朝に施す。彼を以って此に比するに、此猶卓然たり。是を以って代々の国王尊崇他無し。蠢々たる土俗帰敬懈るに匪ず。然る間、去年窮冬下旬八日、図らざるに火あり。延て此寺に及び、堂宇灰と成り、仏像煙と化し、跋提河の春の浪哀声再び聞え、沙羅林の朝の雲憂色重て聳え、眼を戴いて天を迎げば、則ち白霧胸に塞りて散せず。首を傾けて地に俯すれば、亦紅塵面に満ちて忽ち昏く、天下誰か之を歔欷せざらん。海内誰か之を悲歎せざらん。底露を摧かんより、成風を企つるに若かず。玆に因って、遠く貞観延喜の奮規を訪び、近く今上宣下の勅命に任せ、須らく都鄙をして、以って営作を遂げしむ可し、伏して乞う、十方一切同心合力、家々の清虚を謂ふこと莫れ、只力の能ふ所に任す可し。尺布寸鉄と雖も一木半銭と雖も、必ず勧進の詞に答え、各奉加の志を抽んでよ。然らば、即ち与善の輩結縁の人、現世には松柏の樹を指して比算し、当来に芙蕖の華に坐して結跏せん。其福無量得て記す加からざるもの乎。敬うて白す。

養和元年八月 日 勧進上人重源 敬白 別当法務大僧正大和尚(在判)」

どんなに少ない鉄くずでもいいし、どんなに短い布切れでもいい、みんなでこの東大寺を復興するために協力してほしいと依頼していくのです。これは東大寺建立の初心でもある聖武天皇の『大仏造立の詔』にある「万代の福業を修して動植咸く栄えんことを欲す、もし更に人の、一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情願する者有らば、、」というところを伝承して記されています。

復興を祈願するのに、そのはじまりの目的を甦生させそれを実現させるこの重源上人に深い尊敬の念を感じます。私が現在、取り組んでいる徳の甦生もまたまったくこの人物の取り組んできたことと同じです。古い民家や、日本の民族伝承、それらを復活復興させるために私も建築技術や教育などのコンサルティング、場づくりなどによってその徳を顕現させるように努めています。

私が今度、取り組もうとする湯屋にもこの重源上人の技術を参考にしようと決めました。また各地で取り組み始めた古民家甦生もまたこの東大寺の勧進に倣い、志を立てていきたいと思います。

先人の生き方は、私たちに未来をどうあるべきかを告げてくれます。引き続き、子どもたちのためにも徳のご縁を結び合う場を創造していきたいと思います。

智慧の伝承

智慧の伝承というものがあります。これはすべてのいのちは生まれた環境において自然に知識ではないものが丸ごと次世代に受け継がれていくという仕組みのことです。

私たちは別に誰かに教育をされなかったとしても、言葉や知識を覚えなくても、元来いのちの維持に必要な智慧を自然から感得感受しているものです。

例えば、心臓の動かし方やまばたきの仕方、手足の動かし方など生まれながらに知識がなくてもそれができるようになっています。他にも、親の存在や周囲の環境との相互作用においてそれを参考にしながら自分の中に情報が伝導されていくものです。

誰かが教えなくても自ら主体的に直観的に自然を智慧を伝承していくのです。

今の時代は情報化が進んだこともあり誰もが知識ばかりを探しては、智慧の偉大さを大切にしない傾向が強いような気がしています。知識というものは、誰かが言語化して可視化したものですがそれは過去に発見されたその時代時代の組み合わせによる智慧を表現したものの一つです。

生きものはすべて自然を観ては智慧を学ぶ、そこには過去にはない自由な発想があり未来の可能性を求めているいのちの成長があります。そのようにして何万年も何千年もむかしから私たちは環境に適応しながらいのちを生きながらえて繋いでくることができたのです。

現代のように知識が優勢の世の中では、智慧はますます重宝されなくなってきています。その方が現実的に理論で理解でき、評価され、周りも納得しやすいからでしょう。しかし、智慧こそ本来の生きることそのものに直結しており私たちは直観的に智慧を働かせてこの地球と一体になって暮らしているとも言えます。私たちは知識も智慧もバランスよく活かすことで本来の真実という智慧を学ぶことができたのです。そしてそれがむかしから私たちの先祖が大切にしてきた「暮らしの智慧」だったのです。私が日本の民家の民族伝承を用いて、様々な環境の仕組みや風土を創造するのも元の理由はこの暮らしの智慧と伝承のためなのです。それを古来は、徳といい、道とも呼びました。

子どもたちに最幸の環境を残し譲るためにも教育環境が大切です。そのためにも今を生きる私たちが智慧を感得感受するために自らの好奇心を最大限に働かせ自然から学び、自然と共に歩み、自然の智慧をこの世の中に伝道していくことで智慧そのものの姿に近づいていく必要があります。

まさにこの生き方が、私の感受感得する自然かんながらの道です。

引き続き、子どもたちに備わっている智慧を引き出せるような環境を創造し、新しい時代の風土を道徳や経済を混然一体に組み合わせ智慧のままに子どもを見守る仕組みを伝道していきたいと思います。

自己観照

人は外ばかりを見ては自分というものをなかなか見つめないものです。自分が一体、どういう人間か、そしてどのような人格を持っているのか、自分が求めて望んでいるものが何か、そういうものを自覚していないものです。

その理由は、自分という存在があまりにも身近でありあまりにも傍にいるからです。自分の目を自分で見ることができないように、心臓の鼓動が聞こえてこないようにあまりにも一体化していて自分に意識を集中しない限りなかなか自分というものを自覚しないように思います。

例えば、目を見るときは鏡を見たら目は見えます。鏡は自分というものを映しだして自分の姿かたちをとらえることができます。そして心臓の音を聞くときは、聴診器をあてれば聞こえることもできます。脈をはかれば、心臓の鼓動から自分の体の状態に気づくことができます。

私たちは敢えて自分を観ようとしたとき、聴こうとしたときにはじめて自分というものを掘り下げて自覚することができるということでしょう。

そして自分というものの理解には、周囲の友人や家族、身近な存在によって自覚することもできます。どのような人たちが自分の周りで共に生きているか、どのような志を持つ仲間や友、そして愛し合う人たちと一緒に生きているか。それによってまた自分というものを掘り下げて自覚することができるのです。

私たちは自覚するにおいて大切なのはこの身近な存在を意識することにより自己観照をしていくことができるのです。

自己観照ができると、本当の自分に出会えます。それは色々な言い方がありますが、魂の自分と呼んでもいいし、心の姿と呼ぶ人もいます。自己というのは、私にとっては混然一体の自己の顕現する姿であり万物一体全の一部として存在する自分というものです。

与えられた自分の天命が何に気づき、何処に向かい、何を味わいたがっているか。日々に内省し、反復し、慎独するのは自分という無二の存在を大切にしていくための道の実践であるように私は思います。

出会いやご縁は、自分というものを磨き上げ、自分というものを確かにしていきます。一期一会の出会いに感謝しながら、大切な日々を生きていきたいと思います。

運と風~風土のチカラ~

世の中には運というものがあります。よく運がよかったとか悪かったとか、何かの結果が出た時にそれを人はつぶやきます。自分にとって運がいい悪いは時として周囲にとってはそれが逆になることもあります。

つまりは運とは、その人の心の持ち方に影響を受けていることに気づきます。

幸田露伴にこういう言葉があります。

「順風として喜んでいる人が遇っている風は、逆風として嘆いている人が遇っている風とまったく同じ風なのである。”努力して努力する”―これは真によいものとはいえない。“努力を忘れて努力する”―これこそが真によいものである」と。

運とは、その人の風の感じ方そのものでありその風に乗っていく人と、それに逆らう人がいるだけであるとも言えます。風任せの生き方ができる人は、雲のように融通無碍に運に従います。しかし、人間は我がありますから無理をしてでも風を無視して前に進みたくなるものです。

世の中の潮流、いわばその風は時代と共に変化していきます。日々に窓を開けて外の風を感じれば、色々な風が吹いているのがわかります。今日の風はどうだろうかと、風を感じて風を活かす人は運を味方につけているとも言えます。

運とは、自然あるがままを活かす智慧のことでありその運を引き寄せる人は自分を自然に対して変化させ続けることができる努力の人であるということです。

努力とは、自然と一体になっている状態の事です。それは四季の花々が真摯に生きて花を咲かせているように、魚や鳥たちが自由闊達に泳ぎ歌うのと同じようにです。

変化し続ける力は、まさに運を味方につけていきます。運を高めるためには、変化する力を磨き上げる必要があります。風に合わせて自分自身の境遇や環境をブラッシュアップしていくのは、足るを知り、来た風に逆らわずその風を活かすときにこそ実現していきます。

風土というものは、運の根本を司っています。

引き続き、今の子どもたちのために風土を醸成し自然かんながらの道を踏みしめていきたいと思います。

持続可能の基礎

物事には短期的なものと長期的なものがあります。現在の世の中はスピード重視、便利さ重視、結果重視で個人重視ですからどうしても短期的なものが増えていきます。すぐにリターンがあったり、すぐに成果につながらないものは効果がないとみなされたり失敗だとも評価されます。

しかし遠くにいこうとすればするほどに身近な失敗は成功の糧にもなります。また成長しようとするのなら、数々の失敗や挑戦を繰り返さなければ長期的に見てそれは成功ではないように思います。

むかしは、7代先を観て物事に取り組んでいくという視点があったといいます。常に300年先を見据えて何をすべきかということを話し合いそれぞれが実践に努めたのです。

持続可能な社會を掲げていてもそれが一向に進まないのは、それは短期的なもので持続可能を観ているからです。本来、持続可能や循環型、そういったものは長い歳月と一人一人の真摯な努力によってはじめて実現するものです。

二宮尊徳にこういう言葉が残っています。

「樹木を植うるや、三十年を経ざれば、則ち材を成さず。宜しく後世のためにこれを植うべし。今日用うるところの材木は則ち前人の植うる所。然らばなんぞ後人のために之を植えざると得ん。」

樹木を植えても三十年は待たないと材量にはならない。だからこそ後で使う人のために今、樹木を植えるのです。今、用いている材料はすべて先人たちが私たちのことを慮り植えてくれたから私たちはそれを使うことができています。その恩恵に感謝する心があるのならなぜ子孫のために植えようとしないのかという解釈です。

私たちは自分のメリットや今さえよければいいと、物事の判断を自分軸のみの物差しで計算して行動しています。しかしこれがもしも後世の人たちや子孫の人たち、先祖への感謝の報恩であればどういう物差しになるでしょうか。

長期的な物差しとは本来、これらの長い時間をかけて持続可能としていた社會の存在を感じて判断していくものなのです。何を計画するにも、その土台や基礎になっている初心や哲学、基本にその思想が入っていなければ決して持続可能の実践にはつながっていかないように私は思います。

二宮尊徳はこうも言います。

「遠くをはかる者は富み近くをはかる者は貧す。それ遠くをはかる者は百年のために杉苗を植う。まして春まきて秋実る物においてをや。ゆえに富有なり。近くをはかる者は春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず。唯眼前の利に迷うてまかずして取りえずして刈り取る事のみ目につく。故に貧窮す」

何が本来の豊かさであるのか、豊かさや富の本質を持続可能の社會ではまったく視座が異なることを私たちは先人の実践から気づく必要があります。

育てるという仕事も本来、長い時間をかけてじっくりと育てるものです。それは土づくり似ていて、何十年もかけて育ててきた土だからこそその中で立派な作物ができてくるのです。人づくりも然り、まちづくりも然りなのです。

自分の代で見返りがなくても、すぐに自分の代で結果がでなくても、本当の意味の子々孫々への思いやりや真心での持続可能に取り組む人たちが未来を変えていくのでしょう。

子どもたちのためにも、周囲の理解が得られなくても覚悟を据えて子どもに必要な伝統や風土、文化を伝承していきたいと思います。