点

先日、新潟にある「点塾」にて理念研修をしていただく御縁をいただきました。この点塾は、清水代表によると共同創始者である藤坂さんという方と一緒に「輝く点になろう、点をつくろう」それを点塾の理念の原点に据えて開いたリーダー育成の塾です。

「点」という字には深いこだわりがあり、すべては点からはじまる、そして点があるから線もでき面にもなる、その点が何よりも大切だということを教えてくださいました。

真っ新な紙に、点が入る姿を創造しましたがとてもワクワクする塾の名前だと改めてその哲学と思想の深淵に触れて理念に感動しました。

ここでは「教えない教育」を柱に、様々なワークショップやアクティビティ、その他の研修が行われます。これは私たちの実践する、「見守る保育」と通じていて、和の心と繋がっているように感じ終始居心地のよい場の中で、沢山の新たな気づきや発見をいただきました。

特に印象に遺ったのは、「和のファシリテーション」です。私たちはファシリテーターを「聴福人」と定義していますが、ここでは和のファシリテーションとはどのようなものかを再実感することができました。

日本の伝統文化のエッセンスを盛り込まれたり、さらに自然を上手く活用し、あるものを活かしながらそれぞれの表現を通して顕れたその人らしさを存分に楽しめ味わえる仕組みになっていました。

点が光るということがどういうことか、全体のシナリオを通じて清水代表の持つ人生観や生き方も感じられ、一人ひとりが輝く経営、リーダーシップはどういうものかということを再確認できました。

同じ理念を持つ方々との合同研修は大変有難く、御互いに貴重な気づきを交換できて学びが深まるだけではなく学びが高まっていく実感がありました。巡り合わせの仕合わせを実感しつつ、同じ志、同じ義憤を持つからこそ、道の大義を盡していくぞと心を新たに覚悟が深まる有難いお時間になったように思います。

生きる力はそれぞれの点の中に具わっている。しかしそれを活かすかどうかは、その人の生活の仕方、つまりは生き方の中にあるともいえます。教えられ詰め込まれた教育の中で減退した自然の本能をどう呼び覚まし、これからの激動期を乗り越える力を引き出していくか、子どもの可能性を信じて次世代が次の世の中で如何にいのちを輝かせていきていくことができるか。これはかの吉田松陰の松下村塾でも同じ理念下で塾生を育成し挑戦してきたことです。

この世に教育があるのは、いのちを輝かせていくチカラ添えを与えるためです。子ども達が光り輝く点になり、あの星々のように夜空に瞬き煌き美しく流れていくように私たちも引き続き理念の実践を強く発揮していきたいと思いました。

ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。

 

=個々をどう輝かせるか、それが点塾

不便を愉しむ

今の時代は何でも便利になってきました。不便なことを嫌い、不便を悪とさえみなし不便を遠ざける生活を送っています。しかしこの不便というものは、実は生きる力に深くつながっていて便利さの中にいるというのは生きる力の減退になっていることに気づかなくなっているものです。

そもそも不便というのは思い通りにならないということです。人生は思い通りにいくだけの人生などはありあせん。時には順境、時には逆境、どちらかといえば理想や夢を抱き追い求める人生を歩むならそのほとんどは試練や苦労に包まれるものです。 そんな時、何でも思い通りになる便利な生活は果たしてその人のもともともっている乗り越える力や立ち直る力、つまりは生きる力を高めているかということです。

その人の生きる力というものは、その人がどんな人生であっても自分らしく主体的に自分の脚で力強く歩んでいくかどうかという力です。

昨日のブログのコメントで、高村光太郎の「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」がありましたがこれはどんな道で歩んでいくという生きる力、人間の持つ生命力や本能でいることの大切さを伝えてきます。

そういう人間の生命力や本能は「不便を味わい楽しむ」ことで磨かれていきます。不便だ不便だと便利さを追い求める前に、不便であることの方が自分の生きる力が磨かれ、そしてその状態が愉しめているのならその人は逞しい人になっているとも言えます。

今の若い人たちや今の時代の人たちがなくなったといわれるものに「逞しさ」がありますがこれはすべて便利さの中で失われたものです。

不便を愉しむ心があるのなら、どんな逆境でも乗り越える強さとやさしさが身に付いているように思います。 思い通りにならないことを嘆かず、むしろ思った以上のことが起きているのではないかとワクワクドキドキと歩んで往く姿にこそ道を歩んでいく尊い生き方がきらりと光り、子ども達の憧れる大人の背中になっていくのでしょう。

敢えて不便さを与えるという古来の仕法で新たなロードマップと結び付けていきたいと思います。

誠道常脚下開在

本質を保ち、真実を実践するというのは他人からの誤解を多く招くことがあります。本来は世間一般の常識に合わせて、誤解されることを憚りうまいことやっていくという方法もありますがそれがもしも誠実ではないと思うのならばそういう生き方が次第にできなくなるものです。

自分がどう相手に思われようとも、自分の真心を盡す生き方というのは簡単には分かってもらえるものではないのかもしれません。そんな時、なんでこうなるのだろうかと自己嫌悪になることもありますが自分の真心や素直さに嘘がなければ天が分かってくれるだろうという境地に入ります。

昔、維新の志士たちはみんな同じような思いを抱いて歩んでいたように思います。「世の人はわれを何ともいわばいえ 我がなすことはわれのみぞ知る」という詩であったり、「世の人はよしあしことも言わば言え しずか誠は神ぞ知るらん」であっても、己の中にある誠実さに対して恥じていないかをモノサシにしました。他にも、「志を立てて、以って万事の源となす」、「他人を相手にせず天を相手にせよ」とも言いました。どの時代も、誤解をされようが自分の真心を貫いていくことは志を抱き生きていくために篩にかけられる試練の一つであろうと思います。

しかしそうはいっても人間ですから、人間関係での誤解というものは苦労も多く、親しい人や身近な人の誤解にはまいることもあるものです。そういう時は、同じような生き方をする同志や道を歩んだ先達や師のことを思い返します。そして私は曾子の「三省」のことをいつも思い出します。

そこにはこうあります。

「曾子曰く、 吾れ日に吾が身を三省す。 人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習はざるを伝へしか」と。

相手からどう誤解されようが、自らの心に真心を訪ねて常に内省し続けた曾子の生き方に共感し、常に自らが愛する人たちすべてに対してどうあるべきかと問い続けていけばいいのです。大切なことは相手によってころころと態度を変えて自分を守るのではなく、相手によらず自分自身の真心を盡していくことと、それを遣りきることでいつの日かその誠意は伝わる日もくるように思います。そしてそういう生き方を貫く人には必ず仲間が顕れ孤独になることはありません。

道を歩んでいくということは、誤解されるということはつきものです。

最後に道を歩むことを忘れないために発奮していくときに思い返す言葉があるので、同じような思いをする同志はぜひこれによって誠を盡してほしいと思います。

「自分には自分に与えられた道がある。
天与の尊い道がある。

どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。

広いときもある。狭いときもある。
のぼりもあれば、くだりもある。

坦々としたときもあれば、
かきわけかきわけ汗するときもある。

この道が果たしてよいのか悪いのか、
思案にあまるときもあろう。
なぐさめを求めたくなるときもあろう。

しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。

いま立っているこの道、
いま歩んでいるこの道、
とにかくこの道を休まず歩むことである。

自分だけしか歩めない大事な道ではないか。
自分だけに与えられている
かけがえのないこの道ではないか。

他人の道に心を奪われ、
思案にくれて立ちすくんでいても、
道は少しもひらけない。

道をひらくためには、
まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、
休まず歩む姿からは
必ず新たな道がひらけてくる。
深い喜びも生まれてくる。」(松下幸之助)

与えられた道を迷わずに歩み切る中にこそ、真実の「信」があります。道を信じる心が天に通じるとき、至誠となります。至誠を盡して信じて歩むことを已めず、必ずや真心が通じる日がくることを念じて粛々と実践を続けていきたいと思います。

和訳~本質を伝承する真心~

慈雲尊者は、神仏儒の中から共通するものを見出しそれを真心を用い「和」に翻訳した人物とも言えます。その上で何が大切であるのかを説き、垣根を超えてその本質を伝承された方のように思います。

雲伝神道には、その和から産み出された考え方が入っているように思います。どのように物事を解釈するかはその人自身ですが、かんながらの道に置いては自然に沿ってどれだけ謙虚に素直に物事を直感し、深く入るかで物事の観え方もまた異なってくるように思います。

先達が遺してくださった真心に触れると、どこを目指していけばよいのかが分かり心が安住するものです。その慈雲尊者は、神道の本質についてはこう言います。

「神道は一箇の赤心、君臣の大義のみなり。此の一箇の赤心、家に在りて孝なり。夫婦に在りて和なり。隣里朋友に交りて欺くなし。」(「神儒偶談」)

意訳ですが、(かんながらの道は自然一体の真心のことであり、人の道を盡すことです。このひとつの偉大な真心は、家にあっては孝行することです。そして夫婦なら仲睦まじく和み、友人においては誠実であることです。)とあります。

本来、親祖がどのような生き方を志してきたか、その道は隠れてはいても私たちの心身に伝承されているものです。その初心を何にするかが、道の姿であり、それは全ての人間においては同根であるものです。

そういうものに辿りつき、何を最も優先するかにおいて真心であるというのは何よりも天地自然の道理にかなっているように思います。どうしても自分の心を自分の我や価値観、もしくは考えもせず社會の考え方に迎合し本質を見失う中で心は次第に狭くなり迷い惑いも増大してくるものです。

しかしそういうものに縛られ、執らわれないようにと十善をなせというのでしょう。慈雲尊者はいいます、「天地をもつてわが心とせば、いたるところ安楽あり」と。天地のそのものを自分の心とするならば、あらゆることは安楽になるということです。真心のままにいることがもっとも自分を真心に近づけるということなのでしょう。自我妄執を捨て去るには、君臣の大義といった人格を磨いていくしかありません。

また「一度の麁言、一度の傲慢、みな災害の兆しと知るべし。」といいます。意訳ですが一度の無礼な言葉、一度の傲慢はすべて身から出る錆の兆しだと気を付けよといます。さらに「朝夕にわがなすわざをおもいしれやすきをもとの心とはして」と言います。自分の心を問い直して常に内省し、謙虚に素直になっていくことで道から外れないように真心の傍にお仕えすることのように思います。

最後に、「十善これ菩薩の道場といえり。慈悲一切衆生身にひとしく福をあたへまことをつくす」といいます。自らが十善こそが実践道場、つまり人の道から外れないようなってしてはじめてすべてのことは福になっていくことができるといいます。

まだまだ行き来するばかりで、覚束ない足取りですが先人の教えの本質を学び直し子どもたちに伝承できるよう精進していきたいと思います。

 

 

 

先達の書

先日、慈雲尊者の御縁から、岡山でかつて「今良寛」と慕われた松坂帰庵大僧正の書に出会いました。書の特徴としては、慈雲尊者を研鑽し、竹筆による作風で独特な風格があります。

書としての字も何か見ていると心が感じ入るものがありますが、同時にその選ぶ言葉や文章にも深い感化を受けることが出来ます。人が遺す言葉というものは、その人の生き方が顕現している気がしてその書の持つ美しさには魂が揺さぶられる思いがします。

この松坂帰庵にこういう書があります。

『自分は仕合せだとおもう人はそれだけでしあわせである』

これはとても含蓄がある言葉で、今の時代にはもっとも相応しいものではないかと感じます。人は、不足を思えば不平不満をこぼし、今度は満たしてばかりいたら我儘になります。どちらにしてもいただいているものを味わおうとしない心の持ち方が、今のような時代背景をうけて広がっているのかもしれません。

自分は仕合わせというのは、一体何の御蔭様で今の自分があるのかを見つめる言葉です。そしてその順々に巡ってくる御縁を感じていれば、「仕合わせ」の本質に気づけるかもしれませんが自分の思い通りにしたい欲望や、正しいとか正しくないとか比較を思う刷り込みなどに惑わされ本来の姿を見失ってしまうのでしょう。

自分の運命がどのように巡ってくるのかは、天が与えてくださったものを謙虚にいただき味わい盡しそれを愉しみ、自然に沿いつつ満たし過ぎず足るを知り、自分が何を間違っているのかを教えていただきつつ反省し精進していけば素直に来たものを選ばないで受け容れることができるように思います。

そうやって巡ってきた運命に対して、謙虚に素直にいることが「仕合わせ」ではないかと思います。そしてそういう生き方をしている人は、先ほどの『自分は仕合せだとおもう人はそれだけでしあわせである』の境地を持つ人になっていると思います。

ないものねだりをする前に、今、いただいている御蔭様や御縁にどれだけ感謝で恩に報いているかが「仕合わせ」に気づく感性を磨いていくことなのでしょう。

その人は世界でたった一人のその人ですから、そこには比較はありません。唯、御縁があるだけです。丸ごと信じて、巡り合わせを信じて澄んだ真心と朗らかに歩んでいきたいと思います。

自然体でいるということの意味を、先達の書から深めていきたいと思います。

閒と闇

稲刈り後、稲架をし天日干しして三週間が過ぎました。稲もいい感じで乾燥し、これから脱穀に入ります。種まきから稲刈り、そして天日干しまでを通して行っていると不思議に心が安心するものです。

これは太古の昔から、私たちが食べるものを確保できた安心だけではなくそこに暮らしを感じる「間」があったからのように思います。自分たちが今まで何と一緒に暮らしてきたか、そういうものを忘れるということが何よりも残念なことであろうと思います。

文明が発展し、都会の生活ではネオンは明々朝まで照らし、食べ物は余るほど豊富にあり様々な機械や仕組みによってお金を用いてはスピードが上がり経過も結果も都合よく便利に変わってきました。しかし、その一方で「暮らし」はどんどん消え失せ、本来、人間らしいものを感じる「間」が取り除かれ忙しすぎて間抜けな状況になっているように思います。これら「間」については様々な研究がされてきて、建築から芸能まで幅広く活用されていますがその間にも定義がありますから、その間をどう定義するかで考え方も少しズレてくるようにも思います。

本来、「間」という字の語源は門構えに「日」ではなく門構えに「月」という字でした。「閒」の字は、門を閉じてもその隙間から月明かりがもれてくるという様子が漢字になったものです。

夜に一家団欒で一日を振り返り、薄暗い部屋で囲炉裏を囲み静かに物思いにふけていく。そうしていると、闇の隙間から月明かりが差し込んできて心が清らかで澄んだ光によって周りが透き通っていく様子に私はこの「閒」を深く感じます。

この閒とは、私にとっては異種異別、陰陽動静のものが一体に合間することであり、それはバラバラだったものが光と闇によって解け合うことを定義しています。今の時代は直感や本能が惚けているからこの「閒」が抜けてしまったのかもしれません。

光に呑まれ目くらましにあい、心を失い忙しい時間に自分の欲求だけを満たして一時的な安心ばかりを追い求めたら、御互いに解け合う豊かな時間もまた見失ってしまうのかもしれません。・・・ゆったりと夜の闇の中で静かに古来からの炎を見つめる。そして虫たちや風の音に耳を傾け悠久の流れを感じ瞑想してみる。・・・そこには、流れている時間が緩やかに穏かになる悠久の刻の流れがあります。

自然を感じるというのはこれらの閒をどのように刻んでいるのかを実感する心を持ち、自然と一体になった暮らしに静寂を持つことです。

いのちが静寂を失うということ、それこそが間抜けな間違いになってしまうということです。

心の静寂はすべて自然の暮らしの中に具わっています。子ども達に譲っていきたい暮らしを見つめ直していきたいと思います。

至誠無息

四書の中に「中庸」があります。そして中庸の中に「至誠」という言葉があります。この至誠とは、日本では真心と訳されます。孔子は中庸の徳は何よりも尊いといい、その後、孟子は「至誠にして動かざる者は未だ之あらざるなり」といいました。そして吉田松陰はその「至誠」を座右にし、何よりも真心の実践を学問を通して貫き通しました。

この中庸の中にある至誠とは何かということを少し自分なりに整理してみたいと思います。

中庸の中には「至誠無息」という言葉があります。これは真心は已むことがない、私の意訳だと自然界のように天地の恩恵は悠久で広大に永久に与えられているということをいうように思います。

私たちは自分で勝手に生きているように感じても、実際は無償の愛で様々な恩恵をいただいています。当たり前に生きていますが、光も水も空気も土も温度も地球も月も太陽も宇宙もその存在がなければ生きていることすらできません。人は厳しい環境に置かれる方が我欲を減らせても、満たされ過ぎる環境でも我欲が増えることを知りません。当たり前のことを当たり前にしてしまうと、感謝を忘れ自分の価値観に染まり本心を偽れば次第にいただいている真心を感じなくなりますから、「至誠無息」とは程遠くなっていきます。

本来の至誠や真心は、心が澄み渡るとき、もしくは自然と一体になるときに顕現してくるものです。それはまるでいのちそのものの姿で生きる自然界の生き物たちの心境です。西郷隆盛の座右に「敬天愛人」がありますが、字は異なりますが天が自分を無償に愛してくださるように自分も人を無償に愛するというのはまさに天地一体、真心の中にいることを忘れない生き方の座右とも言えます。

中庸にはこう記されています。

「故に至誠は息むなし。息まざれば則ち久しく、久しければ則ち徴あり、徴あれば則ち悠遠、悠遠なれば則ち博厚、博厚なれば則ち高明なり。博厚は物を載せる所以なり。高明は物を覆う所以なり。悠久は物を成す所以なり。博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久は疆り無し。かくの如き者は見さずして章し、動かざるして変じ、為す無くして成る。」

これは自然の姿そのものです。

自然というものは、晴れては降っては吹いては時折休み、そしてまた活動します。それはどんな小さな生き物や、どんな多様ないのちであれ、必死で生き続けています。この必死で生き続けるというのは、いのちを使い切るといってもいいかもしれません。このいのちを使い切る中に真心があり、全身全霊で生き切る中にこそ至誠が息づいています。

人間はややもすると主人公であることを忘れ、自分の本心を偽り自分のいのちを使おうともせず他人に依存し、自分自身を高めて自分自身になっていくことを無意識に諦めていくように思います。社會の中に迎合しているうちに、様々な刷り込みに出会い、頭で分かったような生き方をしていると至誠が観えなくなってしまうものです。

一期一会に順縁を味わい盡す生き方をするならば、自ずから至誠無息の境地に達するのではないかと思います。そのためには、どれだけ真心を盡したかを常に三省し、真心ではない自分と向き合って自分を自分で育てていくしかありません。

子どもたちに見せる大人の背中として、この「至誠」というのは何よりも偉大な勇気を与えるものです。自然の中に入れば入るほどに、穏かな心でいのちを感じるとき、至誠は永遠であることを悟ります。

至誠を感じつつ、真心の日々を歩んでいきたいと思います。

 

自分自身の本心~本心の棲家~

人は自分自身との付き合い方が、他の人との付き合い方になるものです。どれだけ自分の本心に対して誠実であるか、そして正直であるかは周りとの信頼関係を結んでいくためにもっとも大切なことであろうと思います。

しかしこの自分自身というものをいつまでも分かろうとせず、自分を誤魔化してばかりいると自分の本心というものを見失ってしまうように思います。なぜ本心というか、それは心とは別に本物の心と書いて本心だからです。心と思っているものは実は思い違いで、本来の心は素直な自分のことです。

如何に素直になるかは、その人の自分自身との誠実な向き合い、そして感謝に根差した正直な対話によって顕れます。言い換えるなら素直でなければ本心とは出会えず、素直でなければ自分自身でもないということです。

かつて神道禅仏一体を究めた慈雲尊者が「もとよりも直ぐなる道をとやかくと思ふこころにまどわされ行く」と言いました。意訳ですが本来は素直であるものを、自分の価値観であれこれと惑うがゆえに道から逸れてしまうという意味だと私は思います。

そしてその和歌の中で私が好きなものに「心」についてこう詠まれます。

「心とも知らぬこころをいつのまに我が心とやおもひ染めけむ」

つまりは心は自らの本心を知らないうちに勝手に自分の心を別のものにしてしまうということです。それだけ人は素直でなければ己自身を知ることはなく、結局は我執や自分の頑なで狭い価値観の中で勝手気ままに良し悪しを決めつけては物事の道理や本質を見失ってしまうということでしょう。

誰しも自分の本心を見つめるならばあまり我を張らない、つまり頑張らずいつまでも頑固に自分の価値観を周りに押し付けないことです。その上で、我を立てずその我を倒して順縁変化を愉しむことで次第に自らの本来の姿、本心がどうなっているのかに気づけるようにも思います。しかしそれでもなかなか気づけないのが自分自身の本心ですから、我を張らず本質的で実践を続けているような道の信頼できる人の話を素直にちゃんと聴くことができるようになることが最初の素直の入口なのかもしれません。

そして自分の今いただいている御縁を、「自分にもっとも相応しい」と感謝できるのはその御蔭様に気づけるからです。自分が”なにものか”を己事究明するとき、自分がどれだけ見守られて御蔭様の中で生かされ今があるか、自分が偉大な恩恵によってできているかが自明してくるはずです。それを自覚とも言いますが、自分のカラダをはじめ環境や出会い、御縁すべてが有難い”なにものか”によって与えられていることに気づきます。その真心と感謝に出会うからこそ報恩といって、その御恩に報いたいと自然に願う心が本心の棲家であろうと私は思います。

慈雲尊者は、十善という自戒を立てて実践をなさっていましたがそれぞれに人は本心が観えなくならないようにそれぞれに恩送りや恩返しの日々を歩んで素直に磨きをかけて精進していく必要があるように思います。何をするにもまずはじめに理念や初心を忘れないのはまずその我執に気づけるかどうか、本来の姿に戻ってこれるかどうかのキッカケに過ぎません。そのあとは、やはり十善のような実践を積み重ねていくことで我が立ちすぎないように謙虚に学び直しを続けていくことが最善のように思います。

最後にその慈雲尊者の「十善」を紹介して終わりたいと思います。

第一 慈悲、不殺生戒

第二 高行、不偸盗戒

第三 浄潔、不邪婬戒

第四 正直、不妄語戒

第五 尊尚、不綺語戒

第六 柔順、不悪口戒

第七 交友、不両舌戒

第八 知足、不貪欲戒

第九 忍辱、不瞋恚戒

第十 正智、不邪見戒

子ども達に譲っていく生き方に照らしつつ、自分自身の心を静かに見つめて精進していきたいと思います。

恩送り

「恩」という字があります。この字の語源は、慈悲や恵みを顕します。「恩送り」という言葉があります。これは何ものかからいただいた慈悲や恵みを同じような心で他のものへと送るということです。

この「恩送り」というのは自然の在り方や生き方そのものであり、恩送りをする人はみんな自然の恩恵に感謝できている人とも言えます。

そして他にも、恩返しというものがあります。この恩返しは、何ものからかいただいた有難い慈悲や恵みを同じように感謝の心を忘れずに報いていきたいと願う心です。どちらにしても、恩返しも恩送りもそれは感謝を忘れない人が実践している心の境地とも言えます。

これらとは別に、恩知らずという言葉があります。これは恩を忘れたということではなく、感謝の心を亡くしてしまったという意味でもあるのでしょう。本来当たり前ではない、様々な慈悲や恵み、その恩恵というものに感謝しなくなっているとその人は恩知らずとも言えます。昔「恩樹」という言葉を知った時に、如何に樹の恵みが有難いか、そうやって周囲を活かすような存在になりたいと感じたことを思い出します。樹がなければ恩も知らず、感謝を忘れては樹も観えません。感謝の心とは全ての基本であり、いただいている慈悲や恵みを当然にし何でも自分のものにしては傲慢にふるまえば欲が増長し必ず恩知らずになり慈悲や恵みから遠ざかってしまうように思います。

感謝を忘れないといのは、常に恩返し恩送りを忘れていないということです。恩が観えるかどうかというのは、そこに自分に与えてくださっている恩恵に生きているという自分を自覚できているかとも言えます。

例えば今、生きているというのは恩の御蔭様で生きているということです。そこから死を思えば、必ず人間は誰でも一度は死を迎えます。死ぬことも恩ですから、死ぬと覚悟を決めて一日一日が一期一会だと心構えでいればいただいている時間もこのカラダも瞬間も環境も御縁もすべてが御恩の賜物であることに気づきます。その天から与えていただいた御恩を同じように他の誰かに送っていこうとするのは、その恩までも欲で私物化しないと決めているからです。人が御恩を私物化し感謝を忘れれば言い訳や文句、不平や不満が出てきてより我欲ばかりが優先されてしまいます。そうではなく私物化しないと、いただいた御恩を同じように天と同じ心で恩送りさせていただきたいと願うなら、自分のすべての行動は感謝で「させていただく」気持ちで行動できるように思います。

この「させていただく」ということが恩送りであり、そういう姿勢を忘れない人は感謝の心を亡くしていないということのように思います。してやっているとさせていただいているの間には、心構えや覚悟、そして何より生き方が出て来ます。

何でもさせていただけることを感じるのは、「恩」といった偉大な自然の恩恵に包まれて生きているということでしょう。「恩送り」の生き方を、子ども達に譲っていけるよう精進していきたいと思います。

自然治癒の教え~医和道~

先日、あうん健康庵の小松庵主と奥様にご来社いただき社内にて理念研修を行いました。健康法ではなく養生法ということから御話がはじまり、種(いのち)の持つ潜在能力、そして自然治癒の本質とは何かについて分かりやすく噛み砕いて教えていただきました。

そのお話はどれも実践から紐解かれたものであり、どの御話も自らが実践する中で掴み得られた智慧があり、医の持つ真意について再度深く考え直す有難い機会になりました。

最初の話の養生法とは「どのように生きるか」ということだとし、人間は人生の価値観が変わるなら自ずから生き方も変わると仰います。よく病は気からといいますが、病は気と深くつながっているということから如何に「心の持ち方を変えるか」ということが肝要であるかということを教えていただきました。

そのためには、如何に「素直に磨きをかけるか」ということが大事であると言います。その素直に磨きをかけるのは、まずは自分の遣う言葉から観直すことが大切だと仰いました。私たち人間は本来、言霊文明の生き物であるとし、その人が使う言葉は言霊であり、その音は波動であるとも言います。どんな言葉を使っているか、そこから観直すことで生き方を見つめ変えていくことから実践することが大切であることを教えていただきました。

さらに続けて呼吸のことも教えていただき、呼吸はまず吐出すこと、そして長く吐出すことが大切だとし、吐かないことは儚いに通じているので呼吸法を身に付けることもまた気や健康に深くつながっていることを教えていただきました。

一つ一つの御話をじっくりと内省しふり返るほどにその含蓄のある教えに、自分の中の「治癒」ということの本来の意味や医を学ぶ姿勢を背中を通してお伝え頂いた気がして感謝の心に満ち溢れてきます。医の奥深さを感じさせていただける機会を得られることは、今の子ども第一義の志事を進めていく上でも本当に有難い機会になりました。

最後に、もっとも小松庵主の生き方から感じたのは謙虚さです。「病はわるいものではない、病から何が気づけるかがもっとも大切なのです」という言葉には、全てのものから学び、どんなことがあっても善いものとして教えていただいているのだからと素直に受け止められるその融通無碍な自然体な姿に、自然治癒とは何かということを深く感じ入りました。

自然から学び直しをする中で、自分のカラダもまたその自然の一部ですからカラダから学ぶことは自然から学ぶことです。有難い御縁をいただき、一家がお世話になる御医者様との出会いは子どもたちに養生法を伝えていける機会になります。

御蔭様に感謝し、子ども達に御恩送りができるようにしっかりと実践を積み重ねていきたいと思います。

本当にありがとうございました。島根での再会を心から愉しみにしております。