報恩謝徳

人間は、我が優先されてくると今までの御恩よりも今の自分にとって都合がいいかどうかを考えたりするものです。本来、今の自分があるのは自分の一人のチカラで成り立っているものなどは何もなく、全ては今までの御蔭様の御力添えによって今の自分が成り立っているともいえます。

これは少し考えてみればわかることですが、カラダを与えてくださったご先祖様方。そのご先祖様方を支えてくださった縁者の方々。また育ててくださった父母をはじめ、先生や友人、兄弟などあげていけばキリがありません。

自分の一人のチカラではないものを、わざわざ自分一人が苦労して手に入れたなどと錯覚しては全ての御恩まで私物化していくのです。目の前にあるものや、自分の身の周りにあるものはすべて過去の御縁と御恩の集積です。その偉大な見守りや御蔭様が観えている自分であるならば自我妄執に打ち克っていますが、もしもその御蔭が自分のおかげなどとなっていたり、もしも相手に見返りを求めているのならすでに自我妄執に囚われているともいえます。

このように自分の都合を優先するようになると、その御恩も御蔭も自分の解釈でさも真実のように自分に都合よく捻じ曲げてしまいます。だからこそ、自分が見守られていることに気づいているか、自分が多くの御蔭様のハタラキで存在できていることが観えているか、と自戒しては内省し振り返っていることで本来の御恩や感謝に気づけるように思います。人間には所有欲や支配欲をはじめ様々な欲があります、しかし欲そのものが悪いというわけではなく理念や初心を優先できないことに問題があります。欲があるのは自分を守るためだったり、生きていくためだったりもします、だからこそ理念を設定し理念を優先することで御恩を忘れず感謝も忘れず徳に報いるための実践になっていくように思うのです。

「報恩謝徳」という言葉があります。

これは恩に報い徳に謝すという意味で恩に感謝し報いていこうという真心のことです。自分が今までいただいたその有難い徳の御力添えに対して、いただいてきた全ての恩に対して自分のできる限りのことを返していこうとする心。

この報恩は受けた恩に報いることで報徳ともいうそうです。そして謝徳は受けた恩に対して感謝の気持ちを表すことで謝恩ともいうそうです。どうしても感謝の気持ちから何かをお返ししたいという心の発露が自然に出てくる心境に入っているということです。

本物の謙虚さというものは、報恩謝徳にこそあるように思います。

日々の試練は、理念を優先し如何に自分の都合と折り合いをつけるかの一進一退の真剣勝負でもあります。しかし、日々の実践を通じて感謝という意識の境地に達していくならば自ずから報恩する生き方に転じてくるように思います。私が尊敬する二宮尊徳が実践した「報徳思想」は、この御恩を刻み徳に報いる生き方だったのでしょう。少しずつですが、その深い真心に触れては有難い尊い歩みに御縁を感じます。

今の私にはまだまだとてもその境地にはいけそうにありませんが、日々の実践が何のためにあるのか、理念の御蔭様で振り返りができることにお時間とお役目をいただけた仕合せも感じます。

この「報恩謝徳」を常に自戒にして、これからも精進を続けていきたいと思います。

 

君の志は何ですか?

人は純粋であればあるほどに志を持つものです。志というのは、純粋性でもあります。その人がどれだけ理想に対して真剣であるか、理想に対して素直であるかが問われます。以前、NHK大河ドラマの中で吉田松陰が「君の志はなんですか?」と何度も聴くシーンがありました。まず出会った人に志を尋ねるその純粋さに心打たれたものです。

この志は、混じりけのない純粋な思いでありそれは理念とも言い、原点とも言い、初心とも言うものです。人は私的な自我が強くなればなるほどにその純粋な思いを忘れてしまい気が付けば不純なものに入れ替わっていくものです。本来は純粋性こそ本物のその人らしさです。もしも本当にその人が純粋に思いを語れるのなら、それが志とも言えます。この志は生まれた時から持っているもので、それが曇らないように澄ませていくためにも穢れを祓い清める日々の実践があるように思います。

そしてその志を推し量るのに下記があるように私は思います

一つは、運の強さ。そして一つは、思いの強さ。もう一つは、絆の強さ。この3つがあるものは強い志に支えられているように思います。さらに同時に、真心の篤さ。次に感謝の篤さ。最後に学びの篤さ。この3つの篤さがあるものは篤い志に助けられているように思います。

その強さと篤さは「最期まで諦めずに絞り出したか」、そして「常に全身全霊を出し切ったか」の集積によって積み上げられていくようにも思えるのです。

志は誰にしろありますが、その志を開いてくれるのは全て御縁です。

出会った人に「あなたの志はなんですか?」、「あなたの目指す理念理想はなんですか?」と尋ねることは、つむいできたつながりの道の上にある一期一会のあなたとの御縁を信じていますという確かなメッセージです。

私はお会いする人たちに信念の種や志、理念を尋ねます。それはその人たちの志を叶えたい、そして同時に自分や周囲の方々への御縁を結びたいと願うからかもしれません。かんならの道は御蔭様の道でもありますから、出会う御縁に導かれるように歩んで往ける今がいつも仕合せなことです。

「出会いの哲学は初志にあり、御縁の哲学は貫徹にある。」藍杜静海

一期一会の生き方の中から学び直すことばかりです。道中の出会いを大切に、一日一生を実践していきたいと思います。

 

好循環~実践の強さ~

物事には好循環というものと悪循環というものがあります。これは循環の理の中で如何に循環を理解しているかということが深く関係するように思います。循環を邪魔しないというのは、自分が循環の中に入るということです。

しかし実際は、自我欲や己に負けては循環を邪魔をし謙虚さを忘れては間違いをするのも人間です。素直さや謙虚さというものは、実践を忘れない心があってこそ顕現してきます。いくら頭でわかっていても口先で語っても、一つの実践には敵いません。一つの実践を丹精を籠めて取り組んでいく中でこそ、はじめて循環の中にいる実感を持てるようにも思います。

二宮尊徳は常々、「道は書物にあるのではなく、行いにある」としています。知識で分かったからとそれ以上取り組むのをやめてしまったり、本を読んでは理解したからと深めていくことをやめてしまっているのは道ではないということです。この道もまた循環に関係しますから、大いなる廻りに同化していくためにも日々の小さな実践を積み重ねていくことで道と縁は展開していくように思います。

二宮尊徳はこう言います。

「人、生まれて学ばざれば、生まれざると同じ
学んで道を知らざれば、学ばざると同じ
知って行うこと能はざれば、知らざると同じ
故に、人たるもの、必ず学ばざるべからず
学をなすもの、必ず道を知らざるべからず
道を知るもの、必ず行はざるべからず」

道を知る者は必ず実践しているものだということです、そして道を知らないのは学ばないとの同じで学んでいないのは生まれていないのと同じであると言います。学ぶということは道を実践することであるとはっきり定義しています。

孔子が論語の中で、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」といいます。

最初から苦労なしに学んだ人たちは誰もおらず、みんな自らが苦労を積み重ねてその長いプロセスの中で道を実践し体得して周りの人々のお役に立ったのです。自らの実践を怠り、知識ばかりを増やしては満足していたら道は遠のいていきます。そして循環というものは、自然と同じですが本当に少しずつ動いていきます。頭で考えているようなスピードや頭で思っているような結果はすぐに出て来ません。しかし好循環は、発酵と同じく本当に小さく少しずつ動いては偉大な変化を創造していくものです。

日々のちょっとずつでも小さくても行う実践こそが何よりも偉大なことを実現します。それを二宮尊徳は「積小為大」といい、実現するのに「至誠」「分度」「勤労」「推譲」と言いました。これはまさに好循環の理を語っているということに他ならないと私には思えます。

迷いを断つのは日々の実践への強さが影響するように思います。子ども達のためにも、実践を強く発揮していきたいと思います。

場の研究

炭を深めていく中で、「場」について再考する機会になりました。ここでの「場」とは環境を定義します。この環境がどのようになるかで、その過ごしている生き物たちの変化があるということです。

よく「場」というものを考えるとき、空気があります。場の空気を読めではないですが、その場にはその場に相応しい空気があります。それはオープンな場であったり、癒しの場であったり、明るい場であったりと、その場を創りだすものはその場で生きている生き物たちの性質、その呼吸や雰囲気が創りあげていきます。殺伐とした場であったり、悍ましい場であったり、乱雑な場であったりは、同じくそこで生きている生き物たちの気性や性質が場を創ってしまうのです。場には空気感がありますから、その場を創る人たち一人ひとりの意識が場に影響をしてくるとも言えます。

密封状態の呼吸がしずらい薄暗い部屋で話をするのと、開放的で自然のそよ風と爽やかな木漏れ日の中で話をするのとではその対話の質も変化していくのと同じように場合が影響してくるのです。

その場づくりをどのようにするかというのは、その場に悪い意識やよからぬ考えが入ってこないようにと場を整えていくのがそこを司る人間の仕業でもあります。私たちの実践する聴福人(ファシリテーター)も自身がまず「場」づくりをできなければ人々の間に安心した環境はつくりだすことができないからです。

その「場」を学ぶとき、自然のチカラ添えを得るために清らかな場を用意することがイヤシロチでもあります。そしてイヤシロチというのは発酵する場でもあります。発酵は主に、腐敗と発酵があります。腐敗もまた発酵の一つではありますが、人間にとっては腐敗すると生活環境が整いませんから如何に発酵をし続けるような環境を用意するかが鍵になります。

その発酵環境は「場」によってできますが、その場をつくるのが人間ですから如何に場に対して発酵場という意識を持っているかが大切であるように思います。風通しの良さや、水の流れの良さ、地味に良い、光が明るい、など自然の言霊がハタラクような場に自分自身の心が投影されていきますからその発酵場にしていこうとする思いと実践が何よりも場には影響していくのです。

その一端を担うものに「炭」があるのは間違いないことです。今回の夏季実践休暇から炭の持つチカラをほんの少しだけ自覚できましたが「場」について深めていくためにもっと炭を身近に置いては観察してみたいと思います。

炭のチカラ②

昨日、無事に合計700キロの備長炭を床下に敷き終えることができました。すでに2日目になると、床下の空気や雰囲気も澄んできているのを感じます。炭の効能は科学的にわかってきている部分もありますが、未だに解明されていないものもあります。

先人たちは炭と共に暮らしていく中で、その効果を長い年月をかけて自得していたのでしょう。昔は傷ついた動物が炭焼き小屋で傷を癒したという民間伝承も遺っています。実際に、牛や犬なども胃腸を整えるときに炭を食べているそうです。炭には水を浄化するだけではなく体内を浄化するチカラもあり、いのちに関わる様々なところで昔は活かされたようです。

私の中で現在、発酵を通して気づいたことは炭には微生物が棲んでいるということです。炭の表面を拡大して観察するとミクロ単位の孔が無数にあるそうです。その孔は縦横無尽につながっていて全てが外気に触れています。

この炭の内部にある「多孔チューブ」の表面に水や空気が通ると有害物質が吸着され、孔内にすむ無数の微生物によって分解するという仕組みです。この内部に住む微生物こそ土壌をアルカリ性にする作用があり、木炭を撒いた畑の作物が良く育つ理由とも言われています。私たちが生活しやすいように微生物たちに活躍してもらうという方法なのです。

私たちの住まいが家であるように、微生物の家は炭になります。そして炭を愛する微生物たちが私たちの人間の暮らしに共生し、自然の相乗効果を発揮するのではないかと私は推察しています。

自然農や自然養鶏の中で、水の中に炭を入れていますが生き物たちはその炭の周囲を暮らしの中心にしていきます。不思議なことですが、その炭を置いた処から発酵場になり発酵が進むのです。多様な生き物を活性化するということが発酵ですから、炭の効果は甚大なのです。

今回の夏季実践休暇で気づいたことは、「炭こそ暮らしの家」であることです。炭がある暮らしというのは、そこは豊かな生態系が発生してきた家であったということです。私たちの親祖たちもずっと火をおこし炭を焼き暮らしてきました。そしてその周りに人間たちが共生した生き物たちが集まって豊かな生態系の中で一緒にいのちをつむいできたということなのでしょう。

炭の持つ、不思議なチカラを体験できる善い御縁をいただきました。さらに炭道の達人との新たな出会いもありましたから引き続き学び直しつつ深めていきたいと思います。

 

 

チカラの本質

以前、ある経営者と漫画について話すことがありました。その方は、京都大学を卒業後あらゆる本を読んできたけれど「NARUTO」ほど参考になるものはなかったと仰っていたことが印象的でした。この「NARUTO」というのは週刊少年ジャンプで連載していた岸本斉史原作の忍者漫画のことです。1999年43号から2014年50号迄掲載し全700話ある少年ジャンプの看板作品です。

私も幼い頃から、少年ジャンプや少年マガジンなど漫画を読んではキャラクターに共感し、夢を見ることの大切さや仲間を思いやることの素晴らしさ、また最後まで諦めないことの重要性など、様々なキャラクターに思いを寄せて共感しては人生の要所要所で勇気と励ましをいただいたように思います。

漫画は漫画家がそれぞれの人生観に従って描き記していくものです。これは詩や文と同じく、その人の生き方をはじめ思想や哲学が入っているものだと感じます。より具体的に読みやすく解りやすく多くの人たちに影響を与えるという意味では漫画というのは素晴らしい作品であるように思います。

この「NARUTO」ですが、25年連載していく中で作者もまた25年の歳月を様々な出来事を通して学んだことが漫画にも投影されています。毎週連載をしていくというのは、毎週人生を深め高めて実践していくことに似ていますからキャラクターの成長は漫画家自身の成長でもあるように思います。

あらすじとしては、木の葉の里の忍者アカデミーという若き忍者の育成機関の生徒「うずまきナルト」がいつか木の葉の首領「火影」になることを夢見る話です。実際は弱点ばかりの落ちこぼれ忍者が、数々の出会いを試練を乗り越えて見事立派な火影忍者になるまでが描かれています。そのライバルに「うちはサスケ」という忍者もいました。何でもできて完璧な忍者でしたが、同じように火影を目指します。その火影を目指すプロセスに哲学があり、それが作品を通してあらゆる場面でぶつかり葛藤します。

うちはサスケは、「人々に選ばれた者ではなく 躊躇いなく憎しみを受け入れる事が できる者こそ火影に相応しい人物だ。」と言います。それに対してうずまきナルトは「火影になった者が皆から認められるんじゃない、皆から認められた者が火影になるんだ仲間を忘れるな。」と学びます。

自分のチカラだけを頼りに強さを求めてきたサスケに対して、周りのチカラ添えを頼りに強さを見出したナルト。本来の自立とは何か、チームワークと根性というものがナルトの強さの秘訣だと言いますがそこには仲間に対する信頼と、自分自身に負けない強さがあったように思います。

人は己に克つことをやめて強さを求めたらサスケのように孤独になります。しかし己に克ちその上で仲間を信頼することができるのなら協力できるようになります。本来、チカラを持ちたい動機は大切なものを守りたいからではありますがそのプロセスの中に自我欲に負けてしまうのか、それとも周りの役に立ちたいのかで「生き方」が出てきます。生き方が決まれば、次にその「やり方」がはっきりしてきます。そのやり方をこの「NARUTO」は皆に解りやすく伝えているように感じて共感することが多いです。

己に打ち克ち、周りを信じるということは本当の強さと優しさを兼ね備えた人としての思いやりの道です。「NARUTO」の随所では「忍道」という言い方をされますが、「道」を歩むものとしての心構えた志について描かれたシーンはどこも感動する物語ばかりです。

自分の生き方と照らしつつ、道を愉しみ道を味わい、真心や思いやりを反省しつつ子ども達と一緒に歩んでいきたいと思います。

永遠のいのち~ヤマトコトバ~

日本には全国各地にその信念で生き切った純粋な方々の余韻が史跡や行跡、言葉に遺っています。同じように生き方を習い、純粋な真心で生きようとしている方々はその場に遺る余韻に自らを重ね合わせて内省をしているものです。

ヤマトタケルの頃より、様々な大義を持って歩んだ志魂はのちのちの子々孫々へ受け継がれてその真心で生きた人たちによってこの風土は守られてきました。その真心はどのようにして知ることができるか、そこにはそれぞれに遺した詩があります。その詩を感じてみれば、その人の純粋な思いが息づいています。その純粋な思いに触れることで、私たちは何百年も前のいのちとも触れ合うことができるのです。

先日、ヤマトタケルのことを思っているとある方の詩に出会うことができました。

三井甲之という方の詩で、「ますらをの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを」というものです。感謝の真心でヤマトのクニをいのり、勇気と大義によって己のいのちを賭してきた、その先祖たちの見守りの御蔭様で今の私たちがあるのを実感できる詩です。

詩を読む真心は純粋透明なものであり、その人の経歴がどうかではなく心のままに純粋自然の感覚が言霊になることで本来のヤマトコトバの美しさに出会うように思います。

ヤマトコトバには日本古来の先祖たちの真心が生きています。そこには感謝や御蔭様、あらゆる御縁を大切につむいできた生き方があり先人たちの願った暮らしがあります。今のように言葉が技術になり氾濫する時代において、真心そのままを言霊にした親祖に詩を通してその真心に通じ合えることは今の私たちのルーツを見つめ直すためにもとても重要なことだと感じます。

その三井甲之さんの『墓碑銘-石にしるすことば』というものの中に、「ヤマトコトバ」の本質が記されているように感じここに紹介します。

コノ石ハ
天地(アメツチ)ノアヒダニアリテ
天地ニツラナリテ
ココニアリ。
コノ石ニ
コトバヲシルス。
人ハ死スレドモ
コトバハ生キテ
イノチヲツナグ。
コノツナガリハ
地上ノサカヒヲコエテ
ヘダテナキ宇宙ニヒロゴル
コトバコソ
カギリナキ生命ノシルシナレ。
イマソノコトバヲシルス。
ワガイノチノシルシナリ
ココニシルスヤマトコトバハ。

日本古来のヤマトコトバには永遠のいのちが宿っています。その永遠のいのちはその言霊を語ることにより志が受け継がれていきます。子ども達には一つでも大切なヤマトコトバを語り記していきたいと思います。その魂が生きた証、その志が遺る理由を語り継いでいきたいと思います。

人格を磨く

人間は人格を磨いていく中で、本来の自分の天分を活かしていくことができるといいます。素直になって謙虚になれば物事を受け容れありのままに自分の御縁を生きていくことができるからです。

実際に、どんな仕事でも自分以外の誰かと取り組む仕事は自他を合わせ鏡にして御互いを磨き合っていくものです。鏡の曇りがなく、美しい素直な鏡と合わさるなら自分の美しい素直な部分が投影してきます。もしも濁った鏡と合わせるならより自分が分からなくなります。御互いが合わせ鏡だからこそ、何を心に映していくかというのはその人の素直さに由るのです。そしてその心は生き方によって磨かれますから、人格を高めて自己修養によって鏡をいつも日々に洗い清めていくしかないように思います。

また仕事は同時に互いを磨き合うものです。どの砥石を用いて自分を磨いていくか、何をそぎ落として研ぎ澄まされたものにしていくかは自分の選択が決めるともいえます。砥石選びというものは、謙虚さが必要で素直な心でなければ誤った研ぎ方によりかえって自分を活かせなくなるかもしれません。そしてこの素直な心というのは、全ての基本になっているように思います。

松下幸之助さんに「素直な心の十か条」というものがあります。

1.私心にとらわれない
2.耳を傾ける
3.寛容
4.実相が見える
5.道理を知る
6.すべてに学ぶ心
7.融通無碍
8.平常心
9.価値を知る
10.広い愛の心

素直の実践の中で掴んだ感覚を、そのまま十か条にしているように思います。こういう状態の時は素直な心が働いていますということでしょう。そのどれもができそうでできないことであり、人格を磨くために大切な鏡であり砥石であることに気づきます。

例えば、私たちも「傾聴」というものをもっとも大切に実践しています。しかしそこに私心に囚われて「きっと何か理由があるのだろう」と考えず心の余裕をなくしていればすぐに傾聴できずに思い込み決めつけることになってしまいます。自らが聴き福にするか、自らが学んでいるか、自らが受け止めているか、自分に矢印が向いているかとしたとき、はじめて傾聴が始まってきます。

松下幸之助さんは傾聴のことを「素直な心というものは、だれに対しても何事に対しても耳を傾ける心である」といいます。それを黒田長政の「腹立てずの意見会」の実践を紹介し、会合を長政が最期まで続けたのは「一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがある、それは改めなければならないから教えてもらおう、というような謙虚な心をもっていたからではないかと」と言っています。聴くということは自分自身の私心と向き合うことでもあります。自分が聴きたくないことを言われてもそれを素直に受け入れてみる。そのあとは何を行う必要があるかが自明してくるのが人間です。

あるがままに物事が観えるなら、あるがままに対処すればいいのですがあるがままに物事を観たくないからあるがままに対処できないのです。本来、素直さというものは私心を交えずに全体を観るチカラとも言えます。それは自然が自然の循環を邪魔しないことと似ています。素直な心を磨き、人生の最期には自分の天分を全うできたと思えることは本当に倖せなことだと思います。

畢竟、人間はどんな仕事であってもどんな出会いであっても御互いに人格を高めていくことでしか御互いを活かす道はないのかもしれません。しかしそういう切磋琢磨できる同志がいることは人格を磨きたいといった素直の心があるから出会えるのでしょう。御縁の中に「素直」であることを第一義に、常に子どもから学び直していきたいと思います。

貝殻~宿る美~

貝磨きの御縁から貝殻の美しさについて考える機会がありました。なぜ貝殻が美しいのか、その貝を磨くことが一体何かということをここで書いてみようと思います。

私の中での貝磨きというのは、魂磨きと同じ意味です。魂磨きとは「自分に宿っているものを発掘し発見していくもの」とも言えます。私たちもカラダを依代に宿る魂であり、すべてのいのちには等しく魂がありますからその魂を引き出していくことは自分の存在を確認していくことであり何のために生まれてきたのかを知る旅でもあります。

貝殻の美しさは、その本質に魂が宿っています。貝殻は貝の時、貝のいのちを守るために存在したものです。貝は一生を海で過ごし、長いものでは何百年も生きるものもいます。波に揺られ、海のリズムで壮大に生き使い古された貝殻にその生きたものの魂が宿っているからです。私にとっての貝殻は「宿」であり「故郷」です。

あのヤドカリ(宿借)も、宿主が死んだあとの宿を借りその魂を継承して活かしていきます。古語では「カミナ」という響きを持ち、宿に由るいのちではないかと私は思います。

この宿の美しさは『使い古された美』に由るものです。使い古されれば使い古されるほどに、次第に光り輝いていく美しさ。それは魂が磨かれて磨き貫かれた中にある「毘」とも言ってもいいかもしれません。これを「直毘霊」といい、古人はその直毘魂を引き出していくことが大義に生きることであるとも言いました。

貝殻の美しさは、その貝殻に宿された魂があることです。

魂が遣ったものは、どんな古いものでも素晴らしく光り輝きます。そしてご縁を観てそのご縁を大切に活かすものが顕れればそのいのちは新生していきます。まさしく温故知新に宿る美、「カミナ」するのです。かんながらの道の一つに、貝が顕れたのはその「カミナ」が道を導く存在だからかもしれません。

原始の海、原始の親祖たちは貝殻に魂が宿るのを知覚することができたからこそ装飾したのでしょう。海と共に美しく生きた貝殻に、自分の魂を重ね合わせて魂磨きを行っていたのかもしれません。

御縁の世界は、かつて使い古された中に生きた魂が宿る世界を知ることに似ています。目に見えない歴史をつむぐことは、目先の生だけを貪らない生き方を実践していくことに似ています。貝殻をカラダに纏うことは先祖代々から磨かれてきたいのちをそのままに譲っていくといった「かんながらの道」を体現することに似ています。

貝の御縁を大切に、その毘と美についてさらに深めていきたいと思います。

自認~手放す実践~

人間は頭がいいと思い込んでいても実際はおかしなことをしていることが多いものです。人間の半分には理念や初心、本心といった自分もいますが同時にそうではない動物の欲のようなものもあります。遠くを観ては本来の将来像を思い近づいていく自分と、目先のことに執着して囚われる自分もいます。

そういう時は、大切なものや理念をどれだけ優先できるかということや如何に己の我執を手放していくかということが大事になっていくのでしょう。

昔、猿を題材にした話を聴いたことがあり「手放す」ことを考える際の参考になります。

一つ目は「ひょうたん猿」の話です。

「アルジェリアのカビール地方の農民は、ひょうたんを木にしっかりとくくりつけ、中に米粒を入れておく。ひょうたんには、サルの手がちょうど入るくらいの穴が開いている。夜になると、サルは木のところに来てひょうたんの穴に手を突っ込み、米粒をわしづかみにする。そして握った手をそのまま引き抜こうとするのだが、きつくて抜けない。手をゆるめればいいのに、そこまで知恵が回らないのだ。夜が明けると農民に生け捕りにされるわけだが、その時のサルは、米粒をしっかり握りしめたまま実に間の抜けた顔をしているという。」(自助論 S.スマイルズ 三笠書房)

一度せっかく掴んだものを手放したくないから囚われてしまうという事例です。これは過去の自分の栄光や、せっかく掴んだ今の環境や状況、財産などを手放したくないばかりに大切なことを見失ってしまうという事例です。

また猿にはもう一つ「朝三暮四」というのがあります。

「この言葉は、およそ2400年前、中国で生まれました。きっかけは、狙公(そこう)という人物と猿のエサをめぐる物語です。猿が大好きな狙公ですが、お金に困り、これまで猿の好きなだけあげていたエサのトチの実を、朝三つ、夕方四つに減らそうとしました。猿たちは怒り出しました。そこで、朝四つ、夕方三つするからと言ったのです。すると、猿たちは、大喜びしました。このように、目先の違いにとらわれて本当は同じ結果なのに気付かないことをたとえて使われます。また、狙公が猿をごまかしたように、言葉たくみに人をだますという意味でも使われます。」(NHK for school)

これも猿は目先に囚われてしまっていて言葉巧みに操られても本当のことがよく分かっていないという意味になります。結局は、その場しのぎで一喜一憂し、本質や理念と向き合うことをやめて何のためにと思い出さない日々を送ってしまうと次第に猿の故事で使われるようになってしまうのでしょう。

これらは何が捨てられないから手放せないのでしょうか、それは自分中心の考え方だったり周りからの評価だったり、自分の持つ自己イメージだったり、プライドや自我というものがほとんどです。一見自分を大事にしていそうで、本来の自分を大事にしていないということが起きているのです。

禅語に「放下著」(ほうげじゃく)というものがあります。

「放下」とは投げ捨てる、ほうり出す等の意味で何ものにも執着をもたず一切をさっぱりと棄て去ることで「著」は動詞につける助辞です。如何に手放すかは、その人が自分自身で自分を認めるしかありません。

自分を認め自分を受け容れるというのは、今の自分を丸ごと受け止めるということに似ています。そこには弱い自分、情けない自分、許せない自分、等々、自分では認めたくもない自分もあるのかもしれません。しかしそれが反転してプライドになり、頑固になり、強い我執になって囚われていくのです。

自分を認めることは大変かもしれませんが、自分自身が自分を認めない限りその人自身を認めることができません。今を生き切るためにも、過去の執着を手放す努力はいつの時代も欠かせないものです。生きていれば常に自分自身が変わっていきますから、そのたびに新しい自分に出会い今を受け容れて前向きに歩んでいくしかありません。

しかし人間は自分がどうありたいかと決めた理想の自分に向かって挑戦し続けていくのなら、いつの日か必ず憧れた自分に近づいていくと私は思います。自分の都合よくはいかないから苦しく辛いのですが、それは次第に自認という諦観、つまりは手放す実践によって本来の自分自身に近づいていきます。

自分が掴んで放さないものは一体何か、静かに自分を向き合ってみて一つ一つを学び直して福にしていきたいと思います。子ども達の勇気になっていけるような生き方を実践していきたいと思います。