磨く①~磨徳道楽~

今年は貝磨きの体験から磨くそのものの価値について再認識することができました。気づくことはできていましたが、気づきに気づくということには到達していなかったように思います。ここで磨くということをもう一度、整理して深めてみたいと思います。

磨くという字で思い浮かべる四字熟語には、「切磋琢磨」や「磨斧作針」があります。

「切磋琢磨」は中国の「詩経」の中で 「切」は骨や象牙を切ることで「磋」はそれらを研ぐことだとし、細工師の技工や完成した細工品に喩えて切磋琢磨は学問や精神・人格を磨き向上することを言いました。

そして「磨斧作針」の方は、学問に挫折した若い頃の李白が帰郷するか悩んでいるとき老女に出会い、鉄の斧を磨いて針を作っていた老女の行動から努力、根気の強さに反省し李白は学問に励むようになったことから、惜しまずに努力し続ければ、困難なことでも必ず成就することを言いました。

どちらにしてもここでの「磨く」というのは、忍耐と根気によって継続して実践を続けて已まないことを例えています。

磨くというのは、単に摩擦していることではないことがここでわかります。一見、無理で難しいと分かっていることであっても諦めずに励むことでどんな石でも磨けば光る玉になることを示しています。つまりは、そのものの対象に問題があるのではなく磨く本人にこそ問題があることに気づけるのです。

例えば、気付くという一つの実践があります。継続して実践していける人というのは、関心を失うことがありません。あのエジソンが何千回、何万回の実験と努力を通して新たな発見・発明を産み出したように根気強く丁寧に気付きを内省する人は同じ実践をしていても必ず確かに磨かれていきます。

それは本人が気づこうとするかどうかに由るからです。

単に同じことをしているから磨かれるのではなく、もっと改善していこう、そこから大切なことを気づいていこう、心を澄まして感応していこう、気付いたことを次に活かそう、「発見=気づき(徳)=発明」と精進するものではじめて磨くことができるからです。

「玉磨かざれば光なし」という故事があります。

この「玉」は丸い形の宝石のことで、 宝石が原石のまま磨かれなければ美しい光を放たないのと同じように、人もどんなに才能があっても、学問や修業を怠れば立派な人間にはなれないということ。これは 『礼記・学記』に「玉琢かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず」という言葉よりの引用です。

人が道を歩むということは、日々に気づくということです。そして日々に気づく人は次第に徳が引き出されその器が出来上がってくるということでしょう。

磨く楽しみというのは道を歩んでいる愉しみであり、玉を磨くというのは徳を引き出していく歓びなのでしょう。

産まれてきては生きる意味を味わいたいのが人生です。その一度きりの人生がどのような自分を与えられたにしても、その人生をより善くしていきたいと誰もが願うものです。

生きている間、磨ける仕合せを味わいつつ実践を盡していきたいと思います。

昴年会~忘れるものと忘れないもの~

昨日、大掃除が終わった後、社内にゴザやちゃぶ台を出し古民家調にアレンジして忘年会を行いました。今年は魚醬を用いた出汁に、昔ながらの手作りで作られた練物を入れて美味しいおでんを皆で食べました。

また夕方からは、福岡の自然農園の田んぼではじめて無肥料無農薬で収穫した御米の籾摺りを手作業で行い、その玄米を伊賀焼の土鍋で炊いて一緒に食べました。それに自然発酵のマッコリや、ドイツの白ビール、自然酒やなつめやしの焼酎など、本物に囲まれた贅沢な素食を味わうことができました。

里山でもなく田舎でもなく古民家でもなく、都庁の隣の新宿のオフィスの中でも創意工夫すればいくらでも生き方も働き方も直すことができます。

また忘年会ということもあり、苦労は労いゆるしては、楽しいことはより楽しくなるように一年の思い出を深くじっくりと味わいます。なんだか忘年会というと、世間では大酒を飲み大騒ぎをして嫌なことを忘れてしまおうという勢いですが、私たちの場合は実践できたこと、またその仕合せ、御縁を味わい引き続き理念を大切にしようといったまるで同志と楽問をしているようで有難い時間になりました。

本能は本物を尊びます。それは本物を本能は感知することができるからです。私たちは古代から今まで、どのように暮らしてきたか、そこにはご縁を大切にし感謝をおもてなしに換え、心の穢れを祓い清めて魂を磨いていくようなことをしてきたのではないかと感じます。

冬至を過ぎ、新しい太陽が昇るとき祖神達は心を澄ませたのでしょう。

色々なことがあっても、一円観、全部善いことに転じていくのは「子ども第一主義」があるからです。理念に助けられ、初心に救けられ、道を歩んでいけます。忘年会を通して、忘れるものと忘れないものをまた再確認できました。

最後に、「昴」という星があります。

昴は一つの星ではなく、その星の周りに在る星々の星団のことを言います。一年一年、一人ひとりが時を経ることで内省により魂が磨かれ光輝きまるで一つの大きな星の光のように煌いていく・・・一人、深夜に公園を歩いて帰りながらそんな「昴年会」であったと感慨深い時間を過ごしていました。

来年もまた昨日のような光煌く昴年会になるように日々に信を入れ、素直に内省を深めて精進していきたいと思います。

夢を与える~生き方~

先日、メンターから興味深い話をお聴ききすることができました。

それは小学校の道徳の授業で、講評で呼ばれた時のお話です。

その授業は、イチロー選手が努力して夢をかなえたというような話だったそうですが、先生が「イチロー選手がなんで夢がかなったと思いますか?」という質問に子どもが「努力したから叶いました」と答えました。それに対して先生もまたおおむね同じように努力したら夢がかなうのですよと言ったそうです。

それに対してメンターは講評を求められ、こういったそうです。

「イチロー選手は努力したから夢がかなったのでしょうか、そうではなく夢があったから努力できたのではないですか」と。世間では努力を優先して夢を持たせようとしますが、本来は夢が先で夢があるから努力もできるのではないかというお話でした。

これをお聴きしながら感じたのは今の時代は会社でも学校でも国家でも、頑張れば夢がかなうとか、一生懸命であれば救われるとか、真面目にやっていればいつかはよくなるとか、そういう理由で夢を諦めるなという励まし方が多いように思います。

よく見れば結果的に努力することばかりを強要しているような指導や教育ばかりです。本来、人は理念や目的があってそれに向かって努力する生き物です。あの進化論のダーウィンも、根気強く研究して発見をするのも夢があったからじっくりと待つことができたのです。

夢があるというのは、きっとこんな未来が来ると信じて待てるということです。そしてその夢がかなうと信じ切っているから努力することを厭わないのです。

努力する力ばかりを先に持たせようとすることも確かに善き習慣を身に着ける上においては大切かもしれませんが、人生において生きて観て実感するのは夢を持つことの方がもっと大切であることに気づけます。

その夢とは、企業が自社をアピールするために広告しているような願望ではなく、そもそもの本質である初心(理念)です。

人は「何のために」を自覚することで安心して夢を追いかけることができます。それがなくなってしまえば、夢から自分が逃げてしまうことになるのです。一体、何のために努力するのか、そこには自分を大切なもののために使って生きたいという人類の根底にある共通する夢があるからのように思います。

子どもたちが夢を観るのは、大人たちが夢中でいるからです。その夢中とは妄想ではなく、理念を真摯に実践しているという意味でしょう。

人生において子どもたちの身近にいる大人が苦しくても愉しそうに働くのは何よりの夢を与えるように思います。夢を創り与えるということは、生き方を示し生き方を与えるということです。

これからも理念を大切に日々に何のためにかということを忘れずに丹精を籠めて取り組んでいきたいと思います。

メンターとメンティ③~仲間の絆~

メンターとメンティという相互の関係についてもう少し深めてみます。

映画の三銃士を会社で見る機会がありました。先日からメンターとメンティの在り方を深めているのにちょうどよく、仲間を通してどのように人物が関わり合っているかを関係性の中から再認識することができました。

三銃士で有名な言葉は、「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために」があります。映画ではこれを「一心同体」と訳していました。

アトス、ボルトス、アラミスという国王直属の精鋭部隊で近衛兵でもある銃士隊で名を馳せる人物が三銃士です。そこにダルタニアンといった銃士を夢見る新人が入ってくるという話です。

これは会社でも同じく、生き方や哲学、そして実践をしている先輩に対して後輩が入ってくるのに似ている関係です。三銃士は絶妙な見守りを通して、仲間との信頼、結束の強さ、守るものの価値、自立しているモデルを自分たちのありのままの生き様を通して見せてはやらせてみて志に信を入れていきます。

もっと簡単に言えば自分のありのままの生き様を見せて本人に考えさせ、そして本人なりにやることを認めて覚束ないところはフォローしてあげるというように寄り添い大切に見守っていきます。

何かこの通りやれと指示命令をしてやったことだけを評価するのではなく、自分たちの生き方や生き様で手本を見せてはやってみろと挑戦を促し、その上でできないところはいつでもフォローするという安心感を与えます。そのフォローは出来事だけに限らず、ダルタニアンの向こう見ずで気が強い性格の弱点なども見抜き、三銃士は陰ながらフォローしていきます。

その中でダルタニアンは次第に助け合いを学び、成長し、立派に銃士として自立していくのです。

そもそもメンターとメンティとは、互いに信頼し合っているから絆が結べます。それは言い換えれば「一心同体」の関係です。それを仲間とも言います。この三銃士の話が美しいのは、本質的な仲間意識を観るからです。それは単に強い集団といるから安心というわけではなく、「一心同体」だからこそ安心だということです。

家族や真の仲間といった心の絆の清らかさと美しさを大切にしている安心です。

メンターとメンティとは生き方を通して、同じ生き方に共感し、その生き方をできるように見守り合い育ち合う存在ではないかと私は感じます。この関係は志と共にする生涯の「友情」と呼んでもいいのかもしれないし、同じ理念を掲げて命を懸けて共に戦う「戦友」と呼んでもいいのかもしれません。

そういう「真の仲間」に自分自身の心が絆を結べ、廻り合えることは何よりも仕合せなことだと思います。孔子や仏陀、キリスト、吉田松陰、同じ師を持つ弟子たちもまた、メンターとメンティだったのでしょう。

最後に、ダルタニアンは国王や王妃を助けた褒美として銃士隊になることを認められます。その信条は、国王を守るということの本質として真実、勇気など大切な生き方を貫くように約束します。

そしてダルタニアンがつい昔の癖で一人で何かを遣ろうとするときに、三銃士はその若者を引き留めこういいます。「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために(私たちは一心同体だ)」と、いつも仲間と一緒に闘うようにと促すのです。

三銃士はとても興味深い映画で、ここでは本当の強さというものは自分のみの力を頼り一人でやることではないと教えが入ります。真の強さとやさしさは、仲間の絆であるというストーリーです。

今の時代、なんでも一人でやることばかりを教育され刷り込まれてきましたが一人ひとりの真の自立において「仲間の絆」というものが如何に大切か、改めてメンターとメンティとの関係から観直してみたいと思います。

 

 

樹の本質~The Giving Tree~

ギビングツリー(The Giving Tree)という物語があります。これは米国の作家のシェル・シルバースタインという作家が描いたお話です。この本はすでに30ヶ国語以上に翻訳され今でも世界中で読まれ続けています。

この話は、樹と少年のかかわりの物語です。少年が大好きな樹は、少年がほしいものを自分の身を削って与え続けます。すべてを与え続けてそれでも少年が大好きで、樹はいつまでも幸せだったというものです。もっている自分のすべてを大好きな少年に差し上げていく樹の姿に、言葉に表現できないぬくもりや見守りを感じます。そして少年もまたいつまでもその樹を忘れずに大切な節目にはいつも頼りにしながら自分の人生を自分で歩み切っていきます。

この樹と少年の関係の中には、お互いの絆を通して共に絆を深め合っていく尊いご縁と結びが観えます。この物語が深く共感され長く人々に読まれるのは、そこに確かな愛を感じるものがあるからかもしれません。

先日、ある森を歩いて樹を観察していたら樹はもともとその性質の中に「与える」という徳性があることに気づきました。なぜなら樹は存在し生えることで、周りの生き物たちをすべて活かすからです。

樹は1本から循環をはじめます、その樹は伸びていくことで水の流れを保ち、落葉しては土壌の微生物たちをはじめ様々な生き物の住処を用意し、木蔭で休憩する動物たちや、実や樹液は食べものになり、幹はあらゆる道具として活かされます。

地球上にいて歴史が古く、もっとも長く自然の篩にかけられても生き残っているのは樹木です。この樹木がなぜ選ばれるのかは、そこに「与える」という生き方があるからではないかと思います。

私にとっては、「tree=giving」であり、「与える=樹」であるとしています。樹はもともと与えるのが樹であるということです。今の樹があのようになっているのは、与えるのみの姿であるから私たち人間には気づきにくいのです。本来の樹は与える中に存在しているからこそ、自分の生き方がそうなったとき樹の生き方が観えるのでしょう。

そして自分への見返りを一切求めずに与えることは、それは失っているのではなく同時にサムシンググレートから偉大なものをいただいているということでもあります。自分が得ようとするよりも、与えることで得られるのが天恩であり天恵です。

つまり自分にとっての損得ではなく、自然そのものの尊徳を感じているのが樹ではないかと私には思えます。

樹から生き方を学んだ一年でしたが、少しだけ樹の持つ本質を学び直したように思います。

この「TheGivingTree」の物語のように、愛と見守りの仕合せの関係を生長の中で真の自立=人間愛を築き合っていきたいと思います。

 

メンターとメンティ①~親切という生き方~

メンターという言葉があります。

これはギリシャのホメロスの叙述詩『オデュッセイア』の登場人物である「メントール(Mentor)」という男性の名前から来ています。このメントールという男性は、オデュッセウス王の友人でもあり、王の息子テレマコスの教育を託された賢者でした。

そのメントールは王の息子にとり、生き方や判断のモデルとなり、指導者、理解者、支援者といった見守る役割を果たした人物です。このメントールが英語でメンターと言われるようになりメンターの対象者が「メンティ(Mentee)」ということになります。私の主観ですが、日本では吉田松陰と高杉晋作のような関係や、細井平洲と上杉鷹山の関係もまたこのメンターとメンティの関係のように思います。

もともと人は一人でやっているようで一人でやれることはありません。その人が結果を出せるのは、その陰に見守ってくださるメンターたちがいてはじめて事が実現します。

何かあればいつもメンターが助けてくださっているからこそ、メンティは立派に事を成し遂げることができ、メンターもまたそれを支援することでその人自身が志を完遂するのを惜しみなく助けるのです。

もともとメンターというのは、困っている人を助けるような存在です。つまりは見返りを求めない親切さがあるものです。今まで私がお会いしてきたメンターもみんな本当に自分のことを実の息子のように可愛がってくれて惜しみなく智慧や励ましやアイデアをいただきました。

その御蔭様をもって今日があり、今日があるのはメンターとの出会いがあったからと断言できます。そしてメンターもまた、メンターがいて同じようにメンティでもあったのです。

人は生きていく上で、実践モデルは必要です。自分にすべてをさらけ出して命を懸けて大切なことを教えてくださる存在がメンターです。教わる方もそれを命懸けで学んでこそはじめてメンティとも言えます。

つまりはメンターとメンティは共に本気であること、同等の覚悟をもつもの、道を共にし志を同じくするものたちがそう呼ばれるのではないかと私は思います。

善いメンターに出会いたいのなら、善いメンティにならなければなりません。つまりはお互いが「生き方としてのモデル」になったとき、ホメロスの叙事詩に画かれるような素晴らしいご縁や出会いの物語に恵まれるのです。

親切にしていくこと、親切にされたことを周りへお返ししていく生き方がメンターとメンティを育て、そしてその両方が子どもたちがお手本にする生き方の実践になって学問の素晴らしさを伝え、世の人々との関係を好循環させていくように思います。

自分がメンターでもありメンティでもあるのだから、常に学問は命懸けで実践していきたいと思います。コーチングもカウンセリングもどれもこれも基本は親切心と真心ですから常に自分の魂に問い出会いを磨いていきたいと思います。

観方を転じる~徳に報いる~

先日、あることを考えていると天罰ということについて見直す機会がありました。よく悪いことをすると天罰が当たるという言い方をしますがこの天罰とは何かということです。

そもそも天は罰を与えることはありません。罰が当たるのは自分自身です。自分にとってつらいこと苦しいことを罰とし、その罰が来たということです。天がわざわざ罰を与えたわけではなく、自分自身が素直になったときに「これが報いか」ということを自覚するだけです。

報いというのは因果応報のことですが、これはそもそも先ほどの天罰と同じく悪いことで使われますがこれもおかしな話で自分にとって悪い報いだけが起きるわけではありません。善悪というものも、人間が自分にとって善悪を決めるだけで天は善悪を持ちません。つまりは、因果応報もこれは単に行ったことが形になっただけでそれに善悪を設けているのは自分自身ということです。

人間というものは、自分を中心に置いて物事の善悪や成否を決めます。そしてそれは常識という枠組みの中によって正解と不正解を裁きます。そのことにより自然だったものが不自然になり、本心だったものが本心じゃなくなっていくのです。

物事というのは観方の問題です。

現実というのは、偉大な循環の中の一つであるためその物事や出来事は必然的に自分に置かれます。つまりは産まれてくる場所をはじめそこに自分がいるのは全体の一部としてそこに必要として来たのです。その現実は現実ですから受け止めて受け容れるしかないのはそれはどうしようもない事実だからです。

だからこそその事実を変えてしまいたくなるような自分中心の自分自身があるのでしょうが、それを手放していかなければ現実の苦しさに自分が耐えられなくなってしまうのです。そういう時は、観方を換えるしかありません。本来、善いことであるという観点、丸ごと善いことであるという観点、繋がり味わい楽しむならばそれが正しいという観点のように、自分の観点を不安不信ではなく信の世界に換えるのです。

そもそも天罰などはない、天はいつもすべてゆるしてくださっている、天はいつも助けてくださっているというように大前提を変えてしまわなければ観点は変わりません。つまりは自分の解釈そのものの基準を、信じる方へと善い方へと変えるということです。

自分の不安が未来を悪くしていくのは、そういう観方を換えられないだけです。今の生き方を常に善い方へと善転できるならその人はどんな運命であろうとも自分の人生を仕合せに歩んでいくことができるからです。

人は自分の思い通りになるとき、このままずっと今のままがいいと願うものです。しかし時代はそれを待ってくれません、自分ひとりで生きているわけでもなく世界は発展を続けるからです。

だからこそ今の自分を転じていくこと、それが人事を盡していくことだと思います。天は信ですから、その信に報いるのは徳です。その徳を磨いていくことは、人事を盡してあとは天に任せていくことです。

自分の思っていることなどたかが知れていて、ほとんど全ての出来事が自分ではない周りのところが動いてくださってことはなされていくものです。それが循環の理でもあり、地球の中に共生する原理でもあります。

偉大な中に存在させていただいているのだから、自分の役割を果たしていくことが徳に報いることです。自分都合自分勝手な解釈を戒め、常に観方を転じて信の世界を子どもたちに譲っていきたいと思います。

善い一日

日々は毎日、あらゆる出来事に満ちています。自分の主体性が失わなければ人は毎日新しいご縁と感動の中で生きているのです。自分を見失うのも自分、自分を取り戻すのも自分、どれだけ日々に好奇心を失わないように精進するか、そこに魂の磨きがあるように思います。魂を磨くというのは曖昧な感覚で捉えられるものがありますが、それは状況や環境に左右されずに生き切ることができるかということなのでしょう。

人生をどれだけ真剣であったかは何よりもその魂に影響を与えます。人が結果だけを見るのではなくその生き方ともいう経過にどれだけ真摯かは自分の使命の重要性を自覚するからでしょう。自分自身の自覚とは日々の過ごし方が決定づけます。日々を遣い切る、日々を出し切るように真心を絞り出す人の魂はいつも子どもの憧れのまとでありその周囲はいつも光り照らされて観えます。

先日、作家の三浦綾子さんエッセイに触れる機会がありました。その生き方や生き様から学ぶことが多くこのタイミングで有難いご縁をいただきました。

その中の言葉をいくつか紹介します。

「私たちは、毎日生きています。 誰かの人生を生きているわけではないのです。 自分の人生を生きているのです。 きょうの一日は、 あってもなくてもいいという一日ではないのです。 もしも、私たちの命が明日終わるものだったら、 きょうという一日がどんなに貴重かわからない。」

どれだけ毎日を真摯に生き切るかは、どれだけ自分を誰かのお役に立て切ったかということです。全体のために自分を使うとき、人は自分の考えた一日ではなく自分に与えていただいた大切なご縁に気づきます。そのご縁に気づいたら人は、一日一生の気持ちで生きようと思うのです。死にかけてみてはじめてわかるのが生の有難さです。人はすぐに昨日の繰り返しや、過去から予想して一日を過ごしますが好奇心はそれでは輝きません。常に新しい一日であったか、常に感動と感激を発見しているか、ひとり慎む内省の時間によってそれを育んでいくのでしょう。

私自身も太陽が出てから最大の活動をし、太陽が沈んでから静謐な内省をすればするほどにその間の御縁を通して機縁の奇妙さや不思議に心が感動し魂が揺さぶられます。毎日がかけがえないの記憶の中にあることに感謝する気持ちに満たされ愛に包まれていきます。

人は結局は、一日の過ごし方が一生の過ごし方になります。日々にどれだけ心を遣ったはその人の力量ですが、常に不満から入るのではなく感謝から入ることで自分自身の真の尊さに触れて初心に帰れるのかもしれません。

今の人間は経済的にも環境的にも恵まれすぎて当たり前の豊かさや仕合せを手放してしまったとも言えます。当たり前ではないことに感謝できる感性は、一日一日の過ごし方という実践にてはじめて得られるように思います。わかった気になってはならないのは何よりも毎日毎朝ということです。

最後に三浦綾子さんの言葉です。

「今日という日には、誰もが素人。」

気づけば教えてくださるのに気づくことができない自分がいるだけです。いつも見守られている自分さえ感謝で気づけるなら、大事なことや大切なことは常に日々が私に伝えてきてくださっています。

学びの感性があることそのものに感謝の日々です。毎日が真っ新、毎日が新鮮、毎日が発達、子どもの魂のままに善い一日を過ごしていきたいと思います。

私たちの実践~守りたいもの~

今の時代は経済優先の競争社会が当たり前の環境の中に蔓延っています。豊かさの定義は経済力でありその経済力というパワーを持っている人ほど豊かであると周りも羨ましがるものです。

実際に世界では経済力を持たなくても仕合せに暮らす人々もいます。それはかつての先住民族や農耕民族、今の西洋文明が入り込んでいないところで何千年も前から同じ暮らしをする民族たちです。

以前、ブータン王国のことを調べたことがありますがその発展の度合いを測るのにGDP(Gross Domestic Product/国内総生産)ではなく、GNH(Gross National Happiness/国民総幸福量)を使っているとありました。

つまりは幸福の定義をお金ではなく、仕合せかで量ろうというものです。簡単に言えば、どれだけ今の自分が豊かであるか貧しいかを量るブータン独自のモノサシを持とうというものです。

グローバリゼーションが広がると、そこには今までの豊かさを経済の持つ豊かさに変えてしまいます。今までの「ゆったり生きること、手間暇をかけること、一緒にやること、楽しく面白く過ごすこと」を優先してきた先祖たちの生き方を、「早く効率よく済ませること、便利であること、一人でもできること、勤勉にやること」を優先する生き方に変えてしまい、その分だけお金(豊か)が得られるという謳い文句で人々の生き方を操作していくのです。

人間の慾を優先するか、それとも自然の道理に沿う命を優先するか、それを決めるのは自分自身なのです。

敢えて今の時代に刷り込みを取り除こうとするのであれば、心を強くしていくしかありません。心が本来の目指す生き方を選ぶなら環境に左右されない真の強さを育てあげていけるからです。本来の生き方を守りながら文明と上手に付き合っていける国際世界人に近づいていくからです。

今まで人間は何度も文明の崩壊を繰り返してきました。それは歴史を観れば一目瞭然です。あれだけ繁栄発展した古代文明も等しく滅んでいます。しかしその中でも滅ばずに生き残っている先住民族たちがいるのを忘れてはなりません。その先住民族たちがなぜ今も生き残り今でもこの世に存在するか、そこに共通するものが悠久を生きる鍵なのです。

私にはそれは自然に沿って暮らし、人との結びつき大切にし絆を守った人たちに観えます。

果たしてこのままどこまで人間の慾が金融を操り臨界期まで突入するか、原発の事故のようななれの果てまでいくのはそう時間がかからないようにも思えます。だからこそ、その警告を真摯に受け止め、世界に生き方と働き方を示していきたいと思うのです。

文化と文明は、自然と人間のかかわりのように一体になって時代に息づいています。子ども第一主義の理念に従い、地道にコツコツと根強く耐えて実践を続けながら天機を待ちたいと思います。

ライフワークバランス~人生の生き様~

ライフワークバランスという言葉があります。しかしこれを誤解して使っている人が多いように思います。ライフとワークを分けてバランスを取ることはできません。それはライフというものは人生のことだからです。

世間ではこのライフワークに対して、ライスワーク(飯を食べるため)と、ライクワーク(好きなことをする)、そしてライフワーク(人生をよりよく生きる)みたいな使い分けをしています。

確かに今の時代は主体性を欠いてしまい積極的に主人公としての自分を持つことができないと、その状況や環境によって自分の働き方のようなものをもってしまいます。当たり前に毎日仕事をしますがそれがその人の人生を次第に決定してしまいます。

太古の昔、仕事という意識ががない時代、人は生きることそのものを心底愉しみました。それは動物たちや植物たち昆虫などのように、天からいただいたいのちを真摯に燃焼して自然体に生きてきました。自分が日々に感じるすべてはそのままの人生そのものだったのです。

それを人生と別の出来事のように仕事を分けたり、立場によって自分を使い分けたりして偏った自分を持ってしまったことでライフワークの様々なことが中途半端になってきたのです。よく働き方について今は議論されていますが、どんな働き方をしているかどうかではなくどんな人生を歩んでいるかで議論していくのが本質的な働き方なはずです。それは働く自分の生き様ともいうべきものです。

相手に合わせて自分を変えたり、立場によって自分を使い分けたり、常識に従って自分を決めたりと自分で自分を誤魔化して周りに合わせてばかりいると本来の自分の人生の実感が持てなくなってきます。

どんな相手にも真心を籠めたり、立場ではなく使命感として取り組んだり、自分に正直に実践を怠らないと決心してはじめて自分の人生を自分の足で歩んでいる実感を持つことができるのでしょう。

ライフワークバランスとは、「人生の生き様」と訳してもいいと思います。

人生の生き様が悪いと思うのなら、そこを直し自然体になるように様々な悪環境を取り除き刷り込みを払しょくしていくことです。生き方と働き方の一致とは、シンプルに言えば「丸ごと人生そのものにする」ということです。

常にどんなこともすべて自分の人生そのものだと思えるか、天から頂いた有難いいのちをどのように使っていくのかを決めるのも自分次第です。かんながらの道の中で真善美を盡すあるがままのいのちの生き様を感謝のままに時に刻んでいきたいと思います。