透明の磨き方

透明さというものは、穢れを祓い清め洗い清める中で磨かれていきます。その透明さを磨くのに私はよく「遣り切る」という言葉を使います。この「遣り切る」ことは一期一会を大切に出し切ることであり、常に心徳を高め魂やいのちを輝かせるための磨き方のように思います。

人は本気になり真剣になればなるほどに明るくなります。この明るさは単なるマジメのもつ深刻な感じから出てくるものではなく、真剣で本気だからこそ出てくるものです。出し切るというのは何を出し切るのか、遣り切るとうのは何を遣り切るのか、それは「本気を出し切り、真剣を遣り切る」ということに他なりません。

佐藤初女さんは、透明さを磨き切った方でした。その磨き方が本人が語る言葉の中に遺っています。

『私はどんな時も自分の都合を優先せず、その人が求める形で出会いたいと思っています。何かに取り組む時、ある限界までは、誰でもできることだと思います。けれども、そこを一歩越えるか越えないかが、大きな違いになると思うのです。そして1つ乗り越えると、また限界が出てきます。そのように限界を1つずつ乗り越えることによって、人は成長しますし、その過程は生涯続くものだと思います。確かに、このような生き方は大きな犠牲を伴いますし、私は時々自分でも厳しいなあと感じる時があります。『忙しい』という言葉を、私はなるべく使わないようにしています』

最期まで一期一会に遣り切るというのは、最期まで「我」を優先しなかったということです。真心を盡して盡し切ったかということが、御縁に向き合う至誠であるように思います。自分よりも誰かのためにと見返りを求めずに真心を与え続ける人生というのは、常に犠牲を伴います。しかしそれでも真心や思いやりを盡していくことが透明さを磨くということになっているのです。あと一歩で諦めてしまう人や、あともう少しの努力でやめてしまうのは真心までいかないからです。人事を盡して天命を待つという言葉もありますが、人事を盡していないのに天命は待つことはできません。この真心までいくかどうかに、感謝で生きる道もまたあるように思います。

また初女さんは、こう言います。

「『私、苦しいんです』と訴える人に対して、頭であれこれ考えて解決の方向にもっていっても、それは本当の解決になっていないです。『そう、苦しいね。でも、もっと苦しまなくちゃ』って伝える時もあります。『初女さんは苦しいと思われることはないのですか?』という質問を受けることがあります。もちろん、私も活動を続ける中で、どうすることもできない心の葛藤が生まれることがしばしばあります。そんな時、私は苦しみを否定せずに、自分の心をまっすぐ見つめます。そしてどんな時も、苦しみを感じきることを大切にしています。苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、もうどうにもならない、というところで『神様へおまかせ』に入るんです」

私の言葉では「選ばない」ということです。逃げないと選ばないは同じ意味であり、全てを御縁の尊さで感じ切る、いただいている御縁に感謝しているかという祈りの実践でもあります。そして人事を盡し切ったならもうできることはないのだから後は天にお任せしようと祈り待つ境地しかないのです。それが「遣り切る」ことだと私は思います。

人間は誰しも出会いによって人生は変化していきます。

そして出会いをよくよく感じて内省するとき、その御縁や出会いは向こうから発見してもらって呼んでくださっていると感じるのです。つまりは「選ばない」ことの背景には、それは向こう側から自分を選んでくださった、自分にこれをやるようにと教えてくださった、自分にもっとも相応しいものをいただいたと自覚しているからこそ「選ばない」のです。

天命というのは探して得るものではなく、受け容れて得るものです。四十になって実感するのは、四十にして惑わずではなく、四十にして天命を選ぶのを已めたということです。天命を選ばないから惑わずになるわけで、人はその天命を選ばずに受け容れることでその後の人生の意味をしっかりと学問していくことができるように思います。

初女さんの生き方が、とても透明に徹しているのはこの人生への正対の覚悟、また一期一会に生きる決心の強さのように私は思います。

かつて東京で初女さんの講演を拝聴する中でもっとも強く印象に遺った言葉に『私はメンドクサイという言葉が大嫌いです、どんなことも決して面倒くさいと言ってはいけません』と静かに厳しく仰っていたことが今でも忘れられません。

真心や思いやり、本気や真剣さはこのメンドクサイの反対側にある言葉です。一つ一つを丁寧に丹精を籠めて生きていくことがその透明さがより磨き研ぎ澄まされることになっていくように思います。

追悼を籠めて書き綴っていますが、初女さんの偉大な後ろ姿に改めて学び直すことばかりです。子ども達のためにも、こういう方が遺してくださった真心を子どもたちに伝承していきたいと思います。

透明な実践

引き続き佐藤初女さんのことを書いていますが、「透明さ」というのは心が澄んだ真心の生き方のことをいうのだと私は思います。心が澄んだ真心の人は、作為もなく計算もなく、ただ思いやりに従って行動していきます。その思いやりによって行動することを私は「祈り」と呼びます。このような「祈り」こそが祈りの実践であり、澄んだ真心で丹精を籠めて丁寧に行動したことは相手の心を癒すように思うのです。

最初に佐藤初女さんを知ったのは、地球交響曲ガイアシンフォニーに出演していたことです。映像の中で、おむすびを握る姿の中に無心で相手を思いやり行動する祈りの姿を感じました。

その初女さんの話の中で、自殺しようとしていた青年の話があります。ある青年の両親が話を聴いてほしいと青年を森のイスキアに送ってきたといいます。ずっと傾聴していましたが泣いてばかりでご飯も食べず、もう遅いのでとそのまま休んでもらったそうです。一晩たって帰る際に、朝からおむすびを握ってそれを持たせたそうです。青年がその帰り電車の中で、タオルに包まれたおむすびをみてこんな自分のためにここまでしてくれる人がいる、信じてくれる人がいるのかと感動しそれからパッと人生が変わってしまったという話です。

真心を籠めて行動したことが祈りになり心に届く時、心が透明になりそれまでのいのちがいのりによって移り変わる、、私にはそう思います。私も透明な心や透明ないのちを実践していく中で、如何に相手がどうこうではなく自分が「真心を盡したか」どうかを重要にします。

人は相手に合わせて自分を盡すことが大事なのではなく、常に自分の心を省み真心を盡していくことが何よりも祈りそのものになるからです。

相手の心に寄り添うということは、相手の苦しみに寄り添うことです。相手の苦しみをじっと受け止めて、自分の苦しみとして受け容れることはまさに苦を楽にし福に転じる妙法であろうと私は思います。

なぜなら人は一人では苦しみになりますが、一緒になら幸福に転じるからです。人生の妙味はこの中庸の中にあり、人生の醍醐味は調和の中にあるように感じます。

引き続きかんながらの道、透明な実践を精進していきたいと思います。

透明

自然のことを学び直す中で、あらゆるもの透明さを知り純粋であること、真に澄むことの大切さをいつも感じます。身近な光や陰、火や水、風や土、木や石などあらゆるものが融け合い混ざり合い一つになる瞬間はいつも透明ないのちを感じます。

この透明ないのちとは、「解け合う」ことで姿を顕します。そしてその瞬間が観えているかということが真心のままであり、その瞬間を捉える感性が直観のことであろうと思います。私のかんながらの道はいつも此処に存在します。

自然が磨いてくださるいのちの尊さの中に、その透明感はいつも存在します。透明なものを感じる感性は自然の心のままに心に寄り添い、自然体で心をおもてなす日本古来の精神の鑑です。天照大御神より八咫鏡を授かってから私たちは透明な鏡に心を照らして自己鑑賞し常に心の穢れを祓い清め、心を磨き続けることを大切にしてきました。透明さというのはこの鑑の心であり、鑑の心は常に自他一体に切磋琢磨、相手と自分を解け合うことで磨き合うものだと私は思います。

佐藤初女さんは、この「透明」であることを大切にされた生き方を貫かれた方です。私も透明であること、いのちを磨くことは人生の一大事だと考えており、その生き方や生き様には本当に沢山の影響をいただきました。

改めて初女さんの文章を拝読していると、日々の暮らしの中で透明さを磨いていた様子が遺っており私自身も改めて学び直していきたいと思います。その初女さんにこんな言葉が遺っています。

「調理の間はいつも意識を集中させていないと、食材のいのちと心を通わせることができないですね。例えば野菜を茹でている時、火のそばを離れずじっと見ていると、野菜が大地に生きていた時より鮮やかな緑に輝く瞬間があります。その時、茎を見ると透き通っています。その状態をとどめるために、すぐに火を止めて水で冷します。透明になった時に火を止めるとおいしくて、体の隅々まで血が通うお料理ができるんです。素材の味が残っているだけでなく、味が染み込みやすい時でもあるんですね。野菜がなぜ透き通るかといえば、野菜のいのちが私たちのいのちと1つになるために、生まれ変わる瞬間だからです。ですから私はそれを「いのちの移し替えの瞬間」と呼んでるの。蚕(かいこ)がさなぎに変わる時も、最後の段階で一瞬、透明になるといいます。焼き物も同じで、今まで土だったものが焼き物として生まれ変わる瞬間に、窯の中で透き通り、全く見えなくなるそうです。いのちが生まれ変わったり、いのちといのちが1つになる瞬間に、すべてが透き通るのかもしれませんね。透き通るということは、人生においても大切だと思いますね。心を透き通らせて脱皮し、また透き通らせて脱皮するというふうに成長し続けることが、生きている間の課題ではないでしょうか」

これは調理のことを語っているのではないことはすぐに自明します。これは透明になることを語っているのです。

生きている間の課題として、如何に心を透き通らせて脱皮するかと言います。私の言葉では心を如何に研ぎ澄ましていくかということと同じです。心を研ぎ澄ましていくことは、人生において何よりも大切なことです。なぜならそれは人生とは魂を磨くことだからです。この世に私たちが来たのは、魂を磨き心を研ぎ澄ますために体験をしているとも言えます。

生きている修行というのは、結果が云々ではなくこの間にどのように生きたかというそのものが問われるように思います。自然界の生き物たちやいのちのように生きていくことが仕合わせであり、彼らと同じように日々に暮らしの中で自然の砥石で心魂が磨かれていくことがいのちを輝かせていくことだと私は思います。

人間の中においては御互いに思いやり真心を盡していくことで心魂は磨かれ高まりより透明になっていきます。透明な感性をいつも持ち続けることは、自然と解け合い直感のままにいて自然体になることです。

憧れた人に近づけるよう、私も持ち場で日々に精進していきたいと思います。子ども達に譲っていく透明ないのちを受け継いでいきたいと思います。

深さとは何か~直感~

物事には深さがあり、深さを持つ人はその深さを人に伝えていけることができるように思います。同じ話をしても、自ら刻苦勉励し体験を通して苦心しつつも掴んだ人の話は同じ言葉を並べても伝わり方が異なるものです。知識と体験との違いは、知識によっていくら文字を並べてもそれは単なる文字遊びにしかならず体験によって得た智慧や知識により文字が並ぶとそれは実行するためのヒントになります。

昨日、かねてから尊敬していた森のイスキアの佐藤初女さんがお亡くなりになりました。講演で一度だけお話をお聴きしたことがありますが、その時の御話もまた深さがありました。子どもがお菓子ばかりを食べて困っているという質問には、「ご飯を美味しく作ればいいのです。」とただシンプルに回答するのですがその言葉の間には真心を籠めて子どもを育てることや、食に命を懸けて取り組むことの大事さなど言葉の背景に膨大な暗黙智慧が語られている深さがありました。

この方もまた日本古来の大道をこの世に受け継ぎ、次代へ繋ぎ紡いだ有り難い道徳人でした。魂や大義は失われず、人々の心の中に生き続けて実践によって伝承されていくと思います。瑞々しい透明な心を通じて出会った有り難いご縁をいつまでも心に刻み忘れません、ご冥福を心からお祈りしています。

話を戻せばこの深さというのは、その人の体験によって深まっていきます。深さを持てる人とというのは常に理想を求めて一生懸命に苦労を厭わずに努力精進していくことで深まっていくように思います。深さの中には、つまり理想までの距離のようなものがあるのかもしれません。自分の目的や志の高さに対して今の現実があり、その間が深さになっていくように私は思います。

深さを持てる人になるためには、まず理想を定めて自ら覚悟決心する必要がある様に思います。そして自問自答し、本質は何かを求め続ける胆力や道を歩み続けて内省し続ける継続力も必要です。

求めている理想が大きければ大きいほど、世のため人のための祈りが広ければ広いほどその深さはますます奥深く深淵な深さになります。またその深さは五感や全感覚を通して感じるもので、到達している深さは観えないほどですから互いの直感でしか感得しえません。西洋ではそれをシンクロニシティともいいますが、本当の深さを求めている人はいつもご縁によって導かれるように思います。ご縁の世界に生きる人々は深さを持ちます、そしてその深さは直感と導きと道中の閃きによって開拓されていくのでしょう。

日々に何を最も優先するのかを忘れずに、自分の持ち場を掘り下げて道を歩む人たちに恥じない背中をみせられるように文字遊びを戒め深く精進していきたいと思います。

 

場と場所

日本の古来からの文化に「場・間・和」があります。これは心の世界を表現する三文字であり、日本人が常に大切にしてきた真心が此処にあるとも言えます。一つ一つは全て日本の伝統文化を顕しており、歴史を観ても、身近な文化の中にも息づき入り込んでいるものです。

今回はその「場」を深めてみようと思います。

場とはただの場所のことではありまん。場所というのは、その指し示す環境一帯のことでありそこに営みがあるかどうかはあまり関係がありません。しかし「場」となると、そこには確かな営みがありそこに集う人たちの思いや願い、心が存在します。

場が発生してくるというのは、そこには場を創ろうとした人の理念や初心があり、そこに集うものたちはその思いによって引き寄せられて集まる仲間たちです。これは例えば、山林にある雑草が生え人が全く手入れをしていなかった休耕田があるとします。そこに一つの思いをもった人が自然農法を行おうと独りで田に立つのなら次第にその田には野菜や作物、稲をはじめ虫たち、動物たち、周りの人たち、そして思いを共にする仲間たちが次第に集まってそこに「場」が産まれるのです。

この場が産まれれば、そこには空間が産まれます。この空間の「間」とは、時間を超越した間合のことです。間とは心のないところには産まれず、忙しさとは時によって行われるものですから忙しくない時、つまりその時そのものが無くなって「間」は産まれます。これを無の心ともいうのかもしれませんが、間合の中には時を超越した心が存在します。

そしてこの間があるところに「和」が存在します。この和とは、言葉で表現するのなら全てが調和し中庸になっているということです。和になれば心が安住する居場所が産まれ、居心地が善い場が誕生するということでもあります。これは次回、事例で深めて書いてみようと思います。

話を戻せばこの場と場所の違いは、理念を持った人がいるかどうかに由ります。そして理念を共にする仲間たちがいるかどうかに由ります。場と仲間というものは、常に隣り合わせであり、仲間づくりをしようと思えば場づくりをしようとなるのです。

今年は「場」の面白さに気づき、その場を子どもたちの環境の中に広げていきたいと思っています。場から学び直し、和の持つ有り難さを味わっていきたいと思います。子どもに一つでの譲り遺せるものを日本の文化から発掘し開発していきたいと思います。

自然の心

昨日、かねてより理念を共にするお客様と改めて初心についての確認を行いました。本来の開園の目的やその意味、また理由や内容を一つ一つ解いて結び直していると私自身がなぜここに御縁があり、永く一緒に取り組んできたのかも自明しました。

ここは仏教を信じる保育園で、その理念の根幹には仏陀の教えに沿っています。また具体的な実践として、自灯明法灯明によって仏性を内省により発明し、その仏性の思いやりによって平和な心を育てていこうという願いがあります。

もう私たちの実践する生き方の一つである「一円対話」をはじめ、他の仕組みも導入し、一緒に同じ方向で取り組んで9年目になります。9年間、何をやってきたのかに思いを馳せるとき、そこに仏陀の偉大な見守りや恩恵を感じました。

私たちの一円対話では、隣の人の善いところを観てそれを賞讃するというものがあります。その一円対話を進行する「聴福人」たるもの、常に善いところを観てその人の善いところを信じる生き方を実践していることが肝要になります。それは常に人の中には真心があり、その真心の気づきを聴いてその真心の声から御互いに学び、御互いを思いやり大切に敬っていくという心得があります。

そのための心がけとして自戒すべきは何よりも「人を見下さない」ということです。自分を特別視する人は他人を見下してしまいます。何でも分かったとなって自分が真理を知ったかと勘違いしているうちに自分の特別視が強くなるものです。そういう自他を分けて考えたところに思いやりや真心はなく、自他一体のところに有り難さも感謝も存在するように思います。

本来、どんな人でもその人の中には必ず魂や心があります。そしてその人間の本性に善悪はなく、そこにあるのは自然そのものです。自然に善悪はなく、自然はそのままで美しく素晴らしいものです。その美点、その美化したものを人が観るとき、それは全て善いことになり福になるものです。一円観は、その人の善いところを観ることで持ち味を発見し、その持ち味こそが自然の価値であると賞讃しているのです。

人が常に人の善いところを観ることができるということは、常に持ち味をみてその持ち味の素晴らしさを実感しそれをみんなで愛してみんなで活かしていこうといった自然慈愛の心であろうと私は思います。その慈愛の心はすでに仏陀が語り尽くしているように思います。

その一つに、不軽菩薩という話を聴きました。

「不軽菩薩 其の所に往き到って 而も之に語って言わく 我汝を軽しめず 汝等道を行じて 皆当に作仏すべしと」

これは私の意訳ですが、「不軽菩薩はいつもどんな時も語り聞かせていた。私は誰一人見下さない。みんな一緒にこの世に往生して日々修行している仲間であるから、みんな仏そのものにかわりはない」と。

この世に産まれてくるというのは、どんな人でどんな体験をするかも人それぞれ異なります。それにその人の姿容、また性格、持ち味も異なります。これは自然界と同じように、万物はそれぞれに自然の一部として存在しているということです。

あの植物は上で、あの植物は下、あの虫は善であの虫は悪などとの道理は自然界に一切なく、すべてのいのちはいのちそのもののありのままの姿です。そのありのままの姿こそが仏性であり、そのありのままを禮讃美することは自分の中の刷り込みを取り払い、本来の自然の姿を思い出すことになります。

人の善いところを観て、人の善いところを賞讃し、その人の気づきから学ぶことは自然界が共生し合う真心に近づいていくことのように思います。平和というのは、自然の中にこそ存在するものですからその平和を人々の間に築こうとするならば一円観の理念が私にとっては何よりも重要なことになっています。

私の自然の心はどんな生き物であっても偏見を持たず、まるで家族や古い友人のように接し、さらにそのものが持つ持ち味そのものを深く尊敬し、そのものの価値をそのままに活かせるような自然の心に近づきたいと願っています。

子ども達の為にも、人としての生き方をもっと形にして譲り遺していきたいと思います。こういう時代だからこそ、道徳や福徳といった人間の中にある善いもの、その徳を明らかにしその徳に気づかせその徳に報いる生き方を精進していきたいと思います。

 

変化の美

経年変化の美について書きましたが、経年劣化という言葉もあります。年月が経つということは、ある意味自然消滅していくものですから自然劣化していくものです。同時に、劣化せずに味わいが出てくるものもあります。それは道具に関わらず、人物においても同じように劣化と味わいというものは付き纏います。

例えば、齢を経ても美しさが変わらないとか、齢を経れば経るほどにその価値に磨きがかかりより一層美しくなるものもあります。いつまでも変わらないものを維持しているというのは、いつまでも大切にしているものが変わらないということです。

そもそも経年というのは、単に年月が経つことですが変化というのは自らが変わり続けることです。時代が変わっても、その時代の価値にあわせて変化を已まないでいることは常に温故知新を続けているということです。そしてそこには主軸になる理念があるように思います。

人は時代に左右されずに自分の信念を貫く人や、いつまでも理想や夢への情熱を失わない人も「変わらない人」と言うことがあります。そういうものを失ってしまった人のことを「あの人は変わった」とも言うこともあります。これは生き方のことを言っているのであり、見た目の変化のことではなく内面のことを言っているようにも思います。

人は理念があり、その道を歩み、研鑽を続けて精進をするのなら経年は変化の連続ということになります。変化の連続をするものは経年劣化とは言わず、経年変化というように思うのです。

道具も同じく、使われ続けたものは経年劣化とはいわず大切にその道具を用いる人がいるのなら経年変化になると思うのです。経年変化の美とは、変化の美のことであり、この世にいていのちが活きている証とも言えます。

いのちを輝かせ、いのちを活かし、いのちを盡していく日々が経年の持つ味わいを深いものにし、美しさを高めていくように思います。

古の道具に再び呼吸を取り戻すのも、こちらの姿勢如何です。かつての思いやかつての願い、そして理念と共に歩める仲間たちが増えていくことで場が生まれ、物語がはじまります。

変化を共にする仕合わせを大切に、子ども達に変化の大切さを生き方で譲っていきたいと思います。

慢心

古に思いを馳せれば馳せるほど、人の心の様相の変化を感じます。私たちは知識をつけては進化しているように思っていますが、その実、全てにおいて古の心には敵いません。それは、知識を得て慢心し人は自惚れていくことに他なりません。

不易と流行というものがあります。心の世界は変わることがなく、そして時は流れていきます。焦りと油断が慢心を産み、自惚れと過ぎたる自愛が慢心を助長します。そのうち、流行だけが先行して不易が失われていくように思います。

そもそも慢心しないというのは、人を見下さないということです。それは別に比較しないというわけではなく、自分を特別視しないということでもあります。人は油断をするとすぐに自分が分かったかのように錯覚します。分かった気にならないと戒め続けることよりも、分かったことで分かった気になり知識によって得た安楽によって錯覚するものです。しかしその時、分かった気になった故に慢心が生まれ分かっていないという謙虚さを失うのです。

実際の世の中は、自分が知っている範囲などほんのわずかなものです。ほとんど全てのことは知った気になっているだけで知ったわけではありません。そして知るということはできません、なぜなら変化せず、已むものはこの世にまったく存在しないからです。

万物は変化し続けているからこそ、かつて知ったことがずっとそのままであることはありません。しかし知った気になってしまうと、その変化していることを忘れてしまうのです。慢心が油断であり、油断が大敵なのです。その油断しないようにするには、自分の慢心をいつも戒め続けなければならないように思います。

どんなに悟った人であっても、どんなに膨大な知識をもって努力している人であっても、慢心は誰にもあります。慢心しませんということ自体も慢心であり、慢心していると思っていることであれ慢心です。慢心とは、絶対的に人間が放すことができないものであり、それは聖賢と言えども聖人と言えども、誰しも取り払うことが難しく一生かかったものだからです。

二宮尊徳の遺誡に、「予が足を開ケ、予が手を開ケ、予が書簡ヲ見よ、予が日記ヲ見よ、戦々恐々深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」があります。

ここにも常に慢心を恐れて謙虚に向き合い続けた姿があります。自信と自惚れは百害あって一利なしです。古に学び直し、古の心を師として分かった気にならず真摯に精進していきたいと思います。

自然の美

日々、炭と憩り、御茶を立てて一服する日々を過ごしていると心の安らぎを覚えます。不思議なことですが、この炭を使いお湯を沸かし一杯の御茶を呑むことがこんなにも心が落ち着くのは何か自然の慈愛と通じ合っている気がします。

茶器というものが戦国時代は、大変重宝され一国一城の価値があったとも言えます。心が安らぐときに、その周囲に日頃から愛着をもって大切に遣っている道具たちに見守られ一杯の御茶をいただく、道具たちもそれぞれに持ち味を活かして一杯の御茶のために盡力する、その一つに向かって籠めた真心が御湯と御茶を通じて心に沁みわたります。

おもてなしというものは、道具たちをはじめ大切にそのものの持ち味を活かして協力し合い一つの物事のためにチカラを分かち合って相手に自分たちの真心で御迎えすることではないかとこの御茶を点てている中で実感します。

日頃、会社でもお客様がお越しになる際に、みんなでチカラを合わせて色々と準備します。その真心からの行動や実践は、目には観えなくても必ず相手に伝わり、おもてなしに心が穏やかになり豊かな仕合わせを味わえるものです。これはみんなが心を一つにすることが大切であり、御茶の道具たちと協力して心を一つにおもてなしするものまた同じ仕組みであろうと私は思います。生物非生物に関わらず、みんなで一緒に誰かをおもてなすというのは、そこに自然の美があるように思います。

炭の実践の中で、もっとも私が感じ入ったのはこの炭と御茶の関係に出会ったことでした。茶道で有名な千利休に利休七則というものがあります。これは弟子から「茶の湯の真髄は何ですか?」と問われ、問答がそのままその茶道の心得として遺ったものです。

利休は弟子にこう言いました。

「茶は服の良き様に点て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」と。

弟子がそれくらいのことは私でも知っていますと答えると、もしもあなたがそれができるなら私はあなたの弟子になりましょうと応えたと言います。無念無想、かんながらも同じですがどの道もまた心のあるがままにあることが伝承されているかのようです。

千利休は、禅の心を一休禅師の弟子村田珠光の足跡を歩んだと言われます。その村田珠光には、その茶の道の「初心」が記されたやり取りの手紙が遺っていると言います。

「 此道、第一わろき事ハ、心のかまんかしやう也、こふ者をはそねミ、初心の者をハ見くたす事、一段無勿躰事共也、こふしやにハちかつきて一言をもなけき、又初心の物をはいかにもそたつへき事也、此道の一大事ハ、和漢之さかいをまきらかす事、肝要肝要、ようしんあるへき事也、又、当時ひゑかるゝと申して、初心の人躰か、ひせん物しからき物なとをもちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也、かるゝと云事ハよき道具をもち、其あちわひをよくしりて、心の下地によりてたけくらミて、後まて、ひへやせてこそ面白くあるへき也、又さハあれ共、一向かなハぬ人躰ハ、道具にハからかふへからす候也、いか様のてとり風情にても、なけく所肝要にて候、たゝかまんかしやうかわるき事にて候、又ハ、かまんなくてもならぬ道也、銘道ニいわく、心の師とハなれ、心を師とせされ、と古人もいわれし也」

何を初心と言っているか、古今の聖人の道を歩む人たちは同じ真心と実践を歩むように思います。そして心の師となり、心を師とせよといいます。自分の真心のままに歩むことこそ自然であり、その自然美をカタチに示したのがこの火と水の持つ芸術、そして生き方と暮らし方だったのかもしれません。自然の美しさを感じるのは、心が自然と一体になるからです。その心の美しさが響き合うことが、自然の美だということです。

子どものためにと必死に生きていく中で、志を支えてくれるこの炭と御茶、そして道具たち、自然のすべてに感謝しています。

 

 

人道の本質

二宮尊徳の遺訓には、私たち人間がどのようにすることでもっとも天道地理に沿うのかということが記されています。今のような物質が溢れ、飢饉飢餓などが遠ざかった世の中にはあまり二宮尊徳の偉業が弘がりませんが、本来は「心田の荒蕪を耕す」といった本質で観れば今の時代ほど二宮尊徳の教えが必要な時代に入っていると思うのです。

その尊徳翁遺訓に「水車のたとえ」というものがあります。

『「水車の回るは半ばは天道にして半ばは人道なり」。翁曰はく、それ人道は言ふれば、水車の如し、その形半分は水流に順ひ、半分は水流に逆うて輪廻す。丸に水中に入れば回らずして流れるべし、また水を離るれば回ることあるべからず。それ仏家にいはゆる知識のごとく、世を離れたるごとし、また凡俗の教義も聞かず義務も知らず、私欲一遍に着するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し。ともに社会の用をなさず。故に人道は中庸を尊ぶ。水車の中庸はよろしきほどに水車に入りて半分は水に順ひ半分は流水にさかのぼりて運転滞ほらざるにあり、人の道もそのごとく、天理に順ひて種を蒔き、天理に逆うて草を取り、欲に従ひて家業に励み欲を制して義務を思ふべきなり。』

これは意訳ですが、(天道と人道は水車のようである。その水車の半分は水に従い、半分は水に逆らう。水の中に入れば水車は回らず、水の外に出ても回らない。これは世の中と交わらない仏教徒のようなものでこれでは水中の水車と同じく役に立てない。だからこそ人道はバランスが大事である。人の道は自然に沿って自ら種を蒔き、そして自然に逆らってその周りの草を刈る、これは慾に従って幸福成功のために精進しつつ、同時に慾に逆らって世の中への理想や利他を盡して社會貢献していくのである。)と。

自然農を実践する中で、自然に沿う事と自然に逆らう事は常に向き合うことになります。天地自然の恩恵を受けて私たちは存在していますが、人間はその中で自然を破壊し自分たちの思い通りの世の中にしているとも言えます。

一方では自然を愛しつつ、一方では自然をコントロールしようとする。これが人間とも言えます。ここでの二宮尊徳の言う、天道と人道とは別に天道か人道かと言っているわけではないと私は思います。

まずは天道を素直に優先し、その上で人道を謙虚に行うことだと私は言っているように思うのです。この優先順位が違うならば、人間は慾に負け、慾を制することがなく、今の世界のように樹木や生き物たちは絶滅の一途を辿ります。

この水車のたとえというのは、結局は「人の道」とはどういうものかということをたとえています。人間は天道に従うことで循環し、そして中庸を実践することで人道に適うというのです。

この世の本当の意味での幸不幸はこの「人の道如何」に由ります。

二宮尊徳が言う、「報徳」の真心を今の時代に置き換えて「仕法」を仕組みに昇華してこれからも子どもたちのいる現場に種を蒔き続け、刷り込みの草を刈り続けたいと思います。