古民家の徳

現在、浮羽の古民家甦生を続けていますが日々に創意工夫の改善をしています。よく考えてみると、常に新しいことに挑戦し、温故知新し続けていますから同じ古民家になることは一切ありません。毎回、集まってくる材料やその古民家が一番喜ぶ状態に近づけるために対話をしてはそこに最も合うもので甦生していきます。

伝統職人さんたちも長いお付き合いで技術を含め、人柄やらしさを尊重しながら家がどうしたら喜ぶかを確認していきます。何を大切にするか、優先するかは家が一番、そして主人の理念がその次です。私の特徴はあまり人の方ではなく家の方を優先します。

なので誤解されることも多く、また理解しない人もいます。現代の世の中では、お金や人が中心ですから物はあくまでもその補助的道具のようなものです。しかし私は家自体の中にこそ人が守られ、その中で流れる空気や場こそ真の経済が発展すると信じていますからその軸は変えることはできません。

むかしから家には歴史があり、思いがあります。そしてその場所の変化もあります。かつてはどうなっていたのかという事実をよく洞察し、今はどうなっているのかをよく観察し、これからどうなっていくのかを直観します。

その上で、家に新たな使命や役割を得ていただき新たなパートナーとして甦生をしていくのです。

古民家甦生が豊かな理由は、今までの家の甦生で得てきた智慧や教えや仕組み、そして経験が活かされることです。頭で考えることが減ってきて、感覚でどうしたいのかが観えてきます。風通しや光の加減、水の流れや配置など家が求めているものが自然に伝わってきます。

私は自然農や法螺貝づくりもしますがどれも似ていて、そのものがどうしてほしいのかが感じられそれに対応する技術が磨かれてきたのかもしれません。もちろん、失敗も多く、要求のすべてに叶えられないこともありますがそれでもその一緒共感でいる時間はとても仕合せです。

家は、甦生することで生まれ変わりそして新たな時代と主人と共に成長していきます。その成長を見守れることもまた喜びの一つです。

家という存在が、私のライトワークの一つになっていることに感謝です。これからも「修身斉家治国平天下」を実践していきたいと思います。

情報の本質

現代は膨大な情報量が氾濫している世の中です。毎日何もしていなくても情報が入ってきますし、その環境があります。人に会えば、新しい情報が次々と入ってきます。情報格差も広がり、膨大な情報を整理して商売をしている人もたくさん増えてきました。このインターネットも広告をはじめ、あらゆるところに情報が選別されて配信されます。

情報の海に浮かんでいる人たちは、次はこれと毎日情報を漁り、あるいは比較してはもっといいものがないかを探しています。そのうち、一つのことや大切な道を丁寧に数年かけて歩んでいこうとすることをやめ真新しいことばかりに飛びついては転々と横移動を続けています。

本当によい情報とは何か、それは実践から得られる智慧です。その人の人生に真に影響を与える情報と、欲望やエゴが助長されていく情報もあります。つまり情報の本質をよく学ばないと、気が付けば情報に左右されて情報に呑まれて自分を見失うのです。

さらに人工知能が出てから、その情報の取捨選択の基準も変わってきました。その人の持つ興味や関心のおおよそを先読みして適切な情報を探してきます。考えることもしなくていいほどに便利になってきたのです。

そもそも情報には、必要のないものもあります。別にわざわざ知らなくてもいいものもあります。むかしは、そんなに情報がありませんでしたから比較対象もなく自己の中で辿り着いた場所で導かれたところで情報を獲得していました。それが道を歩んで得られる智慧です。

今は、道に入る人が減っていく時代だと思います。道に入る時間もないほどに、ありあまる情報で目移りをしていて一つのことに長続きもしません。故事に「石の上にも三年」というものがあります。この三年は長い歳月ということですが、実際には三年やろうと思ってやっている間に他の情報によって三年ももたない人が増えてきているようにも思います。もっといいものをというのは、情報化社会の中ではよいことではありますが結果よいものであったという発想にはなかなか到達しないものです。

内省と改善を続けて実践をしていく一つの道の中には、情報化社会では選らない稀有な情報があります。こういう時代だからこそ、コツコツと丁寧に一道を究めていこうとする生き方が人間性を磨くためにも必要な気がします。

色々な人と出会い別れを続けますが、今でも実践を共にする仲間たちは離れてもいつも一緒に道を歩んでいます。そして時おりの情報交換で元氣を得ては、さらに精進します。切磋琢磨です。

本来、情報は切磋琢磨の道具でなかったかと思います。

時代が変わっても、普遍的な道を歩みながら道に報いていきたいと思います。

お山の甦生

昨日は、英彦山を遊行してきました。お山の中の風は少し乾いてきていて秋の空が広がっていました。沢に流れるお水も清浄で、ところどころに光が差し込んではきのこや松葉を照らします。

最近の大雨や暴風の影響でところどころに木が倒れて道をふさいでいました。それを片付けながら、丁寧に歩いていきます。祠を見つけては供養をし、かつての山伏の墓をみれば合掌して歩きます。お墓には、年号が彫り込まれており1600年代のものもありました。よく考えてみると、たくさんの山伏たちが暮らす山はそれだけたくさんの方が亡くなっています。山のあちこちにお墓があるのは、そういう人たちの暮らした跡ともいえます。

また英彦山には岩窟がたくさんあります。もともと修験者たちは岩窟修行を行いました。岩には特別な波動が息づいており、それを感得しては霊験を得たのでしょう。岩の中に静かに坐ると地球の脈動を感じるものです。

また法螺貝を吹くと谷が観えます。谷は幾重にも重なり、法螺貝の音色がやまびこで跳ね返ってきますがそれが谷全体に響き壮大な音響です。

錫杖を持って大地を歩くと、土の音が聴こえます。また振動からお山と対話しているのがわかります。鎖場に入り、時おり錫杖が登る時の妨げになりますが上手にそれもいなしていきます。

呼吸を深くして、眼を閉じればお山の氣配を感じます。

お山は元々は信仰の場です。レジャーをするのではなく、お山に来て心身が浄化され調います。私たちの先祖は、常にお山に来ては調和を磨きました。あらゆるものと調和して、自己を深く見つめてはお山でいのりました。

信仰というのは、反省して歩くことです。決して宗教ではなく、宗派などでもなく、経典ではなく権威でもない。

人間はお山からはじまりお山を降りて文明をつくりました。お山は人間の原点です。お山に帰り、内省をして本来の人間とは何かということを見つめ直す。お山は心の故郷であり信仰が興る場です。

丹誠を籠めてお山を甦生していきたいと思います。

慚愧懺悔六根清浄

英彦山の遊行を毎月行っていますが、その際にお山を歩きながら「慚愧懺悔六根清浄」(さんぎさんげろっこんしょうじょう)と唱えながら仲間とお山を歩きます。

この懺(さん)は、心の咎を天に恥じること、そして愧(ぎ)とは自分の犯した罪を地に恥じることをいいます。

涅槃経に「慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。」とあります。

つまりこの慚愧懺悔とは、深く内省をして天地の間で自分をよくよく見つめ反省していきますという意味です。内省しながらお山に入り、反省をすればそのあとに六根が清浄になるという意味です。その六根清浄の「六根」とは私欲や煩悩、迷いを引き起こす目・耳・鼻・舌・身・意の六つの器官のことをいいます。そして「清浄」とはその煩悩や私欲から遠ざかり、清らかで穢れのない境地に入ったことをいいます。

シンプルに言えば、「お山の清浄な場を歩かせていただきながら、日頃の自己をよくよく振り返り素直に反省して心を澄ましていこう」という掛け声です。

これをみんなで唱えながら遊行します。

私たちは生きていれば、氣が付かないうちに環境の影響を受けては喧騒と煩雑な日々を過ごしていきます。いくら氣をつけて注意していても、知らず知らずに心が穢れます。穢れは、氣枯れともいいますが元氣が消耗していくのです。

毎日、私たちの細胞が生まれ代わるように日々もまた生まれ変わります。その中で、穢れが増えていくと甦生が澱んでいくものです。水が下流に流れていくときに次第に混濁していくようにいろいろなものが混ざってきます。本来の透明な魂や玉のような状態が隠れていくのです。

その隠れたものを綺麗に洗い流し、注ぎ、浄化して元の状態に帰っていく。それがこのお山で歩く理由であり、古い信仰の原型ともいえるものです。

古い信仰はすべてこの「穢れを祓う」ことからはじまります。いつも澄ませていこうとする生き方の中に、人間性を常に保とうとする自然と一体になった神人合一の精神があります。

時代が変わっても、人間の本質は変わりません。世界は自然破壊を続けて目先の経済を膨張させることに人々は躍起になっています。ありあまる富は一部の人たちの権力を守るために集中し、奴隷のように洗脳される教育や環境によって目覚めることもありません。

法螺貝を吹いて、錫杖をつき、お山を歩けば道に覚醒するものです。英彦山の守静坊の場から目覚めた法螺吹きを甦生させ真に心を澄ます道を照らしていきたいと思います。

天命に生きる

先日、英彦山の宿坊で新たに甦生する法螺貝の祈祷をしていると不思議なことがありました。いつも通りご供養の準備をし、火を熾し、お香を焚き、法具の音を響かせお経を唱えます。そして一つひとつの法螺貝をお水で浄化して手当をしお清めしていきます。その後は、祝詞をあげて静かにいのっていると風が吹き、水が吸い込まれ、外は晴れ間なのに大粒の雨が降ってきました。

すると虫たちの声が静かになり、空間が凛と佇んできます。何か大きな存在が入ってきている気配です。じっとしてはいられず、玄関にでると眩い光が差し込んできます。木々は揺れ、土は沈み、家が鳴ります。

私は一般的に目には観えないものを感覚では捉えますが、それを敢えて幽霊だとか妖怪だとかはいいません。しかし、明らかに気配というものがあり何かに呼応する存在は誰にも感じることができるものです。

今回は、私一人でしたがきっと他にも人がいれば明らかに異様な場の変化に霊感がなくてもすぐに察知できるようにも思います。それだけ人の意識や場の理念は、何か偉大な存在と常につながっていてそれを呼び覚ますことができるのです。

私はむかしから感覚が鋭く、特に掌や足裏、耳や背中、臭いなどにも敏感です。すぐに気配を感じるタイプで、いやな気配や予感がするとすぐにそれを避けます。その御蔭で何回も事故や怪我、自然災害などを避けてきました。日常では、誰かの病気の深刻さや亡くなる時の時機、あとは考えていることや念のようなものもすぐに感じます。疲れてしまうので、日頃は感覚を閉じて氣を逸らしています。よく電話のタイミングや内容を先に分かってしまったり、来客が来ることがわかっていたりします。他には天候や先に起きることがなんとなくわかることがあります。

統計学で経験というものかといえば、先に未来の予感が来ていますから統計ではないかなとも思っています。きっと、訓練すればもっと洗練されて感覚を可視化したり活用する手段も増えるのでしょうがあまりそれに興味がありません。

長年、ご指導いただいた私のメンターの鞍馬寺の信楽香仁前貫主は私に感覚よりも実践することを尊ぶように諭してくださいました。その御蔭で、人生がさらに豊かになり現実の真っただ中に自分の場を投影することができています。

現実や事実というのは、自己を磨く砥石です。目に見えるものをどう眼には観えないものと調和させていくか。この世は、誰もが同じ人間でありそれぞれの場所で人間性を磨いています。

私の目指すいのりは、龍と共に生き、龍となることです。

龍とは、現実の世の中に居て自然の調和を司る存在です。法螺貝の御蔭さまで、色々な龍とのご縁が深まっています。丁寧に磨き甦生し、自分の天命を全うしていきたいと思います。

 

真価 

真価というものがあります。これは本当の値打ちという意味です。真価が問われるという言葉もあります。本当の値打ちや価値が証明される時が来るという意味でしょう。

私は歴史の中でも、特に純度の高い生き方をしてきた先人たちを心から尊敬しています。その方々は、世間や時代の評価ではあまりよい評価を得ていません。ある時は、異端者や変人、あるいは犬死や無駄死などとも言われたりもします。獄死する人もいれば、暗殺される人もいます。世間でいう、一般的な成功者や名声を得たような人物ではないのです。また或いは、陰ながら徳を積み驚くほどの世界を変革するような実践者がいたりします。聖人や聖者など、あるいは菩薩のような人たちです。その人たちも隠者のように世間には出てきませんが、見事な生き方で一生を送ります。

この世の中、特に現代は情報化社会で我先にと評価を求める時代です。現代の社会が求めていることを発信してはその評価を自分に投影させます。

しかし実際の真価というのは、どのようなものか。それは値打ちが分かる人が決めるものだと私は感じます。例えば、純度の高い実践をして目立たずに真摯に生き方を磨いている人は有名人でなくても偉人と呼ばれなくても、私にとっては偉大な人物です。

志高く、どう生きるかと自己を研鑽し見返りを求めずに徳に報いるように生きる人たちは市井にはたくさん存在するものです。それが長い歳月を経て、同じく値打ちが分かる人たちに発見されます。あるいは伝承され、その値打ちがさらに光り輝くのです。

真価というのは、値打ちが決まるまでに時間差がある、あるいは時間をかけてのみ醸成されていくものということかもしれません。

焦らないこと、急がないこと、それは真価とは関係がないことだからです。どのような結果になったとしても、どう生きたかは必ず時が証明するということかもしれません。

丁寧に実践し、生き方と働き方を磨いていきたいと思います。

思いやりの実践

人は思いやりがあるかないかで、信頼関係が変わってきます。もちろん、仕事を含めた結果に対する能力などもありますがそれは機能としての信頼です。実際には、人には心がありますからそこには思いやりが必要です。

例えば、いくら言葉を交わしても対話にならない場合があるとします。これは思いやりが欠如しているからです。思いやりとは、自分の感情を優先して相手の感情や状況などを尊重しないときには出てこないものです。

人間は自己保身といって、自分を守ろうとすればするほどに相手を思いやりません。そして信頼関係が構築できないほど自信も失われます。そもそも自信というのは、自分に対する信頼のことです。自分に対する信頼関係が築ける人は、他者との信頼関係も築くことができるです。つまり自己と他者の信頼はイコールであるといえます。そして自信をつけるというのは自他との信頼関係を築く実践があるということです。その実践は思いやりの実践のことです。

「思いやり」という言葉を辞書を引くと「他人の気持ちや状況を察知して配慮すること」と書かれています。自分の感情をぶつけて関係を破壊する前に、相手の立場や状況、そして客観的な事実などをよく観察して、慮り相手を心配をするということです。いつも配慮して敬意をもつ態度で人と接する人は、信頼関係を誰とでも築けます。信頼関係は、この逆をすることで簡単に崩れます。

実際には、私も忙しい時や体調がよくないとき、余裕がない時はどうしても思いやりが持てなくなります。そういう時は休むことが一番ですが、たまたま忙しさが重なり休みが取れないほどになると周りへの配慮が失われていくものです。そういう状態の時に、人間関係のトラブルなどがあれば相当な打撃を被ります。思いやりというのは、苦しい時にかけてもらえると救われますが苦しい時に心無い攻撃を受けると精神が病んでしまいます。

現在、テレビや新聞、週刊誌などでこれでもかと叩かれている人をみますがあれに思いやりを感じることはありません。精神が病むまで追い込み、追い込まれない人を鋼のメンタルなどと書いてはこき下ろします。

思いやりのない社會をつくろうとすれば、このように心無い言葉を浴びせていけばいいのです。これでもかこれでもかと、思いやりのない攻撃を続けていった先にあるのは信頼関係の破壊です。それは自信を奪い、自己への信頼も歪みます。親しき中にも礼儀ありというのは、どんな人であっても思いやりを忘れないでいるための格言ということでしょう。

そしてどんな時でも思いやりを忘れないような自分でいるために深呼吸をする実践が必要になるように思います。現在、法螺貝を吹いていますが法螺貝は深呼吸にとてもよい効果があります。自分の感情がどうであっても、深呼吸をするように音を出せばその音は変わらずいつもの不動の音です。

不動の音は、相手が誰であっても思いやりを持つということ。自分の思い通りにいかなくても、自分の都合よく事が進まなくても思いやりだけを忘れないという実践が社會を目覚めさせることにも結ばれるように思います。思いやりは相手からもらおうとするものではなく、自分が先にもつものです。

信頼関係があると、疲れませんし元氣もでて勇氣も増え、自信に満ちて居心地がよくなります。思いやりは相手の問題ではありませんから、思いやりを実践して日々に調えていきたいと思います。

 

炭竈

現在、浮羽の甦生中の古民家で新しい炭竈をつくりこんでいます。竈の土は、有機無農薬の主人の田んぼのものを使います。この炭の竈は私が炭を中心に使うことで愛用しているものです。聴福庵も同じ炭竈です。炭竈のよさは、煙が少ないこと火力が優しいこと、また片付けがしやすく再利用もでき、灰もまた美しい灰がとれます。また長い時間をかけて行う料理にも向いていて、薪よりも火力の調整や管理がしやすく見た目にも火がゆらゆらを柔らかい明かりを放ち癒されます。

竈には三宝荒神さまをお祀りしています。この三宝荒神さまとは火と竈の神であり、神棚は家の中で最も清浄な場所である台所に祀る神様です。一説によれば、日本では聖徳太子の神格化した化身ともされ七条憲法の「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧これなり」に基づいたもの。仏法僧の三宝を守護されている神さまであるといいます。

もう一つの由来の説は役行者が金剛山で祈祷していた時に艮の方角に赤い雲がたなびいて荒神が現れたのでその場所に荒神を祀ったという伝承です。修験道や神仏習合の神様でもあり、不浄を嫌います。

台所というのは、いつも綺麗にしている方が清々しいものです。水場や火を扱うところは、気持ちが荒めばそこからよくないことがたくさん発生します。これは井戸でも同じですし、トイレなどでも同じです。不浄になりやすいからこそ、そこをいつも綺麗に美しく浄化していく。

私は炭を使いますが、炭は澄であり浄化の徳を具えた素晴らしい存在です。その炭を用い、場には水晶をいれますが相乗効果で浄化されます。今のガスや電気の便利な時代でも、炭竈を超えるものはありません。

それだけお水もまろやかになり、すべての素材の味を引き出します。

時代が変わっても、本質や普遍を求める求道者たちのパートナーは先人の智慧です。心から感謝して、新たな竈の息吹を見守りたいと思います。

徳の場

場の力というものがあります。これは場が力があれば何でも好循環する力のことです。それを私は徳の場とも呼びます。私が取り組む実践はすべてこの徳の場を顕現させるものです。場の道場では、この徳の場についてを学びます。具体的には、何が徳積循環になるのかを学びます。徳積だけではなく循環という側面から場を學ぶのです。

これは田んぼと稲の関係、家と暮らしの関係、腸と微生物の関係などにも一致するものです。徳積循環していくと場が生まれ、その場には偉大な力を発揮するものです。太古のむかし、親祖より今に至るまで私たちは場の中に存在しています。その場をどう居心地がよいものにしていくか、それを突き詰めていく中に真の調和や平和があるものです。

私は徳の場というものを体験していただくために場の道場を運営しています。場の道場の中では、暮らしフルネスという実践を通して具体的に如何に場に自己を投影してその場を磨いていけばいいかを実習します。

場ができることで、その場から世界がよりよくなります。私は真の人間性は自然の道、かんながらの道の中にあると信じていますから場こそすべての根源です。

言葉で説明すると場はなんとなく理解できますが、実際には場は来なければわかりません。場で感じてもらうというのが私の方針ですから、場ではないところで文章にして言葉にして語ってもそれを理解してもそれを実体験できるわけではありません。

なので、徳の場で行われていることを通してそれを味わっていただくことで何かを感得していただくのです。これは料理に似ています。磨き上げられた器に、丹精を籠めて見守った自然農の新鮮な野菜を一つ載せ丁寧に食べていただくような純粋な営みです。私の特徴はそれを炭火を用いることです。

私にとって炭こそが場の最高の触媒となります。

徳の場に興味のある方は、場を体験してみてください。ご縁のある方、一期一会の使命と志をお持ちの方をお待ちしています。

法螺貝の甦生

現在、英彦山で法螺貝を甦生していますがせっかくなので甦生の特徴というものを整理してみたいと思います。

まずはじめに、法螺貝を持つためには法螺貝とのご縁が必要です。基本的には、法螺貝の甦生はすでに法螺貝をお持ちのご紹介者を通してか直接、英彦山に来てお話をさせていただく方しか受け付けていません。その理由も、顔や波動を観てご縁を確認してから理想の法螺貝を探していくからです。またすでに何らかの理由で法螺貝とのご縁がありお持ち込みの方も受け付けています。ただし、他の方が手掛けたものは甦生できないものもありお断りすることもあります。

流れは下記のようになります。

① 霊峰英彦山の守静坊にて吉日を選び法螺貝を安置し地下から湧くお水で清め光を当てて龍音によりご祈祷をする。

② 丁寧に洗い法螺貝の先端を切断し削りその貝の個性を見定めて螺旋の息が通るように調整する。

③ 手作りの唄口を天然の地下水と麻炭を使い石膏でつくりこむ。

④ 唄口を法螺貝に取り付け調律をし、その法螺貝の唯一無二の音を確認したらそれを立てて天地に調和する。

⑤ 完成のご祈祷をし、木の中に安置する。サイズや重さ、証明書と手引書を用意する。

⑥ 英彦山の守静坊にて法螺貝を磨きお手入れをし息を吹き入れ音と和す儀式をする。

⑦ 希望者には法螺貝の網袋の講習を実施し、英彦山遊行や法螺貝講習、仙螺講への登録をご案内する。

⑧ 定期的にメンテナンスをして、法螺貝の成熟を見守る。

ここまでで法螺貝を甦生したことになります。

この法螺貝の甦生とは単に音がなる楽器をつくったのではなく法螺貝が新たないのちを得て独立自尊し、一期一会の主人と調和し結ばれ、日々の暮らしを通して寿命をのばし幸運をもたらす存在になることを言います。ただのモノではなく、新たないのちの法具として人の一生を円満に見守る存在になります。

また時には修繕や供養も行います。修繕は、お手入れをして法螺貝の成熟に合わせて調えていくこと。供養は長く大切にしてきた存在の魂を慰め労い癒すこと。法螺貝の甦生とは別に、手掛けた法螺貝のお手入れや追善をします。

講習会では、お手入れの仕方をはじめ法螺貝の吹き方、法螺道の実践事例などもご案内します。時にはお山に一緒に入り、三省をし六根清浄をしながら法螺貝を立てます。また時には、法螺貝の網袋づくりを通して瞑想や見守り、寄り添いなどの心の在り方を学び合います。宇佐の大仙龍(大先達)の立螺師にも定期的に来ていただき、法螺貝の具体的な指導や講習会もあります。

お支払いは、法螺貝の仕入れ原価、唄口と石膏、加工の原価をいただきます。それ以外は、徳積循環のご喜捨とお布施を「徳積帳」というブロックチェーンを使って開発したシステムにて奉納いただきます。

納期は約1か月ほどいただいていますが、吉日次第では納期がかなり延びる可能性もあります。大量生産はできませんので、丁寧に一つひとつ甦生していきます。

現在も、制作中ですが一生の御守りや魔除けになり音がその人の波動を磨き、唯一無二の光の存在になっていくように手掛けていきます。

最後に最も大きな特徴は「調和」を何よりも優先して法螺貝を甦生しているということです。私が手掛けるものは調和の法螺貝です。それをご理解いただく方のみ、ご連絡をいただきたいと思います。