智慧の伝承

昨日はメビウスガーデン(無双庭園)づくりを引き続き行いました。天気は曇りでとても涼しい風が吹き、御蔭で作業がとても捗りました。

大量の土を運び、またそこに瓦をはめ込み、また土を掘るの繰り返しで非常に体力を消耗する作業です。しかし、着実に形になっていく姿に遣り甲斐と一体感を味わえます。

先人たちは、みんなこの一つの作業を通してものづくりをすることで信頼や絆、そして智慧の伝承や生きがいや遣り甲斐を感じていたはずです。建造物が人間の手間暇と真心で創造されることはとても尊いことで、その建造物を子孫たちが見つめてみると心打つものがあるのはそこに確かな意味を感じることができるからかもしれません。

現代は、機械や道具であっという間にできてしまいますが今回のメビウスガーデン(無双庭園)は土や粘土、石などでつくる造形物をほとんど手で最初から最後まで手掛けていきます。

まるで土遊びをするかのように、何度も何度も造っては壊し、修正し、また創るという作業の繰り返しですがどこかそこに喜びと仕合せがあります。左官職人さんたちが、自らの手で仕上げていく喜びを感じているように私もまた自らの手で造形物を仕上げていく仕合せを味わっています。

便利に何でも簡単に仕上げられることを良しとする世の中で、不便で時間がかかり難しいことに取り組むことは意味がわからないといわれます。しかし、この意味がわからないのではなく意味が分からなくなったというのが本当のところでしょう。

意味とは、先人たちの生き方に具体的に同じように一緒に取り組んでみたときその深い意味が伝わってくるのです。伊勢神宮の式年遷宮のように、解体し、組み立てる作業を通して信仰が伝わるように、私たちの先人が遺した暮らしの智慧もまた甦生させていくことによって伝わっていくのです。

この智慧の伝承という役目は、人類にとって実はもっとも意味がある行為です。なんでも科学の発展だけが意味があるように語られますが、そんなものは長続きもせずすぐに陳腐化していきます。しかしこの智慧の伝承は、何千年も何万年も恒久的に必要になるのです。

智慧が伝承するということは、その智慧をものにしてそれぞれの時代で適応し応用する元を学ぶことになります。時代が変わって、新しくなっていくなかで智慧があるかないかではその活用においての基本がわからなくなります。基本があって応用がはじめてできるのですから、まずはその基本中の基本である智慧の伝承が先であるのです。

教育が机上のものになり、智慧が目に見えない機会の中で行われているうちにものづくりする人たちの精神や心魂、技術の中に伝承が消えていきました。智慧が消えれば、そのうち知識だけになり本体の価値や意味が消失します。まさに意味不明になっていきます。

そうならないように、今を生きる人たちはたとえ無駄で無意味といわれても智慧の伝承に取り組む必要があります。そういう職人さんたちが文化人たちが減っていくことは残念ですが、まだまだ心ある人たちによってたとえ少数でも引継ぎは行われています。

私も智慧を伝承するものの一人として、誇りをもって子どもたちのために取り組んでたいと思います。

浄化する農法

昨日は、自然農の田んぼに田植えを行いました。取り組みから10年目に入りますが、年々収量を減らしていきます。本来は、収量を上げていくのが当たり前でしょうが敢えて収量を減らすことを実験しています。

実は、むかしの田んぼと名付けた千葉の神崎の田んぼもまた収量を減らしています。現代は、大量生産大量消費の時代ですから逆行するようなことをすると変人奇人だといわれますが、本来は分相応の量に調整して生きるのが人類の智慧であるのです。

現在は、先人からいただいた智慧を蔑ろにし、便利に量産しますが果たしてこれが本当に自然の理に適っているかを考えている人は少ないように思います。自分の利益ばかりをみんなが追いかければ、その利益競争の結果として全体が貧しくなることもあるのです。

田んぼであれば、生態系が減少し、多様性も失われ、そこにある自然の循環を歪めて生命の楽園が非常に貧しい場所に換わっていきます。そもそも田んぼの一部を私たちも他の生命と共にお借りしているという意識と、この田んぼは人間様のものでよそ者は一切入ってはならないという意識では田んぼ自体の持つ定義も個性も異なっていきます。

私が一緒に取り組んでいる伝統農家さんの田んぼはみんな生態系が豊かであり、生き物たちの楽園で生命が溢れんばかりに漲り、その中で稲がイキイキと育ちます。当然、農薬も肥料も追加せず、自然に任せて自然が喜ぶような農法を行います。

そのためには、人間が取り過ぎないことが重要なのです。アイヌ民族では、自然の利子分だけをいただくという謙虚な言葉があります。あくまで自然のために尽くし、その結果として得られた多少の利子分だけで生活を営むということです。

質素倹約に努めて、自然の掟を守れば、その利子だけで十分一族を養っていくことができます。現代社会においては、みんなが売り上げ競争をし利益の確保ばかりに躍起になりますから利子ではなく、借金でみんな一族を養おうとします。

その借金は利子ではないから、子孫へのツケになります。このツケは、次第に大きくなり返せないほどになってしまいます。田んぼであれば、田んぼの土が枯れてしまい肥料の肥毒や農薬の薬害によって作物が育たない場所になってしまうのです。

だからこそ、私たちは敢えて自然が喜ぶように収量を減らすこと、そしてその分、その田んぼの生き物たちが安心して謳歌して暮らしを楽しめるような場を確保することが重要なのです。

自然農の田んぼは、この時期は沢蟹やエビ、オタマジャクシにカニワナ、蛇や蜘蛛などの子どもがたくさん生まれています。田んぼで田植えをすれば、小さな生き物たちが溢れ、まるで一つの保育園のようです。

その保育園で環境を用意して見守る私は、まさに保育者ということでしょう。私が保育する環境は、適度な距離感によって和を与え、枯草を集めて稲に布団をかけて安心させます。多様な生き物社会の中で、みんなと共生し貢献し合って生きていけるように配慮します。

これだけを守れば、今年もまた立派なお米になってくれるでしょう。当然、このあとは雑草が生えて多少の草刈りや、スズメが来る時期は紐で防いだり、見守りと手入れは必要ですが田んぼの清々しさは御蔭様で年々増すばかりです。

私の実践する農法は、きっと自然が喜び運の善くなる浄化する農法です。浄化とは、いのちを尊重し合うことで透明で純粋な光のような存在に近づけその中でいのちたちがそのままあるがままをオープンに見せながら生き活かしあう場を育てることです。

これから1000年を見据えた教育は、むかしの田んぼの智慧から学ぶべきではないかと私は思います。この智慧を、具現化して実際の保育現場に届けていきたいと思います。

メビウスガーデン(無双庭園)

聴福庵の裏の庭にパーマカルチャーのスパイラルガーデンを私たちなりに解釈して温故知新したメビウスガーデン(無双庭園)を造りこんでいます。今まで自然農や古民家甦生、発酵保存食や見守る保育等々、私たちが学んできたことをさらに混ぜ合わせて昇華させた具体的に「場」には意味があります。

この「場」の体験こそが、新しい経済や新しい生き方、本来の永続的な暮らしを現代でも理解してもらうためにも効果があるように思うのです。

そもそもこの100年で私たちは今までの暮らしをすべて刷新するがごとくに便利で科学的な文明の価値観の中での暮らしに転換してきました。現在の持続可能なエネルギーの中には、原子力発電などもはいっており、こんなものがかつての人類のエネルギーとしては利用されることはなかったのです。

自然界にあるエネルギーを自然のままに活用するのではなく、人間がそれを科学的に加工して急速に使い込む形で科学を発展させさらにスピードを増して増幅させていきました。

この増幅という概念は、ゴミが出ても増やすという大量生産大量消費により競争力を高めていち早く先んじて地球規模で自分たちの優位性を確保しようとする人類の欲望を駆り立ててきたものです。

しかしこの現代の暮らし風のものは、あまりにも理に適っておらずこのままでは資源を使い盡し、生き物たちは絶滅し、人類の社会も歪みや格差が広がり続け、森林も消失し、空気や水が汚染され人体にも害がある循環が増し浄化が追い付かず地球規模で古からの持続可能な暮らしが失われていくのは自明の理です。

この現代の暮らし風の逆である本物の暮らしをしようものなら、今では変人扱いか宗教家、もしくは奇人などと周囲から呼ばれるほどです。私の取り組んでいることも、先進技術を取り入れていてもやっていることは古からの伝統的な暮らしを現代ならこうやればいいと示しているだけであり、それによって現代の価値観に一石を投じて未来の子どもたちのロールモデルの一つにしていこうとしているだけです。

実際に現代の世の中の逆を走っていくというのは、周囲には無意味であり不可思議に感じるものかもしれません。それはとても現代の価値観の中での生活ではリスクを取る事であり、意味不明でもあるからです。何も好き好んで周囲の批判や否定に晒されたいわけではありません。

子ども第一義の理念や初心から、何を今、なすことがもっとも意味があるのかを自分なりに考え抜いてそれを一つ一つ行動に移していくのです。その実践が、長い時間をかけて理想を具現化し、可視化されたものが多くの人々の心を揺り動かす切っ掛けにもなっていきます。

メビウスガーデンは、小さな庭園の中で無限で無双の場を可視化する一つの手段であり私たちの実験場でもあります。古からの自然との共生の暮らしを通して、如何に自分の分度を定め、自律し協力し合い、譲り、自然を喜ばせるか。

運の善い暮らしができることが、新しい時代の一つの尺度になっていくと私は信じています。運の善いとは、自然に従い自然に沿って、自然を喜ばせるような生き方をするということです。

引き続き、自粛中の世の中で場を活用したこのメビウスガーデン(無双庭園)と共に暮らしを楽しみたいと思います。

 

人類の反省と生長

私たち人類は、長い間何を食べてここまでいのちを永らえてきたか。過去には、様々な飢饉や飢餓を体験してきた人類は食糧難の大変さを身に沁みて味わってきた民族でもあります。

しかし現代は、食料過多で大量の食糧を日々に廃棄しています。特に日本は世界で6番目の一人当たりの食品廃棄物を出している国家でアジアではトップです。まだ食べられる食材を年間約621万トン捨てているということになります。

約621万トンの内訳は、スーパーや飲食店などの事業系が約339万トン、家庭系が約282万トンとです。世界では飢餓で苦しんでいる人たちがいて、その食料援助量は約320万トンといわれます。その倍を捨てているのだから、信じられない数字です。

かつての日本は、質素倹約し、捨てるものが一切ないほどの循環型社会を江戸時代に築いていました。100年ちょっとの間に、こんなにも循環しない消費のみの社會を築き上げ、捨てるものばかりの国家になったのは驚くばかりです。

徳を積む国家から、徳を減らす国家になり、先人たちが積み重ねてきた大切な実践を手放し、アジアのどの国よりも廃棄するようになったのを知って先祖は今、どのような気持ちだろうかと考えてしまいます。

特に日本で廃棄される理由は、賞味期限の短さだといわれます。まだ食べられるようなものも、現在は食材を確認するのではなく消費期限や賞味期限だけをみて判断するようになっています。冷蔵庫や保存がきくにも関わらず、なんでも期限が切れたら捨てていきます。これは食品業界が、この数十年のうちにその体制を築き上げていったとも言えます。

見た目ばかりの食品をつくるのは、たくさん買ってもらうためです。見た目を意識するばかり、肝心な食というものの本質が崩れていきました。食はいのちそのものであるというよりも、見た目の美味しさの方が価値があるようになっていきました。

現在、コロナで飲食業は大変な思いをしていて友人の経営者たちも苦労していますが敢えてここで本来の食とは何だったのかを立ち止まって見つめ直す機会かもしれません。

最近は、行き過ぎた乱獲で魚はいなくなり、田畑は農薬と肥料で疲弊し、自然の生き物たちは猛スピードで食物連鎖が崩れ絶滅し始めています。いつまでもこんな消費することしか考えない世の中を続けるのか、今のままで本当にこの先、子孫たちはやっていけるのか。もう答えが出ているのだから、改めるチャンスかもしれないのです。

今回のコロナで、また人類は地球から機会を得ました。人類は何回も何回も好き勝手てきたのにも関わらず、自然に許されここまで生き延びてきました。自然に許されるたびに、私たちは災害や困難と向き合いそれを乗り越える過程で、謙虚にあり方を見つめて、素直に反省して改善を続けていきました。

また機会をいただいた以上、思い切って一人一人が生き方を換えて変革し世界を以前よりももっと素晴らしいものに換えていけばいいのです。機会によって自らを見つめ、その機械によって自らを変える、この繰り返しこそが伝統文化の継承であり、文明の温故知新、進化成長なのです。

子どもたちが喜んでくれるような決断を続けていきたいと思います。

信用第一(信徳目)

BAにある水風呂に甦生させた鉄の羽釜は、「稲むらの火」で有名なヤマサ醤油でかつて醤油をつくるために用いられていたものです。このヤマサ醤油は、1645年から続いている老舗で業界第2位のシェアを誇ります。ホームページを拝見しても非常に徳の高い経営をされており、変化を恐れずに果敢に温故知新しているのがわかります。

そもそも老舗というのは、時代の篩にかけられても生き残っている企業ということです。それはどの時代にも必要であったということの証明でもあります。その企業の暖簾を守り続けてきた結果として老舗という称号を与えられます。

この老舗とは何か、私は「信用」であるように思います。

信用とは、確かなものであり、正直・誠実さの顕れでもあります。そこに頼めば間違いがないと、時代を超えて信頼されている徳のことです。

大切な理念や家訓、文化をそれぞれの時代の人たちが真摯に守るために挑戦を惜しまずに実績を積み重ねてきて生き残ってきた「信用」が商売になっているのです。

確かにその時代時代の流行があり、その時々ではあらゆる競合他社が産まれ時には倒産の憂き目にあうようなこともあると思います。しかし流行は過ぎてしまえば、風邪などのように元通りに落ち着きます。その時、人々はまた老舗の信用を安心して頼るようになるのです。

つまり老舗は、流行に左右されずに確かな存在として人々の安心基地になってきたということです。どんなに時代がブレても理念や初心はブレないというその生き方。その生き方を守る家人たちの働き方が、100年も500年もまた1000年も続く礎になってきたのです。

例えば、世界最初の畳油醸造の老舗に室次本店があります。その室次醸造の家訓にはこういうものがあります。

「良い醤油を造りたいなら、自分を磨け。 醸造にはごまかしはない。 誠心誠意がなければならない。 その人柄や性格がその味に香り、色に出てくる。」

これが理念になり文化になりそこで働く人たちが何よりも優先してきた生き方がこの醤油のすべてを証明して信用が確立され今に続いているように思います。まさに、良い醤油をつくるということがどいうことなのか。この人間としての「信用」を守り続けてきたからこその今があるのです。

どの時代においても歴史的に観返せば、企業は大きいか小さいかが問題ではなく、「信用」があるかどうかが本来の問題なのです。信用がない会社は長続きせず、信用がある会社だからこそ生き残ることができるのです。

生存戦略としてもっとも大切であり重要なのがこの「信用を守る」という智慧であることは歴史が証明しています。つまりこれは決して企業だけに限らず、人間社會において何よりも最も重要なのがこの「信用第一」ということでしょう。

信用を守るためには、変化を恐れずに果敢に挑戦を続けていく必要があります。そしてもっとも大切なものを守るために、あらゆるものを活かし未来を見据えて行動していく必要があります。

まさに現在は、時代の分水嶺でありそれぞれの企業が大きく試されるときです。私も信用という徳を守るために、日本を代表する先人たちの老舗に生き方を働き方を学びながら実践を積み重ねていきたいと思います。

暮らしのロールモデル

これから自然農園の田畑を、暮らしフルネスの農場として甦生するために昨日は大勢で畑の草刈りを行い、荒地を甦生して耕しました。日差しが強くて、体力をだいぶ消耗しましたがいつものむかしの田んぼでのお昼ご飯のように玄米を竈で炊き、採れたての新玉ネギを使ってハヤシライスをつくりみんなで一緒に食べたら疲れも取れました。これから畝をつくり、マルチをして種蒔きをして収穫まで見守ります。

思い返せば、自然農に取り組んでから随分と長い月日が流れました。肥料も農薬も使わずに耕さずに草も虫も敵にしないという農法でしたが山間の野生化した荒れ地では人力でいくら手入れをしていても害獣たちが波のように押し寄せ、また雑草の生命力が明らかに人工的な野菜を凌駕し、なかなか自然循環の一部として許してもらえるようにはなりませんでした。

しかし、約10年の間、伝統の高菜を育てているうちにその境目というかどこまでが許されてどこまでが許されないかということを学びました。もちろん、農薬や化学肥料は一切用いないのですが今の時代に存在する科学は道具もある一定のものは活用して賢く取り組むのです。

かつては自然農だから一切耕さないと意地をはっていましたが、場所や農地によっては多少の手配は必要です。私の自宅の庭は、完全に自然農の理念で簡単に野菜がつくれます。それは住宅地がある場所であり、自然はやや人間側に傾いているため害獣もおらず、虫も雑草もそんなに強力ではありません。つまり人間が里山のように形成している場での農業のやり方と、完全に人里離れた山林の傍の場での農業のやり方では異なるということです。重複しますがなんでも一律にマニュアル通りにいくようなことは一切なく、その場その場に応じた工夫と改善は必要なのです。

古民家甦生を通して私はその辺の柔軟性を身に着けました。そのものの徳を引き出すことが何よりも優先するものであり、それ以外のものはある程度は裁量に任せて工夫の余地があるのです。

大事なことは、徳を引き出すのであれば道理は叶うということです。

これから野生化の農場をうまく管理して、そこに新たな自然循環の実証実験の場にしていきます。自然に寄り添い、自然を喜ばせるために如何に人間が自然から学び自然に近づき、自然の許容範囲に対して折り合いをつけつつ、全体の徳を引き出していくか。

挑戦ははじまったばかりですが、新しい取り組みにわくわくしてきました。何年たっても青春は失われず、いつまでも情熱は子ども心のままです。こういう時だからこそ、みんなのお役に立てるように暮らしのロールモデルを模索していきたいと思います。

ミルクランドの閉店

長年、私たちの社員の食を支えてくださっていたミルクランドさんが4月末で閉店することになりました。創業者の小寺トキさんと出会ってから十数年間、栃木の青空農園で自給した無農薬の野菜や野草を上手に調理された最幸のものを毎日お昼に食べさせていただきました。

安心安全の食の提供といった、信念に裏打ちされた日本でたった一つの店舗であり、未来の日本の子どもたちにとっても必要な場所でした。急なお知らせに、如何に当たり前ではなかったかを、当たり前などないということも再確認し、どれだけ感謝を伝えていただろうかと複雑な思いにもなりました。

しかし、ここからまた前に進み新しい未来がはじまりますから感謝のままに私たちがその志を継いで安心安全の食の提供を発展させていこうと思っています。

思い出してみると、最初にいただいた青空農園で収穫した菜種から油を搾取しそれで採れたての野菜で揚げてくれた天ぷらの味は今でも感動が甦ます。体調がわるいときでしたが、食べるとすぐに元気になりました。食べることのチカラを感じた瞬間です。

そして出張が続き、食が乱れ体調が崩れたときもまた出張帰りに社内で食べた自然の味が心身を癒してくれました。仲間と穏やかな空気のなかで食べる安全のお弁当は人生の歓びを増やし、安心をさらに増幅してくれました。

また日々にミルクランドのスタッフの方々と、付箋紙を使い様々な対話やメニューの感想、味付けなどのことをやり取りするなかで私たちもまた食を考えるきっかけをいただいていました。お土産を交換したり、近況を報告し合ったり、親戚のような関係に心温まる絆をいただきました。

年末の大掃除のあとの仕事納めでは、店長と一緒に深夜まで会社で飲んで振り返りをしてお互いの頑張りを見守り合いました。お酒を飲むとすぐに寝てしまいましたが、大事な話はちゃんと聞いており笑い、楽しい時間の御蔭で新たな年の励みになりました。

最後は、こだわりの強い人たち同志で人間関係でしょっちゅうぶつかりあっていましたから時には相談にのり、またある時はアドバイスや仲裁に入り、持続し合うために協力して乗り越えてきた思い出が残っています。

愛する場所はなくなりましたが、愛する思い出はいつまでも心に続いています。

この愛する思い出をよりよくしていくのは、この先の新しい思い出をさらに発展させてつないでいくことです。あの出会いがあるから、今の出会いがあります。私たちは出会いを積み重ねていくことによって、過去の出会いの意味を完成させていくのです。

心が続いていくように節目を迎えることは、人生の思い出を手入れする機会でもあります。終わっても終わらない関係が、未来を創ります。子どもたちの未来のために、私がその志を受け継ぎたいと思います。

得意分野

人間にはそれぞれに得意分野というものがあります。それはその人が興味関心があるものであり、それをやることが楽しいと思っているものです。それは上手い下手があったとしても、それ以上に本人が喜び、周囲を喜ばせるものです。

自分が興味関心があるものを究めていくなかで、周囲が喜んでもらえること。それが得意分野というものです。人は得意分野を伸ばしていくことで、周りが喜んでいけば次第にそれが仕事になっていきます。

私もコンサルタントという仕事をするようになるまでに、大変多くのことを取り組み究めようと努力してきました。様々な分野を自分の興味関心によって磨いていくと、それを使いたい人、それを用いたい人が現われ仕事として依頼されます。

いつものように楽しく興味関心をもってそれをやっていたら、相手がとても喜んでくれて友人たちに自慢しまた紹介してくれます。つまり、人はみんな自分の興味関心に素直になっていればどんな仕事であってもそれはみんなが喜ぶものにしていくことができるのです。

しかし、仕事が単なるやらなければならない窮屈なものにして興味関心と分けてしまうとどうなるでしょうか。当然、自分も楽しくないし、周囲も喜ぶことがありません。自分のやっていることに情熱を傾けられる人の周りにはいつも人が集まってきます。

その人は、自分が好きなことに没頭する時間が長く、そのことによって周囲の人もその得意を活かそうとお願いしてきます。そうやって取り組んでいるとさらにまたその得意が伸ばされ、気が付くと前人未踏といわれるようになるのです。

私はどんなことをやるのも、これもきっと大切な学びを体験させていただけるはずだといつもの通りに深めて意味を学びます。そうしていると不思議なことに、そこから意味が繋がりまた得意なことになってしまいます。得意になっているから、いちいち意味づけができて深く伝えることができるようになるのです。

改めて考えてみると、得意という字は、意を得ているとも書きます。その意味を得て取り組んでいるということでもあるように思います。その逆は、意を失うという言葉です。

どのような物事にも大切な意味があります。その意味を紡ぐように働く人は、自分の興味関心を手放すようなことはしないように思います。自分から単なる業務にしたり、仕方ないからやっていたり、やらなければならないからと言い聞かせたりするのは、失意と同じです。得意になることはないのです。

好きこそものの上手なれという諺がありますが、自分が興味関心があることの中で日々の出来事の意味をつなげていく、つまりはご縁を喜ばせるような生き方こそが、その人の持ち味を発揮させ、全体をよりよく活かす力になっていくのでしょう。

働き方改革とは、まず生き方の改革であり、意識の改革です。自分の意識がどうなっているのか、常に自分を楽しませながら新しいことに挑戦していきたいと思います。

徳積の生き方

先日、ダスキンの社長を務めた駒井茂春さんの言葉を知る機会がありました。その中の「損の道」の話は、私の徳積財団の思想と非常に近いものを感じて新しい時代を感じました。本当の意味で、この損の道を理解している人はどらくらいいるのでしょうか。今は、得が全体を覆ってしまっていますから余計にこの損の本質を理解することが難しくなっているように思います。

改めて、駒井茂春さんのこの「損の道」の言葉から深めるきっかけになればと思います。

「世の中には損の道と得の道があるのですが、得の道を行こうと思ったら満員電車です。損の道を行ったら、ガラ空きなのです。損の道とは、自己を大いなるものに没入させながら損得勘定にとらわれず、他人のために努力する。そういう生き方です。」

真心の生き方は、まさに正直であり誠実です。その道はガラ空きですから周りに人はいませんがすれ違う時に深く心に残ります。まさに損得勘定ではなく、天を相手にした生き方がここから感じられます。

「人生というものは、『出しただけしか入ってこない』というのが私の結論です。何を出すのでしょうか。それは、モノを出すこともあるでしょう、お金を出すこともあるでしょう、知恵を出すこともあるでしょう、汗を出すこともあるでしょう。何でもいい、人さまのお役に立つために一生懸命に出したら、その出しただけのものは、ちゃんと神さまから入れていただけるということです。」

出し切るというのは、全身全霊で丹誠を籠めて取り組むということです。その時、無私は利他になり万物一体善、自他一体の境地に入ります。まさに自然体そのものでお役に立てるように私も思います。

「野越え、山越え、歩いただけが人生です。人生ははるかな旅路と言われますが、
どこへ行ったかということより、どんな旅行をしたかということが大切です。ゴールよりも、野越え、山越え歩んでゆく一日一日のプロセスこそ人生の旅です。今日こそは、新しく生まれ変わるチャンス。悔いのない一駒一駒を、大切に真剣に歩んでゆきたいものです。」

まさに生き方のことで、一期一会にご縁を活かしたか。そしてそれを内省し、自分が体験したことを真摯に深くじっくりと味わったか。人生の充実はまさにこの日々のいのちの使い方が決めているように思います。

最後に、父からかつて紹介していただいた駒井茂春さんのメッセージ「自分から」を紹介して終わります。

「あなたから先に話しかけましょう。あなたの方からにこやかに笑いましょう。あなたの方からいさぎよく赦しましょう。あなたの方から勇気をもって詫びましょう。

『自分が変われば相手が変わる』

あなたが相手にこうしてほしいと思うことをまずあなたが実行することで世の中きっと楽しくなると思うのです。」

徳積とは、この磨き続ける生き方のことです。1000年後の未来に向けて、この今を大切に過ごしていきたいと思います。

自然のリズム~時間を味わう~

今回の新型コロナウイルスの終息後の新しい戦略をどのようにするかを、改めて今を見直しそれぞれのリーダーたちが見つめています。そもそも理念があり、ブレずに取り組んできている方々は、今回の機会を好機と捉え時代に合わせて自分たちの大切なものを守るために変化成長の大切な時を過ごしていると思います。

私たちもまた、今までやりたかったことをさらに発展させ新しい事業と取り組みの準備をはじめています。

特に昨年スタートした「暮らしフルネス」は、私たちの今まで保育で学んできたことの集大成を整理したものです。

子どもたちは、生まれながらに社會を創ろうをしていきます。赤ちゃんで産まれてからすぐに周囲の家族とコミュニティを形成し、その後は集団の中で友達をつくり自立した環境を創造していきます。

安心安全な環境があれば、自由に伸び伸びと子どもたちは自分たちのやりたいことを仲間と一緒に実現していくための社會を学び創造します。その環境の中には、生活のリズムがあり彼らにしか捉えていない時間軸があり、まさに時を味わい時と共に歩みます。これは自然界のリズムと同じく、私たちの生命は自ずから自立と協力に向かって成長しようとしていきます。

それが歳を重ねて様々な教育を施され知識が増えて現代社会の影響を受けるうちに大人になり時間管理をするようになり、次第に時間を味わうことが少なくなり忙殺されていくようになります。自然のリズムよりも人間の管理するリズムになっていくことで、心がうまく調律することができません。

本来、暮らしというものは自然の中に存在するものです。それを充分に味わうことは、暮らしを楽しむことです。時間というものの認識がズレてしまれば、自ずから暮らしは遠ざかっていくものです。

改めて、私たちは立ち止まった時、そこに別の時間が流れていることに気づくはずです。それが自然のリズムであり、そのリズムに沿って時間を大切に過ごしていく仕組みを私たちは暮らしフルネスの智慧として取り込みました。

これは私が保育で学んだこと、古民家で学んだこそ、自然農で学んだこと、伝統保存食で学んだこと、伝統工芸で学んだこと、そしてブロックチェーンで学んだこと、それらの徳がすべて凝縮されたものです。

時代は私の思っていなかった方向に進み、まだまだ大きなお役目をいただけそうな予感がしています。丁寧に、初心を忘れずに取り組んでいこうと思います。