伝統を継ぐ

琥珀色というものがあります。これは飴色に輝いている透明感のあるものですが、長い時間の経過が色に入っているものです。私はこの琥珀色のものがとても好きで、飴色のものをみるとすぐにうっとりしてしまいます。

経年変化というものは、長い時間をかけてじっくりとゆっくりと積み重ねられてきたものです。この積み重ねというものが時間をかけて色合いを彩りその歴史を語るからです。

私は歴史を感じるときに心がとけます。

歴史とは、文化でもあり、心の在り処でもあります。私たちは日々に追われるように生きていますが、このいのちもまた先人たちがここまで紡いできたいのちです。いくら新しいように感じていても、魂は古く、琥珀色をしています。

そして初心や目的を忘れずに文化を伝承してきた姿から琥珀色や飴色の透明感を感じます。この琥珀色や飴色は、時には青いものもあれば、白いもの、黒いものあれば、赤いものもあります。しかしその色から放たれるものはすべて琥珀色や飴色を醸しているのです。

時を感じる力というのは、この積み重ねられてきた「徳」を感じる力です。

徳を引き出すということは、積み重ねてきた今を顕現させるということに似ています。それは自分も先人たちと同様に積み重ねる実践を行うときに顕現します。伝統を継ぐということは、徳を引き出すということでしょう。

徳を引き出し、子どもたちに伝承していきたいと思います。

大切な智慧

人は目的に合わせて場を創造していくものです。何のためにという目的があって、その場所にはそこに関わる人たちの「思い」が空間の中に蓄積していくからです。その思いが場となり、その場は力をもって多くの人たちを引き寄せていきます。

場力というのは、目には観えませんが確かに存在していてその場の力が働くことで私たちは様々な助力をいただくことができます。

例えば、私の自然農の畑では自然との共生というテーマがあって高菜を植え育てています。ありとあらゆる動物や虫たちが自由に謳歌し、野生のままですがそこで農作業をしていると不思議とストレスなどが消えていきます。

少し横になり、天を仰いでじっと落ち着いているといのちの存在を身近に感じ、小さな虫たちの活動を眺めては自分もその自然の一部であることを認識し心穏やかです。

日ごとは都会のど真ん中で人工物と人工的な目的の影響を受けて働いていますが、都会ではどうしても経済活動の場として用意されていますから何をやっていてもその力の影響を受けていきます。

このように場というものは、目的に合わせてその環境を構成しますから私たちは目的と場というものをよく考えて創造していく必要があるのです。私は世間でいう、自然と共生しようともしないことを暮らしといっても人間中心の世界で人間相手だけに物販をしている人たちを暮らしているとは思っていません。

暮らしとは、自然の循環の中に入って共に生きていくことが前提ですから先人たちのように自然を相手にしながら自然と共にお互いを活かしあう活動をしていくことをいうのです。

暮らしの定義も、和風と同じように暮らし風になってきていますから本物の暮らしを伝承していくことも智慧が必要です。

暮らしフルネスは、基本は原点や原型を重んじます。原始の魂を真摯に受け継ぎ、温故知新して甦生させ、現代でも自然との調和をはかります。新しいサウナがいよいよ着工しますが私の「水」の智慧の集大成として取り組んでいきたいと思います。

子どもたちに、その大切な智慧を伝承していきたいと思います。

菜の花の力

この時期の室礼で用いるお花はほとんどが菜の花になります。菜の花といっても、茎の大きいものは菜の花ですが細いものはからし菜になります。私は高菜も大根も育てていますから、菜の花といってもその形状も異なりますし色合いも異なります。

菜の花はアブラナ科のアブラナ属になりますが種類は豊富で、一般的に知っている野菜だけでもキャベツ、芽キャベツ、ダイコン、小松菜、ブロッコリー、白菜(ハクサイ)、チンゲンサイ、カリフラワー、ケール、カラシナ、カブなどがあると思います。これらの花はすべて菜の花と呼んでいます。

またこのアブラナ科の油も、菜の花の種から油がとれるということもあります。油が今のように当たり前になかった時代、この菜の花から抽出できる油は大変重宝されました。

江戸時代の行燈はこの菜種油を使っていたといいますから本当に貴重な油だったのでしょう。二宮尊徳が、幼少期に菜種を荒れ地に蒔いてそれを収穫して夜学の油にしたことは有名です。私たちは今は菜の花をみて油を取ろうとはなかなか思わないと思いますが、本来はどの植物や野菜も食べるだけでなく見立て次第で様々な活用をすることができます。

私は先祖に菅原道真公がいますから命日の頃は梅と一緒にこの菜の花を祀ります。これは東京の亀戸天神でも行われていますが、なたねがなだめにもなるといい供養花として活用しています。同時に、梅の清々しさと合わせて菜の花の明るさと希望が満ちている姿が天神様を彷彿させるからです。

明るく清々しい姿はまさに子どもの元氣そのもので、春爛漫の希望に溢れています。季節季節にその時機にもっとも相応しい花が咲きますが、私たちはその時機に相応しいことを直観しているものです。

これは長い年月をかけて、その季節の感性や感情を自然と共に私たちも影響をいただいているということです。まもなく桜が開花しますが、まさに山から田へと風が吹いてきて夏に向けて勢いづいていきます。

長い冬が過ぎて春の滋味が心身に沁みわたります。新しい季節を新しい取り組みを味わいながら進めていきたいと思います。

初心のまま

人は生き方を優先すればするほどに正直になっていくものです。自分の本心を偽らず、自分の本当の姿を大切にしながら生き方を手入れすればするほどに素直は磨かれていきます。その素直を磨けば磨くほど、今度は正直になっていきます。無理に周囲に合わせたり、周りを意識することなく、本当の自分の心のままで他人にも自分も接することができるからです。

正直者というのは、自分に対してどう接するか。自分の本心を偽らずにどのように思いやりを持って生きるかということとつながっているようにも思います。

子どもの頃、正直さというのは何よりも安心感がありました。自分のまま自分とつながっていることで自己の調和を味わい仕合せを感じるものです。それが、外発的な力によって次第に正直ではなくなっていき自分を見失ってくると自己肯定感も下がっていくものです。

今を生きる上で課題になるのは、教えられないことの中で本当の自分というものの存在に気づけるかということ。そしてその本当の自分と一体になっていくということ。つまりは自立をする過程において、どのようなプロセスを通ってそれを実現するかということが大切であるように思います。

自分に正直な人は、他人も正直になります。自分に素直な人は、他人にも素直になります。正直さや素直さのもっとも大きな効果は、自分の観念や価値観、その世界が素直さや正直で溢れることでしょう。

それが生き方として出てくれば、その分その生き方を通して周囲にその正直さや素直さの美しさや価値を弘めていけるようにも思います。子どもたちの姿を観ていたら、自分のやりたいことに正直で、自然体で素直そのものです。赤ちゃんをはじめ、初心ないのちはみんな初心のままです。

初心を大切にするという生き方が、子ども心を守っていくように思います。

引き続き、人類の未来に向けて生き方を磨いていきたいと思います。

活かそうとする心掛け~生活習慣~

日々に色々な出来事が起きますが、それをどのように活かすかはその人の力量が試されるように思います。ある人はそれをちょうどいいと丸ごと活かそうとし、またある人は厄介だなと対策ばかりを立てようとします。

事物には、活かすと活かさないという考え方があります。せっかくだからと活かそうとする人たちは新しい偶発的な出会いに導かれ未知の領域を発見し新鮮な感動が起こります。活かさないというのは、活かせないともいい新しい発見が生まれません。

この活かすかどうかは、生き方が大きな影響を与えているように思うのです。

自分の能力や魅力、周りの個性、自分のご縁、人生での機会、あらゆるものはこの活かすか活かさないかで分かれていきます。そこには確かに生き方があり、その生き方の活力次第で人生の質を左右していきます。

生活というのはまさに日々の活かし方の取り組みであり、私たちの言う「暮らしフルネス」はまさにその生き方を磨くための大切な実践徳目とも言えます。

仕事もプライベートも、なんでも活かす人は新しい発見と発明、挑戦やチャンスを発掘していきます。なんでも活かす人は、まず素直であること。そして素直である人は感謝があること、感謝がある人は好奇心があること、好奇心がある人は反省する人、反省する人は気づきがある人、気づきがある人は改善できる人、改善できる人は冒険できる人、冒険できる人は勇気がある人というように次第にすべてが一円につながっていきます。

日々の暮らしが充実している人は、自己全体愛や全体善もまた充たされており足るを知ります。日々の暮らしを楽しむという豊かさが、社会全体を豊かにしていきます。それは物があるかないかではなく、「活かそうとする心掛け」が決めるといっても過言ではありません。

活動というのは、活かそうとして行動するということです。大切なのは活かせるかどうかではなく、活かそうと努力し続けることです。なんでも「ちょうどいい」、「今の自分に相応しい」と集中していくことが生活を豊かにしていくことです。

子どもたちに「暮らしフルネス」の豊かさを伝承できるように取り組みを楽しんでいきたいと思います。

人災

災害には、自然に発生したものと人が発生させたものがあります。自然災害の方は、自然の治癒であり全体最適のための災害ですから自然調和が働いて発生します。それは道理に適っており、自然の摂理に従っていくしかありません。自然はそうやって40億年以上前から、地球という存在を調整してくれて今があります。

宇宙のすべての調和は、私たちの見知らぬところで常に循環維持されておりその中で生きものたちは適応しながら生き続けてきたからです。

それに対し、人災は意味合いが変わってきます。この人生は自然の摂理を無視して、人間の都合で調整してきたものが崩れるときに発生します。場合によっては地球の環境も崩し、世界的に大きな災いとなって降り注いでいきます。

例えば、ある小さな島で儲かるからとすべての木々を伐採して島の外に売ってしまえばその島は人が住めない島になっていき人々はその島で生きていくことができなくなります。それは島にある保水力がなくなり、動植物が育たなくなり、生き物たちが生存する環境が破壊されてしまうからです。飢餓や飢饉が発生するのは、そうなることが分かっているのに抑制して自律する判断ができなかったからです。

これをある人は木々がなくなったことが自然災害といいますが、そうなることが分かっていても木々を伐採することをしなかったのだから人災なのです。

つまり自然災害と人災の大きな違いは、そうなるとわかっているのに止めようとしなかった。そうなることは予想がつくのにいつまでも欲に任せて変えようとしなかったということです。人間の欲望によって発生するもの、それが人災なのです。

人災は現在、世界中のありとあらゆるところで発生しています。その人災を未然に防ぐには、それぞれが自律的に自然に寄り添いながら自然の摂理を学び直し、自己抑制しながらみんなで全体調和していけるように人間力を高めていくしかありません。

道徳ともいいますが、人間の道徳心を高めていくしか人災を未然に防ぐ方法はないように思うのです。しかし現代のように、目先の損得、個人の利益ばかりを優先する社会の中ではそういう行為は滑稽さのようにも映ります。徳を積む行為をしていたら、周囲からそれは何のメリットがあるのかとすぐに聞かれるのもまた道徳が荒廃してきているからです。

二宮尊徳は、飢饉や飢餓があった際、ただの自然災害として受け取っているわけではないように私は思います。それでは心田を耕すとは言わないからです。人々の心の荒蕪こそが、この飢饉と飢餓を発生させたことを誰よりも先に見抜いていました。

自然災害の発生は、その原因をよく見つめてみたらすべて人間が起因になっているものがほとんどなのです。膨大な欲望を貪る前に、その欲望を膨大な道徳心に換えて自然から学び直し、自然の智慧を尊敬し、自然と共生しながら豊かに歩む道を我々人類は求めなければなりません。

私たちは今、試されています。

今回の新型コロナもまた人災ですし、世界中の気候変動もまた人災です。まだ間に合うと信じる人たちがそれぞれの場所でそれぞれの生き方で、人災を未然に防ぐために最大限の努力を一緒に取り組んでいくことを望みます。

私も今、できることで子どもたちのために最善を盡していきたいと思います。

想定外の意味

人生は生きていると様々な世界的な災害や出来事に遭遇します。歴史が証明するように人類は、何度も同様な危険に出会い、命懸けで乗り越えてきた子孫が私たちということです。

先人たちは、その時々にその禍いに真摯に向き合い多くの犠牲者が出る中で福に転じて子孫たちに教訓や支援、智慧を授けていきました。それが様々な暮らしの伝承の中に息づいていますし、私たちの遺伝子や本能の中に刻まれてもいます。

しかし喉元過ぎれば熱さを忘れるように、私たちは先人たちの学んだことをすぐに忘れてしまいます。当たり前の生活が当たり前になってしまうのは、それだけ忘れてしまっているということです。

忘れない仕組みというものが、本来はもっとも伝承において必要なことです。忘れないために暮らしを工夫してきたともいっても過言ではありません。津波であれば、石碑や口伝を通して生き残るための教訓を与えました。それを忘れないように、常に暮らしの一部に組み込んでみんなに知れ渡るようにしていきました。

それも時代が変われば、石碑を移動させ、口伝もやめてしまいみんながわからなくなってきたところでまた津波が来ます。犠牲者が出て、それを忘れないようにするには残された人たちがそこからの意味や教訓を守ってこそできるものです。

私たちが先祖を大切にするのは、先祖が人生を懸けて子孫のために人生を使って遺してくれたもの、伝えてくれたものが自分の体内に存在しているからでもあります。この身体の一つ一つもまた、先祖が磨き上げてきた一部です。そういうものを分けていただき生きているのだから、私たちはその意味を深め、自分を大切にすることで先祖の願いや祈りも大切に守っていくことができるように思います。

現在、新型コロナウイルスの感染がはじまり大きな禍が降り注ぎ始めています。過去にも似たようなものではスペイン風邪や、インフルエンザで犠牲になりました。想定外だからという理由で無為無策で行政や国家に頼り切ったり、もしくは誰かのニュースに踊らされるのではなく、自ら想定外と向き合い現実を直視し、自らで事実を集め歴史に学び、最善を盡していくしかありません。

そうやって生き延びるたびに、先人たちのことを思い出し、その子孫への徳の推譲に感謝の思いが湧いてきます。先人や先祖に報いるためにも、真摯に子どもたちのいのちを守っていきたいと思います。

理想と現実

人は生き様を見ることによって、その人が何に信念をもって何を大切にして日々のいのちを使っているかを垣間見ることができます。それを何らかの形になっているものを見て、一つのメソッドやノウハウと感じる人もいますが実際にはそれは方法論ではありません。それは生き様ですから生き方であり哲学なのです。

私が今まで出会ったメンターや師はみんなそれぞれに人生の哲学をもって生き方を磨き偉大な生き様をみせていただきました。私が憧れるのは、その人生の哲学に触れたことでありそれを拝見できる具体的な現場に触れる機会があったからです。

世の中には、ノウハウ本はたくさん出ていますが実際にはそのノウハウ本の通りやれば生き様まで模したことにはなりません。やはりそこには、道に入るというか、同じ道を辿るというか、道を歩むというように一緒に道を究めるような生き様が求められます。

つまり近づくために大切なのは、どのような哲学を持ち、どのような生き方をし、どのような生き様にしていくかという実践からそれぞれに理想を紡ぎだすことです。

理想とは、現実の反対にあるものではありません。現実と理想は常に表裏一体であり、理想が現実であり現実こそが理想なのです。つまり理想にたどり着くために現実を積み重ね、現実を積み重ねることで理想を手繰り寄せるのです。現在の取り組みそのものが何の理想になるか、そして現実の取り組みが何の理想を実現しようとしているのか。

常にそ両方の間には、生き方や生き様が介在し、そこに哲学が存在しているのです。私たちは自分自身を追求していく旅路の中で、哲学に出会い、その哲学がさらに自分自身を導き本当の自分といいう存在に出会います。本当の自分に出会うためにも、人は求めているものに向かって探し続けていくのです。

私は出会いの哲学を持つ一人であり、一期一会を座右にしています。その瞬間に出会うご縁の中に、哲学があると信じるものです。そしてその一期一会には、単なる出会いだけではなく人間愛があり、自然と自分というものが混然としています。混然としたものだからノウハウにはならず、メソッドにもなりません。まるでこのブログの文章のようです。

しかしそこには哲学があり、生き様があり生き方があり、今の暮らしがあります。その暮らしの理想を象ることで哲学を表現することはできます。子どもたちのためにも、自分の生き様や生き方、哲学が未来のいのちに伝承されさらに豪壮になり発展していけるように自らの修養鍛錬と実践を大切にしていきたいと思います。

人類の課題

新型コロナウイルスの影響でデマをはじめ様々な情報が飛び交っています。そもそも情報が本当かどうかは、自分が現地で自分の五感をフル動員して事実を直視し確かめなければ真実はわかりません。

あくまで情報だけが走ってきても、実際の事実と乖離していることがほとんどだからです。さらに現代は、その事実や真実の情報ということを確かめるよりも上辺の理解の仕方ばかりが議論されるのでさらにデマは発生しやすくなっていきます。

デマに流されないためには、自分自身で深めたり調査して判断していくしかありません。ではどのようにそれを確かめていくかといえば、自然の摂理に照らしたり、過去の歴史から学び直したり、自分の直観と創造力と本質を働かせたりしながら深めていくのです。

例えば、今回のウイルスでいえば過去に人類は何度もパンデミックの流行を体験していますからそれを調べていくところからはじまります。歴史に学ぶということです。どのように流行し、どのように収束したか、その時、人類にどのようなことが起きたのか、そして先人たちはどのような智慧で乗り越えてきたのかと調べていきます。

それぞれの国にはそれぞれのやり方があるように、多種多様なその対応策は存在しています。私たちの日本は、ウイルスを敵視するのではなく如何に共存共栄するかということを考えてきました。それは日々の暮らしの中で、排除するのではなく自己免疫を高め、発酵食品を摂取し、自然を取り込み、人口の密集を避けたり、心身の調和に努めていった記録があります。

もちろん対処療法も必要ですし、薬も必要でよくあるどちらかに偏ることはいいと思っていません。根本的な問題の解決と、その時々の対処的な問題は両方バランスよく取り組んでいく必要があります。

しかし実際には、対処的なものばかりが取り上げられほとんど根源的なものは見向きもされなくなってきています。時間がかかるものは効果がないと信じ込まされ、短期的に結果が出るものばかりが真実であるように思いこまされてきています。物事には必ず長短があり、その両方で事実になりますから先人たちはそれを智慧と知識で取り組んできました。

このようなウイルスの蔓延は、気候変動と環境の変化に因るものです。畑の虫たちのように温度が少しでも例年と異なれば出てくる虫も繁殖する菌も異なってきます。さらに、太陽や風向き、水の量などによってもその時々に繁茂したり天敵が現われて急速に死滅してしまうこともあります。自然は常に調和に働きますから、人類もまた調和の影響を受けていきます。

如何に世界全体で自然界の仕組みを理解し、謙虚に分相応に人類をみんなでコントロールしていくか。これから一つになる世界ではこの課題は必ず素通りできない課題です。そしてそれは誰か一人でやることではなく、人類がみんなで協力し合って自然調和、全体快適のために分を弁えていくために努力していくしかありません。

すでに先人たちが過去の歴史で実現してきたように、自然の利子で生きていく暮らし方や、自然の循環を邪魔せずかえって喜ばすような暮らし方をしていくことなど、改めてその智慧を見直す必要があるように私は思います。

人類は反省の歴史でもあります。

このような機会をどう捉えるかで、この先の子どもたちの未来が変わっていきます。今を生きる私たちにできることは何か、常にご縁と正対しながら最善を盡していきたいと思います。

風雅風流の雛人形

先日、聴福庵ではじめて雛人形を飾りお祀りすることができました。今回の雛人形は大阪の藤井寺の数寄道の師、佐藤禎三さんが個人でボランティアで雛人形を飾りお祀りしていたものをお借りしたものです。

佐藤禎三さんは茶道、華道、書画、詩吟、陶芸、料理、骨董に精通する希代の数奇者で有名な方です。最初にお会いした時に、守破離のお話をお聴きし、伝統を守る心と、遊び心、つまり本物の風流とは何かということの意味を学ばせていただきました。

また物を大切にすること、勿体ないということの意味、その物をどうすれば大切に飾り祀れるかということの要諦も生き方から学ばせていただいています。

佐藤禎三さんの雛人形の配置は、まさに和合しておりどのものも適切な場所に、そして全体最適な場所に配慮されておりそれぞれが主人公としてイキイキとしています。またお庭の剪定もご自分でされ、数々の旬の花々のしつらえにはうっとりします。流し雛を拝見したときは、遊び心やその物語や歴史の背景からの創造性には私の子どもの心もくすぶられました。まさに、見立てることと遊び心が調和した美事な空間を演出しておられました。

まさに風流を好む人は、これだけの数寄を総合芸術のように演出するのかと感動することばかりでした。一つの道を究めることは、多くの道を究めることでもあります。そしてその道は、すべてに通じていて和合するのでしょう。

今回、雛人形をお借りしてみて如何に配置することや組み合わせること、仕舞うことの意味などを改めて学び直しています。

引き続き、雛人形のご縁から風雅風流の意味を深めていきたいと思います。