奥深い日々

生きていくということは、一つ一つの自分の人生の道のプロセスを歩んで味わっていくことに似ています。その道は、誰の道でもなく自分自身の道ですから誰も経験していないのだからいくら知識があってもそれは知識では補えません。体験を純粋に味わうしかないと思うのです。

周りがなぜそんなことをやっているのかあざけ笑うからとそれを気にして自分の道を諦めては意味がありません。人が通らなかった道だからこそ、誰もいないからこそ自分がその道を往くのだと取り組む必要があると思うのです。

人間は、選択肢を持ちます。それは知識が増えれば増えるほどに選択できるものもまた増えていくように思います。しかし増えた知識は、自分以外の他人の人生の道のことを知ったくらいで自分の道とは関係がありません。

しかも他人の道と比べたり、その人の経験を参考にしてなぞってみてもそれは自分の人生を歩んだことにはなりません。自分の人生を素直に生きるには、参考になるにはみんな自分の人生を素直に生きたということの真実を知ればいいだけかもしれません。

これは危険だからとか、これは真実だからと、参考書を片手に取り組むと確かに失敗が少ないかもしれません。しかしそれでは大事な味わうということが疎かになるようにも思います。

よくわからないけれど、天にお任せしてこれでいいと自分の道を味わっていくと失敗も増えますが同時に学ぶことも増えていき味わい深い日々を歩んでいくことができるようになります。

奥深い日々はそれだけで価値があります。

世間一般の価値などは実はたいした価値ではありません、本当の価値は自分であることです。自分であることは何よりも尊く、人はみんな誰しも平等にその価値を持っているのです。

だれかが勝手に価値だと言い出したことに縛られてしまうと、気が付くと価値にしばられて私たちは価値の奴隷にように生きることになってしまいます。本来の主体性とは、自己の価値を開放することです。自然界の自然のようにあるがままの価値に気づけばいのちは素直に廻ります。

謙虚に自分を生きることを自分が取り組むことが、私たちが徳を磨き道を拓く原動力になっていくように思います。子どもたちのためにも、日々の体験を深く味わい一期一会の今を大切に噛みしめて学び歩んでいきたいと思います。

 

いのちで遊ぶ

先日、ある方から「あなたはいのちを大切に扱っている」と仰っていただきました。あまり今まで気にしたことはなかったのですが、日本の文化を学び、日々の暮らしの中で徳を磨き生きていると自然にそういう意識が醸成されてくるように思います。

何かを修理したり、修繕したり、また洗浄したり拭き掃除をしたりしているといのちを観る感覚が養われていくものです。またむかしから大切にされてきたものの傍にいると、なぜか心が安らぎ穏やかな気持ちになるものです。

例えば、花器に花が入れば花も花器もお互いに喜びイキイキしていきます。太陽の光を透過する和紙や古い窓なども光が通ることでイキイキします。室内の陰翳もまた、古い道具たちの徳を顕現させお互いに優しく包まれてしっとりとイキイキします。

いのちは、お互いに活かしあう中でイキイキするものです。そのいのちをそのままに愛でたり、そのままに味わったり、その時々に手入れすればいのちは大切に扱っていることになるのかもしれません。

いのちは、常に経過とともに存在が失われていきます。それは私たちの寿命と同じです。しかしその時々で、いのちの輝きがあり、まるで青春のような状態があり、それを一生のうちに何度も何十回も体験できるようになっているのです。

終わったかと思ったようないのちも、かたちや場を換えてあげればまた新たないのちが甦ります。私はいのちの甦生がとても好きで、それはまだまだ別の使い道を発見したり、今まで価値がなかったところを新たに価値を見出したり、くすんで霞んでいたものを磨いて光らせたり、配置を換えてあげることで別の役割を与えたり、いのちそのものを別物に仕立てたりすることに喜びを感じます。

面白いことに、心はいつもその可能性を楽しんでいます。好奇心や子ども心は、その一瞬をとらえて遊びます。私は、いのちで遊んでいるのかもしれません。子どもたちがいのちを大切に扱い、いのちのままに健やかに生きられるように今此処から発信を続けていきたいと思います。

余韻を生きる

私は人生の中でよく「余韻」を味わうタイプの方だと思います。振り返りがとても好きで、楽しかった日はそのあとに訪れる余韻の方をもっと楽しみにしています。この余韻は、心の本音との対話の時間でもあり人生の豊かさを彩る記憶の数々です。

幼いころは、楽しすぎることを怖がり余韻を感じるのが苦手な方でした。それが次第に、内省を味わうことを続ける中で仕合せを噛みしめるようになってきて余韻を感じることが人生の醍醐味であると思えるほどです。

人生にはそれぞれの体験があります、喜怒哀楽、まさに感情が味わうセンスを高めて感受性を育てていきます。私たちの感情と心はそのままにつながっていて、感情が心に素直に影響を与え、またその逆も然りです。

心と感情が一致するとき、私たちは一体になった姿になります。まるで赤ちゃんの頃のような神人合一に近づくのです。

私が特にこの歳になって余韻を味わう時に仕合せを感じるのは、ご先祖様の存在を感じるとき、人の心の優しさやぬくもり、思いやりに出会う時、同じ道を歩む仲間に出会い、共に笑い、共に食べ、共に詠う時、当たり前の暮らしの中にある当たらり前ではないことを噛みしめるとき、また自然の美しさやいのちが甦り寿命が大切にされるときなどです。

歳を取ることが幸福に感じるようになったのは、道に学び、徳を磨き、愛を綴り、場を清める面白さで好奇心が止まらない日々を生きているからかもしれません。

もちろん疲れも苦労も心配も重労働もありますが、それもまた心地よく、それができることの有難さを感じます。

生きていることは素晴らしい。

そう感じるとき、私たちは余韻を生きています。人が人と出会い、時と出会い、場と出会い、魂と出会う、まさに余韻を生きる一期一会の生き方は、この世で懐かしい喜びを大切に寿命を全うしようとする太古からの意志を感じます。

子どもたちが憧れるような生き方や働き方を通して、遠大で悠久の夢を子孫たちが健やかに暮らしていけるように伝承していきたいと願います。

仲間との邂逅に感謝します。

幽室の友

昨日は、とても懐かしいと感じる友人が來庵して笑い楽しみ味わい深い一日を過ごすことができました。旅人たちが心落ち着けて一緒に語り合う時は、永遠のようでこの時間がいつもいつまでも記憶に残ってきます。

むかしはきっと、今よりもゆっくりと時を感じていて色々なことを持とうとせずにみんな手放して心のままに生きていたように思います。現代は、やることややらねばないことばかりでなかなか捨てていくことができません。

みんな我執を超えてはじめて素直に喜べますから、喧騒を忘れてありのままの心でいる時間は心の栄養になっていくように思います。

不思議なことに、踊念仏を実践して歩んだ空也上人や一遍上人のことを思い出しました。もちろん古い時代の方々ですから思い出したといってもお会いしたこともありませんし、よくはわかっていません。

しかし、その方々の生き様というものは心に共感するものが多くあり、今の時代の心の課題にも触れる妙薬のようなものをもっているようにも感じます。

一遍上人は、そもそもすべて捨て去って生ききっていましたから本当に何も残してはいません。旅をするように生き、心を開放してあるがままに捨て去り抜けきって念仏を唱え続けて世の中を歩んでおられた方です。空也上人を尊敬していたようで、同じ道を歩まれて多くの人々を導かれています。その一遍上人がこういうことを語っています。

「名を求め、衆を領すれば、心身疲れ、功を積み善を修すれば希望多し。孤独にして境界線上無きは如かず。称名して万事を投げ打つには如かず。閑居の隠士貧を楽しみと為し、善観の幽室(ゆうじょう)は静かなるを友と為す。藤衣(とうい)・紙衾(かみふすま)は是れ浄服(じょうふく)、求め易くして盗賊の怖れ 無し。」(一遍上人語録)

「念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、阿弥陀世の本願にもっともかなひ候へ」(一遍上人語録)

この二つは踊念仏の本質を語っている言葉であることがわかります。

今の時代、歴史に学び、まさにこの踊念仏の理念が必要になってきているのを実感します。あるがままにありのままにそのものが分かるというのは、善悪成否の境なくあるがままの自然の喜びをそのまま伝えることかもしれません。

心は本来の自己であるとき孤独の奥深さを感じるものです。古い日本の伝統的民家での暮らしは、まさに幽室の静かなる友です。そんな朋との出会いの中で様々なことを捨てていく機会は、心の養生になると感じました。

出会いを大切に、学びを無二にし、子どもたちの未来へ場を譲り渡していきたいと思います。

 

時のこと

人はそれぞれに時間の使い方というものを持っています。ある人は、時間が忙しくキビキビと流れまたある人は、時間がゆっくりと穏やかに流れます。時間は人間には平等に流れていますが、その感じる時間がそれぞれに異なるということです。

本来、自然には自然界のリズムの時間があります。それは地球が過ごしている時間の事です。地球は24時間で自転し、太陽を中心に廻り365日で過ごします。そして銀河系はまた、長い時間をかけて銀河を廻ります。

私たち動物たちも寿命の長さにあわせて、日々の過ごす時間が異なります。寿命が短いものは、寿命が短いだけにその時間の速さを持ちます。しかし今度は寿命の長い大樹などは数千年の時間をもちますからその時間域で生きています。人間は、現在は平均年齢があがってきていますからそれだけの時間域を持つようになります。

つまり私たちが時間が早いとか遅いとかは、人間を基準に考えていますから実際には異なる時間域でそれぞれが生きていて時の交点によって重なり合うところで場を分け合っているということになるのです。

しかし、その時間をどう過ごすのかはそれぞれの生命体の物理的な時間軸と精神的な時間軸があるのは間違いありません。心穏やかに生きる人や、精神がとても安定して成熟した人たちは時間の使い方が異なります。どんなに有事で環境が変化著しい状態であっても高僧の瞑想時のような悠久の時を過ごします。

その時は、単なる物理的な時間ではなく心の中に無限の時を持っているという具合です。それは時というものの本質を現わし、本来は時は動くものではないという真理を象っています。

私たちは無意識に時には過去と未来があり、前にだけ進むものだと認識します。過去は過去と呼びますが、実際には懐かしいというような感覚、時が止まったままにいつでも回帰できるというものも持ち合わせています。同時に未来といいながら、今を感じて今に生きるとき、今こそが時の中心であるということに気づくことがあります。

このように時は実際には、止まっているものであり動くものではありません。そういう時に生きる人は、常に心に永遠を持ち、精神が悠久に包まれ、時そのものと一体になることができるのです。

可笑しなことを書いていると思われるかもしれませんが、時とは何か、時空とは何を指すのか、掘り下げてみればきっと誰もが同じところにたどり着くように思います。

時を大切に生きていく人は、いのちを大切にすることができます。同時に、懐かしい思い出に包まれて、いつも時に感謝して味わい盡していくことができます。忙しい時代にみんな心が時に追われています。もっと時を大切にして、かけがえのない今を子どもたちに譲っていきたいと思います。

新しい場の創造

コロナ自粛の要請で、テレワークやオンラインでの生活様式が続いています。私たちも、1月末からテレワークに切り替え、今でもオンラインとオフラインを組み合わせて働いています。

特に東京では、ほぼ出勤がなくなり月に1度くらいしかみんなと会うこともありません。もともと朝サミットといって、お互いの感情や情報を共有しながら健康的に働くための実践をしていましたからそれが続いているくらいで他はほとんどオンラインでやり取りしています。

とはいえ、私は福岡で場づくりをしていますからあまりコロナの影響も受けずコロナ対策は当然しますがそれよりもコロナ後の「新しい場」を探求して創造することに余念なくワクワクと働いています。

そもそも場にはつながりがあります。このつながりをどう新しくしていくか、そしてそのつながりがどのように場を創造していくか。居場所や全体快適などは、その場づくりする人の思想や哲学、仕組みが大きな影響を与えます。

人はご縁で結ばれていくものですが、そのご縁の集積地をどのように手入れするかは、その人たちの生き方が決めていきます。この手入れという思想には、自己を磨くという生き方があります。自己研鑽を通して、目的を磨き続けていけばそのうち場が醸成されていくからです。

最近では、この醸成する喜びや仕合せというものが遠くなっているように思います。私は、発酵が大好きですから、色々なものを醸成しています。漬物をはじめ、パン酵母、ぬか漬けに味噌、そのほか畑の作物もそうですがすべて醸成するものばかりに触れています。

そうすると、そもそも醸成することが場づくりであり、場は醸成することで出来上がるという道理を知るのです。そして今、場が求められてきています。しかしこの場とは、単なる今までのスペースではないことは明らかです。

スペースがあったからと人は集まれなくなったのです。だからこそ場に集まる意味が必要な時代になったのです。場はこれから新しい時代の新しいつながりを醸成していくところです。

子どもたちが、安心して未来に希望をもってつながり合えるように今から丁寧に手入れし仕込んでいきたいと思います。

木工の伝承

日本には、暮らしを支えてきた道具がたくさんあります。私が日ごろ使っている道具たちもまた、千年以上前から先祖たちと共に私たち日本人の暮らしをずっと支えてきた仲間たちです。日々の暮らしの中でその道具を用いて一緒に生きていることが嬉しくて温かくて仕合せを感じています。

そう考えてみると、暮らしとは、道具にたちによって豊かに彩られてきました。最近では、何かオシャレな道具を使っていることが暮らしといわれたりもするようですが、本来は、歴史と職人たちの魂、また使い手の和の心やものを大切にして末永く伝承してきた人々の初心と共に生きている姿の中にこそ暮らしがあるように私は思います。これはこれで、また暮らしフルネスの記事として書いてみたいと思います。

今回は、少し木工のことを深めてみたいと思います。

木工(もっこう)は、木材に加工を施す作業または製作技能、あるいはその職人であり、家具製作(キャビネットおよび家具)、木彫、指物、大工のことを一般的にはさしています。工作、美術、家具製作などの領域をはじめ、建築や土木などの領域でも、木材を加工するときにこの言葉を使います。

私たちの祖父母や両親は、木工のことを大工仕事とも言っていましたが最近では日曜大工やDIYなどといって木製のものを使って様々なことをつくったりすることも当たり前になっています。

日本は全体の国土の7割が森林でできていて、杉や檜などの針葉樹、ケヤキや栗や栃などの広葉樹、これら加工できる樹木が200種類以上あるといいます。

これらの木を加工する中で、指物 (さしもの) 類・彫物類・刳物 (くりもの) 類・挽物 (ひきもの) 類・曲物類・箍物 (たがもの) 類といった木工技法が生まれたといいます。またほかにも斧(おの)、鉈(なた)、鉋(かんな)、鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、鑢(やすり)などの道具を巧みに使う日本の木工技術は世界一とも評されています。

その技術は、仏教伝来からさらに発展し、日本人の精神性がさらに研ぎ澄まされ木工技術を昇華してきました。長い歴史と、高い精神性、そして見事な技術が、日本の伝統的な木工の歴史を醸成してきたのです。

木工製品の醸し出す雰囲気は、この日本の文化と暮らし、そして歴史のうえに成り立っていることを感じます。改めて、当たり前ではないこの日本の木工の粋を究めた木製品に囲まれていると先祖たちの息吹や大和心を身近に感じます。私が和にこだわることの一つに、この木工があることはこれらの意味からです。

ひきつづき、子どもたちに木工の素晴らしさが伝承していけるよう身近な暮らしの道具たちにこだわり大切につないでいきたいと思います。

間の探求

人は病気になることで健康のありがたみが分かります。しかし同時に健康は病気をすることでわかるのだから病気のありがたみも同時にわかったということになります。

これは自然に似ています。自然のありがたみは自然災害や気候変動でわかります。同時に自然災害や気候変動があると自然のありがたみがわかるのです。

人間は、このありがたみがわかるとき、そのものの本体に触れていることになります。そしてこの仕組みは、生と死も同様にその「間」にあってこそ私たちは感覚を得ているということでもあります。

この間にある人と書いて、人間とも呼びます。人間は、社會を形成する生きものです。社會が病んでいることがわかれば、社會が素晴らしいことも敢えて学びます。また社會に見守られている仕合せを感じることで、社會が壊れてしまうことの痛みも感じその両方のありがたさを感じるのです。

平和も同じです。平和のありがたさは、戦争によって知らされます。また戦争があるから平和のありがたさも知るのです。こうやって歴史は何度も繰り返すのは、私達人間は、この「間」にあるからこそ体験から学び、実感を得ては成長する生きものだからとも言えます。

この間に何があるのか、この間が何だったのか、それは時が過ぎていくなかで感じられるものです。それを時間と書きますが、時間は私たちの体験を司るものであり、時代の様相を伝えるものでもあります。

私たちは場や間をよく観察し洞察することで、何が「和」であるのかを察知します。

和を知るということは、場や間を会得するということであり、会得すれば自然とは何かということを直観できるようになると私は思います。

私が場道を通して実践するのもまたこれらの道理を子どもたちに伝承していくためでもあります。一つ一つの意味を紡ぎながら、この先に訪れてくる変化の兆しをよくよく洞察しこれからの時代に備えていこうと思います。

徳積カフェ

現在、徳積カフェの建築で色々と思案をして素材を組み合わせて検証しています。私の場合は、いのちをもったいなく活かしきる仕組みで取り組んでいきますから世の中に捨ててあるものや、価値が変わってしまったものに息吹を与えてそれを甦生し、さらに観建て直して輝かせるように工夫します。

そもそもこの見立ては、あらゆるものの融合と調和からはじまります。そしてそれを組み合わせを創意工夫し折り合いをつけては新しい価値に仕立て直します。

新しい創造とは、今あるものの組み合わせの再定義であり再構築です。これは自分の成長とも同じで、もともと備わっているものはあるがままですがそれを使い方次第で、また組み合わせ次第でまた別の能力へと変化するのです。

私は建築家ではありませんから、あまり建物のことにどうこうというこだわりはありません。しかし、日本の文化や大和心、民族伝承の智慧には強いこだわりがありますからそれを徹底的に深め、今ならどうこれを活かすか、その価値の最大化や再構築には妥協は一切することはありません。まさに、狂ってるかのようにそのものと一体になってそのものを寝ても覚めても離れることはありません。

今回、カフェを設計するにいたっては「徳」にこだわるのは大前提です。その上で、暮らしフルネスの応用を使って「禅」や「茶」の空間や場の和の仕組みを融合させて組み立てています。

当然、風水を重んじ、日、月、水、石、風、土、木そして火に炭、光、陰、ゆらぎ、時間、手間、色、素材などを丁寧に組み合わせていきます。まるで、自然の野菜をつかって、自然の道具を用いて料理を楽しみ味わうような瞬間です。

本当は、忙しくて大変なはずですがこれらを設計している間はいのちがわくわくしてきます。そして新たな空間と場ができれば、そこに奇跡の人たちとのめぐり逢いが生まれます。

建物を創る喜びは、出会いです。

出会いがあるからこだわりが産まれ、こだわりがあるからご縁が深まっていきます。一期一会の生き方を、この新たな建物に息吹を与え、イキイキといのちが輝けるように真心を籠めて最期までやり遂げてみたいと思います。

真の改善

政府のコロナ対策を観ていたら、本当の問題はコロナではないことに気づきます。これはどの国家でも言えることですが、問題が起きると、その問題よりもその問題が問題になっている本当の理由が観えてくるのです。

例えば、ある国家ではリーダーが不在で責任者がいつまでも出てこなかったり、ある国家ではみんなが不正をして隠し事ばかりをしていて本当の情報が出なかったり、またある国家では自分のことばかりを優先して周りのことは他人事のようにしていたり、またある国家は100年以上前から変化できないでいつまでも改善する気がなかったりと、そのことからコロナがそこの弱点をついて猛威を振るいます。

それをコロナのせいにしていますが、それはコロナのせいではなくその組織や文化、あり方のせいであるのは自明の理でしょう。

しかしその問題を解決しようとしないので、いつまでもコロナは猛威をふるい続けます。

私たちは、きちんと問題と正対するときはじめてそこに変化があり改善が生まれます。問題を先延ばしにしたり、見なかったことにしたり、何もしないということをすれば自然に淘汰され衰退し滅びるのは明らかです。

問題を引き延ばしているうちに、世界は本当の問題にぶち当たるという真実。

地球環境の問題、気候変動の問題、それも同様にこれは人間の問題であるのは間違いありません。いくら地球に挿げ替えても、気候に挿げ替えても、そのこと自体は問題の本質ではありません。隕石が落ちるのならまだしも、こうなるとわかっていてもいつまでも変わろうとしなかって今の災害なのだからこれはもはや天災と呼んではならずやっぱり人災なのです。

人災をどう防ぐか、そこには謙虚さが必要ですし、生き方を決め覚悟を実行するための勇気も必要です。

コロナから観えてきた、人類の本当の問題と向き合い、子どもたちのために真の改善を示していきたいと思います。